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1. 序章

 マクロな系の生物の状態は、必ず収束する。

 状態数が収束すること(波動関数の収縮)を量子コヒーレンス(量子のかさねあわせ状態)であると解釈すると、コヒーレンスは外部環境からの熱揺らぎが主な原因である。マクロな系は本質的に孤立系とはなり得ず、常に「外部環境」からの熱揺らぎに晒されている。それゆえ状態数は収束するのだ。「外部環境」には空間の外側も内側も入るので、ミクロな系以外の完全な孤立系は宇宙空間以外には存在しない。
 しかしマクロな系であり完全な孤立系かつ、外側には物質も熱も通さない「剛体壁」をもつ細胞があると仮定したらどうだろう。
 マクロ系なのでエネルギーや振動が外に出せない。量子コヒーレンスがあれば剛体壁で隔てられていてもエネルギーや振動を外へ転送でき体を存続させる事ができる。意識は量子の情報の転送によってのみ存続する為、通常より高精度な量子コンピュータ並のスペックになるだろう。ただし量子が代謝を行わないと自らの熱量で消滅する。そうして細胞は完全な孤立系のままその何かの形を維持する。細胞は変形しないので成長したふりを続けるしかないだろう。孤立系という点では人体というより宇宙空間である。

 かつてそういった完全な孤立系の細胞のみで肉体が構築されていた人物がいた。名をグレゴール・ヨハン・メンデルという。

2. 旧棟

「何か、何か、人生を壊してしまうようなものでもいいから、面白いことがないものかね」
  19世紀初頭のとある冬の深夜、修道院から旧教会への渡り廊下を、二日酔い特有の重い体を引きずりながら歩いていたレンツという男が退屈のあまり誰にというわけでもなく呟いた言葉である。
 
冬の寒風で、喉が猫のように鳴った。柱時計は午前2時を指していた。修道院では泥酔と規定時間外の出歩きは厳罰なのである。二日酔特有の重い体と頭痛と時間差の悪酔いがレンツを大胆にさせていた。
 
ハインツェンドルフ・フォン・レンツはオーストリアのモラヴィア地方のアウグスティヌス派聖トマス修道院に所属する21歳の修道士であり規則的で禁欲的な生活に勤しむべき普通の青年で、解剖学、古生物学の学識者だった。この時刻、本来ならレンツは相部屋の人間と互いに、寝ないよう監視しながら黙々と夜の祈祷を行っていなければならなかった。それをさぼって今、彼はガス灯も持たずに暗い廊下を歩いていた。
額から頭頂部までが箍(たが)でもはめられたように締め付けられ鈍くうずく。頭全体が痺れているせいで逆に自分の眼球と視神経の動きが手に取るようにわかった。渡り廊下の左手一杯に広がる寒々とした中庭、北隣の回廊をはさんで修道院本体の正面に連なるステンドグラス付きの旧棟。建物の輪郭が明瞭になり視界が鮮明化した瞬間、旧棟がきらりと光ったように見えた。旧棟には誰も居るはずがないのにとレンツは不審に思った。彼はここ聖トマス修道院で育ったが修道院の理不尽な規律に未だに反抗心を抱くほど若かった。いやむしろこの歳になってようやく反抗心が芽生えたというほうが正確かもしれない。
 
今、レンツがガス灯も持たずに暗い礼拝順路の廊下を歩いているのは、彼のそうした反骨精神が酒で助長された結果だったが、目的は別にあった。彼は神学校時代からの友達と一緒に、修道院長に内緒で酒を溜め込む算段をしていた。修道院は禁酒ではないものの泥酔が禁じられているため量に制限がある。酒自体が禁止なのではなく、酒に限らず何かに「溺れる事」を禁ずるスタンスで19世紀の修道院は成り立っていた。肉、酒、色。ひとことで言えば何であれ「欲に没入すること」を禁じていたのである。ともあれ、酒を溜め込みたいレンツは、溜め込み場所の候補として普段使用されていないらしい旧棟がふさわしいのではないかと考え、下見をしようとしていたのだった。
「何だこれは」
 
目的の旧棟にたどり着いたレンツは木戸を開くなり思わず大声をあげた。使われていないはずの旧棟の木戸の向こうは真っ黒い巨大な異物で覆われており中を覗く事は不可能だった。異物は”機械”であった。”機械”は入り口全体を完全に塞ぐように黒々と並んでいた。唸るような機械音が辺り一面響き渡っている。もしこれが鉄塊ではなく機械だとしてどうしてここに置かれているのだろう、酔ったレンツには見当もつかなかった。修道院の研究者が置いたものかと考えてみたが納得のいく説明ができない。そもそもアルミ、鉄、鋼は生産に手間のかかる高価な素材であり、そのようなものを調達する財力が聖トマス修道院にあるとは思えなかった。修道院では収入を一度修道会の会計に入れてシャッフルし、維持費や食費や共益費に割り当てたあとで、蓄えるべき額を蓄えているので、歴史の長さに応じて年毎に蓄えが増えていくのであるが、聖トマス修道院には、機械に多額のお金をかけられるだけの貯蓄ができるほど長い歴史がなかったからだ。仮に隠し財産があるとしても毎月の予算会議で専門研究分野ごとに予算分配される以上、この旧棟一箇所に予算を集中させるのは不可能だった。レンツ自身現に先月まで専攻している解剖学と古生物学の資料が予算の都合で打ち切られ困っているところだった。この”機械”の所属は修道院ではないとみて間違いないだろう。
 
真っ黒な機械で断絶された向う側に何があるのか見当もつかず、レンツはひるんだ。瞬時に悪魔を連想したからだ。この時代は、魔女狩りがあり悪魔や信仰について本気で討論があった時代を経て急速に近代的な歴史学が畳み掛けるように発展し現実と迷信の振り分けがなされるようになる、ちょうどその狭間の時期だった。魔女や悪魔のような前近代的概念を信じる人の割合はごく大雑把に言えば首都からの距離に相関していた。この修道院のある地域では信じる人の割合が多かった。
 
レンツは断絶された向こう側を見る事をいったんは躊躇した。彼は前近代的なものを信じるたちではなかったが小さい頃から刷り込まれた概念自体への畏怖がそうさせたのだった。しかしすぐに生来の好奇心が圧勝した。レンツは機械のどれかが動くのではないかと一つ一つ試し始めた。機械は天井まで到達する高さで粗雑に並べられている。機械の隙間から教会内部を覗くと細胞のようなものが張り付くのが見えた。変色した植物のような管状の形で、肉のような質感の、巨大な生物群が蠢いている。教会内部に何があるのか知りたい一心でレンツは機械の隙間をこじあけるべく全身の力を込めた。機械の一つが段差を転げ落ちた。と同時に反動でレンツの上半身が教会内部へ周囲の機械にはまった状態で投げ出された。機械の最前面すなわちレンツが崩した側面がこの教会内にある無数の機械の母胎となっておりそこからコードのような物が伸びていた。コードは会衆席を占拠するそれぞれの小さい機械と繋がっている。
 
椅子が床をこする音が教会中に響き渡った。小さい音がよく反響するのは教会本来の構造のみならず、周囲を機械に取り囲まれているからだろう。レンツは機械の中心に身体ごとはまったままであることも、人の気配に注視することも忘れるほど、異様な空間に見とれていた。レンツの頰をかすめるように動いていた管状物体の表面が脈打ち、剥がれて本体と分離した。縦長の造りと支柱の並びがつくりだす一点透視図法的な効果によりレンツの視線はすっと内陣の祭壇に引き寄せられる。祭壇上には音の主がいた。声をかけようとした途端、レンツの顔面は上方と横からすっ飛んできた鋭利な生物群で覆われた。驚いて動こうとすると腕のあたりの服の生地が裂けた。
 
「動かないで」祭壇の上の人物は細い声で言った。「動きに反応するから下手に動くと肉が削がれる」
 
「分かった。ならどうすればいい」レンツが訊ねると「今行くから待って」細い声は言った。
 
頭上では管状物体が交差するように脈打ち、剥がれ、様々な波形をつくりだしていた。剥がれたそれぞれがさらに反応を起こし新たな波形を下にある機械に送っている。正確には波形ではなく複雑な規則性があるようだった。ただの波形と波形の統合ではない、レンツがそう考えた瞬間生物群がぶわっと横に広がった。まるでこの空間全体が巨大計算機のようだった。空間上で行われる計算がぶつかり統合される眺めにレンツは圧倒されていた。動くと危ない理由もレンツには理解できた。処理系である母胎を1個崩してしまいその1個の代わりにレンツが嵌っている。そこに吸収されるはずだった演算が処理されなくなり、生物群の動きに歪みが生じた。視覚的に言うと関数の窪みが出来て生物群がレンツに集中しているのだ。
 
生物群による関数がぶつかり合っている。レンツは空中で行われる動きに法則性を見出そうと頭脳をフル回転させた。動きの端々に未知の論理をレンツは見いだした。生物群が生み出す動きは、正確には関数という概念を更新した何か、つまり関数全てを内包し関数の概念を一般化するような動きだった。初期に与えられている数値から規則性にそって植物が動き、離れ、また別の場所から超高速で繋がり処理系に膨大な数値を返するサイクルと内容がレンツにはわかった。
 
複雑過ぎて次第に計算を目で追えなくなってゆく。歯を食いしばって見ようとする。眼球に痛みが走る。計算に頭が追いつけなくなる。レンツの空間把握能力、動体視力、頭脳ともに常人から遥かにかけ離れていた。通常人であるならばそもそもこれらの生物群を視認できない。生物群は超高速で動いているから生物群の動きをただ見る事さえできないのだ。生物群が超ゆっくりでもその形と動きをみて関数と計算を正確に把握して暗算することなどできない。初期の数値と規則(関数)はブラックボックス状態だからだ。そもそも空間にグリッドがひかれていない。レンツは空間把握能力と動体視力で欠如した情報を補い、全てを計算し予測照合しながら、追いつこうとしていた。教会の決められた場所のみが計算フィールドになっている。レンツは計算機に含まれる空間にいる。
 
いきなり生物群が伸びレンツの頬をかすった。管状の生物群は針金のようにまっすぐ伸びてきた。レンツがこの状態から下に顔を動かせば顎からこめかみまでざっくりと顔のパーツ部分の肉をもっていかれるし、上に動いた場合には首の頸動脈に生物の鋭利な断面がくいこむ。レンツは両足を機械に引っ掛け固定し体勢をキープした。頭は冴えている。剥がれた表面の方が後方で本体と離れず上へ上へと波形を伸ばしているため、レンツの首筋に今にも突き刺さりそうである。体制を保つのが限界に近いと感じた、次の瞬間全ての波形と生物群が停止しレンツは床に打ち付けられ叩き落とされた。顔面から激突したため痛みで起き上がれないで丸まっていると、「大丈夫ですか」と上から顔を覗き込まれた。祭壇から走り降りてきた細い声の主だった。レンツはその風貌に見覚えがあった。
「グレゴール・ヨハン・メンデル司教」
 
先月の叙階式の時に見て以来2度目だった。フルネームで呼ぶと無表情だったメンデルは僅かに驚いた反応をかえた。メンデルの顔立ちは中性的で非常に整っていた。しかしメンデルのその美しい造形の裏に、レンツは、レンツの頭脳や高度な計算機械を使って一生かけても処理しきれないような膨大な情報量を認めた。それまで高速回転していたレンツの頭脳にメンデルの膨大な情報量が流れ込んだ。その途端レンツの意識は途絶えた。

 

3. レムター

 レムターと呼ばれる細長い食堂は大勢の修道士たちで賑わっていた。「おい、どうしたレンツ」勢いよく背中を叩かれ振り向くと解剖学の先輩ヨーゼフが立っていた。話しかけてくる人の数は多く、もう覚えていないような過去の会話を詳細に再生している。時期も正確なことからこれはメンデルの存在を初めて知った時の明晰夢なのだとレンツは悟った。今のレンツの居場所は、身内で固まりがちな古生物学の方にあるのだが、当時は解剖学の方に籍があり先輩たちから目をかけてもらっていた。「先輩」「ぼうっとしてどうしたんだい。お前じゃないみたいだな」子羊肉をほおばりながらからかうヨーゼフに、レンツは笑いながら訊ねた。「考え事をしていました。しかし…お前じゃないみたいとは普段、僕は一体どんな印象なんでしょう」
 
修道院の食事のメニューは種類が豊富でとにかく量が多い。修道院における食事は世俗と同じように許された数少ない娯楽であるため食に執着する修道士も多く、そのためリクエストもクレームも多かった。月に一度は食事に関する定例会があり、そこで味付けについての不満、素材の新鮮さについての注文、それから献立についての不満など、多いに議論されるのだった。子羊背肉のロティ、野菜の付け合わせ、肉のソースのパスタ、モレの鶏肉エンチラーダ、キャベツと人参のぶどうマリネ、バゲット、ワイン、いちじくとシュペック(生ハム)のタルト、オレンジ・キウイ・りんごなどフルーツの盛り合わせ、ひよこ豆のシチュー、オリーブの実、クランベリーとナッツとイチゴのサラダ、それが今日のメニューだった。
 
「君の印象はね、冷めてるけど面倒見が良いよね。かつ奔放で大胆」ヨーゼフはワインを片手に上機嫌だった。
 
明晰夢は昔の会話の記憶を適度に織り交ぜて返してくる。解剖学実験室でそんな会話を交わしたことを思い出した。僕の思考の流れも夢に組み込まれているのだろうかとレンツはおもった。
 古生物学の同輩が来て後ろからレンツに囁いた。
 
「お久しぶり。予算会議でレンツのところに費用回すから、うちの資料手に入れてくれない。研究室のグループがやばいんだ」「解った何とかしておく」そういえば、この同輩が古生物学に移籍するきっかけだった。内輪の力が強い場所の方が自分の性に合っていた。ヨーゼフは同輩と相談するレンツをみながら「何かあったらちゃんと頼れ」と言った。
 
レンツは食事に集中し始めたヨーゼフに礼を言いテーブルを辞した。同じ古生物学の専門の人間たちは、入手した資料の話や内輪の話題に花を咲かせていた。同期がふざけあっている。レンツは上手く場を盛り上げようと率先して修道院貯蔵のビールを取り出してきて乾杯した。同輩の相談に乗っている様子を見ていた半酔いの誰かが「お前は本当にいい奴だなあ」と言ったのを皮切りに皆がレンツについて評しはじめたのでレンツはそれとなくその場を離れた。所詮は夢であり、結局自分は良い奴だと言われたいがために様々な事を要領よくやっているという事なのだった。「お疲れ様です」叙階が決まった面々を囃したり煽(おだ)てたりしていて、夢の中ですら周りの人間の機嫌をとっている自分にやるせなくなる。次第に夢と現実の区別が消えた。これは明晰夢の特徴でもある。レンツは色んな物にデジャヴを感じつつ更にビールを注ぐため後ろを向いた。盛り上がりが覚める様子は、まだない。
 
改めて、レンツに今現在敵がいないのはレンツ自身の努力の賜物であった。敵視も魅力あるからこそなのだが神学校時代から敵視しそうな人を先んじて交友関係の輪に引き込み互いに牽制させ合うなどしてやってきた。努力の賜物とはいえその努力が出来る交際範囲の広さが合ってこそ抑止力を得ることができるのであり、レンツの魅力的な人柄と人望は彼の元々の性質だった。
 
「損をしやすい性格だからかな」先ほどの同輩が言った。「フォン・レンツは好かれていることに気づけない」「しかし、それには理由もあるらしい」「レンツは修道院のただの学者の一人にすぎない。それだけだろう」「問題はここに来た理由だ」同輩たちが口々に彼を評した。
 
実際レンツがここ聖トマス修道院に来たのには理由があった。当時レンツは古生物学という学問を研究していたが、レンツ自身は古生物学に興味などなかった。彼は名前の通りハインツェンドルフ伯爵の息子であり或る事情により修道院に追いやられたのだ。修道院長のナップはその辺りの事情について理解があるらしく、それゆえレンツの逸脱行動に多少は目をつぶってくれていた。
「その後彼は修道院で育つ」「赤ん坊の時から?」「随分ありきたりだ」同輩がまた口々に言った。
「つまらない」「しかしありきたりな境遇にひとつまみの異常さが加わると案外面白いことが起こる」「問題は境遇よりスパイスだ」場がどっと沸いた。レンツはビールを取るため食堂を走っていた。
 
この時代、修道院は様々な役割を担っていた。中心的なものが現代でいう大学としての役割である。大量の学識者を召し抱え、生活が貧しいにもかかわらず学問の道を選択しようとする若者達の受け皿にもなっていた。レンツの所属したアウグスティヌス派聖トマス修道院は特にモラヴィア地方の藝術科学の中心であり、大勢の文化人、哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁している。研究施設もきれいだし座席も自由、食事は豊かであり、コーヒー、ビール、ワインその他様々な嗜好品も、それに溺れさえしなければ許されている。研究はつまらないが綺麗なチャペルもある。修道院にしては非常に寛容なこの環境にレンツは不満はなかった。しかしレンツは明晰夢が大嫌いだった。この空間自体が夢であり自身の思考の中に自分がいる事を思いだし吐き気を催したレンツは、気を紛らわすべく隣のテーブルで黙々とワインを飲むフィリップに声をかけた。
 
「おい、フィリップ!お前もこっちに
 
こちらに来いと言いかけてから、この時点では自分はまだ彼と接点がない事を思い出す。フィリップ・レーナルトはレンツを見つめた。フィリップ・レーナルトと友人関係が始まったのはルームメイトになってからである。フィリップは皆からその容姿の一点において怖がられていた。背丈が2メートル近くあるにもかかわらず貧相で目つきが悪い大男だ。相方としては潔癖症気味とマイペースの特徴を付け加えたい。レンツの様々な規律違反が院長に報告されず見逃されているのは、フィリップが特異な人物で他人に興味がなく、レンツに対してもほとんど関心をもたなかったからである。このルームメイトのおかげでレンツの放浪癖や飲酒は上手く放置されたのだった。
 
 時計が20時の鐘を打った。
「そろそろメンデルが水瓶をひっくり返す時間だ」レンツがそう思った途端大きな音がした。叙階される前のメンデルがレムターにおり、水瓶をひっくり返したのだった。レムター内は一瞬静まり返ったが、すぐ賑わいを取り戻した。ここから先の出来事はよく覚えている。
 
食事の際、水瓶を盛大にひっくり返してしまったメンデルは、他の修道士達に注意され、靴と長靴下を脱ぎ左足を椅子にあげたが、その左足には小指がなかった。周囲の修道士から理由を問われたメンデルは「昔、痛みを確認するため切ってみたんです」と平然と答え、みながそそくさと逃げて行ったあとも一人で床を拭いていた。
 
レンツがかつて遭遇したことのない知性がそこに存在していた。
 
しかしそれだけの事を目撃しながらレンツはメンデルとの食堂の事を忘れていた。それなのに彼の名前が記憶にあった理由は、メンデルの司祭叙階式が最近あったことに加えて、メンデルの噂をよく聞くからであった。噂の内容は不可解で意味不明、どうやって噂にまで進化したのか分からないほど曖昧な話だった。メンデルの中に見え隠れする知性のコントラストが敏感な人間には何か巨大なものにみえるという話だ。レンツがメンデルの顔を見て気絶したように、異様な情報量の何かが異様な形で直接こちらの知性に干渉してくるのだ。これらの噂は、噂を作った人のほうがおかしいとひとしきり盛り上がった後、大抵の場合勝手に消えてしまう。なぜなら皆こんな噂を信じてはいなかったからだ。それほどメンデルは普通の人間だった。特徴といえば、怖いものが苦手だったり、真面目に業務をする人だったり、性格が穏やかだったりするだけだ。皆のメンデルへの認識といえば凡人中の凡人であるので噂自体のおかしさの方が絶え間なく話題にのぼった。しかし、噂が絶えなかったのには理由があり、それはやはり皆、メンデルの中に何か通常とは異なる一面を垣間見ていたからだった。メンデルに教会にあった巨大生物群や巨大機械を作り出せる知性や経済力があったのなら、衝撃の正体はそれだろう。それとももっと壮大な何かがメンデルを通して見えるのだろうかとレンツは考えた。
 
今、彼はちょうど左足を椅子に上げたところである。レンツが彼のいる後ろの方を見やった次の瞬間、彼もこちらを振り返り、明晰夢は終わった。           

4. 香部屋

 レンツの意識が戻ったとき、何かが擦れる音が聞こえていた。レンツは旧棟奥の”香部屋”と呼ばれる祭礼準備室に寝かせられていた。硬い床から身を起こすとさっき祭壇の上にいた人物が丸椅子に腰掛け机に向かい書き物をしていた。香部屋に運んでくれたのはこの人物らしかった。壁には建築物の設計平面図に余計な線を付け足したような図面が一枚貼ってある。香部屋の中で他に目につくものと言えば分解されたオルガンが放置されていた程度である。実験道具のらしきものがあちこちにあるが埃を被りどれも今は使われていないようだった。懺悔室のように殺風景で暗く、陰気な印象の部屋だった。灯りは机の上を照らすランプしかない。
 
書き物をしていた人物、メンデルがいつの間にかレンツの顔を覗き込み、驚かせてすまないと呟いた。
 
メンデルは壁の図面を指差しながら「この処理系はこの回路と接続している」などと教会内の構造について説明した。レンツの予想通り、教会は内部全体が物理計算機だった。現在のものより何倍も発達した物で、後何世紀経ってもこんなものがあり得るとは思えず、まるでフィクションを聞いているようである。計算機の機能において一番の’重点は、機械の設計ではなく生物群への加工であり、機械はただの処理系だと言う。メンデルが遺伝子と呼ぶ生物群内部の機械的な何かの操作はレンツには難しく理解できなかった。しかしそれが肝なのだとメンデルは強調した。その遺伝子と呼ばれる機械的な何かは、機能するタンパク質をDNAの塩基配列として暗号化しているプログラムのような事が出来る部分と出来ない部分に別れている、それを利用してあの生物群を作りかつ操作するのだ。
 
メンデルは彼の専門外の分野にも驚くほど通暁していた。熱力学、鉱物学に秀でていたのには何処で学んだのかと驚かされた。数学も未解決問題全てを解いたという。「今解いて欲しい、少しでいい、1問だけでも」レンツは現在無数にある未解決問題を全て解いたという言葉を何故か嘘だと思えなかった。レンツはその言葉に飛びつき震える声で解くところをみせてほしいと請うた。「わかりました」メンデルはペンを持ち紙を探しながら「敬語はやめたのですね」とレンツに言った。
 
最初は無限問題、無限に存在するかという問題。双子素数から連なる全て。次にーは存在するか、一はいくつか、代表的なものにコールドバッハ予想がある。そしてーは全てーであるという問題・・・その他、科学工学において計り知れない重要性がありながら現在も「正しい」という事以外理解が未だ不完全である『空間の中の流体の運動を記述する方程式』の解の基本的性質、流体の初期条件に対し方程式の滑らかな解が実在、有界なエネルギーを持っていること。更には物理学の未解決問題である方程式の解が乱流であることについて。方程式自体の存在を問うものや21世紀で言うミレニアム懸賞問題まで、その問題一つで学問全域が変わってしまうような問をメンデルはレンツの前で止まる様子もなく解いた。
 
問題を説き続けているメンデルを横目に、嬉々としてメンデルが解いた問題が記されている紙を一つ一つ過程を辿って読んでいたレンツは落胆した。レンツには解らなかった。
「・・・なぜだ」
 
偉業に直面しているのにそれを理解できない事実にレンツは慟哭した。論理的な正しさはわかるのに意味を理解をしようとすると概念が置き換えられていく。最初は超関数など様々な新しい概念のせいだと思った。メンデルを見た時と同じような吐き気も催した。間一髪でメンデルがバケツを持ってきてくれたが結局吐いてしまった。
 
「毎回、私が現在の学問から逸脱した何かをやると誰に見せても数字とかその他諸々の概念が認識できなくなくなってしまう」とメンデルは言った。
 
「途中までは完璧に理解できるのに。どうしてだろう」レンツが聞くと「解りません」とメンデルは軽く答えた。
 
メンデルが特に秀でているのは物理学だった。物質構造や光に対する考え方が従来のものとは抜本的に異なっていた。現在のニュートン物理学を何段階も包摂したような論理をメンデルは有していた。その論理は今の物理学を超越していた。彼の論理に比べれば今の物理学は古典物理学とでも言うべきものだった。近似ではない不連続量に対する考え方は古典物理学とは全く別の学問体系を構築していた。その論理は現在で言う量子力学に相当した。つまりメンデルはたった一人で量子力学を構築したのだった。
 
「気になる細胞の構造を持つ人がいて、それが全てのきっかけだったんです」メンデルは言った。
メンデルが導き出そうとしているのは、量子力学の原理と法則が直接個体に反映する定量的な因果律だった。その因果律をメンデルは量子生物学と名付けていた。「量子」という名の由来はそのまま物質と電気の「量」を表すからだそうだ。メンデルは、量子生物学を追求することが、「
自分が自発的な意思を持つことを証明する」という目的の糸口になると考えていた。
 
レンツは好奇心を抑え、「そういえば費用はどこで調達しているの。設計とか工作作業が入るところは植物学の研究費用じゃ賄えないじゃないか」たわいない質問で時間を潰すことにした。ここに少しでも長くいたかったからだ。計算機もメンデルの頭脳もレンツの好奇心を埋められるものだった。レンツはメンデルが淹れてくれたコーヒーをすすりながら訊ねた。
 
「私の専門は植物といってもナップ院長と同じ分野なんです。葡萄の木の品種改良を院長はもの凄く期待していたから、申請しなくても院長の諮らいで追加費用が回ってきます」メンデルは少年のような瞳を輝かせて言った。
 
「都合よくて良かったじゃない」レンツが部屋に気を取られながら言うと、「足りなくなったら持ちだした金品を保証にして借金を作って踏み倒したりしてる」とはにかみながら答えた。
 
「資金の話も、計算機のことも今まで見つからないできたのは奇跡だね、旧棟に入るだけで解ってしまう事じゃないか」
 レンツが笑うと、メンデルはレンツに協力を請うた。この場所や研究、巨大機械や生物群の事は秘密にして欲しい、資金と資材を時々調達して欲しい。レンツはメンデルが狂人である可能性を疑いつつも、巨大な知性に対する強い好奇心から、絶好の好機だと思い、承諾した。このときのメンデルの所作からレンツは、メンデルは男ではなく女性なのではないかと思った。
 
旧棟を出て自室へ続く長い廊下をひたひたと歩いていると讃歌を歌う声があちこちから聞こえはじめた。午前3時は讃歌の時間だった。自部屋の戸を5回小刻みに叩くとフィリップが顔を出した。毎度のことだがこの大男の顔を見ただけでレンツは心臓が止まりそうになる。レンツを確認すると大男は無言でドアから退きベッドに倒れこみ再びいびきをかいて寝始めた。今日は賛歌第9番第1旋法の筈だ。
 薄い毛布一枚の寝床に潜り込みながらレンツは教会でみた頭上を覆う巨大管
状生物群、周囲を取り囲む真っ黒な巨大機械群、そしてそれを操作するメンデルの姿を思い返していた。あの教会全体が機械式の計算装置だという。現在の計算機械に比べ非常に汎用性が高く速度も比較にならない。基礎設計自体が別ものであるから解析機関のような部分も完成されており自由に設計可能な代物だった。そもそも物体を制御するところから技術の次元が違っていた。遥か先の時代の技術のようであった。それらすべてがレンツの好奇心を十二分に満たす物だった。仮にメンデルが狂人だとしてもメンデルは今のレンツが欲しい刺激をすべて持っているといっても過言ではなかった。旧棟や資金調達の為にナップ院長をどうにかして言いくるめよう。考えを巡らせながらレンツはいつのまにか眠りに落ちた。

5. 発端 

 1836年、当時14歳のメンデルはある実験的な興味から自分の足の小指を切り落とし胴体を切り裂いた。その直後から自分の人生が始まったとメンデルは考えていた。正確に言うと人生を取り返す為にようやく生き始めたのだ。レンツが帰った後の部屋でメンデルは過去を振り返っていた。
 
実験的な興味においてメンデルは機械と見紛うべき鋭さを持っていた。ギムナジウムの昼休み、踏み台に登り棚の本を取ろうとした時バランスを崩して頑丈でなかった棚は彼の上に倒れた。メンデルは床に体を激しく打ち付け背骨が折れるのに十分だと思われる衝撃を受けたが無傷だった。棚の本が散乱する床に座り込み何故自分は死んでいないのか恐ろしくなり原因を考えた。事故の始終を見ていた学友によってすぐ医務室に運ばれたがメンデルの体には擦り傷一つなかった 。これが発端となり、メンデルは自分が人間ではなく人間の「模写」である可能性について考え始めた。
 
翌日メンデルはナイフで足の小指を切り落とした。自分の身体が正常であることを確かめたい一心でギムナジウムの授業を休んで医務室に篭った。医務室の椅子が血で汚れないよう床に毛布を敷き、指にハンカチを巻き、先生の机から拝借したナイフで力任せに小指を叩き切ったが血が出ないばかりか断面に骨はなく、予期に反して視認できる程の均一な大きさに分かれた、透明な膜に覆われた赤い細胞が詰まっていた。皮膚は肉の表面が変色したものだった。赤い細胞自体は一切の変形をしなかった。
 
背骨の細胞も切り取った。背骨だろうと推測した硬い部分は骨ではなく単に肉が一時的に硬くなっただけだった。折れなかった背骨の細胞は一度切り離すとただの肉でありすぐさま変形した。捻じ曲げたまま水につけておいても細胞はいつまでも壊死しなかった。細胞は顕微鏡で覗くと通常の細胞とは完全に異なる形をしていた。
 メンデルは自分の体が全てこの細胞なのではないかと思い胴体を裂いた。背中と指では十分に断面を観察することが出来ないし体から離れる前の状態の断面を確認する必要もあった。背骨・小指の両方で痛みを感じなかったため、自分の身体の痛みを感じる場所はどこなのかを知る必要もあった。胴体を前方から15センチばかり裂くと上・下半身が分離した。体内に臓器はなく出血もなかった。手足の指先と背骨以外の赤い細胞には痛覚が通っているらしく胴体に激痛が走った。しかしメンデルは腹を割いた時の激痛を物ともせず探究心を優先した。断面を見るため、腹の辺りに頭を持って行く。背骨を動かした事により傷口がぱくりと開き内蔵をこじ開けられたような痛みがメンデルを襲う。

 断面を覗きこむと涙が落ちてきた。眼の細胞に涙腺は通っているのだろうか、涙さえ偽装なのだろうか。メンデルは断面を凝視した。冷や汗が垂れる。この細胞に神経は通っているのか。いや、眼の構造自体本当に存在しているのか。今、この眼で見ている光景は本当には存在しないのではないだろうか。
***
 
メンデルの細胞は余りに機能的で、人間の「模写」の為に作られた必然的な体のように思えた。細胞といい皮膚の色といい全てが繕われすぎていた。切った箇所は細胞同士を付けると何事も無かったかのように縫合され完璧に復元された。硬さも普通の腕のような柔らかさになり、骨があるべき場所の範囲は骨と同じ程度に固くなった。切除した細胞はただの肉で作った工作のようで皮膚は表面が変色し皮膚に擬態しているだけだった。
 
自分は人間ではなく人間の模写ではないか。メンデルは恐れた。自分が模写であるならば、自分の行動のすべて、すなわち自分がいま医務室にいることも、いま金槌で肉を叩いていることさえ、人間の模写としての機能であり、初めから決まっている必然をたどっているだけなのだ。メンデルは恐ろしくなり機能から逃げたいと思った。
***
 
あるものを意図的に模写したものは、そのあるもの自体になることはありえない。一言で言うと「本体と模写は違う」という当たり前の話である。人間の模写があるとする。人間の模写は人間ではありえない。メンデルが思う人間とは主体的な意思を持ち、それを伝えるかどうかをコントロールできる者、言い換えると偶然性を持つものだった。もしオリジナルと模写、区別ができないほど両者がそっくりだったとしても、模写の機能は、模写としてつくられた時点で、オリジナルの模写として確定されていて、模写以外として存在する余地はない。だからメンデルは人間の模写について、存在においても機能においても人間にはなりないと考えた。
 
こうした「模写」の考え方を、未だ解き明かされていない「遺伝」の状態に当てはめて考えると面白いかもしれないとメンデルは考えていた。19世紀、メンデルの法則以前の遺伝は、連続する混合遺伝と信じられており、メンデルは遺伝は離散的なものだと認識していた。メンデルは哺乳類などすこしでも自分に近くなる事象についてはこの論理を考えようとしなかった。その概要は機械論と酷似する。メンデル自身はそれらを提唱した人物の内の誰よりその論説の近くにいが、その考え方の射程範囲が自身の身体まで及ぶとは微塵も考えていなかった。しかし、その「模写」の論理が自分に当てはまるのではないかと考え出すと、全ては強迫観念じみたものに変質し始めた。
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今にして思えばギムナジウムに入るまでは単なる布石であって、その後の流れは生まれて洗礼名を授かった時から決まっていたのかもしれない。当時そういった予測をメンデルはした。機能としての行動の道筋や論理を自分はたどっていたのかもしれないと考え絶句した。どこまでが機能なのかという点でメンデルは「自発的な意思決定」の有無すら疑った。それらの疑念は、メンデルの考え過ぎる性質も災いしてメンデルにある決断をさせ人生の方向性を決定づけた。自分が「人間」であることの証明をしようと幼い彼は考えたのだ。
 
それからメンデルは現代物理学に取り組み、細胞の構造を解くために量子力学をたった一人で構築し、自分の細胞の構造を研究し始めた。その研究はもしかすると行動自体が機能ではないのかという可能性を払拭するために始めたものだった。だからメンデルは量子効果と生物に及ぼす関係の構造を調べ尽くした。修道院で研究を始め実験場所にした教会旧棟の祭壇は機械で占められた。神学校時代を卒業、成人して数年経ち、修道士から叙階を受けて司祭になった現在でもまだ自分の細胞の構造への理解の糸口は発見できなかった。

6. 変化 


 
メンデルと出会った冬から丸1年経ち、旧棟は以前にも増してただならぬ様相を呈しはじめた。この一年、レンツはメンデルの研究を修道院から隠し通すため多大な労力を払い、隠蔽工作と院長の動向操作に奔走した。誰にも見つからないよう旧棟を守るというのは予想外に困難でありレンツは苦戦した。その過程で一つだけ変わった事がある。大男フィリップが仲間に加わったのだ。隠し通すと一言でいっても誰か一人旧棟に近づき木戸を開け、中を見てしまうだけで失敗する訳で、それをレンツ一人で防御するのは非常に困難だった。その上、日課の労働作業の中に礼拝器具の運び入れのため旧棟裏付近に立ち入るものが含まれていた。ここは誰かが旧棟を開けたくなるだけで開ける理由ができる場所だ。そういう自由行動に比較的寛容であるこの修道院の長所が悪い方に働いた。学者が集まる場所でもあるせいで奇行も少なくなく日々油断できなかった。確実を期す為に誰か協力者がほしいとレンツはメンデルに訴えた。
 「植物の方に後輩がいるのですが、物事に頓着しない感じの方で仕事の肩代わりと引き換えに旧棟への荷物の運び込みと資材調達を押し付けた事がある。おそらく協力者になってくれると思います」というので会いに行くとそれがルームメイトである大男フィリップだった。フィリップを作業に巻き込み二人で口裏を合わせた。大男フィリップは随分協力してくれたが彼は他人に無関心なその性質から最後までメンデルの事を知りたがらなかった。
 
旧棟には礼拝の時に使う器具がある。その管理をどうにかレンツが受け持てるようにして、場所を移動させる為に労働の際の器具の手入れを事前に全員のスケジュールから外す小細工をしておく。全ての人間と仲が良いレンツにはそれが可能だった。メンデルはその間ずっと部屋を行ったり来たりしてた。教会は倉庫として使うには狭すぎるなどと報告をして新しい倉庫を作らせ、旧棟に近づけないようフィリップが細工をし、最終的に表口をセメントで完全に塞がせた。裏口も難癖をつけ封鎖させた。入るときはメンデル指定のパスコードを打てば入れるようになっていた。レンツはメンデルの資金を工面したりもした。レンツとメンデルの間には共犯関係が成立していた。メンデルもレンツを信用し頼るようになっていた。
 
メンデルは自分が模写である可能性についての話をレンツにしていなかった。メンデルは親密になったら話そうと思っていた。

7. 必然


 レンツが教会に入り浸る時間は日増しに増えていった。レンツは、メンデルの話す論理を信じてこそいなかったが時間をかけて引き込まれていった。
 メンデルの一番の目的は、自分の行動が既に確定されているのか予測可能な範囲に収まるか否かを確かめることだという。
 
メンデルが量子力学と呼ぶ論理を構築した事も非常に興味深いと思っていた。メンデルに対する最初の評価はすでに覆っていて、レンツは次第にメンデルの知性に尊敬の念を抱きはじめていた。
 
しかしそれは、メンデルの考える論理をすべて現実から切り離し、今世紀の学問を一旦忘れて受け止めた場合の話であって、メンデルの今世紀の学問からは大きくかけ離れたところにある理論や論理体系をレンツがそのまま信じることができるという話ではなかった。
 
学問には正常な流れがあり、レンツたちはそれに沿って研究をすすめてきたのだ。レンツが尊敬する第一線で活躍している同姓のロシアの物理学の研究者もいるが、その研究者が最近発見したという電磁気学の法則もメンデルは既に知っているし、使っている。これから先何世紀もの間に様々な人たちが一生を賭けた努力の末するであろう発見を、メンデルは既に全て知っているのだ。レンツは今現在、解剖学と古生物学を研究しているが、メンデルの研究を同じ土俵で受け入れるということは自分と、自分の関わる学問全体を否定するに等しかった。しかし、当時のレンツは、メンデルに夢中なあまりそうしたことを考えようともしていなかった。
 
後から振り返ればレンツはメンデルを通して得た知識を吸収し吟味するので手一杯で、実際自分がメンデルと関わっていることが、どういうことなのか、どういう意味をもつのか、省みる意思も気にする余裕もなく、好奇心が先走り過ぎていたということなのだろう。
 
しかし、その日からの出来事はレンツが予測する範囲には留まらなかったのである。1年前のその日から起こり続けた一連の出来事は決して突発性のものではなく、予兆は確かにあったし、必然性もあった。出来事へ繋がる全ての条件が揃ったところに決定的な要素が与えられただけなのだ。
 
まずメンデルの態度がおかしくなった。メンデルがこちらに合わせる義理はないので大抵の場合レンツの方がメンデルがいる時間帯を狙って教会に向かう。寒々とした香部屋は普段はほとんど使用されておらず、メンデルはほとんどの作業と思考を祭壇の上でしている。他の場所には巨大機械やその時使っている植物が高速で物理演算をしていて場所がないからである。教会内部はすでに原型を留めていないし、一年をかけ今ではもはやレンツに理解できる構造の物ではなくなっていた。研究が収束に向かっているという事実しかレンツには解らなくなっていた。メンデルは主に夜中に活動するのだが、今日、というより前の晩は現れなかった。ここ最近は連日没頭できるテーマが見つかったようであったので意外に思い、更に言えば前日のメンデルの様子が妙に引っかかった。
 
前日の昼間、労働の途中でふらりと教会に入るメンデルを見つけレンツは後を追った。メンデルは身廊(しんろう)の途中で内陣までいかずにただ立ち止まっていた。メンデルはひとつの教区をまかさられているので病院付きの司祭としていまごろ働いているはずである。
 
「なぜこんなところにいるの」
 
「何となくここにいたくなったから」メンデルは植物群を眺めながら言った。
 
「司祭の仕事はどうしたの」
 
「・・・・」
 
「熱でもあるのか、大丈夫」
 
「・・・・」
 
いつもはこちらが聞いていなくても早口で理論の説明や新しい考えを捲したててくるくせに押し黙ったままだったり、生返事しか帰ってこなかったりした。
 
脱力している様で覇気がまるで感じられなかった。全ての目的を失ったようにふらふらと内陣奥の祭礼準備室に踏み込んでいくメンデルを見て何故か気味が悪くなりレンツは外へ出ることにした。
 
メンデルの研究は実に多岐にわたっていたが、研究を進めること自体を望んでいるようには見えなかった。他の研究者にあるような研究自体や、それを通した俗的な物への執着が一切なく、探し物をするかのようにあらゆるテーマを横断し、やっと一つに決めたかと思えばもう二度とそれを再開しなかったりする。気まぐれと表現することもできるかもしれないがレンツにはメンデルが確なる目的意識を持っているように見えた。
 メンデルの研究は主に「細胞」からスタートしている。「細胞内で量子効果を起こすことができるかどうか」を調べることがいまの大雑把な課題であり、それは当初メンデルが喋っていた「可能性を自分がそのまま辿っているかもしれない」という話の証明になるかもしれないらしかった。
 
メンデルの部屋を出ると、近くには支柱があり、会衆席とよばれる普段信徒たちが座る馴染み深い場所に機械の子機が並べられていてコードで並列につながれている。その場所をくぐりぬけ、機械の母体が壁のように並べられ積み上げられた入り口を見つめた。これらは一年たった今でも回路を利用した情報の高速度な計算とデータ保存に使われていて、他の資材が必要なことがあってもこれらに関しては入れ替え用の費用すら不要だった。植物群は空中でぶつかり合い、統合されて演算結果を出力するが、その過程の膨大な量の計算は全て、一定容量まで植物自体に保存されている。
 
植物自体が記憶を保持しているのでそれを後から再生すれば良い。メンデルの考え方は進みすぎていて現実と切り離して考えなければ理解し難いので、与太話の感覚で聞いていて信じてこそいないのだが、レンツは自分が既にメンデルの知性と論理に引き込まれ、メンデルを深く尊敬している事に気づいていた。
 
メンデルの周りで起こる出来事は非常に刺激的だが、次第に何か凄い満足をくれる取り返しの付かない事が起こる予感がしていた。しかしレンツはメンデルの世話を焼いたりする今の生活に夢中になっていた。
 
更に、ちょうどひと月前、レンツはナップ修道院長からウィーン大学留学の機会を授かっていた。自分はメンデルのそばにいてメンデルから知識を吸収することと留学のどちらを選択すべきか。漠然とした将来への不安は生活の楽しさのせいで簡単に高揚にすりかえられた。ウィーンへ留学出来る事になったことになったことも含め、この時がレンツの成功の絶頂であった。

8. 孤立

 渡り廊下に戻ると書類を抱えた集団とすれ違った。仕事や作業の報告のためだろう、レンツは軽快に挨拶をした。通路の途中で誰かとすれ違うことはそう珍しいことではない。その中に数人顔見知りが混じっていたので何の気なしにそちらに視線を向けた。しかし彼らの様子はいつもとは違っていたのである。目があうと集団で歩いていた彼らは待ち構えていたように嫌悪の塊を目の端から投げつけてきた。
 数時間が経ち、ようやくレンツは全ての人間が自分を無視したり軽く扱うようになっていることに気付いた。
 
新しく古生物学を選択した後輩達もレンツを避けた。唯一普通の反応が返ってきたのは相部屋のフィリップだけだった。もっとも彼の場合普段から目を合わせる以上のリアクションをしないのでそれが普通かどうかについては何とも言えなかった。
 
こうなった原因をレンツは解っていた。一概に言い切れないのだが、レンツは一年前のあの日以来この狭い修道院内の研究グループや権力を誇示したい人達相手に上手く立ち回るために築き上げた交友関係、そしてギムナジウム、神学校時代からの本当に大切だった友人を蔑ろにしてきた。凍結されていた人間関係全てが徒党を組み険悪な塊になってレンツに一矢報いた。つまりレンツはこの修道院の派閥から完全に干されたのだ。

 決行されたのが今日なのか、それとももっとずっと前からなのかそれさえ解らないくらいレンツはメンデル以外の誰とも話さなくなっていたことに気付き呆然とした。レンツは、メンデルの学問の終着点を見たい一心であった。メンデルの知性への好奇心と尊敬が他のあらゆるものを圧倒していたからこそこんな状態に陥ったのだった。メンデルに時間や能力を割いた分だけ、別の代償を払わなければならなくなることを、レンツはこのとき初めて自覚した。メンデルを取ることに自分の好奇心が満たされる以上のメリットはないのかもしれない。自らの好奇心を抑え、人間関係を円滑に戻し留学もして正常な学問発展の流れに乗るという選択肢もあることにレンツは初めて気付いたのだった。
 レンツは場に居づらくなり中庭に出て煙草を吸ってみた。予想通り注意する人すらいなかった。通りかかった旧友と目が合ったがこれ見よがしに無視された。
 
多くの人は学会を、崇高な理念の下に学問や技術の発展を願って運営されていると思うかもしれない。だがそれは幻想に近い。困ったことに研究者としてのキャリアを築くために、次に出世しそうな若者を間引き足を引っ張り合うのである。そして幾ら学識を持っていてもそれが人格と一致することはまれであり、むしろより派閥争いに勤しむ。レンツには、敵を作らず好かれる人間であり続けるために払ってきた努力があった。それをメンデルにかまけて蔑ろにした代償で全てが崩れてしまったのだ。たった一年のロスで築いてきた関係全般が崩壊してしまったのである。
 
「こんなヘマをするなんて、ぼくがハインツェンドルフ家を追い出されたのも当たり前だ」レンツは自分がハインツェンドルフ家から修道院に出されたことと今の自分の状況を重ね合わせ、嘆いた。
 
「いくら狭い領地であっても治めなければならないのだ。こんなだから、自分は、ハインツェンドルフ家の後継者には徹頭徹尾向いていないと判断されたのだな。人望がなさすぎるんだ」レンツは煙を吐いた。

 
実際は違っていた。レンツが俗世から隔離され修道院に出された理由は、ハインツェンドルフ家の人々が、思慮深さを遥かに上回る好奇心をもつレンツの性質をよく理解していたからだった。レンツがその性質のためにウィーン構造改革の際の暴動に参加することまで予想し危惧したことに原因がある。
 
当時の宰相メッテルニヒの政治は不味いもので隙がありすぎたのに誰もそれに気付かなかった。それがオーストリアの国民性なのかも知れないし、彼以外有能な支配者がいなかったためかもしれない。実際に彼が追放されてしばらくオーストリアには権力の空白期間が続く。そして、きっかけと時期が合えば体制が動揺し宰相メッテルニヒが革命によって倒れ宮廷を拠点に暴動の波紋が広がる事、そして後に<ウィーン三月革命>と呼ばれるその改革にレンツが参加してしまうだろうことまで見越して彼らはレンツを俗世から隔離したのである。
 
そんなことを知りもしないレンツは、未だに自分の両親であるハインツェンドルフ領主伯爵夫婦に対し、複雑な思いを抱いていた。反政権だと思われることを危惧したハインツェンドルフ家の人たちは、ナップ修道院長に真相を伝えなかった。そのためナップ修道院長はレンツを何らかの事情で後継から外されたこどもだと認識していたし、ナップ経由でレンツが真相を知る由もなかった。レンツにとってナップは親代わりをしてくれた人でありレンツはナップに恩義を感じていた。改革が一年後に迫る今もレンツはメッテルニヒに興味すらなかった。ハインツェンドルフ伯爵夫妻の思惑は成功したのだった。

 レンツのことを知らないらしい下級生の見習い修道士が中庭を通りかかり、煙草を吸うレンツを訝しげに見ていたが、隣の誰かが耳打ちするとすぐ目を逸らした。
 
こんな状態ならいっそメンデルを棄てウィーン大学に留学したほうがよいのかもしれない。でもまあ焦らず時間をかけて考えようなどと、この時のレンツはまだ悠長な事を考えていた。

9. メンデルの選択

 レンツが旧棟に顔を見せなくなってからしばらくの間にメンデルは、自分の生細胞内部で量子コヒーレンスが起こっている事をつきとめていた。
 人体には分裂と増殖を機能として担当する幹細胞という細胞がある。メンデルは自分の身体を構成する未知の細胞が、構造だけは幹細胞に似ているという理由で、<M細胞>という名前を付けた。人体の模写のための細胞にすぎない自分の細胞が、本物の人体のもつ細胞に似ているということがメンデルには大きな喜びだった。<M細胞>は細胞の構造だけは幹細胞に似ていたが、幹細胞とは生成過程も機能も違っていた。

 生物の振る舞いには一定の秩序が見られるが、量子力学的現象が生命に何らかの役割を果たしているのではないかとメンデルは考えており、その考えをメンデルは「量子生物学」と名づけた。
 
実際、生細胞の構造には、無生物を量子効果が左右するような温度まで冷やしたときと似たような秩序がみられる。零点振動に至るまでの無生物の構造の無秩序さとはまるで違うのでメンデルは「量子力学的現象が生命において役割を担う」という量子生物学の論理をここ数年間半ば本気で信じ考えていた。
 
量子学自体存在しない時代なので論説は全て世界でメンデルただ一人で打ち立てた学問体系であったがそれは十分に正しかった。

 メンデルの<M細胞>内には遺伝子の役割を一時的に果たしている「特定の物質を暗号化出来る領域」があり、そこにある電子が量子コヒーレンス状態になっていた。この量子コヒーレンス状態はほぼ永続的なシステムによりうみだされており電子は<M細胞>内にあった。ついでにいえば電子には磁場を感知する機能があるように見えた。何らかの原因で磁場と引き合い、磁場の位置を算出するような仕組みになっているらしかった。
 
<M細胞>は剛体壁によって外部とのエネルギーの行き来が隔てられた孤立系細胞だ。外部とエネルギーのやりとりが出来なければ細胞を維持存続させることはできないが、細胞内で量子コヒーレンスがあれば空間的に隔てられていてもエネルギーや振動を外へ転送できる。量子コヒーレンスによってのみ代謝が存在し、体を存続させる事ができるのだ。
 
M細胞>内の「量子コヒーレンス」こそが細胞の機能を全て肩代わりして維持しメンデルの体を元々のあるべき形で動かし続けていたものであった。つまり、もしメンデルが死んでもメンデルの細胞自体が死なない限りメンデルの体はあるべき姿で動き続けるのである。
 
自分の細胞の構造を解き自分が自発的な意思を持つことを証明することはメンデルの少年時代からの悲願であった。細胞の構造を解き明かしたことによって自身の身体が「機能」として再生されていたことの証明をしてしまったメンデルは、目的を喪失した代わりに考えうる最悪の結果を手に入れたのだった。メンデルはただ呆然としていた。自分の細胞の構造を突き止め自発的な意思が有ると証明するという目的を反証で達成してしまった今、何を目的に生きて行けばよいのだろうか。
 
メンデルは生細胞の構造を利用し全ての物質をメンデルの細胞と同じ孤立系の物質にすることを思いついた。孤立系とはエネルギーの推移がない事である。完全な孤立系状態にした物質の中に量子もつれを作り出し、全ての物質を爆発させる決断をメンデルはした。最初の段階では漠然と、物同士の境界を消滅させる程度に考えていたメンデルだったが構想しているうちにより本格化した。その構想はメンデルの気を紛らわせた。時々ふらりと旧棟に立ち寄って機能について考える事も増えた。メンデルは次第にレンツの事を忘れていた。

10. レンツの決意

 「レンツ先輩、古生物学についての論文で足りない資料があるのです」と主に脊髄を研究している後輩が嫌そうに聞いてきた。

 解説すると古生物学の専門は入りたての頃は情報が少ない。化石など現物ありきであるためその情報自体も非常に高価で稀少である。何かをしようとしても情報が回らないため論文の入手すらままならなくなることがある。その結果内輪の結束がかたくなり、新入りには資料も現物も回ってこないということが繰り返される。総合分野であるため基本的に理科は全科目網羅しなければならない上現代の医学部に入るのと同じくらい知識の深度も必要であった。当時のウィーンで医学研究といえば欧州屈指の水準で驀進中だった。それなら何故、わざわざ現代限定なのか疑問に思うだろう。答えは19世紀ウィーンで高水準なのはあくまで研究であって、医療技術ではないということだ。人間の治癒ではなくもっぱら死んだ人間の解剖と病気の研究が進み、研究の横で人が死ぬ光景が繰り広げられていた。とりわけレンツの時代は人間の持つ治癒力論が広まり患者放置による死亡率の増加著しく、ウィーン大学では解剖用死体に困らなかったという。それはともかく古生物学について。なにしろ世界が狭い上に、身内ばかりに情報が行くため、研究者に知り合いが沢山いないと全く情報が入らない。最初のうちに何らかの手段を使い学会に積極的に出入りしていなければ出世も難しい。その閉め出し方は半端でなく、いまの落ちぶれた立場のレンツにさえも聞かなければならなくなるほどなのである。
 
古生物学の研究室で後輩のために頼まれた論文用の資料を探していると、イギリスから届いた会報が珍しく話題に上った。回し読みが終わった会報をめくって話題の記事を探した。記事のタイトルは『階差機関の実現について』というものであり、”電子機械コンピュータ”についての小さな記事だったが研究室の皆は専門そっちのけで議論に熱くなっていた。
 
議論を聞きながらレンツはメンデルのことを考えていた。会報の記事に出てくる”電子機械コンピュータ”は、パンチカード式機械であり、単純に情報を記録するだけのものであった。メンデルの作り出す巨大計算機に比べて非常に原初的であることは言うまでもなく、劣っていることも明白だった。ただ一点、わかったことは、会報の記事から伺える現代の学問の最先端の遥か先がメンデルの論理に連続するだろうとレンツにも感覚的に予測できたということである。やっと現代の学問の最先端が更に先を行くメンデルの後ろ姿を視界に捉えたと言うべきだった。だが今レンツはその事実が無性に怖かった。
 
もし、メンデルを通して知ったものがこれから先の学問の全てであるならば、この修道院で学問に身を捧げて死ぬ自分は何者なのだろうと考え、この時代生きて学問をする人間の意味はなんだと考えた。そして熟考の末、自分はおそらくメンデルの軌跡をひたすら辿る人生に意義を見出せないだろうと結論づけた。逆に現在自分がメンデルのためにしているような隠蔽ではなく、発表をしてみたとして、メンデルの論理や思想を世間がどれだけ受け入れるだろうか。メンデルの考え方は進みすぎていて現実と切り離して考えなければ理解しがたいものだった。
 
様々な技術が追いつかない状態で世界がメンデルの研究内容や技術諸々を知る事は弊害にしかならない。仮にメンデルの研究が学問の進化を早めることになったとしても今生きている者に対してはただの長い停滞の期間にしかならないだろう。なぜかというと、今最先端で研究している人は最先端ではなくなってしまうし、新しく発表されたメンデルの研究を解き明かし、今の学問から遥か先に更新されたところから新たなステップで学問をやり直さなければならない。子供は別として同時代の研究者にそんな時間が残されているとは限らない。
 
また、現代にある学問の体系を遥かに更新した場所、またはどれだけ更新されようとも知り得る事すらなかったような体系の芽をメンデルは生み出しているのかもしれなかった。それらが遥か先の学問体系のどこにつながるかは誰にもわからないはずだ。第一線に立ってそれらの技術を解析できる、その人物たちの中にはきっとレンツはいない。
 
レンツが自らの好奇心に従ってメンデルの学問に付いて行くならレンツは普通の正常に積まれてきた学問の流れに回帰することは出来なくなり、永久に閉めだされるし、自分もその意義を理解できなくなるだろう。しかし、一方でメンデルの知性についていけなくなる日がくることも明白だった。それを超えてメンデルの学問の終着点を見たいという強い欲求がレンツにはあった。自分のその欲求にしたがうべきなのか、それとも正常で通常な流れに乗って教授になることを目指すべきなのか。自分はこのままメンデルに付いて行くべきなのだろうか。自分はこのまま行けばどの学問の流れからも置いて行かれてしまう。レンツはそうなることを怖れた。
 
自分はメンデルの人生と一瞬交差しただけの存在であり、そうなった場合メンデルの様々な出来事にこれから先関わることはないのだ。どちらにしろメンデルの研究はそういった流れを無視した場所で一人で進化しつづけている。
 レンツは結局メンデルから逃げることに決めた。これ以上知ることが怖かったのである。またどの流れからも置き去りにされ忘れられるのを畏れた。ウィーン大学に留学した後、教授職まで上り詰め、聖トマス修道院に何らかの圧力をかけてメンデルを潰そう。レンツはそう考えた。自分の好奇心が強すぎてメンデルが進化しつづけていたら自分は抗うことができずまたここに帰ってきてしまう。一回徹底的にメンデルを潰す以外に道はないと考えたのだった。 
 
レンツはその日のうちに大学留学の件を受諾するとナップ修道院長に向かって急いでもらえるよう申し出た。留学用の書類に捺印を押すとそれはナップ院長の机にそのまましまいこまれた。
 
「ようやく学問に熱心になってくれたようだね」ナップは親のようなまなざしでいった。
 
「良い、良い、立ち直りは何にしろ早いほうがいい、うん、良い決断だ」始終機嫌が良さそうなナップを見ながらレンツは罪悪感とわけの分からなさで一杯になった。
 
「そろそろ落ち着こうかと思いまして」レンツは殊勝な態度で答えた。
 
「ふむ、君はとりわけ学者向きの頭だし若いからどうにでもなる。それに君はいま古生物学なんかやっているけど物理の成績の方がよかったんじゃないかね。ドップラー教授とかエッティングスハウゼン教授に師事するといい。一筆書いてあげよう、どれそこの紙を貸しなさい」
 
ナップ院長は神学と哲学の権威であるから面識はあるに決まっている。鼻歌でサインをして紹介文を書くナップを直立不動の姿勢で待ちながらその無神経さにレンツは腹を立てていた。しかし一番気持ち悪かった理由は全て解っているというような態度に加えて、「学問に熱心」という言葉だ。おそらくこの19世紀で一番の学問を潰そうとしているのが自分であり、それを知っているのも自分だけだというこの状況でかけられるものとしては滑稽すぎる言葉だった。
 
なるべく早く先生に師事したい、失った時間を取り戻したいのだとナップに甘言を並べ、学問に取り組む準備とウィーン大学に慣れるためという理由も重ねて、一週間後の2月20日にまで留学の日取りを早めてもらった。院長はレンツが学問に対して意欲的になったことを感嘆していた。レンツは全てが終わってしまったような気分であった。
 
「本当に頑張ってきてくれ」ドアを閉める直前ナップ院長は快活に言った。嫌いだと思いながら罪悪感の正体とメンデルについてレンツは考えたがよく解らなかった。
 
メンデルへの報告について悩んだレンツはその翌日、控えの間の投書箱でメンデルを誘い出した。投書箱は意思疎通や、特定の人物への連絡事項の伝達に修道院内においてのみ使われるものである。

11. 報告・殺害

 これまでのメンデルとレンツは、その間に歳の差はあれど上下はなく対等な友人といった関係であった。少なくともメンデルはそう思っている。しかしいまやレンツにとってメンデルは巨大な知性と脳みそを引きずりこちらへ行進する怪物のように思えるのである。レンツが教会旧棟に向かうとメンデルは入り口で立って待っていた。何故か居心地が悪く上手く切り出せず挨拶をされても生返事しか返せなかった。レンツは本人を無視するように勢い良く「留学の日取りが決定したんだ」と早口で喋った。「他にも前々から誘われてはいたので良い機会だったんだよ。出ていく為なら理由をつけてでも、教授にでもなって一生ここには戻って来るまい。君に合わせるのに疲れた、現を抜かしている場合じゃない、二度とどこにも戻れなくなってしまう」

 レンツはこれまで思っていた等を捲し立てるように滔々と語った。語り終わって我に返ったレンツはメンデルの叱責を畏れ目も合わせられなかった。メンデルには謂れのない事柄ばかりだとの自覚があったからである。だがしかしメンデルは拍手をした。「なぜだ」声を振り絞って呟くと「だって友達なのだから。私は祝福すべきだろう」と当然のように言った。あっけにとられるレンツにメンデルは続けて何かを言おうとした。
 
その時教会の中から大きな物音が聞こえた。驚いて戸を開けると中にシリル・ナップ院長が呆然と立ち尽くしていた。ナップは、レンツがロックを解除して裏口から旧棟に入って行くのを見て、閉まりかけた扉の隙間に足を挟んでこじ開け侵入したようだった。院長はレンツとメンデルを見た瞬間我に返ったかのように騒ぎ始めた。その声を聞いた瞬間、レンツは様々な感情がないまぜになり落ちていた角材をつかむと院長に駆け寄り腕を振り下ろしナップを絶命させた。殴った時ナップの頭の右端にも負荷がかかるのを感じ見るとメンデルが鈍器を院長に命中させ振り下ろし終わっていた。 つまり二人同時に院長を撲殺したのである。レンツはナップと目が合うと腰の力が抜けしゃがみこんた。
 
メンデルは、「私には考えがあるからそう心配しなくていい」と静かに言った。その顔には冷たく晴れやかに微笑が浮かんでいた。メンデルは修道院ナップの服をまさぐり鍵を二つ見つけるとレンツの手の平に置いた。ひとつはナップの部屋の鍵、もうひとつは書類の入った机の引き出しの鍵だった。そして耳元で「小包は必ず受け取ってください」と意味不明な言葉を言った。

12. 逃亡・再生

 メンデルから渡された鍵を使って院長室に侵入したレンツは、素早く書類を偽装すると適当な理由を繕って留学先へ電話をかけ急いで自分の部屋に戻った。トランクには部屋の中身以外に換金できそうな物をなるだけ沢山詰め込んだ。最後にその上から少ない衣服を乱雑に押し込み無理矢理にトランクの蓋をしめた。大まかな準備が整うと安堵で虚脱状態になり床に座り込んだ。聖トマス教会からウィーン大学に向かうには馬車、トローリーバスなど様々な交通手段がある。しばらくこうしていてもどれかには間に合うだろうと考えレンツはしばらく頭の整理をつけることにした。

 今までの喧騒と打って変わって静かな室内で不意に自分のこれまでの行動を振り返ると自分は何をやっているのかと腹立ちまぎれにトランクを蹴り飛ばしたくなった。しかしすんでのところで思い直し代わりに勢いのままベッドに体を預け、その姿勢のまま相部屋内の自分のスペースを見渡した。物が無くなるといかにも修道院という簡素さ漂う部屋である。入室するときにルームメイトのフィリップから「私の場所を侵害するな」と命令口調で通告されたことを思い出した。一方、それ以外は全て黙認するという。フィリップは一種の潔癖症のような性質を持っていた。他人が自分の時間や物、場所に入り込む事を過剰に生理的に嫌悪し警戒する。しかし彼のそうした距離感はこの修道院にいる間中レンツにとって心地良いものだった。「規律にふれることでもいいのか」と聞くと構わぬ、自分の知ったことではないという意味の答えが返ってきた為、レンツは自ら白チョークで便宜的な線を引き、内心嬉々として酒やその他嗜好品を白線の内側に並べたのだが、フィリップが「大抵の人間は自分の容貌に怯えるだった、しかし君は特殊な人間だ」と物珍しそうに呟いていたことを覚えている。昔から自分は好奇心がなによりもどの感情より勝る性であった。好奇心に憑かれている間はどんな事が起こっていても状況が見えはしない。自分でこの性質を疎んじた時期もあったがなんとか共存してきた筈だった。どうしてこんなことになってしまったのか。神経質なまでに整ったフィリップの領域と荒れに荒れた自分の領域のコントラストが目に入り、不思議と気分が落ち着いた。思えばこの一年の間に随分と様々な事が変わってしまった。神学校時代からの友達と再度縁を繋ぐことも難しい。そんな場合ではないのは百も承知なのだがまるで一人夢に現を抜かしていたような気分である。
 
時間が来てトランクを膝に置き馬車に揺られつつ、あらためてどうしてこんなことになったのかとレンツはぼんやりしていた。
 
結局誰にも連絡せずに修道院を発つことになった。フィリップだけには伝えたいと思ったのだがすれ違うことすら叶わなかった。誰かが「人殺し」と叫び追いかけてくる妄想ばかりしてしまい、レンツは未だに落ち着くことが出来ず馬車の窓から遠ざかっていく修道院を何度も確認した。
 
近くには御者しかいない。ガラスで隔てられているせいで会話で気を紛らわすこともできず、レンツは打ち消そうとしても脳裏に浮かぶ死体の妙に生々しい感触とへこんだ頭蓋骨を嫌嫌ながら何度も反芻していた。
 
しかしレンツが自分自身について何より意外だったのは、ナップ院長を殺す直前、自分が旧棟の技術を守らなければと考えた事である。これからそれらを捨てるために動こうとしているのに、レンツは自分の中に大きな矛盾を感じていた。
 
同時に「小包を必ず受け取って下さい」メンデルがレンツに囁いた意味を何度も考えていた。
 
メンデルは、レンツが行った後すぐナップ修道院長の死体を部屋まで引きずっていき、彼の全細胞が外部から介入されないようにしてから量子効果を引き起こし代謝を行わせた。そしてそれは成功した。ナップ院長自身は絶命しているが同じ行動を起こす機能が出来た。メンデルは試しにナップの死体を機能にしてみたのだ。院長は色々と忙しく動いていた。そしてメンデルは「決断」の準備に取りかかった。

13. ウィーン大学

 ここから先は、最後の人間として死んだレンツの記憶をそのまま綴る形になる。なぜならメンデルの最期を見た人間がレンツの他に存在しないからであり、またレンツが最期に見たメンデルの姿がもっとも鑑賞に耐えうるものでありそれより時間軸が進んだメンデルの姿もレンツ自身も、彼ら自身の高揚した心情と対照的に表記できない悲惨な姿だったからという理由でもある。

 修道院を出たレンツは安息の時間を得たように感じこのまま何にも煩わされないでいたいと思った。馬車でブルノにつくと交通手段を鉄道に替えウィーンを目指した。その道中レンツは自分の下した決断が果たして正しかったのかについて延々思いを廻らせていた。
 自分
がメンデルから逃げ出したのは、普通の学問とは全く異なるメンデルの論理体系から逃げ出さなければ自分はメンデルの論理も通常の学問も両方理解できなくなり両方から弾かれてしまうことを恐れたからだ。自分は早晩メンデルの論理についていけなくなる、そうであるならば限界に直面する前にメンデルの論理を切ろうと思ったのだ。
 
もっとも一人でつくるかぎり論理には結末がある。メンデルの論理が他と混ざり合わずたった一つのままで辿り着く結末をレンツは見たかった。メンデルの研究を自ら理解できなくなる恐怖から逃げたにも拘らずその結末を見たいと欲望する矛盾にレンツは直面していた。それは否定しようのない欲求であり好奇心なのだった。そして欲求の為にすべてを捨てる事は出来ないとレンツは考えた。何かの欲求が全面に押し出されその欲求の為に動き続ける陳腐な人間になりたくないと考えた。

 降り立ったウィーンの町は活気にあふれていたが、レンツの頭には今猶ナップの頭蓋骨の残像がちらつき、殺人を犯した動揺に加えそれを隠して孤独な留学生活に入る不安が渦巻いていた。果たして自分の決断は正しかったのか、答えは出ない。しかし荷物をかかえてウィーンの街を歩くにつれ、答えが出ないまま自分を無理矢理納得させ奮い立たせて前に踏み出すしかない状況に追い込まれていくのだった。
 
「持続し続ける興味とは陶酔だ、その時点で対象の本質は見えなくなってしまっているのだ」とレンツは思った。自分のメンデルへの興味は麻薬のようなもので正常な興味ではないのだろう。もし自分がメンデルに価値を持たせて陶酔してしまうならばメンデルに近づかない以外方法がない。レンツはここウィーンでメンデルを忘れて生きることが最良の選択なのだと自分に言い聞かせた。
 
レンツは城壁を背に地図で大学の場所を探した。中世以来、ウィーンの都の周囲には堅牢な城壁が張り巡らされ諸外国の脅威を防いでいる。実際この城壁はオスマントルコによる包囲をはじめとする幾度もの攻撃からウィーンの街を守ってきた。レンツはこの壁に自分も守られておりここにいれば心の平安を取り戻せるのではないかと思った。

 聖トマス修道院はオーストリアの地方の端に位置しており交通機関のあるモラヴィアの首都ブルノまでは馬車で移動せねばならない。ブルノ経由でウィーンへ、そして宿舎のホテルに到着するまで数日かかったためレンツは疲れ切っていたが、同時にようやく肩の荷を下ろした気分で安堵の溜息を漏らした。荷ほどきの途中でウィーン大学に向かった。レンツは以前一度ウィーンに来たことがある。今年3月にウィーン体制が終了し構造改革の煽りを受け学生数が更に増えたという。
 
大学はウィーン市内にあるため徒歩で行く事ができる。混雑している一般用の入り口をくぐりレンツは事務局に到着の連絡を済ませた。事務員に紹介状を渡してそれぞれの教授と面談し挨拶をした。最後にナップ院長と最も懇意だった教授の部屋を出た後、レンツは、ナップの声を聞いた。教授が電話でナップのような声の人と話しているのをドア越しに聞いたのだ。レンツはドアの前で耳をそばだて息を殺し会話を盗み聞きした。
「レンツはどうでした」
「中々賢そうに見えるがそんなに難ありなのかい」
「いや、頭も要領も良いけど損ばかりしていてね、もう少し落ち着いてくれたら良いんだが」
 
紛れもないナップの声だった。次に通話相手が言った事で教授が爆笑したためその先の言葉が聞こえなかった。だが途中聞こえたのはナップ院長でなければ踏まない韻だった。衝撃で眼の前が真っ暗になりふらつきよろけ教授室のドアが開いてしまった。
 「レンツだったね、聞いていたのか」教授が言った。
 
受話器から漏れる「先生、もしもし?通じないのか?」というナップ院長の声しかレンツには届かなかった。
 
ぷつりと神経の糸が切れる音を聞いた。レンツは全力で駆け出した。宿舎の部屋まで戻ると若い管理人が「荷物が届いています」とトランクを手渡してきた。直感的にメンデルだと解った。レンツは部屋に入るとすぐさまトランクを開けた。そこには折りたたまれたメンデルの体があった。中身は生暖かく脈動していた。トランクの内蓋に同封された手紙を手に取り先ほどの一件で憔悴しきったレンツはその封を開けた。

 

14. 手紙

聖トマス修道院教会旧棟にて 1848年7月8日

ハインツェンドルフ・フォン・レンツへ

私は、何かの模写はただの機能だと思って生きてきた。しかし自分の細胞によると私の行動などは全て元々あったはずの何かの模写らしい。この体を起動させた後、私は生まれるだろう。しかし、それはレンツが知っている私ではなく、本来生まれるはずだった私だ。模写が生まれるのに必然性はない。機能でないからこそ、機能としての必然性を強いられるのだ。

私は死んだ。この手紙は遺書だ。私は自らの細胞の構造に気づき全ての細胞の機能を停止させたのち、細胞内の量子がやり取りする情報を50兆の細胞の数だけ書き換えた。

書き換えた情報に従って自己増殖を行うように設定し、お互いに入力された情報がかち合うと、尋常ではない処理量をこなす演算装置になるようにした。

もしも予測が間違っていないければそれで世界の全てが終了する。

***

 院長の声で錯乱していたレンツは、メンデルからの手紙で平静を取り戻した。

 
ナップ修道院長は既に死んでいる。しかし現在、院長の細胞の機能が、院長が行うはずだった行動、つまり彼の機能を模写している。
 レンツの強すぎる好奇心というのも「機能」なのだ。レンツは、好奇心という機能と同化し、その機能だけの存在になりたいと考えた。レンツ自身が機能の総体だとして、レンツの機能が、好奇心という機能に従い、好奇心という機能だけになることを欲していたのだ。好奇心だけの存在になることをレンツである機能の総体は欲していた。それは単純な欲求であって、レンツは、どこまでも好奇心だけの存在になりたかったのである。
 
レンツがこれから先、この世界でどれだけ生きたとしても、この世界で目撃するものがメンデルが与えてくれる刺激や予想の範囲を超えることは決してないだろう。
 
レンツは強すぎる好奇心という「機能」に従いメンデルと真逆の存在になることに決めた。
 
レンツは実体を捨て、人生を破壊してでも、欲求にしたがい自ら好奇心という「機能」そのものになりたいと思った。
 
これはメンデルが、ただの模写という機能から逃れようとしたことと正反対だった。レンツは好奇心に没入し、好奇心という欲求に溺れる事を選んだ。「実体などいらない」
 
レンツは全て理解した上でメンデルの意志遂行とレンツ自身の好奇心を選んだのだ。自分が死ぬことを理解してメンデルの体の起動をさせた。

15. 起動

 レンツより先にウィーン大学の宿舎に着いていたトランクの中身はメンデルの半身と片腕だった。レンツは達磨状のメンデルの体を床に放り出し、細胞の動きを凍結させるために切り離されている両腕を断面に繋げた。

 期待で手が震える。両腕と断面はぴったりとくっつき止まっていたメンデルの体が、否、メンデルが死んでなお生き続けている個々の細胞が凄まじい速度で動き出した。停止されていた細胞が、腕の断面細胞をつなげる事で停止状態が解かれ、メンデルが書き換えた指示通りに細胞の機能は動き始めた。

 レンツは冷静だった。メンデルの体は切れ込みが入っていくように様々な方向にめくり上がり、波形になって互いに衝突した。べりべり剥がれていくメンデルの皮膚は薄く、中には骨も内臓もなく、真っ赤な肉だけがあった。植物の巨大計算機と同じ仕組みで演算が起こっている。しかしメンデルの細胞の機能範囲は量子コンピュータ並なので植物群よりも高度で精密な計算をした。いとも簡単にメンデルの顔や足の原型がなくなっていくのを見ながら、「やはり僕の友人は人の形をした肉塊だったのだ」と思った。やはりメンデルは模写であり、機能であったのだ。行動が噛み合うだけのただの自動機械でああると同時に、巨大な知性はこの細胞から生まれてきていた。レンツは自分が憧れてきたものを目の当たりにした喜びに震えた。それなら今のレンツ自身の姿と果たしてどこがどう違っていたのだろうと思った。おそらく演算内容の有無だろうと考えた思った末、ならば「このメンデルの体という機械は今何を演算しているのか」と考えた。メンデルの細胞が完全に消失しない限りこの細胞は何かを解くことを要請され、暗号化したメッセージを演算してし続けるのだ。メンデルの身体は急速に橙と赤に変色し、身体というまとまりが瓦解していく。

 次の瞬間レンツは飛散した瓦礫が自分にぶつかり爆風に飲まれ足が弾け飛ぶのを感じた。同時に全ての景色がその熱量に耐え切れなくなり弾け飛んでいくような凄まじい光景が目に入った。その意味をレンツは理解できなかったが、眼前の光景を焼き付けようと目を見開いていた。胴体が捻じ切れ視神経ごと頭の半分がなくなるまでレンツは痛みを後回しにし、光を見た。それは孤立系になった塊が消滅する際の状況だったが凄まじいエネルギーが出ているだけであり光ってはいなかった。エネルギーと共に光を放出するケースは多いがこの時その場に光はなかった。だからレンツが見た光は、彼がこの状況を処理しきれず勝手に脳内で生み出した光であった。レンツは、最後まで自らの欲求にしたがい、何かが起こり続ける様子を直視した。レンツの胴体はエネルギーで散り散りになった自身の腹の肉でかろうじてつながっていたが、眼球は飛び出し肋骨は全て折れ臓器は残っていなかった。絶命は秒読みであった。レンツの強すぎる好奇心は今まで本当の意味では一度も満足したことがなかった。それがいま、全て満たされたのだ。レンツは満足だった。

16. 分離

 レンツによって起動されたメンデルの体は、メンデル自身が打ち込んだ文字に沿って癌のように増殖し、波形を作り、物理演算装置となって凄まじい情報量の演算を叩き出した。演算は熱揺らぎと打ち消し合い、全ての物質をメンデルと同一の孤立系、エネルギーも物質も外界と交換しない物質系に変えた。地球は「最小単位」ごとに分解され、完全な孤立系が無数にある状態となった。そして完全な孤立系の集まりになった地球は、メンデルと同じように崩壊しはじめた。

 
 
生物がまず最初に消失した。生物とは機能的には動的な物質系であり、生物の機能はかさねあわせ状態の量子が細胞内に発生する事で、細胞に代わって細胞の機能を持続させている。メンデルの細胞と同じように細胞内の器官として量子コヒーレンスがあれば空間的に完全に隔てられていてもエネルギーや振動を外へ転送できる。細胞の中の量子の重ね合わせ状態は30秒から1分で寿命を迎える。それと同時に細胞は孤立系を保てなくなり自らの熱量により地球生物の体は消滅した。消滅はただ枠が外れ熱量を放出するだけの作業である。レンツが最期に目撃した光はそれであった。宇宙のあちこちに細胞内の量子とペアの量子がちらばっている。量子コヒーレンス状態が、どうやって『意識』の機能を保ったかについていえば、細胞内の量子同士で情報のパスをつないでいき、渡す渡さないの1、0の繋がりで意識は形成されていた。崩壊する直前の生物は細胞全体が脳の回路状態だったということである。そのため意識を形成していた量子のペアの方のつながりは持続し、運がいい生物は宇宙のどこかで意識だけ存続できた。量子は消滅し思考回路の大半が欠けたが、それでもメンデルは非人間/人間の空虚な判定の範疇から逃れ、超越的な存在になった。メンデルの意識は人間を超越した宇宙規模の存在になったのだ。量子の重ね合わせ状態は永劫的に続くかもしれないし、一瞬で消え、思考が弾けて終わりかもしれない。今もおそらく宇宙のどこかの量子が消滅する中、メンデルは静かに喜んでいた。喜びとは脳の受容体の一つに穴が空いた時の反応であり、そこから身体への作用の結果高揚が起こる。身体が量子であるため影響から切り離されており、受容体から他への作用がおこらないためメンデルは冷静だった。メンデルはただメンデルであり様々な判定から逃れた。思考しかない状態であるのでメンデルに非人間だった頃の記憶はない。更に思考といっても、量子同士の1と0の回路の行き来の繋がりだけで十分であり、そのような究極的な合理性を遂行できる今、言葉を用いて思考をする必要性はどこにもない。しかし最期メンデルはわざわざ言葉を使って考えた。「機能など不要だ」それはメンデルが幸福の極致であったということなのだろう。

 一方の地球はどんどん崩壊していき、残された「完全な孤立系のもの」だけが静かに消滅していった。メンデルとレンツがいたオーストリアも消滅した。レンツは運悪くただ爆発にのまれそのまま普通に死んだため意識は存続せず、体は崩壊したが細胞は変質しなかった。メンデルも体だけは残っていた。メンデルの肉体はなんの機能も持たずただの肉、ー完全に崩れて原型をとどめてはいないが普通の死体ーとしてレンツとともに宇宙空間に浮いていた。他の人間と同じように消えたり院長のように勝手に体が機能を遂行し始めたりしないのはメンデルの体がメンデルとしての機能を既に停めてしまっていること、細胞を利用した別の命令もエネルギーが生まれること以外はただの演算なので、細胞の量子もつれは壊れておらず消える理由がないという2つの理由による。

 「機能を果たし終わり停止した肉は人としての機能を果たさない物質となって宇宙空間を浮遊するだろう」それがメンデルの意志だった。しかし地球があったはずの場所では崩壊と同時に再生が起こっていた。地球自体や元々あったものがメンデルの細胞で体だけ再構築され始めたのだ。ただの死体になったメンデルの体は細胞の連なりで出来ているだけの群体であった。それらの細胞である生命体はメンデルが打った普通の演算コードを書き換え、レンツの体を触媒にして普通の細胞を増やし、そこをハッキングして孤立系の細胞を増殖させるためのコードを作った。レンツはただの物体となり死んだ。意識が剥がされることも再生されることもなく地球で唯一人間として死んだ。そのレンツの体を触媒にして、メンデルの細胞は同じ形の物を癌のように増殖した。レンツの体は増殖し膨れながらそれぞれ特定の方向性と形を持ち始めた。メンデルの細胞が加えた命令コードと、磁場を感知する量子もつれ状態の電子の機能が増殖した方の細胞にも残っていたからだ。

 見た目上、彼らの死体の周りには何もなかった。しかし物質が一つもなくなった地球には収束しない状態数、波動関数だけが残り、波動関数の前に熱揺らぎによって生じる磁性軸があった。レンツの体を触媒にして増殖したメンデルの細胞は、磁性軸に反応し軸が出ている方向をなぞりながら増殖し形を従って機敏に動きを変え、肉のように赤い細胞で全ての物体、建築物も人も洋服も存在している物の全てが再構築された。メンデルの細胞はメンデルが幼いころ考え畏れたようにどこまでも生命としての欠陥を繕った。一つの建築物や人存在する全ての機能を正しく時系列など関係なく一寸違わず再生した。その存在に取っての必然性、その中の人間とての偶然性、つまりその人間があるという決定された事象の中で生きるというメンデルが切望したものを再生したのだ。しかし色だけは色を再生するための情報が細胞に伝わらなかったため擬態されず全てが赤いままだった。かつて地球があった場所で機能である感情と意思は分離した。もう二度と融合しない。そして、一方の無数の意思が帰ってくることもない。つまり事実として、メンデルはメンデルを生涯悩ませた二つの垣根から逃げおおせたのである。彼、又はメンデルの最期は宇宙規模の存在となって爪痕を残し弾け死んだ。本望だっただろう。しかしまだ一つ疑問が残っている。メンデルはイレギュラーな存在だったのだろうか。本当に機能としての必然性があったのか。本来存在していたものだったのだろうか。細胞によってメンデルの軌跡も他同様に再生された。擬態されていて内臓もなくメンデルの文字キーくらいの大きさの赤い細胞でできたロジーネという女性は中に少しの隙もなくねじ込まれている肉から機能をなぞって模られた赤ん坊を取り上げた。メンデルが取り上げられた後メンデル分の肉が無くなったメンデルの腹はすぐ細胞が増殖し埋められた。そうしてメンデルは生まれるはずだった姿で、必然性の中の偶然性を持って正しく生まれ落ちた。他の消滅した人間はと同じく必然的な機能の中の偶然性として再生された。

 しかしそこに元のメンデルは居なかった。メンデルは今度は長男として生まれた。七つ上の姉ヴェロニカと妹のテレジアに挟まれてすくすくと温厚な性格に育った。それは機能として彼が生まれるのが本当は必然だったということだ。一連のメンデルを巡る出来事は偶然性の中の必然に置かれていた。全ては起こり得るはずがなかった事だったのだ。レンツは再生されなかったが皆、機能なのでレンツを見てレンツがいるように振る舞った。再生された肉できた機能には網膜すらないというのに。メンデルは植物を育て、遺伝の研究をした。レンツとの接点は一切無かった。メンデルは学問のために修道院にはいり平和に生活した。気象学を研究したり遺伝の法則の発見をした後、年をとって院長になり厄介事を抱えて困ったりしながら、自分が人間の模写であることの自覚すらなく人間として普通に死んだ。最後までレンツの事を知ることすらなかった。

文字数:34912

内容に関するアピール

1この話はどんな話か。

<機能>とは生産される時点で目的が決まっておりなんの偶然性もない。その目的がもし「偶然性」の模写であったとしても模写が成立した時点でそれは「必然性」になる。メンデルは自分の体が兼ね備えている人間の条件が<機能>に過ぎないのではないかと怯えていた。メンデルは特異な体を持ち機能的な側面が見えやすい立ち位置にいたからだ。しかし<機能>であると認めてしまうことは「彼の持つ偶然性の徹底的な破壊」であり、自らを非人間と判定することは主体を抹消することでもある。だからメンデルは論点をずらすことでそこから逃げた。人間の条件は自発的な意思であるという命題を立てその証明に埋没しようとしたのだ。ここには大きな捻れがある。しかしそれも否定され、さらに自分の体の構造はやはり機能であると突きつけられる結果となり逃れられないと悟ったメンデルはある決断をする。決断の結果メンデルは人間的/非人間的の範疇から逃れた超越的な存在となります。

2 どうしてこの話を書いたのか。

また、人がかつて経験したことのない巨大な知性と遭遇したらどうするのかというファーストコンタクトの側面も書こうと思いました。メンデルは自分の体が人間の模写かもしれないと知って悩み、自分が人間だという証明に尽力している数年間の間にレンツと出会います。レンツはメンデルの巨大な知性に惹かれ尽くしますが、メンデルはある日、自分の体の構造がやはり機能であり、自分の行動は「本体の模写」の範囲から抜け出せることはないと知り、機能から逃れ超越的な存在になる決断をします。レンツはそれに巻き込まれます。

メンデルは、機能に押し込まれた人間ですが機能から抜け出そうとします。

反対に、レンツは、実体も何もかもいらないし人生を破壊してもいいから、好奇心という機能自体になりたいと思います。そういう正反対の二人を書きました。

3 この実作を通して書きたかった事はなにか。

・知性に憧れて振り回される人が書きたかった。

・メンデルが巨大な知性を機能から抜け出すためだけに使ってしまうところが書きたかった。

・修道院の楽しいところが書きたかった。

4 梗概提出時の内容に関するアピールはこちらです。

 

文字数:913

課題提出者一覧