エンケラドゥスの烏賊

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エンケラドゥスの烏賊

エウロパ行きの移民船は、順調に飛行を続けていた。すでに木星の大赤斑が目の前に迫って見える距離だ。移民船の乗員は、そのほとんどがカップル。
「今世紀中に、地球外の星の上で人類を誕生させる」という目標をぶち上げたのは、株式会社エイゲン宇宙開発を傘下に持つエイゲン・グループの会長だった。その崇高な目的のために選ばれた男女50組のカップルの中で、花沢はマイノリティに属する独身者であった。

「花沢先生、至急、船長室に来てください」
耳慣れたアナウンスの声に、花沢は固定ベルトを外す。
「やれやれ、また体調不良の乗客が出たのか」
ひとりごとを言いながら、慣れた動作で自分のコンパートメントから滑り出る。この時間帯は彼の担当ではなかったが、きっと当直医が他の患者に手を取られているのだろう。よくあることだ。船長室への呼び出しというのは、ちょっと珍しいことだが……。
深く考えずに船長室に入った花沢は、そこで思いがけない行き先変更の指示を受けて驚愕した。
「え? エウロパに行くんじゃあ……?」
「他の乗客はそうですが、あなただけはエンケラドゥスに向かってください」
「なぜ?」
「怪我人が出たからです。そしてエンケラドゥス・チームの医師は、全員が病気になったのだそうです」
「全員が?」
嫌な予感がする。むしろ嫌な予感しかしない。エンケラドゥスでは、何かとても良くないことが起こっているようだ。
「でも、僕は産婦人科医ですよ」
「だから先生にお願いするのです。怪我人はどうやら妊娠しているらしいので」
「妊娠?」
「出発は1時間後になります。では頑張って!」
そう言うと、船長はわざとらしいほど力強く花沢の肩を叩く。
「はい……元気な赤ちゃんを取り上げられるように、頑張ります」
花沢は、抑揚のない声で答えた。

水、金、地、火、木、土、天、海。惑星の並びで見ると木星と土星は隣同士だが、木星の衛星エウロパから土星の衛星エンケラドゥスまでは、隣の家に行くようなわけにはいかない。AIの操縦する高速宇宙船でひとり旅をすることになった花沢は、睡眠装置【ルビ:スリーパー】の中で3ヶ月間を眠って過ごした後、機械の声に起こされた。メディカル・ロボットが栄養点滴の針と採尿管を抜いているのを、ぼんやりと認識する。
「着いたのか?」
「1時間後に着陸態勢に入ります」
花沢は船窓から“下”を覗き込んだ。(どこの星でも“下”と言ったら直近の星の中心方向のことだ)白い衛星の一部が見える。有名な間欠泉【ルビ:プルーム】は、この角度からは視界に入らないようだ。ちょっと残念。
土星の衛星エンケラドゥスの調査は、当初は期待したほどの成果を上げられなかったと聞く。送り込まれた調査ロボットは、そこに生命と呼ぶべきものを見出せなかったのだ。
やがて一足先に開始されていた木星の衛星エウロパの方の開拓が軌道に乗ると、国際宇宙開発機構はエンケラドゥス探査計画を中止し、その分の予算をエウロパの開拓につぎ込むことになった。着々と進むエウロパの開拓をよそに、長らく忘れ去られていたエンケラドゥスに再び目が向けられたのは、皮肉にも国際宇宙開発機構が出資国の予算削減方針によって民間に払い下げられることになったのがきっかけだった。開発機構を買収した企業の重役がエンケラドゥスの調査結果に興味を抱き、調査の再開を決定したのだ。今度の調査には人間の科学者が派遣されることになった。
(その調査チームで、事故があったということか……)
宇宙船が完全にエンケラドゥスの軌道に乗ると、機械の声の指示通りにシートに体を固定する。直径500キロ弱のエンケラドゥスでは、着陸時にさほどのGはかからない。宇宙船は問題なく地上に降り立った。スムーズな着陸だ。だが、到着と同時に告げられた〈防疫服着用〉の指示が花沢を不安にさせる。密閉通路がこちらに伸びて来て、ドッキングの軽い衝撃の後、エアロックが開く。通路に立つスタッフもやはり全員が防疫服を着ていた。
「感染症ですか?」
嫌なことは早めに確認した方がいい。
「安心してください。患者はすでに隔離されています」
(でも僕は、その隔離されている患者のところへ行くんだよな?)
防疫服のスタッフたちは、壁面のガイドバー伝いに基地の建物へ急ぐ。まだこの星の重力に体が慣れない花沢は、バーにしがみつくような格好で、その後を追った。
基地の入り口を抜けると、さらに大勢のスタッフが彼を待っていた。
「花沢先生に来ていただけて助かりました。なにしろ基地のドクターが全員が意識不明の状態で」
すごく歓迎されているのは分かったが、まったく嬉しくない。
「患者は、妊娠していると聞きましたが」
「妊娠していると言いますか、なんと言いますか……確かにお腹の中で元気に動いてはいるのですが、その……何の子供かが分からないのですよ」
花沢は、一瞬考えた。
「お腹の子供が誰の子供か分からない」というのは、彼も産婦人科医として何度も聞いたことがあるセリフだ。だが「何の子供か分からない」というのは、どういう意味だろう?
「詳しい説明は、私がするわ」
小柄な防疫服姿の女性が言った。聞き覚えのある声だ。
「久しぶりね。花沢友也君。トミーって呼んでもいいかしら?」
「嫌だ」
花沢は即答する。
(間違いない。この声は……永源美月だ)
「冷たいわねえ。小学校4年以来の付き合いじゃないの」
永源美月は、日本語で言った。
「それは、転校初日に、君にランドセルにカブト虫を入れられて以来ということかな?」
「あら、あのプレゼントを覚えていてくれたの。男の子は虫が好きだっていうから、ちょっとしたサプライズ」
美月は、屈託なく笑う。花沢はため息をついた。困ったことに、彼女にはまったく悪意がないのだ。だが、善意でランドセルにカブト虫を入れるような奴のその後の行動は推して知るべしだ。
性に目覚め始めた小学生のクラスの中で、転校して来た産婦人科医の息子の立ち位置は微妙だった。それをさらに面倒なものにしたのが、この永源美月であって、彼女は当時からすでにはっきりと目立つ美少女だった。
「……僕は虫が嫌いなんだ」
押し寄せて来る暗黒の記憶を必死で脳内から振り払うと、花沢はやっとそれだけ言った。
「あら、困ったわね。実は虫かも知れないのよ」
「何が?」
「赤ちゃん」
「は?」

患者は隔離室のベッドの上で眠っていた。点滴や採尿管が取り付けられている以外は、ただ普通に眠っているようにしか見えない。
事故が起きたのは半年前のことだという。氷の下の湖の調査中に観測機材を乗せた車両が暴走。この事故で生物学者のマリア・テレザ・ゴンザレス博士は左脚を負傷した。傷口は7針程度の大きさだったが、彼女はそこから何かに感染してしまったようなのだという。
「それがどうやら、エンケラドゥス固有の微生物だったようなの」
「確かエンケラドゥスに生物はいないと……」
「無人観測機の調査では、そうだった。つまり“それ”は生物ではなかったの。でも、人間……生物と接触し、その体内に入り込んだことによって、生物に変化してしまった……現在のところ私たち、エンケラドゥス調査隊の生物学チームは、そう推測しているのよ」
「で、さっき言っていた虫というのは?」
「それは実際に見てもらった方が早いわね」
美月は、隔離室の窓越しにロボットアームを操作し、ゴンザレス博士の腹部を覆っている毛布を取り除けてケープをめくり上げた。
膨らんだ腹部は、産婦人科医の花沢には見慣れたものだった。その腹の中で何かが動いている。
(あれは……ものすごく元気な胎児の胎動だろうか?)
「ねえ、まるで映画のエイリアンみたいに見えない?」
美月が、花沢が考えまいとしていたことを口に出す。
「検査結果のデータを見せてくれ」
「それが、ないの」
「ないって?」
「最初に外科的に“これ”を取り出そうとした医療チーム全員が、なぜかその場で意識を失ってしまったの。彼らは現在も意識不明の状態で、だから誰も彼女に近づけないわけ。だから検査もできないの」
「それで、そんな患者を僕にどうしろと?」
「博士のお腹はだんだん大きくなっていっているのよ」
「だから?」
「あなたに無事“出産”させて欲しいの」

エンケラドゥスでの最初の晩、花沢は「エイリアン・シリーズ」のクライマックス・シーンをつなぎ合わせたようなエキサイティングな夢を見た。叫び声とともに何度も飛び起きたためにすっかり寝不足となり、二晩目からは睡眠装置【ルビ:スリーパー】を使用させてもらうことにした。
睡眠装置【ルビ:スリーパー】は、電気的な刺激によって、中脳網様体や視床下部脳など、脳の睡眠を司る部分をコントロールする装置である。装置のお陰で快適な眠りを得ることができた花沢は、翌朝は爽やかに目覚め、すっきりした頭でゴンザレス博士に関する医療記録を再検討した。
とは言っても、記録と言えるものはほとんどなかった。怪我をして運び込まれた患者は、傷口の縫合を受けただけで、あとはほぼ何の処置もされていなかったのだ。
何の記録もない資料を眺めていた花沢は、最初にそれを読んだときに気づかなかったことに気づいた。
「彼女の負傷は脚部の怪我だけだった」
つまり頭部に外傷はないし、高熱を出したというわけでもない。それなのに眠り続けている。これは彼女の胎内の“赤ん坊”を取り出そうとした医師たちも同じだった。彼らもまた何の肉体的損傷も受けていないのに、意識を失ってしまっている。
ゴンザレス博士が事故に遭ったのは5ヶ月と13日前。傷口の縫合を受けた彼女は、その後しばらくは普通に生活をしていたのだという。だが2ヶ月ほど経って体調の不良を訴え始め、診察により下腹部にしこりのようなものが発見された。このしこりのX線撮影を行おうとした技師が、まず倒れた。技師の手当てをしようとした医師も意識を失い、ゴンザレス博士自身も昏睡状態に陥ってしまった。そして仲間を助けようとした医療チームが次々と犠牲になった……。
病室には現在、ゴンザレス博士以外に、検査技師1名と医師7名が眠っている。
事件の報告を受けた地球の上層部は、例のごとくに効率の悪い会議を重ね、やっとのことで決定したのが後続の移住船の着陸差し止めだけ。(それで行き先がエウロパに変更されたわけだ)このお役所仕事ぶりにブチ切れた株式会社エイゲン宇宙開発の社長令嬢にして重役である我らが永源美月が、推薦という名の圧力によって花沢をここへ呼び寄せたというわけだ。

「花沢君は頼りになるもの」
と、美人の美月に言われるのは嬉しいことのようだが、彼女が花沢を頼りにしたのは、例えば高校時代、化学準備室から持ち出したナトリウムの塊を校庭の池に投げ込んで大爆発を起こした時のような場合だった。
(「だって本当に爆発するのか、見てみたいじゃない?」というのが彼女の動機だった)
詰問する生活指導の教師に、ナトリウムが塊ごと池に“落ちた”のは、あくまで事故であり、科学部の実験を屋外で行ったのは万一の事故を考慮しての配慮であり、顧問が立ち会っていなかったのは単純な連絡ミスだったという苦しい言い訳を信じさせるには、花沢の「優等生面」がとても役に立ったのだと美月は言う。
(だが、そういうのを「頼りになる」と言うか?)
花沢の大きな疑問にも関わらず、彼女はまたしても彼を頼り【「頼り」に傍点】にし、そうしていま、彼はエンケラドゥスの隔離室で分娩台の前に立っているのだった。
彼がエンケラドゥスに来てから4ヶ月。ついに“出産”が始まった。
幸い“赤ん坊”はさほど大きくないようだ。子宮口はすでに全開に近く、胎児が降りてきたのか眠っている“妊婦”が無意識のうちに息む。
「ヒッヒッフーですよ、お母さん」
花沢は、意識のない患者に機械的に話しかけた。心の中は「頼むから、出てくるのがエイリアンみたいな巨大昆虫じゃありませんように……」という祈りでいっぱいである。
分娩は順調に進み、やがて頭部の娩出へ。会陰【ルビ:えいん】の切開。“赤ん坊”は、ぐるりと体を回転させて……
「なんだ、これは!」
「産湯は準備してあるわ」
と、自ら助手を買って出た美月が後ろから声をかけた。(隊長の判断で他の隊員は分娩室から遠ざけられていた)
だが花沢の目は、ゴンザレス博士の体から出て来た“モノ”に釘付けになっていた。
円錐形の胴体は半透明で、その下から生えているのはうねうねと蠢めく何本もの触手。全身のいたるところに黒と茶色の斑点が浮いている。
「これ、何だろう?」
花沢は、美月に意見を求めた。(彼女は一応、生物学者だ)
「そうねえ……烏賊?」
「烏賊?」
言われてみると、確かに烏賊に似ている。そう思って見ると、もう烏賊にしか見えない。その烏賊の体に分娩台に横たわる女性の胎内から伸びたへその緒が繋がっているという奇妙な光景。
「ということは、この烏賊は一般的に言う単純な“寄生”をしていたのではなく、彼女が体内に形成した胎盤に臍帯を通じて繋がっていたというわけだな」
花沢は努めて冷静な口調で言ったものの、内心自分にツッコミを入れていた。
(宿主に胎盤を形成させる寄生生物なんてものが本当にいるのか?)
「ハロー」
どんな時にも物怖じしない永源美月が烏賊に手を振って声をかける。烏賊の皮膚の内側に見えていた2つの黒い丸い斑点が、声のした方向にぐるりと動いた。どうやらこれは眼球のようだ。烏賊は美月の姿を認めると、長い2本の触手を伸ばす。その先端は人間の掌のような形をしていた。
花沢が臍帯クリップでへその緒の2箇所を止め中間部分を鋏で切ると、美月が烏賊を受け取ってベビーバスのお湯の中に下ろす。そして触手を洗いながら感心したように「ちゃんと指が5本だわ」と言った。
美月は丁寧に烏賊を洗い終わると、タオルに包んだその体を花沢の鼻先に突きつけ、
「ほーら、パパですよ」
「濡れ衣だ!」
花沢は思わず意味不明の言葉を口走ってしまい、美月にからかわれたのだと気づいて顔を赤らめた。
「でも、誰かが育てなくちゃね」
そう言われて、反射的に分娩台のゴンザレス博士を振り返ったが、もちろん“母親”は、意識不明のままだ。
「とりあえず、DNA検査をしてみるわ」
言いながら採取セットから綿棒を数本掴み出す。
「普通は口中粘膜を使うんだけど、この子の口がどこにあるのか分からないのよねえ」
烏賊の体に擦り付けた綿棒をそれぞれを小さなビニール袋に収めると、美月は弾むような足取りで分娩室を出て行った。後に残されたのは、花沢と烏賊と意識のないゴンザレス博士。
ロボットクリーナーが、軽いモーター音を響かせながら分娩室の床を掃除し始めた。

2時間後、会陰の縫合を終えた花沢が、ゴンザレス博士の胎内から排出された胎盤を調べていると、美月が口笛を吹きながら戻って来た。なぜかこの女は、いかなる場面においても楽しそうなのである。
「その子の名前は考えた?」
と、美月。
「名前?」
「そうよ。いつまでも烏賊とか呼んでるわけにはいかないじゃない」
花沢は、斑点だらけの烏賊を無言で眺めてから、
「……ポチ」
「もっと人間的な名前を考えられないの?」
「でも烏賊だし……」
「それが、この子、どうやら半分は人間らしいのよ」
「半分ってどういうことだ?」
「DNAを調べたら、この子は地球人とエンケラドゥスの土着生物のキメラだったの」
「キメラ?」
美月の説明によると、エンケラドゥスには土着の“準生物”とでも呼ぶべきものが存在するらしい。
「でも、無人探査機の調査では、この星に生命は発見されなかったはずだろう?」
「だから“生命”ではなかったわけ。で、“準生物”」
「それは……コロイドみたいな? それともウィルスみたいな?」
「どちらにも近いと言えるけれど、どちらでもないわ。細胞膜もある。遺伝子のようなものもある。生物になるための条件は揃っているのに生命だけがない。生物の一歩手前? なんて言うのかしら、構造的に見ればどうしてこれが生物になっていないのか分からないくらい生物に近いのに、生物じゃない存在だったわけ。地球外の星でこういうものが発見されたということは興味深いわ」
「それがなんでキメラなんだ?」
「ここから先は推測なんだけど、傷口からゴンザレス博士の体に入り込んだ準生物は、そこで初めて生物という存在形態に出会ったのね。そしてそれを模倣した。ウィルスのように遺伝子を持った準生物が“増殖”ということを覚えたのだと思うの。きっかけはたぶん血液中に入り込んだ準生物が、博士の子宮に到達して成熟した卵子に出会ったこと。準生物が与えた刺激によって卵子は分裂を始め、準生物の方もそれを模倣して自らも分裂し、増殖を始めたというわけね。そして互いに互いを取り込む格好で成長したのだと思うの。つまりその子は、人間とエンケラドゥスの準生物--もう生物ね--その2つの生物のキメラなのよ」
花沢はタオルにくるまった烏賊の方に視線を向けた。烏賊は長い2本の触手をパタパタと動かす。黒い“眼”が明らかにこちらを見ていた。美月は烏賊に歩み寄り、その斑点だらけの体を抱き上げてしげしげと眺め回すと、
「やっぱり〈ポチ〉かしらねえ……」
と、言った。そして烏賊に向かって「ポチ」と声をかけた。その声に反応してか、黒い眼が大きくなったり小さくなったりする。美月は、何か思いついたように烏賊の体にの表面に人差し指を「P」と走らせた。続いて「O」……。
「P」「O」「C」「H」「I」
そしてもう一度「ポチ」と呼んだ。
数秒の間。
次の瞬間、黒い眼がひときわ大きくなった。そして烏賊の体表を覆っていた茶色の斑点が動いて「P」の形を作ったのだ。
花沢は息を飲んだ。美月もさすがに驚愕の表情を浮かべている。
「P」「O」「C」「H」「I」
茶色の斑点は、明らかに文字を綴っていた。
「もう一度、試してみるわ」
美月は科学者らしい慎重な態度で再実験を試みた。花沢を指さすとポチの体にまた文字を書く。
「P」「A」「P」「A」
「いや、だから僕はパパじゃないだろ!」
美月は花沢のツッコミを無視してポチの丸い瞳を見つめながら優しく声をかける。
「パパ」
茶色い斑点の形が再び変化した。
「P」「A」「P」「A」
そしてポチは、花沢を見つめると親しげに触手を伸ばして来た。思わず後ずさった花沢めがけて触手がするすると伸びる。5本の指でがっちりと掴まれ、残りの触手で絡み付かれる。そして防疫服の隙間から触手が中に入り込んで来て……。
人間が一生に一度はパニックに陥らなければならないのだとしたら、今がその時だった。
花沢は絶叫した。服の内側に入り込んで来るエイリアンを死に物狂いで引き剥がそうとする。だがエイリアンは彼の背中に回り、頭に触手を伸ばし……
〈パパ、落ち着いて〉
と、穏やかに言った。
いや、言ったのではない。脳に直接語りかけた? テレパシー? まさか……。
「一体どうやって話しかけているんだ?」
ポチは言葉を発しては答えなかった。それなのに花沢は理解した。ポチは電気的な刺激によって花沢の脳のニューロンを発火させ、言葉を聞いたのと同じ状態を作り出しているのだ。
「背中から降りてくれないか、ポチ」
服の中から生温かいものがうにょうにょと這い出る感触。肩の上に這い出したポチは、長い触手を伸ばして机の脚を掴むと素早い動きで机の上に移動した。壁のガイドバーを頼りに覚束ない足取りで歩き回っている人間よりずっと優雅な動きだ。
(さすがはエンケラドゥス原住民。体のつくりが低重力に向いている)
と、花沢が訳のわからない感心の仕方をしていると、
「何があったの?」
と、美月に尋ねられた。
「本人に聞いてくれ」
その言葉を理解したかのように、ポチが美月の頭に触手を伸ばす。彼女とも、一瞬でコミュニケーションに成功したようだ。
「この子、お腹が空いてるって」
と、美月が言った。

幸いなことにポチの消化器系は地球の赤ん坊用の人工栄養を消化吸収することが可能だった。ポチは人肌に温めた液体ミルクを哺乳瓶から器用に飲んだ。(彼の口は触手の奥にあった)
2週間もすると、出産直後にはやや細長かったポチの体は、ずんぐりと丸みを帯びた形に変化していった。人間の子供だと、この後大泉門【ルビ:だいせんもん】が閉じていくのだが、ポチにはそもそも頭蓋骨がない。ポチの脳は子宮の中に浮かぶ胎児が羊水に保護されているのと同じように、体液によって守られているのだろう。
美月はすっかりポチに夢中になり、彼に文字の読み書きやPCの使い方を教えては、
「この子は天才だわ」
と、賞賛しまくった。
じきにPCを使いこなせるようになったポチは、しばらく画面を興味深げに眺めていたが、ふと気がついたように花沢の頭に触手を触れると尋ねた。
〈動画や写真には大勢の人が映っているのに、なぜここにはパパと美月しかいないの?〉
(すでに花沢は「パパ」という呼び名への抵抗を諦めていた)
「ここは隔離セクションだからね」
〈それは、僕がパパに触ったから?〉
それはあながち間違いではなかった。花沢も美月もすでに防疫服を着ていない。感染源であるポチ自身に直接触れてしまった以上、今さらそんな物を着たところで手遅れだからだ。つまり隔離セクションの外にいる人間から見れば、花沢や美月は、汚染された存在なのだ。エンケラドゥス調査隊の総括責任者であるクーパー隊長は、恐らくこのセクションを厳重に隔離しつつ、2人がいつ他の犠牲者たちと同じように昏睡状態に陥るのかと戦々恐々、監視しているのだろう。
「治し方が分からない病気が広まってしまうといけないからね。みんながベッドで寝ている人たちのように、目を覚まさなくなったら困るだろう?」
〈あそこで寝ている人たちが、起きないのがいけないの?〉
「まあ、そうかな……」
花沢の曖昧な答えにポチは少し思案する様子を見せた。それからひとりで廊下へと滑り出て行った。
まもなく病室の方から悲鳴が上がった。花沢が駆けつけると、眠っていたはずの患者のひとりがベッドに半身を起こしてわめいている。その頭にはポチが両手--2本の触手を当てていた。ポチに触れられた男は完全にパニック状態に陥っていた。
こんな時は、まずは患者を落ち着かせなくてはならない。
「落ち着いて下さい。あなたは約7ヶ月間、昏睡状態にあって……」
「そんなことはどうだっていい! それは何だ?」
患者は隣のベッドを指差した。ポチはすでに隣の患者の体の上に移動していて、2本の触手で頭に触れている。
「ポチ、何をしてるんだ?」
返事の代わりに、目覚めた隣のベッドの患者の絶叫が部屋に響いた。
……こうして、7名の医師と検査技師1名、そしてゴンザレス博士の合計9名の患者は、めでたくも騒々しく全員が昏睡から目覚めたのだった。
特にゴンザレス博士のパニックが大きかったのは、全て美月の責任だ。昏睡から目覚めた途端、斑点だらけの烏賊を目の前に差し出され「ほーら、ママですよ」とやられたら、出産直後の繊細な神経を持ったご婦人でなくてもショックを受けるだろう。
「母性本能で、我が子と分かるかと思ったのに……」
「母性は本能じゃない。学習するものだ。妊娠の記憶も出産の記憶もない女性が、そんな超能力みたいな力で子供を認識できるはずはないだろう」
〈あの人はママなの? ママは僕が嫌いなの?〉
ポチの悲しげな感情が、触手を通じて花沢の脳に伝わって来る。
「見ろ、君の無神経な行動のせいで、ポチまで傷ついたんだぞ」
「ごめんね、ポチ」
美月が珍しくしょげた声を出す。
「そのバケモノは何だ?」
美月に負けず劣らずの無神経な発言をしたのは、ベッドの名札によれば、ラリー・スティーブンス医師。医療チームのチーフだ。
「ゴンザレス博士が産んだ、地球人とエンケラドゥス人のキメラです」
美月が答える。
「私の子じゃないわよ!」
と、ゴンザレス博士。
この混乱を収拾したのはポチだった。ポチの触手に頭を触れられ、ニューロン発火によって説明を受けた地球人たちは、状況を理屈としてだけは理解したのだった。
患者たちは、まだ羊水の中にいたポチに危害を加えようとしたと認識されたために、脳への電気刺激で眠らされてしまったのだということ。そしてそのポチに再び脳への刺激を与えられたことによって意識を回復したのだということ。
ゴンザレス博士の医療記録を読んでいた分、理解のスピードが速かった花沢が、補足説明をする。
「ご自分が意識を失った時のことを思い出して下さい。ゴンザレス博士自身の体、あるいは博士の体に接触している人の体に手を触れていませんでしたか? その時、彼女の胎内には、この子、ポチがいたのです」
「つまりは、こいつのせいなのか?」
スティーブンス博士がポチを睨みつけたが、美月に睨み返された。
「正当防衛です! あなたはこの子を殺そうとしたんですから!」
これを聞くとスティーブン博士は「永源博士がそう言うのなら……」とかもごもご言って黙ってしまった。
(永源美月が苦手なのは、どうやら僕だけじゃないらしい)
花沢は博士に親近感を覚えた。
「じゃあ、本当にこの烏賊は、私が産んだ子供なの?!」
2人のやり取りを無視して、ゴンザレス博士が悲鳴のような声を上げる。
ポチは体表に「MAMA」の文字を表示させて博士に両手を差しのべたが、ゴンザレス博士はこわばった表情で首を横に振っただけだった。

患者たちがひとまず落ち着くと、美月はさっそく外のスタッフに患者が全て意識を回復したことと昏睡の原因が感染症によるものではないことを報告したが、この報告によって隔離セクションの中と外とで、ちょっとした議論が交わされることになった。
“慎重派”のクーパー隊長が、セクションの隔離を解除することに難色を示し、スティーブンス博士がそれに強く反発したのだ。
「医療セクションをいつまでも隔離しておくわけにはいかんでしょう!」
チームを代表して強い口調で詰め寄るスティーブンス博士に、隊長はしぶしぶ同意した。
「分かった。では隔離は解除しよう。そしてその烏賊のバケモノは処分する!」
だが、この毅然とした口調の命令にも横合いからストップがかかってしまった。止めたのは副隊長のメイファ・リーで、彼女は地球からの通信文が表示された端末を手にしていた。
「地球に送られた細胞の分析データによれば、あの烏賊は生物学的に見て半分は人間であることが明らかになっています。現在、本社で烏賊が人間なのか、その他の生物なのかの協議が行われておりますが、その結果が出るまでは烏賊は暫定的に人間として扱われることになり、殺害すれば殺人ということになってしまいます」
「一体、誰がそんなデータを地球に送って、わざわざ事態をややこしくした?」
隊長のこめかみがピクピクと痙攣する。
「細胞を採取、分析してその結果を地球に送ったのは、永源美月博士です」
「永源? 彼女はずっと隔離セクションにいたはずだが?」
「隔離セクションからも、通信は送れます」
メイファ・リーが、事務的な口調で答えた。
「……今後、地球本部へ通信は、すべて私を通すようにしてくれ」
隊長は、それだけ言うとテレビ電話をオフにしてしまった。
「あの人、調査隊隊長に向かないと思わない?」
と、美月が言った。
「あの人なりに、努力はしているんだよ」
と、花沢は同情的に言った。

クーパー隊長にとって不愉快なことに、地球での協議は例のように時間がかかり、さらに不愉快なことに、隊員たちは徐々にポチの存在を受け入れ始めていった。
エイゲン宇宙開発の重役の肩書きを持つと同時に、生物チームの元チーフ(ゴンザレス博士の事故への責任を取らせる形でクーパーが彼女を降格にしたそうだ)である美月が連れ歩くポチのことを、隊員たちは無視するわけにもいかず、彼女の勧めに従って仕事を手伝わせてみると、この子がかなり有能な人材(?)であることが分かって来たのだ。ポチが手伝うようになってから作業効率が2倍に上がったと言う隊員も出て来て、1週間もするとポチは調査隊にとって、すっかり欠くことのできないメンバーとなっていた。
黒くて大きな眼は見慣れると愛らしく、触手を使ってガイドバーからガイドバーへと俊敏に渡り歩く姿は優美ですらある。ポチは隊員たちのアイドルとなった。もちろん、すべての隊員がポチを快く受け入れたわけではない。クーパー隊長は元より、ゴンザレス博士も複雑な思いを抱えているようだった。
「私にはあの子がお腹にいた記憶も、出産した記憶もないの。母親だと言われても……」
談話室でくつろいでいた花沢に、ゴンザレス博士は人目をはばかるように悩みを打ち明けて来た。
「無理もありませんよ。あの子がお腹にいた間、あなたはずっと眠っていたのですから」
花沢が理解を示すと、博士はほっとしたように続けた。
「それに、私、そもそも触手が苦手で……」
「そりゃあ、そうでしょう! 普通に見て気持ちの悪いバケモノですからな、アレは」
その声に振り返ると、いつの間にか後ろにクーパー隊長が立っていた。
「地球では、まだアレが人間がどうかを協議しておるんですよ。馬鹿馬鹿しい! 科学の専門家が雁首揃えて『烏賊は人間なのか?』なんてことを議論しているんだから。まったく科学者という輩ときたら、我々常識人から見れば烏賊が人間なんてことは有り得ないで話です。だからゴンザレス博士、あなたがまともなんです。烏賊がちゃんと烏賊だと分かっている。烏賊は烏賊です。絶対に人間じゃない!」
「まあ、確かに烏賊は烏賊ですね。なんと言うか……その、エンケラドゥスの烏賊ですが」
「そう、エンケラドゥスの烏賊です。最悪です。エンケラドゥスは、この星は!」
クーパーは思わず大声を上げてから、はっと我に返り、うろたえたように話を打ち切ると談話室を出て行った。花沢はゴンザレス博士と顔を見合わせ、なんだか同時に笑ってしまった。
「彼は、前からあんな感じなんですか?」
と、花沢は博士に尋ねた。
「永源博士から聞かされているとは思うけど、ほら、クーパーはエンケラドゥスへの異動を左遷と考えているから……」
「え?」
初耳だった。
「もしかして、本当にご存知ないの?」
ゴンザレス博士は声をひそめると、クーパー隊長と永源美月との間の問題についてを聞かせてくれた。
国際宇宙開発機構が予算削減の関係で民営化された時に、最初に買収に名乗りを上げたのはアナンダ・グループというインドに本拠地を持つ財団で、クーパーの上司にあたる人物が、このグループに強いコネを持っていた。
ところが、エイゲン・グループが遅れてこの買収に興味を抱き、結局、開発機構はより良い条件を提示してきたエイゲン・グループのものになった。エイゲン・グループは、エンケドゥスの調査を再開し、クーパーは、その開発チームに回されのだが……。
「たぶん彼は、アナンダ・グループを応援していた自分への報復人事だと受け止めたのね。わざと辺境の星に飛ばされたのだと思ったみたい。エイゲン・グループとしては、会長の孫である永源博士をチームに加えるほど力を入れた事業だったのだけど。クーパーにしてみれば自分が隊長を務める調査隊にエイゲン・グループの関係者がいるというのも、また気にいらなかったのよね。よせばいいのに、いちいち突っかかるものだから、逆に2人は不仲だという話が調査隊中に知れ渡ってしまって、隊員たちが隊長派と博士派に分裂……」
(うわあ、関わりたくない)
と、花沢は思った。
そんな中で起きたのが生物チームの調査車両の事故だった。ゴンザレス博士が負傷し、さらには治療に当たった医療チームまでが意識不明に。クーパーはおそらく内心ほくそ笑みながら、これを口実にチーフだった美月を降格し、次いで隔離室に閉じ込めるのにも成功したというわけだ。
ところが美月がエイゲン・グループの力を使って独自に花沢をエンケラドゥスに呼び寄せ、結果的に医療チームもゴンザレス博士も回復してしまったばかりか、ポチの人気のせいで派閥の勢力は逆転。目下は永源派が勢力を拡大しつつあって……。
花沢には、自分がこの星に来た時の奇妙な歓迎ぶりを思い出した。あの時、彼を出迎えた連中は、恐らく永源派の隊員だったのだろう。
(変な派閥争いには巻き込まれたくないなあ……)
ぼやきながら通路を歩いていると、興奮した様子で娯楽室から出てきた技術チームのピーターセン技師に声をかけられた。
「ポチはすごいぞ。ブリッジではひとり勝ち。チェスでは連勝記録を更新中。しかもそれを同時にやっているんだから。やっぱりアレかな? 2つの生物のキメラだから脳味噌も2倍あるのかな?」
「さあね。確かに脳の容量は大きいけれど……」
何しろポチの円錐形の体は、そのほとんどが“頭部”なのだ。
「さっきも話していたんだ、ポチがひとりしかいないのが残念だって。どこのチームも彼のアシストを欲しがってるからな」
これを聞いて花沢は、
(クーパー隊長は、面白くないだろうなあ)
と、思った。
(面倒なことにならなきゃいいけど)
だが彼の願いも空しく、事件は起こってしまった。

ゴンザレス博士の叫び声に、隊員たちが中庭のプロムナードに駆けつけてみると、クーパー隊長が鼻血を出して倒れており、10mほど離れた場所に、ゴンザレス博士が片手でガイドバーを掴み、荒い息をして立っていた。そのもう一方の手には、切り落とされたポチの触手が握られている。ポチ自身はと言えば、バーに触手を絡ませてぶら下がっていたのだが、人の手の形をした触手が1本なくなっているのは明らかだった。そして、隊長の右手の近くには高枝切り鋏が落ちていた。
「いったい何が起こったんです?」
メイファ・リーが、その場のみんなを代表して質問を口にした。
「バケモノが彼女に襲い掛かったんだ」
と、クーパー隊長。
「そいつが、うちの子に大怪我をさせたのよ! この野蛮人! 人でなし!」
と、ゴンザレス博士。
「私が説明する! このバケモノは危険生物で……」
隊長が、大声でその場を仕切ろうとしたが、
「刃物を振り回す狂人の方が、よっぽど危険だわ!」
というゴンザレス博士の甲高い声に遮られた。
「彼女は混乱しているんだ!」
「その男は頭がおかしいのよ!」
「……とりあえず、隊長を医務室に運ぼう。鼻の手当てをしないと」
花沢が医師として提案した。

2人の話を総合すると、事件の顛末は、こうだった。
ゴンザレス博士は、高枝切り鋏を使って中庭の植物を採取していた。鋏をバーに立てかけて採取した植物を撮影していたところへ、ポチがやって来た。ポチは斑点で「MAMA I LOVE YOU」の文字を綴りながら近づくと、博士の頭部に触手を伸ばして来た。次の瞬間、いつの間にか後ろに立っていたクーパー隊長が鋏を取り上げてポチの触手を切り落としたのだ。
隊長は、ポチが博士に襲い掛かったのだと主張したが、他ならぬゴンザレス博士がそれを否定する。
「あんたは、あの烏賊を嫌がっていただろう!」
「でも、うちの子よ!」
恐らくクーパー隊長にとって予想外だったのは、ゴンザレス博士の中に無意識のうちに芽生えていた“母性”の存在だったのだろう。突然襲った危機を前に、博士の心に眠っていた何かが、ポチを守らねばならない“我が子”と認識させたのだ。博士はポチを傷つけた隊長に飛び蹴りを見舞い、吹っ飛んだ隊長はプロムナードの立ち木に鼻をぶつけて鼻血を出す結果となった。
「……鼻の骨は折れていないし、脳にも異常は見られませんな」
外科医のスティーブンス医師が、2人の言い合いを聞き流して、クーパー隊長の頭部のスキャン映像を見ながら言った。
「むしろ重傷を負ったのは、ポチの方だと思いますが」
と、花沢。
〈僕はもう大丈夫です〉
ポチは斬られた触手の傷口を医師たちに見せた。すでに指の一部が再生しかけている。見る間にそれは明確に掌の形に変化し、元と変わらない“右手”となった。
「右前腕部切断。全治30分……か」
地球人の患者しか診察したこのとない花沢は、ポチのカルテを作成しながら半ば呆れた声で言う。
「もっとすごいことがあるのよ!」
美月がトレイに載せたポチの触手を持って来た。クーパーに切り落とされた右の触手だ。
「これは!」
花沢は、思わず声を上げた。
右手の切断面からは、ポチの“本体”が再生しつつあったのだ。
……1時間ほどで、ポチは2人に増殖した。
〈兄弟が出来て、嬉しいです〉
と、ポチは言った。
そして翌朝、診察室へ出勤して来た花沢は、そこに広がる光景に言葉を失うことになった。部屋中にポチ、ポチ、ポチだらけ……。
「あなた、自分で自分の腕を切っちゃったの? 痛くなかった?」
美月が心配そうに言う。
〈あまり……ピーターセンも僕は数が多い方がいいと言っていたし〉
増殖したポチたちは、調査基地の各部署に散ると、それぞれが有能な働きぶりを見せた。基地内にポチの姿を見かけない場所はなくなり、逆にクーパー隊長の姿を見かけなくなった。隊長がいないのに基地の業務は滞りなく進行し、むしろ彼が指揮を取っていた時より効率が上がった。2大派閥のうちのクーパー派が壊滅状態に陥ったことで人間関係がスムーズになって、基地全全体の連絡が良くなったのだ。
だが……抑圧されたマイノリティーは、水面下で密かに活動を続けていたのだ。もっとも活動していたのはクーパー隊長ひとりだったが。それでも彼は調査隊の隊長である。彼の沈黙の不気味さについて、隊員たちはもっと注意を払うべきだったのかも知れない。

最初に異変に気づいたのは、美月だった。
「おかしいわ。うちのパパからバースデー・メッセージが届かないの」
「28にもなる娘に、わざわざメッセージを送るのは止めたってことじゃないのか?」
花沢は、極めて常識的な意見を述べたつもりだったが、美月に一蹴された。
「うちのパパは、そんなパパじゃないのよ!」
美月はプライベート回船を使って父親にメッセージを送ったのだが、その返事も戻って来ないのだと言う。
「絶対におかしいわよ、こんなの!」
しかし、そろそろエンケラドゥスを離れて本来の目的地であるエウロパに戻るつもりでいた花沢にとっては、美月親子のコミュニケーション問題など、どうでもいいことだった。ゴンザレス博士は幸い乳腺炎も起こしていないし、悪露【ルビ:おろ】も終わった。産婦人科医の出番はなくなったと思っていい……。
(エウロパに連絡を入れないとな……)
お嬢様の美月と違って、プライベート回船など持っていない花沢は、共用の回線を使ってメールを送ることにしたのだが、メーラーを開くとメンテナンスからのお知らせが届いていた。
《メンテナンス:トラブルが発生したため、他の星との送受信ができなくなっています》
《花沢:復旧はいつ頃?》
《メンテナンス:分かりません。原因を究明中です》
《花沢:手こずるようなら、ポチに相談してみたら?》
《メンテナンス:アドバイスありがとうございます。そうします》
花沢はメーラーを閉じた。
(ポチに任せておけば、間も無く通信も復旧するだろう)

その晩遅く、花沢はけたたましい警報音に目を覚ました。時計を見ると、まだ深夜の2時だ。(エンケラドゥス基地の人間は、地球の標準時を使って生活している)
「基地の一部で気圧の低下が見られました」
コンピューターの声が、状況を伝えて来た。
直径が地球の25分の1しかないエンケラドゥスは、当然、大気も薄く気圧も低い。地球人が暮らしていける環境にするために、基地の中と外は厚い外壁によって塞がれているのだが、それに穴が開いたのか?
まもなく、原因が出入り口のエアロックの故障らしいことが分かる。
「怪我人は?」
産婦人科医とは言え、花沢も医者である。救急パックを手に現場へ向かう。辿り着いた現場は、彼が予想していたのとは違う混乱に満ちていた。故障したというエアロックはすでに閉じていたが、隊員たちがその近くの窓に群がって外を見ようと押し合いをしていたのだ。
「誰かが外に出ているんだ!」
窓を塞ぐ隊員たちの肩越しに外を覗き込むと、基地のすぐ外側で、宇宙服姿の人間が20mほどの高さの巨大な烏賊に向かって銃を撃っているのが見えた。
「あの烏賊は、ポチか?」
「ポチが、巨大化?」
「巨大化というより融合したんじゃないかしら。そもそもが1つの個体が分裂していたわけなんだから。気温の低い外気の中で内臓の温度を保つには、体を大きくした方が合理的なことは確かね」
ざわめく隊員たちの中で、美月が妙に冷静な意見を述べる。
「あの人は、大丈夫なのかな?」
と、花沢は言った。宇宙服の男は、盛んに銃を撃ちまくっているのだが、ポチの再生力は周知の通りである。
「いま、保安チームが救出に向かっている」
見れば確かに宇宙服に黄色のマークを付けた保安チームが、銃を持った男に近づいて行っている。保安チームが男を確保した。ほっとしたのもつかの間、巨大烏賊が基地の方へと近寄って来るのが見えた。
「こっちへ来るぞ!」
物見高い野次馬は、一瞬で逃げ惑う群衆となった。人混みに押されながら、花沢はポチの体に浮かび上がった斑点の文字を読んだ。
「LEAVE HERE」
(ここを、離れろ?)
「緊急事態です。総員、宇宙船に退避してください」
誰かが非常ボタンを押したのだろう、コンピューターの声がして通路の誘導ランプが発着場への道を示して点滅を始める。
何がどうなっているのか、さっぱり分からない。混乱のうちに警備員に連れられた宇宙服姿の男が基地に戻って来た。執拗に発砲したせいか、烏賊の体液を浴びて宇宙服はドロドロ。何度も手を滑らせながらようやくヘルメットを外したその男の顔を見て、花沢は驚いた。
「クーパー隊長?」
「あんた、うちの子に何をしたのよ!」
ゴンザレス博士が食ってかかったが、クーパーに怒鳴り返される。
「バカ女が! まだ状況が飲み込めんのか!」
「緊急システムによる退避指示が出ています。お話は宇宙船に退避してから伺いましょう」
メイファ・リーが、冷静な口調で言った。

隊員全員を乗せた宇宙船が基地を飛び立つと、クーパー調査隊長は船長室を陣取って、そこのマイクを使って話し始めた。
「……あのバケモノが、我々の基地を乗っ取る陰謀を抱いているのに気づいたのは、奴が隊員たちの業務にやたらに手を出したがっているのを不自然に感じた時からだった」
「こっちから手伝いを頼んだんだけどなあ」
と、ピーターセンがつぶやいた。
「やがて、隊員たちが隊長の私より、あの烏賊の言うことを信頼するような、おかしな現象が起き始め、私の疑惑はさらに深まった」
「単に人望の差じゃないの?」
と、美月。
「決定的な確信を得たのは、あの烏賊に襲われた時のゴンザレス博士の正気とは思われない行動だ。彼女は助けに入った私を逆に攻撃し、自分のとった行動の異常さにも気づかなかったのだ。彼女は間違いなく洗脳状態に置かれている」
「私に話しかけようとしただけのあの子の腕を、いきなり切り落としたのはあなたでしょうが」
ゴンザレス博士が不満げに言う。
「冷静に考えてみたまえ。あれは烏賊だ。気味の悪い軟体生物だ。なぜ、そんなバケモノに友好的な感情を抱く? おかしいとは思わないか? 自分が洗脳されているとは思わないか?」
「いや、ぜんぜん」
言ったのは、スティーブンス医師だった。
「私はこの事態を地球に報告した。エンケラドゥス基地全体が、烏賊の怪物とそいつに洗脳された人間たちにとって乗っ取られた状態にあるという事実をね。そうそう、洗脳された隊員が外部に妙な働きかけをしないように、通信機器にはジャミングを施してしておいたよ」
「あいつの仕業だったのか!」
メンテナンス係のグレッグが、いまいましそうに舌打ちした。
「烏賊どもは、どうやら、自分の企みが私に知られたことに気づいたようだ。そこで先手を打って奴らをエアロックにおびき出し、扉を細工してそこから外に吸い出させてやった。そこから先はさっき君らが見たあの光景だ。バケモノはすっかり正体を現して巨大化し、私を襲って来たのだ」
「公平に見て、隊長が一方的に向こうを攻撃していたように見えたがなあ」
「うん、ポチは何もしていなかったよね」
「隊長は少しも襲われてなかった」
と、目撃者たちが口々に証言した。
こうした囁きは、船長室のクーパー隊長にはまったく届いていなかったので、彼は演説を終えると満足げな微笑みを浮かべた。
警報が鳴り響いたのは、その数分後だった。
「今度はなんだ?」
「エンケラドゥスの地表で、連続した爆発が観測されました」
「なに?」
「コンピューター、爆発の原因は?」
「爆発の規模と状態から推測して、中型ミサイルが着弾した模様です。現在、エンケラドゥスの軌道上に無人の戦闘用宇宙船が存在しています。機体番号を照合中……判明しました。宇宙船はエウロパから派遣されたものです。宇宙船のコンピューターによると、目的はエンケラドゥス基地の殲滅です」
重苦しい沈黙が流れた。
「どういうことなんですか、隊長? 地球は我々を皆殺しにする計画だったのですか?」
メイファ・リーの声に、ようやくみんなクーパーがそこにいるのに気づいた。どうやら自分の演説の効果を確認しようと船室に入って来たところだったらしい。問い詰められて、うろたえている。
「そんなはずはない。これは何かの手違いで……」
「手違いで殺されてたまるか!」
体格のいいピーターセンに締め上げられて、クーパーは青くなった。
「本当だ。バケモノを退治したら調査隊は一旦解散。私は地球に栄転して後任の隊長が新しい調査隊を連れてここへ来る計画だったんだ」
「誰が、それを?」
「コールダー部長……」
クーパーは、喉の奥から絞り出すような声で言った。
「コールダーって、誰だ?」
ピーターセンは知らないようだった。花沢も、もちろん知らなかった。
「ほら、あの人よ。この間、話したじゃない。国際宇宙開発機構が、まだ民営化される前のクーパーの上司で、アナンダ・グループにコネがあった人」
と、ゴンザレス博士。(彼女は、よほどの事情通と見た)
「思い出したわ。うちが開発機構を買収することに決まった途端に、やたらお爺ちゃまに擦り寄って来た男ね」
美月は氷のような目でクーパーを見た。東洋美人のこの眼は怖い。
「つまり、彼はあなたが、いらなくなったのよ」
「そんな……」
クーパーが床に崩れ落ちなかったのは、そこが無重力の宇宙船内だったからだ。

クーパーから「エンケラドゥス基地がバケモノとそいつに洗脳された人間に乗っ取られた」という報告を受けたコールダーは、基地の人間を救助してバケモノを排除する代わりに、クーパーごと基地を見捨てる決断を下したわけだ。さすがは基地の医療セクションで感染症の発生が疑われた時、迷わず見捨てる判断をしたクーパーの元上司である。“師匠”と呼んでもいいかも知れない。
地球からこの情報をもたらされたエウロパ植民地で、エイリアンが攻めて来るのではないかという恐怖にかられた住人たちが無人機による攻撃を仕掛けたところまでも、ひょっとするとコールダーの計算通りだった可能性もある。
通信機器の修理をしていて、クーパーの送信記録を見つけたポチは彼の報告した内容を見て、それが自殺行為であることに気づいたのだろう。コールダーからの返信からも、よく読めば行間からその冷酷さが伝わって来たはずだ。
「クーパーは、自分の報告を読んだコールダーが、救助船を送って“洗脳状態にある危険な集団”を連れ帰ってくれると本気で思ったんだろうか?」
「だからあいつはバカなのよ!」
美月が吐き捨てるように言った。
「ポチの『LEAVE HERE』って文字を見た? あの子は撃たれながら、必死で私たちに危険を知らせようとしたんだわ。クーパーに邪魔されなかったら、あの子だっていま私たちと一緒に……」
美月はそこで声を詰まらせた。小さな肩が震えていた。

拘束されたクーパーに代わってメイファ・リーが、事件の顛末を地球に報告し、本社の指示によって調査隊はひとまず地球に帰還することになった。壊滅状態のエンケラドゥス基地では、調査の続行どころか居住し続けることすら不可能だったからだ。
花沢は、赴任することなくエウロパの医療センターに辞表を出した。「自分に向けてミサイルを発射した連中に囲まれて働けるほどメンタルが強くないから」というのがその理由で、この辞表は受理された。
地球に戻った美月は、さっそく会社に調査の再開を進言したが、一度大赤字を出してしまった事業への再投資に上層部は慎重になった。差し当たっては現状調査のための無人探査機を飛ばすのがせいいっぱいという結果になってしまった。
それでも美月は諦めず、協議を重ねるうちに3年の月日が流れ、その間に花沢と美月は、元エンケラドゥス調査隊のメンバーの結婚式に何度も招待され、出産の祝いをすることになった。
「ピーターセンに、また女の子が生まれたってさ。あの時の隊員同士の間に生まれた子供としては28人目だな。元隊員同士のカップルがこんなに多いのは、例の〈吊り橋効果〉ってやつなのか?」
そう言った花沢も美月と結婚し、いまやエイゲン・グループの一員である。
「それより、あのメイファ・リーが母親になるとは思わなかったわ」
「向こうもきっと、同じことを言っているよ」
花沢は、微笑んでゆりかごの中を覗き込む。結婚と同時に妊娠が発覚した子供だ。美月が赤ん坊を抱き上げようとしたとき、電話が鳴った。
「会社からだわ」
美月はゆりかごの傍を離れ、仕事に母親を取られた赤ん坊が不服そうな顔をする。すぐに戻って来るかと思ったのだが、どうやら込み入った話のようだ。
「あーあ、ママは忙しい、忙しい」
赤ん坊に話しかけながら抱き上げる。
「だから、すぐに見たいのよ。早く送って!」
美月が電話の相手に向かって叫んでいる。
「どうしたんだ?」
「エンケラドゥスに送った無人機から、映像が届いたのよ。あなたも一緒に見るでしょう?」
返事を待たずに、壁のディスプレイに映像が映し出される。
「ほーら、あれがエンケラドゥスの間欠泉【ルビ:プルーム】だ」
花沢は、赤ん坊を抱き上げると言った。
「そして、あれがエンケラドゥスの調査基地」
言ってから気づいた。
「修復されている? いったい誰が……?」
答えは、分かっている気がした。抱いている赤ん坊が花沢の頭に手を伸ばす。あやしてやろうと微笑みかけたとき、赤ん坊の掌が花沢の頭に触れた。
その感触には覚えがあった。赤ん坊の言葉が頭の中に響く。
〈ポチが、あそこで待ってるよ〉
硬直した花沢の腕の中で、黒い2つの眼が親しげに“パパ”を見つめていた。

文字数:20384

内容に関するアピール

要領よく生きようとした挙句に派閥選びを間違えて、無情に切り捨てられる哀しい男。
他人に流されているようで、実はちゃっかりオイシイ立場に流れ着く、実は世渡り上手な男。
望まぬ出産に、自分に求められる「母性」というものに悩む若い母親。
好きな男はガッチリ離さず、赤子を見れば可愛がる、むき出しの「女という性」そのものの恐ろしさを持った女。
そういう人間たちが、土星の衛星エンケラドゥスで、烏賊そっくりのエイリアンに遭遇して……というお話です。

文字数:215

課題提出者一覧