分離

梗 概

分離

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 マクロな系の生物の状態は、必ず収束する。
  状態数が収束すること(波動関数の収縮)を量子コヒーレンス(量子のかさねあわせ状態)であると解釈すると、コヒーレンスは外部環境からの熱揺らぎが主な原因である。マクロな系は本質的に孤立系とはなり得ず、常に「外部環境」からの熱揺らぎに晒されている。それゆえ状態数は収束するのだ。「外部環境」には空間の外側も内側も入るので、ミクロな系以外の完全な孤立系は、空間の外側が定義されない宇宙空間以外には存在しない。
  しかしマクロな系であり完全な孤立系かつ、外側には物質も熱も通さない「剛体壁」をもつ細胞があると仮定したらどうだろう。
  マクロ系なのでエネルギーや振動が外に出せない。しかし内部に振動があればそれは孤立系とは言えない。細胞内の器官として量子コヒーレンスがあれば空間的に完全に隔てられていてもエネルギーや振動を外へ転送できる。つまり量子の重ね合わせ状態によってのみ代謝が存在し、体を存続させる事ができる。意識は量子の情報の転送によってのみ存続する為、通常より高精度な量子コンピュータ並のスペックになるだろう。ただし量子が代謝を行わないと自らの熱量で消滅する。そうして細胞は完全な孤立系のまま人の形を維持する。細胞は変形しないので成長したふりを続けるしかないだろう。孤立系という点では人体というより宇宙空間である。かつてそういった完全な孤立系の細胞のみで肉体が構築されていた人物がいた。名をグレゴール・ヨハン・メンデルという。

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 人間の条件を機械的に再生・模写するだけの機械は人間と言えない、とメンデルは考えていた。
さらにメンデルは自分が「非人間」として「存在する」かもしれないという強迫観念を抱いていた。発端は1837年、当時15歳のメンデルが実験的な興味から足の小指を切り落としたことに始まる。
 断面に骨はなく予期に反して視認できる程の均一な大きさに分かれた、透明な膜に覆われた赤い細胞が詰まっていた。皮膚は肉の表面が変色したものだった。メンデルは自分の体が全てこの細胞なのではないかと思い胴体を裂いた。余りに機能的で、人間の模写の為に作られた必然的な体のように思えた。自分の体が全て肉だけでできているという経験は成長とともに脅迫観念ひいては自分が人間的な偶然性を持ち得ると証明したいという(具体的には自発的な意思決定ができることの証明)目的意識にも繋がった。
 修道士となり学問の道に入ったメンデルだったが小指の一件以来古典物理学にさえ行き詰まりを感じた。自分の細胞の構造を解く為に現代での量子力学の論理を構築した。メンデルが実験場所にした教会旧棟の祭壇は機械で占められた。メンデルは量子力学の原理と法則が直接個体に反映する定量的な因果律を導き出そうとしていた。自分が自発的な意思を持つことを証明するという目的の糸口になると考えたからだ。自分が「非人間」として存在するように思え、それは目的への原動力になった。
 メンデルは精細胞内部で量子コヒーレンスが起こっている事を見つけ、自分の細胞の構造を解いた。同時に、自分の行動は全て可能性と機能の範囲に収まっていたのでありまさに機械といった意味で「非人間」であると解り、ある決断をする。

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 リンツはメンデルと同じ聖トマス修道院に所属する21歳の普通の修道士だった。修道院長ナップから礼拝器具を取りに行くように言われ礼拝の渡り廊下に続く使われていない旧棟に向かうとそこは巨大な生物群で占拠されていた。その時祭壇で巨大機械を操作していたメンデルから口止めされ、それを契機に二人は知り合う。
 メンデルはリンツを信用し決断の協力をしてもらうつもりだったが、修道院長ナップに旧棟の中身を見られてしまい二人はナップを撲殺した。メンデルは後処理を請け負う代わりにトランクを必ず受け取るという交換条件をリンツに提示、リンツは意図がわからないまま承諾し、その日のうちに修道院から逃げる。リンツが宿舎に届いたトランクを開けるとそこには折りたたまれた半分に切られたメンデルの体と手紙があった。
 「私は自らの細胞の構造に気づき全ての細胞の機能を停止させたのち、細胞内の量子がやり取りする情報を50兆の細胞の数だけ書き換えた。書き換えた情報に従って自己増殖を行うように設定し、お互いに入力された情報がかち合うと、尋常ではない処理量をこなす演算装置になるようにした。もしも予測が間違っていないければそれで世界の全てが終了する」

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 起動されたメンデルの体は、メンデル自身が打ち込んだ文字に沿って癌のように増殖し、波形を作り、物理演算装置となって凄まじい情報量の演算を叩き出した。演算は熱揺らぎと打ち消し合い、全てを彼と同一の孤立系にした。地球は「最小単位」に分解され、完全な孤立系が無数にある状態となった。完全な孤立系になった地球はメンデルと同じように崩壊しはじめた。生物がまず最初に消失した。生物の機能はかさねあわせ状態の量子が細胞内に発生する事で、細胞に代わって細胞の機能を持続させている。細胞の中の量子の重ね合わせ状態は30秒から1分で寿命を迎える。それと同時に細胞は孤立系を保てなくなり自らの熱量により地球生物の体は消滅した。
 宇宙のあちこちに細胞内の量子とペアの量子がちらばっている。量子コヒーレンス状態が、どうやって『意識』の機能を保ったかについていえば、細胞内の量子同士で、情報のパスをつないでいき、渡す渡さないの1、0の繋がりで意識は形成されていた。崩壊する直前の生物は全体が脳状態だったということである。そのため意識を形成していた量子のペアの方のつながりは持続し、運がいい生物は宇宙のどこかで意識だけ存続できた。量子は消滅し思考回路の大半が欠けたが、それでもメンデルの意識は非人間/人間の空虚な判定を受け続ける事から逃れた事を喜んだ。メンデルは人間からかけ離れた超越した宇宙規模の存在になったのだ。
 一方の地球はどんどん崩壊していき、残された「完全な孤立系のもの」だけが静かに消滅していった。リンツは運悪くただ爆発に飲まれそのまま普通に死んだため意識は存続しなかったし体も崩壊しなかった。メンデルも体だけは残っていた。
 しかし、地球があったはずの場所では崩壊と同時に再生が起こっていた。地球自体や元々あったものがメンデルの細胞で体だけ再構築され始めたのだ。レンツの体を触媒にしてメンデルの細胞は、増殖した。リンツが「起動」させた命令が残っていたからだ。見た目上は彼らの周りには何もなかった。しかし物質が一つもなくなった地球には収束しない状態数、波動関数だけが残り、波動関数の前に熱揺らぎによって生じる磁性軸があった。
 メンデルの細胞は磁性軸に反応し軸が出ている方向をなぞりながら増殖し形を作った。作られた形は状態数の収束に従って機敏に動きを変え、肉のように赤い細胞で全てが再構築された。リンツだけが再生されなかったが皆、ただの機能の再生である為彼がいるように振る舞った。
 存在していたものは全て細胞で形だけ構築された為、豆もメンデルの修道院も人も洋服も全て表面を擬態していないメンデルの体のようだった。メンデルは植物を育て、修道院で平和に生活し、リンツの存在を知ることもなく気象学と遺伝の法則の発見をして平和に死んだ。      

<了>

文字数:3017

内容に関するアピール

この話はどんな話か。
<機能>とは生産される時点で目的が決まっておりなんの偶然性もない。その目的がもし「偶然性」の模写であったとしても模写が成立した時点でそれは「必然性」になる。メンデルは自分の体が兼ね備えている人間の条件が<機能>に過ぎないのではないかと怯えていた。メンデルは特異な体を持ち機能的な側面が見えやすい立ち位置にいたからだ。しかし<機能>であると認めてしまうことは「彼の持つ偶然性の徹底的な破壊」であり、自らを非人間と判定することは主体を抹消することでもある。だからメンデルは論点をずらすことでそこから逃げた。人間の条件は自発的な意思であるという命題を立てその証明に埋没しようとしたのだ。ここには大きな捻れがある。しかしそれも否定され、さらに自分の体の構造はやはり機能であると突きつけられる結果となり逃れられないと悟ったメンデルはある決断をする。決断の結果メンデルは人間的/非人間的の範疇から逃れた超越的な存在となります。
 第5回課題『破壊』で書こうとしたことは、知性を崩壊させてもここから抜け出すという一種の矜持でしたが、今回の作品『分離』では逆に、抜け出ることによって初めて「非人間として存在する」ことができるという話です。超越した存在になり判定から逃れて初めて、機能に押し込まれた人間は主体性と偶然性を得るし、存在できる。というテーマです。
リンツは最後まで意味がない存在のようですが、ただ殺され再生されない、機能が分離しない唯一の存在ということでメンデルとの対比をさせようと思いました。

相容れないものを並列させよ、という課題について。
<機能>の内に全てが収まりきり解決されてしまうということは、メンデルの思う「人間の条件としての偶然性」がなく全てが必然的なもので埋め尽くされることである。ここには以下の3つの相容れない対立が、分離したまま並立している。
第一に、決して相容れないまま同じ場所で並存していた「生まれながらに必然的である機能」(機能である時点でそれはなんの偶然性も保てない)と「偶然性」。第二に「人間であること」と「非人間としてここにあること」。第三に、第二の対立全体にかかるものとして「非人間としては存在できないこと」(存在意義や可能性に含まれないという意味で)という対立である。第三の対立は分離することで並立したのではなく解決されました。そもそも第二の対立と一緒にあるものだったからです。したがって最後まで決裂した対立は他の二つです。
メンデルは自分の体が兼ね備えている人間の条件が、機能に過ぎないのではないかと怯えていた。メンデルは特異な体を持ち機能的な側面が見えやすい立ち位置にいたからだ。メンデルは「非人間」として「存在する」と判定される事を恐れた。「非人間」として「存在する」ことはありえないことであり、存在すること自体が抹消されてしまう。メンデル本人が争ったことに関係なく「非人間として存在し続けたことと」と、「人間として存在する」以外の可能性が認められないこと、の二つ、つまり世界とメンデルは並立し続け、決して相容れないまま分離したと思います。機能のみが物質の形をとって残った地球と、それらを超越した存在となって初めて「非人間として存在できた」のだと思います。そもそも超越しないと非人間として存在できなかったということです。

3 タイトル『分離』の意味について。
相容れないものが最後分離することで並立したからです。

4 どうして主人公をメンデルにしたのか。
メンデルでなくても良さそうに思えるかもしれないですが、実際のメンデルとのギャップをつけようと思いました。ラストでひたすら豆と気象学と教会の仕事をしているさえないメンデルを書くのでそことの対比を出したいが為の人選です。

5 アピールポイント
<3>です。メンデルの決断の内容と結果というクライマックスなのでこの物語の主軸です。

文字数:1609

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