「生権力」の「揺り籠」
「本地垂迹」と「廃仏毀釈」
「本地垂迹」と「廃仏毀釈」。グループ展A「ホンヂスイジャク」のキュレーターを務めた海老名あつみによる展覧会ステイトメント「やがてくる廃仏毀釈のために」は、その二つの日本宗教史における思想と運動についての考察を背景に書かれたテクストである。「本地垂迹」とは主に平安時代から江戸時代にかけて広まった神仏習合思想の一つであり、日本の八百万の「神」は「仏」が「権現」として、人々の救済のために仮の姿で現れたものであるという解釈を取る。一方で「廃仏毀釈」とは主に江戸時代に広まった神仏分離運動が明治維新により過激化したものであり、政祭一致の立場から神道を国教化するために、全国各地の仏像や仏具、寺院が破壊されてきた歴史がある。海老名は現代日本における左派/右派を問わないポピュリズム、自由と多様性をめぐる友と敵の分断を「やがてくる廃仏毀釈」の前兆と捉え、芸術の果たすべき役割とは「本地垂迹」のような現実の複雑さを取り込み、我々を隘路から解放する世界認識の確立を支援することだと宣言する。
しかしここで見落としてはならないことは、そもそも「本地垂迹」も「廃仏毀釈」も神道における仏教へのリアクション/カウンターとして成立してきた経緯があることだ。飛鳥時代に仏教が伝来した後に「仏」を「神」として融合したこと。その一方で明治維新により天皇を「神」として位置付けるために「仏」を「神」から排除したこと。このような仏教という外来思想に対する融合と排除は、神道における信仰体系や理論基盤のぐらつきを可視化し、ある時代の都合に合わせた芯のないリアクション/カウンターを実行した結果と捉えることができる。であるならば、「本地垂迹」と「廃仏毀釈」は相反する思想や運動を示すものというよりは、神道における表裏一体の不完全さ、芯のなさを示しており、むしろ現代日本におけるポピュリズム、友敵の分断はそれらの思想や運動の延長線上にあるとすら言えてしまうのではないか。だとすれば「本地垂迹」は「やがてくる廃仏毀釈」の処方箋にはならない。
ただしこのテクストの問題は、内容の整合性以上に、展覧会の各作品との関わりを見出だすことが困難な点にある。そもそも神道と仏教の問題を扱った作品が存在しない上に、「本地垂迹」/「廃仏毀釈」という見立てと作品が表現している内容の乖離があり、表象的にもそれらとの接点が一見して分かるような作品は見当たらない。強いて言うならば、テクストに書かれている「家族」の再定義という言葉とユゥキユキ《あなたのために、》との間に繋がりを見出だすことは可能かもしれない。しかし、《あなたのために、》はインナーマザーの問題を扱う作品であって「家族」の再定義の問題を扱っているとは言い難く、「家族」の再定義が「本地垂迹」/「廃仏毀釈」とどのような関係にあるのかも不明である。このように展覧会ステイトメントと展示されていた作品群の内容に乖離がある以上、この展評では「本地垂迹」や「廃仏毀釈」に代わる新しい見立てを提示し、それによって作品のより詳細な分析を試みる必要がある。
「生権力」の「容れ物」
「生権力」とは『監獄の誕生』において、ミシェル・フーコーが確立した概念である。これは実際には監視されていないにも関わらず、あたかも監視されているかのように思わせることで、行動を抑制/制御してしまう力を意味する。「生権力」の例としては、ジェレミー・ベンサムが考案した全展望型監視システム、「パノプティコン」が有名だ。「パノプティコン」と呼ばれる刑務所では、中央に設置された看守塔を取り囲むように各囚人の個室が設置されている。それにより囚人は、看守が実際に監視しているかどうかに関わらず、看守が期待するような行動を自動的に取ってしまうとされている。
ここで「ホンヂスイジャク」における出展作品のモチーフを振り返ってみたい。
テント、虫かご、トンネル、土偶、アスレジャー、インナーマザー。
各作品が提示していたモチーフは全て何かしらの「容れ物」を想起させる。それらの「容れ物」は自分を守るものであると同時に、傷付けるものでもあり、身体の周囲を覆ったり、纏わり付いて離れなかったりする。さらに各作品とステイトメントを併せて読解するならば、それらの「容れ物」の中では無自覚に身体を抑制/制御されてしまう感覚もある。つまりこれらのモチーフは「生権力」を既に内面化しつつある、もしくはしてしまった物/者たちが現代における「パノプティコン」を表現しており、その新しい「容れ物」との関係性について考察した展覧会と言えるのではないか。それが私の本展に対する見立てである。
「警鐘」と「愛着」
そこで各作品と「生権力」の「容れ物」の関係性について、もう少し具体的に考えてみたい。例えば三浦かおり《Sense》と山﨑千尋《TUNNEL》はどちらも「生権力」の「容れ物」に対する「警鐘」を表現した作品であると言える。三浦の《Sense》では虫かごという「容れ物」の中で、ムーブメントの秒針に取り付けられた鈴の音が周囲に響き渡る。壁沿いに貼り付けられた乾電池の群れは、地面に落ちて止まっているようにも、そこから動き出しているようにも見える。これらはある特定の環境に適応せざるを得ない命の響きや、そこから始まっていく、あるいは終わっていく寿命にも感じられる。
この作品の比較対象を考えるのであれば、工藤哲巳《人間とトランジスタとの共生》を挙げることができるだろう。《人間とトランジスタとの共生》は明確さ故に安易にも思える文明批判を感じさせる。その一方で、《Sense》は曖昧さ故に生活を縛り付ける環境に対して「警鐘」を鳴らしているのか、それとも「愛着」を持ちたいのか。そのどちらかを選択するような態度が定まっていないように見える。シンプルなコンセプトとミニマルな作品構成も相まって、その曖昧さを両義性と捉えて肯定的に評価するか、思慮不足と捉えて否定的に評価するか。その解釈によって、この作品の評価は大きく二分されるはずだ。
山﨑の《TUNNEL》は、一見単純に捉えることも可能な《Sense》と比較すれば、迂回に迂回を重ねた複雑な作品に見える。トンネルという「容れ物」はソーシャリー・エンゲイジド・アート的な観点から紛争鉱物の生産地と消費者を繋ぎ、山﨑自身の身体を通過して涙の結晶と化し、最終的にはペンダントネックレスとなる。我々は普段スマートフォンなどを購入/使用して生活しているが、その何気ない行動自体が実は紛争の手助けをしているかもしれないという発想は、我々の生活環境に宿る無自覚な暴力性に「警鐘」を鳴らしていると言える。この作品ではその作品制作の過程から結果が壁、トイレ入り口、トイレ内部の三つの場所で、複数の映像や立体などを通して展開されていた。
この作品で山﨑が表現したかったものは、彼が「曖昧さ回避」と呼ぶ概念についてだろう。我々が普段の生活の中で何気なく購入するもの、涙するもの、作り出すもの。それらが生み出される過程や結果がもたらす複雑さは不可視化されており、その重なり合った曖昧さによって我々は不感症になっている。だからこそ、その「曖昧さ」は「回避」されなければならない、というのが彼の主張である。しかし、私にはむしろ彼がその「曖昧さ」と呼ぶ環境に「愛着」を感じているようにも思えた。何故なら本当に「曖昧さ回避」について作品化したいのであれば、「曖昧さ回避」自体を曖昧化する必要はなく、明確に「曖昧さ回避」を表現すれば良かったからだ。しかしそうはならなかったのは、「曖昧さ回避」によって可視化される暴力性、それ自体を引き受けることへの逃避だったのではないか。一見無駄に見えるような迂回、要素やメディアの多さは、そのような「曖昧さ」と「回避」の間で揺れる、彼自身のアンビバレントな感情の表出であるように思えた。
「爆破/脱皮」と「再構築」
平山匠《享受する層形》とユゥキユキ《あなたのために、》は、それぞれ「生権力」の「容れ物」に対して、「爆破/脱皮」した上でどのように器を「再構築」できるかを表現した作品であると言える。平山の《享受する層形》では土偶が「容れ物」として登場するが、ステイトメントの内容と作品に乖離が大きい印象があり、それが何を象徴しているかは少々掴みづらい部分がある。例えば平山は地層の多層なレイヤーと他者との関係性の接点を土偶に見ているように感じられる。しかし、そもそも土偶は縄文時代に生まれ、弥生時代には忽然と姿を消したという歴史がある。その前提を踏まえた上で、何故現代において土偶が他者との関係性を考える上で重要なモチーフとなるのかは再考する必要がある。
一方で《享受する層形》が面白いのは、土偶を野焼きにより水蒸気爆発させた上で、平山の感覚に合わせて「再構築」しているところだ。液晶モニターでは「爆破」させる前の土偶の姿があり、その上に配置された、接着剤により「再構築」済みの土偶の断片たちは明らかにメカニカルな造形を思わせる。仮に土偶が他者との関係性における自然な形を表現しているのだとして、その「容れ物」を「爆破」し、自分好みの姿に「再構築」すること。それは造形の「爆破」と「再構築」という行為を通して、平山自身が他者とのコミュニケーションに対して感じている抑圧を解放し、作り替えたいという欲望を表現しているようにも思える。
ユゥキユキの《あなたのために、》は、インナーマザーと呼ばれる「容れ物」から「脱皮」し、どのように自己を「再構築」できるかについて試行錯誤している作品である。インナーマザーとは自分の中に同一化してしまった母のことであり、ユゥキユキはイニシエーションと称してその母殺しを試みる。「生権力」が自分の意識の範囲外のプレッシャーにより、行動を抑制/制御する力を持つとするならば、インナーマザーにおける母殺しの難しさは、自己と同一化した「生権力」をどのように自覚し、その状態から抜け出すことが可能かという問いに等しい。その困難さは映像の中で脱皮しようとして窒息しかけるユゥキユキ本人と、脱皮した後に残された毛糸の抜け殻からストレートに伝わってくる。
一つ気になる点がある。それは彼女が自分だけのイニシエーションによって、インナーマザーを克服しようと足掻いているように見えるにも関わらず、実際には母の出演と協力が映像作品において重要なシーンを担っていること。言い換えればインナーマザーを克服しようとする作品において、母を巻き込むことの是非について結論が出ないまま作品を制作してしまっているように見える。その結果、ユゥキユキはこの作品を通して、インナーマザーを克服したというよりは、むしろ強化してしまっているように思えた。だとすれば、ユゥキユキが向き合うべきは母という存在を通したインナーマザーではなく、まず何よりも母という存在そのものではないだろうか。
「風景画」と「群像画」
茂木瑶《If you love your children, send them out into the world》と菊谷達史《アスレジャースタイルで走る人々》は、「生権力」の「容れ物」をそれぞれ「風景画」と「群像画」として描写している。茂木の《If you love your children, send them out into the world》では、テントが「容れ物」であり、彼女がイスラエルに留学した時に知った難民キャンプの様子が「風景画」として描かれている。神話的なイメージを元に構築された油彩は、難民として行き場を失った人々が複数のテントという「容れ物」に仮設住まいとして生活する様子を捉えている。平和の象徴としての鳩、人々の話し合う姿、遠くに見える城のような建物はそれぞれが平和と迫害における紙一重の距離感を象徴しているようにも見える。
同じく油彩で描かれた菊谷の《アスレジャースタイルで走る人々》は、ファッションとしてのアスレジャーが「容れ物」であり、タイトルの通りアスレジャースタイルで走る人々の「群像画」が描かれている。「サバゲー」と呼ばれるゲームと合わせて「遊び」という一見油断しがちな枠組みに対する菊谷の視線は、油絵/近代日本洋画における国主動の運動と同様の広告/熱狂として捉えられることになる。一様に同じ方向を向いて走る人々を「今日の群像」と呼ぶことは、むしろ「生権力」をファッションとして着込み、同一化してしまった人々が体現する運動に対する呼称として相応しいものだ。本展では作品とテクストの乖離が多々見られる中、菊谷のステイトメントは作品とともに自然と自分の中に入ってきたことにも素晴らしさを感じた。
「生権力」の「揺り籠」
ここまで展覧会のキュレーションと作品の分析を通して、グループ展A「ホンヂスイジャク」の展評を書いてきた。その分析のための見立てとして、「生権力」の「容れ物」という言葉を使用してきた。しかし、ここまで書いてきた結果、新たにもっと少し相応しい言葉があるのではないかと思い始めた。それは「生権力」の「揺り籠」である。
「生権力」という言葉にはどこか暴力的な響きがある。そしてその認識は恐らく間違いではない。単純な暴力より、より巧妙に隠され、いつの間にか身体に溶け込み、自分をコントロールしているような暴力は遙かに危険なものだ。しかし、各作品について考えているうちに、これらの作品群は必ずしも「生権力」の存在を完全に否定しているわけではないことに気付いた。例えばそれは時に「警戒」の対象として扱われながらも「愛着」を持たれ、時に「爆破/脱皮」の対象として扱われながらも「再構築」を目指され、時に「風景画」や「群像画」としてある種の神秘性や魅力を持ったものとして扱われている。
であるならば、その「容れ物」に宿る安心感のようなものを「揺り籠」と名付けることができるのではないだろうか。海老名が各作品に見た「妖怪」の正体。それは「生権力」の「容れ物」、つまり「揺り籠」の「暴力」と「安寧」の中で揺れる我々自身の似姿だったのかもしれない。
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