梗 概
蟻の夢
コンピューターの進化によって生み出されるはずだった、人間の脳をモデルとした「人工知性」は実現しなかった。研究の第一人者(であった)ウィリアム博士は死の床で「人間の知性とはコンピューターの0と1の狭間にある何者かなのだろう。私には私のブラックボックスは解明できない」と語ったという。
世界の研究者たちは、人間の脳自体を拡張する方向に舵を切った。それが、蟻の神経系から作られたナノアントを大量に脳に寄生させることで知能を拡張する寄生型の拡張知能、Parasitism Augmented Intelligenceだ。PAIの適合条件は、3歳未満の脳であること。ほぼ100%、自閉症に似た社会適合障害を発症するため、人身売買と非難されるも、PAI化されるのは必然、貧困層や先天的障害児だった。彼らは施術後数年の訓練を経て、NEST(蟻の巣)と呼ばれる非言語通信環境に脳内の寄生虫を並列接続し、高度で多彩な計算業務に従事していた。
PAI施術者(蟲使いと揶揄される)サカイは、今日もいつも通りNESTに接続した。(以後NEST上の非言語ログは言語変換した形で記述される。)彼は、自分であり他者でもある寄生虫という存在に脳を観察させることで、人間の脳というブラックボックスを解明しようと、研究を続けていた。
「ヨシダ。座標位置3427に移動しよう。」
「OK。」
「観察結果を同期してくれ。」
「了解。」
「僕たちはあまり美的感覚が無いけど、この観察結果のようなものをきっと美しいと言うんだろうな…」
群体としての寄生虫を脳に取り込むことで、個人のアイデンティティは拠り所を失う。社会適合障害を発症するのはそのためと言われている。PAI施術者は大抵が無口(必要以上に通信しないという意味で)と言われているが、サカイは饒舌。
「ちょっとここ見てくれないか?脳の出力が落ちてるみたいなんだが…。」
「本当だな。」
「おかしい。観察している部分だけがすっぽりと非アクティブになってる。」
ウィリアム博士は正しかった。人間の脳は0、1の間を行き来する量子的な運動体であり、内部から観察すること(=0か1か識別すること)は運動の停止=死を意味した。探そうとすればするほど離れていく自分。 それでもサカイは研究を続ける。自分の脳を検体として、死へと接近する脳を観察して。
「僕にはもう止められない。それが死を招くとしても。見えるのに見えないふりをすることはできない…。」
「【私】の死は、【我々】にとって無意味。群は個を凌駕し、【我々】もさらに大なるものの一部。より高次の運動体へと移行すること。それこそが生命の究極の目的。かさ、かさかさ。」
ある朝、東京郊外の小さなアパートの一室。机に突っ伏して事切れたサカイの姿。一匹ずつは目に見えないはずの寄生虫が、耳から目から、群れとして溢れ出る。部屋を片付けに来た特殊清掃人は汚物を処理する手つきで虫たちをゴミ袋へ。かさ、かさかさ。
これは巣穴の奥にひっそりと残されたある個体の観察記録。蟻たちは今日も働く。かさ、かさかさ。
文字数:1255
内容に関するアピール
人工知能の到来がコンピューターの進歩ではなく、ある種のアナログさで実現する未来を考えてみました。高度に進化した知能は言葉では通じあえないため、進化していない一般人が多数のヒエラルキーの中では下層になってしまうのではないかという設定です。
主要人物は2人。サカイは3歳を超えて施術された唯一の個体。人格がある程度確立された状態で施術されたが故に、自分のアイデンティティに疑問を持っています。ヨシダは寡黙でややコミュニケーションに難のあるキャラクター。実はサカイを観察する寄生虫人格。二人のやりとりを中心に展開していきますが、PAIと一般人との関わりも加えることで、人にも蟻にもなれないサカイの孤独を浮き彫りにできればと思います。
文字数:312