そこにあるということ

そこにあるということ

本地垂迹とは、かつて仏教が伝来した際に、土着の信仰との対立の末仏教と古来の祭祀体系が混しつつも完全に融合することはなく一定の独立性と緊張感を抱えたまま社会に浸透していった神仏習合思想のひとつである。

「ホンヂスイジャク」展のテキストからは、「世界を多様なまま切り取って、余剰部分をも人々が負担なく、かつ深く認知できるものとして表現していく、そのような役割」とあるように、単純化の妖怪に警鐘を鳴らし、現代の複雑さをそのまま受け入れようという試みが読み取れる。

また本地は本来の境地やあり方で、垂迹が迹を垂れるとあるように、神道と仏教を両立させるために、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論である。

しかし本展においては異なるものの両立は行われておらず、宗教の視点で言うなら信仰が行われていないように感じた。

その理由を3つの作品を挙げて見て行きたい。

 

平山匠の「享受する層形」は、再構成された土偶がモニターの上に展示されている作品だ。土偶とはつまり「土」という自然物から成り、作品は造形を保っているが、さらに他の土や灰が台の下に山を作っている。タイルの貼られた床に置かれた土は、建物の外から持ち込まれた、完全なる異物であるように見えるが、よく考えると、私たちの歩いているコンクリートの下に普通に存在しているものであることに気が付く。さらに作品は、土偶と土との間に完全な人工物であるモニターを挟んでいる。自然物と人工物が層のように現れるという都市のような構造が作品の中で起こっている。

かつて日本人が自然や自然の中に神をみていたものが、経済発展をし、森を切り開いたり、川や海を埋め立てる中でそのようなものは姿を消していった。

ここに、信仰を忘れられた神の姿を見ることはできないだろうか。

爆発をさせ不可抗力による破壊を受け入れ再生しようとする操作は、自分の意思ではどうにもならないことを否定するよりもむしろ受け入れようとする姿勢が伺われる。

一方で、せっかく造形した作品を自ら破壊してしまうことは、自傷的であるようにも感じる。また風化し傷ついたものを直すのではなく意図的にばらばらにしているところには暴力的であるようにも感じる。

土偶とは呪術的な用途で使用された際には損傷している箇所に何か意味があったものと思われる。しかし平山氏の土偶の破壊は完全にランダムかつ均等の破片に分断されているように見える。土偶持つ呪術的な意味自体が取り払われた新しいものになっている。

「焼成された形を再構築していくことは、多様な性格、自分との違いを享受する試みであり、他者との関係性のありようをつくりあげることに成りえるはずだ」とあるが、私たちは、他者との関係を構築し、自身を変化させる時に、全てを変化させることがあるだろうか。分かり合えなかったところを部分的に変えるなど、一部の変化にとどまることが多いのではないだろうか。

自分自身であることは変わらないとしても、この土偶のように変わるには大変なエネルギーが必要だ。しかし、それほどまでに全力で衝撃を受け入れる覚悟でないと、自分と他者の違いを本当に享受するのは難しいのかもしれない。

ユゥキユキの「あなたのために」では母親殺しからの自立を試みている。

肌色で女性の姿を模した毛糸の着ぐるみは母親でもあるが、その中に閉じ込められている子にぴったりと張り付き一体化している。「母親との一体化が進みすぎていて、母親を否定することが、そのままの自分自身を否定することになってしまう」とあるように、母親のようであり、母親かつその娘の体でもあるインナーマザーからの脱皮でもある。母親の否定は過去の自分の否定である。ここでもやはり平山氏同様自傷的な要素が感じ取れる。

子供の最初の道徳は親であり、善は親の意思に答えることであるとされている。子供は親の模倣をすることで価値観を共有し、世界に馴染んでゆく。幼児は、自発的に両親に対して、万能、博識、道徳的完全さといった神としての完全性を付与するという。そして子供は神(親)を模倣することで、うその性質の出来事であっても、その一方的な尊敬のメカニズムの働きのおかげで受け入れ認識する。

子は出来事を自分の活動に同化したりする思考の自然発生的態度で現実を歪め、自分の現実を従わせるようになる。そこに合理的な理由はなく、それは信仰とも言える母親神化の結果である。ある意味で非常に順応的で、子供が客観的に考えたらおかしい状況にも適応できるのは、道徳の基準が外部に依拠しているからでもある。このことは幼児だけに限らず、母から娘が独立するときにも同じような心理が幼少期からの延長線上で働いているはずだ。かつての日本で、在来の神々は伝来した仏教の仏様の化身であるという考えが生まれたように、またはオイディプス王が神のお告げに逆らい父親殺しの道を逃れようとしたが最後にはやはり叶わなかったように、我々は信仰の対象に忠実であろうとする。

自分の二本足で地を歩くとは、信仰から離れる、あるいは神=母親=自分からの脱却を意味するのではないだろうか。しかしそうしながらもイニシエーション自体が信仰を連想させるため、依然何かにその対象を置いていると考えられるが、親離れする前の母親を神としているならば、母親離れすることはある意味で信仰をやめることと捕らえることができるだろう。

 

山崎千尋の「TUNNEL」に登場するタンタルはスマートフォンなどの情報通信機器に使用されるレアメタル資源だが、タンタルが偏在しているコンゴでは資源戦争が起こっている。

米国ではブランドの透明性を示すための情報開示でサプライチェーンを公開しているが、完全に把握するのは困難だという。しかし他の公開されている情報すらも、実際にリストの工場に赴くなどしないと確実な情報ということは難しいだろう。実際にそこで何が行われているかはそこにいる人にしか分からず、文字だけで確かであるとは断言できない。

同様にケースに展示された鉱石も、確かに結晶であり、工程も示されてるが、鑑賞者がそこで作られたものだと断言はできないだろう。泪が含まれているかどうかも、本当にそうだといえるだろうか。

鉱石で言うなら産地や含有量、加工法など、また身の回りの物も原産地や素材など、あるいは野菜の生産農家など、明示しているようで、実は全て誤った情報であってもおかしくなく、本当だという確証はどこにもないのである。しかし絶対に違うと言い切ることもまたできないので、実際に確かめられない状況にあるものは、提示されている情報が正しいということを前提として、信じるほかない。

鉱物の生産はそのような不確かがいくつも重なっている。全てが本当かも知れないし、一部は誤っている可能性もある。生産・流通経路の証拠として、メディアは有用である。だが、開示されているものを繋げても全体像を読み取ることは困難である。

山崎氏はこのことについて、トンネルの正体について明らかにしていない。タンタルが製造されることで起こる紛争についても考えさせるような誘導は行っておらず、信仰によって想起させることを避けるレアメタル資源に対しての不信仰と言い換えることができる。

 

以上が本展で信仰が行われていなかったと考える理由である。だが二分法をせずまた一神教などの単一化を避けるという意味では本展の趣旨に沿っていると言える。信仰を行わずにいることがテーマに寄り添うことを可能にしている。

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