かっこうの巣の中で

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かっこうの巣の中で

――私たちは、卵を産む。

大昔。人間は卵を産まなかったという。
その話を初めて聞いた時、私はとても恐ろしいと思った。
私たちの産む卵は、拳よりも小さい。でもその卵を孵化装置に入れていると、卵は大きく育っていく。四十週ほど経つと三千グラムほどの卵に成長し、その頃になるとようやく人間は殻を破って産声を上げるのだ。
かつての人間は、お腹の中でそれを行った。
四十週にも及ぶ長い期間もの間、身体の中で胎児を三千グラム近くまで育成し、命をかけて出血しながら産み落とし、産まれた後も二十年近く育てていたという、太古の人間。
あきらかに生物として間違っていると、私は思った。
馬も鹿もみんな、生まれてすぐに立ち上がる。鳥類も、数週間で独り立ちする。でも、人間だけは子供を独り立ちさせるのに、多大なるコストを支払ってきていたのだ。
多分、それがあまりに不完全だったから、私たちはこうやって進化したのだろう。
私たちは、孵化装置から出ればすぐに歩ける。
正当な進化を遂げられたことを、私は誇らしく思うと同時に心底ほっとしていた。
痛いのも汚らわしいのも、私は嫌いだから。

***

はるか遠くから、エレベーターの唸る音がする。
薄暗い書庫の中で、私ははっと我に返った。どうやらほんの一分ほど、ぼうっとしてしまっていたらしい。目の前で点滅するランプを見て、私は急いでモニターにうつる文字の羅列を手元のメモに書きうつした。
それからそれを頼りに、奥の書架へと向かう。
ここは、総合図書館の地下倉庫だ。五百万冊近くの、膨大な本がここに全て収められている。
私の仕事は、リクエストに応じてそれらの本を探し出すこと。見つけたら、受付に繋がるエレベーターに乗せることだ。
しかしこれらの本を私が借りることは出来ない。本を借りるという行為は、第三地区以上の人間にしか与えられていない特権なのだ。
私の住むこのシティは、十二の地区に分かれて管理されている。シティの中心にあるタワー――センターを中心に、まるで時計のように十二分割されているのだ。
地区に付けられた数字が一に近づくにつれ、より多くの特権が与えられ、逆に数字が十二に近づくにつれ特権を失っていく。より劣悪な環境に身を置かざるを得なくなるのだ。
私が住んでいるのは、第六地区。いわゆる、中流階級の人間が住む場所だ。
図書館の本は借りられない。嗜好品――アルコールや煙草、チョコレートなどの甘味を手に入れることは出来ない。映画などの娯楽も目にすることは出来ない。
でも、下層の人間と違ってある程度の自由は確保出来ているし、仕事も楽なものが多い。勤務時間外を友人との交友に当てることだって出来る。
これは、下層――主に九層以下の人間とは大きく異なる部分だ。下層の人間は、起きている時間の殆どを労働に費やすことを義務付けられている。他人との自由な交友さえろくに得られないと聞く。まるで家畜のように生きなければならなくなるのだ。
この地区の振り分けには、センター時の成績が影響している。
私たちは、卵から孵化されるとまずセンターに入れられる。センターにある孵化装置で卵から孵ると言ったほうがいいだろうか。そこで成績や人格、秀でた能力などの数値を測定され、その個人に適した仕事が見つかるとセンターを出ることになるのだ。
中には、成績があまりに悪くて四十歳近くになるまでセンターを出られない人もいるという。大抵そういった人たちは十二地区に振り分けられる。ろくな労働が出来ないと判断され、大変だが単純な仕事をすることとなるのだ。
この図書館の仕事は地味だが、私の好みの点で言えば抜群の仕事だった。
こうした一人でする仕事は好きだったし、なにより本をこっそりと読むことも出来る。
図書館の利用は多く、大抵の日は本をエレベーターに乗せる仕事に追われるが、たまに利用がぱたりと止む日も来る。そうした日に、私はよく本を読んでいた。
監視カメラがあるため、持ち帰ることは出来ない。だが、本棚の影に隠れて読むことぐらいは黙認されているのだ。
その時、私はようやくリクエストのかかった本を見つけた。ちらりと表紙を見て、すぐに小型エレベーターの場所へ戻るとそれを押し込む。
それは、前に私が盗み読みをしたことのある本だった。白い装丁にモノクロのグロテスクな写真が貼り付けられた本だ。
好きになれない本だった。それ以上の感想を持てない。持つことさえ、汚らわしいと思える、残虐的な描写で埋め尽くされた無意味で低俗な本だ。それでも読み切ってしまったのは、嫌悪感よりも好奇心のほうが上回ったからだ。
こういった小説で描かれる性描写が、私には理解できなかった。第一、ペニスの外観が私の知るそれとは全く異なる。
私が知っているのは、卵のように美しい表面を持った、無機質で清潔なペニスだ。
でも、小説ではどこまでもグロテスクで筋肉質で粘着質な、まるで化物のように表現されている。
メモを見ると、先程の本の種別番号には頭にKがついていた。このジャンルコードのついた本は、古典とされている。きっと、昔の人類は本当にこれらの本に描写されるようなペニスを持っていたのだろう。
卵生になった時に、人体もまた美しい形になった。そのことが、なによりも喜ばしく誇らしい。
ランプが、点灯した。
私は、次の本を探すために数字の羅列を手早くメモに取った。

仕事が終わったのは、いつも通りきっかり午後六時半だった。
地下倉庫から長いエレベーターに乗り、地上へとたどり着く。正面玄関を出て空を仰ぎ見ると、空にはまだ夕日の名残が残っていた。
金色の夕日の名残が、空を覆うガラスのドームに反射する。ガラスを支える黒い梁を目で追っていくと、シティを囲う灰色の壁に夕日の最後の欠片が消えていくのが見えた。
この時間ほど、シティが美しく見える時はない。
昼間は無粋にすら見える灰色の壁も、床に暗い影を落とすこの時間ばかりは、本来持つ役割通り、私たちを守る優しい闇に見える。
シティは、灰色の壁とガラスのドームに覆われていた。外気汚染が酷く、そうしなければ人間は生きて行けないからだ。
理由は明白にされていないが、この星は緩やかに汚染されていったという。その結果、人間はシティに閉じこもるように暮らさなければならなくなった。灰色の壁に囲まれ、ドームで外気を遮断してようやく私たちは生きて行けるのだ。
だから、このシティから出る方法は存在していない。シティを囲む灰色の壁のどこにも門はないし、ガラスの窓が開くこともない。
シティの中心にあるセンターの屋上からヘリコプターが飛び立つのを見たことがあるという人もいたが、それも本当かどうか疑わしい。もし真実だったとしても、我々一般市民には関係ないことだ。
外界についての情報は、私たちには与えられていない。このシティの外にも人はいるのか、他にも同じようなシティがあるのか、外気の汚染はどれほどのものなのか、知る術はない。たとえセンターに問い合わせたとしても、外へ出るのは規則違反にあたるという回答しか得られないだろう。
だからか、外へ出たいと言い出す人は殆どいなかった。
このシティにいれば、三食必ず配給されるし、暖を取るだけの住処もある。毎日仕事をきちんとこなしていれば、不自由ない生活が保証されているのだ。外へ出る動機も理由も、そこにはなかった。

十分ほど白く舗装された道を歩くと、真っ白い建物の立ち並ぶ区画へと出た。そこは、第六地区の中の居住区だった。
居住区には、白い正方形の箱がきっちりと隙間なく積み上げられている。この正方形のひとつひとつが、第六地区の住人に与えられた部屋だった。
一部屋の広さは九㎡もあり、ひと一人が暮らすには十分の広さが確保されている。コンパクトで機能的な、コンパートメントと呼ばれている居住施設だった。
「おかえり、アリス」
私の住むコンパートメントの近くまで来ると、そこにはパートナーのイルカが待っていた。
「ただいま、イルカ」
イルカの部屋は、私のすぐ上だ。だから部屋で待っていれば、私が帰ってきたのが分かるだろうに、彼は律儀に外で待っていたらしい。
昼食を取って以来なにも食べていない身体は空腹を訴えていたが、私は頷いてイルカの後に続いた。
壁に張り付いているはしごを登ってイルカの部屋へと入る。
イルカの部屋は、私の部屋とまったく同じ形をしている。全ての辺が同じ長さをした、立方体の白い部屋だ。
「じゃあ、始めようか」
笑いもせず、ごく淡々に言うとイルカは先にベッドに座った。
真っ直ぐな、清潔そうな黒い髪。表情の乏しい目。整っているのに、記憶に残りづらい顔。イルカは、私の大切なパートナーだ。
パートナーのイルカ。
ここで言うパートナーとは、精子提供者のことだ。
私は、彼から精子を貰う。そして、私の体内にある卵子がそれを受け止め無事受精されると、私の体内は卵を作り始めるのだ。
卵を産むこと。それが現代の私たちにとって、最も大切な行動だった。
人類は今、危機的な少子化に悩まされているという。
多分、外気の汚染と関係しているのだろう。少子化どころではなく、絶滅の危機を迎えているとさえ言われていた。
その結果、我々人類は産み増やすことが第一の使命となった。
幸いにして、私たちは卵生に進化した。卵を体内で形成するのに一月ほどかかるが、それだけで子を成すことができるのだ。生命を危機に晒すこともない。
そのため、卵を産むことが国民の義務となった。三年に一度卵を産めなければ、下位地区に移動させられることにもなった。階級制度が出来たのも、このことがきっかけだろう。
だから私たちは、卵を産むためにパートナーを持つ。恋人ではなく、純粋な精子提供者を得るために。
私がベッドの縁に腰を下ろすと、イルカがズボンの中から性器を取り出す。彼の手の中には、つるりとした性器があった。白い肌と、とっかかりのない曲面から、殻を剥かれたばかりの卵をイメージする。
ああ、綺麗だなと、私は思った。
古い小説で読むような、赤黒く筋肉質でグロテスクな性器じゃない。まるでこのシティのように無機質で性的なものを想起させない形と色。
彼が白くて美しいから、私はこの生殖行動を苦痛だとは思わないのだ。私がほっと安堵していると、イルカは手にした毛皮のコートで自分の性器を包み込んだ。
特殊性癖の彼は、いつも毛皮を使う。他人のように女性の裸体に興奮するわけではなく、ファーによって勃起するのだ。そこが、私がイルカをパートナーとして気に入っている場所だ。身体に触れられるのも性的興奮を得るのも苦手とする私にとって、性的接触は嘔吐したいほどに忌避すべき行動だからだ。
だから、ただ淡々と一人で自慰をし、射精の時にだけ私に挿入してくれるこのパートナーを、私はまるで恋人のように大切に思っているのだ。

日課である繁殖行動を終えると、私夕食をとるために自室へ戻った。
健康な卵を産むために、私たちはセンターから配給される食事を取る。メニューは個体により変化するため、誰かと一緒に食事をすると、無駄な摩擦が生まれやすい。一緒に食事を取るパートナーもいるらしいが、私たちはトラブルを防止するために食事は個々で取ることをルールとして決めていた。
部屋に戻り食器棚を開くと、そこには湯気を立てている夕食が置かれていた。
起床して一番に体重計に乗ることで、センターが私の体調を把握し、ぴったりの食事を用意してくれる。今日の夕食は、雑穀米のご飯一杯と焼き魚、酢の物、具がたくさん入った味噌汁にみかんがひとつだった。
じっくりと時間をかけて咀嚼し、夕食を食べていく。味付けの薄さが少し気になったが、過剰な塩分は今の私に必要ないということなのだろう。
残らず夕食を平らげると、私はじっと座って食べ物が消化されていくのを待った。
目をつむり、血流を余分な箇所に回さないようにする。
私たちがセンターから食事の配給を受けるのは、卵のためだ。だから、卵のために栄養を身体に吸収させなければならない。
シャワーを浴びるのも、眠るのも、その後だ。今は消化の時間なのだから。
膝の上で手を握って、目をつむってじっとする。
目をつむっていると、潮騒のような音が聞こえてくるような気がした。

翌日、私はコンパートメントから出ると職場である総合図書館ではなく、センターへと向かった。今日は、月に一度の健康診断の日なのだ。そのために今日ばかりは仕事も免除されている。
簡単な診断は、毎日行っている。毎朝検尿もされているし、体重検査、血圧検査もやっている。今日行うのは、それ以外の検査――日々の診断で見落とされる可能性のある、妊娠の検査だった。
私が前に卵を産んだのは、三ヶ月前のことだった。
そろそろ、次の卵が欲しい。十個卵を産み、無事に孵化させることができれば、上の地区へ移動することができるためだ。
今まで私は、イルカとの繁殖行動により九個卵を産んでいる。次に卵を産めば、第五地区へ行くことができるのだ。
第五地区へ行けば、得られる食事のカロリーが少し増える。部屋も、1㎡広くなるという。わずかだが、暮らしが良くなるのだ。
それ以上に私は、図書館を利用出来るようになりたかった。
卵をあと二十一個産めば、第三地区へ行ける。第三地区へ行けば図書館を利用できるようになるのだ。
だから私は、卵を産む。
卵のために健康な生活を志し、毎日イルカと生殖行動を行うのだ。
前の卵を産んでから、三ヶ月。立て続けに卵を産んでいたせいか、最近なかなか卵ができにくい。出来たとしても、何故か途中で卵が割れたり、殻の出来が悪かったりと、不具合ばかり続いているのだ。
私は今、二十四歳だ。卵もまだまだ、これからたくさん作ることが出来るだろう。第六地区に住んでいる人間の中でも若い方だ。焦る必要はない。分かってはいるけれど、それでも時折焦燥感が私を襲った。
このまま卵が出来ない身体になってしまったら、ずるずると地区を降りていくことになる。三年後には第六地区。六年後には第七地区。二一年後には第十二地区まで落ちてしまう。
第十二地区に落ちたら、多くの人数が一つの部屋に押し込まれ、食事もぐっと質素なものになる。四六時中、仕事をさせられる。プライバシーなど存在しなくなり、卵を産まなければ上の地区に行けないのに、卵を産めるような環境ではなくなるのだ。
気に病んでしまうのは、つい最近図書館の同僚だった四十代の女性が第七地区に落ちたせいだろうか。
基本一人仕事なため、会話をすることは殆どない。でも、たまに仕事終わりにすれ違うことがあり、そうすると雑談ぐらいはした仲だった。
彼女はどんどん、卵を産むことが難しくなっていくだろう。そうなれば、この世界で価値はなくなっていく。
卵を産めなくなった時、私はどうなるのだろう。
――その時になって初めて、外への憧れが生まれるのだろうか。
分からない。だから私は、センターへ行くのだ。
センターへ行き相談すれば、きっと排卵促進剤を打ってくれるだろうから。
居住区を出て大通りへ出ると、雲まで届きそうなほど高いタワーが目に入った。あれが、センターだ。
十二分割されている地区の中心に建つセンター。シティに住む住人の全ては、あそこで生まれ育ち、あそこに管理されている。いわば私たちないとって、母のような存在だった。
そのためか、センターに至るまでの道路は、特に美しく保たれていた。道にはゴミひとつなく、真っ白なコンクリートで固められた地面が一直線に伸びている。
だからこの時、異臭が鼻を掠め、私はぎょっとした。
シティには、匂いが殆どない。排水設備はよく管理されているし、飲食店などもないため食べ物の匂いが充満することもない。それなのに何故、思わず顔をしかめたくなる匂いがこんなに充満しているのだろう。排泄物の匂いとも、精液の匂いともつかない、奇妙な匂いだ。
下水がトラブルでも起こしているのだろうか。急いでセンターへ行き、報告しようと思ったその時のことだった。
「カナ」
不意に背後から腕を掴まれ、私は思わず短い悲鳴を上げ振り返った。
そこにいたのは、初めて見た『肥満体型の男』だった。
私たちは、卵のために食事を完全に管理されている。だから、誰もが均一な体つきをしている。こんなに脂肪がつくことなどないのだ。
それなのにその男は、卵をお腹の中に十個は詰め込んでいるかのようなシルエットをしていた。それとも、彼が背を丸めているせいで、お腹に脂肪がついているように見えるのだろうか。
体積自体はそんなに大きいわけではないのに、やけに太って見える。そんな男が、私の腕を掴んでいた。
「ようやく見つけた」
男は、はぁはぁと荒く息を吐きながら、私の腕を掴んだまま歩き始めた。
一体どこから来たのだろう。彼が歩くと、地面に濁ったシミが出来る。彼の身体から、黒ずんだ水が落ちるからだ。
しばらくして、私はようやく拒絶するということを思い出した。腕を掴まれたことも、無理やり連れ去られそうになることも初めてで、こういう時どう対処するのが正しいのか、いまいち理解出来ていなかったのだ。
「離して」
思い出したように言った拒絶の言葉は、殆ど意味を成さなかった。声が小さかったのか、男は一向に足を止める気配はない。
ずんずんと無遠慮に、タワーとは逆の方面へと向かっていく。このまま歩いていくと、立入禁止区域に近づくはずだった。
下水処理場と、電圧施設のある区間だ。
「離して下さい」
今度はもう少し大きな声で言うと、ようやく男は私のことを振り返った。
「カナ、お前は騙されているんだ。こんな場所にいちゃ駄目だ」
「……離して下さい。人違いです」
カナなんて名前には聞き覚えもなかった。私の名前は、アリスだ。私が知る中で私と背格好の似ている人の名前もカナではない。
私は必死に手を振り払おうとしたが、男の力は強くびくともしなかった。
「分かっている。お前は洗脳されていたんだ。だからあんなことをしたんだろう? 分かっているさ、お前がこの俺に逆らえないってことぐらい」
「人違いです」
「そんな他人みたいなフリをして、僕がお前のことは恨んでいるとでも思っているのかい? 馬鹿馬鹿しいことはやめるんだ、カナ。早く帰るぞ」
「人違いです」
混乱していた私にはただ、首を横に振ることしか出来なかった。
「離して下さい」
「カナ!」
男は苛立ったように怒鳴って、私の腕を強く握った。皮膚の固くなった指が、私の腕に食い込む。私は、懸命に地面を踏みしめ、その腕に抗った。
彼に、ついて行ってはならない。全身がそう訴え、警鐘を鳴らしているのが分かった。
「カナ、早く! じゃないと奴らに見つかる――」
はっと息を飲んで、男がぱっと私の手を離す。急に引く力を失い、私はもんどりを打って後ろに転んだ。
「大丈夫ですか」
顔を上げると、そこには白い防護服に身を包んだ人間が三人立っていた。センターの職員だ。
「今、変な人が……」
慌てて男のいたほうを見たが、そこにはもう誰もいなかった。ただ、点々と黒ずんだ水が床に落ちている。その水を私が指差すと、心得ているというように頷いて、三人のうち二人が水の落ちている方向へと走って行った。
「大変な目に合いましたね」
気遣うように言われた途端、不意に身体が震えだすのが分かった。
恐怖なのか、嫌悪感なのか分からない。ただ、とにかく身体の震えが止まらず、私は自分の身体を抱き締めようとして、自分の腕に赤い指の後が残っていることに気がついた。
それだけじゃない。袖の部分に黒いシミが出来ている。
これは、床に落ちているものと同じだ。
これは、あの男から染み出した液体だ。
気持ち悪い。
思わず手のひらで口元を覆うと、職員はどこからともなく消毒用のペーパーを取り出して私の腕を綺麗に拭いてくれた。
それでも、悪寒は収まらない。痛みも、悪臭も、初めて経験したものだ。あんなものがこの世の中に存在しているなどとは信じたくもなかった。
「おそらく先程の男は、第十二地区からの侵入者でしょう」
職員は、手元の電子端末を見ながら言った。
「第十二地区……?」
「ここに落ちた水の匂いから察するに、下水道を辿ってきたのではと思われます。なんらかの目的があって、監視の隙をついて逃げてきたのでしょう」
下水道。だから、悪臭がしていたのか。
腑に落ちたが、疑問はまだ解消されなかった。彼が私をカナと呼んだわけ。何故すぐに捕まることが分かっていて十二地区から逃げ出したか。
私たちが卵生に進化した時、女には卵宮と呼ばれる器官が、男には卵嚢という器官が生まれた。これは人によって全く異なる襞を持ち、超音波での識別が容易なため、今では指紋に変わって個人を識別するためによく使われている。
このシティのあらゆるところで、卵宮と卵嚢はスキャンされている。そうすることによって我々の行動や健康を、センターが把握できるというわけだ。
だから誰も、別の地区へ行こうとは考えなかった。バレればなにかしらの罰則があるだろうし、忍び込んだところですぐにセキュリティに見つかり捕まるに決まっているからだ。
だからあの男も、十二地区所属であると登録されている卵嚢を持っている以上、苦労して第六地区に侵入してもすぐに連れ戻されるはずなのだ。
それは、このシティに住んでいる人間ならば誰だって知っている事実だ。なのに何故、あの男はここへ来たのだろう。
それに、なにかを見落としている。さっきから、そんな気がしてならなかった。
「さっきの人は、どうして第六地区に来たんでしょう。……洗脳されているだとか、ここにいては駄目だとか言っていましたが」
「錯乱していたのでしょう。第十二地区の住人には、よくあることです」
「十二地区の住人は、錯乱することが多いんですか?」
「というよりも、精神に異常のある人間が十二地区に送られることが多いといったほうが正しいですね」
センターの職員は、いつだって穏やかな声で話す。誰であってもそれは変わらない。いつも通りの話しぶりだったが、それがかえって恐ろしかった。
「……卵を産めなくなったら、私もいずれ十二地区に落とされるんですよね。ああした人と一緒に、暮らさなければならないんでしょうか」
普段であれば黙っていたはずだった。余計な質問をして、職員の不興を買いたくはないから。
しかしこの時私は、聞かずにはいられなかった。あれほどの異物が存在しているということが信じられず、少しでも頭の中にある不安を軽減したかったのかもしれない。
縋るような私の質問に、センターの職員は全く動じた様子もなく答えた。
「通常であれば、第十二地区に配属されることはないでしょう。卵を産めなくなったとしても、勤務で平均的な成果を出していれば、十地区で留まるはずです」
職員の言葉は、私の不安を見事に消し去るものだった。
十地区であれば、1.5㎡ほどの小さなものではあるが個室が与えられる。食事もそれなりのものを得られる。労働時間は今よりも長くなり大変にはなるだろうけれど、十二地区と比べればずっとましなはずだ。
心をずっと占めていた不安が、すっと溶け去っていくのを感じた。それを見計らっていたかのように、職員が立ち上がる。
「では、センターまでお送り致します。立てますか?」
私が本日検診日であることを、職員はすでに把握していた。きっと、私が座っている間に私の卵宮をスキャンし、本日の予定を確認したのだろう。
私たちは、管理されている。――だから、安全な毎日がある。
頷くと、私は立ち上がったのだった。

その後の健康診断は、つつがなく終わった。
診断の結果、私の身体には問題ないということだった。同日にイルカも検診を行っていたらしく、卵ができにくくなった原因はイルカの精子に問題があるということが判明した。
精子は、ストレスを受けると質が低下すると言われている。
イルカが何の業務に従事しているかは知らない。必要がないから聞いたことがなかったのだが、彼はその業務でストレスを感じていたらしい。そのために、精子の質が低下し、受精できなかったのだろうという話だった。
ストレスレベルを正常に戻すため、この日イルカはセンターに入院することとなり、私は一人帰途につくこととなった。とはいえ、イルカがいないからといって私の生活が大幅に変わることはない。ただ、本日の生殖行動が休みになるというだけだ。
白く清潔な病室を後にし、エレベーターでエントランスホールへと向かう。
エレベーターを降りると、出口のすぐ右手にある小さなコーナーへと足を向けた。そこには、ガラスの箱に覆われた一メートルほどの高さの白い台が置いてある。このシティのミニチュア模型だ。
センターへ来ると、私は必ずこの模型を眺める。どうしてだか分からないが、この模型に惹かれてやまないのだ。
白い台の上に乗ったこのシティの模型は、上から見るとまるで時計のような形をしている。中心にこのセンターがあり、そこから放射線状に十一本の壁が伸びている。私たちのシティを十二分割している壁だ。
そして、一番外枠には灰色の壁がある。私たちを危険から守ってくれている大切な壁だだ。
この模型を見るたびに私は、まるで卵の殻の中に入っていた時のような途方もない安堵感を覚えるのだ。
センターが、私たちに必要なものを把握してくれている。
壁が、有害なものから守ってくれている。
今までは、この地区を区切る壁の意味合いがあまりよく分かっていなかった。けれど、今日のことがあって、ようやく分かった。有害な人間から正常な人間を守るために、たしかにこの壁は必要なのだ。
私たち市民は、恵まれている。
大きな悩みを持つこともなく、平穏に暮らすことが出来るのだ。

自室へ戻ると、何故か部屋は真っ暗だった。
コンパートメントは、人が入ると自動で電気がつくようになっている。電気が消えるのは、手動でスイッチを押した時のみだ。
電気が消えているわけ。――誰かが消した以外の理由などない。
悟った瞬間、暗闇から伸びてきた手が私を引き倒した。
「カナ」
暗闇の中で光る、灰色がかった濁った目。
ずぶ濡れの体。漂ってくる汚水の臭い。
倒れた私に馬乗りになっているのは、間違いなく先ほどの男だった。
センターの職員はなにも言わなかった。だからどうせすぐに捕らえられていたと思っていた。なのにどうしてこの人は、ここにいるのだろう。まさか、センターの職員から逃げおおせたというのか。
男は、誰よりもみすぼらしい風貌をしているのに、何故かシティで会う誰よりも迸るような生命力にあふれていた。
「カナ、愛している。俺は、お前がいないと駄目なんだ」
男は、黄ばんだ歯から唾を吐き散らしながら、私の服を乱暴に剥ぎ取って行った。
私たちは普段、服を脱がずに繁殖行動をする。全ての行動をセンターに管理されているため、他人をあえて害そうとする人間もいない。だから、この時私は本気で彼が何をしようとしているのか分からなかった。
人に害意を持って接する人間は、シティにはいない。
だから抵抗できなかった。
だから、気がついた時にはもう遅かったのだ。
ぐっとなにかが体内に入り込む。張り裂けそうな痛みにはっと顔を下げると、そこには赤黒くグロテスクな筋肉のような塊があった。
それは、男の股から生えていた。
見たことのない部位が、知識にないものが、ぐっぐっ、と無理やり私の身体に入ってくる。めりめりと裂けるような痛みに、声すら出せなくなる。
――ああそうか。
ふと、気がついた。
小説で時折出てくる『レイプ』という表現が脳裏を掠める。
きっと私は、犯されているのだ。
男の股から生えている化物。――多分これが、古典的なペニスだ。
気が付いた時には男の赤黒いペニスは私の体内に収まり、激しい律動を始めていた。ドン、ドンと筋肉の塊が私を叩く。
「カナ、思い出してくれ」
何かが、頭の中で閃光のようにチカチカと光る。
「お前が、いないと、俺は笑いものなんだ」
ドン、ドンと音がする。
和太鼓みたいだ。
鉢巻を頭に巻いた汗だくの男がバチを手に、太鼓を叩いていく。一人、二人、三人。轟くような音。かき鳴らされる鉦の音。そして――。

やがて男は動きを止め、私の体内からぞろりとペニスを抜いた。
私は、全身運動したように汗をかいていた。息が荒く、意識が遠ざかる。それでも私は、懸命に壁際へと這い寄った。
よく分からない。でも、このままでいたらきっと私は、シティにいられなくなる。危機感だけが私を突き動かしていた。
この男の生命力こそが、私の恐れるものだ。
私たちの生とは違う。ドブネズミやゴキブリのように繁殖力の強い生き物の持つ、なにかがこの男にはある。
暗い部屋の中でも、ボタンの位置だけは把握していた。シティに通報するボタンだ。
これを押せば、即座にコンパートメントに勤務しているセンター職員が来てくれる。
躊躇いなく、私は壁のボタンを拳で叩いた。
すぐさまブザーが鳴り、部屋の扉が開く。
私が男を指差すと、職員は躊躇なく男に麻酔銃を打って無効化した。男が悲鳴を上げる暇もなかった。
「他に、なにかありますか」
ブザーを押した要件が他にあるかと職員は聞いているのだ。私は首を横に振って、なにもないことを伝える。
職員は男を抱えると、あっという間に部屋を出ていった。
扉が閉まり、通常の静寂が部屋に戻る。
多分、これで良かった。あの男は、本来いるべき場所、十二地区へと戻される。
混乱したまま、私は立ち上がった。放心したままでいるより、とにかくなにかしていたかった。
その時、なにかが私の内部でどろりと動く気配がした。
ぽたぽたと、足を伝って白濁した液体が地面に落ちる。
まるで、私たち人類が卵生になる前の時代、毎月女性を苦しめていたという月経のようだった。

私が犯された数日後、イルカは何事もなかったようにコンパートメントに帰ってきた。
しかししばらく繁殖行動は中止することとなった。イルカの体調を万全に整えるためだ。
繁殖行動を行わないまま――つまり顔も会わせないまま、互いに仕事だけをこなして数日を過ごす。
そうして過ごしていたある日のことだった。
休日、一人で昼食のスパゲッティを食べていた私は、不意に激しい嘔吐感に襲われトイレに駆け込んで吐いた。
吐いたのは初めてだった。だから、最初はただ混乱した。
そんな時にお腹に手をやったのは、本当にたまたまだった。つい最近、卵生になる前の人間の妊娠描写が書かれた小説を読んだせいだろうか。悪阻ではと思ってしまったのだ。
下腹部を触ると、いつもよりも子宮のあたりが硬かった。
――卵が出来ている。
十度目ともなると、検査しなくても分かった。
でも、卵が出来るはずがない。イルカとはここしばらくずっと、繁殖行動をしていないからだ。
センターに入る前のイルカの精子にも、受精する力はなかったはずだ。
それなのに、卵が出来てしまった。
そこから考えられることは一つしかない。
私は、トイレから出ると、一番にセンターへと向かった。本当に卵が出来ているか診断してもらうつもりだった。
もし、卵が本当に出来ていたら。
卵を十個産めば上の地区へ行くことができる。でももしこの卵の精子提供者があの男だったら、イルカは一緒に上の地区へ行くことはできない。男の場合卵を産むことは出来ないので、精子の提供数で判断されるためだ。
女は、孵化した人間に卵子を十個提供していたら。男は、孵化した人間に精子を十個提供していたら。そうしたら、次の地区へ行くことができる。
卵から孵化した子供の遺伝子は、精密に分析されるから偽証することも出来ない。もし本当にこの卵があの男のものだとしたら、孵化した瞬間、私は第五地区へ行くためにイルカを見捨てることとなるのだ。
中には特定なパートナーを持たずに、様々な男の精子を受ける女や、あらゆる女に精子だけを提供する男もいると言う。
だから、私もその道を選んでこの卵を産んでしまうことも出来る。
でも私は、自分がどうしたいのか分からなくなってしまっていた。
勤勉に働けば、十二地区に落とされることはないという。落ちる恐怖は軽減されてしまった。ならば私が上を目指すのは、よりよい生活のためなのだろうか。
それとも、私はパートナーとしてイルカを愛しているのだろうか。

センターへ行くと、私は再び吐き気に襲われた。やはり、昔の人間にあったという悪阻みたいだ。少し休んでから受付へ行こうと思い、私は入り口近くにあるベンチに腰を下ろした。俯きながら、懸命に吐き気を抑える。
その時、ふとなにかの気配を感じた。
顔を上げると、視線の先にはいつもの模型があった。
白く、精巧な美しいこのシティの縮図。
突然、奇妙な感覚に襲われた。
デジャヴのような、私が二つに剥離するような、感覚。
吐き気よりもずっと強いなにかが、身体を揺さぶる。ドン、ドン、と心臓の脈打つ音が耳奥で聞こえる。
潮騒のような音が私の身体を渦巻いていく。
私は、この光景を知っている。
白い壁。
白い街。
小さな模型。
ガラスの箱。
シティの俯瞰図。
――時計の形をした、小さな街。
ここじゃない。ここよりもずっと灰色で薄暗い場所で、私はこの模型を見たのだ。

***

静かなざわめきの中に、蛍の光が流れている。
「佳奈ちゃん。早く行きましょう」
指紋がべたべたとたくさんついたガラスケースに私が張り付いていると、母は優しい声で私の名前を呼んだ。
今日は、母の用事で区役所へやってきていた。
母が手続きをする間、私は区役所入り口に置かれた模型を見ていた。時計のように十二分かつされている不思議な街の模型だ。これがなんの模型か、当時小学生だった私には分からなかった。しかし、その模型の持つ精工な形が幼い私を魅了してやまなかったのだ。
「早くしないと、お父さんが帰ってきちゃうから。今日はハンバーグよ」
「はあい」
苛立った母の声に、ようやくガラスケースから離れる。母の手に引かれて、出口へと向かう。その間ずっと、私は振り返ってあの模型のことを見ていた。

私が育ったのは、ごく平凡な家庭だった。
サラリーマンの父に、専業主婦の母、三歳年上の兄。分譲住宅である一軒家に住んでおり、近隣に並ぶ似た外観の家には、学校の友人が何人も住んでいた。
「佳奈ちゃん。絶対に知らない男の人についていったら駄目よ」
学校へ行く私へ、母は毎日同じ言葉を投げかけた。
学校へは歩いて十分の距離だったが、閑静な住宅街だったせいか時折不審者の目撃情報があった。そのため、子供を――とりわけ女児を持つ家庭の母親は、神経質になりがちだった。
母の言いつけ通り、私は登校する時も下校する時も、なるべく友人と行動をともにした。
門限は、午後六時。友人の家へ遊びに行った時帰りは、必ず母親が迎えに来た。
過保護と言われることはなかった。この地域では、当たり前の行動だった。

中学は、中高一貫校である女子校へ進んだ。
小学生の同級生の九割は、地元の高校へ進まず受験した。私の住んでいる街は十年前に出来たばかりの新しい街で、他地域に比べて受験を選択する家庭が多かったのだ。
その結果、地元の中学は煙草を吸う生徒がいるような荒れた場所になったと噂されていた。受験できなかった家庭の子供だけが、寄せ集められたからだ。
その噂を聞いていた私は、母親に言われるまでもなく受験を選び、小学校四年から進学塾に通うようになった。
その甲斐あって、私は県内ではそれなりにいい偏差値の学校へ入学することが出来た。
中高一貫であるということは、高校受験をしなくていいということだった。
女子校という、同性しかいない環境で私は毎日をのびのびと暮らした。席の近い友人に漫画やゲームというものを教わり、オタクと呼ばれる人がいることも知った。
その流れで、私は世の中には男女の交わりや男同士の性交について詳しく書かれた本もあると知った。好奇心旺盛な友人らが回し読みをしていたのだ。
そこに書かれていたのは全く未知の領域だった。
何行にも渡る性行為の描写。膨大な喘ぎ声のテキスト。
性交とは快感が伴うものだと知ったのは、それらを読んでからだ。
保健体育の授業では、子供を作る方法は教わるが、それに伴う快楽については学ばない。中学になって初めて、私は性について人並みの知識を得ることが出来たのだ。
興味をそそられた私は、友人に進められるままに少ない小遣いでそれらの書籍を少しずつ集めて行った。私が買ったのは、描写の激しい漫画ではなく、どちらかというと性描写はライトだが、性的な挿絵の入っている文庫だった。
部屋の本棚の、一番奥。私はそこに少しずつそうした本を隠していった。しかしある日、学校から帰ってくるとその一帯の本のカバーは全て外されていた。
まさかと思い中身を見ると、綺麗なまでに挿絵の全てが破かれていた。
挿絵だけではない、いわゆる濡れ場と言われる、性交のシーン描写があるページ全てが手によって破かれていたのだ。
やったのは、母以外あり得なかった。
しかし、母はなにも言わなかった。顔色を伺う私を見て、母は微笑みさえした。夕食の時も、全く話題に触れられることはなかった。
翌日、私は挿絵の破かれた小説を何重にも袋に包んだ後ごみ袋へ入れると、学校へ行く途中近所のマンションのゴミ箱にそれらを捨てていった。
母が破いたということは、あれは汚らわしいものだったのだ。許されないものだったのだ。
――最近はできちゃった婚をする芸能人も増えて、本当に怖いわね。
――どうして、こんなことが出来るのかしらねえ。ちゃんと教育されなかったのかしら。
――佳奈ちゃんは絶対にそんなことしちゃだめよ。
ゴミ捨てをしている間、何故かワイドショーを見ている時の母の声が耳奥に蘇った。
私は、ああいう芸能人たちと同じような低俗なことに手を染めてしまったのだ。
父と母がせっかく正しく私を教育しようと尽力してくれていて、少なくはない授業料を払って私立校にまで入れてくれているのに、私は過ちを犯してしまったのだ。

それから私は、中学三年に上がるのをきっかけに、かつての友人らと距離を取り、より内向的な女子で構成されているグループへと入った。
そこには、性という文字はなかった。
図書館へ行き、ごく一般的な本を読み、一緒に集まってテスト勉強をする。そういった普通の女の子たちと、私は行動を共にするようになったのだった。

性というものは、私にとって汚らわしいものだった。
同時に、酷く好奇心を掻き立てられるものだった。
禁止されればされるほどに気になるもののように、抑圧されればされるほどに弾けた時に反動が大きくなるように。
だから高校生になって初めて電車内で痴漢に遭遇した時、私は恐れるよりも喜びを感じてしまったのだ。
自慰というものがあるのは知識で知っていた。でも、したいと思わなかった。するような子供はとても汚らわしいと思っていた。誰に見られなくても、してしまった事実は消えない。きっと誰かが見ている。けして許されないと思っていたからだ。
けれど痴漢に遭遇することは、私自身の罪にはならない。罪は全て相手側にあり、私は被害者になるのだ。
痴漢が、ゆっくりと制服の上から私の身体を撫でていく。
私は、興奮を押し隠してじっと固くなって目を瞑る。
痴漢との遭遇。これが、私にとって初めての異性との性的接触だった。

罪は、相手側にあるはずだった。
それなのに、罪悪感が消えなかった。誰かにこの罪を見られているという意識が頭の奥にこびり付いている。
きっと、痴漢から逃げることも、拒絶することも出来ずに、身を委ねたからだ。そのことが、悪いことだからだ。
私はやっぱり汚れた子なのだと思った。
性というものにどうしようもなく好奇心を抱いてしまう、悪い子供なのだ。
痴漢に初めて遭遇した日、私は家に帰ると何度も何度も手を洗った。
しかしいくら手を洗っても、この身体についた汚れは取れないと思った。あの罪は、こんなもので清められるものではないのだ。
衝動的に私は服を脱ぐと、風呂場の浴槽に座り込んで蛇口をひねった。
冷たい水がシャワーのノズルから降ってくる。その水滴を、私は頭から被った。
滝に打たれる修行僧のように、堕胎するために冬場の川に入る女のように、冷たい水を浴びる。
そうすれば私は清浄に戻れる。穢れは消え、綺麗な身体になれると思っていた。

やがて大学生になり、私にもようやく恋人が出来た。
恋人は、同じボランティアサークルに属するいたって普通な男性だった。しかし、付き合って数ヶ月で破局した。
理由は、母に旅行へ行くことを反対されたことからだった。
「結婚前の娘が異性と旅行なんて駄目よ。どうしても行くというのであれば、きちんと先に婚姻届を出しなさいね」
母から言われた言葉を、私はなんの疑問も持たずに恋人に告げた。
その結果、別れを切り出されたのだ。
その時の私に、理由は分からなかった。

こうして初めての恋人を失った私は、それから特に恋人を作らないまま大学を卒業し、一般企業に就職した。
入ったのは一流とは言い難いが、手堅い会社だった。
会社に勤めるようになって半年も経つと、母親は盛んに私に恋人の有無を聞いてくるようになった。会社の同僚や先輩にも、よく聞かれた。どうやら、二十歳を越えた女には恋人が必要らしい。
しかし恋人の作り方が私には分からなかった。大学の時は、相手から言われたから付き合ってみただけだったのだ。
なにを言っても恋人を作ろうとしない私に、母はやがて痺れを切らして見合い話を持ってくるようになった。兄も同じようにして、母に用意してもらったお見合い相手と付き合い、結婚していた。だから私が見合い相手に会うのも自然な流れだった。
見合い相手は、有名なIT企業に勤めるという、七歳も年上の室田という男だった。
室田は、仕事が激務らしく身体はやや肥満気味だったが、大人しく、人畜無害そうに見えた。
母は室田の勤める社名と、家柄が気に入ったようだった。室田の実家は裕福で、いくつも土地を持っているらしい。
母が気に入った男だった。なんの疑問も持たずに私は室田と付き合い始めた。
しかし室田は、限りなく自尊心の肥大した男だった。
会えば必ず仕事の自慢と、無能だという上司の愚痴ばかりを口にした。そして私の仕事をことごとく見下し、結婚することが決まってすらいないのに、私のことを所有物として扱った。
今まで女性と付き合ったことのない室田は、亭主関白というものに憧れているらしかった。しかし、実家で父を立ててばかりいる母を見ていた私は、妻が夫を立てるのが当然と思い、室田が望むように振る舞った。
その結果、トントン拍子に私と室田の話は進み、婚約するまで至ってしまった。
結納が済んだ後、母は今まで見た中で一番精力的に働いた。私と室田の結婚が滞りなく行われるようにブライダルフェアへ行き、私たちの新居を探しにあちこちの街へと出向く。
「佳奈ちゃん。お母さんね、住むのにピッタリの物件を見つけたの」
「子供は何人産むの? お母さんは、やっぱり兄妹がいいと思うわ。一番バランスがいいもの」
「子供?」
まだ結婚していないのに、結婚後の話ばかりを口にする母に驚いて私が聞き返すと、母は嬉しそうに頷いた。
「だって、子供は必要でしょう? もちろん、婚前交渉は禁止よ」
母は、ごく自然に言ったつもりだっただろう。
でも、私は母の言葉に混乱した。
分からない。
何故、許されないことと、やらねばならないことが、重なっているのか。
性とは、汚れたものだ。性行為を行えば、私は許されない人間になる。しかし、子供を産むためにはその行為を通過しなければならないのだ。
激しく動転した私は、翌日の室田とのデートで子供は作らなければならないのかと聞いてしまった。結婚とはイコール出産なのか、と。
その結果私は、室田に犯された。
誘惑したと、錯覚されたのだ。

――もちろん、婚前交渉は禁止よ。

母は、私に釘を差したはずだった。
しかし私はここに至って、ついに禁忌を破ってしまったのだ。
室田に犯された後、私は途方に暮れてたださまよい歩いていた。
私は、犯罪者になってしまった。許しがたい罪を負ってしまったのだ。
今度は、手を洗っても、水のシャワーを浴びても、罪は洗い流せないだろう。
結婚前に処女を失うという行為は、神に背くに等しい大罪なのだ。
季節は冬だった。しかし私は一晩を公園の椅子で過ごした。家に帰り暖を取ることも、ファミレスなどの安全な場所へ逃げ込むことも、自分に許してはならなかった。
母に会ったら、私は裁かれる。
だから、危険であろう夜の公園に身を置いたのだ。
危ないから、夜に外へ出てはいけない。母に何度も言い聞かせられていた。ならば外へ出ることが罰になると思ったのだ。通り魔が来て、私を刺すかもしれない。警察が来て、私を捕まえるかもしれない。
与えられる罰を期待して、公園のベンチでじっと息を潜ませる。
しかし何事もなく、私は朝を迎えてしまった。
人々が目を覚まし始め、ゴミ収集車が走り始める。
ゴミが、集められていく。
何故かその光景に、私の脳裏に浮かぶものがあった。
静かに流れる蛍の光。そして、白い模型。
立ち上がると、私は二つ隣の駅にあるはずの区役所へ向かって走り出していた。

たどり着いた時、区役所はちょうど開いたところだった。
朝一番に必要な書類を取りに来た人たちが何人か受付に並んでいるのが見える。それらを無視して、私は入り口近くの模型の前へと歩いて行った。
真っ白な模型。時計のような形の街。

これは、十数年前に出来たばかりの犯罪者収容施設――刑務所の模型だった。

始まりは、著名人の娘がストーカー被害に合ったことからだった。
かつてこの国では、ストーカー犯、レイプ犯、一部の殺人犯らは刑務所で数年過ごした後は釈放されていたという。刑務所にいる間に罪が軽くなっていき、予定していた刑期よりも早くに出てきてしまうのだ。
その結果、犯罪者らはまた同じ罪を犯し、刑務所に逆戻りする。そういった事件が多発していた。
同一のレイプ犯に再度犯されることも、出所したストーカーに逆恨みで殺されることもあった。
その恐怖に怯えた著名人の娘は、二度とストーカー犯を刑務所から出さないで欲しいと訴えた。
しかし、当時の制度では難しかった。個人が身の回りに気をつけ、自衛するしか方法はなかったのだ。
その結果、著名人の娘は出所してきたストーカー犯に殺されてしまった。
娘を殺された著名人は、刑務所のあり方に疑問を覚え、制度を改善するための活動を始めた。そのことがきっかけとなり様々な制度が見直され、ついに事件から数年後、犯罪者を二度と外に出さないために新しくもうひとつ街を作る法案が通ったのだ。
こうして、犯罪者のために作られたのが、埋立地を利用して作られたこの時計型のシティ――刑務所島だった。
犯罪者は、一度ここに入ると二度と出所することができなくなる。
一度罪を犯せば、永遠にセンターから出ることは叶わなくなり、更には記憶を抹消させられ、そこだけが唯一の世界だと信じ込ませられるのだ。
外に世界がないと思えば、犯罪者らが脱出を企てることもなくなる。そうなってから、犯罪数はぐっと減ったらしい。
更に政府は、加速する少子化に終止符を打つために、犯罪者らに子供を産ませることを法案に盛り込んだ。子供に恵まれない家庭が子供を得るために、変わりに犯罪者に産ませようと考えたのだ。
始め、その法案に関しては反発が強かったらしい。犯罪者の子供など、増やしたところで意味がないと思われたからだ。
その結果、子供は親元から離してセンターで育てることとなった。
しかし、それにも問題はあった。子供を奪われることに対して、大抵母親である受刑者らが反発を覚えたのだ。
効率よく子供を産み、親元から引き離すために考案されたのが、犯罪者らを卵生に作り変えるという方法だった。
卵生とはいえ、実際に体内で卵を作るわけではない。
身体の中に、受精卵を保護する装置である卵宮という機械を埋め込んだだけだ。
仕組みとしては、体外受精に近い形だった。子宮の役割を果たす卵宮の中で受精を行い、数日間培養を続ける。その間に卵宮は受精卵の周囲に卵の殻を形成し、時期が来ると体内から排出させ、培養施設で受精卵を育成するという方法だ。
何年もの研究が必要ではあったものの、結果的にそれは成功した。
こうして今日のシティ――通称『養鶏所』の形は、完成したのだ。

区役所で模型を見ながら、私は食い入るようにシティの説明文を読んでいた。

犯罪者は、この刑務所島から二度と出ることが出来ない。
刑務所島では、罪の重さにより与えられる仕事が変化する。
刑務所島では、日に三度の食事が与えられる。
居住区はごく小さく、必要最低限である。
卵を作ることが義務付けられている。
卵を作りやすくするため、男性はペニスに、女性は子宮に手を加えられる。
犯罪者の住む地区は、罪の重さにより異なる。
卵を産んだ数により刑が軽くなり、軽度の罪人の住む地区に移動出来るようになる。
死刑囚は、たとえ卵を産んだとしても第十二地区から移動することは不可能である。

ここへ行けば私は、穢れとは無縁になれると考えた。
罪を償うことができる。ようやく、赦されることが出来るのだ。
けれど、法的に裁かれなければ私はここへは行けない。私が身勝手に罪の意識を持っているだけでは駄目なのだ。
なにをしようかと、私は考えた。
無銭飲食や、万引きなどではまずシティへは行けない。軽い罪程度では、送られることはないという。
なにがいいだろう?
遺棄罪、信用毀損罪、背任罪、不敬罪、名誉毀損、姦通罪、賭博罪、公然わいせつ剤、暴行罪、脅迫罪、窃盗罪、過失致死罪、横領罪、強盗罪、騒乱罪、往来妨害罪、死体損壊罪、危険運転致死罪、傷害罪、殺人罪――。

私が選んだのは、室田を殺すことだった。

結果から言えば、私は室田を殺せなかった。私は彼の腹部に包丁を刺したが、皮下脂肪に遮られて致命傷を与えることが出来なかったのだ。
しかし私が罪を犯したことは決定的だった。
殺人未遂を犯した人間は、大抵第七地区以下へと送られる。
しかし結婚に対するノイローゼから犯行時の私は正常な精神状態ではなかったとして、私は第六地区へ送られることとなった。

こうして私は今、ここにいる。

目を開くと、私はセンターの中にいた。
高い位置にある窓から光が差し込み、目の前に舞う埃がチラチラと光を反射している。
目を閉じる前と変わらず、私の目の前には白く美しい模型があった。
清潔な白い床。余分な匂いのしないセンター内部。
まるで長い旅を終えた後のように、私は深い深いため息をついてうつむいた。
(そうかここは)
ここは、私が強く望んだ世界だったのだ。
だからこんなにも、私はこの世界を愛おしく感じているのだ。
私はここへ来る際に全ての記憶を放擲したはずだった。
名前も変え、過去も捨てた。
しかし、人間の技術に完璧なものなんて一つもない。こうして、複数の事象が重なった結果記憶を取り戻すこともある。
私にとっては、精神的外傷と直結している室田の存在と、レイプされた記憶と、シティの模型がそれだった。
記憶を取り戻した。
でも、それだけだ。
「大丈夫ですか?」
その時頭上から声が聞こえ、顔を上げると防護服に身を包んだセンターの職員が立っていた。長い間このベンチに座って俯いていたせいで、声をかけてくれたのだろう。
彼らはきっと、刑務所の管理を任されている公務員だ。
我々と過度な接触をしないように、防護服に身を包んで個性を無くしている。
「ええ、大丈夫です。それより今日、婦人科の検診を受けたいんですが大丈夫ですか?」
私の言葉に、職員は頷いた。
「かしこまりました。お呼びしますので、それまでそこでお待ち下さい」
職員が端末になにかを打ち込みながら去って行く。あの端末には、私のお腹に埋め込まれた卵宮の端末から発信される電子情報により、私の細かな情報が映し出されているのだろう。
白い服の職員に、白い床に、白い壁。
ここに、余分な罪が入り込む余地はない。
どこまでも清浄で、罪を正される場所だから。
下腹部にそっと手を当てると、固い卵の感触がした。
私は、お腹に当てる手にそっと力を込める。
ぐしゃりと、卵が潰れる感触がした。

文字数:20997

内容に関するアピール

私は、自分の意識の中にあるものを「物語」という形以外で言語化するのが、とても苦手です。
だから、物語を書いています。

私にとって、その表現の場は今までファンタジー世界のみにとどまっていました。
今回、SF講座を受けてようやく、ほんの少しだけ、お話したいことの幅を広げることが出来たような気がします。
「SFでやる必要ないよ」と、言われることもあるかもしれません。
でも今の私には、どうしてもSFというものの力を借りることが必要でした。
この一年、講義を通して私なりにSFというものを少しずつ、少しずつ咀嚼していきました。食べて、消化したものが、なにになっているのかは分かりません。
でも確かに今回のお話は、SF講座を受講してようやく初めて、書けたものなのです。

文字数:323

課題提出者一覧