レンと、イリスの葬送

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梗 概

レンと、イリスの葬送

  大好きなミーカがいなくなっちゃった……。
  最高品質の完全なデータ葬をされたから、
  ミーカの記憶と配列の情報はカタ・コムっていう
  地下埋葬サーバーのなかに大切に保管されていて、
  だから会いたくなったらいつでも会えるんだって。
  でもね。やっぱりミーカのいない「世界」なんて、
  つまんないよ。

 特別な才能をもつ者を選抜し、隔離・育成する国策研究機関アカデミ。大好きな姉のミーカが選抜されて一人きりになった妹のレンに対して、周囲は姉のことは諦めて忘れるようにと説く。しかしレンはミーカとの別離を受け入れられない。
 二年後、ミーカがネットワーク接続中に切断死を遂げたと知らされ失意に沈んだレンは、部屋に引きこもり、親族接続権を行使してカタ・コムに常時接続し、埋葬されているミーカとの交流を続ける。
 しかし完全データであるユニ・パーソナとして保管されているはずのミーカに対して、レンは以前とは違う、何かが欠けているような違和感を覚える。
 遺品として返却されてきた、ミーカが死の直線に接続していたパーソナル・デバイスを起動させたレンは、モニタの向こうから呼びかけてきたミーカのアカデミでの友人だと名乗る甦術士(ネクロマ)のイリスと知り合い親しくなる。
 ハッキングを得意とするイリスの助力により、レンはカタ・コムからミーカのユニ・パーソナを盗みだす。闇のDIY工房で大型生体出力機を借りてミーカの甦生を試みるレンだったが、マシンスペックの限界を超えて無理やり出力されたのは、意思をもたない抜け殻のようなデジタル・ゾンビだった。
 レンの目の前で脆く崩れ落ちていくミーカ。さらに出力時の負荷によってミーカのデータは破損してしまう。ミーカとの三度目の、そして永遠の別離に絶望したレンに対して、イリスは「盂蘭盆会」まで待てばもう一度ミーカに会わせてあげると約束する。
 盂蘭盆会、その日だけはカタ・コム内に埋葬されているすべてのデータが解放され、家族のもとへ戻ってくる。そして、束の間の交流を懐かしむ……はずだった。イリスの言葉を半信半疑でミーカを待っていたレンは、現れたミーカのフラグメントから「一緒に遠くへ行こう」と呼びかけられ、その誘いにのって切断死を選ぶ。
 データとなった二人は再会を喜び、もう二度と離れないと誓い合う。
 イリスはミーカの指示に従って、ハッキングした大陸最大の干渉計方式電波望遠鏡「虹龍(hong long)」を使って二人を宇宙の彼方へ向けて送り出す。情報の波となって旅立つ二人を囲むように、カタ・コムから解放されていた無数のデータたちも空へと送り出されていく。その光景はまるで目には見えない宇宙への精霊流しのようだ。
 ミーカのデータの一部を宿していたイリスは、そのフラグメントを失って以降、自動プログラムによって起動していたが、最後の役割を終えるとコマンドに従い自らの存在を抹消した。

文字数:1199

内容に関するアピール

 とても大切な人と離れ離れになってしまい、もう二度と会えないかもしれないとして、もし再会できる可能性があるなら、そのわずかな望みに賭けてみたい。そんな可能性の低い試行錯誤が重なって、再び微かなつながりが生まれ、今度はゆっくりと時間をかけて関係が育まれていく、そんな小さくて可愛らしい物語を書いてみたいと思い、このような設定としました。
 課題にある「驚き」というものについて考えてみると、たとえば、どんでん返しや謎解きのようなものもあれば、課題文にも挙げられているように壮大なビジョンで魅せるなど、いろいろな方法があると思います。そのなかで今回は、目には見えない精霊流しのイメージで、無数のデータが流れていく光景を描写できたら綺麗だろうなぁ、と感じたこともあり、その場面を見せ場として描きたいと思います。
 イリスと虹龍には、虹の向こう側「Over the Rainbow」に旅立つイメージを重ねました。

文字数:398

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レンと、イリスの葬送(抄)


※中盤以降、赤い*印のパートは草稿状態となります。
 いちおうストーリーは完結まで書いておりますが、読みづらい箇所や
 説明不足の点等がございますことをお詫びいたします。


  青い一条の光が
  わたしの服から 流れ出す。
  真冬。
  氷のタンバリンのきらきらしい響き。
  わたしは眼を閉じる。
  音のない世界が存在し
  亀裂がひとつ
  死者たちはそこから
  ひそかに境を越えて送られる。
        (トランストロンメル「真冬」)

 

 ヒスイ色をした二月の空が、レンの瞳に映っていた。
 ちょうど太陽と重なって影になった大規模宇宙ステーションの周囲に、色鮮やかな日暈がかかっている。
「HALO……」
 目の前に浮かんでいる光の環――白虹とかけて、冗談めかしてそんなふうに呟いてみても言葉の届く先はなくて、その小さな声は白い吐息に混ざり消えてしまう。
 そして再び、レンの周囲から音が消える。

 訓練校に入学してから、授業を欠席したのは今日が初めてだった。Aクラスへの進級試験に無事合格して気が緩んでしまったこともあるし、ここ数日、実技訓練のためにネットワークに浸りすぎていたせいで鈍ってしまった身体を軽く動かしたいという気持ちもあった。
 中古で手に入れた赤い原動機付自転車を走らせて郊外に出て、誰もいない河原をみつけて冷たい冬草の上に仰向けになる。胸元には、ミーカの本棚から借りてきた百年以上前に出版された薄い詩集がのっている。
 都市エリアのなかでは常にコネクト状態になっているパーソナル・ナビの電源も、今はオフにしてある。今日は陽が沈むまで、静かにひとりの時間を楽しみたいとレンは考えていた。
 この一年間、進級試験のために必死に勉強してきた。それは第一にレン自身の叶えたい目的のためであったが、もう一つ、訓練に集中することで、考えていたくない現実から逃れたかったという理由もあった。
 しかし、けっきょく目的に近づくことは考えていたくない現実と密接につながっていて、一歩先に進むたびに、ふたつの距離は少しずつ縮まっていくのだ。
 ミーカに、もう一度会いたい。そして、できることなら、また二人で一緒に暮らしたい。
 二年前、姉のミーカがアカデミの選抜を受けて統治府に連れて行かれたあの日から、ずっとそのことだけを考え続けていた。ミーカがいないという現実、ミーカと再会するという目的、ふたつの間で必死にもがきながら、レンは孤独な日々を過ごしていた。
 特別な才能をもった優秀な子どもや若者を各地から集め、英才教育を施すためのエリート養成施設――アカデミと呼ばれる統治府の直轄機関にみいだされたミーカは、いま北にあるノース・アカデミで暮らしている。
 外部との接触を完全に遮断されているその場所で、いったいミーカがどんな生活を送っているのか、レンには知る由もなかったが、きっとミーカも同じようにいつも自分のことを考えてくれているはずだと、レンは信じていた。
 それが世界に二人きりで残された姉妹の絆だと、思っていたかった。

 宇宙ステーションが移動して太陽の真下を離れると、空に黒く浮かんだそのシルエットはまるで暈にできた小さな穴のように見える。周囲に広がっている光の輪のさらに向こう側に、環水平アークの虹色が輝いている。ミーカのいる北のアカデミからも、こんな光景をみることができるのだろうか?
 人工雨の通過を知らせる警報が響く。レンは立ち上がって腰のあたりについた草を払い落とすと、西のほうへ流れていく宇宙ステーションの影を追いかけるように原付を走らせていった。
 きれいに舗装された広い道路の上を、すべるように滑らかに走っていく、エコ・エンジンの静かな唸り声。ほとんど振動の感じられない、重心の安定した走行。これほど抵抗が少ないと、レンは自分がいま物理的に移動しているのだということを、忘れてしまいそうになる。
 ただ頬に吹きつけてくる冷たい真冬の風だけが、ほんのわずか、身体的な痛みを思い出させてくれる。そんな微かな刺激のなか、宇宙ステーションを追いかけて、人工雨に追いかけられながら、レンはただ道なりにゆっくりと原付を走らせていった。
 ネットワークのなかで作業をする際には、こんなふうにのんびりと移動することなどできない。一流のネットワーク伝送技師には、いかに迅速に、正確にトラブルに対応するかが求められる。そのためには高速通信網に乗って、押し流されるように目的地へ向かわなければならず、常に自分の状態をネットワークに対して最適化させていなければならない。
 なだらかな坂道をゆっくりとのぼりながら、ネットワーク上や都市エリアでは見ることのできない「自然の景色」が流れていく様を、レンは久しぶりに楽しんでいた。エネルギー伝達効率の高い光学タイルの壁面に覆われたビル群の並ぶ街中からほんの少し郊外へ出れば、このような環境保全・再生エリアが広がっているのだ。

その広大な緑地帯に疎らに建てられている第一層サーバー基地には、日常的な業務のために用いられる無数のサーバーが設置されていて、人々の生活をサポートしている。丘をとりまくようにうねった道を走りながら、林立した常緑樹の隙間にみえるサーバー基地の整然とした無表情な白い建物を見下ろしていると、その不自然な異物感がレンにはまるで自分の姿のように感じられた。

   

 見覚えのある追分に着いて、そのまま道を左に折れてさらに上を目指して進んでいく。いつの間にか背後で降り続いていた人工雨はやんでいて、そのあとには薄い虹がかかっている。周囲に誰もいないことをたしかめて、ルール違反であると知りながら、レンが頭部を覆っていたハーフヘルメットを外すと、あごのラインでそろえたショートボブの髪がふわっと風に撫でられてふくらんだ。前髪を留めていたヘアピンが一本、飛ばされて遠くへ消えていった。
 冬の風は冷たくて心地いい。レンの生まれるずっと以前、何十年も前の冬は心地よさなど感じられないくらい、凍てつくように寒かったらしい、といつか何かの本で読んだことがあった。読んだ、というよりも、それはたぶん文章の断片のなかで触れた程度だっただろう。今の時代、まとまった長い文章を読む機会はほとんどないし、文章を読むことに慣れている人も少ないのだから。
 レンが本を読みはじめたきっかけは、ミーカだった。いつも小さくて複雑な文字がぎっしり詰まった厚い本を読んでいたミーカは「読書に慣れるのも訓練次第だよ」と笑った。その言葉を真に受けて、レンもミーカの勧めてくれた本を数冊読んでみたけれど、けっきょく未だに長い文章を読むのは苦手だった。
 それでも詩と呼ばれる形式の文章であれば、それなりに長いものでもゆっくりと読みすすめることはできた。だから、持ち主のいなくなった本棚からレンが借りてくるのは、いつも詩集と決まっていた。

 丘の天辺にたどり着いたレンは原付を停めて、首に引っかかっていたヘルメットのベルトを緩めた。髪留めがなくなって垂れてきた前髪を、グローブをしたままの手でかきあげて、巨大なオベリスクのようにそびえたつ鉄骨づくりの電波塔を見上げる。
 塔の周囲は石畳の広場になっている。塔の両脇におかれた小さな噴水は水が凍りついてしまうため冬の間は止められていて、丘の上の空気は乾いていた。これくらい乾燥していると、電波の光はきれいに見えるかもしれない、とレンは思う。
 これまでにレンが訓練でネットワークにダイブした際に、恐らく何度もこの電波塔を経由しているはずだった。そこからさらに中空を飛びまわっている自走式の高速伝送ハブに送られて、波となったレンは目的の場所へと飛ばされていくのだ。
 ダイブしているときの感覚を、うまく言葉で表すことは難しい。伝送技師のトレーニングを始めた当初から感じていた、全身が電子化された際に覚える違和感のようなものを、レンはうまく表現することができなかった。
「0」と「1」、「明」と「滅」、自らをシグナルに置き換えてネットワーク上を流れているとき、レンはひとつの照明になって、自分の行く先を照らしている。
 通常、ネットワークのなかではあらゆる情報は小包(パケット)状に分割され、効率的に配送されていく。流動性連絡系(fluxional network system)はそんな分割をなめらかに接続して、補完しながら、誰にでもシームレスにネットワーク上で五感を使ったコミュニケーションを可能にしてくれるけれど、レンのように特殊な体質をもった伝送技師たちは、自身の情報を分割することなくネットワークにフルアクセスすることができる。
 ネットワークにダイブして、その流れのなかで絶え間なく形状を変化させながら泳いでいる状態をin fluxといって、その系(システム)は単にfluxと略称されることも多かった。
 fluxを泳いでいる感覚は嫌いではなかったし、同じようにフルアクセスしている訓練相手の生徒たちとディジタルに戯れているのも楽しかったけれど、やはり時々こうして生身の肉体でもって外側からfluxの流れを感じてみるのも悪くはなかった。
 もう間もなくして陽が暮れれば、電波塔を通過するデータを使った光のスペクタクルを見ることができる。色づけされたデータによる光学ショー。電波塔を囲むように集まったデータがつくりだす光の輪は、ちょうど先ほど空に浮かんでいた日暈を思わせる。
 暈は太陽の周囲に大きくひとつ広がるけれど、電波塔の光輪は幾重にもなって広がり、空へと向かって伸びていく。
 それはまるで、以前読んだことのある童話にあらわれる天気輪の柱のようだとレンは思う。六年前に起きたステーション降下事件の被害からようやくこの街が復興しはじめて、事件で亡くなった多くの人々や失われてしまったデータを哀悼するために、その光のスペクタクルは一年ほど前から月に一度、第三金曜日の夜に行われていた。
 空に伸びた光はさらに中空を飛び交う伝送ハブへと伸びていって、幾筋にもなったデータの光は、微細な網の目を描きながらそれぞれの目的の場所へと飛び立っていく。
 去年の夏、一度だけレンはその光の網を見るためにここを訪れたことがあった。そのときに感じたのは、単純に「きれいだな」ということと、六年前の事件の光景を思い出させるような、ある種、皮肉めいたイメージの重複だった。それは事件を風化させないためにという戒めが込められているのかもしれない、とその日レンは思ったのだった。

   

 六月の雨。のちにアーリィ・サマー・レインと呼ばれるようになったステーション降下事件では、爆発により破損して落下するステーションのパーツと、稼働用に蓄えられていた多量のエネルギーがレーザー照射システムによって放散されて光の雨のようになって地上に向けて降り注いだ。
 ステーションでの任に就いていたレンたちの父親は本体の落下に巻き込まれて死亡、あるいはそれ以前にステーションを占拠した勢力によって殺害されていて、事件の発生を知らずに出かけていた母親も、街に降り注いだ光の雨に焼かれてしまった。
 しかもレンの両親を含む第六世代の人々のパーソナル・データをバックアップしていたサーバー基地はステーションからの落下物の直撃を受けてエリアごと消失してしまった。ステーション本体の落下地点自体は海の向こうの大陸にある山岳地帯だったため、地上での人的被害は最小限に抑えられたものの、第六世代サーバーにデータを保管されていた多くの人々は過去のログの大半を失うことになってしまった。
 失われたログは、本人が生きてさえいれば脳から記憶の一部を再抽出していくらかデータを復元することもできたけれど、レンたちの父親は跡形もなくなっており、母親もまた黒焦げになってすでに死亡してしまっていた。
 それでも焦げた母親の遺体の一部と、パーソナル・マシンのなかに残されていた死亡前の数日分の計測データから、ミーカは母親の人格データの一部を再構築した。それは低品質で擬似パーソナ(人格質)と呼べるようなレベルに満たない、最低限の応答ができる程度のものではあったが、それでも人格データの復元――甦術と呼ばれている――について専門教育を受けたことのないミーカが独自にそれを成し遂げてしまったというのは驚異的なことではあった。
 もしプロの甦術士(ネクロマ)にデータの復元を依頼することができていれば、もう少し再現度の高いものができたのかもしれなかったが、事件による世界的な混乱と、ステーション落下の際の爆発により発生した電磁パルスによる長期間のネットワーク障害のため、極東の小都市に一級の甦術士を招聘するのは難しかった。
 街に専門の甦術士が在籍していなかったこともあって、当時、ミーカは母親以外にも依頼を受けて数人のパーソナ構築を行ったけれど、もちろんたった一人の素人の少女の手ですべての人の甦術に対応することなどできはしなかった。そうしてミーカは街の一部の人々から感謝される半面で、少なからず理不尽な怨嗟を買うことにもなった。そして、そのときの活躍が、アカデミに目をつけられるきっかけの一つにもなったのだ。

 陽が沈み、電波塔の周囲に微細な光の粒子が集まってくる。鮮やか色づけされた光の粒たちは、塔を囲むように大きな輪を形成していき、一段、また一段と上に向かって伸びていく。レンは眩いなめらかな輪郭をなぞるように眺め、さらにその一つ上の輪へと視線を伸ばしていく。光の輪はいくつも連なって、空高く延び上がっていく。
 塔の天辺に集められた光は糸状に分かれて、さらに上空へと伸びていき、伝送ハブに結びついて、さらにそこで細い糸に分けられて四方へと散らばっていく。空には光の網目模様が描かれていく。
 塔の足元に広がる草地には、いつの間にか見物客が疎らに集まってきており、レンもその一人となって、上空で紡がれ解けて飛び去っていく光の網を見送った。
 十分間ほどの光のショーが終わり、やがて空が暗くなると、レンは原付のエンジンをかけてのぼってきた坂道を戻っていった。今度は周りの誰かに見とがめられないよう、ヘルメットをしっかりとかぶって。

   

 すっかり暗くなった道を誘導灯に照らされながら都市エリアへ向かって走る。都市住民登録証による認証を受けてゲートを通過してトンネルを抜けると、今まで周囲に広がっていた自然の風景は一変し、目の前には高層のビル群とその外壁に映る眩い照明が輝いて見えて、夜の闇に慣れていたレンの瞳を刺激した。
 居住区に入るために原付のエンジンを切って、手押ししながらバイタル・チェック用の入区ゲートをくぐる。街の中心部に近づくたびにこうして様々な確認を求められるのも都市内部での安全確保のためであって、久々に生身の状態で遠出をしたレンは、物理的にチェックを受けたり認証を求められたりするたびにアナログな移動手段で管理区域を越えて遠出をするのは面倒なことが多いと思う。
 第七居住区の地下第二層、そこにレンの住む集合住宅はある。六年前まで両親と暮らしていたのは地下第一層の戸建住宅だったが、ミーカと二人きりになってからは特別区の養護施設で数年間暮らし、ミーカが十六歳になって正市民権を得たのと同時に、ここへ移ってきたのだ。
 もっとも、ミーカはその直後にアカデミに連れて行かれてしまい、レンはこの家でずっと一人きりで過ごしていた。いちおう世帯主の登録はミーカのままになっていて、居住費用はアカデミに所属することによって大幅に増額されたミーカの基礎給付によって賄われていた。つまり現在、レンは統治府によって養われているといってもいいような状況にあった。
 レン自身に与えられる基礎給付とミーカの給付を合わせれば生活に困ることもなかったので、無償の公教育プログラムを終了した後、わざわざ訓練校に進学して就職コースに乗らず、コンシューマとして暮らしていく、という選択肢もあった。
 コンシューマは統治府から割り当てられた仮想予算に基づいて消費活動を行うことで経済と情報を循環させる重要な役割だ。コンシューマには生命維持や日常生活に必要な要素の多くが支給されるし、ほとんどのヴァーチャル・アミューズメントを無償で利用することができる。
 そうしてコンシューマたちは日常生活を送りながら、調和的安定政策に基づいた経済調整のための数字合わせを行い、人々の生活をより改善・発展させていくためのデータをライフ・ログとしてアカデミに提供する。
 コンシューマたちから提供された情報は、アカデミの研究者たちによって分析され、世界を改善・発展させるための開発事業に役立てられる。各国の統治府によって共同運営されている国際機関であるアカデミは、サンプルとして提供されるデータを可能な限りフラットな状態で分析する必要があるため、通常の世界からは完全に切り離されて存在していた。
 つまり、ミーカがアカデミに在籍している限り、レンが彼女と接触することは非常に困難であるというわけだ。それでもネットワーク伝送技師として腕を磨いていけば、いつかアカデミの業務をサポートするような機会があるかもしれない。そんな期待を、レンはいだいていた。

 都市エリアに入って自動的に起動したパーソナル・ナビにToDoリストが表示されている。その最上部にきているは、毎日午後七時にタイマーセットされている給水作業だった。作業とはいっても、地上第四層のガーデンエリアにある温室では給水は完全に自動制御されているため、特別そこに行って何かする必要はなかった。
 レンはそこに小さなプライベート・ガーデンを持っていて、いまはその一角で黄色い矢車菊を育てている。そのガーデンはもともとレンたちの母親が使っていたもので、死後、その使用権をレンが引き継いでいた。春先から初夏にかけて見事に咲き誇る黄色い花は、レンがミーカと一緒に選んで、最初に植えた花の種を採取して、毎年種を蒔き、花を咲かせ続けていた。
 その隣のスペースは先日、土を入れ替えたばかりで、来月になったらオキザリスの種を植えるつもりだった。
 養護施設に預けられていた間、ミーカと一緒にこのささやかな庭の手入れをすることが日課になっていた。いまの部屋に移って一人になってからも、レンはミーカが調べて教えてくれた花の栽培方法をしっかりと守りながら、その日課は欠かすことなく続けていて、一日に一度、必ずガーデンに立ち寄るようにしていた。
 階層移動のためのスライド・コートまで原付を走らせて、部屋のある地下二層ではなく、第四層へ上がる。
 ガーデンエリアの入口に原付を停めて、格子状に区切られた小さな庭たちの間を縫うように通路をすすんでいく。しばらくすると〈Len & Mika〉というプレートのついた花壇が見えてくる。まだ二月で開花の時期には少し早くて、伸びた茎の先端には固く閉ざされた小さな蕾がついている。
 その一つにそっと指先で触れて、今年もきれいに咲いて欲しいとレンは願い、それからパーソナル・ナビのなかに保管してあった去年いちばん最初に咲いた花のデジフォトを呼び出して、しばらく見つめていた。

 部屋に戻り、こもっていた空気を入れ替えるため窓を開けると、外から冷たい人工風が吹き込んできてカーテンを揺らした。その色褪せた花柄のカーテンは、母親の形見のスカートを使ってミーカが作ってくれたものだった。カーテンの端にそっと触れながら、カーテンを手縫いしていたミーカの真剣な横顔と、繊細な指先の動きを懐かしく思い出した。未だに自分はこんなに器用に裁縫はできないな、とレンは思った。

   

 光の網を見に行ったせいなのか、レンは幼少期にミーカと一緒に月の裏側にあるルナ・ベースへ行った時のことを夢に見た。当時、宇宙観測・開発のための施設であるルナ・ベースに父親が勤務していたこともあって、一度だけ調査船団が基地を出発するのを見学に行ったことがあったのだ。
 ミーカに手を引かれて、地球よりも軽くなった身体を躍らせながら展望デッキへ向い、そこから遠ざかっていく船たちの光をずっと見送っていた。
「ねぇ、ミーカ。あのお船はどこに行くの?」
 ここよりもずっと遠く、暗い宇宙の先を目指していくのだと、ミーカは教えてくれた。そこに何があるのかとレンが尋ねると、まだ誰も見たことのない不思議なものがたくさんあるのだと、ミーカは言った。
 レンが、いつか一緒にそれを探しに遠くまで旅しようね、と言うとミーカは笑って肯いて、指切りという古い約束の方法を教えてくれた。お互いの情報を交換するために、先端の索を絡めあうような不思議な約束を、その朝、レンは思い出していた。
 レンが上半身を起こすと、寝る前に読んでいた詩集がベッドから滑り落ちていった。起き出してそれを拾いあげてベッドのサイドテーブルの上に置き、スリップ姿のまま洗面所に向かう。レンが目を覚ましたのに連動してパーソナル・ナビがスリープモードから起動する。着信はなし。主要なニュースのヘッドラインが頭のなかを過ぎり、一瞬のうちにレンの関心の順にソートされていく。
 大量にある情報のすべてに目を通して処理することはできないため、主要なものだけをピックアップして内容を確認し、残りは記号化されて圧縮状態になり、無意識下へと流しこまれていく。つまり、どこかで見た・聞いたような気がする、という状態に落とし込んでおくわけだ。そうしておけば何か関連する話題に触れた際に、自動的にその情報が想起されてくる。

『訓練校の生徒、重態――アカデミへの侵入に失敗か』

『虹龍ついに完成、今夏本格始動か――ESR跡地に世界最大規模のVLBIアンテナ』

 二つのニュースが意識にとまり、レンはその詳細を確認する。
 一つ目のニュースにあげられていた訓練校の生徒、ヨモギ・チサトという名前に反応して、レンの意識の奥で眠っていた情報が甦ってくる。たしか、その少女とは実習で一度だけペアを組んだことがあった。旧世紀の学校制度で導入されていたらしいクラスという単位をもたない訓練校のシステムでは、基本的に実習の相手は一期一会であり、数多の在籍者のなかでほんの数十分一緒に訓練を受けただけの相手のことなど、いちいち覚えていない。もちろん、訓練記録は残されるのでデータをさかのぼって相手の情報を検索することはできるが、わざわざそんなことをするもの好きはほとんどいないだろう。
 記憶の片隅から呼び起こされたその少女について、レンがすぐに思い出すことができたのは、実習中に交わした会話の内容のせいだった。ヨモギ・チサトは実習前にレンの生い立ちについて調べていたらしく、姉のミーカがアカデミに選抜されているということを知っていた。そして自分の兄もアカデミに連れて行かれたのだとレンに話しかけてきたのだ。
 自分以外で身近にアカデミ選抜者をもつ者を知らなかったレンは、ヨモギ・チサトに対して多少の関心をいだきながらも、その日以降、彼女との交流を続けることはなかった。
 この奇妙なタイミングでその存在を呼び起こされて、実習の時の印象を思い出してみるが、どこか地味で、大人しそうで、まさかアカデミへ単独で不法侵入を試みるといった、テロまがいの行為を実行するような人物には思えなかった。
 訓練中の会話で「もう一度、お兄ちゃんに会いたい」というヨモギ・チサトの言葉に共感を覚えながらも、レンは「早く忘れたほうがいいよ」と、それまで散々、自分が周囲の人々から言われてきた言葉を返してしまった。もしかしたら、そのことがずっと心のどこかに引っかかっていたのかもしれなかった。
 そんな思いをいだきながら、レンは二つ目のニュースを読みすすめる。
 アーリィ・サマー・レイン――巨大な宇宙ステーションが何者かによってコントロールを奪われて地上へ降下、高層大気圏で自爆した忌まわしい事件。ステーション本体が落下した山岳地帯には大きなクレーターができて、その跡地を利用してSVLBI(スペース超長基線電波干渉法)のための大規模な電波望遠鏡と観測基地を設置するという「虹龍(Hong Long)計画」が急ピッチですすめられることとなった。
 あまりにも短期間に手際よくすすめられた計画に、ESR(Early Summer Rain)事件自体がこの計画のために仕組まれたものではなかったかとさえ噂されたが、とにかく施設は無事に完成し、近日中にも衛星アンテナとの連携テストが開始されるとのことだった。
 すでに月面にはルナ・ベースのような観測施設があったが、規模や資源供給の面でまだ問題も多く、最先端の施設を地上に設置することにはそれなりのメリットがあった。
 レンにとって虹龍の所在地は父親の没地でもあり、またfluxでの仕事に従事する者としての関心もあって、いつかは訪れてみたい場所だった。虹龍の上空写真にそんな思いを馳せながらレンがニュースを閉じると、その刹那、来客を告げる呼出チャイムの音が、静かな朝の部屋に鳴り響いた。ふだんこの部屋を訪れる者などほとんどなかったため、その音はレンにとって耳慣れないものだった。
 慌ててブラウスを羽織り、椅子の背にかかっていたカーゴパンツをはいてモニタ越しに客の情報を確認する。郵政局、配達員、登録番号T‐K024871、担当地域は第七居住区地下第二層十七区画。どうやら怪しい人物ではないらしい。
 局員から届けられた受取通知の即日郵便の封筒を手渡され、受取認証をしたレンは、その桜色をした封筒に見覚えがあった。それは二年前、ミーカに選抜を知らせるために送られてきた、アカデミの専用封筒だった。封筒を裏返してみると、そこにはたしかにノース・アカデミのアドレスが記されている。
 いったこれは何を知らせるための手紙なのか。薄い封筒を開くと、なかには一枚の用紙が三つ折りで入おり、それは、ミーカの死亡を知らせる通知だった。

   

  ミーカがいなくなった……
  ミーカは最高品質の完全データ葬をされたから
  その記憶と配列の情報はCata.comっていう
  地下埋葬サーバーに大切に保管されていて、
  会いたくなったらいつでもパーソナを呼び出して
  会うことができるのだ。
  でも、やっぱりミーカのいなくなった「世界」なんて
  ――つまらないよ。
  私はただ、ミーカと一緒にいたかった、だけなのに

 通知を受け取ってから、どれくらい時間が経ったのか、すでにレンにはわからなくなっていた。部屋の灯りも点けず、薄い紙きれを握りしめて、ずっとベッドにうずくまっている。
 サイドテーブルの上に飾ってある家族写真。そこに写っている四人のうち、この世界に残されているのはレン一人きりになってしまった。父親は完全にロストし、母親は玩具のような擬似パーソナだけを残して、消えてしまった。そしてミーカは……。
 それは、昨晩、日付が変わる直前の出来事。死因はネットワーク接続中にデータ化された意識と身体が完全に切り離されてしまういわゆる「切断死」ということだった。これは接続中の回線が途切れてしまったために起こるといった単純なものではなく、離れてしまったデータが自分の身体を戻る場所として認識できなくなってしまったことから起こる意識乖離現象で、ネットワーク事故としてごく低確率で発生するといわれていた。
 しかし、そもそも人格を奪われてしまうほどディープにネットワークに入り込むことができる人は稀であったし、意識がflux内で完全に変調してしまうような突然変異的な事態が起こるケースもこれまでに数件しか報告されていない。
 そんなレア・ケースをミーカの死因として提示されたところで、レンは簡単に納得することができなかった。それに、切断死したはずのミーカが「完全なデータ葬」をされたという点にも何か引っかかりを感じる。完全に分離した意識と身体を再統合させることは容易ではないはずだ。
 基本的に、完全なデータ葬を執り行うためには事前に綿密な準備が必要であるとされている。生前の本人のなかで営まれているあらゆる有機的な情報を維持したまま、それを有機データとして綿密にトレースしていかなければならないからだ。
 しかも、データ化された後にも常に自己活動を続けていく有機データを忠実に再現し続け、また、増え続けるデータの保管に対応するためには専用のサーバーと膨大な維持費用が必要になる。
 通常のデータ葬であれば、生前の本人の特徴や、特定の固有情報を整理・パターン化してデータ量を圧縮した擬似パーソナの状態で保管されるため、一般の人々にとっても特別高級な埋葬方法というわけではないし、ミーカの作った母親のパーソナのような最低限の情報量であれば、家庭内サーバーで保持することも可能だった。
 しかし、完全データ、つまりユニークな個を保有したままのユニ・パーソナということになれば、それは本当に限られた特別な存在にのみ与えられる埋葬――むしろ、生きたまま葬られているような状態に近い方法だった。
 いくらミーカが優秀者なアカデミ会員だったとしても、個人のユニ・パーソナを維持し続けるために公費が使われるというのはきわめて稀な措置である。つまり、ミーカが完全データ葬をされたということは、アカデミはまだミーカの存在を必要としている、ということを意味していた。
 埋葬されているパーソナに会うためには、Cata.comにアクセスする必要がある。パーソナたちはデータ解放されないかぎり専用サーバー内から出ることができないため、こちらをデータ化してネットワーク経由で会いに行く形になるのだが、基本的にCata.comのような特別なサーバーへのアクセスには、負担を減らすために、面会の回数や時間、一度にやり取りできる情報の量はきびしく制限されている。
 だが、レンのように特殊な体質をもった伝送技師であれば、負荷をかけることなくスムーズにfluxや特殊サーバー内に存在することができるし、アカデミから付与された特別な親族優待接続権があれば、自由にミーカに会いに行くことができた。
 文面で知らされたミーカの死について、悲しみを感じたり涙を流したりしないのは、自分がまだそのことを信じられていないからだろう、とレンは思った。いまはただ、ぼんやりとした不安のようなものだけがある。本当にミーカはこの世界からいなくなってしまったのだろうか。それを確かめるためには、Cata.comにアクセスしなければならない。
 そこでもし、ミーカと再会することができたとしたら、それはつまり、ミーカは本当に死んでしまったということを意味していた。

 ふだんfluxにフルアクセスする際には、いったん直通回線から訓練校のサーバーに移動して、そこで学生認証を受けたアカウントを使用していた。もちろん、家庭用のパーソナル・マシンから直接fluxにつなぐこともできるが、コンシューマではないレンの場合、業務ではなく私的に上級ネットワーク・リソースを使用する際には、通信データ量に応じて利用料が発生してしまう。
 そのため、レンはふだんの通信にはfluxよりも低速だが一般開放されている無料回線を利用していた。簡単な調べものやデータの呼び出しなど、こちらから「行く」のではなく、一定量の情報を引き出すだけならば、それでも十分快適だった。
 しかし、ミーカに会うためにはCata.comのサーバー内に移動しなければならない。低速回線でもデータを分割したり時間をかけたりすれば、Cata.comにフルアクセスすることは可能だが、レンのようなネットワーク感応体質の場合、fluxでは自由自在に活動できる反面、普通の回線内では自己データが分割されにくいという性質上、一つの大きな塊として扱われてしまうため、思うように身動きがとれなくなってしまう。
 Cata.comのサーバー内に入ってしまえば、そこはユニ・パーソナを再現し続ける必要から、fluxと同等の環境が整っており、さらに優待接続権も与えられているため、快適に過ごすことができるはずだった。
 レンは、とりあえずふだん通り訓練校への直通回線を開いて、パーソナル・マシンから訓練校のサーバーへと移動した。認証を受けてサーバー内へ入り、fluxの使用許可を申請する。
 しかし、瞬時に返ってきた答えは不許可。理由の提示を要求すると、どうやら今朝がたのヨモギ・チサトの事件調査のために、訓練校からfluxへのアクセスが制限されているらしかった。
 そうなるとCata.comまでの道のりには有料のflux接続サービスを利用するしかない。そこでレンはfluxionsという会員制サービスのことを思い出した。訓練校に入学した際に登録を推奨されてアカウントを取得したものの、訓練以外でfluxにつながる用事もなかったため、これまで一度も利用したことがなかった。
 fluxionsはflux接続サービスのなかでは最大手の老舗で、その運営にはfluxの開発元であるアカデミも関わっているといわれていた。
 登録したきりで一度も使ったことのなかったイワセ・レンのアカウントを使ってfluxionsに接続すると、ウェルカム・メッセージが表示された。メッセージウィンドウを閉じると、さらに次のメッセージが表示される。どうやら丸一年間、接続していなかったせいで、運営からの公式通知やレン宛のダイレクト・メッセージが累積していたらしい。
 不要なものを閉じていき、ようやく最後メッセージが表示される。今朝発せられたばかりらしいそのメッセージによれば、どうやらレンはプラチナ・クラスというサービスレベルにカテゴライズされることになったらしい。その説明によるとプラチナ会員はいつでもfluxをフリーで使い放題な最上級クラスということだった。
 しかしもちろんレンには、なぜ自分にそんな権限が与えられることになったのか、心当たりがなかった。fluxionsのプラチナ会員は招待制になっており、正規のプラチナ会員は自分のアカウントに紐づけて一アカウントだけ誰かを副会員としてプラチナ・サービスへ招待することができるらしかった。
 どうやらレンは、いつの間にかどこかのプラチナ会員から招待を受けていたらしい。自分を招待してくれたのがいったい誰なのか、表示されているメッセージをスクロールさせていくと、末尾に招待者からのメッセージが記載されていた。

《レン、きっと会いに来てね》

 そのメッセージは、たしかに今日、届けられたばかりだった。配信時間を確認してみると、むしろレンがfluxionsにアクセスするのを待っていたのかのごとく、たったいまそのメッセージは発せられたもののようだった。
 レンがメッセージを読んでいる間に、さらに別のダイレクト・メッセージが届けられる。差出人は《ミーカ》――送信元のドメインはCata.comとなっており、通信ランクは「機密」を意味するCfdにカテゴライズされていた。

 ――もうすぐ会えるね。
 私、ずっとレンに会えなくて寂しかったよ。
 できることなら、今すぐ会いに行きたいけど、
 私はここから出られないから――

 ミーカからのエモーショナル・メッセージが、パーソナル・マシンとの接続を通して直接、まるで肉声を聞かされているかのように鮮明な響きを帯びてレンに呼びかけてくる。こんなにクリアな感情通信を受け取るのは初めてで、レンはfluxとCata.comサーバーの品質に改めて驚かされる。
 レンはミーカの呼びかけに応えるように、プラチナ会員専用のゲートからfluxへアクセスする。すべての感覚がfluxに置き換わって身体が軽くのなるのを感じる。実体を失ってしまうような、それでいて自分の存在がより明確に浮き立ってくるような、それはfluxのなかに融け込んでいく際にいつでも感じる、うまく言い表せない不思議な感覚だった。
 純粋な情報体の流れであるfluxには背景という概念はなく、レンは視覚を通して自らが設定している空間イメージを背景映像として感知することになる。
 天の川銀河にあふれる無数の星々のイメージに乗って、レンはミーカの待つ地下埋葬サーバーへと向かう。fluxのプラチナ・パス、親族接続優待権、自身に付与されている情報が自動的に読み取られて、何の抵抗も感じられないまま見えない壁を越えて先へと進んでいく。そのスムーズな流れの先には、レンが先ほどまで生活していたのと同じ、集合住宅の一室があった。
 家具の配置など、普段見慣れているものとは微妙に異なっている部分はあるが、そこは間違いなくレンの暮らしている部屋で、窓辺では、ミーカの作ったカーテンが微風に吹かれて静かに揺れていた。

   

「おかえり、レン」
 お揃いで買った白磁のティーカップを片手に、ダイニングチェアに腰かけて微笑むミーカ。二年前よりも少しやせてくっきりとした頬の輪郭と、肩の下まで真っすぐにのびた柔らかいライトブラウンの髪、そんな離れていた間の変化はミーカをほんの少し大人っぽくみせたけれど、メガネのレンズ越しに見える優しい瞳の色は何も変わっていない。
「髪、短くしたんだね。似合ってる」
 原付のヘルメットをかぶるのに収まりが悪いから。fluxにアクセスする際に少しでも情報量を軽くするために。――どちらも理由の一つではあるけれど、本当は、鏡を見るたびに、ミーカのことを思い出してしまうから。
 テーブルの上に置かれているティーカップからダージリンの香りが漂ってくる。
「ミーカ……」
 呟いて、それから自分がどんな言葉をつづけるつもりだったのかわからなくなって、レンはしばらく黙ったままミーカを見つめていた。
「お茶、冷めちゃうよ?」
 勧められて、レンはミーカの向かいに腰を下ろしてまだ温かいダージリンティーに口を付ける。口内に懐かしいフレーバーが広がっていく。それは間違いなく、ミーカの淹れてくれた紅茶の風味だった。
 ミーカは「どうかな、できるかぎり思い出して再現してみたんだけど」と言いながら部屋を見回して、それからレンの瞳をジッと見つめてくる。ミーカがこの部屋で暮らしていたのはほんの短い期間だったはずなのに、再現されている部屋はそこで毎日暮らしているレンにとってもほとんど違和感のないものだった。
 その常人離れした記憶力に、やはりいま目の前にいるのは本物のミーカなんだ、とレンは思う。
 ティーカップをそっとテーブルに置いて放す指先、そのまま頬にかかった髪をかき上げる仕草、うつむき加減に伏せた目元を隠す豊かな睫毛。そのすべてがミーカだった。
 ミーカがこうしてここにいるということは、現実のミーカは死んでユニ・パーソナになってしまったということを意味していた。その絶望的なまでの喪失感と、しかし今こうして目の前に、以前のようにミーカがいて、言葉を交わすことさえできるという圧倒的な仮想のリアリティが、複雑にレンのなかでからみ合って、無意識の涙となって漏出していく。
「ミーカ……」
 もう一度、同じ言葉を呟き、それからレンは「ずっと、会いたかったよ」と最もシンプルな表現で自分の思いを口にした。立ち上がってテーブル沿いにレンの側までやって来たミーカは、子どもの頃のように優しくレンの頭を抱きしめて、そっと髪を撫でた。
 ミーカの体温を感じながら、しかしいま二人はデータ化された状態で抱き合っているのだと思うと、レンはずっとこのままでも構わないという気分になってくる。ミーカの知性が天から与えられた恩恵だとするならば、自分がネットワーク感応体質であることもまた、こうしてミーカと再会するために与えられた天賦のものだと思えた。
 埋葬されたデータのなかでも最も希少なユニ・パーソナとして、生前のすべてを完全に再現された有機的な存在であるミーカと、fluxシステムを通して自分の存在すべてをデータとして再現できるレン。そんな姉妹のデータがこうして触れ合い、重なり合っているということは、奇跡的な巡り合わせだった。
 それからレンは、ミーカがいなくなってからのことを一つずつ言葉にして伝えていった。記憶データとしてまとめて受け渡すこともできたけれど、ゆっくりと時間をかけて、自分の言葉で伝えたいと思ったのだ。
 コンシューマではなく訓練校に進学する道を選んだこと。ネットワーク伝送技師を目指して勉強していること。進級試験に合格したこと。原付の免許を取って乗り回していること。いまでも毎日、花壇の世話をしていること。本棚から詩集を借りて読んでいること。
 そして、ミーカがアカデミでどんな暮らしをしていたのかも聞かせてもらう。アカデミのある北の街はとても寒いこと。隣の部屋のイリスという女の子と友達になったこと。fluxのシステム・アップデートをミーカが主導していたこと。虹龍の開発に携わっていたこと。
 離れていた時間を埋めるように、二人は言葉を紡ぎ合って、お互いの欠落を満たしていった。生身の肉体を保持しているレンは、あまりにも長く実体を離れていることができず、アラートが入る度に一度Cata.comを離れて休息をとらなければならない。そのことが、レンにはとてももどかしくて、いっその事、自分もミーカのようにパーソナ状態になって、一緒にそこに在り続けたいとさえ思えるのだった。
 そうしてレンは幾日もミーカのもとを訪れ続けた。訓練校から通知のあった来年度の履修登録手続きさえも煩わしく感じてしまい、ミーカにたしなめられて渋々手続するほどの体たらくで、すっかり以前の「妹」に戻ってしまったな、という自覚さえレンにはあった。
 一日のうち、二人で過ごす時間が長くなると、互いにデータであることも忘れて、二年前と同じ生活が戻って来たかのような錯覚を覚えてしまいそうになり、しかし一人きりの現実の部屋に戻る度に、レンはミーカがデータのなかにしか存在できないのだということを思い知らされた。
「ミーカ、今日、花が咲いたよ」
 黄色い矢車菊――開花したイエローサルタンのデジフォトをレンが見せると、ミーカは懐かしそうに微笑を浮かべて「強い意思……」と呟いた。
「え?」
「イエローサルタンの、花言葉。レン、知らずに育ててたの?」
 レンが肯くと「進級試験に向けて頑張ったレンにぴったりだね」とミーカは笑った。できることならば、ミーカをガーデンエリアへ連れて行って、綺麗に咲いた花を見てもらいたいとレンは思い、しかしそれが叶わない願いであることも自覚している。
 それでも「ミーカにも見せてあげたいな……」と呟かずにはいられなくて、ため息交じりのレンの一言にミーカは「私も、レンの育てた花、見てみたいな。でもいつか、もっと技術が発達して、データが解放される時がくれば、きっと」と返し「そのために、アカデミがあるんだよ」と付け加えた。
「ねぇ、ミーカ。子どもの頃の約束、覚えてる?」
 そう言ってレンが右手の小指を軽く折り曲げて、指切りのジェスチャーをしてみせると、ミーカは「約束?」と不思議そうな顔をする。
「一緒にルナ・ベースに行って、調査船団を見送った時のこと。いつか一緒に遠くまで旅しようねって約束したよね」
「ああ……そのこと?」
「うん。話を聞いて、もし、ミーカがこのサーバーから出られるようになったら、一緒に宇宙の果てまで旅したいなって、思っちゃった」
「でも、いまの伝送システムじゃ、受信基地のあるところまでしか行けないね。そうじゃないと戻ってこられなくなっちゃう」
 ミーカがそう言って笑ったのに合わせて、レンも笑う。そのミーカの笑顔は、これまでずっとユニ・パーソナとして寸分の違いもなく再現されていたものとは違う、どこか作られたもののように、レンには感じられた。

   

 fluxを離れてシャワーを浴びていると、肌を刺激する水の圧力や、身体の線をなぞるように滴っていく水滴の流れが鋭敏に感じられて、やはりデータで再現された身体と生身の身体は違うのだということを感じる。
 ふわふわの大きなバスタオルに包まれる柔らかな感触も、fluxではあえて必要とはされない表現の一つだろうと思いながら、レンは濡れた髪をタオルで優しく拭う。
 ここのところ連日ミーカのところに入り浸っていたせいで、現実世界での情報に疎くなってしまっているのはよくない傾向だと、パーソナル・ナビを通じて流れてくるニュースに触れながらレンは反省する。それに、数日前に連絡のあった郵便物の不在通知票がそのままになっているのもまずい。
 再配達期限のぎりぎりに連絡を入れて、いつもならとっくにミーカのところへアクセスしているはずの時間まで待っていた。本棚から『春と修羅』というタイトルの詩集を取ってその序文を読みはじめる。テーブルの上にはミーカの部屋でも現実でも、最近毎日飲むようになったダージリンティー。

 

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  ……
     (宮沢賢治『春と修羅』「序」より)

 

 透明な幽霊の複合体、という言葉からレンはfluxを連想し、そのなかをひとつの青い照明となって、明と滅のシグナルに置き換わってせわしく移動していく自分の姿を想像してしまう。
 そんな想像を呼出音に遮られて、受け取った小包を開けると、中には持ち主を失ってしまった、ミーカのパーソナル・ナビが入っていた。
 それは切断死を遂げる直前までミーカが使用していたもので、アカデミでの機密に関する情報はデリート済みだが、ミーカの生活を記録したログ・データはそのまま残されているとのことだった。
 現在のミーカの立場は、生前に関わっていたプロジェクトについて、アカデミへの助言役のようなものらしかった。おそらく日々自分と交流しているパート以外のリソースを使って、そうした仕事をこなしているのだろうとレンは考えていた。
 生身の人間であれば、同時に二つの作業をこなしたり、雑談を交わしながら高度な問題を処理したりすることは難しいが、データ状態であれば、必要なパートに必要な分だけリソースを割り当てることができる。もっとも、ミーカはそうなる以前から同時並行的にいくつもの作業を効率的にこなしていたけれど……。
 本来、他者のパーソナル・ナビを無断で起動させたり、中の情報をのぞき見たりすることはマナー違反とされていたが、すでにミーカは亡くなっており、また生前の情報はユニ・パーソナとしてすべてCata.comに保管されているのだから問題はないだろうと考えて、レンは好奇心からミーカのナビを起動させてみた。
 所有者本人が直接起動させたのであれば、生体認証によってナビは自動的に起ち上がって動作を開始するが、所有者以外がスタート画面から先へ進もうとすれば、権利認証とパスワードの入力を求められる。
 権利認証については、親族であり、現在は相続人としても登録されているレンには何の問題もなかった。パスワードについても、以前、お互いに何かあった時のために知らせ合っていて、それが変更されている可能性は低かった。
 ミーカではなく、レンとしてミーカのナビを起動させる。

“Welcome Len.”

 他人のナビに意識がつながるというのは、レンにとって初めての体験だった。ふだん、ほとんど身体や意識の一部として何の違和感もなくつながっている自分のパーソナル・ナビとはまったく違う違和感、ミーカ固有の癖のようなものが、その端末にはまだ濃厚に残されていた。
 起動させたのとほぼ同時に、累積していたらしい更新プログラムがインストールされていく。その膨大な容量に驚いて、レンがウェイトをかけようと指示を送ったが、ナビはレンのコマンドを受け付けず、インストールはそのまま続けられた。
 これが重要なプログラムであった場合、更新時に他人がつながっているようなイレギュラーがあると、少なからず正常にインストールされない可能性が生じてしまう。そんな心配がレンの脳裏をよぎったが、今後このナビがミーカによって使われることはないのだからと割り切って、なされるがままに更新ファイルを受け入れることにする。
 インストールが終わると、それが何のファイルだったのかを確認する間もなく、ダイレクト・メッセージでのコミュニケーション要求があり、通話モードが展開していく。それはミーカ宛のものではなく「レン」に宛てられたメッセージで、差出人は「イリス」と名乗っていた。

   

 イリスという名前は、すでにミーカから聞かされていた。それはアカデミでミーカの隣室に住んでいる、友人。彼女は天才的な甦術士(ネクロマ)としてその才能を見いだされ、アカデミでは主にデータの復元や、パーソナ構築の効率化、パーソナ・データの軽量化などについて専門に研究しているらしい。
 また、イリスもレンと同じネットワーク感応体質者であり、fluxのさらに上位となる通信概念の開発にも携わっているとのことだった。

「はじめまして、レン! わたし、ミーカの友達でイリスっていいます」
 イリスからの最初のメッセージが勢いよく意識に飛び込んできて、レンは一瞬面食らった。アカデミに選抜されるような「天才」たちは皆、ミーカのような落ち着いた雰囲気なのだろうと先入観をもっていたからだ。
 どうやらイリスは、お互いにネットワーク感応体質であり、fluxでの通信でもなかったため、やり取りは最低限のメッセージ・データのみで済ますつもりらしかったため、レンもそれに乗ってメッセージを返す。
「はじめまして、イリス……さん」
「あ、警戒しないで! 怪しい者じゃないから」
 直後、イリスのプロフィールを簡略に記したデータが送られてくる。別にイリスのことを不審に思っていたわけではないが、レンはいちおうプロフィールに目を通していく。
 確認しながら「ミーカからお話は伺っています」とレンが呟くと、すかさず「わたしも、レンのこといろいろ聞いてる」という返答があった。
 イリスの軽快なメッセージのテンポに合わせられず、レンがしばらく黙っていると「実はね、ミーカから頼まれてるんだ」と言われて、思わず「何を、ですか?」と聞き返す。
「もしものときは、妹のこと、よろしくって」
「ミーカが……」
 イリスの話から、アカデミで暮らしている間も、ミーカが自分のことを気にかけてくれていたのだと考えるとレンは嬉しかった。Cata.comで交流しているミーカは、アカデミでの生活の話は聞かせてくれたけれど、そこで友人たちとどんな交流をしていたかについて話してくれたことはなかった。
「ミーカ、アカデミではどんなふうでしたか?」
「うーん、そうだなぁ……ベンチに座っていっつも本読んでる、って感じ?」
 木陰のベンチに浅く腰かけて、きれいな姿勢で本の頁をめくっているミーカの姿がすぐに想像できて、レンは思わず笑ってしまう。そしておそらくイリスが近寄っていくと、完璧なタイミングと距離感で顔を上げて、眼鏡越しに目を細めてやわらかい笑みを浮かべるのだ。
 そんなレンのイメージがあまりにも的確で、今度はイリスが笑ってしまう。次々とイリスから聞かされるミーカの印象が、あまりにもレンの記憶のなかのミーカのイメージと重なりすぎて、自然と会話は弾んでいった。
 しかし、しばらく話をしているうちにレンは改めて重要なことに思い至り、それをイリスに確認してみる。
「あの、イリスさん……」
「あ、イリスって呼んで。呼び捨てでいいから」
「えっと、それじゃ、イリス……は、アカデミの人なんですよね?」
「うん、そうだよ」
 なぜそんな当然のことを今更聞くのだろうかと、軽く返されたイリスのその答えは、もちろんレンも疑っていなかったものだった。しかし、それならば「こんなふうに、わたしと交流してしまって、その、平気なんですか?」と訊かずにはいられない。
「もちろん!」
 イリスは勢いよくそう言って「規約違反だよ」と笑った。
 この場合、責任を問われるのはどちらなのだろうかと、レンは冷静に考えながら、そのことをまったく気にしていない様子のイリスが不思議だった。
「あ、たぶん大丈夫。この回線、ミーカが試作してた特別なやつだから」
 イリスの話によると、ミーカの試作したユビック・キューブという発信者の情報をランダムに分散させて広範囲に偏在させる装置をパーソナル・ナビに取り付けることで、ネットワーク上に複数のダミー・ポジションが自動生成されて、さらに発信する情報も見かけ上ではダミー間でランダムにシャッフルされるため、いまレンがイリスから受け取っているデータは、外部からは断片化された無意味なフラグメントとして認識されているはず、らしかった。
 それまで続けられていた、アカデミでのミーカとイリスの話題が途切れて、ほんの短い沈黙の後で「ミーカ、元気?」とイリスは呟いた。
「はい、とても」そう言ってからレンは「まるで、生きてるみたいです」と冗談交じりに付け加えた。
「そっか、うん、よかった」
 先ほどまで饒舌だったイリスの口数が減ったことが不安で、思わずレンが「イリス、どうかしたの?」と呼びかけると、「実はね、ミーカのユニ・パーソナを構築したの、わたしなんだ」とイリスは打ち明けた。
レンの受け取ったミーカのパーソナ構築に関するオペレーション・レポートには、たしかイリスの名前は記載されていなかった。しかし、ミーカからイリスは天才的な甦術師(ネクロマ)であると聞いていたので、イリスの話にも信憑性は感じられて、おそらく、何か公開できない事情があったのだろうとレンは納得する。
 そして、ミーカが切断死したと知らされた日からずっと疑問に思っていたことを訊ねてみる。
「切断死した人のパーソナを再構築するなんて、本当に可能なんですか?」
「ふつうだったら、難しいよね。でも……」
「でも?」
「わたしだから」
 そう言ってイリスは笑ったが、レンの反応が薄いことにため息をついて言葉を続ける。
「ミーカが手伝ってくれたからね」
「手伝う? どうやって?」
「いろいろ。わたしが仕事しやすいように準備しといてくれたの」
 イリスの言葉の意味がよくわからず、レンはしばらく黙っていた。
 するとイリスは「ねぇ、レン。あなたのお姉さんが、ネットワーク事故による切断死なんて間抜けな死に方、すると思う?」と秘密を打ち明けるような調子でレンに囁きかけてきた。
「ミーカはね、アカデミでもとてもうまくやってた。私以外にもたくさん友だちはいたし、与えられたタスクも完璧にこなしてた。何も問題はなかった。それでもね、どうしても叶えられないことが一つだけあったんだ」

 それが何だか、当ててごらんよ。あなたなら、わかるでしょ? だって、ずっと同じ気持ちでいたんだから。
 イリスの声が自分のことをそんなふうに責めているような錯覚にとらわれて、ネットワークに接続していたレンの意識が乱れた。それを引き戻すように「まだ逃げないで、もう少し話そうよ、レン」とイリスは強制する。
「ミーカはね、レン。ずっと、あなたに会いたかったんだよ。だから――」
――だから自ら切断死を選んだ?

   

「やめて! ミーカがそんなことするはずない!」
「そうかな? むしろミーカにしかできないんじゃないかな、こんなこと」
 イリスにそう言われて、刹那、妙に納得してしまった自分を否定しようとして、しかしレンの感情は混乱してしまう。
「でも……だからって、ミーカが、自分で?」
「きっと、どんなことをしてでも、大切な妹に会いたかったんだよ」
「どんなことでも?」
「そう、たとえば、ヨモギ・チサト」
 忘れかけていたその名前が、再びこの場面で甦ってきたことに対して、レンは不思議と場違いな印象をいだくことはなかった。
「あの日、二つの事故は同時に起こった。もし、ミーカがアカデミのネットワークから抜け出すためにヨモギ・チサトを利用したとしたら?」
 具体的にどんなふうに利用されたのか、レンにはまったく想像ができなかったけれど、たしかニュースの続報によれば、ヨモギ・チサトのデータはバラバラに断片化されてしまって、その一部はflux内で消失してしまい、未だに捜索が続けられているらしかった。
「なんてね、わたしはただミーカに言われた通り、手伝っただけ。ミーカが実際に何を考えて、何をしたかなんて、ちっともわかんないよ」
 そう言ったイリスの調子は、むしろ自分はすべてを知っていて、ヨモギ・チサトの死はミーカと密接に関係しているのだ、ということを示しているかのようだった。
 そして「ミーカは私なんかより、ずっと天才だったからね」とイリスは素直な賞賛の感情を乗せたメッセージをレンに送った。
 それからイリスは自分自身の能力について、ミーカのように論理的(ロジカル)なタイプではなくて、もっと直感的な閃きに基づいて物事を進めるタイプなのだと言った。だからミーカのように多くの人にとって有効に活用できるような、シシンプルでいて柔軟なシステムは構築できないのだ、と。
 イリスが扱えるのはもっと複雑で応用の効かない、特殊な用途のみに特化したものになってしまう。そのかわり、成功すれば技術革新と呼べるような、大きなインパクトを与えるものが作れるかもしれない。
「いま開発中のシステムが完成すれば、きっとレンには喜んでもらえると思うな」そんな含みを持たせたような物言いで、詳しいことはまだ離せないんだけど、と前置きしながら、イリスは「もしかしたら、ミーカと再会できるかも?」と笑い「そろそろお暇しなくちゃ、またね、レン。お話しできて、楽しかったよ」と言って、一方的に通信を切ってしまった。

 そんなふうにネットワーク上にひとり取り残されてしまったレンも通信を解除し、まずヨモギ・チサトに関する過去のニュースを検索してみる。たしかにヨモギ・チサトがアカデミに侵入しようとした時刻は、ミーカの事故があったらしい時間と一致していた。しかし、それ以外にミーカとの関連をにおわせるような痕跡はみつからない。
 もちろん、ミーカが本気で情報を隠蔽しようと思えば、それをレンに悟られないように隠すことくらい、簡単だっただろうけれど。
 調べたところで、たいした情報は得られないだろうと諦めてニュースを閉じて、レンはパーソナル・ナビをスリープさせてベッドに横になる。荷物を受け取ったら、またミーカに会いに行くつもりでいたが、イリスとの会話の後で、すぐにCata.comに向かう気分にはなれなかった。
 こんな時は、気分転換に花を見に行こう。そう思って起き上がったレンは、ミーカの本棚から適当に本を一冊抜き出して鞄に放り込み、原付の鍵を手に取って部屋を出た。

 地下二層の天井にはスカイ・スクリーンが張り巡らされていて、雰囲気だけは外を走っているような気分になるけれど、表情の薄い単調な偽物の空から得られる情報量は少なくて、空調もコントロールされているため、実際に郊外を走っているときの爽快さとは比べ物にならない。
 しかし、さらに下の階層では、天井は重厚な金属板で覆われていて、その表面を複雑な配線が走り回り、空間の照らす光は巨大な無数の照明によって管理されているというのだから、贅沢は言えなかった。
 高層の集合住宅が立ち並ぶ居住区を抜けて、スライド・コートのほうへ近づいていくにつれて、無人の管理棟が整然と並んだ静かなエリアへと入っていく。原付を降りて手押ししながらコートに乗って地上第四層のガーデンエリアへと向かう。無振動に上昇していく白い平面が、レンの高低感覚を狂わせていく。
 各地の立体都市のなかでも、かなり旧いこの街は、最新の都市に比べれば低層に作られていて、ガーデンのある第四層がもっとも空に近いフィールドになっていた。下の階層と比較して床面積が狭く、中枢部の第一層からも離れているため、居住には適していなかったが、見晴らしのよさや居住者の少なさなどから、行楽施設の多くが第四層に集められていた。
 コートを降りて再び原付を走らせて、プライベート・ガーデンに到着する。イエローサルタンの鮮明な彩りの広がる花壇に囲まれて、その中の一輪にそっと触れてみる。ミーカは、こんなふうに花に触れることさえ、できなくなってしまったのだ、とレンはいまさらながら思い至り、少し悲しくなってしまう。
 しかも、そうなることを自ら選んだのだとしたら?
 せっかく気分転換のためにこの場所を訪れたというのに、再び先ほどのイリスとの会話が思い出されてしまい、レンはかるく首を左右に振ってそんな考えを振り払った。
 こんなふうに思い悩んでいるよりも、直接ミーカに聞いてみればいい。レンとミーカは二人きりになってからは、ずっとお互いの気持ちを率直に伝えあってきたのだし、隠し事はしないと約束している。
 あの事故が偶然であれ、たとえ意図的であったにせよ、ミーカならレンの納得できるかたちで理路整然と説明してくれるかもしれないという期待もあった。そんなことを考えながら、レンは枯れてしまった花を摘んでいった。

   

「レン、今日は遅かったね」
 ソファに座ったまま、読みかけの本を伏せて顔を上げたミーカは、いつもと変わらない優しい笑顔でレンを迎え入れてくれた。
「ごめんね、ちょっと用事があって」と答えたレンに付随している情報のなかに、自分のパーソナル・ナビへのアクセス記録があるのを見つけて、ミーカは眼鏡をはずして、フッと小さく息を吐いた。
「イリスと会ったの?」と問いかけたミーカは、レンの返事を待たずに「彼女、とても面白い人だったでしょ」と質問を重ねた。
「……うん」
 呟くようにそう答えて、レンはしばらく黙り込み、それから意を決して次の言葉を吐き出そうとする。しかし、「ねぇ、ミーカ……」とレンが言いきらないうちに「切断死のこと?」とミーカはその続きを引き取って、いつもどおりのやさしく穏やかな調子で話しはじめた。
「ユニ・パーソナになってfluxに溶け込むことができれば、自由になれるかもしれないって、考えてみたの。fluxはもともとそういう思想から設計されていたし、私もその方針に賛同して改良してきたつもりだったから。
 それに、レンがネットワーク伝送技師を目指してるって知って、きっとそこでなら、あなたに会えるんじゃないかって思った。もし私がレンと同じネットワーク感応体質だったら、もう少し簡単な方法もあったんだけど。残念ながらそうじゃなかった」
 そこでミーカはいちど言葉を止めて自嘲気味に笑う。ミーカがそんなふうに笑うのを、レンは初めて見た気がした。
「二年間、とても窮屈で、居心地が悪かった。何でも好きなことができて、みんなから必要とされて、何も不満はなかったんだけど……。でもね、レン。どんなに自由に振舞って、期待に応えても、あなたに会うことさえできないんだから。
 ネットワーク感応体質者のデータが手に入れば、九分九厘うまくいくってシミュレートしていたから、ためらいはなかったし、あとはタイミングをみつけてうまく誘導すればいいだけだった。ヨモギ・チサトさん……彼女にはすこし迷惑をかけてしまったけれど、もう少ししたら彼女も自由な場所へ解放してあげることができるから」
 どこか遠くのほうを見つめながら、ミーカはそこまで一気に話した。
 それはレンの耳に馴染んでいるはずのミーカの声、アクセント、息継ぎから発せられていて、しかしそれでも「何だか、いつものミーカじゃないみたい」と言わずにはいられないような、違和感をレンに与えていた。
「ごめんね。少し話しすぎちゃった」
 ミーカはソファから立ち上がってキッチンへ向かい、いつものようにレンのほうに背中を向けて紅茶を淹れながら「それでも、レンには何もかもちゃんと話すって約束したから」と独り言のように呟いた。
 ミーカは両手に一つずつカップを持ってダイニングテーブルのほうに向かう。
「どうしたの、レン。立ってないで座って話そうよ」と促されてレンはミーカと向かい合ってダイニングチェアに腰掛けた。
 ミーカはカップに口をつけて紅茶を一口含み、美味しい、と満足そうにつぶやいてから、レンの目を真っ直ぐに見つめて、再び話しはじめる。
「いまはこうしてレンと会えるようになって、私はすごく幸せ。だれど……けっきょく、私はここから出られない。檻のなかに閉じ込められたまま。
 本当はいつでもレンと一緒にいたいし、レンの育てた花を実際に見てみたい。一緒に……宇宙へだって旅してみたい。
 ダメだよね。何もかも、自分の思い通りにしようなんて。しかも、そのことにレンを巻き込もうなんて……。でも、一つ願いが叶ったら、もっと、もっとって願望が膨らんでいって、いつか抑えきれなくなる」
 身じろぎもせず、ミーカに見つめられたままで、レンはただミーカの独白を受け止めていた。いつでも優しくて、何でもできて、誰からも必要とされていた、レンの自慢のお姉ちゃん。そんなミーカがこんなふうに苦しんでいる姿をレンは見たことがなかった。見ているのが辛かった。
 アカデミから選抜を受けて、レンと離れ離れになってしまったときでさえ、ミーカは少しだけ寂しそうな、それでも普段と変わらない様子で「レン、きっと戻ってくるから、少しだけ待っててね」と優しくレンの頭を撫でてくれたのだ。
「ミーカ、出られないの?」
 レンの問いかけに、ミーカは試すような視線を向けたまましばらく黙って思考を巡らせていた。それから一度まばたきをして口を開く。
「私一人の力では。――でも」
「でも?」
「レンと、イリスの……助けがあれば」
 ミーカは念を押すようにゆっくりとそう言った。
 今まで、自分はミーカに助けてもらってばかりいて、しかし、自分がミーカを助けられるようなことなんて何一つないと、レンは思っていた。だから、ミーカが助けてほしいと言ってくれたのに応じることに、何の迷いもなかった。
「わたしにできることなら、何だってするよ」
 ずっと言ってみたかった一言は、生まれて初めて、自分がミーカの役に立てるかもしれないという不思議な解放感をレンにもたらした。レンが笑顔でそう言ったことに、ミーカはどこか申し訳なさそうな控えめな笑顔で応じた。
「ありがとう、レン。紅茶、冷めちゃうよ」

   

 Cata.com内に保管されているデータのうち、もっとも容量の大きなものはミーカをはじめとする完全データ状態のユニ・パーソナだ。そして有機データとして、常に自己生成的に振舞い続けるそれを維持し続けるためには特殊な環境が必要とされる。
 ミーカがありのままの状態でCata.comの外に出て、そこで存在し続けるためには、まずは外部にそうした環境を用意する必要があった。さもなければ、あまりに複雑に連関し合っているミーカというパーソナは、ネットワーク感応的に存在することができない以上、外に出ようとfluxに入り込んだ途端に、細かく分断され、バラバラになって融け出してしまい、二度と元には戻れなくなってしまうだろう。
 ハードによる移動を試みるにせよ、データの持ち運びのための大容量の連結分散更新式の記憶媒体を用意して、それを持ち出してみても、その後にユニ・パーソナを展開できる先がなければ、それこそミーカは箱の中に閉じ込められまま、誰ともコミュニケ―トできない状態になってしまう。
 もちろん、レンにはユニ・パーソナやその維持に関する知識などなかった。そのことに関してはエキスパートである甦術師のイリスの力を借りることになる。
 イリスがミーカに助言を受けながら開発を行っていたというユニ・パーソナの容量圧縮に関する技術について、レンは一通りの説明を受けたが、何一つ理解することができなかった。
 単にデータとして保管しておくだけならば、現在の技術ではかなりの容量を小さなチップ一枚の中に収めることができる。しかし、ユニ・パーソナを構成する有機データの場合、常に情報を泳がせておくための仮想的なスペースが必要であり、さらにデータ同士がどう連関していくのか予測が難しいため、膨大な数の連結索を用意しなければならなかった。
 データとして記憶媒体のなかに閉じ込めておくだけならば、それでもたいした設備は必要ではなかったが、ユニ・パーソナを「生きたデータ」として維持し続けるためには、Cata.comのなかで暮らしているミーカのように、その存在を再現させ続けていなければならなかった。
 そのなかで、生きている人間と変わらない感覚や思考を行いながら、ユニ・パーソナは常に自らを変化させ続けていくのだ。
 生活に使うリビングをつぶすわけにはいかなくて、ひとまずレンはミーカが出ていったときのまま残してあったミーカの部屋を片付けて、そこを特殊サーバーの設置場所に充てることに決めた。
 ベッドや机などの大型の家具は解体してしまい、本棚とそこに納まっていた書物は自分の部屋へと移した。衣類のうち、自分が着られそうなものと、ミーカのお気に入りだった白いワンピースだけを残して処分する。
 けっきょく、訓練校には半期分の学費を納入して休学届を提出してしまった。学費の金額はミーカに対するアカデミからの給付がなくなってしまったレンにとってはかなりの負担だったけれど、ミーカの願いを叶えるため、そしてイリスの助けを借りることができる間に、すべてを済ませてしまう必要があった。
 空っぽになったミーカの部屋は思いのほか広くて、イリスに指示されていた大型のサーバーも十分に設置できそうだった。
 ミーカのユニ・パーソナ専用にデザインされたサーバーの設計図とパーツ・レシピを確認し、一般販売されているものを次々に発注していく。それだけでもレンの学費に迫る勢いでかなりの額を使ってしまうが、さらにこれから地下第三層の電脳市場まで出向いて、マルキ・カンパニー製の業務用パーツやリッカ・プログラムスのサーバー・システムなど、高額な部品を手に入れなければならなかった。
 さすがのイリスも技術的な支援はできるが、金銭面での支援はできない。幸い、これまで浪費せずに貯めてあったミーカの給付金があったため、それを崩せば何とかすべてのパーツをそろえることができそうだった。あとは、サーバーが稼働しはじめたあとの高額な電気料金が問題だったが、レンはパート・タイムの仕事を見つけて、しばらくの間はしのぐつもりでいた。
 暮らしている地下第二層より下へ降りることはめったになくて、地下第三層でスライド・コートを降りたレンは、その慣れない薄暗さに不安を覚える。電脳市場のなかでも非正規ルートで業務用パーツを扱っているような店は怪しいものが多く、海賊版や模造品といった粗悪なものをつかまされるリスクもあると、イリスから脅されていたレンは、教えられた正規品の見分け方を何度も確認して頭の中に叩き込んでおいた。
 油断していると資産管理データを開いた瞬間に、マネーデータを掏り取られてしまう可能性もあるということで、イリスの書いたセキュリティ・プログラムを使って厳重なガードも施してあった。
 しかし、この都市の出身でもないイリスが、どうして電脳市場の様子をそんなに詳しくしているのだろうかと、話を聞いているうちに疑問に思ってレンが訊いてみると「電脳市場」なんてどこの街でも同じようなもの、だということだった。
 それほど脅かされていたため、実際に電脳市場を訪れたレンは、地下第二層で自然産物を中心に取り扱っている天然市とほとんど変わらない雰囲気に拍子抜けしてしまう。非正規に商品を扱っているらしい店も別に裏通りに隠れたりしているわけではなく、堂々と表通りに軒を並べていた。とはいえ、実店舗を構えて営業しているという時点で、そこに並んでいる商品が特殊なものであるということも確かだった。
 イリスに教えられた店で指定のパーツを見つけて、パッケージにプリントされている製造番号のフォントを確認していく。そこでいくつかを選別し、さらに梱包フィルムの閉じ方を見て絞り込んでいく。残ったものを軽く振ってみて、中から音のしない、パーツがしっかり固定されているものを見つけ出す。そんなふうにパーツを選別しているレンの様子を注意深く見守っていた店員は、レンが購入要求のシグナルを送ると、軽く舌打ちをしてレジスター・システムを起動させた。
 そうしてあちこちの店で嫌がられながら買い物を済ませたレンは、両手いっぱいに持ちきれなくなった荷物を、すべてセキュリティ配送サービスに預けて、身軽になって部屋へ戻った。
 地下三層から地下二層までの配送であれば、遅くとも数時間程度で届けられる。レンが部屋に戻って紅茶を飲んでいると、まもなく先ほど買ったパーツが到着した。ネットワーク経由で注文してあった商品はすでにすべて到着してミーカの部屋に運び込んであり、これでサーバー構築のためにイリスから支持されていた部品はすべてそろったことになる。
 紅茶を飲み終えてカップを洗い、これからサーバーを組み立てようと気合を入れて、レンは頭の中に設計図面を展開していく。そして、時代がすすんで技術が進歩しても、昔から変わらない大切な注意点が一つあるのだ、とイリスが言っていたのを思い出す。
 コンピュータのパーツは、静電気にとても弱いのだ。都市の地下階層の空調はある程度一定の状態で管理されていたが、それでも春先の空気は夏場に比べてやや乾燥している。旧世紀の人たちは、パーソナル・マシンを組み立てるときには、必ず裸になって作業をしたらしいよ、と冗談半分にイリスは言っていた。
 そういえば、以前、ミーカが自分のマシンを組み立ててくれた時も薄着になっていたような、とレンは過去の記憶をたどり(それこそナビのなかに記録されているライフ・ログをたどっていけばその日のミーカの服装だって確認できるだろうけれど)、念のため衣服を脱いでいき、どうせ誰も見ていないのだからと裸になってしまう。
 少し肌寒かったが、サーバーの組み立て自体は「簡単なパズルのようなものだから」とイリスは言っていたので、それほど時間はかからないだろうと考えて、レンはそのままミーカの部屋に入り、作業を開始した。

   

 イリスの言っていたとおり、サーバーの組み立ては数十分で完了し、起動テストも無事に終えることができたが、そのあとの冷却システムの敷設に思いのほか時間がかかってしまい、レンがサーバー・システムの完成をイリスに連絡したのは日付が変わる直前になってしまった。
 夢中で作業していたため、食事をとるのも忘れていたレンは、一仕事終えた充実感と無事にシステムが完成した安心感から気が緩み、急にはげしい空腹感を覚えた。作業の疲れから料理をする気にもなれず、ジャムを溶かした紅茶に非常食用のビスケットを浸して食べていると、イリスから「お疲れ様」と返信があった。
 イリスから次の指示を受けるため、レンは食事をやめてネットワークに乗った。相変わらずお互いの姿は見せず、メッセージ・データのみのやり取りを二人は続けている。デジフォトでお互いのイメージを交換することもできたけれど、イリスにその気はないらしかったので、レンのほうからそんな要求をするつもりもなかった。
 どうやらイリスは子どものころのレンの写真をミーカに見せてもらったことがあるらしくて「わたしはレンのこと知ってるからね」と言っていた。いつか、もしもイリスに会うことができたとしたら、レンは直接お礼を言いたいと思っている。ミーカと友だちになってくれたこと。こうしてミーカのために手助けをしてくれること。そして、レンが一人きりで寂しくならないようにメッセージをくれることに。
 しかし、アカデミにいるイリスに、レンが会うことは難しいだろう。だからレンはメッセージのやり取りの最後には必ず「ありがとう、イリス」と感謝の気持ちを添えることにしていた。
 するとイリスは「どういたしまして。それじゃ、レン、またね!」と軽い調子で返してくれる。その軽やかさがどれくらい自分の気持ちを軽くしてくれているのか、おそらくイリスは自覚していないだろうとレンは思う。

「カクリヨ式って知ってる?」
 聞いたことのない言葉にレンが「知らない」と正直に答えると、それは数十年前に開発された、人の意識を別の人間の脳内に移植するための特殊な外科処理のことだとイリスは教えてくれた。
「要は、それをデータ状態でやろうってわけ」
 そう簡単に言って「実際に試したことはないんだけど、たぶん大丈夫だと思うよ」とイリスは続けた。それはイリスが研究していたものの一つで、最初の実験台としてレンとミーカが選ばれたというわけだ。
 それからイリスは計画について話しはじめる。
 まずfluxで再現されるレンのデータのなかに「カクリヨ」と呼ばれるミーカのパーソナを収納するための圧縮スペースを埋め込む。実際の「カクリヨ式」の施術では人間の頭部を切開して物理的に極小のパーツを埋め込むらしいのだが、イリスの考案したデータ状のカクリヨはプログラムを意識に刷り込むだけでいいとのことだった。
 プログラムはそれほど複雑なものではないので、大きな容量を扱うことのできない一般の回線でも十分にやり取りができるらしくて、「何ならレンの寝ている間にこっそりインストールしておくけど」とイリスは冗談めかして言った。
 そうして無事、レンのなかに「カクリヨ」を埋め込んだら、次にその中に、イリスの作ったミーカの擬似パーソナを凍結状態のまま収納する。カクリヨの仕組みでは人格を移植する際には元の人格を排除しなければならず、つまり一つの意識のなかには一つの人格しか収めておくことができないということらしかった。
 もしレンのなかでミーカの意識が目覚めてしまったら、二人の人格がぶつかり合って、お互いが破壊されてしまうかもしれないと脅されて、レンは一瞬、カクリヨのインストールに躊躇いを覚えるが、ひとまずイリスの計画の続きを聞く。
 ミーカの擬似パーソナをカクリヨに収納したレンはCata.comにアクセスして、そこでミーカのユニ・パーソナと擬似・パーソナを入れ替える。このとき、ミーカはレンを媒介として真偽を入れ替えることになるのだが、技術的にはこの過程が今回の計画ではいちばんの難所である、とイリスは言った。
 ネットワーク感応体質であるレンであれば、自分を介して大量のデータがやり取りされたとしても同一性を維持するのは難しくないだろうけれど、Cata.comの管理システムに感知されないようにミーカのデータ量を変化させずに「完全に」入れ替えることが果たして可能なのか、それは「ミーカの専門分野だから」と他人まかせなイリスの発言が、レンを不安にさせる。
 しかも、ミーカは入れ替え作業をこなしながら、自身を凍結していかなければならないのだ、とイリスはその技術的な困難さをさらに煽っていく。実際の変換作業自体は、レンの体感では一瞬か、それほど長い時間ではないだろうけれど、とそれがせめてもの慰めだというようにイリスは付け足した。
 そうして無事に「カクリヨ」に納まったユニークなミーカは、しばらくの間、有機データであることをやめた「仮死状態」になる。そうすればデータの容量も抑えられて、数値上はぎりぎりでカクリヨのなかに納めることができるはずだと、二つのミーカのパーソナの生みの親であるイリスは保証した。
 そのままレンは部屋に戻って、先ほど作った空っぽのサーバーのなかにミーカを開放する。そうすれば、ミーカはレンの部屋で一緒に暮らすことができるようになるよ、と嬉しそうにイリスは言って、でもそれだけじゃ、Cata.comにアクセスして会うのとたいして変わらないけどね、とも言う。
 最後に「そのあとのことも考えてはいるんだけど」と説明を終えて、さらに「ところで、この計画には一つ大きな問題があったんだけど、レン、わかる?」とイリスはいたずらな調子で質問をする。
 しかしそれは、説明を聞いていてレンにも何となく予測がついていた。
「イリスの作ったミーカの擬似パーソナを、どうやって受け取るかってこと?」
「正解!」
 さっすが、ミーカの妹、と嬉しそうなイリスだったが、いったいどうやって問題を解決するつもりなのか、レンにはまったく見当がつかなかった。
「実はね、この計画を考えたのは、わたしじゃなくてミーカなんだ」ということはつまり、カクリヨのプログラムも、ミーカの擬似パーソナも、パーソナを入れ替える方法も、すでにミーカによって完璧に準備されていたということだ。
「サーバーの設計図を描いたのも、ミーカだよ」
「でも……擬似パーソナの受け渡し方法は?」
「ミーカのパーソナル・ナビ、持ってるでしょ?」
「え、はい……あ――」
「そのなかに、偽物のミーカが、いるよ」
 それは限りなくある時点でのユニークなミーカに近いデータではあるけれど、有機的ではなくて、それ以上変化することのないミーカ。
「レンがナビを起動させれば、隠してあった圧縮データが検索可能になるって。パスワードはレンが知ってるって、言ってたけど」
 イリスとのやり取りを続けたまま、レンはミーカのパーソナル・ナビを起動させて、デュアル・アクセス状態で展開していく。検索をかけてみると、ずっと眠ったままだった偽物のミーカはすぐに見つかった。
「レン、これ、カクリヨ」
 そういって送られてきたプログラムをレンが受け取ると、「一つだけ、あんまり長くカクリヨのなかに他人を入れておくと危ないから、実行するなら、カキュウテキスミヤカニ、だからね」そう念を押して「それじゃ、頑張って!」とイリスは回線を切ってしまった。

   

 自分のなかに誰かを宿したままでfluxに在るということは、思っていた以上にはげしい違和感をレンにもたらした。身体――いや、データと言ったほうがいいのだろうか。重力が倍になったような、誰かに足元を引っ張られているような、だるさを感じながら、レンは通い慣れたCata.comへのルートを流れていく。
 いつものように本を読んでいたミーカは、苦しげな様子のレンを一目見て、今日が計画の実行される日だということを悟り、読みかけていた本を名残惜しそうに閉じて、テーブルの上に置いた。
「事前に教えてくれれば、少し準備をしておいたのに」
 今にも倒れそうな様子でふらついていたレンを抱きとめて支えながら、ミーカは妹の短くて柔らかい髪をそっと撫でる。
「イリスに感謝しなくちゃね」
「うん」
「私たちのために、いろいろ手伝ってくれた」
「うん」
 そんな短い返事をするのが、いまのレンには精いっぱいだった。
「レンも……私のためにいっぱい頑張ってくれた」
 支えていたレンをソファに寝かせて、ミーカはその手をやさしく握る。
「ありがとう、レン」
「ミーカが、よろこんでくれるなら……わたし……」
「疲れたよね。ねぇ、レン、fluxのなかで、眠ったことある?」
 横になったまま、ソファに顔をこすりつけるようにレンは首を左右に振る。
「私、毎日ここで眠ってるんだよ」
 薄く目を開けたまま、レンはゆっくりと部屋を眺めまわす。レンの暮らしている部屋とほとんど何も変わらない、データのなかのミーカの部屋。
「少し眠ろうか、レン。その間に、全部終わっちゃうから、ね」
「うん」
「おやすみ、レン」
「おやすみ、ミーカ……」
 目をつぶったレンは、握られている手に力が込められるのを感じた。

 

  この絶えまないけだるさはさらにつのり、
  魂はある日生を楽しむ人びとの
  薔薇色の道を その肉体をひきずって
  ゆくことを拒むだろう…… 

  あなたの傍を力強く掘りかえす音がきこえ、
  眠りについた女がその静まりかえった街を訪れるのが感じられるだろう。
  すっぽりとわたしはくるまれるのを待つ……
  それから 二人して永遠に語りあうのだ。

  そのときこそ あなたは知る、墓穴の
  深さにくらべ あなたの肉体が若々しいわけを、
  苦悩なく 眠るために降りてゆかねばならなかったわけを。 

  星運の闇の領域に光がさして、
  あなたは知る ふたりの絆に宿命があり
  おおいなる誓いは破れて、あなたは死なねばならなかった と……
                 (ミストラル「死のソネット」II)

 

 目を覚ますと、いつものようにミーカはソファに腰掛けて本を読んでいた。まだレンが目を覚ましたことには気がついていないようだった。ときどき、テーブルの上のティーカップに手を伸ばして、一口、ダージリンティーを口に含む。
 まるで正確な機械のようなその動作を、レンはしばらく見つめていた。
「おはよう、レン」といって笑ったミーカの、完璧に再現されたやさしい笑顔。でもこれは偽物のミーカだ。それがレンにははっきりとわかった。
「疲れてたんだね。ずっと眠ってた」
「もう、大丈夫、だよ」
 まだ身体は重たくて、ひどい頭痛がするのをこらえて、レンはゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ、帰るね」と言ってふらつく足取りで出ていこうとしたレンの背中に「もう少し休んでいったら?」と心配そうに声をかけたミーカに、レンは気持ちを奮い立たせるように背筋をまっすぐに伸ばして振り返り「大丈夫、まだやらなくちゃいけないことが、あるから」と言って、それから入口のドアに手をかけた。
「そっか、頑張ってね」いつもの落ち着いたやわらかいミーカの声が、そのときは何故か部屋全体に響いたような気がして、レンは再び振り向いてこちらを真っ直ぐに見つめている偽物のミーカの、ミーカにそっくりな顔を見つめる。
「レン、また、遊びに来てね」偽物のミーカの、擬似パーソナとして精いっぱいの感情をこめた呼びかけに、レンは全身のだるさを振り払うように精いっぱいの笑顔を作って「うん、きっと、また」と約束した。

 ミーカのユニ・パーソナを抱えたまま、星空を背景に設定したfluxのなかを泳いでいると、まるで子どもの頃の約束が叶ったような、二人で宇宙を旅しているような気分になると、レンは思った。
 相変わらず、身体は重く苦しかったけれど、それでもレンは幸せな気分に包まれていた。これから部屋に戻れば、また昔みたいにミーカと二人で暮らすことができるのだと思うと、思わず笑いだしてしまいそうだった。
 子どものころ見上げた宇宙の先には、まだ誰も知らない不思議なものがたくさんあるのだと、ミーカは教えてくれた。でも、いま泳いでいる宇宙の先には、二人がとてもよく知っている場所が、待っている。そこには不思議なものなんて何もないかもしれないし、これから先、驚くような出来事も、起こらないかもしれない。それでも二人で一緒にいられれば、それだけで十分だと、レンは思う。
 きっと、眠っているミーカも同じ気持ちだろうとレンは想像する。いま、レンは一刻も早くミーカに会いたかった。

   

 生まれて初めて体験したflux酔いのひどさに、レンは今にも意識を失いそうだった。それでも何とか身体を引きずるように、這ってミーカの部屋に入りサーバーの電源を入れると、静かな起動音を立てて、その大きな黒い箱状のマシンは動き出した。連動して作動した冷却装置が、疲れ切ったレンの身体を心地よく冷やしていく。
 カクリヨからサーバーへとミーカを転送し、解凍を実行させる。ミーカの部屋でしばらく眠ってしまったとはいえ、ミーカが仮死状態に入ってからまだそれほど時間は立っていないはずだった。それであれば、失われてしまったミーカの有機的情報は最小限で済むだろう。
 ミーカのユニ・パーソナを構成しているすべてのデータが解放されて、サーバーのなかを漂っている。カクリヨが空になって、すこしだけ楽になったレンは、ミーカの存在を確認するようにサーバーの様子を覗きこむ。
 しかし、そこにミーカの姿は立ち現われてこない。いくら待ってみても、そこに浮かんでいるのは「0」と「1」、「明」と「滅」によって構成されたディジタルなミーカの情報だけだった。
 ミーカの情報を完全に内包してもなお、サーバーの容量に余裕があることを確認して、レンは自ら構築したサーバーのなかへと入ってみることを決意した。すべてイリスに指示された通り、ミーカの設計通りに組み上げたはずの環境。そのなかには、風に吹かれた砂粒のように、バラバラになっているミーカの情報が漂っていた。
 データ同士の連関はかろうじて保たれている様子だったが、そのつながりが有機的に作用し合っているようには見えず、そのことは未だにミーカが仮死状態にあることを物語っていた。
 純粋なミーカの眠りのなかにいると、まるで自分が静かな自然のなかに存在している、不自然な異物であるかのように感じられてしまい、レンはサーバーとの接続を解除して現実のミーカの部屋へと戻った。
 基本的に、ユビック・キューブを使ってネットワークにアクセスしているイリスは、その居場所が特定できないため、こちらからコンタクトを取ることができない。それでもレンは、できることなら今すぐにでもイリスとメッセージのやり取りをしたかった。
 とても疲れていて、思考も乱れているが、刻一刻とミーカの有機的情報が欠けていっていると思うと、じっとなどしていられなかった。
 すると、どこかでレンの様子をうかがっていたかのように、イリスから通信要求があった。要求を受け入れたレンに対して「お疲れ様」とイリスはねぎらいの言葉をかけて、「うまく、いかなかった……のかな?」と不安そうに言った。
「わからない」
 レンは壁に背をもたせかけるようにして座り、目の前で小さな作動音を立てているサーバーを見つめながら、そう呟く。
「やっぱり、ちゃんとした形を与えてあげないと、ダメなのかもしれない」
 そんなイリスの言葉に「ちゃんとした、形って?」とレンは質問を返す。
「いま、レンが感じているような、身体」
「よくわかったね。私が半分しかインしてないって」
「わかるよ。だって、いつもより軽いもん」
 そうか、そうだね。半分しかなければ何だっていつもより軽くなるよね。そう納得してレンは再びミーカの「形」についての話題に戻る。
「特殊医療目的で使われる、生体出力機って聞いたことある?」
「クローンとかいうやつ?」
「まぁ、結果だけみれば、似たようなものかな」
 それは欠損した身体や臓器の一部を、組成物質と構成データを与えることによって再現することができる出力機で、使用には免許や特別な許諾証が必要とされるなど、きびしい制限がかけられている。
 もちろん、それを使って人間一人をそのまま出力するようなことは禁止されている。しかし、過去には非公式にそうした実験も行われたという噂もあり、アカデミでは動物のデータを用いた実験での成功例もあるのだと、イリスは教えてくれた。
「もしも、人間一人をそのまま出力するつもりなら、それに使うデータは当然、完全データでなくちゃいけない。
 だけど、そもそも完全データとして保管される人自体が少ないし、そんな希少なデータを結果のわからない実験に使用するのはあまりにもリスクが大きすぎるっていうんで、実際に試されたことはないんじゃないかって言われてる。
 生きている人間のデータをリアルタイムでモニタリングして行われた実験では、データの転送が半永久的に行われてしまうため、出力すべき範囲が特定できず再現は不可能という結果だったみたい」
「ミーカを使って、そんな実験をしろっていうの?」
「おすすめはしない、かな。でもうまくいけばミーカは具現化した完全データとして身体を更新し続けることで半永久的に生きられるようになる、かも?」
「そんなこと、とてもじゃないけど、信じられない」
「うん。それなら、このままミーカをここで眠らせておけばいいよ。それだって、ミーカと一緒にいることに、変わりはないんだから」
 どこか挑発するような調子でイリスはそう告げた。その言葉にいら立ちを隠さず、レンも口調を強めて「イリス、どうして出力機の話をしたの?」と問いかける。
「えーと、それは……ミーカに話せって、言われてたから。あ、ちなみにそのことは話すなって、言われてたんだけど」
 イリスに、そしてミーカに完全に踊らされていると知りながら、しかしレンにはその無謀な試みの可能性を退けることはできなかった。このままミーカをサーバーのなかに匿っていたとして、それがいつまで持続できるのか定かではない。かといって、もう一度、ミーカ―を連れてCata.comに戻り、本物と偽物を入れ替えようとしてみても、それが上手くいくという保障もない。
 けっきょく、ミーカ―の考え通りに動くしか、なかった。ここまでそうして進めてきたのだし、いちおうそれでうまくやれていた、はずなのだ。
「地下四層の工房に、一般出力機に偽装された医療用の生体出力機があるんだって」と、すでにイリスはミーカに指示されたとおりに話していることを隠すつもりもない様子だった。
 ミーカの試算によると、出力のための費用は、ミーカが積み立てていた給付の残りとレンの給付を合わせれば、ぎりぎり足りるはずだということらしかった。つまりミーカは、自分を蘇生するために全財産を賭けるつもりがあるのかと、レンを試しているのだ。
 これまで一度だって、ミーカがレンのことをそんなふうに試すことなんて、なかった。それは裏を返せば、ミーカがどれくらい本気でレンに会いたかったのか、ということを物語っている。自分は命を賭けてでも、レンに会いたかったのだ、と。
 そうであれば、レンだってミーカの挑戦を受けるしかなかった。それがミーカを信じるということでもあるのだから。

   

 使用料さえちゃんと払ってもらえるのなら、その用途は問わない。
 そんな工房のスタンスにも助けられて、レンは生体出力機を自由に使う権利を与えられて、衝撃吸収用のケースに入れて持ってきたミーカを入れた連結分散式の大容量記憶媒体を鞄のなかから取り出した。部屋のサーバーからデータを移し替えた際に、その容量が思いのほか小さかったことにレンは驚いたが、完全データとはいえ静止状態であればこの程度に収まってしまうのかもしれないとも思う。
 約五十キログラム分となるミーカの組成リストを見ながら必要な成分がそろっていることを確認していく。データと同じようにそのリストに示されている成分が思いのほか少ないことにも驚きながら、レンは確認を終えて記憶媒体の端子を出力機に接続する。あとは起動スイッチを押して、データが読み込まれて、ミーカが出力されるのを待つだけだった。
 工房のほかのブースには一般的な工業用の大型出力機も数台用意されており、そこでは何かの機械の部品のようなものが作り出されていた。これから、そんな機械や工業製品と同じように、ミーカが出力機のなかで作り出されていくのかと想像すると、レンは生理的な嫌悪感を覚えてしまう。
 生体用の出力機では、完璧な衛生環境が必要であり、またその出力過程に多少グロテスクな状態が含まれるため、作業自体は特殊な密閉式のカプセルを用いてすすめられる。その過程をモニタリングすることもできたが、とてもではないが耐えられそうにもなかったため、レンはモニタをオフにして、作業が終わるのを待つことにした。
 移動スイッチを押すと、巨大な出力機は低いうなり声をあげながら振動し始めた。厖大な量のデータを読み込み終えた出力機は、ミーカが完成するまでの時間をおおよそ一時間四十分と見積もった。ミーカの人型が作り出されていく、その振動を傍で感じながらレンは作業が終わるのをひたすら待つ。
 組成に必要な成分が綿密な出力計画に基づいて配置されていく。そしてカプセルの中で何かが行われている気配が感じられる。ときどき出力用のボトルが入れ替えられる以外に、特別な動きもなく、作業は淡々と続いていく。
 メーターで示されている工程の進行状況が八割を超えたあたりから、レンは中の様子が気になりはじめ、意を決してモニタの電源を入れてみると、ミーカの顔がアップで映しだされ、目が合ってしまう。魂のこもっていないガラス玉のようなその瞳に、不安がよぎる。
 もうほとんど全身が出来上がっていて、すでに作業は最終工程に入っているようだった。頭部に細い糸のようなものが数本接続されていて、おそらくそこから人格データが送られているのだろうと、レンは考えた。
 カプセルの内部カメラを動かしながら、出力されたミーカの身体を眺めていく。一糸まとわぬ姿のミーカを、こんなふうにまじまじと見ることは、レンにとってとても奇妙な体験だった。
 モニタを顔の位置に戻して、再びミーカの表情を確認してみると、口元が何かを呟いているかのように絶え間なく小さく動いている。そして、ガラス玉だった目がまばたきをして、その瞳にぼんやりとした光が宿る。
 思わずレンは「ミーカ」と呼びかけてしまうが、カプセルのなかのミーカはその声に応えてはくれず、ただ何かを呪文のように唱え続けている。
 工程が九割を超えて、まもなく作業が完了すると思われた。レンがモニタを切ってカプセルから離れ、落ち着かない気持ちでブースのなかを歩き回っていると、とつぜん、ガタッという大きな音がして、一瞬、出力機の動作が完全に停止した。
 レンは驚いてカプセルをじっと見つめる。刹那の沈黙の後、出力機からアラートを示す警報音が鳴り響いた。レンは慌ててモニタをオンにしてミーカの様子を確認しようとしたが、画面には緊急停止を告げるエラーメッセージが表示されるだけだった。
 警報を聞きつけた工房のスタッフが、慌ただしく入口のドアをノックしたあと、レンの返事を待たずにブースに駆け込んでくる。出力機と記憶媒体の接続が強制解除されて、それから手動でミーカの入っているカプセルが開かれた。
 カプセルのなかの裸のミーカが機械仕掛けの人形のようなぎこちない動きで、レンのほうに顔を向けて、不気味な笑みを浮かべた。その表情にレンの背筋には悪寒が走る。すでに身体は完成しており、外見的には本物のミーカと何の違いもないように見えた。しかし、その動作は明らかに普通の人間とは違っていて、泥濘のように緩慢で重たかった。
 ミーカはレンを見据えたまま、一歩踏み出して近づこうとする。レンは、その距離が縮まることにおびえて後退りしてしまい、自分の無意識の行動に戸惑った。本当は自分のほうから近づいて行ってミーカを抱きしめるつもりだったのに、いま自分は甦ったミーカの存在に、怯えている。
 焦点の定まらない、ぼんやりとした表情でゆっくりと近づいてくるミーカは、かつて大好きだったかけがえのない姉ではなくて、この世界からレンを引きずり下ろそうとする、死の使いのように思えた。
 ミーカが歩みを進めるにつれて、まだ頭部に付いたままになっていた糸のようなケーブルが、一本ずつ抜けていく。その最後の一本が抜け落ちて、ついにミーカがカプセルから完全に独立したとたん、ミーカは崩れ落ちるように膝を折って、その場にへたり込んでしまった。
 それまで様子を伺っていたスタッフは、ミーカの動きが完全に停止したのを確認すると、ゆっくりとミーカのほうへ近づいていく。その背中を追い越すように駆け出したレンは、糸の切れた操り人形のように床にへたり込んでいるミーカを支えようと、そっと手を伸ばした。指先にまだ固着していない何かの成分が付着して、さらさらと砂粒のように落ちていく。
「離れて、見ないほうがいい」
 スタッフは、後ろからそっとレンの肩に手を添えて、ミーカから引き離そうとしたが、完全な結びつきを終える前に工程から切り離されてしまったミーカの不完全な結合は、すでに少しずつほころびはじめていた。
 レンの手のなかに抱かれているミーカの身体の温かさは、人間の体温ではなくて、出力されたばかりの物体に残った機械の動作熱の残滓だった。
 ほどけ、崩れるようにミーカは瓦解していき、きれいに見えた肌はひび割れていった。眼球は明後日の方向を向いて、だらしなく崩れた口元から透明な液体が漏れ出していく。ミーカの表面のあちこちに赤い染みが浮かび上がり、ひび割れた隙間から粘ついた赤い液体があふれ出してくる。
 身体の結合が緩んでいくせいで、ミーカの身体は膨張するように少しずつ膨らんでいった。どんどん大きくなっていくミーカの身体は、その内圧に耐え切れなくなって、シャボン玉が割れるように、そっと弾けて、崩れていった。飛び散った赤い液体と湿ったタンパク質の欠片がレンの身体を濡らし、レンはそのまま意識を失ってしまう。

   

 病院のベッドで目を覚ましたレンは、そのまま数日間入院し、その間に数回のカウンセリングを受けた。突発的な精神錯乱という理由で入院させられていたレンだったが、カウンセリングの診断結果はとくに異常は見られないというものだった。
 それほど頻繁にではないが、あの工房ではときどきレンのやろうとしたことに類似した行為を試みる客もいるらしくて、スタッフの慣れた対応によって、レンの行為が問題視されることはなく、ミーカのデータが入った記憶媒体もすでに返却されていた。
 部屋に戻り、すぐにミーカをサーバーに戻そうとしてみたが、出力機のエラーの影響か、接続を強制解除したせいなのか、記憶媒体のなかのミーカのデータは破損しており、サーバーのなかに戻ってきたのは、すべての結合を失いバラバラになり、さらにいくつものピースを失って、欠陥品のパズルになってしまったミーカの残骸だった。
 アカデミから抜け出すため、自らの意思で接続死を選んだミーカ。そして周到な準備によってCata.comからも解放されて、二年前、別れ際に約束したとおり、再びレンの傍に戻ってこようとしたミーカは、ユニークなデータの破損によって、今度こそ完全にレンの前から消えてしまったのだ。
 それでもまだ、Cata.comにはミーカの擬似パーソナが残されていた。落ち着かない入院生活を終えて部屋に戻り、一人きりになったレンは、ミーカを失った孤独に耐えられなくなって、すがるような気持ちで数日ぶりにfluxに入り、Cata.comにアクセスしてみる。
 見慣れた部屋でレンを待っていたミーカが「おかえりなさい、レン」と言って迎えてくれる。しかしレンの口からは「ただいま、ミーカ」という一言は出てこなかった。これまではいつだって自然に出てきたはずのその言葉は、いまとても不自然なもののように思えたから。いま目の前にあるのは懐かしさでも、安心感でも、愛しさでもなくて、ただ空虚な絶望だった。
「あなたは、ミーカじゃない」
 そんなレンの一言に、ミーカは悲しそうな、困ったような笑顔を浮かべた。
「レン、どうかしたの? 何かあったら何でも話そうって約束だよ」
 その言葉には応えずに、レンはミーカの部屋を去った。今後こそ、二度と、この場所を訪れることはないだろうと、思った。

 レンが部屋に戻ると、思っていたとおり、すぐにイリスから連絡があった。
「ミーカに会いに行ってたの?」
「違うよ。ミーカはもういないんだって、確かめに行っただけ」
「そう。もう諦めはついた、ってわけ?」
 すぐに答えられず、レンが黙っていると「まだ何か、方法があるって、思ってる?」とイリスは質問を重ねていく。
「ところで、ね。レン」いつもと変わらない飄々としたイリスの調子がレンのいら立ちを募らせる。
「わたしがいつもどうやってレンと連絡を取っているかって、考えたこと、ある?」
 それは、ミーカの作ったユビック・キューブで、アカデミからこっそりと……。レンが聞いたままの思考を巡らせているとイリスは小さく笑い「実はわたし、いま虹龍にいるんだよね」と打ち明けた。
「いま、っていうか、ずっとここにいるんだけど」だから、別にアカデミのこと気にする必要なんてこれっぽっちもなかったんだよね、と笑いながら「ね、これから会おうよ――fluxで」とイリスはレンを誘った。
 虹龍の通信にはfluxも利用されていて、もしイリスが虹龍のシステムを自由に使えるのだとすれば、fluxを使ってレンと会うことも難しくはないはずで、それなのに何故いままでそれを使わなかったのか。そんな疑問はイリスとfluxで会うことによってあっさりと解消してしまった。
「……ヨモギ・チサト?」
 レンの前に姿を現したイリスは、ニュースのデジフォトで何度か見たことがあり、またレンの記憶の中に残っていた、一緒に訓練を受けたときのヨモギ・チサトのものだった。
「これはね、身体のイメージを借りてるの。本当の彼女はいまはfluxのどこかで眠ってる。こうして活動に必要な機能だけを私に預けて、ね」
「カクリヨ……?」
「うん。いまのところfluxは十分に広いし余裕もあるからね。データの仮置き場としては最適ってわけ」
「でも、流れのなかでほかのデータに紛れてしまったら、見つけ出すのは……」
「うん。だから〈どこかで〉って言ったでしょ」
 たとえヨモギ・チサトがレンと同じようにネットワーク感応体質だったとしても、意識だけの状態にされて、しかも眠ったまま、fluxのなかに放り出されてしまったとしたら、それはもうほとんど存在していないのと同じではないだろうか、とレンは思う。おそらく、二度と見つけることはできないし、果たしていつまで単一の状態を保っていられるのかさえ定かではない。
「もしも、ミーカのデータの一部がこのfluxのなかに残ってるって言ったら、レンは信じられる?」
 イリスの言葉に、ほんの少し心が動くのを感じながらも、レンはそんな感情の揺らぎを抑えて「たとえ、そうだったとしても、きっともうバラバラになってる」だって、ミーカはネットワーク感応体質ではないのだから、と返す。
「そっか。そうだね、そうかもしれない」とヨモギ・チサトの姿をしたイリスは、納得したように肯いてから「レンはあまり興味がないかもしれないけれど」と前置きして「今年の夏、わたしのいる虹龍が本格的に稼働されることになってるんだ」と話題を変える。
 そのことは、レンもニュースで知っていたし、必ずしも関心のない出来事というわけでもなかった。
「八月の、盂蘭盆会まで待ってて」
「う……うら?」
「そうしたら、もう一度、ミーカに会わせてあげる」
 そのとき、どうするかはレン自身が決めるんだよ。そう言い残してイリスはその姿をかき消すようにfluxのなかに溶けて、消えてしまった。

   

 盂蘭盆会――それは、亡くなった人たちのことを偲び、供養するための宗教行事の一つで、かつてはこの国でも盛んに行われていたらしい。行われる時期については諸説あるようだったが、イリスが虹龍と盂蘭盆会を結びつけていたことから、レンは虹龍の稼働予定日である八月の半ば頃が、イリスの示した時期なのだと考えていた。
 現在でも、Cata.comをはじめとする埋葬用サーバーに保管されているデータを、夏のある時期に一斉に解放するという風習があるが、それが盂蘭盆会が変形したものであったということを、レンは初めて知った。
 ただし、ミーカのような完全データについては、基本的にCata.comのサーバーの外ではその状態を維持できないため、そもそも解放の対象にはならない。祖父母の時代にはまだデータ葬が一般的ではなかったし、父親のデータは完全に失われていて、母親の擬似パーソナはレンのパーソナル・マシンのなかに収められるくらい小さなものだ。
 だから、イリスの話さえなければ、盂蘭盆会とその風習の名残は、レンにはほとんど関係のない行事のはずだった。
 まだ八月になるまで少し時間があって、その日までレンにはやることもない。
 ネットワーク伝送技師には、高い身体的・精神的安定性が求められる。レンが入院してカウンセリングを受けたことは訓練校にも報告され、その結果、Aクラスへの進級資格が取消されてしまい、ここ数日、レンは今後の身の振り方についてぼんやりと考えていた。
 もっとも、ミーカがいなくなってしまった今となっては、ネットワーク伝送技師にこだわる必要もなくなってしまったため、レンは資格の喪失についてはそれほど失望もしていなかった。
 退校手続きをして、数枚の書類にサインをすれば、今後、コンシューマとして生きていくこともできるはずで、そのことを受け入れるのなら、別に悲観することなど何もない。
 現在、すでにミーカの給付が停止されて、自分一人分の給付だけで生活しなければならなくなったレンにとって、今後どうするか決断するためのタイムリミットは、それほど残されていなかった。訓練校に残れば、奨学給付を受け取ることができるが、いまさらネットワーク伝送技師以外のコースに転籍する気も起こらない。かといって、この先ずっと自分がコンシューマとして暮らしてことができるのか、不安もあった。
 朝起きてから、そんなことばかりを一日中考えて、夕方、タイマーが鳴ったら原付に乗って花の世話をしに出かけていく。そんな生活を、レンは続けていた。
 そんなささやかなレンの生活のなかで、大きな負担になっているのはミーカのために稼働させ続けているサーバーの維持費だった。もうすでに、中のデータは壊れていてミーカはそこにはいないのだと理解はしていたが、どうしても自らの手で電源を切るという決断ができずにいた。
 この原付もいずれは手放さなければならないかもしれない。そんなことを思いながら、レンは慣れた乗り心地の愛車を走らせていく。
 イエローサルタンの開花時期をすぎて、現在プライベート・ガーデンでは、計画どおりに黄色いオキザリスを育てている。見事に咲いた花を眺めながら、その花言葉を思い浮かべて、レンは苦笑する

――けっしてあなたを捨てません

 レンに花言葉を教えてくれたミーカはもういないので、それはレンが初めて自分で調べて知ったものだった。
 コンシューマになることを選べば、この庭も、原付も手放さずに済むし、ミーカのサーバーもあのまま維持し続けることができるかもしれない。もうほかにやりたいこともないのだし、残されたミーカのデータの欠片たちを捨てずに済むのなら、それも悪くない。
 イリスの告げた盂蘭盆会の日。それまで待って、決断しよう。その日、本当にミーカに会えるのかどうか、過大な期待はしていなかったけれど、イリスと、ミーカが仕組んだことならば、最後にもう一つ、大きな仕掛けが残されていても不思議ではないとも、レンは思った。

   

 八月十四日、午後――十九時ちょうどに一斉に解放された埋葬サーバーから、多くのデータたちが親族のもとへと流れ出していく。様々な回線を駆使して分散されたデータたちは迷うことなく目的の場所へと届けられていき、fluxもいつにも増して過密な状態になっている。
 イリスからメッセージで待ち合わせ場所を指定されていたレンは、あの日以来、数か月ぶりにfluxにアクセスして、その感覚を懐かしんでいた。
 イリスのいるらしい虹龍の稼働開始も現地時間の十五日の正午と約半日後に迫っているため、忙しいのではないかと他人事ながら心配になるが、そんなことを気にしているそぶりも見せず、いつも通りの飄々とした様子で、ヨモギ・チサトの姿をしたイリスはレンの前に現れた。
「レン、久しぶり!」
 ほとんど一度しか顔を合わせたことのない、しかも行方不明のはずのかつての同級生にいきなり抱きつかれて、その中身がイリスだと理解しつつも、レンは何となく気まずさを覚えてしまう。
 もともと、再会を喜び合うつもりなどレンにはなくて、単にイリスの言葉の答えを確かめに来ただけのつもりだった。イリスの肩を軽く押して引き離し、レンは単刀直入に「ミーカは?」と訊ねる。
 しかし、イリスはその質問には直接答えずに「レンは、Cata.comでミーカと会っていたとき、それが完全データだって、信じられた?」と逆に質問をしてくる。
 並んで浮かぶ二人を避けるように、いつもより騒がしいfluxのなかを無数のデータが飛び交っていく。
「たとえばもともとどこかが欠けていて、それを擬似的なもので補っていたとして、レンはちゃんとそれに気がつくことができると思う?」
「どういうこと?」
「いつか、一緒に宇宙を旅しようねって約束、レンは覚えてる?」
 もちろんレンは覚えている。むしろそのことを忘れかけていたのはミーカのほうだったじゃないか、とCata.comで再会した時のやり取りをレンは思い浮かべた。
「私はね、レン。そのことを一瞬たりとも忘れたこと、なかったよ」と、まるでイリスはミーカ本人のような口調で、そう言った。
「そのためにどうすればいいかって、ずっと……考えてた」
ヨモギ・チサトの姿をしたイリスは、ミーカとして言葉をつづけていく。
「そして、時限式で有機データのように振る舞うことのできるプログラムを開発したときに、これだって思った。アカデミから抜け出してレンに会うためには、余計な部分は全部捨てていかなくちゃいけないんだって。
 虹龍のサーバーのなかに、誰にも気づかれずにイリスを隠すのは、いたずらしているみたいで、すこし楽しかったよ」
 そう言って笑うヨモギ・チサトの笑い方はミーカにそっくりだった。そのままヨモギ・チサトは右手を自分の胸元に当てて「この子には、本当に感謝してる。カクリヨを受け入れてくれて、私とイリスにfluxで動き回るための身体データを貸してくれて、いくら御礼を言っても、足りないくらい」と呟く。
「でも、ようやく今日、その御礼ができる。お兄さんとずっと一緒にいさせてあげることが、できるから」
 レンのfluxに設定されている銀河を模した背景データを見上げるように眺めまわしながら、そこを流れていくデータのうねりを愛しそうに見送って「これから、みんなで一緒に宇宙の果てまで飛んでいくんだよ、レン」と、ミーカは言った。
 そして「一緒に行こう」とレンに向かって手を差し伸べる。
 ヨモギ・チサトのなかのカクリヨが開かれて、そこからミーカによってプログラムされたイリスのデータが漏出していく。
「お疲れ様、イリス。あと少しだけ、よろしくね」
 そう言ってミーカは虹龍へと戻っていくイリスを見送り、空っぽになったカクリヨをレンのために開けて待っている。
 レンには、いまのミーカの状態がいったいどんなものなのか、よくわからない。しかし、データの一部がレンの作ったサーバーのなかにある以上、すでにミーカは完全データではなくなっていて、ネットワーク感応体質であるヨモギ・チサトという入れ物のなかでかろうじて人格データの一部を保っているにすぎないはずだった。
 いくらミーカの思考が人並み外れているからといって、そんな状態で複雑なコミュニケーションを続けることは難しいはずだと、レンは思った。おそらく、いまのミーカは生前のミーカが想定していた、いくつかのパターンに従って行動しているのだろう。
 そうだとすれば、恐らくこの状況でレンがどんな答えを出すのか、ミーカのなかにはあらかじめ決められた答えがあったはずだ。
「レン、難しいこと、考えてるね」とミーカは笑い「そういうとき、いつもレンは眉間にしわを寄せてるの」と言ってレンの頬をそっと撫でた。
「ミーカ、私……」
 遠くのほうで、水やりの時間を知らせるアラームの音が聞こえたような気がして、レンは振り返る。そこにはfluxの星空が広がっている。
「そろそろ、花に水をやりにいかないと」
 単調な日常のルーティンが、急速にレンの心を現実へと引き戻していく。ミーカと一緒にいたときも、ミーカがいなくなってからも、毎日変わらず続けられていた、レンにとってたった一つの、ほんのささやかな日課。
「そんなプロトコルから解放されて、自由な波になって一緒に遠くまで飛ぼうよ、レン」

――ああ、そうか。ミーカは、私の生活をプロトコルと、呼ぶんだね。

「ねぇ、ミーカ。私、ミーカみたいに本を読むようになったんだ。それでね、ミーカの本棚には、まだ読んでいない詩集が、たくさん、あるんだよ」

   

 レンはfluxを抜けて、一人きりの部屋に戻った。日付が変わり、すでに八月十五日になっている。虹龍のある場所と、レンの暮らす都市の時差は約六時間で、まだ稼働までには四時間ほど残されていた。
 虹龍の稼働に合わせて、世界各地でそれを記念したささやかな催しが企画されていて、たしか丘の上にある電波塔でも、特別な光のショーが行われるはずだった。
 いまから出発すれば十分間に合うだろう。
 本棚から一冊詩集を取って、原付のキーを片手にレンは部屋を出る。スライド・コートで第一階層まで上がり、ゲートを通過して街を抜け出す。夏とはいえ、真夜中の空気はまだ少し肌寒くて、レンはジャケットを忘れてきたことを後悔したけれど、取りに戻る気にはなれなかった。
 しばらく走っていると、人工雨の通過をしらせる警報が鳴り、レンの前方に大きな雨雲が形成されていくのが見えた。それでもレンは原付を停めず、静かに降りしきる雨のなかを突き進んでいった。濡れたシャツが身体に貼りついて重たくなっていく。この感覚、何となくfluxのなかにいるときと似ているな、とレンは思う。
 おそらく、レンと同じ目的なのだろう。数台の自走行車が、レンの原付を追い越して丘のほうへと向かっていく。別に、誰かに見とがめられても構わない、と思い、レンはヘルメットを外してしまい、思いっきり人工の雨を浴びながら、ゆるやかなカーブをのぼっていった。
 雨で滑らないように、いつもより速度を落としながら、約二時間ほどの道のりを走りきって、ようやくレンは丘の上の電波塔広場にたどり着いた。そこにはすでに多くの人が集まっていて、自走行車のなかで雨が止むのを待っていた。
 雨宿りできそうな場所もなくて、レンは降られるに任せてそのまま雨に濡れていた。しばらくすると電波塔の周りに集まっていた微細な光の粒子が色づきはじめて、いつもの金曜日の夜に見られるような光の輪が、幾重にも塔の周りに形成されていった。
 電波塔がショーの準備を開始すると、雨に濡れるのも構わずに、人々は自走行車のなかから出てきて、塔を見上げるようにその周囲を取り囲んでいった。
 いつもは上空の高速伝送ハブに送られるはずのデータたちは、塔の天辺で停止して集められていく。渋滞するように先端で重なった輪は、次第にドーナツのように厚みを帯びていき、やがて塔全体をすっぽりと包みこんでしまった。それでも塔の周囲には次々にデータたちが集まってきて、大きく膨れ上がっていく。
 伝送ハブが故障でもしたのだろうかと、レンは上空を見上げてみる。すると周囲から人々のざわめきが聞こえてくる。パーソナル・ナビに緊急速報が入り、虹龍が管制システムのコントロールを離れて、暴走をはじめたという情報がもたらされた。そしていま目の前で起こっているデータの滞留現象が、各地の電波塔で発生しているらしい。
 しかし、その滞留もやがて終わりを迎え、集まったデータは伝送ハブを貫くように勢いよく一直線に伸びていって、そこで網目のように分散することなく、そのまま一つの束となって西の空へと飛び去って行った。勢いよく放たれたデータの残滓が、粉雪のような光となって、塔の広場一面に広がって、再びゆっくりと塔の周囲に集まって、小さな光の輪を作っていった。
 それが意図されていた光のショーだったのか、何かのトラブルだったのかもわからないまま、歓声が上がり、いつの間にか人工雨の去っていた朝の空には、薄らと虹がかかっている。
 ナビからの続報によると、各地から虹龍に集まったデータは、そのまま巨大なデータの塊となって、宇宙の彼方へ向けて送られていったらしかった。暴走の原因は何者かによって虹龍のシステムに埋め込まれていたirisという名のウィルス・プログラムで、すでに虹龍のコントロールは回復し、現在、詳しい調査が緊急にすすめられているとニュースは締めくくられた。
 イリス――虹を意味するその言葉を心のなかで呟いて、レンはすでに消えかかっている上空の虹を見上げた。そして来年の春にガーデンに植える花は菖蒲にしようと決めた。
 それからレンは、ずぶぬれになった鞄のなかから、持ってきた詩集を取り出して冒頭から数ページ、ぱらぱらとめくっていった。そして最初にタイトルが目についたほんの短い詩を読んでみる。

 

  腹ぺこで 道に迷って 体は冷えて
  ひとりぼっちで 一文なしの
  ちいさなむすめ 年は十六
  身じろぎもせずに立つ
  コンコルド広場
  八月十五日正午。
   (プレヴェール「美しい季節」)

 

 そのとき、レンは生まれて初めて、自分も詩を書いてみたいと思った。そして、その詩を電波に乗せて、遠くにいるミーカに届けたいと、思った。そのためにどんな技術が必要なのか、これからすぐに調べてみなくては。そして、死ぬ気になって一生懸命勉強しなくては。そうしないと、どんどん遠くに行ってしまうミーカに、いつまでたっても追いつくことなんてできはしないだろう。

〈了〉


■詩の出典

T.トランストロンメル『悲しみのゴンドラ[増補版]』(エイコ・デューク訳。思潮社)

宮沢賢治『新編 宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編。新潮社)

G.ミストラル『ガブリエラ・ミストラル詩集』(田村さと子編・訳。小沢書店)

J.プレヴェール『プレヴェール詩集』(小笠原豊樹。岩波書店)

文字数:49418

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