複雑な世界と「賢い」人のための展覧会
世界は複雑である。
そんな現実の複雑さを、単純化してざっくりと捉えるのではなく、ありのままに受け取ることで二分法などではこぼれ落ちてしまうものもすくい取る。それこそが単純化の流れへの抗いになり、多様性の受容につながるのであり、世界の「分断を乗り越え、硬直化された思考を解きほぐし、成熟の回路へといざなう」きっかけになる。そんな複雑さの受容と単純化の支配の対立構図を、「本地垂迹」と「廃仏毀釈」として捉えてみる。展覧会ステイトメントを読むと、どうやらこういうことを警鐘しているようだ。掲げられた理想としては、大賛成だ。うんうん、そうだよな、あの人の単純化や言い方は確かにヨクナイ、と思い浮かぶ最近の具体例はたくさんある。だが、展覧会を一通り見て、個々の作品の造形やメッセージ、扱っているテーマには今の時代にぴったりなものも多くあったものの、最終的に残ったのはありのままの複雑な世界を多くの人と共有するのはやはりなかなか難しいかもしれない、少なくともその共有の輪に入るのはそう簡単ではなさそうだ、というちょっとした敗北感のようなものだった。
改めて、なぜ今の時代に単純化の流れが勢いを増しているのかを考えると、端的にその方が多くの人の心をつかめるからだろう。短いフレーズで瞬時に分かった気にさせる。誰もが時間に追われて大量の情報を浴びざるを得ない現代では、残念ながら1つ1つのことに割ける労力は限られている。○か×かで提示された方が助かる、というのが本音ということもあるだろう。単純化に走りがちな現状に対して、警鐘を鳴らすのは意味があるかもしれない。だが、その対抗策として複雑な現実をありのまま受け取るべきだと主張するのは、それこそが物事を単純化し過ぎているとは言えないだろうか。よほどの「賢い」人でないかぎり、分野横断的に存在する複雑な問題をありのまますっと飲み込むような芸当はできないだろう。
一方で、もしかしたらこのどこにいるか分からない「賢い」人に向けた展覧会なのではないか、と思いたくなる節もあり、「賢い」人という枠から外れたという疎外感を感じることもあった。例えばステイトメントには、「躊」「躇」「隘」のように常用ではない漢字が10個登場する。そもそも、複雑さのありのままの受け取りと多様性の受容というさほど難しくない課題を、タイトルの由来となった「本地垂迹」という難解なキーワードに置き換える必要はあったのだろうか。ある一定の知識や知性を当然のように要求するのは、選別と捉えられてしまいかねない。多様性の受容の重要性を主張する以上、まずは展覧会自体が真っ先に実践しているという姿勢をもっと見せても良かったのかもしれない。
それでも、ステイトメントにあるように「世界を多様なまま切り取って、余剰部分をも人々が負担なく、かつ深く認知できるものとして表現していく」ことを芸術で実現できれば、本当に単純化の流れに抗うきっかけという希望になれたかもしれない。たが作品を見てみると、結局は複雑なことは難しく、分からない。そんなことよりも目の前にある比較的分かりやすいもの、楽しいことについ引き寄せられてしまうものだ、という人間の性を実感することになった。
展覧会の中で「現実の複雑」さが認識しにくいことを一番ストレートにテーマにしていたのは山﨑千尋の「TUNNEL」という作品だろう。高性能なスマートフォンの作動に欠かせないレアメタルを「入口」、そのスマホなどの電化製品を「出口」に見立てて、間には工程が見えない「トンネル」があると主張している。レアメタルの中でも紛争の原因にもなっているタンタルに特に着目し、採掘や流通の段階で何かブラックな工程が含まれていたとしても、私たち利用者は「出口」に当たるスマホの魅力にあっさりと絡め取られ、途中の工程に気付かずにいるということに目を向けさせようとしているようだ。こうした現実を写し取るように、作品では作者の流した涙に由来する塩を含む塩の結晶を、美しいネックレスにしつらえて展示している。この涙は、タンタルの紛争についてのドキュメンタリー映像で悲惨な現実を目の当たりにして流したものだが、美しいものを目の前にすればその由来なんてどうでもよくなってしまう、ということだろう。
今まさに自分の手の中にあるスマホの背景にはそんな事情があるのか、と見えていなかった現実を指摘されて、ナルホドと思う。一方で、男性である作者の涙という普段あまり目にしないものでできたネックレスを見て面白いと強く感じると、その分だけさらに間の「トンネル」の作用が強まり、涙の由来などどうでもよくなってしまう。つまり、作品と現実の重なり合いがうまくいきすぎて、作品でも「トンネル」がしっかり機能して「トンネル」自体は見えなくなる。「レアメタルを使っている便利で高性能なスマホ」しか認識しないように、「男性の涙が含まれる一風変わったネックレス」しか残らず、結局は作者のステイトメントというテキストの補足がなければ、肝心の見えない「トンネル」の存在には気付けない。むしろ、テキストだけで作者の言いたいことが伝わるのかもしれない。そのままでは認識できない複雑な現実は、やはりそのまま写し取って作品にしても、元の現実と同じで、認識されないという証だろう。
「TUNNEL」が複雑な現実をそのままなぞって作品化しようとしたがテキストによる補足が必要だったのに対して、菊谷逹史の絵画作品「アスレジャースタイルで走る人々」は、テキストの方に重要な情報が書かれていて、展覧会が避けるべきと主張する単純化や簡略化をした結果が作品になったかのようだった。
ストイックなアスリート向けのスポーツウェアが、カジュアルなレジャーの服装として街中で見られるようになった「アスレジャー」のトレンドについて知り、命がけの戦争を軽いゲームにした「サバゲー」を体験し、本来は真剣だったはずのスポーツや戦争が遊びになっていることに驚いたという作者。そしてオリンピックに参加するのは「国を背負った労働者」であるスポーツ選手、その選手たちの活躍に一喜一憂する私たち––。ステイトメントを読むと、時代遅れのオリンピック招致で覆い隠されてしまう何かがあり、それを暗に批判する一方で、ともすれば「遊び」の楽しみに飲み込まれて、誰もが祭典を無邪気に歓喜する観戦者になりかねない危うさがある、そんなことを指摘しているように思えた。
だが、そう思わせる説明をした後で、アスレジャースタイルの人たちが走る姿を現代の群像として描いたと締めくくるのでは、せっかくの気付きをそれこそ逆に単純化し過ぎではないだろうか。アスレジャーが初耳の人にとっては、「ストイックな営み」が「遊び」に転換されていく背景は見えずに、単にスポーツウェアを身に着けて左方向にまとまって走る人々にしか見えない。あるいは、かつての日本近代洋画が「国主導の労働者」を記録し、彼ら労働者のあり方を推奨したことにテキストで触れていることから、国の思惑をそのまま描いてしまうことの危険性を皮肉を込めて再現しているのかもしれない。ただ、実際の絵に向き合うと手がかりが少ないため、やはりスポーツウェアを着て走る人の描写ということ以上の情報を取り出すことは難しい。
こうして見てみると、作品の横に提示されたテキストにやや頼りすぎの作品に対して、作品そのものに程よく分かりやすさと複雑さがある程度共存している2作品が講評会で選ばれるという結果になったのも、どこか象徴的に思えてくる。三浦かおりの「sense」は、電池で動くアナログ時計の秒針に鈴を取り付け、針の動きに合わせて鈴が鳴るというシンプルな仕掛けの作品だ。展覧会場に複数置くことで常に一定リズムの鈴の音がバックグラウンドに絶えず聞こえ、装置の小ささと反比例するようにして大きな存在感があった。目に見えないが誰にとっても平等に過ぎていく時間というものを分かりやすくあぶり出し、同じ時間でも人それぞれに異なる過ごし方があるという個別性や複雑性にも思いを馳せることができる作品になっていた。
選出されたもう1つの作品、ユゥキユキの「あなたのために、」は、母娘の相互依存の関係から抜け出すイニシエーションの実行を自身の課題とし、映像作品の制作を通して解決に挑むものだった。フロイトの言うオイディプス・コンプレックスとは違い、あまり注目されることのない母娘関係の難しさのある側面を分かりやすく見せ、自立のためにはこの心地良い関係から抜け出さなければならないが、心地良いがゆえに困難を伴うことをストレートに表現していた。毛糸を編んで作った母性を象徴したと思われるややグロテスクな着ぐるみの造形も、人間関係の泥臭さを表現しているようで効果的だった。個人の体験を基にした作品ではあるが、見る人も自分の周りの人間関係に照らし合わせて何かしら発見することができただろう。
単純化の流れが支配力を強めていく中で、芸術は何ができるのか。ありのままの複雑さを表現することを提唱したこの展覧会は、現実の課題に対して果敢に挑戦していたとは言えるだろう。ただ、初めて見る作品から限られた時間で鑑賞者が抽出できる情報量は、さほど多くはない。複雑な現象を単純化せずに伝えるためには、それでもやはりある程度の情報の整理が必要で、多種多様な人に向けて本気で発信するのであれば、閉鎖性や排他性を取り除くためのさらなる配慮も欠かせない。でなければ、結局難しいものは難しく、そう簡単には伝わらない、という現実を再確認する結果になってしまう。単純化という「妖怪」はなかなか手強い。そして複雑で難しい世界には相変わらず、多くの課題が山積したままだ。それでもこの展覧会で希望を感じられるのは、複雑な現実をそのまま直視しようとするアーティストが少なからずいるということかも知れない。また別の形で、「賢い」人以外にも伝わる形で気付きのきっかけを作ってくれるに違いない。
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