梗 概
それに出会わば穴二つ
同居人のハインリヒは、ドッペルゲンガーとの遭遇で死んだ。私の目の前で。
驚きの表情を見せた直後、ハインリヒとハインリヒは、共に倒れた。人を呪ってもいないのに、穴が二つになった。
彼だけではない、多くの人間が、自身のドッペルゲンガーとの遭遇で命を落としている。この社会においては、自殺よりは多く交通事故よりは少ないぐらいの死因だった。人々は半ば諦めつつも、ドッペルゲンガーの到来を恐れ、特に双子などは極めて心臓に悪い毎日を送っていた。
それは、ついに私のもとにもやってきた。
私は死を覚悟した。元より死は怖くなかった。ただ遺品、とりわけPCの中に残される諸々のデータを、遺族や友人諸氏に知られうるのは苦痛であった。
だが、私はすぐには死ななかった。
遭遇した瞬間に死ぬのがほとんどだが、数千人に一人程度、死ぬまでに年単位の時間を要するケースもあるという。私は後者に当てはまったのだった。
はじめは、自分と同じ顔がそばにあることが気味悪かった。不気味の谷ならぬ、不気味の独立峰だった。だが、彼は自らの居場所がこの部屋だと考えていること、またハインリヒを喪った空白に入り込んできたことで、同居人の座を埋めることになった。
彼はどこまで自分と同じ記憶を持つのだろうか。私は彼に、記憶の同一性の確認をはじめた。が、その記憶は意外とあいまいで、雑なものだった。相手は相手で、こちらの食事の好みから、靴下は左右どちらから履くのかに至るまで、私の行動や思考の癖についてしきりに確認してきた。こうしてお互いの探り合いをしている中で、彼はどんどん私に似ていった。いや、私が彼に似たのかもしれないが。
死んだハインリヒはプログラマで、私は彼のの持ち帰り残業をよく傍らで眺めていた。私自身はプログラミングに明るくないが、ドッペルゲンガーの行為は、プログラムのデバッグ(de-bug)に似ているように思えた。どのような環境下でそのバグが起こるのか。状況を想定し、再現性を導く。
あるいは、私がバグであるということなのか。無こそ基礎状態で、生は例外状態だとすれば、人の命は一過性のバグであって。ドッペルゲンガーの出現は、その再現性を確認し、バグを取り除く行為なのかもしれない。
だから、ドッペルゲンガーに出会うと、死ぬ。
私は彼に聞いてみることにした。君は、何をしているのか、と。
彼は答える。君こそ、何をしているのか、と。
自分に何をしているかと聞いた自分が、バカだった。
ある朝、彼は私と同時に起き、同時に座り、同時に顔を見合わせた。すべてが鏡写しになった。どうやら、デバッグは完了したようだ。
ここまで要した時間は一年七ヶ月。私はなかなか難解なバグだったようだ。自分がそんなに単純ではなかったことに、小さな満足感を覚える。
私は、コーヒーカップを捧げ持ちながら、小さく微笑んだ。
私も、コーヒーカップを捧げ持ちながら、小さく微笑んだ。
文字数:1188
内容に関するアピール
もしかしたら自分は、宇宙にとってバグなのではないかという感覚が、この話の起点でした。極めて古典的な、シミュレーション仮説っぽくはありますが。
『敦盛』のくだりを引くまでもなく、人間は宇宙の悠久なる時において、一瞬のみ生じることを許された、バグやエラーの類いなのかもしれません。ヒューマン・エラーでなく、ヒューマン・イズ・エラー。そして影響の大きいバグやエラーであれば、排除されることになります。
ドッペルゲンガーに出会うと死ぬという話を、聞いたことがあるでしょうか。
なぜ会ったら死ぬのかということを、自分がバグという前提で考えてみると、自分と同一のドッペルゲンガーの発生は、自分というバグが「再現性を持ってしまった」ことになります。再現性のあるバグには対策が打てます。
ドッペルゲンガー的なるものは、そのツールなのではないか。そんな非常に根気のいるバグ取りを、プログラマの宇宙さんは、地道にやっているのではないか、という構想です。
はじめは、宇宙そのものに殺される的なコズミックホラー話を想定していたのですが、あるいはドッペルゲンガーは、最も相互理解しやすい他者になりうるのではと思ったあたりから、自分を本気で殺しに来ている相手との同居話に、路線がずれてきました。
各々の方向に育とうとする双子やクローンと違い、相手は再現性を目指してくる存在ですが、それが最高の隣人になるのか、全然そんなことはないのか、あるいは自分そのものになっていくのか。
その帰結に、驚きたいと思っています。
……まあでも最後は、二人とも死ぬんですが。
文字数:655
それに出会わば穴二つ
「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる。」
イサク・ディーネセン
泣いている。
いや。
それは私の嗚咽ではない。
私が泣いているのなら、<私は泣いている>と俯瞰して理解するはずだ。
それならば、私ではない何者かが、泣いている。
背後に気配を感じる。冷たくて静かな緊張が、全身に染みていく。
意を決して、肩越しに振り返った。
鏡や写真を通して知りうる自分と寸分違わぬ姿が、そこにあった。
私は、それから目を離せなかった。
それも、私から目を離さなかった。
ドッペルゲンガー。
私は死ぬのか、と思う。ハインリヒが、そうやって死んでいったように。
◆
ハインリヒは、死んだ。
驚きと絶望に満ちた彼の瞳は、間を置かず光を失った。ハインリヒと、もうひとりのハインリヒは、折り重なるように倒れ込んだ。手にしていたカップが、軽やかな音とともに道連れとなったあと、部屋にはしばらくの間、静寂が続いた。一瞬の出来事に、私は声を上げることができなかった。
ドッペルゲンガーとの遭遇死だった。
ハインリヒは天涯孤独だった。亡くなって後に待ついくつもの手続きは、自然と、同居人の私がすることになった。
警察から複製体遭遇死事案の検屍報告書が出されるまでに三日間。報告書を受け取ると、すぐ役所に死亡届を出しに行った。窓口の役人曰く、死体は二つだが、死亡届は一人分で足りる、とのことだった。
発行された死亡証明書を手に、私はそのまま教会へと向かった。毎週末、ハインリヒが礼拝に訪れていた教会だった。彼は私と違って、信心深い男だった。ハインリヒが亡くなったことを伝えると、司祭は十字を切り、「彼の道往きは幸いである。彼は一人ではないのだから」と、私の肩に手を置いて言った。たしかに死体は二つあるが、それは一人ではないということになるのだろうかと、首を捻る。
葬儀の日は、この上ない秋晴れだった。透き通った空は、帰天に相応しいと思えた。型にはまりすぎて実を失った司祭の説教は、参列者の間を虚ろにさまよっていた。
ハインリヒとハインリヒを納めた二つの棺は、並んで掘られた墓穴へと、ゆっくりと下ろされていく。遠い国のことわざ、「人を呪わば穴二つ」という言い回しを、私は思い出していた。ハインリヒは、誰かを呪ったわけでもないだろうに、その墓穴は二つになった。解剖学的にも、どちらが本来の死者なのか、全く区別はつかなかった。
ドッペルゲンガーとの遭遇死は、決して珍しいことではない。この社会においては、自殺よりは多く交通事故よりは少ない、割とありふれた死因だった。人々は、自分の鏡像と遭遇して死ぬことに恐れを抱きつつ、半ば諦めてもいた。しかし、突然襲い来る死が、不条理であることに違いなかった。
ハインリヒの死は悲しい。だが私は、その悲しみを他人事のように感じていた。悲しみを単に感情的事実として、<私はハインリヒの死を悲しんでいる>と、括弧でくくって捉えてしまう。自分を後ろから観察しているような感覚だった。
なぜ私は、素直に泣けないのだろう。
葬儀の数日後。帰宅すると、郵便受けから一通の封筒が顔をのぞかせていた。降りしきる雨に濡れた手触りに眉をひそめながら、封筒を引っぱり出した。赤々と大書された保険会社のロゴが目に痛い。傍らには、「保険金請求のごあんない」と記されていた。
部屋に戻る。床にはごみが散らかり、シンクには洗われるのを待つ食器が、堆く積まれている。雑然とした様子に、自分でも溜息が出る。だがこれはすべて、私が汚した部屋だ。ものを食うのと寝ること以外、何もする気がしなかったこの数日で、こうも散らかるものなのか。
テーブルの上の諸々を、砂山を崩すように、まとめて隅へと寄せた。空いた場所に、半分濡れた封筒を放り置く。乾くまで待つのも面倒だった。中身を破かないように、慎重に封を切った。
複製体死亡保障付終身保険。通称、ドッペルゲンガー保険。その保険金請求手続きについての説明書きだった。冊子を広げ、ページを繰る。挿絵やデザインによって、わかりやすさに気を遣っているのは伝わってくる。だがいかんせん、情報量が多すぎた。結局、知りたい事柄にたどりつくまでに、相当な時間がかかった。
ハインリヒに親類はいなかったが、彼は自身に生命保険をかけていた。その保険金の受取人は、私だった。「ささいなもんだ。もし僕が死んだら、君が新しい部屋を見つけるまでの家賃と、引っ越し代ぐらいにはなるだろう」と、彼は言っていた。振り込まれる予定の保険金は、彼の言うほど少なくはなかった。向こう一年分ぐらいの家賃と引っ越し代、それを差し引いて、多少のお釣りが残るほどはあった。だが、額などどうでもよかった。実家からは勘当され、大学の研究室からは放り出され、その後は引きこもりのようになった私を案じての、彼なりの親愛の情が、何よりも心に沁みる。
だがそれなのに、亡くなった彼のことを想っても、<私は、涙をこぼしそうになっている>だけだった。喪失の悲しみはありのままに感じられず、見えない壁に阻まれていた。
そのときだった。
ドッペルゲンガーは、現れた。
ハインリヒの喪失を想っていた、そのときに。
私以外に人のいるわけがない自室に、突如として。
◆
ドッペルゲンガーに出会うと、死ぬ。
だが死は、怖くなかった。私にとって、人生は死ぬまでの冗長な暇つぶしだった。心残りがあるとすれば、この散らかった部屋、とりわけ遺された電子端末の中身を友人諸氏に知られうる気恥ずかしさと、楽しみにしていた映画の封切りが今週末に控えていることぐらいだった。
私はそれを、隅々まで観察した。髪型、顔、体格、着ている服まで同じだった。頭から足先まで、何度見直しても、相手の姿は私そのものだった。ドッペルゲンガーは、何から何まで同じ外見で現れる。思えば、ハインリヒのドッペルゲンガーもそうだった。
向こうも、私を観察しているようだった。双方ともに無言のまま、目だけがせわしなく動いていた。
ふと、不思議に思う。眼前にいるそれが、私のドッペルゲンガーだとしたら、なぜ私は、まだ生きているのか、と。ハインリヒは対面した瞬間に卒倒し、二度と目覚めることはなかった。最期の言葉を残す暇すら与えられずに。
それが現れてからもう一、二分は経っているだろう。だが、身体の違和感もなく、意識は明瞭だった。ドッペルゲンガーが仮借なき死を運んでくるというのなら、これはどういうことなのか。無意味だと分かりながらも、私は問いかけずにはいられなかった。
「ドッペルゲンガー、なのか」
「私は私だ。だが、お前がそう思っているのなら、そうなのかもしれない」
私と同じ顔をしたそれは、迷いなく答えた。自分の生の肉声を客観的に聞いたことなどない。だが、口調、そして抑揚は、自分の声だと感じた。
「殺しに来たのか」
それは腕を組み、ゆっくりと目を閉じると、
「違う」
と、はっきりとした声で告げた。殺意がないというのか。そんなわけはない。人を殺さないドッペルゲンガーなど、あるものか。
「ここは私の家だ。だからここにいる、それだけだ」
と、それは続けざまに答えた。人の家を自分の家と宣う。盗人猛々しいにも程がある。
「出て行け」
「出て行く理由がない」
「ここはお前の家じゃない!」
<思わぬ大声を発した自分自身に、私は驚いている>、そう思った。何かに怒りをぶつけることなど、久しくなかった。思わず掴んで投げつけた書類の束は、すぐに散らばり勢いを失って、宙を泳いだ。
だがそれは動じず、涼やかな顔を保ったままだった。
「ハインリヒを殺したのは……お前と同じ、ドッペルゲンガーだ」
「そうだ。彼は、ドッペルゲンガーに」
「お前らに殺されたんだ。お前も……同じだろうが!」
現れてから、少したりとも表情を崩さなかったそれの顔が、急に曇った。
「違う……もし私がその同類なのだとしたら……私は」
すすり泣きが聞こえた。
涙を流していたのは、ドッペルゲンガーだった。
不思議だった。意味が分からなかった。ドッペルゲンガーが、なぜハインリヒを想って涙するのか。有無を言わさず人を殺しに来る、無慈悲な化け物ではないのか。どうしてそんな奴が、しかも自分の同類が殺した相手のことを、悲しむのか。
「お前なんかにハインリヒの……何が」
「覚えている。彼と過ごした日々を、私は覚えている」
私が言い終わらぬうちに、それは涙声で言葉を重ねてきた。
「嘘をつけ」
「嘘じゃない。三年と二ヶ月前に、ハインリヒの招きでここで暮らし始めた。そのマグカップはハインリヒの旅行の土産、天井の照明はハインリヒの叔母からもらったもの、お前が、そして私が着ているカーディガンは……」
顔を涙に濡らして、それは言葉を絞り出す。
「……ハインリヒの、カーディガンだ」
言い当てられたことに、驚いた。記憶が同じだというのか、私と。しかしそれよりもなお、その口調から胸に迫るものを感じたことに、私はより衝撃を受けていた。
「お願いだ……私の、思い出なんだ、ここは……ハインリヒとの」
零れた涙が、乾いたタイルに灰色の染みを描く。
「ここにいさせてくれ……」
私は歯噛みした。
お前の涙、それは私が流すべき涙だ。
そして、流したくとも、流せない涙だ。
ドッペルゲンガーに、人間のような感情があるというのか。
いや、自分よりもむしろずっと人間らしい。<私はその涙を、うらやましいと思っていた>。
うつむいて咽び泣くそれを――いや、彼を――、私は九分の驚きと、一分の嫉みを以て見つめるほかなかった。
◆
秋が過ぎ、冬が来た。
雪など降らないかわりに、この街の冬は寒く、そして乾ききっている。部屋のある二階の窓から、外を眺めた。石畳の通りでは、吹き寄せられる枯れ葉が、凍える風の通り道を描いていた。
通りの向こうから、道を渡る影が見えた。やっと戻ってきたか。大きな紙袋を抱えて、右手に握ったリンゴをかじりながら。ああ、リンゴの芯を放り捨てた……何しているんだ。
建物入り口の格子戸の重い音が響いたあと、軽やかに階段を上る靴音が一歩、二歩。部屋の前で、足音は止まる。
玄関扉が跳ねるように開く。ドアを蹴って開けるなと、何度言えば分かるのか。「いや寒かった、今日は本当に寒いな」と、私と同じ外見をした彼は、誰に向けるでもなくひとりごちたあと、こちらを見た。
「お前だけぬくぬくと、ずるいぞ」
「ポーカーで負けたほうが行く約束だったろ」
「ただのワンペアで勝ったくせに、偉そうに」
重そうに抱えられていた買い物袋は、テーブルに雑に置かれた。
「どこまで行ってたんだ」
「十七区。間違えて逆のトラムに乗ったついでに」
「呑気なやつだな」
彼は踵を返して、奥の洗面所へと消えていった。
ドッペルゲンガーが私のもとに現れてから、もう一ヶ月以上が経っていた。最初の遭遇のときに比べれば。彼は格段にくだけた様子だった。
いつしか彼は、この部屋の同居人の地位を揺るがぬものとしていた。彼は、現れた後もずっと、この部屋が自分の家だと強く主張し続けており、結局私は合理的な抗弁ができず、根負けする形で折れたのだった。
だが、根負けが本当の理由でないことなど、自分で分かっていた。私が一人で過ごすには、この部屋は広すぎるのだ。床面積の問題ではなく、心情的なこととして。<私は、ハインリヒを喪った孤独を埋めてほしいと思っている>のだと、自覚していた。
だが別に、床をゴミで埋め尽くしてほしいわけではない。食べ終えた菓子袋をそこらに放るなと、何度言っても彼は捨て続ける。そしてそれを、私が拾い集めるはめになる。
ドッペルゲンガーは、濡れた手をズボンで拭いながら、洗面所から出てきた。
「それもやめとけ」
どれもこれも、自分の癖であるのは間違いないのだが、褒められた癖ではない。だが彼は聞き流し、悠然とスツールに座る。すぐに足を組んでは、内股を掻きむしる。自分の悪癖に溜息が出る。人が同じことをしていると、ひどく気になるものだということが、彼のおかげで痛いほどよく分かった。ハインリヒはよく堪えたと、いまさらながらに思う。
「わざとだ、わざと。お前のドッペルゲンガー、なんだからな」
憎たらしい顔をして言う。たしかにこいつは、私の言動――とりわけ無意識の癖や、お定まりの反応――をトレースしようとする。似せようと、意識的に努力しているふうだった。真似をしたがる小さな子どものようでもある。
呼び鈴が鳴った。続けざまに聞こえたのは、のんびりとした老婆の呼び声だった。管理人だ。
ドッペルゲンガーに向かって、身振り手振りで隠れるように指示した。彼は肩をすくめると、トイレへ籠もった。何秒か待って、出てこないのを確かめてから、私は玄関へと小走りに向かった。
「すみません、お待たせして」
扉を引くと、小柄だが背筋の伸びた老婦人がいた。
「いいのよ、こちらこそ急だから。あなた、さっき買い物から帰ってくるのが見えたからね。でもだめよ、食べかすを道に捨てちゃ。片付けておきましたから、次からしないように」
あいつが捨てたリンゴの芯。それを怒りに来たのか。
「すみません、気をつけるように言っ……気をつけます」
頭を下げると、老婦人は「叱りに来たんじゃないのよ」と笑った。彼女は、少女の頃からの持ち物ではないかと思えるぐらい古びた巾着袋から、編み物のようなものを取り出した。編み込まれた黒と黄色と赤紫の毛糸が、目玉に似た、同心円状の模様を描いていた。
「これを渡そうと思ってたの」
「これは?」
「しばらく前に、ハインリヒさん、亡くなったでしょう。ドッペルゲンガーのせいで。あなたも遭っちゃいけないと思って、作ったのよ、お守り」
ドッペルゲンガー除けの護符。言われてみれば、陶製で同じ柄のものは見たことがあった。
「いつ来るかわからないんだから、ちゃんといつも持ってるのよ」
老婦人は私にお守りを持たせると、オレンジでも絞るかのような予想外の強さで手を握ってきた。私は痛みに耐えながら、ぎこちなく礼を述べた。
が、いかんせん手遅れである。
そいつはいま、そこのトイレにいるのです。
「困ったことがあったら、何でも言いなさいね」
私は小さく頭を下げた。彼女は目を細めると、ひらひらと手を振った。
管理人が去ると、玄関ドアの閉まる音を聞きつけてか、トイレの扉が開いた。ついでに用を足していたのか、ご丁寧に、水を流す音までした。
「帰ったか」
またしてもズボンで手を拭いている彼は、私が手にしているものに目を留めた。
「それ、何だ」
私は懇切丁寧に、老婦人の贈り物の由緒と効能について、親愛なるドッペルゲンガーに説いて差し上げた。
彼がいたく憤慨したのは、言うまでもない。
それにしても、奇妙だった。
私はいまだに、こうして生きている。
遭遇して最初の数日は、来たるべき死を覚悟し、身辺整理までした。いつ殺しにかかるのかと、警戒心が先に立っていた。だが日が経つにつれ、彼に殺意がないことがわかるとともに、少しずつ、緊張感は薄れていった。
さらには、彼の思わぬ人間らしさにも驚いていた。彼は私と違って、感情表現をためらうことがなかった。食事には舌鼓を打って喜び、本を読んでは泣く。近所の猫や、道ばたで遊ぶ子どもたちに対する愛着も持っているようだった。ドッペルゲンガーは人を殺すという事実を、忘れかけるぐらいだった。
同じ顔が傍らにいることには、不気味の谷ならぬ不気味の独立峰とでも呼ぶべき違和感もあった。だがそれすらも慣れてしまうものである。
今や、この家は思いもしない方向に賑やかになっている。
正直なところ、素直に楽しかった。
心に余裕ができたせいだろうか、私の関心は、即死しないドッペルゲンガーとは何か、また、彼が現れた理由は何か、というところに向き始めていた。忘れかけていた探求心が、久々に首をもたげていた。
◆
王立図書館は、首都に数ある宮殿のひとつを改装したものだった。中は一面、流麗かつ緻密な装飾に覆われている。その一つひとつが、神話や伝承に由来する物語を持つという。装飾それ自体が、万巻の書物にも等しかった。
あるレリーフに目が留まる。同じ王冠をかぶった男が二人並び、その両隣には、同じ衣装をまとった女が一人ずついる。『鏡の王』だ。王と王妃が、鏡の向こうから現れた、同じ姿の王と王妃とともに過ごしたあと、鏡の向こうの世界から帰れなくなる、そんな話だ。小さい頃に読んだ覚えがある。今では、あれは夫婦ともども、即死しないドッペルゲンガーと遭遇した話なんじゃないかと思えて仕方ない。
普段、二人が同時に外出することは意識的に避けていた。だが今日は彼のたっての希望もあり、連れ立って出かけることにした。
すぐ後ろをついてくるドッペルゲンガーを見る。彼は「双子のような格好」をしていた。我々は、双子にしては似すぎていたからだ。
日常的にドッペルゲンガーが現れるために、世の双子や三つ子、あるいはそれ以上の多胎児は、同じ外見をしていては、きわめて心臓に悪い毎日を過ごすこととなる。だから双子などは、違う服、違う髪型は当然のことで、人によっては整形を施すことすらあった。だが我々は、細部に至るまで全く同一の外見をしていた。それは双子としては、まずあり得ないことだった。
よく考えると奇妙なことだが、ドッペルゲンガーは、出現時には相手と同じ衣服を着ている。ただしそれ以降、服が自動的に相手と同一のものになったりはしない(つまり放っておいたら、彼は着たきりだったということになるが)。髪や爪も、普通の人間同様伸びるが、相手の髪型が勝手に再現されたりすることはない。傷も転移はしない。言うなれば、ある時点の写真を撮影し、それがもう一人の独立した自分として現像されるようなものだった。
このことに気づいたとき、身体的、外見的な同一性は、ドッペルゲンガーにとっては便宜的なものでしかなく、実は重要ではないのかもしれない、とも思った。
「しかし、今日はおとなしいもんだな」
普段は私の真似ばかりしているドッペルゲンガーも、ここではふざけるようなことはなかった。
「図書館でどうすべきかぐらい、心得てるさ」
したり顔で言った。もしかしたらこれも単に、図書館での私の振る舞いを真似しているだけかもしれないが。
元は舞踏会など開かれていたであろう大広間だった場所に、何十台という無骨な検索用端末が居並ぶ様は、違和感を通り越して、キメラ的な面白みがあった。もともと電気配線など想定していない建物なのだろう、端末の後ろからあらわになったケーブルは束ねられ、太い蛇が壁際を這うようにされていた。
小説から雑誌、論文、そして電子記録物に至るまで、あらゆる記録媒体が収められるこの図書館に、研究室時代はよく文献探しに来たものだった。ドッペルゲンガーについての手がかりを探すのならば、ここの蔵書量が頼みだった。
我々は端末の前に並んで座った。検索用端末は、まだ一般への普及には至っていないITMC(端末間大規模通信)を利用できる数少ない端末のひとつで、電子化された蔵書目録が参照できるのも、王立図書館のほかには、世界で数カ所しかないと聞いている。箱は古いが、中身は最先端だった。
検索欄に「ドッペルゲンガー」と打ち込み、エンターキーを叩く。
三十秒ほどして表示された画面を見て、隣のドッペルゲンガーが溜息をつく。私も同じ気分だった。検索結果は、ゆうに二十万件を超えていた。
キーワードの組み合わせと格闘しながら、検索すること三十分。ようやく、それらしきものに行き当たった。
ジャンニケッダ=パウロ・カレージオ、『遅延型ドッペルゲンガーの観察記録』。出版社の記載がないこと、少ないページ数から判断して、論文のようだった。遅延型というのは、私のドッペルゲンガーのように、すぐに死をもたらさないことを意味しているのだろうか。だとしたら、探し求めているものに限りなく近い。
著者のデータベースを参照する。理学博士、最終経歴は王立第三大学理学部生物科、名誉教授。生没年を見るに、二十年前に死去していた。
私は彼に書架をメモするよう言うと、頭の中に、図書館の構造を思い浮かべていた。慣れ親しんだここならば、地図を見ずともたどり着ける自信はあった。
「よし、行こう」
そう言って先導したのは、ドッペルゲンガーのほうだった。そうだ、彼にもここの記憶はあるのだ。
論文ばかりの書架には、人も少なく、空気も埃っぽく感じた。大広間の壮麗さとは対照的な陰鬱さに包まれている。
それもそうだろう、書き上げても、筆者自身と指導教授にしか読まれない論文が、ここには何千何万と眠っている。頻繁に参照される価値ある論文など、実際は一握りのもので、あとは学位や職位を得るために、書くこと自体が目的化したものばかりだ。今となっては読み返したくもない私の修士論文も、このどこかに並んでいるはずだった。もちろん、誰に開かれることもないまま。
目的の棚を見つけたのもドッペルゲンガーだった。彼はいつになく、はやっているようにも見えた。
取り出されたそれは、いかにもお手製といった簡素な製本が施された、薄い論文だった。薄茶色にかすんだ紙のふちから、論文の古さを感じる。折れたり曲がったりしないよう慎重に捧げ持つと、私たちは最寄りの閲覧卓へ向かった。
「なんだ、これは」
表紙を繰ると、意外なものが現れた。
「写真か」
二人の、同じ顔をした男が並んで立っている写真が貼り付けられていた。写真の男の、左側は満面の笑みを、右側はまったくの無表情をしていた。下のキャプションには「筆者(右)とそのドッペルゲンガー(左) 五月十日、自宅にて」とあった。
「博士自身の遭遇記録なのか、これは」
ドッペルゲンガーが唸る。だとしたら、貴重な一次資料だった。
もう一枚ページをめくり、さらに驚いた。すべて手書きで書かれたその文体は、論文のそれにはふさわしくなかった。むしろ、日記であった。
客観的な記述を求められる論文は、序文や謝辞は別としても、基本的には三人称主体で淡々と書かれる。だがこれは、博士自身の一人称視点で記されているようだった。何ページ読み進めても、その文体は変わらない。
私は、そのドッペルゲンガーを「遅延型」と定義
することにした。
一般的なドッペルゲンガーは、対象者との遭遇と
同時に双方が死亡する。だが、私のドッペルゲンガー
は、遭遇から十四日経過するいまに至っても、死を
運んでくる様子はなかった。
きわめて不思議な現象であった。それに、訪れる
死がいつなのか、私は恐れていた。むしろ一般的な
「即時型」のほうが、死を恐れる時間もなく、よかっ
たのかもしれないと、私は思っていた。だが、生来
の科学者としての気質なのだろう、私はこのドッペ
ルゲンガーを観察の対象として扱うことにした。
このような文章がずっと続いていた。やや読みづらく、くどい。博士自身の感情や感覚までも、自己観察の対象としているようだった。
ただ、カレージオ博士がどう感じ、どう解釈したのかはありありと分かった。遭遇すなわち死ではないドッペルゲンガー、博士が記すところの「遅延型」とまさに相対している私にとっては、貴重な情報であるとともに、深い共感を呼び起こすものだった。
私と、私のドッペルゲンガーは、息もつがぬほどの勢いで、記録を読み続けた。
「あれ」
繰った先は、空白のページだった。唐突に文章が途絶えた。
「終わりか」
「そうみたいだ」
突然の記録終了が何を意味しているのかは、すぐに察しがついた。
最後の記録は、五月十二日。ドッペルゲンガーと遭遇して、七ヶ月目だった。
私は冊子を閉じると、再び表紙を開いた。博士の写真に添えられたキャプションを見直すためだった。そこには五月十日とあった。これは博士の死の、二日前の写真だった。
写真にうつる博士の無表情の底には、どんな感情が堆積していたのか。博士の顔とコントラストを描くようなドッペルゲンガーの笑顔は、何を意味するのか。
現実を突きつけられた気がした。<私は、恐れを感じている>のだと、そう思った。
ドッペルゲンガーは、やはり私を殺すのだ。
死の直前、博士はどうなっていたのか。私はもう一度、五月十二日の記録に立ち戻った。
それにここ数日、ドッペルゲンガーの振る舞いは
一変していた。それまでの神経質そうな態度は、歓
喜と余裕に変化していた。私を見つめるドッペルゲ
ンガーの視線からは、数学者が、あと数行で証明を
終えるときに見せるような興奮の色が、私には見い
だせた。
そのとき、自らの視界が混濁していることに、私
は気づいた。
だがそれは、ぶれや残像という類いのものではな
く、別の風景が、合成写真のように透過されつつ折
り重なるとでも言うべきものだった。
視覚だけではない。聴覚も、触覚も、嗅覚も、味
覚も、すべての感覚が二重にかさねられていくのを、
私は感じていた。そこには死の予兆を見いださざる
を得なかった。私は恐れを感じているのだと、そう
思った。
ドッペルゲンガーの変化と、死の前兆たる二重感覚。この記録にあるような現象がやって来たときが、私の最期なのだろうか。博士は、怖かったのだろうか。私はどうだろうと、考える。
私はふと、傍らのドッペルゲンガーを見た。彼は鼻の下に拳を当て、ぶつぶつと何かを呟いていた。声は小さく、中身は聞き取れない。もう片方の手は、すさまじい速さで白紙にメモを書き付けていた。
「なあ」
声をかけても、彼は応じない。
おい、と肩をこづくと、ようやく彼の独り言は止まった。
「悪い。考えてた」
「何をだ」
「博士と、お前の共通点を。私みたいな遅延型が出るのは、元となった人間の特徴によるのかもしれないと思ったんだ」
共通点。何だろうか。「研究者か」と言うと、「お前は研究者崩れだから違う」と即答された。腹立たしい。
「見た目が似ているということもない。人種も違う、年齢も違う。性別は同じだが……」
「それだと、男に遅延型が出る確率が有意に高くないとおかしい。だが、男に多いなんて聞いたことない」
「遺伝子によるものとか」
「博士の生体サンプルが残っていればできるかもしれないが、手に入るのか」
私は、論文の隙間に髪の毛が挟まっていないか、ぱらぱらとめくった。だが、博士の特徴的な縮れた赤毛はおろか、睫毛一本見当たらない。
「出現時間や場所に関係は」
「まず分からないし、それが後ろでどんな計算になってるかも分からないだろ」
とっくに亡くなっているカレージオ博士に会うこともかなわない。観察記録も、まさに純粋な観察記録で、遅延型発生のメカニズムについては、検討された形跡もなかった。
つまりは、仮説を立てて考えるしか、手はない。
「とりあえず、センターで複写を頼もう。じっくり読めばわかるかもしれない」
私が論文を閉じると、腕組みしたままのドッペルゲンガーは、唸りながら立ち上がった。
「ほら、行くぞ」
もう少しで分かりそうなんだ、と口をとがらせながら、彼は不承不承、私のあとをついてきた。
複写した観察記録と自身のメモを見比べながら、彼はずっと考え込んでいた。歩き出してからも、見るのをやめる様子はなかった。何度も何度も人にぶつかるたび、かわりに私が謝った。
しかし、彼がここまで真剣な顔をしているのは初めてだった。ドッペルゲンガーも、自分自身の成り立ちを知りたいのだろうか。
ハインリヒが埋葬された墓地は、図書館からそう遠くない。図書館を後にしたその足で、ハインリヒの墓参をしようと思っていた。
「考えるのに集中したいなら、お前は帰っていてもいいぞ」と言った途端、「私もお前なんだ」と、彼は腹立たしげな様子を隠そうとしなかった。彼は無言のまま、先に歩いていった。私は彼の背中に向かって、小声で詫びた。ハインリヒに対する思慕の念は、私も彼も、同じなのだ。
ハインリヒとそのドッペルゲンガーが埋葬された場所には、まばらに草が生え、そして枯れたあとがあった。ハインリヒが亡くなって、もう三ヶ月が経とうとしている。
手向ける花などは、買ってこなかった。夕陽の中、ただ二人、墓前に並んで佇む。宗教的な祈りを捧げるつもりはなく、ただハインリヒのことを、静かに思い返した。墓とは元来、追憶のためにあるのだから。
長い黙想の後、「聞いても、いいか」と、ドッペルゲンガーは切り出した。
私は答えずにいた。彼はそれを承諾ととったらしい。
「ハインリヒのことを、聞かせてくれないか」
「どうした、いまさら」
「私とお前では、記憶は同じだ。だが、ひょっとしたら見えてるものが違うんじゃないかって思ったんだ」
突然何を言い出すのかと思う。だが、彼の眼差しは真剣だった。
「お前も知っていることしか話さないが、いいか」
彼は首を縦に振る。
「兄、のようなものだった。私には兄弟はいないから、どういうものを兄と呼ぶべきなのかは分からないけど。家も研究室も追い出されて、行く当てもなく過ごしていたとき、私の居場所をハインリヒが作ってくれた。もともとは研究室の、五年上の先輩だ。私が学部生のとき、博士課程にいた」
ハインリヒは、当時から優秀だった。ただ、本来の専攻よりも、研究の下準備として必要なプログラミングの技術が、群を抜いていた。プログラミングを専攻する院生はおろか、並み居る職業プログラマでは相手にならないぐらい。
「けど、ハインリヒは途中で博士課程をやめてしまった。いまは、末は博士かホームレス、って言われてるぐらいポストがない。見切りをつけたんだろう。でも、それでよかった。大手のソフトウェア会社に就職すると、すぐに重要なポジションに着いた」
「デバッグのリーダー、だったな」
「そうだ」
ハインリヒのチームは、デバッグを担当していた。自分の書いたプログラムを直すならいいが、多人数での開発が当たり前の環境では、人の書いたプログラムのバグの原因を見つけ出しては潰していくという、困難な仕事でもあった。だが彼は、バグの原因究明に優れた才能を発揮した。
「再現性の魔術師、と呼ばれていた。バグの再現性を確保するのが、誰よりもうまいと評判だった。バグは、どんなときにどんな問題が起こるのか、それが再現できるかどうかで、解決の可不可がほぼ決まると言ってた。ハインリヒは、そのへんの勘がすさまじかったらしい」
「再現性の魔術師、か。そうだったな。思い出した」
人間の記憶は、薬棚のように、すべてを思い通りに引き出せるものではない。何かの呼び水がないと、思い出せないこともある。再現性の話は、ドッペルゲンガーにとってそういうものだったらしい。そうした回想の可否のために、同じ記憶を持っていたとしても、我々の間には、違う見方が生じるのかもしれない。
「まあ、ハインリヒの仕事のことはいい。それよりも、すべてが嫌になって、もう外に出る気なんかなかった私が、またまともに生きられるようにしてくれたことに、なによりも感謝してる」
彼は多忙を極めていたにもかかわらず、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。放っておけば自堕落の沼にマッハで飛び込むような私が、人間らしい最低限度の生活を送れるようになったのも、ハインリヒのお蔭だった。「私を気長に見守ってくれたのは、ハインリヒだけだ」
「それは、同感だ」
ドッペルゲンガーは、目を閉じたまま頷いていた。
しばらくの黙想の後、彼は言った。
「お前にとって私は、兄弟みたいなものなのか」
「どうだろうな、双子のほうが近いんじゃないか、いまもこんな、双子みたいな格好をしてるんだから。というか、お前は私なんだろう。ドッペルゲンガーなんだから」
横に並ぶ、自分と同じ顔を見た。彼は天を仰いだ。
「私に再現性はあるんだろうか、お前の」
あっけにとられたあと、乾いた笑いが思わず口から漏れた。再現性なんて、それじゃまるで、私がバグみたいじゃないか。
バグ?
何かが、頭のなかでつながった。仮説が脳裏を、走り出す。
人間と、そのドッペルゲンガー。ドッペルゲンガーは、人間を再現する。その再現が完全ならば、人間というバグは再現性を確保され、直ちに排除される。それはドッペルゲンガーが、デバッグの媒体であることを意味する。
だから、ドッペルゲンガーに出会うと、死ぬ。
だが、私はまだ死んでいない。もしかしたら彼は、再現性が確保できないがために、遅延型になっているのだろうか。
彼は私の言動を真似る。だが、それでは私を再現したことにはなっていない。
外見は、さほど重要な要素ではなさそうだった。
いずれも、私がまだ死んでいないことから、それは分かる。
だとしたら、再現すべきものは、何なのか?
彼のほうを見る。全くの同時に、彼もこちらに向き直った。
彼は、何かを理解した目をしていた。だが私は、すべてがわかっていなかった。
だとしたらもう、時間の問題かもしれない。
◆
死は、怖くはなかった。
だが、その怖くないはずの死とは何なのかと、自問した。何も見えなく、感じなく、考えられなくなること、意識や記憶が消えること、それとも私の見ている世界がまるごと消えること、死後の世界の有無、私は思いを致してみたが、わからなかった。
何にせよ、「私」という主観が失われることは、きっと確かなのだと思う。
そういえば、死が何なのかと考えたことなんて、これまで一度もなかった。私が死を怖れないのは、そのせいだったのだろう。
複写してきたカレージオ博士の論文を、指先で手元に引き寄せた。ホチキス留めされた表紙をめくると、博士とドッペルゲンガーの写真が現れる。
無表情の博士と、喜びを湛えた顔のドッペルゲンガー。
私はいま、博士のような顔をしているのだろうか。ドッペルゲンガーは、自らの目的をまもなく達するがゆえに、笑みを浮かべているのだろうか。
そうだとしたら、あいつもいま、笑っているのだろうか。
図書館を訪れた数日後、私のドッペルゲンガーは旅に出た。もう二ヶ月になる。
「喪失について、理解したい」と急に言い出して、旅の支度をはじめた。私は是とも非とも答えず、彼を見守っていた。
私はビューローの小さな引き出しから、封筒を取り出した。中には札束が入っている。ハインリヒの残した保険金だった。封筒から半分を取り出して引き出しにしまうと、「あとは自分でなんとかしろ」と、彼に言い含めて、封筒ごと渡した。彼は準備の手を止め、意外そうな表情を浮かべたが、「まあ、当然の相続分だな」と憎まれ口を叩いて、カバンの奥に封筒をしまいこんだ。大事そうに。あと、パスポートも貸してやった。ひょっとしたら彼は、国境を超えるかもしれないと思ったからだった。大丈夫、私とあいつの見分けなんて、つくわけがない。
そうして彼は、外の世界で私として振る舞うのだ。このままあいつが旅を続けていけば、世界にとっての私は、あいつに取って代わられていくのだろうかと、思ってしまう。私だと認識される主体が入れ替わってしまう、それもまた、私にとっての死なのかもしれない。
ドッペルゲンガーのいなくなった部屋は、静かだった。自分を殺しにきたはずの相手がいなくて寂しい、などというのも変な話だが。彼は、ハインリヒの喪失を埋めたのだ。誰でもよかった、などということではきっとない。あいつは私であるからこそ、私と前提を共有した存在だからこそ、自然と、空いた穴にぴったりとはまりこんだのだと思う。
コーヒーが冷めてしまう。そう思って、マグカップを手に取ったときだった。
電話が鳴った。
ハインリヒが死んで以来、一度たりとも鳴ったことのなかった、部屋の電話が。
私は躊躇した。電話の出方を忘れていた。だが、ベルは容赦なく鳴り続けていた。仕方なく、受話器を掴む。
「はい、もしもし」
「やっと出たか」
受話器の向こうから、私と同じ声がした。ドッペルゲンガーからの電話だった。
「なんだ、お前か」
緊張が解けるとともに、声音が低くなるのが、自分でも分かった。
「今まで連絡もよこさなかったのに、急にどうした。何してたんだ。今どこにいるんだ。私のふりして、悪いこととかしてないだろうな」
「おい一気に喋るな」
彼に押しとどめられて、ようやく私は口を止めた。長い間、自分の中に溜まっていた言葉が、表へと出たがっていたのがわかる。
「遠いところまで来た。こっちは夕方だが、お前のところはまだ朝九時か十時だろう」
「そんなに時差が……遠いな」
ああ、と彼が答えたあと、しばらくの間、二人とも黙っていた。
「目的は果たせたのか。お前が言っていた」
「喪失、か。まあ、少しはわかってきたかもしれない」
「それが分かったら、お前は……」
私を、殺せるのか。それを口にしようとしたが、声が止まった。
「……なあ、死ぬのは、怖いか」
ドッペルゲンガーは問う。私が言わなくても、言おうとしていたことが分かっているかのように。
「怖くなかったはずだった。だけどそれは、死を考えたことがなかったからだと、わかった」
「お前、『鏡の王』の話は覚えているか」
「急になんだ」
「いいから。結末を思い出せ」
『鏡の王』の結末。鏡の向こうから戻れなくなったもともとの王と王妃は、鏡から現れた複製の王と王妃――いまや、もともとの王と王妃と入れ替わっていた――に、ふたたび鏡越しに出会う。お前たちは二度と鏡からは出られないと、大笑して言う複製の王に、もともとの王は言う。そうだ、もう出られない。だが、お前ももう、戻れない、と。そしてもともとの王と王妃は、懐に隠していた短剣で、互いを刺す。そして。
「もともとの王を失った複製の王は、時を同じくして、死を迎えた」
「そうだ」
息をのんだ。ハインリヒと、もうひとりのハインリヒがともに倒れていた風景が、脳裏に現れた。私は、当たり前のことを忘れていた。
「お前も、なのか……」
ドッペルゲンガーもまた、もとの人間に出会うと、死ぬ。
「覚えておけ。お前は、ひとりで死ぬことはない。私も同じなんだ」
「なら、それなら」
彼が再現性さえ手に入れなければ、ずっと、二人とも生きていられるのではないか。だったら。
「もう、私になろうとしなければいい」
「だめなんだ。そうもいかない」
ドッペルゲンガーの声は、震えていた。
「探究心は抑えられそうにない。何に駆り立てられているのかは分からない。だが、知りたいと思うことをやめられない。でも、人間ってそういうもんだろ」
そうかもしれない。私も、遅延型ドッペルゲンガーについて知りたかった。それがひょっとしたら、自分自身の死を早めるかもしれないと、分かっていながら。
「……答えは、分かってた。カレージオ博士の記録を見たときから」
なんだって。
「だが、たとえば、完成したプログラムが理解できたとしても、自分がそれを書けるとは限らない。私はまだなれないんだ、お前に」
わかるとできるは、違う。それは私も、よく理解していた。
「私がお前になれない原因は、二重の一人称のせいかもしれない」
「二重の、一人称?」
「お前は、何かをしている自分、何かを考えている自分を、後ろから見ている。ちょうど頭の後ろに、カメラがあるように。それはカレージオ博士も同じだ」
私は手元にある博士の論文を急いでめくった。慌てる指先に引っかかった紙が、くしゃりと音を立てて曲がった。
博士の文章。それは、自分自身の理解や感覚すらも、一歩引いたところから観察しているものだった。
そして私も、自らの感情を、後ろから眺めているときがある。
これが、二重の一人称ということなのか。
「ハインリヒを喪ったとき、その哀しみから心を守るために、お前はそうしたんだろう。自分を襲う哀しみを括弧に入れて考えれば、少なくとも感情は直に当たることはなくなる」
あるべきところに何かが、音を立ててはまるようだった。だから泣けないのか。私は。
「私もやってみようとした。私には、お前と同じ記憶があるから。だが、できなかった。ハインリヒが死ぬのを見たのはお前だけだ。そのときに生じた心の働きまでは、私には再現されなかったみたいだ。だから、喪失そのものを知りたかった」
「それで、出て行ったのか」
答えはなかった。だが、彼はきっと、電話の向こうでうなずいていた。
「けれど、なぜ一人称が鍵なんだ」
「一人称が鍵なのかどうかも、実際のところは分からない。これは妄想の域を出ないが、聞いてくれるか」
「ああ」
「一人称という観測者としての視点自体が、問題にされているのかもしれない」
一人称自体、が。
「多世界解釈というのを、聞いたことがあるか。あれによれば、たとえるなら、宇宙はひとつの多面体で、それぞれの面に対応した、それぞれの観測者による世界があるようなものだとも考えられるらしい。ただそれは、観測者の数だけ面が生まれるのか、あるいは」
「面の数に、限界がある?」
首肯するかわりなのか、ドッペルゲンガーは鼻を鳴らすように、息を吐いた。
「一人称は、観測者の視点そのものだ。そして、一人称は増え続けている。人が増えるのにつれて。もし面の数に限りがあるのなら、宇宙は、その飽和を迎えないための手を打つのかもしれない。一人称保持者を狙って、再現性確保のために同じ一人称を持つドッペルゲンガーを送り込んで、そいつを消すんだ。一時的に一人称は増えるが、二人とも倒れるから、結果的にはひとつぶん、減らせる」
「だけど、私は二重の一人称を持っていた。そこまでは想定できていなくて、結果的にお前は遅延型になった、と」
荒唐無稽だし、証明する方法もない。けれど少しだけ、好奇心は満たされた。
「悠長な話だ。とんだファンタジーだな」
彼は「そうだな、自分でもそう思う」と短く笑ったあと、「忘れてくれ」と付け加えた。
ともあれ、とドッペルゲンガーは切り出す。
「おそらく物語なんだ、お前の自己認識は。自分自身を物語にすることで、哀しみに耐えるための」
物語ることで、私は喪失の悲しみに直に触れるのを、避けていたのだろうか。
何も言えなかった。だが、きっとそうなんだろう。やっと、わけがわかった。これで、私は。
「泣いてるのか」
涙を流していたのは、私だった。
涙で、目の前が揺らぐ。熱い空気が、鼻腔の奥から湧き出す。手の甲に、涙がしたたり落ちるのを感じる。
嬉しく、そして悲しかった。
忽ち、景色が重なった。いまいる自室の上に、半透明のレイヤーで、別の風景がかぶせられたかのようだった。私は、ふたつの眺めを同時に見ていた。
もうひとつの場所は、カフェのようだった。ずいぶんと傾いたせいか、直視してもまぶしくはない夕陽が差し込んでいる。カウンターの向こうには、カップを拭っているマスターの姿。左手には受話器、そして右手にはティーカップ。指先にかかるカップの重さと、少し冷めた紅茶の温度と香りまで、感じられた。
これがカレージオ博士の記録にあった、二重感覚、なのか。
「「なんだ……おい」」
溜息をついた。
「「二重の一人称が失われて、しまったのか」」
私と私の感覚は、すべてひとつになった。時間と場所を超えて。
「「再現性ができてしまった。終わってしまうぞ。いいのか」」
「「いいんだ。ハインリヒが残してくれた金が、もうすぐ底をつきそうだ。半分渡したせいでな。そろそろ働きに出ないとならないと思って、気が重かった」」
「「そうか。そうだな」」
私は、カップを捧げ持ちながら、小さく微笑んだ。
私も、カップを捧げ持ちながら、小さく微笑んだ。
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