無垢な足の向くところ

梗 概

無垢な足の向くところ

 恋人を事故で亡くした「僕」は、焼き場で初めて彼女の右脚が義足だったことを知った。たった一人の遺族だという恋人の兄に頭を下げ、義足を譲り受けた「僕」は、悲嘆に暮れながら義足と共に家に帰り着く。冷たくなった義足を抱きしめながら眠っていると、恋人のいろいろな表情を思い出す。
 義足をよく観察すると、様々な場所に様々な番号や記号が記載されている。一つは製造番号。ネットで検索すると、義肢やロボットを専門に扱う企業の名前がヒットするが、製品一覧に同じ義足の記載はない。電話で問い合わせると、この番号はプロトタイプに割り振られる番号で、実際に用いられた製品に記載されているはずはない、という。担当が直接伺いたい、と言うので、慌てて電話を切った。
 他には蕎麦屋の電話番号やドライヤーの製品番号、それに、意味の分からない文字列もいくつか。そんな中、「僕」が最も気になったのは二つのイニシャルだ。間にはハートマークが書かれ、片方は恋人のイニシャルだが、もう一つは「僕」のイニシャルではない。
 「僕」は次第に恋人に対する疑念を覚え始めた。「僕」と一緒にいる間も、元カレのイニシャルの入った義足と一緒だったのかと思うと、不当だとは思いながらも、強い嫉妬を覚えた。
 この頃から、誰かが「僕」をつけ回しているような気がし始める。義足の製造元が、取り戻そうとしているのではないか。もしかすると、追跡のためのチップなどが埋め込まれているのかもしれない。義足は「僕」と一緒にいたがっているのに。この日から、「僕」は仕事の時も義足を持ち歩くようになった。
 義足と過ごすほどに、義足のことをもっと知りたくなる。義足はいつ恋人と出会ったのか。義足はどうやって恋人との関係を深めていったのか。
 過去を遡るうち、恋人が職場でのいじめを苦に、自ら自動車の前に身を投げ出した過去が明らかになる。この自殺未遂からのリハビリの中、病院に業者として出入りしていた「僕」と偶然出会い、ある約束をして、回復につながった。すべて、恋人の兄の証言だ。どんな約束かと聞いても、生前の彼女は決して教えてくれなかった、と兄は語る。「僕」はそれが思い出せない。そんな約束の存在も忘れていた。
 出会った時のことを思い出そうと、今はもう取引のないその病院に赴いた。しかし、恋人のことは何も思い出せない。その時、機能訓練室で一生懸命、歩行訓練していた義足の姿がフラッシュバックする。あの時、既に関係は始まっていたのだ。「僕」は病院の片隅で、鞄から取り出した義足を抱きしめる。
 病院から家に帰る途中、不審な車両が近づいてきて、「僕」は義足と一緒に拉致されてしまう。犯人は、義足の製造者で、義足を返してくれさえすれば「僕」に危害は加えないという。隙を見て車から飛び降りた「僕」は、右脚から着地し、ひどい怪我を負うことに成功する。
 搬送された先の病院で、右脚を切断してもらい、義足を装着した「僕」は、無上の幸せを感じる。この時のために、「僕」は恋人と出会い、恋人を喪ったのだ。
 やがて「僕」は約束を思い出す。義足との間に交わした約束を。病院の屋上で空を見上げる「僕」は、義足を縛り付けていた恋人の体を思い出す。
「君を縛り付けるその体から自由にしてあげる」
 「僕」は自由な空へと飛び出した。
 しかし、義足は何に引っかかったのか、屋上に一人残された。義足は再び、自分の意志では動くことができなくなった。

文字数:1410

内容に関するアピール

 義足は歩くためのものとして存在しているのだろうか、それとも、歩くというのはデザイン上のコンセプトに過ぎないのだろうか。
 この問いは「義足は歩きたいのだろうか、それとも、歩きたくないのだろうか」と言い換えてみることも可能だろう。
 これは、「犬は本当は散歩がしたいのか否か」という問いとは、全く別の意味を持つ。なぜならこれは、道具の持つ根本的な意味についての問いだからだ。
 恐縮ながら、前回梗概と同様『我々は人間なのか? – デザインと人間をめぐる考古学的覚書き』から引用してみよう。

「ヒト亜科の種が誕生するよりずっと以前の、330万年前の石器が発見された。不均一な形状をもつ原始の道具に比べると一貫して『しずく型』の、ホモ・エレクトスのものとされる手斧ですら170万年前のものだ。その手斧の対称性は、多くのエネルギーに加えて、一揃いの道具、さらにそれを作りだすための画期的な技術を必要とするものであったが、それ以前の道具と比べても明らかな機能的メリットは一切なかった。(中略)これらは装飾用の道具として鑑賞するために作られた可能性が高く、ダーウィンの理論が認める通り、たとえ誰が作ったとしても、優秀な遺伝子の広告役として性的なメリットを見せつけられる美しさを備えていた。」

 美しく造形された義足は、人の欲望を引きつけるだろう。であればこそ、義足の欲望の在りどころを考えることは、一つの思考実験たりうるのではないだろうか。もしそれが、不幸な結果になるとして、義足の幸せを考える結末を誰か一人ぐらい夢想してやっても罰は当たるまい。

文字数:663

約束の足跡

 火葬炉から引き出された台に残されたそれは、梢が脱ぎ捨てた体の余り物のように横たわっていた。親族が一斉に息を飲み、小学生になりたてぐらいの女の子が悲鳴を上げて、すぐに部屋から連れ出された。梢のご両親とお兄さんだけが無表情でいるところを見ると、家族だけに共有されていた事実らしい。
 梢の婚約者の僕はといえば、そのことに、まるで気づきもしなかった。
 いや、こうして実物を目にしている今でも、梢が義足だったということが、腹の底に落ちて行かない。それは、義足と言うには、あまりに完璧なまでに梢の脚だった。交通事故だと聞かされているが、傷一つ見当たらない。左脚の膝の付け根から下、足の指も五本それぞれが独立している。周りに残された骨の方が、不自然に見えるくらいだ。
 僕は梢の姿を思い描いた。木漏れ日の中で楽し気にステップを踏む様子や、波打ち際を砂に足を取られながら駆けていく姿、シャワーから出てベッドの中にもぐりこんでくる猫のような動き――どの梢にも、左脚の違和感はない。
 ご両親は、突然の事故で娘を喪い憔悴しきった表情で、とても話しかけられる様子ではない。その二人と比べれば、落ち着いた様子に見えるお兄さんに、後ろから声を掛けた。
「あれ、は」
「ああ、義足だよ」
「知らなかった。気づきませんでした。言ってくれれば。お兄さんも」
「卓君には言わないでと、そう、約束させられていたからね」
「約束、ですか」
「約束、だね」
 噛んで含めるように発声しながら、僕の目を見据えるお兄さんは、無感情を通り越して、無機的にすら見える。愛する人の喪失に直面すれば、それに身を浸すか距離を置くかしかない。僕もまた、お兄さんと同じ、冷たい目に見えているはずだ。
 葬儀場の係員がお兄さんの腕に手を置く。お兄さんは軽く頭を下げ、ご両親に続いて骨上げ台の前に立った。僕は少しだけ後ろに下がって、義足について囁き始めた親族たちに道を開けた。指輪は買う前だったので、僕の立場を証明するものは何もない。
 空になった心を指先で回すように視線を泳がせると、扉の所にさっきの女の子が立っていた。手の中には真っ赤なドロップの缶――白と黒に塗り込められたこの部屋で、場違いな赤色が目に痛い。女の子は、口の中でせわしなくドロップを右左させながら、義足から目を離せないでいる。義足を見るのは初めてだろうし、義足という物の存在自体を知らなかったのかもしれない。そもそも、人から脚が奪われてしまうことがあるなんて、想像したこともないだろう。
 年を取るというのは、世界が十全でないという事実を知ることでもある。
 女の子が呼ばれ、母親らしき女性と一緒に骨をつまみあげる。手が震えている。いや、これは僕の手だ。握りしめて止めようとするが、手の平に爪が食い込んだだけで、震えは止まらない。
 お兄さんが僕の肩に手を置き、骨上げ台の前に導いた。葬儀場の係員から箸が手渡される。しかし、僕には骨が見えない。そこには、梢の脚が体を横たえて眠っている。息づいている。
 なのに、梢はもういないのだという。
 目の前に見知らぬ男性が立ち、僕の箸を待っている。骨を拾うのを待っている。梢の死を受け入れるのを待っている。
 すると、視界の端から、小さな手が現れた。それは、制止する大人を掻い潜って、台の前に舞い戻った女の子の手だった。その手は、女の子の眼差しそのままに、まっすぐ梢の脚を目指している。僕は慌てた。梢が僕のものだと証明してくれるものは何もない。それでも、梢は、僕の梢だ。
「卓君」
 義足を抱えて走り出した僕の名前を呼び止める声は、お兄さんのものかご両親のものか、判然としない。それでも、追いかけてくる小さな足音は、あの女の子のものだとはっきり分かる。義足を知らないあの子だけが、この脚を梢の肉体だと認識していた。梢が脱ぎ捨てた体そのものだと。
 葬儀場を出て、駅へ向かう道を走りながら、通りかかったタクシーを捕まえて乗り込んだ。運転手の視線が、僕の腕に抱かれた義足に注がれるのを感じ、慌ててジャケットの中に包み込んだ。
「駅まで」
 来た道を振り返るが、誰一人として追いかけてくる様子はない。最愛の婚約者を喪って気が触れてしまった、とでも思われただろうか。それならそれで、僕にとって不都合はない。
 ジャケットの内側で、冷え切っていた義足に僕の体温が移っていくのを感じる。頬を温かいものが一滴だけ、伝い落ちていったが、膝の上に置いた手にたどり着く時には、もう温かさを失っていた。
 家の扉を開けると、そこには梢の香りが残っていた。部屋の片隅に積まれたぬいぐるみや、風呂上がりにいつも羽織っていたガウン――そこから、こんな風に香りを感じることは、これまでなかった。
 考えてみれば、当たり前のことだ。そこに梢がいれば、梢の残り香を実感することなどない。
 ベッドの上には、梢が書いた無数のメモが散らばっている。僕がやったことだ。梢は何でもメモに残す癖があった。中でも大事なことは赤いインクで書くのが常だった。通帳番号、パスワード、振込みの期日、それに、仕事の約束、デートの約束、友達との約束――。
 ジャケットの中から取り出した義足を、メモの群れの中に横たえた。ジャケットを脱ぎ捨て、その上に倒れこむ。
 無数の言葉と左脚の上に梢のイメージを蘇らせようと試みるが、虫食いだらけで、いくら想像の糸を織り合わせてみても、梢の柔らかな肌は戻ってこない。近づこうとすればするほど、そこに転がった意志のない義足の生々しさに引きずられる。
 ベッドに体を起こし、義足を膝の上に乗せてみる。肌の質感だけではない。くるぶしからかかと、足の甲と裏、そして指先から爪まで、命というものが、魂という不定形の何かではなく、確固たる形の中に宿っているかのように錯覚してしまうほど、それは梢の脚だった。
 だが、よく見ると、膝の付け根――体に装着する部分には、いくつもの番号や記号が印字されている。それが道具に過ぎないという事実を突きつけるように。
 スマホを取り出し、一つだけ手書きだった十桁の数字を入力してみる。蕎麦屋の電話番号だった。たまたま、数字が合致しただけだろうが、梢が蕎麦好きだったことを思い出した。いつでも温かい蕎麦を食べるものだから、僕は邪道だ無粋だと突っ込んでいた。ある時などは、鍋焼きうどんに代わりに蕎麦を入れてくれなどと言い出して、ほろほろになった蕎麦をレンゲですくって食べていた。
「そば、ると、あったかいよね」
 くだらないと思いながら、それでもその唇を引き結んだ笑顔が好きだった。
 気が付けば、涙がとめどなく流れ出していた。心が凍り付いたまま、涙腺だけが壊れてしまったかのように。梢の横顔が、右半分の横顔が、さっきまで空気に溶けたまま捕まえられなかった梢の姿が、僕の涙を吸い上げて蘇った。
 梢は顔の左半分を見せたがらなかった。勤めていた研究所での事故で、左顎から首にかけて火傷を負ったのだ。僕たちが出会う前の話だ。
 だから、家でも外でも、食事をする時は必ず僕の左隣に座っていた。
 梢はいつも左側にいた。
 その時、顔だけでなく、左脚も隠そうとする様子がなかっただろうか。
 二人でベッドにもぐりこむ時、僕の左腕に肩を預けながら、左脚を遠ざけようとするそぶりはなかっただろうか。
 僕は、梢の傷痕を気にしないと言いながら、気にしないように気を付けるという形で、梢をしっかり見られなくなっていたのではないか。
 涙を拭い、義足をベッドの上に置いた。ベッドから降りて床に正座した僕は、改めて義足と向き合った。梢の傷と正しく向き合うことぐらいしか、今の僕にできることはない。

 気が付くと、窓の外から忍び込んだ夜に部屋が満たされていた。義足を枕に、眠ってしまっていたらしい。僕の体温が移った脚は、梢の脚そのものとしか思えない。その温かさに、梢が負った傷の重みを感じた。これで梢は二度、事故によって左脚を失ったことになる。僕は、胸の奥に溜まっていく悲しみの池が、怒りを感じて沸々と煮立ってくるのを感じた。どうして、梢ばかりが傷つかなくてはならないのだ。
 カーテンを引いて電気をつけると、僕は再びスマホを手に取った。義足に残された製造番号らしき英数字を検索に掛ける。しかし、義足らしい商品どころか、何かの検索結果も表示されない。文字列を眺めながら、末尾の「PT」は「プロトタイプ」のことかもしれないと思い、この部分を取って検索を掛ける。
 当たりだ。複数のPDFファイルのリンクが表示される。そこには「義肢」や「義体」の名が冠され、いずれも同じサイトの下位リンクだ。
 総合義体研究所Cyborg Technical Research Institute」――「CTRI」という文字列は、梢のメモの中で何度か目にした記憶がある。何でもメモする癖から、この文字列もIDかパスワードの類だと思っていたが、違ったらしい。これが、梢の勤め先なのか、勤め先と関係のある研究所なのかは分からない。どういう理由で、梢が試作品を使っていたのかも分からない。ただ、義足であることを、婚約者である僕に隠していたことの理由が、ここにある気がした。
 お兄さんはそれを「約束」と言った。
 梢は「約束」という言葉に、やたらとこだわっていた。融通が利かないと言ってもいいほどに。
 それだけに、残された僕は、この事実を知らなくてはならないと思った。
 CTRIのトップページを開くと、連絡先の電話番号が真っ赤な目立つ文字で表示されている。妙だな、と思いつつも、タップして電話を掛ける。スマホの時計は既に十時を回っている。誰も出るはずがないか、と思う間もなく、二コール目で電話が通じた。
「梢か。よかった。サイトを開いてくれたんだな」
 僕は電話を切った。
 どうして――何に向ければいいか分からない、無数の「どうして」が、僕の中で渦巻いた。
 先程のページを再度開く。しかし、そのページには、もう電話番号は記載されていなかった。メニューの中からアクセスを探し、タップする。その一番下に、小さな文字で、住所と電話番号が記載されている。さっきの電話番号と見比べるが、下四桁が全く別の番号だ。
 突然、スマホから軽快な木琴の音が鳴り響いた。さっきの番号から、折り返しの電話だ。非通知にしなかったことを後悔した。だめだ、今、出るわけにはいかない。分からないことが多すぎる。サイレントのスイッチを入れて、音を締め出した。
 着信がおさまるのを待って、研究所の住所を確かめる。下り方面の電車に乗れば三十分ほどで着く。明日、行ってみることにしよう。
 為すべきことがはっきりすると、強い空腹感を覚えた。今朝はもちろん、葬儀の時にもほとんど食べられなかったことを思い出した。クローゼットから大きめのリュックを取り出すと、中に義足をしまい、外に出た。この時間なら、近所の蕎麦屋がまだ開いているはずだ。
 吹く風に肩をすくめる。春の気配を感じながらも、朝晩はまだまだ冷える。今日ぐらいは温かい蕎麦を食べてもいいかもしれない。

 翌日は朝から雨で、スプリングコートを引っ張り出した。コート掛けには梢のものの方が多くて、僕のコートにも梢の気配が移っていた。
 通勤の時間帯はとうに過ぎているので、駅前の大通りも人はまばらだ。傘の奏でる雨音は淋しげで、シャッターが上がる音も重苦しい。
 通勤の時とは逆方向の電車に乗り込む。この時間でも、上りの電車にはそれなりに人が乗っているが、下りはがらがらだ。誰も座っていないシートに腰を下ろしてリュックを抱える。中で梢の義足が寝息を立てているような気がする。子どもを抱いているような気分だ。スマホを見ると、事情を知っている同僚から何件かメッセージが入っている。どれもこれも、一様に僕の身を案じる内容で、思わず噴き出した。よほど、神経の細い人物だと思われているらしい。
 二十分ほどすると、窓の外は次第に家がまばらになっていき、その空隙を生めるようにして灰色の工場の群れが現れた。どれも無個性を装っていて、その中にCTRIが身を潜めているのかと思うと、不安感が背後から忍び寄ってくるのを感じた。
 程なく到着した駅は、工場群と同じ灰色で、雨雲に覆われた空に溶け込んでいる。天井の高い駅舎を出て傘をさす。辺りを見回すが、コンビニはおろか、通りのずっと先に見えるガソリンスタンドの他には、ランドマークになりそうなものが何一つない。地図アプリの助けがなければ、途方に暮れていただろう。
 時折、思い出したように声を掛けてくるアプリの命令に従って、何度か道を曲がっていく。錆びた看板や薄暗い硝子戸の商店、日に焼けて文字の読めなくなった暖簾に、プランターと化した魚屋の発泡スチロールで籠城した床屋――生活する人の気配のない町並みに、傘をさす手が脱力する。肩にもたせ掛けた傘が、まばらな雨音を返した。
 三十分ほど歩くと、アプリが目的地への接近を告げ、唐突に巨大な鉄柵が現れた。両脇を固めるコンクリートの柱に、「総合義体研究所」の名前が彫りつけられている。右の柱の脇には通用口らしき小さな扉があり、カメラのついたインターフォンがあった。傘を叩く雨音が消えている。
 傘を閉じながらインターフォンの前に立つと、途端に通用口が開いた。
「梢!」白髪交じりの短髪に、ひょろ長い白衣の男が、世紀の大発見でも成し遂げたといった表情で現れた。僕より十センチ近く背が高いだろうか、上から見下ろされるのは気分が悪い。「――じゃない、よね。誰?」
「梢の婚約者だ」
「はいはい、分かった分かった。分かったからさ、梢を出してくれないかな」
 白衣が頭を掻きながら吐き捨てるように言う。苛立っている様子だが、細長いだけの奴に、怯むつもりなど毛頭ない。
「梢は死んだ」
「おいおい、そういうことは冗談でも言っちゃいけないよ。僕は研究者だけど、人の生き死にを冗談にするやつは、許せない。梢がいることは分かってるんだ。早く出しなさい」
 いることは分かっている、というのはどういう意味だ。
「しつこいな、梢は事故で死んだんだよ」
「だったらどうしてログが残存してるんだ。今だって、すぐそこまで」
 言って、僕の他に誰もいないことが分かったようだ。車もなければ、周囲に人が隠れられるような場所もない。
 いち早く状況を理解した僕は、駅に向かって走り出した。背後で白衣の怒鳴り声が聞こえる。
 リュックの中で義足が跳ねる――この義足自体に通信端末なりGPSなりが実装されていると考えるべきだろう。だが、それが分かったところで、どうすることもできない。それでも、まずはここを離れるしかない。
 通りを曲がる直前に振り返ると、巨大な鉄柵が開くのが見えた。僕が駅から来たことはばれている。相手が車なら、先回りされる。
 その時、義足に書かれた番号のことが頭をよぎった。製造番号の下に並んだ、ピリオドで区切られた四つの数字は、この義足のIPアドレスではないか。このアドレスにアクセスすれば、ファームウェアの設定を書き換えられるかもしれない。
 周りを見回すと、プランターの城壁が目についた。これを乗り越え、床屋の扉を押すと、埃っぽい空気の歓迎を受けただけで、やはり誰もいない。床にリュックを下ろし、チャックを開け、スマホにアドレスらしき数字を入力する。ブラウザにユーザー名とパスワードを要求するウィンドウが現れる。
 ユーザー名に「kozue」を、パスワードに手書きでメモされていた蕎麦屋の番号を入力する。
 当たりだ。ファームウェアの設定画面から通信に関する項目を選び、僕のスマホ以外からのアクセスを切断する。これで、限りなくスタンドアロンに近い状態になった。
「一人っきりじゃ立てないのに、スタンドアロンだなんて、ね」
 梢の笑い声が耳元に蘇る。いかにも、梢の言いそうなことだ。
 陽が射してきたらしく、舞い上がった埃が輝いて、僕は大きくくしゃみをした。

 バスを乗り継いで最寄り駅までたどり着いた僕は、裏通りを通ってマンションの裏手に回った。正面玄関のすぐ脇に停められた真っ白なバンには、「Cyborg Technical Research Institute」の文字と、ウィトルウィウス的人体図を模したロゴがでかでかとプリントされている。誰が見ても怪しさ満載だ。
 僕は駅前に取って返し、インターネットカフェに入った。
 カップル用の個室を取ると、義足をシートに寝かせた。一日、窮屈なところに入っていたせいで、くたびれているようだ。軽くさすってやりながら、PCが立ち上がるのを待つ。
 ブラウザを開き、僕のスマホ経由でファームウェアにアクセスする。設定の中にログの表記を見つけ、義足に蓄積されたデータを遡る。
 最初の日付は、五年前の五月――僕が梢に出会う、二ヶ月前だ。ロケーションは市内の総合病院。あの頃の僕は、この病院に出入りする清掃業者だった。
 初めて会った日、梢は屋上に立っていた。
 ただ、そこに立っていただけだ。それなのに、僕は彼女を見た瞬間、とっさに真っ白な入院着の縁を掴んでいたのだ。その時の、梢の呆けたような表情が忘れられない。僕の目のずっと奥を覗き込むようでいて、梢の目の中はどこまでも虚ろだった。その様子に、この子はそのまま屋上から飛び立ってしまうのではないかという不安を抱いた。汗ばんだ右手は、ますます強く入院着を握りこんでいた。
 今、ブラウザに表示されたログに残された梢の行動、身体の状態、精神の波――それらが示しているのは、その頃の梢が生きていたのは単なる偶然にすぎなかったということだ。例えば、蕎麦をお願いしたはずがうどんだった、そんな些細なきっかけでも、梢の選択は最悪のものに転がり落ちた可能性がある。
 ただ、よく見ると、そのデータの振れ幅に特徴ある変化が見られた。記録の開始から二ヶ月の間は、鬱々とした内面状況に変化はない。しかし、僕と出会う数日前、データの揺らぎに変化が現れる。自死、自傷を示す指標が、突然収束に転じたのだ。
 ログの中には、言語解析という項目も見える。どういう技術なのかは分からないが、括弧の中には「キーワードの定量分析のみ」と書かれている。クリックするとプルダウンで年月を選ぶボックスが現れた。
 数値の減少が見られる直前の月を選んだ。画面には、横顔の人の頭を模した絵が現れる。昔ネットで、そんなジョークツールが流行ったのを思い出した。頭の中に、その人の特徴を現すキーワードが表示されるのだ。それと異なっているのは、重要度に応じて文字サイズが違っているらしいということと、どうやらこれがジョークではない、ということだ。
 梢の脳内には、大きく「無」の一字が書かれ、脳の縁を覆うようにして小さな「死」が取り囲んでいる。その隙間には、「復讐」や「いじめ」「義足」といった言葉が並ぶ。
 翌月は、梢のデータが反転し、僕と出会った月だ。キーワードを見ると、脳内には「約束」と大きく表示された。対照的に、「死」をはじめとした暗い言葉が小さくなっている。月を進めていくと、半年後に「死」は完全に消え、「約束」はいつまでも中心にあり続けた。
 月よりも細かな単位がないので、この「約束」がいつ梢の中に生まれたのか、知ることはできない。しかし、行動と内面のログを見る限りでは、僕と出会う直前にこの約束が交わされていると考えるのが自然だ。
 誰だ。
 メモには何も残されていなかった。そんなに大事なのに、どこにも書かれていなかった。そのぐらい、梢の中に深く彫り付けられていたということか。
 CTRIと何か関係があるのか。あの、白髪交じりの長身の白衣か。妙になれなれしい態度で、梢を呼び捨てにしていた。
 ログが半年前までたどり着くと、不意に「復讐」というキーワードが復活する。うなじの毛が逆立った。
 何が起きた。半年前の梢を思い出そうとする。半年前に何をしたか、何があったか、必死に考えるが、あまりに平板な日常の中に、無数の当たり前のつながりの中に、赤い文字で書き留めるような何かがあったとは思えない。
 いや、僕は義足に気づけなかった。梢をきちんと見てはいなかったのだ。
 翌月には、小さく「死」が生まれ、先月の脳内には「約束」と拮抗する大きさで赤く「自殺」と「破壊」が表示されている。
 僕は、記憶の中の梢を遡る。僕が捉えたイメージとしての梢でなく、具体的な梢の身体を求めて。そこにいた僕が気づけなかった何かを、今の僕が捉えられはしないかと。
 梢は、本当に交通事故で亡くなったのか。ほんのちょっとしたきっかけで、最悪の選択に転がり落ちてしまったのではないか。
 だとしたら、梢の中に再び「死」を蘇らせたのは、誰なんだ。
 渦巻く疑問を破って、スマホが震えた。電話だ。梢の名前が表示されている。
「卓君」
 冷静な声。冷たすぎると言ってもいいほどに。
「お兄さん」
「今から会えないかな」
 僕は梢の脚をリュックの中に寝かせると、ブラウザの履歴を消去した。インターネットカフェを出て、電車に乗る時になって、傘を忘れたことに気が付いた。

 梢のお兄さんが指定したのは、彼らの実家の最寄り駅から五分ほどの所にある、古びた佇まいの喫茶店だった。梢が子どもの頃からある店らしく、何度か一緒に入った時には、小さい頃からの憧れだと言ってクリームソーダを嬉しそうに頼んでいた。
 僕が入った時は既に夕飯時で、仕事帰りに軽食で済ませようというOLが数人いるだけだった。うっすらと流れるモードジャズが、アンティークな家具に調和する。一番奥の席に腰を下ろし、アメリカンを注文した。
 二杯目を注いでもらっていると、ドアベルと共に、梢のお兄さんが現れた。スーツ姿だ。
「お仕事ですか」そう言った後に、自分の声に冷淡さが籠っていると感じた。妹の葬儀の翌日に仕事など、できるものだろうか。
「その方が、気がまぎれるんだ」
 僕の指摘など、まるで意に介さない様子で、正面に腰を下ろす。ジャケットの前ボタンを外しながら、目を細めた。ゆっくりと足を組みながら、眉を寄せる。無言の圧力に、口を開かずにいられない。
「義足、のことですか」こちらから切り出すつもりはなかったにもかかわらず、引っ張り出された。
「卓君の気持ちも、分からないではないよ。もちろん、あの場での不敬を容認することもできないわけだけど、今更、どうにかすることができるわけじゃないし」ブレンドを頼みながら、今度は身を乗り出してくる。梢に似た、しかし傷のないきれいな肌が、緊張して引きつっている。「そんなことより、聞きたいことがあるんだ」
――梢の頭の中に書きこまれた真っ赤な「自殺」の二字がちらつく。僕は、事故の詳しい状況を知っているわけではない。しかし、お兄さんにとって、何か不審な点があったということだろうか。
 考えながら、コーヒーに口をつける。その動きの一部始終を、乗り出した姿勢のまま見据えているお兄さんの様子に、疑われているのは僕ではないか、と気づいた。カップを置く手が震えて、ソーサーが音を立てた。
「僕は、あれは、事故じゃないと考えているんだ」
 どうして、僕が怯える必要がある。
「この数日、いや、この数週間の間、梢に何か変わった様子はなかったかな」
 僕の目を見据えるお兄さんの眼差しは、まるで梢そのものだ。研究者だった梢の目は、時々すごく遠くにあるように感じることがあった。対象との距離を取って、そこに感情を介在させない。にもかかわらず、強い熱意でその距離を堅持する。お兄さんの眼差しもまた、検死対象の遺体に向き合うような、冷たい情熱に浸されていた。
「このスーツ、実は、仕事のために着ているわけじゃないんだ。今日は、梢の職場と弁護士の所を回ってきた」店員が頭を下げてカップを置いていく。ようやく椅子に深く腰掛けると、目を閉じてコーヒーに口をつけた。「それと、君の職場も」
「僕は、仕事を休みました」
「そうみたいだね。いや、君を訪ねて行ったわけじゃないんだ」
「そんなことより」お兄さんは、何を根拠にしてか、僕を疑っている。これ以上、茶番に付き合うことに耐えきれなくなった僕は、話題を変えた。
「古い約束のことを、何か聞いてませんか」
 言われたお兄さんは、困惑、混乱、疑念、焦燥――スライドのように、目まぐるしく表情が入れ替わる。最後に、無表情と、その裏に隠された納得の表情が拮抗する。
「君がそれを聞くのか」
「どういう意味ですか」
「君が、梢に、約束したんじゃないか」
「どういう意味ですか」
 僕が、梢に、約束した。
 意味なんか、聞くまでもない。尋ねなくてはならないのは、そこじゃない。
「もういい。分かった」お兄さんの眼差しの奥の火が消えた。「梢も浮かばれないな」
 深い褐色に見えていたテーブルが、急に薄暗く翳った。音もなくやってきた店員が、お兄さんのカップにブレンドを注ぎ足した。
「それより、義足を返してもらえないか」唐突に、突き放した観察する距離に戻る。僕の目だけじゃない。全身をくまなくデータ化する眼差しだ。今、義足を渡すわけにはいかない。リュックのことを頭から締め出さなくては。足元に置いてあるのは分かっている。手で確かめてもいけない。
「どうして」
「どうして? おかしなことを言うね。卓君にあの脚の所有権はない。君は、結局のところ、梢の恋人でしかないんだ。婚約は、法的な後ろ盾にはならない」
「今は、家にいるので、後日、必ず」
「後日、というのは」
「――明日、ですか」
「そうだろうね」
 冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、喉の奥に酸味が残った。
「明日は早いので、この辺でお暇します」
「仕事かい」
「ええ。そう、何日も休むわけには」
「そうだね。身内の不幸とはいえ、まる一週間も休みを取るっていうのは、尋常じゃない」
「……身内の不幸」
「君が同僚にそう話したんだろう。まあ、結婚するつもりだったんだ、身内も同然だとは言えるだろうね」
「失礼します」
 千円札を伝票の上に叩きつけると、僕は喫茶店を後にした。
 再び雨が降り始めている。
 そのまま急いでインターネットカフェに戻ったが、傘はもうなかった。スマホの電源を切ると、梢の脚を抱いて眠った。脚はいつまでも冷たいままだった。

 「約束」が何を意味するのか、知る必要がある。そのためには、僕が、僕自身のログをたどる必要がある。僕がその約束をしたというならば。
 明け方にインターネットカフェを出てマンションに戻ると、CTRIのバンはもういなかった。シャワーを浴びながら、梢の脚も一緒に洗ってやればよかったと考える。髪をセットし、白いシャツにジャケットを羽織る。清潔感のある格好が、一番目立たない。
 梢の脚を、温かく湿らせたタオルで拭くと、上気したように赤く色づいた。新しいタオルにくるむと、大きめのトートバッグの中に寝かせた。
 約束が交わされたのは、梢の入院中だ。病院までは、駅前からバスが出ている。幸い、雨は上がって、晴れ間がのぞいている。近いうちに、傘を買っておかなくては。
 バスからの風景を見ながら、四年前までは仕事で度々通っていたのだということが、この上なく不思議に思える。しかも、今はあの頃と違って梢を伴っている。バスの揺れに合わせて、バッグの中の重みが肩にかかる。そこに梢がいる。僕の肩に手を置いて、一緒にバスに乗っている。
 ごめん。少し待ってて。
 やがて、市立病院の豆腐のような建物が現れた。これまで、何度も建て替えの話が出ているにもかかわらず、しぶとく生き永らえてきた、前世紀の遺物だ。ただ、そのおかげで警備はざるだ。入館証がなくても、業者出入口から手続きなしで入れてしまう。
 しかし、久しぶりの病院内は、少しだけ様子が変わっている。受診する科ごとに色が決まっていて、床にそれぞれの科の色で、目的地まで矢印が引かれているのだ。勤めていた時は、やたらと道案内を頼まれた。そんなやり取りも、これなら不要だ。
 屋上に通じるエレベーターを探していると、赤色の「リハビリテーション科」の表示が飛び込んできた。義足を使っていたのなら、当然リハビリをしていたはずだが、記憶にない。
 赤色の矢印を手繰っていく。エスカレーターで二階に上がると、すぐにガラス張りの機能訓練室が見えてきた。歩行訓練用の平行棒の間を、懸命に歩いていく患者の姿に、記憶の奥底が攪拌される。
 そうだ。
 あの時の彼女が梢だ。
 屋上で梢を見つける数日前のことだ。この訓練室で、平行棒に体をもたせ掛けて、拳を握り締めて肩を震わせていた彼女を見た。
 全身を苛立ちで満たしている梢と、真っ白な入院着の下で静かに体を支えている脚のコントラストに、美しさを感じた。脚が不自由で怒りを覚えている梢と、怒りの源でありながら、その激しい感情の波すらも受け止めて支えようとする姿に、脚が、人である前に脚であるという事実の崇高さを感じた。
 その時の僕は、彼女とは無関係の、ただの清掃員でしかない。それでも、ふらふらと梢の所へ歩み寄って、ひざまずいた。そして、ガラス越しにその姿を脳裏に焼き付けた。
 五年前の梢が、僕を見つけた。視線が交錯する。
「体なんか邪魔なだけ。体があるから、からかわれるし、痛みだって感じる」
「でも、体があるから、誰かと触れ合うことだってできるんじゃない」
「痛みしか与えようとしない人たちと触れ合っても、楽しいことなんてない」
「それなら、僕が、君を、その体から解放してあげるよ」
 そして、僕は梢を屋上で捕まえたのだ。白い病院着の中で、解放の時を待っていた君を。
 トートバッグ越しに、そこに眠る梢の存在を強く抱きしめた。約束は交わされていた。出会いの前に。僕が気づいていなかっただけで。

 この病院に入院していたということは、この病院で手術したのだ、という当然の事理を、僕は見落としていた。
 そのぐらい、僕の気分は高揚していた。古びた病院の建物が、僕たちを祝福する教会だと錯覚するほどに。だから、病院を出た僕は、CTRIのバンの接近に気づかなかった。そして、バンの中に引きずり込まれた後にも、CTRIのことにすぐには思い当たらなかった。
「誰だ」
 必死な僕の第一声がこれだ。後から振り返れば、間抜けとしか言いようがない。もしも相手が、鞄の中の梢の存在を疑えば、この一手目は致命傷だっただろう。
 しかし、結果から言えば、そのことが幸いした。そうでなければ、無心に梢をかばうことなどできなかった。それがかえって、奴らから梢の存在を隠すことに繋がった。
「お前に用はない。梢をよこせ」
 この言葉を聞いてなお、僕はまだ混乱の中にいた。僕を襲った男から梢の名前が出たことも混乱に拍車を掛けた。そして「よこせ」という言葉も。梢があたかも物であるかのような言葉遣いは、鞄の中で息を潜める梢と、僕がバンに引きずり込まれたという状況をどこまでも切り離した。
「何の話だ」
「梢だよ。日比野梢の義足をよこせって言ってるんだよ」
 この時、初めて車のエンジンの音が耳に入ってきた。僕を抑えつけている男が白衣を着ていることも、声の主がこの男とは別の白衣だということも、ようやく認識された。そして、三列目のシートに腕組みして座っている白髪交じりの白衣が、昨日CTRIの前で会った男だということも。
「素直に渡せば、危害は加えない。隠した場所を教えろ」
 つまり、彼らは僕がファームウェアを書き換えた可能性など、微塵も考慮に入れていないということだ。研究者が聞いてあきれる。仮説の段階で、可能性を排除してかかるなど、愚の骨頂だ。彼らに比べれば、梢のお兄さんの方が、よっぽど研究者に向いている。
 そして、彼らはもう一つ、間違いを犯した。僕に対する判断を誤ったことだ。彼らに危害を加える意図がなかったとしても、僕には既にその覚悟ができていた。
 自分の体に危害を加える覚悟が。
 僕は、僕の体を抑えつけている白衣の腕に噛みついた。怯んだ隙に扉に手を掛け、一気に開け放つ。時速六十キロの風が、車中の白衣をはためかせる。自分が圧倒的有利にあると思っている人間が狼狽するのを見るのは、気分がいい。
 僕は自分の左脚を、車両の下に入れ、体を外に投げ出した。

 目を開けると、そこは真っ白な世界だった。染み一つないシーツとカーテン、天井と壁にも汚れはない。
 僕の体も真っ白な入院着に包まれている。
 目を閉じて、自分の体の感覚を確かめていく、首から両肩、肘を通って指先へ。シーツの柔らかさをはっきり感じることができる。
 胸から腰まで降りて右脚、膝を通ってその指先へ。上掛けの重みが、優しく包み込んでくれている。
 腰までもどって、今度は左脚へ降りていく。しかし、その感覚は膝で消える。
 暗い。
 膝から先が空っぽだ。そして、その空っぽの場所から声が聞こえる。
「これで、ずっとそばにいられる」
 約束は果たされていた。再会の前に。僕が気づいていなかっただけで。

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