昨日までのこと
イジドラの谷の戦記
ハティウムは長く星を眺めた。このイジドラの谷の戦いよりもずっと前から。ただでさえ天に届きそうな体でつま先を伸ばし、星をつかもうかという姿勢だった。テランである我々からその表情をうかがい知ることはできない。離れた恋人を思う少女のようであったかもしれないし、孤独に倦んだ寡婦のようだったかもしれない。いずれにせよ、ハティウムは星を眺め、何かを待っていた。
夜が深まり、朝焼けを待つ間、私たちは武装を解かずに鬨の声を待った。ハティウムは一向に声を上げる気配がない。表情はうかがい知れず、来るあてもない同胞が流れ星となって落ちるのを待っているようだった。槍を握る手が汗でおぼつかず、緊張のあまり震えるテランもいた。生まれた頃からイジドラを攻略すべく訓練を積んだ戦士こそ我々だったのだが、一世一代の大戦闘で緊張しないわけにはいかなかった。
夜が一層深まり、谷を覆う森が呼吸さえやめた頃、ハティウムがゆっくりを前を見た。その顔は叡智をまとっており、その冷たさがおそらくは正しい勝利をもたらすだろうことを確信させた。我々の胸は勝利に高鳴った。
——一団、構え。
低い声でハティウムが言うと、我々は盾兵を前方に陣取った。騎兵は槍を構え、クマネズミを諌めている。
——進め。
ハティウムの号令に従い、先鋒は密集陣形のまま谷を下りていった。遊撃の騎鼠隊がその脇から続く。この戦の趨勢は朝日が登る頃には決まっているだろう。その頃にはレギンの集落殲滅に成功しているはずだ。私たち探索隊は、その任務であるレギンの捕獲を行うべく、本隊の前進に先立って谷を谷を下りた。ミズナラの茂るイジドラの谷は夜になると月明かりもなく暗い。松明の灯だけが頼りだった。駆け下りるクマネズミの足音と鐙のなる音が夜の闇に吸い込まれて行く。
ほどなくして、谷底に火の手が上がるのを認めた。レギンの集落で戦闘が始まったのだ。これから数刻のうちに殲滅は終えるだろう。敵戦力に与える打撃は計り知れない。我々は彼らのうち、背が高く若い男女をそれぞれ六組ずつ捕えねばならない。それがハティウムの命令だ。友軍が殺しつくしてしまう前に、生きのいいレギンをとらえねばならない。
集落の入り口にたどり着くと、すでに石積みの家から火の手が上がっていた。苔むした路傍にはレギンの死体がすでに転がっている。ある者は槍で貫かれて仰向けになり、ある者は背に弓を突き立てたまま絶命していた。肉の焼ける匂いが立ち込めていたので、わずかに胸がむかついたが、すぐに鼻は利かなくなった。レギンの死に同情はない。黒い肌に太い体躯で、毛髪はほとんどない。ハティウムのいうように我らテランと同族であるとは、とても思えなかった。
家々を駆け抜け、集落の中ほどまで到達すると、そこには石造りの大聖堂があった。すでにテランの歩兵が周りを取り囲んでいた。私は探索隊の長として、彼らの許可を取り、中に入った。レギンの聖堂には彼らの神が祀られている。石像の下、礼拝堂には数百というレギン達が身を寄せ合っていた。ある者は泣き、ある者は怒りに満ちた目を私に向けていた。どの視線も私の心を何一つ動かさなかった。ハティウムから言われていたのは、もっとも背が高く賢そうなつがいということだった。背の高さは見ればわかるが、賢さまではわからなかった。私は彼らの中で少しでも顔がテランに近い者を選んだ。鼻が高く、目の窪んでおらず、髪が赤い者たちだ。
捕縛した六組のレギンをクマネズミに縛り付けると、探索隊は本体の後方に控えるハティウムの元に向かった。ハティウムは大岩に腰掛け、私たちを認めると笑顔を浮かべた。
ハティウムは我々の成功を労うと、木製の檻を指し、レギン達を移すよう命じた。我々はクマネズミからレギンを下ろした。そのとき、兵の一人が女のレギンを小突いた。
——獣みたいなことはやめなさい。
ハティウムは厳粛な低い声で叫んだ。その声には怒りが紛れ込んでいた。レギンを小突いた兵は驚き、口答えをしたが、テランの身の丈の三倍はあろう高さから睨みつけられるとすぐに怯えて縮こまった。続いてハティウムがドンと足を鳴らすと、すぐに丁重な仕草で背を逸らし敬服した。ハティウムはこのようにして慈愛と威厳を同時に見せることがあり、その多くはレギンのような夷狄を蔑むことや、富を集積することに対してであった。テランの民はよほど注意しない限り、すぐにやってしまいがちなことだった。
やがて、我々はハティウムがレギン達と会話をすることに驚いた。谷を越える夷狄の言葉を理解する者はテランにもいるが、蛇の抜け殻ほど理解することさえ稀である。ハティウムの秘法は言葉さえその範疇にあった。何を話しているかはわからなかったが、テランの言葉を操るのと同じほど巧みであることはわかった。レギンのつがい達はハティウムに何かを訴えていたようであるが、やがて諭されるかたちで座り込んだ。ハティウムの偉大さに従うこと、そして、自らの集落が滅びることを受け入れたようだった。
本隊が殲滅活動を終え、レギンを滅ぼして合流するのを待ったまま、夜の闇が底を突きつつあった。後方部隊の我々は五度の食事を終え、二度の睡眠をとった。その間もハティウムは丘の上に立って谷底を見つめいた。やがて夜が白み始めた頃、ハティウムが叫んだ。
——下がりなさい。赤熊が来る。
レギンが獣を操る邪法を扱うという噂は本当だった。テランの身の丈を倍すること十、赤熊が森の枝木を踏み割りながら凄まじい音を立ててこちらへ向かっていた。山のごとき巨躯はハティウムさえ飲み込んで砕く勢いだった。テランの兵たちは武器を取りはしたものの、恐れからその武器を落とす者さえいた。もしかしたら、本隊は獣を操る邪法によって絶滅してしまったかもしれなかった。その場にいたテランのすべてがハティウムを仰ぎ見た。せめて、ハティウムだけは守らなければならなかった。私は槍を構え、最前線に躍り出た。赤熊の熱い吐息が聞こえるほど近くまで来て、私は雫が落ちるほどのあいだも生きていないだろうと覚悟した。私は獣の一振りで身体を二つに裂かれ、何かを思うまもなく死ぬだろう。
その刹那、雷が頭の上を通り過ぎ、轟音が鳴り響いた。赤熊は爆ぜて消えた。たったいま目の前で私に躍りかかろうとしていた赤熊が血煙となって消えたのだ。続く赤熊達は止まろうとして転び、釣り上げられた川エビのように跳ねると、尻を背を向けて逃げ出した。振り向くと、そこには黒い杖を脇に抱えたハティウムの姿があった。あの黒い杖から雷を発し、赤熊を消し去ったのだ。杖の先から立ち上る一条の煙に白み始めた空の光が切れ込みを入れていた。
レギンの獣を葬り去ってから、本隊は戻って来た。獣によって手痛い打撃をうけたようだったが、全滅は免れていた。ハティウムは彼らを労い、テランへと戻るよう伝えた。兵達はかちどきを上げ、死んだ者達を弔った。
勝利の祝祭が火の落ちるまで続いたが、日が沈む頃になってハティウムが皆に呼びかけた。
——これから私はレギン達を連れ、窟に入る。その間は私にとっては月一巡りほどであるが、あなた方の多くはそれまで生きないだろう。どうか、それまで私の言ったことを守って欲しい。
テランの聴衆達はざわめいた。ある者は窟に入ることについて、またある者はレギンを連れて行くことについて話した。そこで交わされた言葉がなんであれば、ハティウムともう会えなくなるという事実がテランの民すべてを苦しめた。
——私はあなたがたテランが生まれるのを眺めて来た。いわばあなたがたは私の子のようなものだ。どうか、私が窟に閉じこもっている間も、たゆまず記すことを続けて欲しい。
ハティウムはそう言うと、夜明けを待たず窟へと入っていき、扉を閉じた。窟の閉じた扉から光が漏れていて、我々はそれを信仰の対象として奉ることにした。
私の名はキンシラ、キコの一族の出である。ここに記すイジドラの谷の戦いは、ハティウムが窟に隠れる前、最後の戦いである。我々テランはそれがどのようであったかを語り継ぐ義務があり、のちのテランはハティウムが窟から出るその日までを新たに記し加えなければならない。これは我らテランがハティウムによって与えられた誉高き書字のわざによるものであり、そのわざを絶やしてはならない。
キコによる伝承の百十九
ハティウムとテラの出会いはキコによる伝承の百十九による。
原初の伝道師キコはハイイロカエデの森に流れ星を認め、確かめに行ったその先で星の船を見た。身の丈を倍するところ十はあろうという星の船から、まばゆい白の衣に身をまとってハティウムが出てきた。ハティウムはずぶ濡れで、長い航海を経たのだとキコは断じたが、流れ星がいかにして海からハイイロカエデの森に落ちたのかと考え、驚き慌てた。キコを認めたハティウムは喉を抑えながら訳のわからぬ言葉をつぶやき、それはおそらく呪文だったのだとキコは考えた。というのも、ハティウムはすぐに格調高いヒニシュを話し始めたからだ。
集落でもっとも位の高かったキコは、身の丈が倍するところの二のハティウムが星より降り立った聖なる神だということをすぐさま認め、ハティウムをいまはなきヒナロムに案内した。ヒナロムの人々はハティウムを恐れたが、賢い人々はすぐにハティウムの偉大さを認め。その命に従うことに決めた。
その頃のハティウムはいまよりも髪が短く、その色もテランと近しい淡色だった。白き衣もいまのような絹ではなく、艶を帯びた全き白だったそうだ。キコは彼女を空から降った聖人として祭り、ハティウムはキコに物事を記すよう命じた。キコは書字の方法を教わったが、その秘法をものする前に物故し、その直前、娘のキダイにハティウムとの出会いを口伝した。
キダイ、キム、キソンと四代に渡って書字の秘法の習得を試みたが、伝道師の濃い血をもってしても物することのできない難解さが書字にはあった。ハティウムはその知恵を存分に発揮し、テランの一族が後世に残せるよう、姓に続く名に意味を託した。伝承がコダイムソンの無意味語より始まるのはこの経緯による。
ハティウムの知見により、書字の秘法は母音を失った。文字はただ子からなり、ハティウムの知る二十六の文字は母殺しによって二十一となり、やがてその子は六十六へと増えた。その数をもって、ハティウムは文字を終わりにした。最後の文字はфである。
キコの一族がその生を三十と二巡させてのち、ハティウムはテランを四十二の支族に分けた。テラン一、テラン二は常にハティウムにつきしたがい、その族名に名誉あるテランを冠した。残る四十は四に分かたれ、一と二を空きとし、それぞれの三族から九族が同じ伝承を受け持った。三族、四族から九族まではテランの歴史をわけて伝承し、十から十二族が集ってその歴史の間を平らかにした。季が六つ巡る夜に差異を燃やす祭があるのはこの古事による。
ハティウムの生は長く、悠久の時を生きるかに思われるが、その寿命はテランに倍するところわずか千である。ハティウムはその生涯を終えるより前に、テランに書字と知恵を授けなければならない。支族が分かたれる前にハティウムはテランとの間に子を成すことを試みたが、子宝には一度しか恵まれなかった。それも死産となり、ハティウムの子孫を増やすことは難しいとわかった。夫となったテランはキコの一族の出だったが、ハティウムとつがいになったことを奢るあまり、そのわざを盗み、自らがハティウムと同じ神になることを企んだ。その間違った企てはなによりもまずテランの同胞に咎められ、かつての夫はホダ川の辺りで槍に貫かれた。ハティウムはその知らせを聞き、ひどく悲しみ、その企てを起こさせたことを戒めとするためり、自らの髪を切り、ホダ川に流された。その髪は行く筋もの淡い線となって、ホダ川を流れくだった。いまも伝えられる髪切り祭りはこの故事による。
ハティウムは血と髪の川のほとりでテランを集めて告げた。別々に伝承を伝える四支族は異族婚を奨励すべし。ハティウムは背の高いテランを尊び、背の高いテランは複数の妻を娶ることを許されカラテランと呼ばれた。しかし、カラテランは子を育てることを許されず、必ず独り身のテランに引き取られた。この子送りの義務はのちに廃止されるが、いまでも特別な贈り物として、血の繋がらない恩人に預ける習慣が残っている。
ハティウムの使命はベグマを平定することである。我々の大地ははるか遠くまで広がっているが、その先には海があり、さらにその先には別のベグマが存在する。この星には五つのベグマがあり、各地にテランの類縁が住んでいる。ハティウムはそれらを取りまとめ、かつての我々の祖先がそうであったように、賢く強い存在にする。テランはハティウムの第一の眷属としてその名に従うことを旨とする。
テランの民はハティウムの伝承を書字として残す責を負う。この伝承はテランとハティウムの出会いでについて、キセルが記した。
ミシル紀元年八月七日
ハイディ・シルムより、起床後の記憶存続性についての報告を常体で記す。
ティターン航路からの復路、睡眠時間は五十二年。タイムリープ係数が正常であれば、地球では二万年が経過していることになる。誤差は八ヶ月と四日。ちなみに、私の誕生日は八月三日なので、入眠してから一歳だけ年を取ったことになる。ハッピーバースデー、私。この報告書を書き終えたら、ケーキでも食べようと思う。
起床から三日経ったが、健康状態は良好。体重が三キロ減って、お腹周りはいい感じ。できるなら写真でもアップしたいところ。髪や爪もほとんど伸びていない。
乗組員については残念な報告。船長のミゲル・フルティガーはどうも入眠しなかったようで、パイロットルームでミイラ化。最後まで地球のお母さんと通信していたっぽい。宇宙には微生物がいなかったので、昔チベットで見たミイラよりずっと綺麗なミイラになっていた。イギリスの国立博物館(もしまだあれば!)に寄贈してあげたいくらい。
他の二人、トーマ・イグレシアスとミラ・リンはコールドスリープからの復帰に失敗。一応、船で連れては行くけど、地球の文明状態によってはこのままお陀仏という可能性が高い。なので、もしこれから地球に来る人がいて、生体制御に詳しい人がいたら助けてあげて欲しい。
これからやることについて、一応ご報告。私、ハイディ・シルムは地球の気候変動とそれに予測される食糧難によって引き起こされるだろう大退化に対処するため、ティターン航路に乗って二万年先まで銀河系をうろうろしていた大船団の一員です。これから氷河期が終わっているだろう地球に帰って、おバカさんになってしまった地球人の先生になる。二十八歳で独身だから、もしかしたら素敵な旦那さんを見つけるかもしれない。そうしたら、ディズニーで逆ポカホンタスみたいな映画が撮れるかも? もちろん、ディズニーがもしあれば、だけど。
それでは、いま気になっていること、不安なことについて。
この通信は月の軌道上にある第十七国際宇宙ステーションに送信しているつもりです。一応、念のためなんだけど、もしいまそこに誰かいるなら、ゾンターク号宛に返信ください。ハッシュキーは0cc175bbで。起床後、すぐにメールボックスを開いたのだけれど、一万八千年前までしか通信が届いていませんでした。まだはじめの十通ぐらいしか読んでいないんだけど、抽出した結果、どうやら国際宇宙ステーションは放棄されたっぽいことがわかってます。放棄された理由はお金の問題? とにかく、私たちティターニア船団への言及がまったくありませんでした。これは推測ですが、地球はとっくに有人宇宙探査をする能力を失っているんじゃないかしら? というわけで、私はいまとっても不安です。船団は百隻いたはずなので、いくらなんでもうちらだけということはないといいんだけど。とにかく、これからこのメッセージを読んだ人がいたら、すぐさま地球に降り立って私を探してください。待ってます。もしあなたがよほどの不細工でない限り、キスをして抱かれてあげます。ただ、船団の人だったら、時間がずれてるだろうから、その頃の私はおばあちゃんかもね。
続いて、気になっていることその二。現在、地球は目視できる位置にあるのだけれど、大陸の位置がずいぶん変わっている。着陸の補正予測によると、私は南フランスのトゥールーズ近辺に着陸する予定になっているんだけど、どうもヨーロッパがなくなっているっぽい。地形変動が予測を超えたとか、隕石が墜落したとか、色々予想は立てているのだけれど、モデルが欠如しているのでこの船の計算機では答えが出せない。本当は宇宙ステーションからモデル欠損部分の情報を補うことができたはずなのだけれど……。なので、私はとりあえず、南アジアのインド、バンガロールがあったあたりに着陸してみようと思います。この変更によるリスク値変動は……なんとゼロです! 当たり前! だって、この二万年の間なにが起きていたか全然わかってないんだからね。もしかしたら、私は着陸早々、野蛮人にレイプされちゃうかもしれないけれど、これだけ何も情報がない状態だと、それもまあしょうがないかなあなんて思ったりしてます。
そして心配事その三。一応、武器はあるんだけど、食料がない。ミゲルが食べちゃっていたっぽい。たぶん、仲間のことも考えられないほどこの任務に追い詰められていたんだと思う。非常用のものにも手をつけてあって、私には医療用の水とビスケットだけ。あと二日で地球に上陸するので、持つといえば持つんだけど、地球に着いてまず最初にやらないといけないのが食料探しというのはちょっとめんどくさい。穀物はないだろうから、豚でも狩ろうかしら? サバイバルキットは幸い無傷なので、キャンプでもやると思ってがんばります。
いまのところ心配な点はそれぐらいです。もし誰か地球に来たティターン船団の人がいたら、気軽に私を探してね。座標はこの月ステーションに送り続けます。IDはhidi20790803です。って、いまのところ、誰も映ってないじゃない。もしかしたら、地球に私一人ぼっち? あれだけたくさんいたティターン船団が私を残して全滅ってことになっていたら、なんというか、ワオ、というしかない。まったく、NASAもどうしちゃったのかしら?
地球に着いたらまずは川で水浴びをする予定。このセクシーショットも宇宙ステーションに送ってあげたいところですが、そこは誰が見るかもわからないので、見たかったら私のところまで来てね。
今の予定では、一番近いのがモンターク号で、五〇±二○。それまで私が生きているかどうかわからないけど、モンターク号の人はぜひインドまで遊びに来てください。ボケていなければ、ドイツ語、英語、フランス語、中国語を話すことができます。ハイディ・シルムをよろしく!
それでは、これにて通信を終了します。どうか、私たちの旅が地球の同胞に愛を持って受け入れられますように。
大テラン史
これはハティウムが窟を出てよりベグマを平定するまでの三巡についての大テランを記したものである。
ハティウムは窟より出で、悪しきレギンの民を六から百二十へ増やした。そのわざもさることながら、テランの民はレギンの子孫が自らの倍すること二の大きさを持つことに驚いた。
——レギンの民に施したわざによって、彼らはその大きさを取り戻しつつあります。
ハティウムは言われた。そしてさらにテランに向け、レギンたちのような巨躯をもたらすわざを施すと告げられた。ただし、それには広大な土地と作物が必要だった。かつて我々の先祖がそうしていたように、広大な土地を平定するには、強力な支配が必要となる。強力な支配の元でのみ人は賢く生き、大きく育つ。
ハティウムの指針である覇道のため、テランの四支族は集結し、その役をまつりごと、工芸、農業、商いに分割された。軍務はすべての支族の義務とされ、支族同士で蔑み合わぬよう、役割は月を四つまたぐと交代とされ、優れた者は支族から籍を抜いて姓を変えた。書字として残されたこれらは法と定められ、いたずらに変えることは許されなかった。法はベグマ平定までハティウムの名に基づくものとされ、それ以降は民草自らが決めることとなった。
レギンを平定したのち、ハティウムはその領土を拡大した。血と髪の川を船で行き来できるようにし、三つの異種族レビ、ドラダ、エスタスを平定した。テランはレギンらと共に婚姻を推奨され、これよりテランに褐色の肌、碧眼、赤い髪などが生まれるようになった。ハティウムより授けられた戦の秘術により、テランの軍勢が破れることはなかった。軍令や兵站などは常に無駄がなく、それらの知恵はすべて窟より授けられた。
テランの知恵は書字として残すことを命じられたが、その知恵をあらかじめ手に入れることを求める者たちによる争いがあった。これをテゴマの乱と呼ぶ。
テゴマはエスタスの出になる軍人で、賢しく、武功をよく成した。その体躯は並みのテランの倍するところ二、ハティウムの胸にまで達しようかという巨躯であった。残忍な性質として名を轟かせ、同胞を食うと噂された。テゴマはハティウムが窟に隠す秘術をあらかじめ手にしておけば自らが神になれるという不敬を抱き、千の軍勢を伴って窟を襲った。しかし、ハティウムはその企てを察知しており、窟の前にテゴマを誘き寄せると、黒き杖からの雷を浴びせた。血の煙となって消え去ったテゴマを見て、反乱の軍勢は怯え、敗退したが、すべて捉えられ、罪人の焼印を押された。θという焼印を押された者らはテゴミと呼ばれ、死ぬまで書字の整理にその命を捧げることとなった。
テゴマの乱以降、ハティウムの窟への機関は厳重に管理され、窟を移動することとなった。窟を動かすためには火の油が必要であり、精製の秘術が必要となる。これより、工芸の支族と商いの支族はその権勢を極めることとなり、その奢りを危惧されたハティウムによって十に分かたれた。鉱物、土木、金属など、現在に職業と呼ばれているものの多くはここから出ている。
大テラン最大の戦はフランソワである。フランソワはハティウムと同族の神であるが、民草を愚かなまま保つことを欲した。フランソワは窟で空を飛び、たびたびテランの民を虐殺した。その数は数百万に及び、苦しみの年月は月を巡ること五十であった。この長い苦しみの終わりは、フランソワの窟が飛び立てなくなったことによる。シナイの山麓に降り立ったフランソワの窟はもう飛び立つことがなかった。ハティウムによれば、それは火の油が尽きたことによる。ハティウムはシナイの山に万の軍勢を引き連れ、フランソワ討伐を行ったが、言い伝えによれば、フランソワを討つことなく帰ったという。フランソワはそのまま山に暮らし、ハティウムは月が十二巡りする度に訪った。ハティウムはフランソワとの間に子をなしたが、その子は死産となった。その魂は空を駆け、ベグマに雪をもたらすようになった。
フランソワの虐殺が終わってのち、月が三十度巡り、ベグマは平定された。これにより、大テランはなる。大テランなったのち、四つのベグマを平定することとなる。アベグマ、ノイベグマ、マルスベグマ、ヒベグマである。大テランの軍勢は三百万であり、これはハティウムによれば十分な数である。あと月が二○○度を巡る前に平定することが大テランの使命である。その後、この星に大きな流れ星がある。そこから現れる神がハティウムと代わり、すべては委ねられる。
私の名はキム・テラニア。キコの一族の出である。ここに記す大テラン史はハティウムのベグマ平定についての記録である。これらの書字についての詳細はテラン博物史にまとめられる。そのすべてを読むことはテランの民の一生をかけてなお足りない。
ミシル紀五年八月九日
ハイディ・シルムより、地球での進展についての報告を常体で記す。
ハロー? 誰か聞いていますか? ハイディです。私が地球に帰ってからやっていることをまとめます。
まず最初に、人間は生きていました。拍手! ただし、驚くべきこととして、ものすごく小さいです。大人でも身長が70センチぐらいしかなくて、いうなれば小人みたいな感じです。類似しているのは、フローレス人かな。ただし、脳容積の比率が特に小さいわけではないです。それよりも恐ろしいのは、寿命が恐ろしく短いこと。だいたい、二ヶ月ぐらいで成人し、一年ぐらいで死にます。生まれるときのサイズが人間の赤ちゃんより小さくて、胎児みたいな感じなんだけど、すごいスピードで成長します。計測してみたところ、生まれてから二時間で三センチ大きくなっていました。
言語のようなものは持っているのですが、ほとんど発達していません。いま私がアクセス可能な方法で調べた限り、イルカよりも高度ですが、人間のもっとも未発達な民族の言語体系にさえ及びません。これは生成文法の研究という観点からはかなり興味深い例ですが、私は言語学者じゃないのでどうでもいいです。彼らはずっとチャカチャカしていて、とても高い声で話します。キャーキャーって感じ。なんというか、子供があっという間に大きくなって、てきぱきしているうちに死んでしまうような、そんな感じです。最初は悲しかったんだけど、生まれては死んでいくので、慣れてしまいました。昔、グッピーを飼っていた頃を思い出します。
とはいえ、変な話ですけど、人間ってすごいなぁって感心することがあって。私は彼らのことをテランって名付けたんですけど、教えると言葉を喋れるようになるの! すごいでしょ? でも、やっぱり生きている時間が短いから、体系的に身につけるより前に死んでしまう。それでも言語を喋れるのはなぜかというのを研究しているんだけど、彼らは生まれるとき、ものすごく再現性が高いというのがあると思う。後天的に習得した性質をほとんどそのまま受け継ぐことができるみたい。記憶とかは無理だけど、ニューロン・ネットワークなんかはかなりの精度で再現される。だから多分、学習能力の向上がすごいんだと思う。いまのところ、すでに五世代ぐらい見てるんだけど、明らかによくなってます。
人種的には、なんというか、全部混じった感じです。肌の色も褐色よりすごい淡い感じで、日に焼けた黄色人種みたいな感じ。髪は薄い赤毛です。そこだけアルビノっぽいかも。顔は似通っていて、二重のぱっちりお目々に高い鼻、薄い唇。そばかすはないです。男女の顔つきの違いがほとんどなくて、男らしいのも女らしいのもいません。私が地球にいた頃でいえば、本好きでおしゃれな高校生の男子って感じ。そうそう、羨ましい点は、成人してから死ぬまでほとんど変わらないこと。私たちの感覚でいう、老いが、死に至る病みたいな感じ。事故死以外だと、三日ぐらいで花が枯れるみたいに死んじゃうの。
ホモ・サピエンスが単独でこれまで変化したというのは驚きで、たぶんなんらかの淘汰圧が働いていたんだと思う。地質調査をしてみたんだけど、たぶん氷河期を一度経験している。そのときにものすごい大絶滅があって、その結果じゃないかな。まあ、仮説なんで、詳しいことは任せます! そうそう、北アメリカの西部に一万五千メートルぐらいの山ができていて、たぶん噴火だと思うんだけど、スーパープルームみたいなのがあったんじゃないかなという補足をしておきます。
いま私はテランに言葉を教えて、軍隊を整備してます。なんか、テラン以外にもいくつか人間がいるのがわかって、それがレギンっていう肌がもう少し黒い感じの民族なんだけど、テランは彼らをめちゃくちゃ差別してます。テランのそういうところ、未開人って感じでがっかりしました。キング牧師も泣いてると思います。レギンとテランが別れたのはそんなに前ではないようで、たぶんこの肌の違いは生活環境の違いと推察してます。いまの地球には移動手段がないみたいで、生活環境による形質的な違いが数世代で固着化するみたいです。レギンがいる谷は日差しが強いので、肌が黒いんでしょう。
悩んでいることとしては、言語の伝達。彼らの文字文化は象形文字みたいなのがあるんですが、アルファベットを持たず、ほとんど抽象化されていません。教えてはみたんですが、名前をうまく発音できなくて、私も縮めてハティウムになっちゃいました。喉の構造なのか、五音節以上になるとかなり重要な単語以外は覚えられないみたいです。私の母語であるドイツ語はおそらく滅びたでしょう。Geschwindigkeitsbegrenzungとか、絶対無理だと思います。まあ、車はないんで、制限速度なんて概念が広まるのはかなり先だと思いますけどね。
私はチキンなので、ゾンターク号の燃料節約のために、移動には使ってません。たぶん、インドあたりだと思うんですが、宇宙ステーションの衛星画像チェックで確認する限り、この地球には五大陸しかありません。南北アメリカは分断して地続きじゃなくなってますが、北アメリカがユーラシアにぶつかって一個になってます。なので、地続きじゃないのは南アメリカとオーストラリア、南極だけです。あと、北極はものすごく小さくなっています。今後しばらくは陸路での探索を検討しています。南極に行って帰れなくなったら終わりだし。
平均気温は二十度ぐらいあって、かなり過ごしやすい。一年中Tシャツでも大丈夫なぐらい。ただ、ここはインドなので、地球の極に移動すればさすがに寒いと思います。あと、気候よりも雨がすごくて、台風みたいな雨がよく降ります。そのたびにテランはすごい数の犠牲が出て、よくもまあこれまで生き延びてきたなと感心します。彼らは自分たちを縄で縛って、高いところに逃げるんですよ。ノアも方舟なんて作らないで、高いところに逃げればよかったんじゃないかな?
いま確認できている限りでは、テランの人口が八〇〇〇人ぐらい。レギンはもう少し小規模で、四〇〇〇人ぐらいかな。他の民族もたぶんいるはずなので、単純な面積換算でこの地球には五千万人ぐらいの人類が生き残っているはずです。ティターン船団の資料では、達成可能な文明の規模指標として帝国建設が二千万人だったので、まずはそれを目指します。産業革命とかはもうちょっと先で、私が生きている間にできるかどうかわからないです。まあ、産業が発展したところで、どうせ人類が繁栄してもまた大幅に個体を減らすような事態になるのだから、そんなに焦ることはないのかなと思ってます。
私がティターン船団員としてなさねばならないことは、私がやったことを少なくとも次の船団員に伝えることです。たぶん五十年後ぐらいに来る、いまこれを聞いているあなた。私はテランを導いて、発展させます。テランが私たちと同じぐらいの寿命で、私たちと同じぐらいの言葉を話すようにはしてみます。遺伝子改良は専門ではないので、追い詰められない限りやります。だから、できる限り早く来てね。
あと、ぜひお願いしたいことがあるのだけれど……私が思うに、この任務には人知を超えたところがあります。まず、私はとても孤独。こうして誰が聞くのかもわからないメッセージを発信するのに、もうあなたに恋をしてしまっているぐらい。とても寂しいです。あなたの性別も年齢もわからないのにね。ほんとうに馬鹿なことをしたと思うのだけれど、私はテランとの間に子供を作ってみました。もしかしたら、生まれるかもってね。でも、その子は流産しました。とても悲しかったし、いまもその傷は癒えていません。遺伝学をちょっとかじっただけでも、とても超えられる遺伝子距離ではないとわかります。なんでそんなことをしたのか、自分でも馬鹿だと思います。でも、私はわずか三年でそれぐらいおかしくなってしまったんです。
なので、後に来る人、もし私がおかしなことをしていたら、遠慮なく言ってください。あなたがどんなに孤独で、同胞と話したりしたいと思っていても、おかしなことはおかしいと言ってください。私は先輩ヅラするかもしれませんし、あなたを支配しようとするかもしれません。それでも、どうか自分を見失わないで。私達ティターン船団の使命を、滅びることに決まった人類を救うために過去を捨てた私たちの決意を無駄にしないでください。
それでは、まだ見ぬ私の同胞へ、愛を込めて。ハイディ・シルムでした。
ハティウムの最後
今日はハティウムの最後である。
ベグマのうち四を平定し、マルスベグマ遠征で吹雪の中に倒れたハティウムは、ついに窟に隠れたまま出てこなくなった。窟から溢れていた光は消え、それはハティウムが言っていた通りの最後であった。
ハティウムが御隠れになったのち、流れ星があった。それはハティウムが待ち望んだ光であり、星であった。
テランの民はその流れ星がハティウムの命が去った印であると考えた。新たな神が、降り立つであろう。
この出来事はテランの書記官であるキドキア・キレンバウムが記した。これは神を失った悲しみである。
ミシル紀六十二年一月九日
親愛なるハイディ・シルム。
こんにちは。あなたが残した音声をすべて聞きました。あなたが私の声を聞いているかはわからないのですが、第十七国際宇宙ステーションに残しておきます。
まず自己紹介をさせてください。私はGAISTの職員で、フートル号船長のミゲル・トキと申します。ティターン航路の正しさを再検証するために、あなたから遅れること二百五十年、地球を発ちました。状況の違いを説明しますと、私たちはコスミオ社に支援を受けた民間の宇宙調査企業で、NAISAの後継団体にあたります。すでにNAISAのような超政府機関は存在せず、ベルギーに籍を置く一民間企業です。サラリーマンです。
私たちの置かれた状況は、宇宙開発という点において、ティターン船団の時代よりもはるかに退化しています。人類の知恵は総体として増え続けていますが、それを実行する力がもう無くなっています。あなたがたの時代のように長距離航行を目指す試み事態がなくなりましたし、なにより、それに関する興味が人類から失われました。あなたがたティターン船団は地球でもっとも勇敢だった最後の人々です。
私はあなたがたティターン船団と同じく、人類の環境が劇的に悪化するだろうサワジリ報告を根拠に調査に向かっています。現時点であなたが調査している状況は、我々が予測し得た段階よりもはるかに複雑でした。ただ、我々が地球を眺める限り、あなたの地球上における活動は人類を救っていることだけは確かです。敬服いたします。おそらく、ハイディ・シルムの名は人類史に燦然と輝くことでしょう。
私たちはこれより地球へ帰還後、あなたの元へ合流し、テランの民の調査を開始します。我々が観測した限り、ティターン船団は五隻の到着が見込まれています。ただし、そのうちもっとも早い宇宙船でさえ到着が二○○年後を見込まれており、場合によっては船団員の寿命が尽きていることも考えられます。
ちなみに、こんなことを言うのは憚られるのですが、私は三十二歳、独身の男性、ストレートです。もうあなたが地球に降りてから六十年以上は経過しておられますし、こんなことを言われても困るかもしれませんが、お会いすることができたら、ぜひあなたの手にキスをさせてください。我々船団員、みなあなたの信奉者です。
それでは、二万年が経過した地球の大地で、神となったあなたにお会いできることを楽しみにしています。
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内容に関するアピール
元々はタイムスリップを書く予定でしたが、タイムパラドックスを解決するうまい方法が思いつかなかったので、やめました。
先々週に愛犬ニッチが癌になり、その介護をしていました。診断からわずか二週間ぐらいで亡くなってしまい、命の儚さを感じています。犬とはいえ、長年連れ添った家族が天寿をまっとうするより前に亡くなったのははじめてだったので、とてもショックを受けました。
以前、JAXAの偉い方の私的な講演会に招かれたことがあるのですが、そこで一億年後の地球がどうなっているかというお話を聞きました。自然環境の劇的な変化によって、人類はとうに生きていないだろう、というお話でした。それを聞いたとき、仕方のないことだとは思いつつも、私が愛したり憎んだりしたものすべてがその頃にはすべてなかったことになってしまうのだと思うと、とても虚しいです。
ところで、アメリカでトランプ大統領が当選し、BREXITが現実のものとなり、フランスでマリーヌ・ルペンの権勢が拡大しつつある現状を見るにつれ、たとえば、今後我々の生きる世界はいまよりも果たしてよくなっているのだろうかという疑問がわきます。他文化を理解し、お互いを許し合い、ともに発展していくというのは、人類が抱いたひと時の夢だったのではないでしょうか。
そうしたいかんともしがたい変化が訪れた時、なにかハックをする人がいるんじゃないか。そんな思いを元にこの小説を書きました。
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