羆よ羆、私はお前を忘れない

梗 概

羆よ羆、私はお前を忘れない

 天塩国一帯で最大の巨躯、白い毛皮と赤い炎の目を持つ特異なアルビノの羆、誇り高き山の王を、温根沢集落の人間は畏敬を込めて〈カムイ〉と呼ぶ。カムイは雪の温根沢を襲い、多数の命を奪った。獣のような背中の体毛のため「熊の化身」と言われるマタギのウルは、片目を射貫いてカムイを退けたが、熊爪により右腕に疵を負い、また最愛の妹ノンノを失った。
 青白い光を放つ球形飛行体が集落上空を飛び去る。直後、熊の大群が黒い雪崩のごとく山を走り降りてきて村を呑み込む。そのさなか、ウルはサハリンから来たロホという男に救われる。

 球形飛行体〈憑機(つき)〉は獣達の体を金属に変える。金属化は疵口を介して他者に感染する。鋼鉄の獣達は他を取り込んで感染拡大し、増殖し、高度に機械化しながら列島を南下する。死の行軍は、群れの中で最大の種族絶対数を誇る熊達の名を冠して〈羆嵐〉と呼ばれた。羆嵐がどこを起点として発生したかは知れぬ。ウルが知るのは、それがサハリンのロホの故郷を死の荒野に、ウルの集落を鉄のオブジェに変えたということだけだ。

 本州に上陸した羆嵐を殲滅するため、帝国陸軍第八師団が盛岡市に防衛線を敷く。ウルはロホを頭目とする、アイヌ語を話すギリヤーク人の集団に混ざって師団に合流する。作戦の最優先事項は「憑機の撃墜」とされるが、ウルは将校達が着込む贅沢な毛皮を見て言う。「人間があれを落とすのは無理だ。あれは神様みたいなもんだからな。人間が愚かだから、神様の怒りを買ったんだ」

 吹雪の盛岡で市街戦が始まる。戦闘の中でウルはカムイと再会する。鋼鉄の体に、かつての美しい白毛は見る影もないが、赤い炎の隻眼は未だ王の尊厳を失していない。
 ウルは自らの右腕を覆っている長布を剝いだ。熊爪による疵を受けて〈金属感染〉の進行した右腕は、醜い鋼鉄の砲に姿を変えている。
 ぶっ放す。
 金属を熱反応させることで極限まで圧縮された超高密度の蒸気塊が高速で射出され、カムイの胴体を一撃でねじ切る。
 弾け飛んだカムイの頭部は意識を保ち続けてウルに襲いかかり、ウルの機械腕を食いちぎる。然る後にカムイは絶命する。

 戦いは羆嵐の変異により突如幕切れとなる。獣達の鋼鉄の体が流動化し、互いに融合し、都市を呑み込む金属溶解液のプールとなる。溶解液に触れた兵は一瞬で人の姿を失ってしまう。生き残った兵達は岩手山に撤退する。
 腕をもがれ大量の血液を失ったウルに死期が迫っていることは誰の目にも明白だったが、巨熊を倒した英雄を麓に捨て置くことを是とする者はいなかった。ギリヤーク人達はウルの要望を受けてここまで運びあげたカムイの亡骸を平たい丘の上に鎮座させると、傍らにウルを座らせ、魂を鎮めるイヨマンテの祭儀を始めた。
 儀が人と獣を一つにする。足下まで水位上昇していたプールから鋼鉄の獣が次々現れ、輪となりカムイとウルを囲む。
 獣達の体が輝き出す。サークル頭上に出現した青白い憑機が、彼らの金属の体を照りつけている。
 ロホの幽霊が現れ、全身から蒸気を噴き出しながら言う。「新しい体、悪くないぜ。もう死を恐れることもねえ」
 ノンノの幻影が現れ、ウルに手をさしのべる。「ついてきて。お空の船に行けば、アシリトットが機械の体をくれる」
 それを手に入れれば生き長らえることができるだろう。しかしウルは首を横に振る。ウルは山の者だ。魂はカムイと共にある。
「少し眠る」王の亡骸に身を寄せ、ウルは目を閉じる。マタギの伝承では、肉体が死ぬと魂は元居た神の住処に還る。ウルはそこへゆく。

 以来、日本は事実上領土を縮小した。今、列島は盛岡を境界として北と南に分断されている。盛岡より北は畏怖と侮蔑を込めて〈不可触世界〉と呼ばれる。不可触世界は南にも他国にもその高度な文明と知識を分け与えようとはしない。「それを譲与するにはあなた方は未だあまりに野蛮すぎる」と彼らは言う。
 不可触の土地で、私はこれをタイプしている。データを残すことで、あの人の軌跡を歴史に刻み込むために。
 ウル。ずっと忘れない。私の大好きな兄さん。

文字数:1666

内容に関するアピール

どんな話か

二十世紀初頭、大正時代初期の北海道~東北を舞台に、凄腕のマタギが、あらゆるものを飲み込み鋼鉄化・機械化してしまう球形飛行体〈憑機〉と対決し、山神と崇められてきた巨大な羆を金属化の呪縛から解放する話  

 
課題に応じた点

人と熊はそれぞれ「文化」と「自然」を象徴している。他方、鋼鉄化・機械化を進行する〈憑機〉は「自然」を破壊する「文明」を象徴している。
神にも似た力を行使する宇宙的な存在が人と熊の間に割って入り、金属の力を授けたために、「文化」と「自然」の均衡にエラーが生じ、それまで両者の共生を保持してきた野生のシステムに崩壊が訪れる。

 
テーマ

「文化」と「自然」の調和を破壊する「文明」の介入を前に、人は何をすべきか。
文明の進歩を止めることは非常に困難で不可能と言っていいくらいだが、進歩の道の途中で足を止め元来た道を振り返ったとき、はるか後方の道の上に黄金の知恵が刻まれているのを見つけることもあるということを、この作品を通して書きたい。

 
アピールポイント

マタギは自分たちの信仰と思想を、民話・神話のなかに巧みに織り込み、物語として口伝することによって、次の世代へと受け継いでいった。そこには厳しい自然界を生き抜くための合理的でシステマティックな思想が含有されている。
例えばマタギの間には「子供を持った母熊や幼い小熊については、これを殺してはならない」というルールがあった。熊は古来より日本における食物連鎖の頂点に君臨する存在だった。狩猟民たちは熊を狩りの獲物にしながら同時に「神の化身」と見なし、畏敬の念を込めて「カムイ(=神)」と呼んだ。強大で時に無慈悲な自然の代表者に敬意を表すことで、自然との間に良い関係を築きたいと考えたのだが、しかしそれだけではない。母熊や子熊が減ると、必然的に熊全体の繁殖力も落ちてしまう。「母と子を殺すな」というルールは、新しい季節に熊の絶対数が減少し、獲物不足の状況に陥ってしまう事態を未然に回避するための知恵でもあったのだ。
こういった、自然との共生のための合理的な知恵が、狩猟民たちの紡ぐ物語、神話の中にはたくさんある。調べれば調べるほどよく出来ており、なおかつお話としてもとても面白い。面白いからこそ、風化せずに伝わってゆくのだろう。
実作ではこれら神話群が持つ深みを最大限に活用し、奥行きのある物語展開を心がけていきたい。


アピールポイント2

本作は「アイヌのマタギ」を取り上げている。マタギも面白いがアイヌも面白い。アイヌ語の語感はとてもかわいらしく、発想はユニーク。たとえば彼らは魔神や厄災を避けるために、幼児期の子にわざと酷い名前をつける。ションタク(糞の塊)、オプケクル(放屁する人)、ホヌマ(陰毛)、ポンシコテネ(すこし糞が尻につく)。

 
梗概注釈

舞台

二十世紀初頭、大正時代初期の北海道~東北を舞台とする。最初の舞台、天塩国(てしおのくに)は北海道道北に位置する、全六郡により構成される広域。手塩山地は古い時代より狩猟民たちの猟場として知られる。ウルとノンノは手塩国留萌郡にかつてあった鬼鹿村(おにしかむら)の集落、温根沢(おんねのさわ)に住む。

ギリヤーク人

「ニヴフ人」とも。サハリン(樺太島)に住み、アイヌ民族とは隣り合って居住していた。「ロホ」はニヴフの言葉で「シャチ」を指す。

帝国陸軍第八師団

大日本帝国陸軍第八師団。東北地方を管轄する師団で、出身者も東北出身者を主としていた。

イヨマンテ

羆やその他の動物を殺して、その魂を神々の世界(カムイモシリ)に送り帰す祭儀。アイヌの祭儀として有名だが、熊を神聖視し、その捕殺時に儀礼を行う慣習は、本来ユーラシア大陸や北米大陸の北部に暮らす先住民達に普遍的に認められるものでもある。また、ユーゴスラビアの A. ガースは1926年の論文で、「アイヌやツングースの間で今日行われている熊祭はその中間にいるギリヤーク族から受容したもの」としている。本作でギリヤーク人たちがイヨマンテを執り行うことは、この裏付けに依る。
また本作においては、獣と人が一緒になって亡骸を囲むイヨマンテの輪が、球形飛行体を降臨させる「(ミステリー/クロップ)サークル」としても機能する。

アイヌ語の名詞

主人公の名前「ウル」は「毛皮の外套」の意。ノンノは「花」。ノンノが憑機の主を名指して呼ぶ「アシリトット」は「新しい母」の意。

文字数:1795

山の海嘯

***ルビを表示するために、当方でレイアウトしたPDFをご用意しました。そちらでもお読みいただけます──著者より***

 

       1

 はじめに羆の下腹部に狩猟刀〔マキリ〕を入れ、胸の上までまっすぐに切り裂く。次に胸の中心から右の前足に刃を引き、マキリを中央に戻して左の前足へ。そして下腹部から両の足首にもそれぞれ刃をたてた。
 毛皮を剥ぎ取った。桃色の肉があらわになった。
 ウルは肉の表面に付着した血を拭き取ると、あごの付け根に刃をあてがい、頭部を切り離した。左の眼の周囲は肉がこそげ、頭蓋が一部露出している。赤い眼の代わりに、眼窩には鉛色の弾丸がしっかりと突き刺さり、抜こうとしても取り出せない。
 男衆が左右から毛皮の端をつかんで引っ張り、いっぱいに広げた。
 雪のように真っ白な毛皮は、美しい。羆のなかには胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えたものがいるが、カムイのそれは他とはひと味違った。他に類を見ない真っ白な毛皮の中央で、金毛に彩られた袈裟懸けが燃えている。この個体は、何もかもが型破りなのだ。
 毛皮をたたみ、その上に頭部を安置する。肉と骨と内臓のすべてを傍らに並べた。
 羆よ。ウルは思った。とうとうお前は、この俺が殺したぞ。
 イアンパヌが羆の頭部に呼びかけた。「お前はここで存分に丁重に扱われた。家に帰ったら親族たちにきちんと話すんだよ。どれだけ立派に人間の男がお前と戦い、そしてお前を殺したのか」
 イアンパヌはミズキの樹木を削りだして作った装飾具〔イナウル〕で切断した頭部を飾り立てる。祭儀の進行のなかでも重要な儀礼の一つである頭の拵えは、経験と人望を備える古老の役どころだった。だからこの集落〔コタン〕では、イアンパヌが担う。イアンパヌは天塩国の広域で多くの赤子を取り上げてきた産婆だったが、同じくらい多くの羆〔キムンカムイ〕を神のすみかへ送ってもきた。
 鹿の角を思わせる二叉のキハダの木に切断した頭部を挟んで横木で固定し、東の神窓から外へ送り出す。
 女たちが、「ホイヤーホッ」と声をあげた。
 男たちはかけ声に合わせてキハダの木を揺らしながら運ぶと、祭壇〔ヌサ〕の中央にこれを突き立てた。昨年山に入ったばかりの若いマタギ、アトイが東の空に向けて花矢を射た。

 羆を殺した熊送り〔イオマンテ〕の夜には、深い時間まで饗宴をやる。建物の中央では調子者の中堅マタギ、キサンが、得意の英雄譚〔ユーカラ〕をぶって周囲を賑わせていた。
「そのとき妖術使いの大悪党六人組の目の前に、英雄ポンヤウンペが颯爽と現れ、使いたるは秘伝・分身の術、たちまちのうちに三人に増えると、ついに引き抜く、誉れ高き宝刀クトネシリカ――」
 いまならこっそり家に戻っても誰も咎めまい。ウルは手元のヒエ酒〔トノト〕を一気に飲み干すと、イアンパヌの席に行った。
 イアンパヌが顔を上げた。「これで名実ともに、ここいら一帯で一番の猟師だよ、お前は」
「いいや、それ以上さ」とウルは言った。「俺が仕留めたものは他とはわけが違う。あれは羆どもの中でもいっとう格の高いやつだ。唯一無二の、雪色の毛皮と真っ赤な眼が、そいつを物語ってる」
 体重二九○貫、身の丈十二尺三寸の巨躯に白毛、赤眼を持つ怪物、その偉容は長らく、天塩山地を狩り場にする熊撃ちたちの間で語り継がれてきたのだ。
「そいつを俺が獲ったのは、偶然じゃない。あいつは今日、俺に殺されるために、渓流におりてきたんだ」
 銃を構える。ぴんと伸ばした背筋、開いた両足、水平に突き出した銃口、傾けた顔の角度。全身のあらゆる部位にまで、くまなく意識が行き渡っていると感じていた。これまでの猟生活のなかで一度も体感し得なかった、鮮烈な体験だった。同時に、以降二度と味わえないかもしれぬとウルは思った。
 無傷でありながら、ウルはあのとき確かに死の淵に立っていた。死神に寄り添われながら、十五尺まで距離を詰めた。一発目の弾丸は羆の眼球に命中した。深紅の眼球を潰して頭蓋骨に突き刺さった。ここで羆がウルに気づく。次弾装填。紙一重。そして二発目は心臓を貫いた。撃った弾は二発きり。あの距離では、次の弾を籠めているあいだにやつは、その走りが巻き上げた水飛沫が落ちるよりも早く距離を詰め、ウルを叩き殺していただろう。だから、三発目などありえなかった。ところどころにうっすらと氷の張った朝の渓流が、晴天に煌めいていた。不思議と心は穏やかだった。やつもそうだったんだろう。穏やかな動物の瞳に、知性がにじんでいた。おい熊撃ちよ、熊撃ちのウルよ。俺のこの肉と毛皮と内臓は、もれなくお前にくれてやる。だからお前もこの山で、いつかは俺の同胞に殺され食われてしまうかもしれないが、その時はいいか、恨みっこなしだぞ。
「状況が少し違えば、死んでいたのは俺の方さ」
 イアンパヌは首を横に振った。「生まれたばかりのあんたを取り上げたその最初の瞬間から、あたしにはわかっていたさ。ああ、この子はキムンカムイの化身だ、村に豊かな食料と富を恵んでくれる存在だとね。いつか必ず今日のような日が来ると、あたしにはちゃんとわかっていたよ」
 オバはトノトを口に含み、静かに飲み下すと、子供みたいな笑みを浮かべた。
「さあて、鉄砲の腕前は達者なのに女についちゃからっきしなうちの息子は、いつになったら孫の顔を見せてくれるのかね」
 ウルの母親はノンノを産んだあと体調を持ち崩して死んだ。父親は冬に猟銃を抱えて山に入り、そのまま戻ってこなかった。オバが両親の代わりに、ウルとノンノを育てたのだ。だから自立したいまも、ウルはイアンパヌに頭が上がらない。
「気長に待ってろ」
「まあ、老い先短い婆ぁに、この子はなんて残酷なことを言うんだろう!」
 オバは日頃、なかなか軽口や冗談を言ったりはしなかった。いまはウルのことを、誇らしく感じているのだ。
「そして今日ここに、ポンヤウンペも驚きの新しい英雄が現れた!」ユーカラをぶっていたキサンが、いっとう大きな声を出した。「鉄砲を持った現代の英雄、ウル!」
 キサンの声にひときわ大きな歓声があがった。そして誰からともなく手拍子が始まると、皆おもむろに立ち上がり、男も女も入り乱れ、熊送りの踊り、イオマンテリムセが始まった。
 今宵はキサンが終始気張っていた。キサンのところはもうすぐ念願の第一子が生まれるから、それが嬉しいんだろう。
 村の老人たちがウルを囲み、手を合わせて拝み始めた。ウルの背中には、生まれたばかりのときから、熊みたいな体毛がびっしり生えている。村の年寄連中は、そんなウルのことをキムンカムイの生まれ変わりと考えているのだ。キサンがウルの盃になみなみとトノトを注いだ。家に戻る機会を逸したのだとウルは気づいた。仕方なく、注がれるままに酒をあおった。

 喧噪をはなれて家に戻ったウルを、早々に引き上げていたノンノがつま弾く、トンコリの音色が迎え入れた。花ござに座り、楽器をつま弾くノンノの背中はすらりと伸びている。ウルは妹の姿に、暫し見惚れた。力強く繊細なトンコリの音色が、こわばったウルの神経をほぐしていった。
 ノンノがうっすらと微笑んだ。「おかえりなさい」
 ウルに顔を向けた拍子に、耳飾り〔ニンカリ〕が揺れ、背中の神窓から差し込む月光を受けて煌めいた。先日、ノンノの二十二の誕生日に、ウルが贈ったものだ。村々を巡回する鍛冶師に頼み込み、代わりに特別上等な狼の毛皮をやった。耳輪を通すため、ノンノの耳に初めて穴を穿けるのも、ウルがやった。
「イアンパヌに、嫁を娶れと言われた」とウルは言った。
「兄さんには、まだ早いですよ」ノンノは落ち着いた口調で言った。
 ウルは首を横に振った。「むしろ遅すぎるくらいだ。俺も、お前も」
「今日わたし」ノンノは静かに言った。「アトイに求婚されました」
 ウルは驚きを顔に出さないようにするために口をしっかり引き結んだ。
「驚きましたか?」ノンノが見透かしたように言った。口元に悪戯っぽい笑みがこぼれている。「祈りの宴〔カムイノミ〕を途中で切り上げたのは、それが理由です。彼に呼び出されたんです」
 アトイはノンノの翌々年に生まれた。ノンノにとってはウルよりも年が近く、気の置けない存在だった。
「あいつはいい男だ」とウルは言った。「何より、鉄砲の腕も上々だ。天性のものを持ってるうえに、若いから飲み込みも早い」
 ノンノが苦笑した。この村の男たちは、みんな猟の腕前で人を判断しすぎる、と思っているのだ。兄貴もご多分に漏れず。
「いまに俺よりも上手くなって、大物を仕留めてくるに違いない」
「また心にもないことを。兄さんから鉄砲の腕をとったら、いったい何が残るっていうんです?」
 即座に反論しようとしたが、鉄砲を取っ払ったときに自分に何が残るか、全然思いつかなかった。酔っているせいだろう、そうに違いない。
「それで?」話題を戻した。「アトイに、返事はくれてやったのか」
 ノンノはトンコリを壁にたてかけると、改めてウルをじっと見つめた。「兄さんはどう思います? 私がアトイのところに嫁ぐと言ったら?」
 予想外の問いかけだった。思わず言葉に詰まった。
「正直に」とノンノが畳みかけた。
「そりゃあ」ウルは言った。「喜んで送り出す。当たり前だろ? お前はたったひとりの大事な妹だ」
 ノンノはしばらく何も言わずウルを見ていたが、ふいにぷいと顔を背け、小声で何か呟いた。
「何と言った?」
「知りません」
「もう眠い。寝よう」
「おやすみなさい。兄さんなんて大嫌いです」
「なぜだ」
 そう問いながら、ウルはもうほとんど頭が働いていない。布団に入った。気怠い疲労感が、いまは心地よく感じられた。
「『嘘つき』って言ったんです」ノンノはそんな言葉を兄の寝息に混ぜ込んだ。

 深夜に頬をくすぐる感触で目を醒ました。うっすらと目を開けると、ノンノがウルの上に馬乗りになっていた。長い髪の一部が降りて、ウルをくすぐっていた。
 ウルは目を醒ましたことを気取られぬよう、再び目を閉じ、押し黙った。
 ノンノが顔を寄せてくるのがわかった。熱っぽい吐息が、ウルの口の周りを湿らせた。
「ねえ兄さん」耳元で囁いた。「兄さんが私を、もらってくれませんか」
 柔らかい体が、覆いかぶさってくる。ざらついた舌先が、ウルの唇を舐めた。
「だめだ」とウルは言った。
 心臓が速い鼓動を刻んでいた。どちらの鼓動かは、わからなかった。
 ふいに、ウルの指先にちくりと、鋭い痛みが走った。
 ノンノがウルの指先に、噛みついたのだ。
 それからノンノは、ウルの指を舐め始めた。指先の疵口から吸い上げられた血の赤い糸が、口腔を通りノンノの体内に、するりと入り込んでいく様を、ウルは目を閉じたまま想像する。
 ウルはノンノの腰の線をなぞる。成熟した女の体が、すぐそばにある。
 ノンノは吐息を荒くして、指を舐めつづけている。

        

 浅く、目眩にも似た幻惑の夜をやり過ごし、早朝にウルは起き出した。カムイを殺した者として、昨日に引き続き役目があった。
 ノンノを起こさぬよう気を遣いながら屋外に出ると、夜明け前の青さの中で風が吹いていた。幾本もの御幣〔イナウ〕で飾られた贅沢なヌサの祭壇の中央で、首だけになったカムイが風を浴びていた。
 ヌサを照らす青い色が、にわかに眩しさを帯びた。
 二叉の木に挟まったカムイの頭がかたかたと震え出した。風による現象ではなかった。風の勢いに対してあまりに、揺れ幅が大きすぎるのだった。
 横木による固定がはずれ、羆の頭がごろりと前方にまろび出た。落ちる、と思ったがそうならない。
 羆の頭部が、空中に浮遊する。
 深紅の隻眼を見た。いまもしっかりと死んでいた。これはカムイの意思とは別のところで働く力なのだとウルは漠然と考えた。
 カムイの生首は、風に乗って天高く舞い上がった。
 ウルはそれを目で追い、空を見上げて、そして視界の隅にさらなる異物を見て取った。
 流星のようだった。しかしそうにしてはあまりに大きすぎ、また地上に近すぎた。それはみるみるうちに大きさを増し、すぐにウルの視界の大半を埋め尽くすほどになった。巨大な雲が発するような、ごう、という唸りが轟いた。
 クラゲの頭部を彷彿とさせる、巨大な球体だった。それは生きているもののように見えた。外殻の質感はどこか有機的で、触れると柔らかくたわみそうに見えた。
 その全体が青白く光を放ちながら、空を浮遊し、移動していた。
 飛行体はコタン上空を横切り、鬼鹿山の方角へ飛び去った。
 つづけて空に浮いたカムイの頭部が、空中浮遊したまま、球形飛行体のあとを追うように同じ方角に向けて飛び去った。

 鬼鹿山はウルや近隣コタンの熊撃ちたちにとって一番の猟場だった。
 その景色が、一変していた。
 山中には霧が立ち込めていた。一寸先すら覆い隠すほど濃密なものだ。
 霧のなかを進んだ。
 むずがゆいような痛みが指先に走った。昨夜ノンノのつけた疵が、奇妙に鋭く霧のなかで染みた。
 なんだ、いまのは。
 気にするな。いまはカムイの頭部を探すんだ。
 構わず進んだ。
 丸太製のレラ橋を渡ると、渓流沿いの道となる。そこはいっそう霧が色濃くなり、対岸とは別世界と思えるほどだった。
 昨日の朝、この渓流でウルは羆を屠った。そのために橋は、ウルにとっていま、生と死を分かつ境界のように思われた。この場所で引き金を引いたその瞬間、全身を覆い尽くしていた全能の感覚を、意図せずとも否応なく、ウルは思い出していた。あの興奮。あの至福。死と隣り合わせの魂のふるえ。
 まただ、とウルは思った。ノンノの咬み傷に鋭い痛痒が走った。ただの痛みではなかった。指の肉の内側で、得体の知れない異物が蠢いているようだった。痛痒は先刻より強く、範囲を広げていた。うぞうぞと、ウルの右腕をせり上がってきそうな、不気味な気配があった。ウルは前腕を、反対の手で強く握った。
 それらのことが、ウルのマタギとしての勘を鈍らせ、近くの気配に気づくこと、猟銃を構えることを遅らせた。
 霧のなかから突如として黒い物体が浮かび上がった。ウルの目は、自身の視界が捉えるそれがいったい何であるのか、最初、まったくもって理解が及ばなかった。
 その質感。あまりに場違いに感じられた。ここは天塩山麓の一角だ。峻厳なる自然が、いとも簡単に生きものの命をさらってゆく土地だ。にもかかわらず、現れたのは自然の優位性を無視する異質な物体だった。
 鋼鉄に覆われた肉体は甲冑を着込んでいるように見え、お伽噺のようで、滑稽で無様だった。金属の体のいたる部位に開いた穴から排出される白い煙と熱風に、思わずウルは顔面を覆い目を背け――そしていま一度見た。
 否、見上げた。相手の頭部は、はるか上方にあった。
 顔の左目から頭部にかけての部位が金属に覆われてすっかり変わり果てていたが、面影は十二分に残している。
 この山麓のすべてを統べる王の容貌を、忘れるはずがなかった。
 ウルが射貫いた左の眼球は、失われたままになっていた。その周囲を、黒々とした金属が包み、修繕を施していた。
 死んだはずのカムイが屹立し、ウルを見下ろしていた。深紅色の隻眼は、いまもなお死んでいた。屍にぶらさがった目が、死したまま、焦点を合わせてウルを射ていた。その矛盾。生気伴わぬ眼光。それでいて、明白にして冷徹な殺戮本能が確かに獣の全身より迸っている。
 ウルはカムイの眼を通じて、既知の秩序の崩壊を見た。気づけば、頬を塩っ辛い液体がぼろぼろと伝い落ち、口のなかで鼻汁と混ざり合っていた。ウルは震えていた。震えが止まらなかった。一瞬にして、動物的本能の水準で、ウルは完膚なきまでに屈服していた。
 それでも、百戦錬磨の熊撃ちの肉体は精神とは無関係に自ずから動いた。
 単発の銃は丹念に磨きぬかれていた。細々とした古銃だった。
 猟銃を、構える。
 羆との距離はわずか二間——。

 間に合わ

 思考が巡るよりも早く、カムイの巨腕が鞭のようにしなるのが見えた。
 直後、視界が火花で埋め尽くされる。
 一瞬の間を置いて視界が取り戻されると、天地が逆転している。
 鈍い音。背中に鈍痛。たちまち胃の中身が喉元にせり上がる。喀血混じりの嘔吐。カムイの剛腕はウルの体を易々とはじき飛ばし、楡の巨木に叩きつけたのだ。
 右肩関節部に激痛。おそらくは折れている。幹に背中をもたせかけたまま、右肩に手をやった。
 右腕はなかった。
 カムイとウルの中間あたりに、ちぎれた腕が落ちている。猟銃は、羆のさらに先に落ちていた。ウルと、ウルの腕の間に、たどたどしい血の橋がかかっていた。それはウルの足下で溜まりを作っていた。
 カムイが詰め寄ってくる。
 ああ、俺はもう死ぬ、とウルは思った。
 呼吸がままならない。視界がぐるぐると混濁する。血が足りないのだ。
 急速に昏くなってゆく視界の先で、カムイが盛大に吠えた。
 殺すなら殺せと、ウルは叫びたかった。しかし言葉はいっこうに出てこない。
 視界の端で、白い霧が意思を持ったように寄り集まり、濃度を増した。そして、ウルの肩の切断面に群がりはじめた。
 ようやく気づく。これは霧などではない。何かとても小さな、生きたものだ。それがウルのなかに、入り込もうとしている。
 やめろ。
 痛痒の範囲が拡大した。腕をせり上がり、胸部から全身へと広がった。
 同時に、痛みの度合いが急速に増幅した。この世のものとは思えぬ激痛がウルの全身を襲った。
 ウルは雷に打たれたような痙攣に身を震わせ、叫び声をあげた。
「頼む、殺してくれ!」
 ついに口をついた言葉が、それだった。
 そして、すでにこの場にいるのはウル一人だけだった。黄泉がえったカムイはウルを捨て置き、すでに姿を消していた。
 ウルは吠えた。感情はこれ以上、言葉にならなかった。ウルは山に棲む一匹のか弱い獣も同然だった。こんな終わりがあってたまるか。ただ一人、惨めに踊り狂ってくたばるなど。

        

 生きている。起き上がる。
 なぜ生きている? 腕を見た。
 羆に引きちぎられた肩の断面を、鋼鉄の包みが覆い隠していた。
 どうなってる。わからない。
 金属蓋に触れた。
 じゅ、と音がした。焦げ臭い匂いが立ち込めた。左の手のひらが鉄の表面に張り付いた。
 歯を食いしばり無理矢理に剥がした。手のひらの表面の皮膚がただれて剥がれ、赤身をさらした。
 呪いだ。
 腑に落ちた。
 カムイはまれに、病を振りまき災いをもたらす悪神に変異するという。ウルたちアイヌはこの悪神を「ウェンカムイ」と呼んでいる。
 カムイはウェンカムイに堕したのだ。
 ならばなぜ悪神は、俺を生かした。
 しかし思考は即座に断たれる。カムイの巨大な足跡が残っていた。その足先はコタンの方角を向いていた。
 片腕では撃つ方法も知れない猟銃を取り上げ、ウルは走り出した。

 悔やんでも悔やみきれない。どれくらいあそこで昏倒していた。大量の血を失いながら、奇妙なことに死は、いっこうにウルのもとにやってこなかった。どころか、片腕の欠損はどうあっても不自由そのものだったが、これもまた奇妙なことにそれ以外、ただ「腕が無い」という明確な事実以外には何も支障なく、山道の往還のあとだというのに疲労の気配すらまるでなく、むしろあとからとめどなく力が湧いてくるようなのだった。
 ウルはしかしこれを、素直には喜べない。自分が、死してなお現世を徘徊する虚ろな黄泉がえりになり果てた心地がした。ならばウェンカムイが、それをやったのだ。ウルの体と魂を、人によく似た、不気味な存在に作り変えてしまった。
 コタンに帰り着いたときには日が暮れかけていた。集落は静かだった。一見してここでは何も起きていないように見えた。山際に一番近い、イアンパヌの家〔チセ〕に行った。
 イアンパヌはいた。土間の囲炉裏端にちょこんと座っていた。しかしウルの方を見向きもしなかった。ウルはイアンパヌを呼んだ。反応はなかった。眠っているのかもしれなかった。横から近づき、イアンパヌの肩に手を掛けた。そして言葉を失った。イアンパヌは側頭部がこそげ落ち、付着した血の塊のなかで脳髄がてらてらと光っていた。肩から反対の脇にかけて爪で抉られた痕があり、内臓がはみ出していた。土間には蒸し焼きの馬鈴薯が冷えて転がっていた。
 村内のぬかるみに巨大な足跡を見つけた。窪みの内側には黒ずんだ泥水が溜まっていた。表面に生じた油膜が、夕日の残光のなかで虹色に輝いていた。ぬかるみの先には足跡が印されている。それをたどり、また一つのチセに入った。キサンの家だった。
 目に飛び込んできたのは血の海だ。飛沫は天井まで飛び散っていた。キサンは鬼の形相を浮かべて絶命していた。肩や胸、脇腹、いたるところに噛み疵があった。右の大腿部から臀部にかけては肉が抉られ、生白い骨が露出していた。闖入者へ反撃を試みたのだろう、硬直した腕には年季の入った自動弓〔アマッポ〕が握られている。土間に鏃が落ちていた。キサンは狩猟のときも、トリカブトの根の毒を塗った矢をよく使った。勇敢に戦い、殺されたのだ。
 応戦もむなしく、家族は皆殺しにされた。キサンと一緒になって八年、ようやく子宝に恵まれたことを、ウシュラは涙を流して喜んでいた。いま、彼女の腹は無残に破られ、胎児は中から半ば引きずり出された状態で死んでいた。少し味見しただけだとでも言わんばかりに、頭と二の腕の一部が半端に齧りとられていた。
 瞬きする間に日が暮れた。集落は闇に包まれた。誰の声も届かなかった。ここはすでに常世である気がした。ウルは火を熾し、シラカバの松明を作った。闇に覆われた集落のなかを、血の痕跡をたどり進んだ。
 厩が全壊されていた。一頭の馬が生き残っている。揶揄を交えて「オロチョン」と名付けられた、貧相な馬だった。オロチョンは倒壊した厩の片隅で、じっと息を潜めて怯えている。手前にはもう一頭の、かつて馬だったもののバラバラの残骸、うすべったい、赤濡れた肉塊が落ちている。
 ウルは自身のチセにたどり着いてしまう。血の跡に導かれて。
 トウモロコシを干す東の窓が破られていた。窓枠に、長い頭髪が絡みついている。金属に覆われたカムイの冷えた手が、ウルの心臓を握り潰そうとしている。窓から屋内に松明をかざした。赤い線と黒い足跡が、部屋の隅の暗がりに消えていた。チセのなかに生き物の気配はなかった。ウルは猟銃を外壁に立て掛けて屋内に入った。
 隅の暗がりには誰の姿もなかった。ただ、いまもまだ渇ききっていない大量の血だまりが、ウルの足の裏で怖気を誘った。血だまりのなかにも長い毛髪が浮いていた。引っ張り上げると薄切りの頭皮の一部がついていた。
 血の跡は森に向かっていた。もはや自分の身を守る理由などもう何もない、とウルは思った。猟銃も家のそばに捨て置いたまま、無防備なまま森に潜った。
 大して進まぬうちに、木々の間で何かが煌めいた。跪いて確かめた。
 ちぎれた耳が落ちている。ニンカリの耳飾りがついたままになっていた。
 目線を森の奥に移動させた。トドマツの樹が生えている。その根元に、不自然に小枝が重ねられていた。
 これは、羆の習性によるものだとウルは知っていた。獲物をそうして地面に隠すのは、食料を保存するための羆の知恵だった。悪神ウェンカムイとなってもなお、カムイは羆としての本能に突き動かされているのだ。そのことをウルは、たまらなく恐怖に感じた。それは人と熊のこれまでの共生関係に対する、裏切りのように思えた。
 確かめたくはなかった。しかし確かめないわけにはいかない。重ねられた枝をどかしていった。
 黒い足袋を履いた脚が見えた。ぶどう色の脚絆は見慣れた模様だった。震える片腕で、重ねられた全部の枝を剥がした。
 ノンノの亡骸があった。片方の耳がない。左胸に大きな穴が空いている。顔には疵が一つもない。死してもなお誰よりも美しかった。表情は穏やかで、まるでただすやすやと眠っているだけのように見えた。
 突然地響きが起きた。それは地震にしてはあまりに長く、地面を揺らしつづけた。揺れは収まらず、急速に強くなっていった。
 もう何が起きても驚くまい。ノンノが噛んだ疵口が、また鋭く痛んだ。
 痛んだ、気がした。しかしそれは痛痒の幻なのだ。ノンノがウルの体に刻んだ刻印は、腕から根こそぎ、カムイに持っていかれてしまった。
 そのことをウルは、たまらなく惜しいと思った。どうしてもノンノを取り戻したかった。
 だから、ちぎれたノンノの耳に噛みついた。
 耳たぶを引きちぎるとニンカリが土の上に落ちた。ウルはそれを拾い上げて懐におさめた。それから耳を口に含み、軟骨をかみ砕き、肉を吸った。嚥下すると、ノンノの肉が喉を下る感触が、あまりに愛おしく、やりきれなくなった。
 強い衝動がウルを襲った。俺はこれからも生きねばならない。悪神となったカムイを鎮めないことには、死んだ者たちに、永劫の苦しみが繰り返されるだろう。死者の魂を解き放たなければならない。ならばこの俺は、呪われた体を引きずって、もう一度カムイを必ず殺そう。
 ウルはもときた道を走った。

        

 地響きは強まる一方だった。それはつまるところ、大地の意思とは別なところで駆動していた。それは山に棲むあらゆる種族が玉石混交となった獣の大群がいっせいに山を駆け下りてくる足音だ。群れを織りなすすべての獣が、重厚な鋼の鎧を身に纏っているために、大地を揺らす振動が、過剰に増幅しているのだ。
 金属の獣の群体を扇動するのは、青白い光を放ちながら空を流れる、奇妙な球形の飛行体だった。それは今朝、コタンからカムイの頭を攫っていったものだった。飛行体が姿が見せて後、夜の光度が上がった。獣たちの金属の体は、球形飛行体の光を反射して、青白い輝きを放った。
 飛行体を追いかけて傾斜を駆け下りる獣の群体は、さながら山を呑み込む大波だった。その背後には、純白の煙が、波飛沫のように立ちのぼった。それらがコタンをたちまち呑み込んだ。
 そうして全壊した集落の内から、一個の小さな塊が飛び出して津波の前方に悠々躍り出た。男は怯える痩せ馬を大声と手綱で叱咤し、奮い立たせた。「勇敢」を意味するオロチョンを駆り、ひた走る男の背で、恐れ多くも山神から剥奪した真っ白な毛皮が疾風になびいている。

 

       2

 球形飛行体は夜に輝く月に似た輪郭を持つこと、青白く発光していること、加えて「物体を構成する形質を金属に変えてしまう」特質を持つことから〈憑機〔つき〕〉と命名された。憑機はほぼ常時、日本の航空機では到達することのできない高高度を飛行しているため、機体細部をはっきりと捉えることは長らく困難だった。それをつい先日、一機の偵察機が、留萌に新たに発生した〈炉〉への「吐瀉」のために憑機が地上のきわまで下降してきたところをついに捕捉し、ようやっと当該飛行体の全容確認に至ったのだった。
 直径にして一九○米〔メートル〕超。日本が誇る最新鋭の超弩級戦艦「伊勢型戦艦」が一番艦、二番艦ともに全長二百米強であることと比べても、これは何ら遜色ない寸法である。加えて、この飛行体が航空機であることを考慮にいれぬわけにはいくまい。つまるところ、現在大日本帝国が有する科学知識では到底計り切れぬ卓越した技術力が、憑機を造っているということだ。
 樺太島はすでに、その全身に漆黒の金属鎧を纏っていた。人の手によらない複雑怪奇な建築物群が無数の排出口より噴出する真っ白な蒸気が島の全土を覆うなか、黒鉄と化した死の大地は、夜通し飴色の光を発しつづける不明文明の苗床となり果てた。
 北海道は留萌地区もまた、早くも禍々しい姿に変貌しつつあった。開発途上の機鋼未満都市においては、金属構造体を構成する細かな部分品同士が、互いに癒合し、同時に増殖しながら、天へと、同時に地下へと、自己拡張を繰り返していた。
 樺太・留萌両都市を構成する構造体は、その核に共通の規格を持っているようだった。二つの機鋼都市の中央には巨大な円形の大空洞がぽっかりと口を開けていた。政府はこれを暫定的に〈炉〉と呼称することを決定した。炉の巨大陥没穴の直径は憑機の直径よりもさらに広く、樺太のものでおおよそ二七〇米、留萌のそれも樺太に比べてわずかに小さいくらいでほとんど似たようなものだった。機鋼都市は炉を中心として無数の建築物を放射状に配列している点において、二つの都市に共通の意匠を施していた。
 突如出現した超文明を前に、両翼の全幅わずか十七米にも満たぬモ式四型偵察機はさながら、夏にうざったく飛び回る蚊虫のような存在だったが、いくら非力であろうと任務は任務なのだった。所沢を出立したモ式四型偵察機は、まずは樺太上空に到達してこれを上空より視察した。その後折り返し、新たに機鋼文明の苗床となった留萌にて、炉に覆い被さるようにしてゆっくりと下降する憑機の姿を近接距離から補足することに成功した。
 蒸気に覆われた不明瞭な視界のなか、憑機は炉の頭上わずか十米にも満たない距離間隔でぴたりと空中停止した。
 球体底部の弁が開いた。そして大量の微細な物質を、開口部から吐きだし始めた。
 吐き出されるそれは、生物の残骸だった。まだ肉と皮がついたものから、骨だけのもの、あるいはばらばらに散乱する臓物の類いまで、ありとあらゆる有機物構成物を、猛烈な勢いで、同時に長い時間をかけて憑機は吐瀉した。
 この吐瀉の勢いが、炉の周囲を覆う蒸気霧を霧散させた。
 不明瞭だった炉内の細部が浮かび上がった。
 穴の内部には乳色の糸膜が、蜘蛛の巣のように縦横無尽に張り巡らされていた。その糸膜の上に、石の裏にべったりとひっついた蟲のごとく、無数の微小生体が蠢き、待ち構えていた。
 姿形も蟲のそれに酷似している。それはたとえば蜘蛛に代表される節足動物によく似ている。蟲型労働者たちは誰も彼もが六本から十本程度の多脚の保有者だった。
 彼らは憑機が吐きだした死骸が落下途中に近くの糸膜と接触し、膜上に付着したのを見ると、ただちに近づいていってその上に群がった。そうして黒光りする関節肢を駆使し、凄腕の手術執刀医のように精密で素早い手つきで、亡骸を新たな存在へと造り替えた。
 憑機と、炉内部の蟲たちが、金属の獣を製造しているのだ。
 体内の亡骸をすべて吐き尽くした憑機が、再び上昇し炉を離れた。
 炉が、地を這うような重低音の唸りをあげ始めた。断続的な唸りに合わせて口腔の内壁が蠕動し、内壁に無数に穿たれた排気弁からは熱蒸気が大量に噴出した。その様は、まるで生きて呼吸し、意思を持って食物を嚥下する巨大生物だった。
 一度は霧散した蒸気霧がまた炉を覆い始めた。そして霧に包まれ深部の見えなくなった炉内から、蜜のような粘度を持った飴色の液体がせり上がってくる。
 界面張力が働き、炉開口部に小さな丘が隆起した。それからすぐさま、蜜が穴の縁からあふれ出した。
 流れ出た蜜の先端で、液体が粘度を強めた。蜜はねじれ、ちぎれ、自在に形を変えて、獣の姿を象る。こうして金属の獣が生まれる。
 獣は炉と自身をつなぐへその緒のような蜜の尾を引きずるようにして穴から離れ、最後には伸びきった蜜をひきちぎって外界に出奔した。
 金属と生命の融合体はこうして起ちあがる。このことが飴色の丘陵の外周、全方位で同時多発的に起きた。
 一挙に生まれ増えた獣たちは、姿形も大きさも様々だった。それらがひとかたまりの群体となって、たちまち疾走を開始した。
 モ式四型偵察機はそうした様子の一部始終を留萌で捉えた後、出奔した獣たちに並走して本州に舞い戻った。現在、北海道より海を渡って本州へと上陸した金属の獣たちは、直線距離で南北約百二十粁〔キロメートル〕にわたり伸びる細長い北上盆地を、破竹の勢いで南下していた。
 先頭に立ち大群を牽引するのは常に羆たちだった。体躯の大きさが他と比べて抜きんでていることに加え、個体の絶対数においても群れのなかで大きな割合を占めていた。このことから、獣たちの死の行軍は、熊達の名を冠して〈羆嵐〔くまあらし〕〉と呼ばれることとなった。
 羆嵐は進行ルートにいるあらゆる生き物を駆逐し、都市を蹂躙していく。憑機はあちらへふらふら、こちらへふらふらと、常に戯れのように不気味に飛び回っては、羆嵐が新たに屠った命の亡骸を残らず吸い上げながら、群れのあとに続いた。
 羆嵐が本州に上陸したその日の夕刻、国内第三の炉が発生した。最新の陥没穴は突如として盛岡市中心部に生じた。直径三○○米の地獄の大穴は、陥没した地面の上に建っていた数十軒の家屋を住民もろとも丸呑みにした。現在も盛岡周辺の多くの住民が、軍および警察の誘導に従い市外に避難中であり、あるいは未だ混乱のさなかで救難の手を待っていた。
 羆嵐の進行ルートの先に盛岡があることは自明のことと思われた。憑機は留萌の炉から東北侵攻の過程で吸い上げた生き物たちを吐きだすため、第三の炉を目指しているのだ。
 微塵の疲れも見せず、休みなく地上を走りつづける金属の獣たちから視線を空に戻し、パイロットは舌打ちをした。前方に巨大な積乱雲が生まれつつあった。時を置かず空気中に白いものがちらつき始めた。まだ燃料は三分の二以上残っていたが、これ以上の飛行は断念せざるをえまい。帰投する。

        

 昼に獲った狐の肉はマキリで細かく切り刻み、大鍋で煮込んだ。塩水にギョウジャニンニクを浸したキフと呼ばれるたれをつけて、口に放り込む。悪くない。多少生臭いが気にすることはない。どぶろくで一気に喉に流し込む。
「刺身〔タルク〕にしないでよかったですね」とウシクが言った。
 出立の際に持参した鮭の乾物はアザラシの油にひたして食う。夏に獲れたアザラシの油は味がいい。とはいえ食用には向かない冬のアザラシ油にも別の用途がある。だからロホたちは両方を用意している。夏の油はアザラシの胃袋で作った容器に、冬の油はトドの胃袋の容器にそれぞれ詰めてある。ロホたちの間では、そのように取り決めがなされている。
 冬のアザラシの油で作った灯火が、ロホたちの周囲に陣を組むように配置されていた。煌めく灯火が夜闇のなか、山中の景色を浮かび上がらせていた。白銀の世界が、しんと閉ざされていた。
 この岩手山は、征討隊キャラバン最後の露営地だった。征討隊はおおむね、東北を管轄する第八師団と、北海道から羆嵐を追ってきた第七師団によって構成されていたが、加えて有志者も募っており、軍所属ではない一般の人間もいくらか混ざっていた。
 ロホの一団もそんな有志征討隊の一つだった。「アザラシ団」は樺太南部から中部にかけての石炭・石油採掘業に幅をきかせるやり手の集団である。なかでも頭目のロホはニヴフ人でありながら日本語も達者で、樺太アイヌや内地から来た人間にも顔が利いた。
 ロホたちの日常は一瞬にして瓦解した。突然地面が陥没し、巨大な大穴が家と人を呑み込んだ。それから憑機がやってきた。炉から生まれた金属の体の獣たちが、島の人間を殺戮した。ロホたちは島の生き残りだった。なんとか樺太を逃げおおせ、いまここにいた。
「オートカは」ロホはウシクに聞いた。
「向こうの沢に行ってるみたいです」
「何してるんだ?」
 ウシクは少し目を伏せた。「またゾーヤさんを悼んでいるんでしょう」
 オートカは渓流の傍らに腰をおろしてじっと川面を見つめていた。アザラシ団のなかでもいっとう大きな図体の持ち主で、髭がほうぼうに伸びた毛むくじゃらの強面だったが、その背中がいまは縮こまって見えた。
 オートカ、とロホは声をかけた。背中がびくりと反応した。オートカの愛妻家ぶりは有名だったから、いまのこの情けない姿も理解できなくはなかった。
「ゾーヤのことは残念だった」とロホは言った。「納得いかねえよな。あんまりにも理不尽が過ぎるもんな。でもよ、一番つらいのは、ゾーヤだろうぜ」
 オートカは何も答えず、ロホを振り返りもしなかった。その背中が震えていた。オートカはいくつだったか、とロホは思った。確か、俺より五つも年上だった。三十四の男が、泣くのか。
「仇を討つんだ」とロホは言った。「それが唯一、俺たちにできることだ、そうだろ? 魂を鎮めてやるんだ」
 オートカはようやく立ち上がり、岸へ上ってきた。顔はうつむけ、表情は判然としなかった。泣いているのが恥ずかしくて、隠しているんだろう。
 ロホはオートカの肩を叩いた。「戻ってもう一杯やろうぜ」と言った。

 明日に控えた決戦に備え、ロホはベルダン銃の手入れを始めた。ロシア製のライフルはいつもかぶっている軍帽とともに、日露戦争を戦った内地の友人から譲り受けたものだった。手を動かしながら、親しい者の死について考えた。突然の死の災いはオートカだけに降りかかったことではない。みんな、肉親や同胞を羆嵐に奪われたのだ。ロホとて同じだった。両親と女が死んだ。女とは、来年の春に結婚する予定だった。
 復讐の炎が、アザラシ団の結束を強めていた。ロホはこの征討隊合流にあたっても、表向きの理由として「仇討ち」を掲げることで、仲間たちを束ねていた。
 しかし本当は、ロホは仇討ちなどどうでもよかった。それはロホにとって、ひどく無意味なことに思われた。遅かれ早かれ、人は死ぬ。それがロホの考えで、しかも今回のことは真っ当な死とはまた別種の、特別なことのように思えた。
 銃の手入れが済むと、海狸〔ビーバー〕の中外套の上に、さらにラッコの毛皮の外外套を羽織った。いったんは止んでいた雪が、また降り始めた。寒さは一段と厳しくなっていた。
 ロホは就寝用に確保しておいた洞に戻ると、ウマ・トンコリを手に取った。薬指のアラスカ金の大きな指輪で、馬尾の弦をビンと一度弾いた。何か一曲やろうかと思ったところで、ざわめきが耳に入った。それがロホを即刻、猥雑な現実のもとに引き戻した。
 アザラシ団の仲間を引き連れ、騒動の起きている露営地の中央部に向かった。
 師団の兵士どもが、皆一様に、なだらかに麓へつづく北の斜面を険しい顔で凝視している。
 ロホは彼らの視線の先を辿った。
 木のない、なめらかな切り通しの斜面に、征討隊とは異なる軽装の人物たちが、ずらりと並んで突っ立っていた。どいつもこいつも、凍傷になったって誰にも文句を言えないような格好だった。
 そこで何をしている、と一人の将兵が声を掛けた。
 誰も、返答を返さなかった。皆、その場を動こうとしなかった。そのなかでたった一人だけが、ゆっくり歩き出した。言葉はやはりなく、無言でこちらへ上がってきた。
 雪が明るい。近づく者の姿が、だんだん鮮明になった。
 おお、とオートカが感嘆の声をあげた。ロホはオートカを見た。オートカは髭面をくしゃくしゃにして、今度は誰の視線もお構いなしにしくしく泣いていた。
 現れたのは死んだはずのゾーヤだった。
「よせ」とロホは反射的に言った。「オートカ!」
 オートカには届かない。その姿は第七・第八混成師団の兵の波に呑まれて見えなくなった。それからすぐに、征討隊の群れの先頭に、たった一人躍り出た。
「ゾーヤ」震える声でオートカは言った。「夢じゃないよな? ああ、お前は生きてる、くそったれ、あれは嘘だったんだ!」
 ゾーヤはその言葉を肯定するように微笑んだ。
 オートカは感極まってゾーヤに熱い抱擁を捧げた。
 男の大きな背中に、か細い光がきらりと、縦一文字に走った。
 次の瞬間、オートカの体は頭から股間まで真っ二つに裂けた。鮮血を撒き散らして、肉の断面を上向きにさらした。二つに分かれた肉体は、地面を真紅に染めながらなだらかな雪の斜面を滑り降りてゾーヤの両側を少し行きすぎ、すぐに止まった。
 ウシクが、オートカの名を叫んだ。
「羆嵐だ」とロホは静かに独りごちた。「予想より早く現れやがった」
 師団の兵たちがいっせいに銃を構えた。将兵の一人が怒鳴った。動くな、それ以上近づくな、発砲するぞ。その言葉はひどく滑稽に響いた。ゾーヤも、その背後にいる人々も、オートカのことがあって以降、少しだってその場を動いていないのだ。
 銃声。
 すぐ隣から聞こえた。見ればウシクの村田銃が硝煙をあげていた。
 ウシクは悔しさを顔ににじませて舌打ちした。放った弾丸はゾーヤには当たらず、後方に立っていた長身の痩せた男の胸部を撃ち抜いた。男が胸を押さえ、呻き声をあげた。このことを機に、切り通しの者たちがようやく動きを見せた。周囲の者達四、五人が腰を屈め、両手を差し出して、倒れた男を支えた。
 そしてこの身元不明の人物たちは、一つに融合した。ロホは目を疑ったが、それは確かに起こった。まず、倒れた一つの体を支えるそれぞれの腕の接触箇所が癒合した。後、癒合部に近い部位から順に、皮膚をずるりと溶解させて輪郭の境界をかき消していった。完全に一つになると、敷布が床に落ちるようにゆっくりと、地面に広がった。
 こうして飴色の液体だまりが生まれた。たまりは、蜜のような粘度を持っていた。
 誰も何も言葉を発しなかった。目の前で立て続けに起きた現実はあまりに常軌を逸していた。
 そしてそれは先触れに過ぎないのだった。
 つづけざまに、水平にのっぺりと張った広大な飴色の水面が、さらに下方から登ってきた。その水位はみるみるうちに上昇し、人の融合により生まれた液体だまりをその体内に呑み込み、ゾーヤとオートカも呑み込んだ。
 水位は陣営の最前列に立つ者たちの足下にまで達した。その水の先端が、ぱきぱきと硬質な音をたてて奇妙に蠢し、固形化していった。そうして象られた獣たちが、命を得たように動き出し、水から分離して飛び出し、前衛の者たちに襲いかかった。逃げる者の背中を獣たちは捕らえ、鋭い爪で肌を裂き、鋭い牙で喰らいついた。あるいは絶命し、あるいは生きたまま、襲われた者たちは飴色の水に呑み込まれて消えた。
 将兵のかけ声に合わせ、残りの兵達が構えた三八式歩兵銃がいっせいに火を噴いた。しかし手応えはまったく芳しくなかった。銃弾を撃ち込まれても獣たちは、元の液状に形質を戻し、背面の蜜の海に還るだけだった。半狂乱になった者たちが、せりあがってくる水面に向けて銃弾の雨を降らせたが、弾は粘性の高い液体のなかにぬるりと埋まって消えるだけだった。
「撤退! 撤退だ!」
 賢明な判断だとロホは思った。
 プールの表面からは白い蒸気が発生していた。蒸気は急速に蔓延し、露営地周囲一帯の視界を奪い去った。こんな状況でまともに応戦できるわけがなかった。
 混成師団は瓦解した。限定された狭視野のなかで、逃げる方角すら統一できず、指揮系統は完全に失われ、兵卒は四散した。
 オートカを失い三人になったアザラシ団一行は、あらかじめ目印として設置しておいたアザラシ油の灯火をたどり、馬のところへ帰った。木にくくりつけておいた手綱をはずし、橇に乗りこんだ。
 二頭の青毛のペルシュロン馬が、馬橇を引いて雪山を疾駆する。
「ロホ」呼吸を荒くしてウシクが言った。「オートカが! これは一体、何が。僕には、何が何だか――」
「連中の力を見誤ったってことさ」落ち着いた口調でロホは答えた。「やっこさん、こっちの予測よりも早くにご到着あそばれたってわけだ」
「羆嵐? でも」
「最初のあれなら、人の羆嵐だろう」とロホは言った。「なあに、妙なことなんて何もない。動物たちが新しい体を与えられてやたらと黄泉がえってるなかで、人だけがおっ死んだままだとしたら、むしろそっちの方が不思議ってもんだぜ」
 ウシクに説明しながら、ロホは口元がほころぶのを抑えることができなかった。いいねえ、それでこそ、はるばる本土までやって来た甲斐があるってもんだ。
 金属化による黄泉がえりは、人にも適応される。ロホはあらかじめたてていた自分の推測が当たったことに、ひそかに心躍らせていた。
 ロホは、仇討ちなどどうでもいい。懐の双眼鏡を取り出すと、橇の縁に背中を預け、真っ黒の夜空に憑機を探した。

        

 もう俺はこのまま、首を刎ねられ、この場で即座に絶命してしまっていい。アトイはそう思った。
 実際、この数日はもう、生きながらにして死んでいるも同然だったのだ。毎夜、眠りにつくたびに死者のささやきが聞こえた。裏切り者のアトイ、我が身かわいさに仲間を見捨てた。臆病者のアトイ、チセの床下に隠れ、黄泉がえったカムイがコタンを破壊するのをただ震えてやり過ごした。
 あの日の自分がどうしても許せなかった。我が身を恥じ、一度は自死も考えたが、考え直し、贖罪を決めた。恥を忍んで羆嵐征討部隊に合流した。
 強い気持ちのもとに、道を決めたとは言いがたかった。自死するだけの度胸もなく、俺はもしかすると、生きながらえる理由を無理にでっち上げただけなのではないかと、何度も自問した。
 これは、そんなアトイのもとに降りた、最後の希望のように思えた。溶けた雪が脚絆に染みきって膝を刺し、その冷たさはもはや痛苦とさえ感じられたが、それでもアトイは、彼女を前にしてひざまずくのをやめることはできなかった。
 いっそ、痛みすらも快楽に感じられた。いまのアトイにとって彼女はいわば、罪を洗う断罪の女神だった。
 赦してあげる、と彼女は言った。全部赦してあげる。そう言ったのだ。
「顔をあげて」彼女は再びアトイに声をかけた。「私を見て」
 アトイは言うとおりにした。周囲に蔓延する霧が、このいまの光景を夢幻のように錯覚させていた。
 ノンノは口元に微笑を浮かべて、アトイを見下ろしていた。
「本当に赦してくれるのか」アトイは問うた。
「ええ、本当」彼女は答えた。
「それは――」最も聞きたいことを、アトイは聞きあぐねた。
「あの日のことも」アトイの表情を読み取って、彼女は答えた。「もういいの」
 アトイを猛烈な歓喜の渦が襲った。
 ノンノはアトイの耳元に唇を近づけた。囁いた。「そんなに、私がほしかったの?」
 アトイの首筋にぞわりと官能の怖気が走った。何も答えられず、ただ恍惚に目を細めた。
「あの日あなたは、私を厩に連れ込んで無理矢理押し倒そうとした」
 アトイの首筋の疵はそのとき、抵抗したノンノがつけたものだ。三本のひっかき傷はいまもみみず腫れとなって残っている。アトイをもう一度ノンノに引き合わせてくれた、愛しい罪の烙印。
「大丈夫だよ」ノンノは言った。「いまの私には何の葛藤もないから」
 ノンノは、アトイの顎を指先で軽く持ち上げた。
「アトイも、私のところに来る?」
 されるがままになりながら、アトイは言葉なく、こくりとうなずいた。知らず、瞳が潤んだ。
「とても従順」
「え?」
「感情が生殖の欲望に紐付いているときに、あなたたちはより容易く堕ちるみたい」
「え?」
 ノンノの指先からメスに似た三本の刃が飛び出した。切っ先をアトイの首にあてがった。甘く鋭い痛み。新しい首筋の疵が、血の涙をこぼした。
 すでに蔓延しはじめた霧のなかで、ノンノとアトイの周辺だけが気流を変えた。蒸気中に混ざった超微細の翅虫型労働者が、いっせいに疵口に群がりはじめた。蟲たちにプログラムされた存在意義は、この星の生物を造り替えることだった。
 ふいに、轟音がとどろき、同時に空気が震動した。その瞬間、全身に満ちていたノンノの力がふっと立ち消え、拘束されていたアトイもろとも雪の上に崩れ落ちた。群がる翅蟲たちが、危険を察知して飛散した。
 ノンノの片方の頬から首にかけてが、丸い形にこそげていた。スプーンでくりぬいたようなその断面からは、アトイにはまったく理解不能の、金属製の発条や管が露出していた。黒っぽく粘性の高い液体がだらだらとしたたり落ち、真っ白な熱い煙が立ち上っていた。
 ノンノはまったく、平気な顔をしていた。その顔には何の感情も浮かんでいなかった。体が唐突に、ずるりと落ちた。倒れたのではなかった。肉を削いだ獣の毛皮が畳まれるように、体の凹凸を失って液状化し、粘度の高い飴色のたまりに姿を変えたのだ。
 液状化したノンノはまだ意思を宿しているように雪上をすべり、霧の奥に消えた。
 別の気配が残った。獣の気配だ。
 アトイはそちらを見た。霧のなかに何かが立っていた。
 最初は小さな熊かと思われたが、そうではないとすぐに理解した。大きな毛皮が顔まで覆っているから、見間違えたのだ。
「あんたか」アトイは憎悪を込めて言った。「実の妹だろう?」
「そうだ」と男は言った。「だが、ウェンカムイの呪いをもらってる。やるべきことは、呪いから解き放つことだ」
 天塩山麓一帯で最高の腕を持つ熊撃ちが、真っ白なカムイの毛皮を着て立っていた。

        

 羆嵐の水位上昇は止まらない。ペルシュロン馬の馬橇に猛然と差し迫ると、その水端をくちくちとねじり、二匹の狼を生んだ。狼は高く跳躍し、橇に飛び込んできた。
 すでに照準は合っている。背中合わせに構えたウシクとロホ二人の銃口が、いっせいに火を噴いた。
 ウシクが歓声をあげたが、ロホは舌打ちをした。
 血飛沫があがりロホとウシクの全身を汚した。前方で御者役のアグミナが、三匹目に喉元を噛みちぎられていた。狼たちは魂の依り代を鋼の肉体に移しても、集団で狩りをする習性は残しているのだ。
 絶命したアグミナが滑落すると、馬たちは恐慌をきたしていなないた。間を置かず、新手の狼が片方の馬の首の背に喰らいついた。噛まれた馬は悲痛な雄叫びをあげ、そのまま雪上に転倒した。もう一方の馬が再度いななき、後ろ肢で大地を踏みつけて、前肢を天高く掲げた。
 馬橇が激しく錐もみした。
 ウシクがロホを呼んだ。しかし遅かった。ロホが振り返ったときにはもう間近に、あんぐりと開かれた桃色の口内にむき出しの牙の並びが見えた。獣臭い吐息さえかぎ取れるようだった。
 しかし牙が届くよりも前に、また別の力がロホを後方へ引っ張った。ウシクがロホを押しのけて、狼の牙を受ける身代わりになった。ウシクは腹を喰い破られながらも狼の額に弾を命中させた。狼は啼き、橇上から滑落した。
「生きてください」息も絶え絶えにウシクは言った。若きニヴフの戦士。呼吸は荒く、顔面は蒼白だった。まもなく死ぬだろう。
「わりいな」とロホは言った。「新しい体を貰うことができたら、また会いに来い」
 すぐ後方で飴色の水面がしきりにぐにゃぐにゃと胎動した。
 これまでに屠った数よりも多くの狼たちが現れ、ロホを襲撃する。
 ロホは橇を捨て、生き残りの馬にまたがった。マキリで橇綱を切った。他をうち捨てて馬と我が身だけとなり走り出した。荷重から解き放たれた駿馬は、雪煙をまき散らしながら、狼たちの追随をみるみる引き離した。

        

「生きていてよかった」とウルは言った。
「僕に話しかけるな」とアトイは言った。
 これまでアトイはマタギとしてのウルの実力に心酔し、ウルを慕ってきた。こんな口をきくのは、初めてのことだった。
「俺が何をした」静かな口調のままでウルは訊ねた。
「偉大なカムイを殺し、保たれていた均衡を破壊した。お前さえいなければこんなことにはならなかった」
 ウルはそれ以上何も言わなかった。アトイはウルを睨みつける瞳をほんの少し泳がせると、これが自身の気持ちの表明であると釘を刺すように再度、上目遣いにウルを睨み、それから完全に視線を外した。そして訊ねた。「どうしてここにいる」
「征討隊に志願するつもりだったんだが、合流に遅れた」
「何のために」
「そいつはこっちの台詞さ」とウルは答えた。
 アトイは無言のまま目を伏せた。決して赦されぬことの贖罪のために、ここに来たつもりだった。なのに、俺は何をしてるんだ? 自己嫌悪の念が、早くもわき上がってきた。これではまるで八つ当たりするただの子供じゃないか。
「俺がここにいるのは」ウルは言った。「俺が、カムイを殺した者だからだ」
 アトイは今日までこの男の背中をずっと見つめてきたつもりだった。その背中が、遠い。それも、いまになって遠ざかったのではなかった。そうではなく、あまりにも自分が未熟にすぎて、距離をつかむことすらこれまでままならなかったのだ。
「オロチョンの手綱を向こうの木に括り付けてある」ウルはそう言って後方を指し示した。「使っていい」
「あんたの助けは要らない」
「オロチョンは生まれ変わった。俺が保証する」
「馬の心配などしていない!」
 肩を震わせてアトイは泣いた。ウルはその間一度も声を掛けなかったし、肩を叩いたり、慰めるようなことは何一つしなかった。ウルは、アトイが男になりたいともがいていることを知っていた。
「自分が情けない」とアトイは言った。
「恥や罪は、忘れようとするなよ」とウルは言った。「そいつを引きずって、生きていけ。そうすりゃちっとは、まともになれる」
 アトイは消えた。雪上を掛ける蹄の音が、近くでこだまし、すぐに聞こえなくなった。
 そして静かになった。
「待ってたぜ」とウルは言った。
 全身に甲冑を纏った赤隻眼のウェンカムイが、ウルの前に立っている。

        

 駿馬を駆り、随分と登った。ざっと六合目から七合目あたりだろうと、ロホは見当をつけた。高度が上がり、生態系も変わった。木々は極端に少なくなり、人も獣も踏んでいないのっぺりした雪の敷布が一面を覆った。羆嵐が噴き出す蒸気もまだここまでは至っておらず、視界は驚くほど開けている。
 何の気配もなかった。一切の物音もなかった。ただ何の気なしに、振り返ると、そこに女が立っていた。
 黒髪は肩の高さに切り揃えられている。目元はややつり上がり、鼻はやや大きくて丸い。頑丈だが抱き心地はいまいちな寸胴の体。
 お世辞にも美しい女ではなかった。あるいは、内地の炭鉱採掘関係者のなかには、ロホに自身の娘との縁談の話を持ってくる者もいた。それでもロホはこの樺太女を選んだ。女は賢く、愛情深かった。
 女は何も言わなかった。オートカの最期が思い出された。ロホの口元が、ふいに綻んだ。
「目に見えるものが」ロホは言った。「すべて真実とは限らねえよな」
 その言葉は疑問の形で発されたが、目の前の人物に向けられたものではなかった。ロホの理念は固まって久しく、これを逸脱するつもりは微塵もない。
 いまさら、葛藤など。
 何の躊躇いもなく、ロホはライフルを構えた。そして何の躊躇なく引き金を引いた。
 黄泉がえりは再び死んだ。
 事が済むと双眼鏡を取り出した。つい数ヶ月前に小噴火を起こしたばかりの岩手山山頂では、現在もわずかに噴煙があがっていた。頂を眺め、それからまた、空に憑機を探した。機影はいまも見当たらなかった。
 異変に気づいたのは皮肉なことに、双眼鏡をはずしたときだった。平野を水底に鎮め、山を呑もうとしていた獣たちのプールが、いまなぜか水位を下げ、寄せた波が返るように、後退していた。
 それから、地響きが起きた。
 次第にそれは強まった。再び北の平野部を見やった。
 先刻までそこにあったなめらかな山の稜線を隠すようにして、巨大な壁がそこに立っていた。
 ロホは目を擦った。夢を見ていると思ったのだ。現実だった。
 壁は動いていた。ものすごい勢いで、こちらの方角に向かってきた。岩手山の山裾から中腹までを、透過するように易々と、その腹の内に呑み込んだ。
 ロホは壁を見上げた。七合目のロホが、見上げなければならない高さを持っていた。それははるかな山頂にまで昏い影を落としていた。山全体の、夜の濃度を引き上げていた。
 雪の明るみのなかで巨壁の質感が見えた。それは液状の物質で構成されていた。
 それは、飴色の大波濤だった。

        

 かつて羆はウルの心臓を握りつぶし、片腕を奪った。その存在と再び向き合いながら、ウルの心はいま、冬の湖に張った一面の氷のようにどこまでも穏やかだった。
 ちがう、とウルは自身に言い聞かせた。いま俺が感じているのは、恐怖であっても畏怖ではない。かつての美しい白毛はもうまるで見る影もないからだ。赤く燃える隻眼は、とっくに光を失ってしまっている。かつて天塩山麓一帯に君臨したもの、羆のなかの羆、王の中の王。しかし尊厳は、剥奪されて久しい。
 羆は口腔から、妙に白すぎる煙を吐き出した。
 何をやっても惨めに映った。いまは悪神となり下がった、惨めで悲しいウェンカムイ。
「いまとなれば」ウルは羆に語りかける。「俺も他人のこと、言っちゃあいられないがな」
 そして皮肉に笑いかけた。届かない。当たり前だ。人と羆のあいだにあった調和は、あの日から壊れたままだ。
 ここで終わりにしよう、とウルは思った。だからウルは、身に纏っていた毛皮を剝ぎ取った。そして醜く変わり果てた自身の姿態を、かつての偉大な王のもとにさらけ出した。
 コタンが消滅したあの忌まわしい日、ノンノの噛んだ指の疵から、カムイの熊爪によって切断された肩の断面から、蟲たちはウルの体内に入り込んだ。以来彼らは、今日まで休まず働きつづけてきた。ウルの新たな右腕は、体内の蟲たちが造りあげたものだった。
 それは、ただ一個の目的の他には何の用途もこなすことのかなわぬ、鋼により織られた死だった。何よりも純粋な破壊兵器だった。破滅的な威力を持つ一個の砲へと変わり果てたその腕を、ウルは羆に向けて突き出した。
 先端の開口部に覗くのは仄暗い空洞。そしてにわかに、内壁が橙色に染まった。
 金属の義腕が超高温を帯びた。全身の血液が煮えたぎる。
「羆よ、今度こそ別れだ」
 ぶっ放す。
 弾道は見えない。なぜなら、物質としての弾は存在しないからだ。射出されたのは超高密に圧縮された蒸気塊。圧縮蒸気は大気を激しく震撼させ、羆の鋼鉄の甲冑を粉砕し、守られた内側の太首までも一撃でねじ切った。
 それでも羆は吠えた。生首はなおも意識を保ち、肉食獣本来の獰猛さを取り戻してウルに襲いかかった。
 ウルはかっと目を見開いた。そして贄を捧げるように、金剛腕を差し出した。
 腕を犠牲に他を守る苦肉の策だった。
 望みは挫かれる。羆はウルの見立て通り、確かに義腕に喰らいついたが、巨大すぎる口腔はウルの片腕だけでは飽き足らず、ウルの胴体までも、その上顎と下顎のあいだにまるごと挟み込んだ。
 胴体が砕け、金剛腕がひしゃげた。全身がばらばらになるような激痛のなか、ウルは「眠れ」とつぶやいた。そして羆の喉元に、だめ押しの一発を見舞った。
 今度こそ羆は死んだ。重圧縮蒸気塊は羆の口腔の内側で破裂し、羆の頭部を、金剛腕自体も巻き込んで、空から落ちる雪の結晶よりも微細な粒子へと分解した。
 ウルの胴体が雪の上に突き刺さった。残ったのは頭部と胸の一部、それに左腕だけだった。
 右腕と胴の断面からその周囲にかけてが、びりびりと麻痺し、ウルの意思とは無関係に微細に震えた。蟲たちが全員総出で宿主の肉体を修復しているのだ。その活動は、多少はウルの延命時間を延ばすかもしれないが、まあ、それだけのことだろう。
 ようやくカムイは死を取り戻した。そして俺も、すぐに死ぬだろう。
 視界が急速に不明をきわめた。雪が吹雪に変わったのだった。風が渦を巻いて唸りをあげ、雪をでたらめに巻き上げた。マタギの言い伝えでは、熊を殺すと空が荒れるという。そのことがいま、起きていた。
 視界すべてを覆い尽くす吹雪の奥から、まっすぐ垂直にそそり立つ飴色の壁が現れる。
 壁はその内側に、無数の人や獣の肉体を取り込んでいるように見える。
 それは天を衝きながら押し寄せる大波濤だった。
 波濤が山を呑みにくる。巨壁のような波柱がお辞儀をするようにぐにゃりと歪曲し、周囲の雪原の陰りを濃くした。波頭が落ちてくる。
 そして山の地表を打ちつける、その直前で、波濤は凍りついたようにぴたりと動きを止めた。

 

      

 私はあなたたちにとても強く興味を引かれた。
 あなたたちはこの星でもっとも高い知性を持っているのに、どういうわけか、たかが「容器」の交換に強く抵抗した。私は、あなたたちの心理の動きを観察しながら、どのようにアプローチすればあなたたちが抵抗なくこの移行を円滑に受け入れるかを、考え、模索し、そして試行してきた。
 多くの時間を費やした。私はもう見極めなければならない。

        

 瓦解寸前で凍結した波濤から、視線を至近に戻した。正面にノンノが立っていた。その瞳が、惨めな姿になり果てたウルを無感動に見下ろしていた。
 疑いもなく、それはノンノだった。にも拘わらず、再会の喜びよりもこころの疼きが勝った。
 ノンノのなかに、何か別のものがいるような気がした。
「どうして」と、そのノンノの姿をしたものは問うた。「代わりに何を差し出せと言っているわけでもない。私はただあなたたちに、あなたたちの持たない新しい力を受け取ってほしいだけ。どうしてあなたは、それを拒むの。
 あなたも見たはず。獣たちが私を慕い、私とともにいることを。
 知ったはず。生まれたての子鹿が親に教えられずとも大地を走り回る方法を知っているように、金剛腕が生身の腕にとって代わったときに、あなたの体の一部となった圧縮蒸気砲のすばらしい力と、力を使いこなすための知識を。
 なのにどうして。どうしてあなたはまだ、新しい体にその命を移し替えることを、受け容れようとしないの」
 ウルは何も答えなかった。ただじっと、目の前に立つ者のことを見つめ、見極めようとした。
「あなたは羆に、右腕を差し出しましたね。古い、生身の左腕じゃなく、新しい強い、右腕」
「胴体もまとめて持って行かれたのは計算外だった」とウルは言った。
「質問に答えてください」ひどく単調な調子でノンノは言った。
「羆と人間は古くから共に生きてきた」とウルは言った。「あんたらのやったことは、その調和の破壊だよ」
 〈彼〉には理解できなかった。
 ウルはつづけた。「俺は、悪神になっちまったカムイをもう一度殺して呪いから解放した。カムイは俺の腕を噛み切って、俺を呪いから解放してくれた。そうやって俺とカムイは、壊れちまった関係を修復したのさ」
 〈彼〉は、無償の愛を抱く文明の贈与者だった。これまで彼は、文明というのは未発達の人類にとって、拒否の理由など何一つない優れた贈り物だと考えて疑わなかった。
「それが調和ということだ。それが、共生ということだ。俺はそうやって生きてきた。カムイを殺し、恩恵を受け取り、恵みに感謝し、ときには恩を返した。この生き方を、いまになって変えるつもりはないさ」
 〈彼〉のなかに初めて、「力」への疑念が生まれた。
 女の、目の光が変わった。
 ふっと、懐かしい光に転じた。
 ノンノが来た、とウルは思った。
「私は、これからも一緒に生きていきたい」とノンノは言った。「兄さんと、ずっと一緒に暮らしたい」
「どうすりゃいい」とウルは問うた。
「簡単なことです」とノンノは答えた。「兄さんも新しい体をもらえばいい。なんにも怖がることなんてないの。ただ身を任せるだけ、私たちよりも大きなものに。そうすれば、心穏やかにずっと、幸福に生きていけるんです」
 ウルはこれに、何の返答も返さなかった。
 血の繋がった兄妹だ。早くに両親は死に、誰よりも長い時間を共に過ごしてきた。言葉などなくとも、ウルの拒否の意は、ノンノにちゃんと伝わった。
「私は兄さんを愛しています」とノンノは言った。そして綺麗に笑った。「ここはとても清潔な場所よ。明かりの暖かな場所。兄さんもここに来て」
 ノンノはウルに手を差し伸べた。
 ウルは差しだされた手のひらに、自分の手を重ねた。ノンノはウルの手を握ろうとしたが、それよりも早くに、ウルはするりと手を解いた。
 ノンノは瞳を大きく見開いた。
 青白い手のひらに、ニンカリが残った。
 ノンノは少しのあいだ、何も言わずにその耳飾りをじっと見つめていた。
「うれしいんですよ?」とノンノは言った。「本当に、とても」
 涙でも、流せればいいのに。ノンノはそうつぶやいた。
 ノンノのこころはいま、清潔で、明かりの暖かな場所にある。
 あの日ノンノに噛まれた指先の疵が、また痛む気がした。しかしそれは、実際にはとうになくしたものだ。痛みは、過ぎ去ったものの幻だった。
「別れに涙は必要ねえさ」とウルは言った。「からっといこうや」
 それがウルの答えだ。
 新しい、鋼の体。そいつを手に入れれば生き長らえることができるだろう。しかしウルは山の者だ。魂はカムイと共にある。
「少し眠る」そう言ってウルは目を閉じた。
 以前、イアンパヌが言っていた。肉と毛皮、骨を脱ぎ捨てた獣は、殺されたと見えるのは外見だけのことで、実際にはその魂はもとの住処に帰るだけなんだと。
 人も同じなんだろう。肉体が死ぬと魂は元居た神の住処に還る。ウルはそこへゆく。
 ウルが事切れると同時に、停止していた獣たちの波濤が、再び時を刻み始めた。
 あるいはそれは、心変わりをして時を遡りはじめたようにも見えた。
 波濤は海嘯に転じた。地表へと接触寸前だった巨大な湾曲壁は、ずず、と音を立て、その全体を震わせながら丸めた背中を起こしてゆき、再びまっすぐに屹立した。そしてそのまま動きを止めることなく、一気に反対側に反り返った。
 大波濤が反対の山腹に思い切り腹を打ちつけて砕けると、粉々に飛散した波飛沫の、その微細な粒の一つ一つが、再び無数の個体に姿を戻し、幾万もの獣の大群となった。獣たちは大地を踏み、四肢の筋肉を隆々とたくましく膨らませて、山を駆け下りていった。
 獣たちの大海嘯を最後に、羆嵐は完全に消滅した。

        

 降り積もる雪によってこの世のすべてに蓋をしてしまいそうな、くそったれな吹雪が止んだ。
 代わりに空に、まん丸の氷の玉の月が出た。世界が明るんだ。明るんだ世界でロホは見た。ミズナラの木と白い雪の峰々に囲まれた山の上の平らに、精悍な顔つきをした男がちょこんとうずくまっていた。
 かつては雪のような白毛だったのだろう。いまは黄土色に薄汚れてしまった毛皮は、それでもなお美しい。胸間から背中にかけて、金毛に彩られた弓状の大白斑が燃えていた。
 白羆の毛皮をその身に纏って、男は眠るように死んでいた。
 男の周囲を、山の動物たちが静かに取り囲んでいた。
 ロホは何も言わずにその風景を見守りつづけた。
 彼ら動物たちは、黙したまま化石のように動かなかった。
 ロホは彼らが死んでいるのかと思うほどだった。
 ロホはまるで時が止まってしまったのかと思うほどだった。
 それほどまでに、静かな祭儀だった。
 これは祈りだ。イオマンテだ。
 これは獣たちによる、あの場所で死んでしまった人間の男のためのイオマンテなのだ。
 ロホは毛皮の深靴のかかとを滑らせて雪の傾斜を降りた。そして何も言わずに祭儀の輪のなかに加わった。両隣のアライグマとイタチが、ロホのために無言で場所を空けてくれた。どちらの動物も、眩しい雪色をあしらった、金属の体を持っていた。
 この輪を囲む獣たち皆が、そうだった。誰もが全身か、あるいは体の一部に、金属の意匠を持っていた。
 そんなことを気にかけるものはここにはいないのだ。種族も血も肉体の優劣も、ここでは何も関係がなかった。ここには完成された調和があった。それはロホの憧れたものだった。
 青白い光が、イオマンテの輪をまぶしく照らし出した。まん丸の、氷の月。
「待ちかねたぜ」とロホは呟いた。
 上空の氷の玉が、ゆっくりと降下を開始した。光り輝く飛行体、彼こそは、すべての金剛生命たちの母なのだった。
「さあ、連れてってくれよ」とロホは言った。
 俯いたウルの亡骸、その精悍な横顔を、憑機の光が洗った。化石のように動かない蒼い獣たちの輪の中で、熊撃ちはその顔に、穏やかな笑みさえ浮かべていた。
 後日、日本と、旧東北地方以北に新たに生まれた機鋼都市国家との国境を取り決める折には、この熊撃ちの場所が基準点とされた。

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