蜃気楼待つ

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梗 概

蜃気楼待つ

  目を開くと夢の中にいた。
 夕暮れ時の海岸線、吉川涼太は自分と妻の可奈が海に沈む夕日を眺めているのを見つける。風景の一部のように見えていた、数十メートル先の二人の声が聞こえる。向こうの涼太がぼんやりと尋ねた。
「これって撮れてるの?」「もう三時間くらい」「嘘でしょ!?」「当たり前じゃん」
  そう言って二人は笑っていた。やりとりを眺めながら涼太は思い出す。現実で涼太は交通事故に遭い、その時妻を失っていた。買ったばかりのVR装置で、電子媒体に保存した涼太達の思い出を再生していたのだ。

 日が沈み、可奈が腕にはめた携帯端末のスイッチを切ると世界が暗転する。
 二人は買い物客で賑わうフリーマーケットの中にいた。視覚者である涼太は雑踏の中から見える位置まで近づいて、二人の様子を見ている。
「似合うかな?」「いいんじゃない?」
 二人は、浜辺で可奈が落としたイヤリングの代わりに新しい物を買いに来たのだった。
「どっち?」「これとかは?」「色が違う」「じゃあ、それでいいじゃんもう!」
——————————結局、買わなかった。そして、思い出したように「欲しかったのに」と言われる。
 名残惜しそうに振り返る可奈の手を、向こうの涼太が引っ張っていく。可奈の腕にある携帯端末が発光して電池切れを知らせる。再び世界が暗転した。
 二人は同棲しているマンションにいた。涼太は部屋の隅に突っ立って、睦まじく過ごす二人を見ていた。
「ちょっと、まだ撮ってるんだから」
 そう言って可奈は端末のスイッチを切った。
 二人は、その後動物園に、テーマパークに、花火大会に、桜の舞う公園で花見に、月日を飛び越えながら思い出を重ねていった。そして最後の記憶が途切れると、世界が一巡した。

 夕暮れの海岸に二人の姿は無かった。涼太は浜辺を走り回る。見つからない。VRの装置を切ろうと、音声入力で操作画面を呼び出すが開かなかった。太陽が沈み、世界が闇に閉じる。
 雑然としたフリーマーケットの会場にも二人はいない。狂ったように人混みをかき分ける涼太。しかし、二人の姿はなかった。
 アパートにも二人はいない。玄関を開けるが、外には闇が広がるだけだった。
 どこにも二人はいなかった。世界は三度巡った。強制終了も試したが認証コードが合わない。涼太は砂浜の上へ倒れた。
——————————この世界にも可奈はいない。
 仰向けになって思い出す。記憶されていない心の記憶を。しかめ面、にやけ顔、困り顔、とびきりの笑顔、そこに居られたことが大事だった。
 固い物の感触がして手を開くと、中には落としたはずのイヤリングがあった。世界から色が抜けた。

  目を開くと病室の中だった。涼太はVR装置で全身を覆われているからか、動けない。ベッドにはヘッドギアを付けた見知らぬ老女がいた。傍らにはVRのヘッドセットがある。
「私、わかる?」
 少し恥ずかしそうな、申し訳なさそうな俯きかげんの顔。可奈の面影があった。
「可奈?」
 部屋にいた医師が説明しようとすると、それを制して可奈が口を開いた。事故で命を落としたのは涼太であること。脳を保存し、劣化を修復して再生したこと。VRの世界で保存した記憶が正常であるか確かめたこと。
「すぐ、戻せばよかったんだけど、心配で。ごめんね」
 可奈は言いずらそうに俯く。実はその機械が涼太の今の体だった。涼太は動揺するが可奈がはっきりとした声で言った。可奈の寿命が近いこと。可奈の貯金で、二人はVRの中で造られた仮装の人生を半永久的に見ることが可能なこと。
「涼太、私ともう一度生きてくれますか?」
 涼太は擬似音声に喜びを滲ませ「子供は何人だ?」と聞いた。
 涼太と可奈はVRの世界で、その生涯の夢を何度も見た。

文字数:1563

内容に関するアピール

 これが幸福なのか?と聞かれたら答えることは難しい。
 可奈は生き残って自分に出来ることを考えた。それがこの話を書く自分なりの根拠です。
 二人の過去を映したVR空間は、少しだけ現実より未来の風景です。それを楽しく描きたいと思います。

文字数:115

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蜃気楼待つ

 

Act1

 目を開くと夢の中に居た。
 波は穏やかで、夕日がそこにある全てに薄くまどろむような光を投げかけていた。その日の私は、まだ彼女の隣に居た。今、私は少し離れた所から二人を見ている。
「涼太は楽しかった?」
 隣の涼太の顔を向く、可奈の声は優しい。
「何で?」
 涼太はぼんやりと返事をしていた。
「あんまり海に入らないから」
 可奈は頭を傾けながら、組んだ膝の上へ寄せる。
「海を見るのが好きなんだ。あと、可奈を見てるのも」
 涼太はまだ太陽の方を見ていた。付け加えた一言が、少し遅れた。
「あたしより、海の方が好きなんでしょ」
 そう言うと、可奈は膝頭の間へ頭を埋めた。
「一緒にするなよ。俺は可奈が好きだよ」
 慌てた涼太の、声の調子は強かった。顔を起こして可奈はじっと涼太を見つめる。涼太は顔を逸らした。それは、可奈の無言に少し心が揺らいだからだった。可奈が涼太の頭をぽんぽんと叩く。涼太が振り向いた。二人はキスをした。しばらくして互いの顔を離すと、可奈は涼太の肩に頭を預けた。そうしてぼんやりと、引いては返す波の音に包まれた二人のやりとりを聞いていた。
「また来ようね」
 あの日と変わらない。それはそうだ。あの日に録音した音声をそのまま聞いているのだから。二人の他に誰も居ない海岸、全長七百メートル程の再生された空間をゆっくりと歩き進める。妻は死んだ。事故だった。もう帰るはずのない思い出を、私の脳は見ている。作り物だと分かっていたが、過去の体験に触れる感覚は生々しかった。

 目の間にいる二人が掛けた眼鏡型のデバイス————————-オプティカルグラスが、今見ている仮想現実の元となる情報を記録していた。記録された思い出から構築したオーダーメイドの仮想空間、二人が居た世界を再生して、今私はそれを見ている。私の現実の体は、VR大手のアメージングヴィジョン社から提供された個室の中に居た。撮影した動画から映像や音声を再構成して目、耳、手足、身体中に装着したVRデバイスでデザインされた思い出を再現する。装置の見せる夢は四つのシーンで構成され、それを時間内その空間に居るかのように体験できる。与えられた時間は六時間。それが魔法のような装置とプランを提供してくれた、企業との契約だった。
「何だか、眠くなってきた」
 作り込まれた音声は、可奈の表情が見えるようにクリアだった。さくり、さくりと砂を一歩ずつ踏みしめて二人の下へ進む。僅かに傾斜した柔らかいオレンジの砂の丘から、夕日の反射する波を二人は見ていた。
「そろそろ行こうか」
「もうちょっと」
 可奈のしっとりとした横顔。隣にいる涼太は満たされた顔をしていた。それは、自分自身なのに何故だか羨ましく感じる。可奈が身じろぎして欠伸をすると、着ていたパーカーのフードがくしゃりと崩れた。穏やかな風が少し吹くと、可奈の黒い髪も揺れた。その髪が眼鏡の形をしたオプティカルグラスにかかる。可奈は思い出を拾い上げているフレームからそっと髪をすくい、耳の上へ掻き上げた。その仕草を私は覚えていた。あそこに座っていた私の掛けた、オプティカルグラスも。隣の涼太が欠伸をした。
「俺も眠くなった」
 過去の私は何も知らずに笑う。可奈が涼太の腕を取って、強く身を寄せた。二人の作られた動きが、記憶と混ざっていく。可奈が涼太の手を握る。可奈の掌の柔らかい感触が、私の手の中に蘇るような気がした。自分の脳の外から見せられる夢は、感覚を持ったまま細部まで意識できてしまう。可奈の手の爪は短くなっていた。あれは、いつ切ったっけ。ふと、ここで可奈が振り返ったら、ぼんやりと立っている自分はどんな風に見えるだろうかと思った。
 可奈はゆっくり身を起こすと、宙に人差し指と親指を突き出して、摘んだり、弾いたりした。私が情報の表示を意識し、指を正方形を描くように動かすと、その正方形の中にメニュー画面が表示された。そこから設定を変更すると、可奈のオプティカルグラスがその時表示していた情報も空間へ可視化された。可奈のすぐ手前では、ホログラムで出来た動画撮影アプリの像が表示されていた。
「もう、十五分くらい撮ってるね」
 可奈がアプリを操作しながら言う。
「結構、バッテリー食うんだな」
 可奈のオプティカルグラスは買い換えたばかりだった。最新のオプティカルグラスは、動画撮影した情報を再構成しやすいよう、映像の中の様々な情報を数値化したデータとしても読み取って記録していた。
「日が沈むまで居ようか」
 二人はそれっきり静かになって、波の音を聞きながら日が沈むのを見ていた。薄暮が閉じられ、空間が真っ暗になった。

Act2

 私は小学校の入り口に立っていた。地域の子供達が減り続けて統廃合したため、通常の目的で使われなくなった小学校はそれでも掃除が行き届いていて、床をピカピカに光らせていた。全国で増え続ける閉鎖された小学校は、このように介護施設や、区や市町村の建物として改修され使われるケースが多い。この学校は市に接収されたもので、市民の企画した催しなどに使われる交流の場として市の外からも訪れる人で賑わっていた。
 その日の可奈と涼太は入り口から入ってすぐ、下駄箱の先にある玄関正面に置かれた壁掛けの案内パネルの前に立っていた。十月だが寒がりの可奈は冬の格好で、白いセーターに黒のスカートを履いていた。可奈がこの日、肩から提げているポシェットは小さめの物で、涼太を振り向くと、肩掛けしたそれがふわりと揺れた。涼太は休みの日になるとよく着ている黒のジャケットと、濃い青のジーンズという格好だった。久しぶりに入った学校を眺めながら、涼太が口を開いた。
「これも撮ってるんでしょ」
「そうだよ」
 可奈がオプティカルグラスのAR認識アプリを起動すると、ARマーカーだったパネルの前にメニューが表示された。出展者の一覧や、種類別の商品の一覧などが表示され、可奈が手際よく操作していた。
「これ、撮る意味あるの?」
 涼太は少し校内の風景に飽きたように、可奈に聞いた。
「ネットで調べるよりも、実際に触ってみた印象が大事でしょ。もしかしたら、ここで買えなくて、探すことになるかも知れないし」
 可奈は欲しい物に執着するタイプだった。その可奈が撮ってくれていたおかげで、私はここに居られた。
「今ここ」
 表示されていたメニューは、地図になって二人の現在地を赤く表示させ、人の込み合っている場所やフロア、教室を薄いピンクで塗った。可奈がその日の前にあらかじめ作っていた欲しい物のリストを、自分のオプティカルグラスから同期させると可奈が求めている商品の売場を色分けして表示した。店の品物の残り点数が表示されて、数が少なくなるにつれ、店舗の配色が緑、黄色、青と変化していく。
「あ、もう無いのもある」
 開場して数時間経った、午後の遅い時間の地図は黄色や青の数字をまばらに表示させた。
「涼太は見ないの」
 可奈が拍子抜けしたように涼太を見て言った。
「俺は適当にぷらぷらして見つけるよ」
 涼太が何の気なしに言う。
「じゃ、行こう、早くしないと無くなっちゃうよ」
 さっと涼太の手を掴んだ可奈が歩き出した。
「慌てるなよ。ちょっと、ひっぱるなって」
 可奈がどうにも急いでいる理由を涼太は知っているはずだが、可奈の心はその時の私には、はっきりと見えていなかった。イヤリングを失くした。海に行ったあの日に。泳ぐために外した後、見かけていなかったのだが、何処で失くしたのか可奈も覚えておらず、そのまま行方知れずになった。
「もう、いいよ」と言って、可奈は一人ですたすたと行ってしまう。
「おい、待ってよ」案内パネルから離れた涼太が、急いで可奈の後を追う。私も二人の後を追って、廊下を小走りに歩いていく。

 市の内外から集まった、大人も子供もごった返す賑やかな廊下から教室を見ると、持ち寄られた様々な品がテーブルの上や商品陳列用のガラスケースに溢れていた。家族連れが多かったのは、外で出店などをやっているからだったかも知れないし、もしかしたら学校の卒業生も居たのかも知れない。個人同士の物を売り買いするサイトはネット上にいくつも出来たが、立体映像だけだと感触がしっくりくるか分からないというのが可奈の言い分だった。
「ほら、ここ」
 可奈は一瞬振り向くと中へ入っていった。私はいつの間にか涼太を追い越して、可奈の後ろへついていた。可奈はとことこと目的の店を探しつつ歩き、辺りの品々へ目を光らせている。それは見たことがあるような、見たことがないはずの可奈だった。少しだけ嬉しくなる。ただ、この可奈の動きはオプティカルグラスの視界の動きからデザインされたもので本当に可奈がそうしたかは、分からなかった。可奈が足を止めた店はアクセサリーを中心に並べていた。やっと追いついた涼太が可奈の後ろから声を掛ける。
 12,0006,00023,000青い、洒落た筆記体で、並んだ商品に付けられた値札一枚一枚に数字が書かれていた。
並べられている商品の側に添えられた値札はARマーカーを持っていて画像としてオプティカルグラスに取り込むと、ARテキストを表示させることができる。そうすることで簡単なコメントや使い方、使用上の注意などをグラスにテキストとして映して確認できた。シンプルなデザインにイエローゴールドとホワイトゴールドの二色のコントラストが、美しく輝きます。】【繊細なカットパーツがフレームの存在感ある金色の光を描き、散りばめたダイヤが更に魅力的に見せます。】確かそんなことが、指でめくるようにテキストを送っていた涼太には見えていたはずだ。
「手に取って見てもいいですか?」
 可奈が一組のイヤリングを指して尋ねると「どうぞ」と、ゆったりしたカーディガンを羽織った女性が答えた。可奈が手に取ったイヤリングは、失くしたものと似ていない。可奈が以前耳に付けていたのは、バラのようなフレームにルビーを僅かにあしらったものだったが、手に取ってみたのはしずく型のモチーフで、先端に粒を寄せたダイヤがチェーンの先から揺れる、大人っぽい雰囲気の物だった。涼太はガラスケースを眺めていた。イヤリングの金額を見て、五万か、とこの時の私は思っていたはずだ。涼太は顔を上げ、矯めつ眇めつ何かをイメージするように眺め回す可奈を、手持ち無沙汰に見ていた。ふと、我に返ったように可奈が口を開く。
「すみません、これってもう少し安くなりませんか」
 女性は少し困った様子で「うーん、じゃあ四万三千円で」と答えた。可奈はここで初めて涼太を振り返る。
「涼太、いくら持ってる」
 答える涼太は、少し声のトーンが落ちていた。
「五千円」
 こころなしか、可奈の目が吊り上がっているように感じた。怒っている可奈を見るのは珍しいなと、今、怒られていない当人の私は見ていて思った。
「お金下ろしといてよ」
「俺は買う物決めてきたわけじゃないし」
 ジーンズのポケットに手を突っ込んで、叱られた子供のように答えた。可奈は少し考えるように人差し指で頬を掻くと、店主の女性に「もう少しお願いします」と聞いた。
「これ以上はちょっと、すみません」
 女性は可奈の表情の変化の早さに驚きつつも、申し訳なさそうに言った。
「なあ、他のも見て来ようよ」
 涼太は不機嫌なままそう言う。
「えっ…もう。それじゃ、すみませんでした」
 ぺこりと頭を下げると、納得いかないといった顔で俯く可奈を連れて涼太は店を離れた。

 それからしばらく辺りを回ってみたが、可奈が飛びつくような品物は見当たらない。両腕を組んでむくれ、苦い顔をした可奈に涼太が言った。
「あれって、失くしたのと同じブランドでしょ」
 可奈も涼太の指す方を、足を止めて見つめる。
「うーん、やっぱさっきのがいい」
 眉根に皺をよせるように、可奈は目一杯困った顔をしていた。
「調べた時には無かったの」
 最初からあんな高い物を買うつもりなら、反対していた。と、涼太は思っていただろう。
「他のを買うつもりだったけど、あれは登録してなかったぽいやつだった」
「そんなのあるの?」
 涼太が訝しんで聞く。
「途中で売る気になったのかも、値段も付けてくれてたし」
 可奈のあんな風に生き生きとした姿が見れたのも、リストに載せる際は商品として表示されていなかったからだ。私にとっては幸運だったかも知れない。可奈が見落としていた可能性もあるが。
「他に欲しいのは?」
「さっきのがいいなあ」
 可奈がこうなるともう説得は仕様がないから、可奈の気が収まるのを待つしかない。せっかく来たし自分も何か探してみようか、たぶん、その時の私はこんな風に思って辺りを見回していた。涼太は時計の並んだ店の前で止まった。
「この時計いいんじゃないか」
 涼太がさっと指を指して可奈に示す。陶器で出来た、小船を二つ上下に重ねたようなひし形の時計だった。金額は三千円で、涼太は我ながら良い物に目を付けたと喜んでいた。
「部屋に置くの?」
 まだ、ぶすっとしたままの可奈が言う。
「リビングでも寝室でも良いと思うよ」
 時計のデザインがどことなく好みだったので、私は部屋にも合うだろうとその時思っていた。
「時計自体は良いけど部屋に合うかは」
「ちょっと部屋出してみるよ」
 オプティカルグラスに、現在の部屋の様子を映しながら二人で置く場所を考える。
「リビングの机は?」
 涼太が、取り込んだ時計の像を置く位置を様々に変えて試しながら言う。
「物が取りづらい」
 可奈の判断は、素早い。
「寝室のチェストは?」
 色合いが薄い水色で、この部屋には少し目立つかも知れない。
「良い色だけど、合わないかな」
 可奈はきっとそんなことを考えていたのだろうと、この時分かった気がした。
「ガイドは見たの?」
「今見るよ」
 涼太は指を振って、時計のすぐ下に表示されている金額を画像としてオプティカルグラスに取り込もうとした。すると
「すみません」と店主に話しかけられた。
「この時計ですか?」
 小粋な帽子を被った店主は、人好きのする顔立ちの優しい男性だった。
「ええ、今考えてて」
 涼太がどうしようか戸惑いがちに答えた。
「この時計は整備してみたんですけど、動かなくて」
 店主が時計をちらりと眺めて言う。
「そうなんですか」
「父が残した物なんですが、ここにあるのは全てそうで。ネットで調べたりしながらやってみたり、時計屋さんに持って行ったりもしたんですが」
 店主の声は明るかったが、何処か寂しさを感じてしまう。
「電池切れとかじゃなくて動かないんですね?」
「父が亡くなってしばらくして止まってしまって、それから動いてないです」
「それは、残念です。教えて下ってありがとうございます」
 他の時計も見てみたが、時計自体を求めて探していたのではなかったので、水色の陶器の光沢を少し惜しんで店主に頭を下げると、可奈と時計の並んだ店を後にした。使い込まれたものや、手作りのもの、様々な貴金属が並ぶ前を通り過ぎて、教室の外に出る。可奈は教室を振り向くように、廊下の壁にもたれた。涼太もそれに倣う。
「調べればネットでもあるんじゃないか」
 涼太が諭すように声を掛けると
「そうかも知れないけど。ねえ、お金下ろしてこようよ」
 そう言って、可奈が急かした。
「他のとこ見て回れないだろ、大体もっと早く来れば良かったんだよ」
 この日の前日は朝方まで起きていたので、目覚めると昼過ぎになってしまったのだった。
「休みの日くらいゆっくりしたっていいじゃない」と可奈が微妙な正論を持ち出す。
「可奈はさー、計画性が無いんだよ」
 涼太が可奈の無計画をたしなめていた。計画性の無さはお互い様なのだが。
「じゃあ涼太が計画してよ」
「面倒くさい」
 きっぱりと言う涼太を見て、可奈ははーっとため息をついた。ぼんやりと可奈のため息を眺めていた涼太は、体を起こすと廊下の窓に長く息を吐いた。するとガラスがぼんやりと曇った。涼太が曇りを指で擦るときゅっきゅっとくすぐったいような音がして、外側の景色が見えた。空は曇っていたがグラウンドには出店のテントがいくつか並んでいて、中央の大きなテントで人々が食事したりして、一息入れているのが見えた。可奈も窓に息を吐く。ガラスがほんやりと白くなる。ほっそりした白い指で窓に字を書く。字を見た涼太は、ゆっくりと肩を動かした。

おなかすいた?
べつに
がっこうなつかしいね
そうだね

 どことなく丸い可奈の文字を見ると、また少しだけ学生だった時の気分に近づく気がした。ふと、可奈が傘マークを書く。細い指が傘の中、左下にかなと書いた。
「さあ、名前をいれるんだ」
 少し恥ずかしくなって、涼太と書いた後に参上と付け足した。
「あのさ、参上してどうすんの。いつの不良」
 呆れたように、可奈が何回目かのため息を吐く。
「不良はいつだって不良なんだぜ」
 涼太が気取るように、ポケットに手を突っ込んで言った。
「ロマンチックじゃない不良なんていやだよ」
 可奈がそう言うと、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「雨の学校ってなんとなく楽しくない?」
 窓の外の、グラウンドに落ちる雨を見つめて涼太が尋ねた。
「ロマンチックって言うより、ノスタルジーかな」
 可奈も窓の向こうを見つめた。雨は本降りにはならず、しとしとと窓の外の世界を流れていた。
 「さっきの時計もそんな雰囲気あったよね」
 涼太が思い出したように呟く。
「そうだね。人が集めた物って、その人が生きてきた分の時間も持ってたりするのかな」
 涼太はそんな返事が返ってくると思ってはおらず、はっと可奈を見ていた。可奈は時々鋭いな、と今その時間を目の当たりにしている私は思う。
「その人の所に来るまでの時間とかもあったり」
 涼太がにやりとして言った。
「みんな何処かに行っちゃうのかな」
 ぽつりと可奈は言う。
「行こうよ」
 涼太は可奈の手を取って歩き出した。寂しそうな可奈の表情を見たくなかった。もうすぐこのシーンが終わる。二人はその後、校内を歩き回ったが、その日は結局何も買わずに過ぎてしまった。二人を見送って、私は細い雨が流れていくのを校舎の窓から見ていた。

Act3

「ほら、ちゃんと笑ってよ」
 椅子に座ってデスクと向かい合う涼太に、可奈が眼鏡型のデバイス越しに笑い掛ける。私は、壁にもたれるようにして二人を見ていた。私の一人部屋はあまり物を置いておらず、衣服や鞄などの外出用の物や、趣味のゲームをするためデバイスや操作用のコントローラーがいくつかあるがそれらは壁の中に収納してあり、殺風景だ。この部屋の壁紙はどんな色にもできるし、どんな映像でも投影できるから、この方が見晴らしが良いということもある。今はこの前撮ってきた海の映像を映していた。
「別に普段通りでいいんじゃない」
 お気に入りの赤と青のボーダー柄のチュニックを着た可奈は隣に置いたスツールに腰を下ろして、じっと涼太を見ていた。
「あたしのお父さんとお母さんに見せるって言ったでしょ」
 涼太も可奈に向き直るが、あまり乗り気でないようで両手を挙げて伸びをした。
「挨拶にはちゃんと行けばいいじゃない」
「涼太の人となりが大切でしょ」
 スツールをぐいっと前に近づけて、可奈は口を尖らせる。
「だからさ、いつも通りで…」とは言っても、涼太が多少固くなっているのが私には分かる。
「そうかな」
「うん」
 涼太が立つと黒のスウェットの皺が伸びる。可奈から離れて、私が寄りかかる壁の方へ向かって来た。私の手前にある、足の低いテーブルの上からビールの入ったタンブラーを取ると、ぐびっと飲んだ。
「仕事は何ですか?」
 スツールの上から、涼太の姿を追うようにして見ている可奈が尋ねる。
「話してないの?」
 涼太はタンブラーを置いてストレッチを始めた。
「してある」
 私は不動産会社で働いていた。可奈とは会社に勤める以前、大学で知り合った。サークルの交流会で初めて出会った時、私が先輩で可奈が後輩だったがいつしか立場が逆転し、今に至った。
「じゃあ、いいでしょ」
「今してるのは」
「ストレッチ」
「パソコンでやってたのは何?」
 パソコンはこの部屋にある一台だけだった。家庭用のネットワークはマンションの管理会社が運営している物で、部屋にある台所や風呂、冷蔵庫などあらゆる室内の電化製品をまとめてコントロールしているが、パソコン自体は昔からあるプロパイダを通した物になっていて、この家には一つしかない。同期すればパソコンからどの部屋にも映像や音を流すこともできる、値段も押さえた中々の物件だ。
「友達と遊ぶから準備を…」
涼太は、可奈の顔から目を逸らすようにストレッチを続ける。涼太の腕が当たりそうになって、思わず部屋の隅へ移動した。
「全然、構ってくれない」
 スツールの上で可奈はふてくされる。
「そんなことないだろ」
 脹ら脛を伸ばした姿勢から立ち上がって、涼太が言う。
「ユキちゃんはどう思う?」
 可奈がそう呼び掛けると、スクリーンとなっている壁の一面の端からぴょんぴょんと跳ねるように、丸っこい形をしたユキちゃんが姿を現した。ユキちゃんは人工音声を壁の中のマイクロフォンから響かせ、聞き取りやすい声で「涼太も頑張ってるよ」と言ってくれた。
ユキちゃんとの出会いは、私の居る今から二年前だった。二人で越してすぐ、住宅管理用ネットワークをリビングで立ち上げて設定した。その途中で、インターフェイスのアイコンをどうしようかという所で私は可奈にペンを渡してみた。するとくるっとペンを一回転させて、ちょこんと目と口を入れた。可奈が言うには、いつも目にするならシンプルなのが良いということだった。
「白くて丸いからユキちゃん」
 いくらなんでも味気ないなと思って両脇に小さな丸を描いて、その間にちょっとカーブした短い線を通した。それからユキちゃんは飛んだり跳ねたり手を振ってくれたりする、家の小さな妖精になった。
「そっかあ。じゃあ、涼太の同年代の成人男性と比較したときの評価は?」
 可奈は、中々具体的な価値基準をユキちゃんに尋ねる。
「概ね良好だよ」
 ユキちゃんは大した抑揚もつけずに、さらっと言ってのけた。
「ユキちゃんが言うなら、大丈夫かな」
 可奈は納得したように頷いた。
「おい!ユキちゃん、評価基準は何だ」
 さすがにいたたまれない気持ちになった涼太が、悲鳴のような声を上げた。
「経済基盤、純資産、健康状態…」
検索機能から外部ネットワークのデータへアクセスしたユキちゃんは、引き合いに出した統計の項目を淡々と並べ始めた。
「もういいよ」
 涼太は床に腰を下ろして、タンブラーを取った。
「未来に希望を持ちたいって思うのは当然でしょ」
「そだね」
 可奈は少し可愛そうに思ったのか、ユキちゃんに尋ねた。
「ユキちゃん、それじゃ、あたしは?」
「うーん、平均より少し低め」
 ユキちゃんは、可奈には何故か気を使ってくれるように思える時がある。
「やっぱりいいよ、ユキちゃん」
「心配するな、俺が養ってやる」
 スツールの上でうなだれる可奈に、涼太が大仰に頷きながら声を掛ける。
「でも一人にされると辛いよ」
 可奈はふっと笑ってそう言った。
「そのうち子供とかできたら、忙しくなるよ」
 涼太はじっと可奈を見た。
「そうかな」
「たぶん」
「じゃ、今は構ってよ」
「いや、今はちょっと、もうすぐ友達と用事があるからそれまでにやらないと」
 しばらくしたら、ネットを通してこの部屋から友人達とゲームをプレイすることになっていた。この時遊んでいたのは、オープンワールドの世界で木を切ったり、建物を建てたり自由に生活できるサバイバルゲームで、デバイスに映し出されるVRの山に入り込んで現実の遺跡を模した建物を造っている途中だった。
「言ってることが違う」
「なんでもユキちゃんにまかせっきりだから時間を持て余すんじゃないか。たまには料理すればいいんじゃないか」
 可奈に痛い所を突かれ、涼太がむきになって言った。ユキちゃんには腕がある。そのロボットアームは二本有り、伸ばせば三メートル、畳むと一メートルほどの長さで、壁から百八十度、間についた二つのジョイントから三百六十度づつ自由に動く。部屋や廊下の一面に開いた十センチほどの移動口を水平に伝って、玄関扉の横の宅配ロッカーに届いた荷物を運んでくれたり、家事を手伝ってくれる。慣れてしまうと、手伝いというより任せっきりになってしまうのが難点だった。
「せっかくユキちゃんがいるんだから頼ったっていいじゃない」
「この部屋が借りられなくなったらどうするんだ?」
「そしたら家事するよ」
 涼太はローテーブルに肘をついて、タンブラーの底をまじまじと見つめる。
「なまっちゃうんじゃない」
「今日のご飯、あたしの分だけでいいよ、ユキちゃん」
 可奈がそうぽつりと呟いた。
「今日届いたパスタでペペロンチーノを作ろうと思ったんだけど、一人前でいいの?」
 ユキちゃんが相変わらず、にこにことして言った。
「待て、ユキちゃん俺も食べるから」
 涼太はタンブラーを掴んだまま、がばっと身を起こした。ユキちゃんは受け答えをしてパターンを蓄積することで家庭にあった成長をすることができるようになっている。が、まだ冗談を冗談と判断できないAIは、涼太の食事を慈悲もなく抜いてしまうだろう。
「二人前?」
 ユキちゃんが涼太を向いて尋ねた。
「しょうがないなあ」
 やれやれと言いたげに可奈がため息を吐く。
「しょうがなくない、そんな態度だとユキちゃんと結婚するぞ」
 タンブラーを振り回すように可奈に向けて、涼太が喚いた。
「ユキちゃんは子供みたいなものなんだから、結婚できません」
 可奈がきっぱりと返した。
「ユキちゃん俺と結婚してよ」
 涼太はタンブラーを置いて、ユキちゃんに手を合わせた。
「涼太、浮気はいけない」
 少しむっとした顔になって、ユキちゃんが答える。いつの間にか可奈は、表示可能なユキちゃんの表情を着々と描いて増やしていた。
「ユキちゃんは偉い」
 可奈が満足したように笑顔を浮かべた。
「それに、異論はない」
 涼太はタンブラーを手にとって、何処にともなく掲げて言った。
「じゃ、ユキちゃんとご飯作ろうかな」
 そう言って可奈は、スツールから腰を上げる。
「ついでに、もう一本ビール出してよ」
 部屋の扉へ向かう可奈に涼太が言った。
「それは自分でやって」
 可奈がちらりと涼太へ目をやって言う。振り向いた可奈の頭と一瞬だけ目が合った気がした。
「動くの面倒くさい」
 涼太がだだっこのように寝ころぶ。扉がばたんと閉まると、部屋が真っ暗になって消えた。 

Act4

 点々と明かりを灯す街頭や、ライトアップされた建物の数々が景観の美しさを浮かび上がらせていた。この日は連休で人が多かった。可奈は丈の長いトレンチコートにカットソーとデニムパンツを合わせたスタイルで、デートではあまり見ない格好から今日の期待感が伺えた。いつものジャケットとジーンズの涼太はいつにも増してぐったりしたように見えたが、可奈はこれから始まるパレードが待ちきれないようにうきうきとしていた。二人のすぐ近くで、私もパレードを待った。
「まだ始まらないの?」
「周りを見てても面白いでしょ」
 可奈に断言され、涼太も周囲に目を向ける。場内に入場する際にダウンロードした一日だけ使えるアプリを起動して、オプティカルグラスを通して見た世界は様々なキャラクターに溢れていた。犬や猫を擬人化したような、様々な動物を模したキャラクターが現れては動き、小さなものは足下を駆けて行ったり、人型のものは手を振ったくれたり、中には空を飛ぶものもあった。日中は昔ながらの着ぐるみを着たアクターと、そのホログラムがコミュニケーションをとるパフォーマンスなども行われたりして、アトラクションに乗らずとも多くの人を楽しませていた。
「やっぱり楽しいね」
「飽きさせないように、ちゃんと考えられてるんだろうな」
 可奈はアトラクションよりもそう言った風に、組み立てられた世界観の中を人々が行き交ったり、親しみやすいキャラクターが動くような、子供の頃に映像で見た感覚を体で感じるような雰囲気を楽しんでいるようだった。それでも、足が痛くなるくらいアトラクションを目当てに歩き回らされたのだが。
「パレードって何時から?」
 待ちきれずに涼太が尋ねる。
「ちょっと待って。後、三分くらい」
「あそこから出てくるのかな」
 涼太は当てずっぽうに、幽霊の出るアトラクションの大きなマンションを指した。
「さっき見た、あそこだよ」
 可奈がそれよりも奥まった所にある丸い建物を指で示した。中は大きなホールになっていて、万華鏡のように様々なキャラクターが至る所から現れるのを楽しめた。
「誕生日にまた来ようかな」
「お昼のパフォーマンス、良かったよね」
 パフォーマンスを見ていた中に誕生日の女性が居て、キャラクター達が歌を披露してくれたのだ。特別な演出がされたようではなかったが、そこに集まった人々が輪になって、祝福しているところに感銘を受けたらしい。
「ああいうの、きっと嬉しいと思うんだ」
 可奈が、夢見るように瞳を輝かせて言った。
「それもいいかも。誕生日にいつも家で二人きりなんてのも寂しいし」
「本当に?」
「結婚記念日とか、ちゃんとやるって」
 笑顔が弾ける。可奈は祝うのが好きなのかも知れない。
「楽しみにしてる」
「あんまり期待するなよ」
「涼太が居てくれればいいよ。あ、あそこ」
 先頭を、二本足で跳ねるように踊る猫がやってくる。このパレードは年に数回だけ行われる。その代わり規模は大きなものになっていた。踊っている着ぐるみのキャラクター達の周りへ、上空や通りの向こうからホログラムのキャラクター達が集まってきて一体になって進んでいく。曲が歌詞のあるフレーズに入ると、イルミネーションのように光るアルファベットが現れてはパレードの先頭へ吸い込まれるように消えていった。
「あ、こっち見たよ、ほら!」
 ペンギンのキャラクターが、こちらへ目を向けて手を振っていた。
「向こう近いね。向こうの方が良かったかな」
 一度同じ物を見たはずなのに、可奈の興奮が伝わると何故か心が温まる気がした。様々なキャラクターが現れては消え、知っているものも、知らないものもあったが一つの光と音の中でキュートな空想のうねりが戯れるようにして行進して行くと、満足したような上気した気持ちが残った。

 パレードが終わって周りに集まっていた人達の多くも帰り始めた。可奈はまだ涼太の手を握っていた。
「終わっちゃったね」
 可奈がしんみりと言うと、体の熱がすーっと外気に溶けてほっとした気持ちが残るようだった。
「うん」
「コアラのトムトムが出てきた辺りからから、何か段々寂しくなるんだよね」
「そうなんだ」
「そう」
 可奈が涼太の手を離す。
「俺はお腹いっぱいになったよ」
「また見たいな」
「そうだね」
 振り返った可奈は思い出の表情と何故か違って、ひどく寂しそうに見えた。周りを彩っていた光が、闇の中へ消えた。

Act5

 何時間か経った。溺れるように可奈との思い出を追った。その度に可奈は何度も、何度も笑っては怒り、泣いて、子供のように喜んだ。そして何度目かの海に辿り着くと可奈は消えた。私は人差し指を振り、正方形を作ってメニューを開こうとしたが、何度四角を描いても反応は無かった。

 どうなっているのか分からなかった。涼太が砂の丘で一人で座っていた。海と太陽は知らぬ顔で黄昏ていた。涼太に手が届くほど近づいたが、周りには可奈の足跡一つ残っていなかった。涼太は、じっと海を見ていた。私は涼太に背を向け、砂の上を歩き出した。首を左右に振り、周囲へ目をやりながら可奈の名を呼ぶが、この景色の何処にも居ない。不意に、足が前へ進まなくなる。何かにぶつかったわけではなく、進もうとすると足踏みをするように、その場で足が動き続けた。ここから先の空間は存在していない。気づくと私は走るようにして、砂を後ろへ蹴り上げていた。それでも体は前へ進まなかった。私は足を止めると、腰から落ちるように砂の上へ倒れた。右手で砂を掴む。力を込めるほど掌から砂が溢れ、指の隙間から逃げていく。握った手を離すと、感触も残さずに粒が流れ落ちた。息を吐きながら見る空は遠く、夜を見渡す限り広げていた。私が目を閉じたままでいると、世界が何の合図もなく移り変わった。
 波の音が微かな喧噪に変わった時、私が身を起こすと小学校の玄関だった。
涼太が案内の前に突っ立っている。体の後ろへ手を突いて、涼太を見ていると、一人で話し、一人で怒り、一人で立ち止まり、一人で駆けていく。自分を観察して気づくのは、可奈を失った私はこんなに豊かな感情を持っているだろうかということだった。この日、お金を下ろしてくれば良かったと、今さら後悔した。起き上がり、涼太の背を見つめながら歩く。

 教室に入ると、アクセサリーを売っていた店の前に可奈の姿は無かった。涼太が可奈の居ない場所へ向かって足を進め続ける。私は入り口に立ったまま、涼太を見ていた。決まった動きだ。そう、次は向こうを見る。可奈が居たんだ。あそこに可奈が居た。可奈につられてここに来たのに、可奈を失ったら一人歩きの仕様もないじゃないか。涼太が反対の出入り口から廊下へ出ると、私も入り口を出た。涼太は行き交う人の中で壁に背を押しつけて、口を開いては閉じていた。
壁から身を離した涼太が、窓に息を吐き、手でこする。結局、私はこれと同じことを繰り返していただけなのではないのか。涼太が、息をかけては、指で既に決められていた文字をなぞる。可奈の文字は現れなかった。涼太が私を振り向いた。その顔は穏やかで、自分は可奈といるとこんな顔をしているのかと気づいた後、虚しくなった。涼太が行ってしまってからも窓の外には、雨が降っていた。

 私は部屋の中に立っていた。スツールの上は空っぽで、椅子の上の涼太が何故か面倒そうにしていた。立ち上がってタンブラーを取った。これまで自分の部屋を狭く感じたことは無かったが、涼太を見ていると壁がせり上がって、どんどんと自分を小さな箱へ閉じこめているように思えた。スクリーンの向こうから現れたユキちゃんが言った。
「涼太は頑張ってると思うよ」
 何を頑張っていたんだろうか?可奈に何もしてやれなかった。体が妙にどろどろしている。現実で掻いた汗のせいなのか、私には分からなかった。可奈が何処にいるのかも分からない。現実にも、この空間にも居ない、今、可奈は何処に居るのだろう?シーンの終わりになっても部屋のドアは閉じたままだった。

 賑やかな明かりの中にも可奈の姿は無かった。微かに照らされた涼太の疲れた顔だけが、自分の鏡のように浮かんでいた。パレードが楽しげな世界を乗せてやって来る。涼太と二人で見ると、その景色は儚く消える流れ星のように通り過ぎていった。横目に見た涼太の満足そうな顔を、私は見続けることが出来なかった。そうして、世界がまた暗くなる。

 目を開いたが、まだ夢は続いていた。砂の上には私以外誰の姿も見えない。今度は涼太が夢の中から居なくなっていた。耳には海からの音だけが聞こえた。ここは現実じゃない、可奈は、私以外の何もかもが機械の何処かがズレれてしまえば、居なくなってしまう。それだけなのか。アナウンスも通信もない。一体何処に行ってしまったんだ。
 二人の座っていた場所まで歩く。たった数百メートルの距離の砂浜が、何処までも続いているようだった。二人の居ない砂丘の上に立つ。そこから見た景色だけが変わらなかった。夕日が海へ沈む。この世界の中でも外でも、何度も沈んでいく。変わらない日々に追いつけず、変わらない思い出を求めてここに立っていた。が、思い出も去ってしまった。
 変わらないものがあると思っていることが間違いなのか。それとも、変わってしまったことを受け入れられないことが間違いなのか。可奈は何処にいるのだろうか。思い出が何処かへ行ってしまった海で、私は一人だった。
 耳を澄ませると、海の音だけが届いた。しばらくそうやっていると、何かが記憶に触れた気がした。
 イヤリングを何処で失くしたのか、私も可奈もはっきり分からなかった。この下にあるかも知れない。砂に手を当てて、すくった。イヤリングがここにあるとは思っていなかった。ただ二人が居たことを教えてくれる何かを、失いたくなかった。砂を掻くうちにひんやりとしたものが手に触れた。可奈のオプティカルグラスだった。震える手で掴んだそれを、躊躇う間もなく掛けた。視界は変わらない。
「可奈」
 呼び掛けると白い玉のような妖精が現れた。
「涼太、可奈に会いたいんだね?」
「ああ」
「ついてきてよ」
 ユキちゃんは白い体をふわふわと揺らしながら海へ向かう。後をついて飛ぶように駆ける。温度の無い海水が、飛沫を上げる。ユキちゃんは海の中へ入っていく。
「待ってよ、そっちは行けないよ」
「顔を入れてごらん」
 顔を水へつけると足下の海底はスクリーンのように可奈を映していた。無数の映像が流れるように沖へと続いている。
「どれを選んでもいいよ。その中へ入るようにすればいいんだ。きっと、涼太は体に戻らなくても、眠くなるまで、ここで好きな夢を見ていられるよ」
 ユキちゃんの言う夢のような話は、装置にトラブルが起きたことのアナウンスなのかも知れなかった。だが、その話を信じる前に、言葉が出ていた。
「可奈に会いたいんだ」
 ユキちゃんが近づいてくる。
「どんな姿になっていても、会いたい?」
「会いたいよ、可奈に会いたい」
 ユキちゃんが差し出した手に触れると、その手の先から世界がぽうっと光に包まれていった。

Mirage

 目を開くと病室で、白い壁やカーテンに囲まれるようにしてベッドが置かれていた。その上に誰かが身を起こして、こちらを見ていた。
「えっ、何で」
 私が居るのは、四角い空間の中で、全身にデバイスを付けたままのはずだった。
「涼太」
 ベッドの上でこちらを見ていた女性は、顔や手に皺が出来て髪の毛は真っ白になっていた。
「可奈」
 そうであって欲しいような、そうであって欲しくないような気持ちで可奈の名を口にした。
「あたり」
 可奈の皺混じりの口元が、優しく笑った。
「ここは、なんで」
 可奈は、隣の椅子に腰掛けていた医師と目を合わせて頷くと言った。
「話すと長くなるから…話してもいい?」
 震えるように微かに頷いた。私の了解を見届けた可奈は、遠くに据えるように目を開いて、語り出した。

 その語りで、私の記憶は偽りであることを知った。事故で意識を失ったのは私だった。記憶の中では、その日、眠気を押して旅行からの帰り道を運転し、途中で可奈に運転を代わってもらったはずだった。そして、高速道路で対向車線からはみ出した車が突っ込んで来て運転席が大破した。しかし現実では、運転していたのは私の方だった。妻は、私を生かすために脳だけを保存していた。時が来て、私は目覚め、事故の少し前の記憶へと繋がる仮想現実を体験した。自分だけ生き残ったのも、アメージングヴィジョン社へ行って装置から夢の世界に入ったことも脳の体験したプログラムだった。
「それで、涼太が眠ったままで、一人になって考えることばっかりだった。身体がないからさ、もう死んでるんじゃないかって思ったりして。でもね、諦められなかったの。お医者さんに聞いて、もしかしたらまた会えるようになる技術ができるかも知れないって言われて。本当か分からなかったけど。会えたね、良かったね、涼太」
 現実と非現実の区別もない。でも、この現実を信じたかった。
「俺の身体は今どうなってるんだ?」
 可奈が医師へ目を向けた。医師は、丁寧に間を置きながら説明を始めた。医師によると、今の自分は脳だけになっていて感覚を外部の機器と繋いで音声や映像の遣り取りをしているということだった。そして、日常生活に戻ることはもう出来ない。
「それじゃあ…」
 自分の声だと思っていた音声が、自分の思いを少しの遅れもなく口にしようとする。可奈は涙を拭っていた手を止めて、言った。
「待って、あたし、お金貯めたの、あたしももうすぐこの身体と別れるの。そしたら、涼太、あたしと一緒に居てくれる?」
 脳に投影される可奈の像は、屈むようにして必死に訴える。
「一緒って…どうやって?」
 可奈は続けた。
「涼太が見ていたように、生きるの。脳になったあたし達の命が尽きるまで。あたしの反応も、涼太の反応も、夢を見るためにね、知覚に信号を送るナノマシンを脳に接触させて共有できるから、一人じゃないよ」
 言葉を失う。可奈は待っていたのか。それとも私が待っていたんだろうか。
「それは、一緒なのか?」
「涼太が選んで。あたしは涼太が会いに来てくれたから、それでいい」
 私は答えた。その声は何故か昔の自分の声のように聞こえた。
「それで、俺達の子供は何人なんだ?」

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