梗 概
『黒い氷』(Den Svarte Isen)
冷たい眼差し、酷薄そうな薄い唇。ヤスオは筋金入りのサディストだった。精神感応者(サイコパス)のナオミは、彼の醜悪な自我を覗いて、ぞっとした。他人より優位に立ちたい、生い立ちや貧しさゆえの劣等感、コンプレックス故に他者へ向けられた憎悪の凄まじさ、それらを他人への攻撃に転ずる時、どす黒い嫉妬も混在した無意識のまま、ヤスオは憎しみと屈折したエナジーを放った。ヤスオには、半端でない上昇志向があったが、それは野心というよりも、ナオミに伝わるのは人格のゆがみや醜怪さ、そのものだった。内奥でめらめらと燃える邪心は、黒い氷(Den Svarte Isen)のように固まり、只ならぬ冷酷さと凶暴さとして、人格の中枢をなしていた。
放課後の廊下で、ナオミは、凄まじい憎悪の振幅を感じて、そこへ歩いて行った。案の定廊下には、怒鳴りながら全身で相手を罵倒し、叱責を止めないヤスオがいた。ターゲットは、やや愚鈍で調子の良い、タクユキだった。今やタクユキはポロポロと涙を流して時折うつむきつつ、ヤスオを見上げる。だが攻撃を喜びとし、人をおとしめることを無上の喜びとするヤスオは、タクユキの涙を見て更に発奮する。こうなると変態だ。
いずれの性の場合もそうだが、男性の内的成長には女性の存在を必要とする。思春期のヤスオはその相手として、(テレパスの)ナオミを選んだのだった。ナオミに対しヤスオは半端でない劣等感を抱いている、そのことをナオミは感知していた。驚愕し、ナオミは思った。(私の根底にある脆さを打ち砕き、必ずや、ヤスオは征服し私を取り込まないと満足しないだろう。)
サディズムは、マゾヒストがいて初めて成立し、発揮される。(私はヤスオに潰されるんじゃないか)ナオミは自らの環境を、もう劇的に変えたかった。奨学金を得、欧州に渡る。しばしの時が流れた。
帰国後も、ヤスオの冷徹さと俗物ぶりは、日本での同級生の間では話題になっていた。
「いいかい?」友人がナオミにおもむろに言った。静かな喫茶店で話していた。「ドメスティックバイオレンス(DV)ってさ、殆どの場合、単なる暴力の問題じゃないんだよね。」カチリ、とナオミの頭の中で、閃くものがあった。ヤスオの、パターン化したサディズムを思い出していた。DVは暴力だけじゃなくて、精神の歪んだ関係性なのだ。
常にヤスオは、価値観を「他人の目」においてきた。自分の独自性を誇示しようとするが、そこからは真のアイデンティティは生じない。アイデンティティとは端的に言うと「私は他ならぬ私」である、という事を自分で納得がいくという事だ。
次の言葉を結語としたい。今日私たちは生きている。然し明日になったら今日という日は物語に変わる。世界全体が、人間の生活の全てが、一つの長い、物語だからである。
文字数:1144
内容に関するアピール
筒井康隆の「七瀬シリーズ」全部を読んだ直後に書いた。人間をその醜さまで含めて、どこまで掘り下げて書けるか、その醜さや悪意が、パターン化した強烈なサディズムをどこまで描き切るか、が問われる。筒井作品だけでなく、三島や乱歩に耽溺した思春期から始まり、人間の奥底に潜むどす黒い感情すなわち欲望だの虚栄だの、どろどろした嫉妬だのを孕んだ塊を、やっと分析的に見られる50代になり、黒い氷(Den Svarte Isen)とした。私が常に驚くのは、自分には人を見る目が実に無いということ。そして散々過去の恋愛でも失敗している。アピールする点は、幼児期、思春期を経て壮年になり50数年を生きてきて、トータルで人としての成長を考える視座を持ち、自己のアイデンティティの深化にも努力をしてきたこと。今回の題材は、人生後半の課題を端的に示している。人間て怖いですね、という故・淀川長治(映画評論家)の言葉を思い出す。
文字数:396