梗 概
二つ目のキュウリの謎、あるいはバートレット教授はなぜ時空犯罪者を支持することにしたのか?
ある朝冷蔵庫を開けた百合子は、そこにすでに取り出したはずのキュウリを発見した。この不思議な出来事をツィッターでつぶやくと話がネット上で拡散され、ついに「二つ目のキュウリの謎」という流行語が生まれてしまった。
500億年後。
「二つ目のキュウリの謎」という言葉の語源を調べていた言語学者が、百合子の事件の記録に辿り着く。
さらに、ほぼ同じ時刻にその近くの道路で、ひとりの男が自分自身の死体を目撃していた。
何か重大な事件の存在に気づいた言語学者は、多元宇宙の秩序を管理しているマルチバース委員会に報告を行った。
調査を担当した委員のバートレット教授の語った事件の真相はこうだった。
マルチバース物理学の根幹となっている「のし餅理論」によれば、宇宙とはのし餅のようなもので、ファースト・ユニバースの上にセカンド・ユニバース、サード・ユニバース……といくつもの平行宇宙が重なった構造をしている。かつてそのファースト・ユニバースに所属するターニップ博士が21世紀の地球で東城卓也という男が起こした交通事故を隠蔽するために、時空を操作して被害者の体が東城の車にはねられた瞬間、その周囲の空間を数秒間だけ隣の平行宇宙の空間と交換していたのだ。
その結果、被害者の体は隣の宇宙に移動し、元の宇宙では事故の証拠がなくなったために東城は逮捕されずに済んだ。しかしこのとき隣の宇宙では、平行宇宙間の微妙な差異によって事故に遭わなかった男が、本来なら隣の宇宙にあるはずの自分の死体を目撃することとなった。また、たまたま事故現場の近くにあった百合子の自宅の冷蔵庫も隣の宇宙のものと交換されたために、百合子が自分の宇宙ではすでに取り出したはずのキュウリを発見することになったのだ。
歴史を改変して交通事故を隠蔽したターニップ博士の行為は明らかな犯罪であった。委員会は法に基づいて博士の存在を宇宙から抹消しようとした。
しかしバートレット教授はそれを止める。ターニップ博士は流れ込んで来る多量のダークエネルギーのために、このままではビッグリップが生じて宇宙全体が引き裂かれるという恐るべき予測を導き出していたのだ。
平行宇宙は今もなお増殖し続けており、新しい宇宙の重力が古い宇宙に及ぼす影響がダークエネルギーとなって時空を押し広げて続けている。ビッグリップを防ぐためには平行宇宙群を五次元的に丸めてドーナツ型にすることで、宇宙を押し広げるエネルギーを回転エネルギーに変換するしかない。
この計画の実行には平行宇宙同士の協力が必要だったが、幸いなことにそれぞれの宇宙の科学者が同じことに気づいて行動に移していた。
だが、ターニップ博士はこの動きに同調していない宇宙が存在していることに気づいた。その宇宙では物理学の進歩が遅かったために対処が遅れてしまっているのだ。
これは他の宇宙では21世紀後半に発見された「のし餅理論」が、その宇宙では発見されていなかったことが原因だった。「のし餅理論」の発見者となるはずだった東城博士が理論を発見する前に交通事故を起こして逮捕されてしまい研究が中断されてしまったからだったのだ。
バートレット教授は言う。
「もしもターニップ博士が歴史を改変してドーナツ計画を成功させなかったなら、我々の宇宙はビッグリップによってすでに引き裂かれ、我々はここに存在していない。存在しない者が法を執行することは、物理学上不可能なことなのです」
文字数:1400
内容に関するアピール
テーマが「〝謎〟を解こうとする物語の作成」だったので、ミステリーが良いかなと考えました。
そこで謎の死体が発見される話にしてみました。SFなので謎の死体です。
どんな謎かと言えば、それは第一発見者自身の死体だったのです。
犯人は平行宇宙をトリックに利用して、隣の宇宙に死体を隠すことによって犯罪そのものを隠蔽しようとします。
巻き添えを食って冷蔵庫のキュウリも1本増えます。
この謎に立ち向かう名探偵は、多元宇宙の秩序を管理するマルチバース委員会のバートレット教授。
教授は、なぜ死体とキュウリの数が増えたのかという謎を解くと同時に、なぜそのような犯行が行われたのかについても調査します。
その結果、自分たちが本来ならば、すでに存在していないはずの宇宙に生きていることを知るのです。
ダークエネルギーは、まだその正体が解明されていないそうなので、21世紀の天才科学者が発見する架空の理論「のし餅理論」の根拠に使わせてもらいました。
宇宙の拡大の速度は一時減速したのちに、再び加速し出したことが観測の結果、明らかにされています。
その加速の原因を、新たに生まれたベビーユニバースが、のし餅を重ねるように積み重ねられ、その重みで時間的に「下」の方の宇宙が伸ばされているのだという架空の理論を用いて、平行宇宙の重力が他の宇宙においてダークエネルギーとなって作用しているという設定です。
文字数:579
2本目のキュウリの謎、あるいはバートレット教授はなぜ時空犯罪者を支持することにしたのか?
その朝、緑川百合子は朝食のトマトサラダを作ろうとしていた。
冷蔵庫からキュウリを取り出して刻み、次にトマトを取り出すために再び冷蔵庫を開けると、なぜかそこにトマトの代わりに自分がたったいま刻んだばかりのキュウリが入っていた。
百合子は早速、この奇妙な出来事をツィッターでつぶやいた。たまたま彼女のフォロワーのそのまたフォロワーに人気アイドルの同級生がいた。アイドルは同級生からリツィートされて来た百合子のツィートをリツィートし、アイドルのファンの間にこのツィートが拡散し、いくつものコメントが付けられた。
曰く「2本目のキュウリはどこから来たのか?」「2本目のキュウリの謎を解け」「それは緑色の細長いトマトなんだ」「冷蔵庫はクローン生成機だったのか」「実は私がキュウリです」「生き別れの兄弟を見つけたぞ! byキュウリ」etc……。拡散は芸能界を通じてアーティスト仲間から海外にまで広がり、マスコミで取り上げられ、ついにその年の流行語大賞を取ってしまった。
さて、緑川百合子自身はあずかり知らぬことだったが、この2本目のキュウリの事件が起きたのと同じ朝、東城卓也という男の運転する乗用車が彼女の住むアパートの裏道を走っていた。彼の職業は物理学の教授で、この日の1限に行う講義のために大学に向かっているところだった。
東城の車が小さな四つ角に差し掛かったその時、ひとりの青年が、ろくに左右の確認もせずに道を渡ろうとして東城の車のボンネットに衝突し、撥ね飛ばされ……消えた。
東城は車を停車させて周囲を探したが何も見当たらない。そして彼のボコボコの愛車のボンネットには新たなへこみが出来ているかどうかは、持ち主である東城自身にも判断ができなかった。一応、警察は呼んだもののやはり何も見当たらず、やって来た警官たちも東城の目の錯覚だったのだろうと結論付けた。
そんな「事件」があったために東城はその日の講義に少し遅刻してしまった。ざわついていた教室が鎮まるのを待って、東城は教卓の上からゼムクリップを1個つまみ上げると講義を始めた。
「私は手にクリップを持っているね。手を離すと下に落ちる。この時に働いた力を何と言うかな? そう、重力だ。正確には地球の重力だね。地球の大きさがどのぐらいかわかるかな? だいたい直径1万2千700キロメートルだ。さて、今日はここで驚くべき実験を行おう」
東城はポケットから磁石を取り出した。
「これは磁石だ。手のひらに乗るサイズ。こいつをさっきのクリップに近づけてみよう。地球の重力で引き寄せられているクリップだ。一瞬だから、目を離すなよ。さあ!」
クリップが磁石に吸い寄せられてくっつく。
「驚くべき実験結果だと思わないか? 直径1万2千700キロメートルの巨大な地球の重力が、手のひらに乗るような小さな磁石の磁力に負けたんだ。なぜ重力とはこんなにも弱いのか、今日はその話をしよう……」
その日から、500億年の時が流れた……。
多元宇宙の秩序を管理しているマルチバース委員会に、外部の人間からのコンタクトがあった。
「ルーヴィン博士という男です」
秘書のAIにそう言われたアロイス委員会議長は、名簿の検索結果に目を向けた。
「物理学者の名簿には載っていない人物だな。数学者か?」
「言語学者だそうです」
アロイスは片方の眉を少し上げた。
「言語学者がなぜマルチバース委員会に用がある?」
「マルチバースを構成する平行宇宙のひとつに奇妙な点を発見したと」
「それを言語学者が物理学者に教えに来たのか?」
「そう言っています」
アロイスはしばらく考えた後、委員会のメンバーに招集をかけた。
間もなく議場の中央で待っていたルーヴィン博士の周囲にメンバーたちが姿を現した。もちろんルーヴィン自身を含めた全員が立体映像だが。無数の平行宇宙にそのオリジナル・データを置くメンバーたちの映像が「一堂に会した」光景はさながら輝くビーズの群れのようだ。
「物理学者に物理学を教えに来た言語学者とは君かね?」
最初に言葉を発したのはマハロ博士だった。発言と同時に彼の映像が拡大されて議場の中央に表示される。球形の部屋の空中にマハロとその周囲の空間が巨大なシャボン玉のように浮かんだ。
(マハロはいつも軽率だ)
と、アロイスは苦々しく思う。
「私は言語学の話をしに来たのですよ。言語学者なので」
と、言語学者は答えた。
「なるほど。筋が通っている」
と、バートレット教授が感心したように言った。教授はすぐに手元のパネルを操作して議場のコンピューターが自動拡大した自分の映像を元のサイズに戻したが、アロイスの鋭い観察眼はその口元に浮かんだかすかな微笑を見逃さなかった。
(面白がってるな、こいつ)
「できれば手短かにお願いしたいな」
そう言ったのはターニップ博士。委員会の古株だ。ターニップも控えめに自分の映像のサイズをすぐに戻す。ルーヴィン博士は、アロイス(議長の映像は常に拡大されている)の方に視線を送ってから口を開いた。
「まずお尋ねしたいのですが、皆さんの中に〈2本目のキュウリの謎〉という言葉をご存知の方はいますか?」
「知らんな」
と、ターニップ博士がつまらなそうな顔で言った。言うと同時に拡大された自分の映像をスッと元に戻す。
「私も知りません」
と、バートレット教授。アロイスには少し意外だった。なぜだか彼はバートレット教授は森羅万象の全てに通じているはずだと思い込んでいたのだ。
「そんな言葉が存在するのか?」
と、マハロ博士が疑わしそうに言う。
「そう。皆さんはご存知でない。ところが私は知っていたのです」
と、ルーヴィン博士。
「それがどうしたと言うんだ? 言語学者が言語に詳しいのは当たり前じゃないか!」
マハロ博士が甲高い声を上げた。
「あの……」
マハロとは対照的に低い小声で口を挟んだのはロイド博士だった。浅黒い肌をした小柄な男の映像が拡大される。
「私は知っていました。それはゲーム……ナンセンスな質問に頓智で答える遊びのことでしょう?」
「その通り、ええと……(ルーヴィン博士は素早くロイドの胸元に浮かんだネームボックスに目を走らせた)ロイド博士。あなたは恐らくUN57689–3ユニバースのご出身ですね?」
「その通りです」
ロイド博士は目をパチクリさせた。
「面白い! それは言語学的に分かることなのかね?」
からかうような口調で茶々を入れたのは、もちろんマハロだ。アロイスは誰にも聞かれないように軽く舌打ちをした。だが言語学者は動じなかった。
「その通りです」
と、無表情に答える。
「なぜなら、この言葉が存在する宇宙はUN57689–3ユニバースだけだからです」
マハロ博士がまだ何か言いたそうにしたので、アロイスは議長権限で彼の映像を縮小した。
「……どうぞ、続けて下さいルーヴィン博士」
「ご存知の通り、我々の属するマルチバースはいくつもの平行宇宙の集合体です。平行宇宙にはベビーユニバースを生み出して増殖する性質があるからです。そして生み出されたベビーユニバースは、その親となる平行宇宙に性質や構造が似ている……」
「物理学の講義をわざわざどうも」
またもマハロ博士が口を挟む。ルーヴィン博士はその映像にチラリと視線を送ると、
「子張問う、十世知る可きや。子曰く、殷は夏の礼に因る。損益する所知る可きなり。周は殷の礼に因る。損益する所知る可きなり。其れ或いは周を継ぐ者は、百世と雖も知る可きなり」
と、一息に言った。
「『論語』為政第二です。ご存知ですかな?」
「言語学者の知識のひけらかしに付き合っていられるほど、マルチバース委員会のメンバーは暇ではない!」
マハロは顔を赤くして言った。
「新しく出来た国はその元になった国に似るものだという意味です。国を宇宙に置き換えて考えれば、ベビーユニバースはその親宇宙に、親宇宙もそのまた親宇宙に似ているということになります。つまり隣り合う宇宙同士は似ているはずなのです。ところがなぜかこの言葉〈2本目のキュウリの謎〉だけは周囲の宇宙に類似の言葉がまったく見当たらず、UN57689–3ユニバースのみにしか存在しないのです」
議場にさざめきが起こり、ビーズ玉が波打つように拡大と縮小を繰り返した。
「私の専門は言語考古学です。古代の言語の調査を行っている時にこの事実に気づき、この言葉が生まれた時期と場所を調査しました。その結果分かったことは、この言葉はなんと21世紀の地球で生まれたものだったのです」
「21世紀?」
アロイスは思わず聞き返した。
「まだ人間が物体であった時代だね」
バートレット教授が説明した。
「原始人の時代か」
マハロが馬鹿にしたような口調で言う。それを待っていたかのようにルーヴィン博士が言った。
「その通り。東城卓也教授が生きていた時代です」
この言葉に議場はどよめいた。東城卓也の名を知らない物理学者は存在しない。マハロは真っ赤になった。狡猾な言語学者の罠に嵌り、マルチバース構造学の始祖を「原始人」呼ばわりしてしまったことに気づいたのだ。マルチバース委員会は、この東城卓也の生み出した〈のし餅理論〉に基づいて多元宇宙の管理を行っている。東城教授の業績なしにはマルチバース委員会は存在しない。マハロが文字通り「小さくなる」と、ルーヴィンは議場内をおもむろに見回し、発言を続けた。
「まさに東城卓也教授が生きていたその時代に、ひとつの宇宙が隣接する宇宙と異なる特徴を持った。これには何か意味があるはずだと考えた私は、同じ時代の言語についてさらに詳しく調査しました。するとUN57689–3ユニバースに隣接する平行宇宙UN57689–2ユニバースに、もうひとつやはり他の宇宙には存在していなかった文章を発見したのです」
議場内は、しんとしてルーヴィンの言葉に耳を傾けていた。〈のし餅理論〉が誕生した時空の話なのだ。マルチバース委員会のメンバーが興味を持たないはずはなかった。
「当時ブログと呼ばれていた個人の日記に、以下のような文章が記録されていました……」
議場全体が固唾を飲む中で、ルーヴィンはその記述を読みあげた。
「〈ありのまま、いま起こった事を話すぜ。おれは道を歩いていたと思ったら、おれが空から降って来た。何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何が起こったのかわからなかった〉……以上です」
なんとも言えない空気が議場を包む。
「……古代の庶民階級のスラングで記述されているために非常に難解な文章ではありますが、その内容は、このブログを書いた男が、自分自身が空から降って来るのを目撃したというものです。そして彼がその事件に遭遇したのとほぼ同じ時刻に、隣の宇宙の数メートルしか離れていない場所で2本目のキュウリの事件が起きているのです。この事件とはすでに刻んだはずのキュウリが元の場所に再び姿を現したというもので、2つの事件に共通するのは……」
「同じものが2つ存在した」
アロイスは言った。普段は決して他人の発言を遮ったりしない議長であったが、この時は驚きのあまりマナーを忘れてしまった。
「その通りです」
と、ルーヴィンは気を悪くした風もなく言った。むしろ自分の発言がマルチバース委員会議長をここまで動揺させたことを誇らしく感じている様子だった。
「みなさん」
と、ルーヴィンは言った。
「私はこの時代において、何らかの時空犯罪が行われたのではないかという疑いを持ち、そのことをマルチバース委員会に報告に参ったのです。それも東城卓也博士の存命中という非常に重大な時代の時空に手を加えた者がいるということを」
議場内を沈黙が包み、アロイス議長は自分の職務を思い出して委員会の解散を告げた。ビース玉の光が少しずつ消え、暗くなった空間に取り残されたアロイスは、自分の取るべき行動について思い巡らせた。最も正しい道とは?
「で、その結論が、僕に丸投げか?」
と、バートレット教授は呆れ声を上げた。
「こういうことは、下手に私が考えるより得意な君に任せた方が良いと思うんだ。以前クリスなんとかという作家の遺言書の話をしてくれたろう?」
と、アロイスは言う。
「アガサ・クリスティーのミステリー、『謎の遺言書』か?」
「そう、それそれだ。私は君のヘラクレス【「ヘラクレス」に傍点】並みの知性に期待しているんだ」
「エルキュール【「エルキュール」に傍点】と発音して欲しかったところだがね。うーむ、マルチバース委員会議長が、僕の灰色の脳細胞を頼りにしているのか……」
アロイスは内心しめたと思った。バートレット教授はマルチバース委員会最高の頭脳の持ち主だが、7歳児並みにおだてに乗りやすいのだ。
「そうなんだ。君の灰色の脳細胞(って何だろう?)だけが頼りでね。例の言語学者が持ち込んだ問題は、困ったことに事実だったんだ。隣り合う平行宇宙UN57689–2とUN57689–3の間で、確かに時空の一部が入れ替わっていた。わずか半径5メートルという点にも満たないほどの小さな空間だが」
「なるほど、それはミステリーだな」
「マルチバース委員会発足以来の不祥事だ。誰が、いつ、何の目的で、我々の厳重な監視の目をかい潜ってこんな犯罪をやってのけたのか皆目見当がつかない。このままでは委員会の面目は丸つぶれだ」
「分かった。引き受けるよ。なにしろ僕は7歳児並みにおだてに乗りやすいのでね」
アロイスの硬直した笑顔の映像が消えると、バートレット教授は〈灰色の脳細胞〉を働かせた。(データ人格である彼に物理的な意味での脳細胞は存在しないのだが、細かいことを気にしていてはミステリーの探偵にはなり切れない)
ルーヴィン博士は「2本目のキュウリの謎」という言葉が存在するのはUN57689–3だけだと言った。
UN57689–2とUN57689–3の間で時空の入れ替わりが起きたのならUN57689–2の方でも類似した異変が起きているはず。
なぜ、平行宇宙においては「2本目のキュウリの謎」に類似した記録が残らなかったのか?
「その夜の犬の不思議な行動に注視せよ……か」
と、教授は英国の名探偵のようにつぶやいた。
「さて、ワトソン君」
と、バートレット教授は言った。
「どうしました? シャーロック・ホームズさん」
と、学習能力の高いAIが答える。
「言語学者が持ち込んだ問題が、我が委員会議長を悩ませている。君だったらどうする?」
「言語学者が持ち込んだ問題ならば、言語学者に持ち帰らせます」
と、AIは答えた。
「すばらしいアイデアだ!」
バートレット教授は、ルーヴィン博士に連絡を取った。
ルーヴィン博士によると「2本目のキュウリの謎」について最初にツィッターにつぶやいたのはUN57689–3の緑川百合子という女性だった。
「このとき、UN57689–2の緑川百合子は、どんなツィートを残していたんです?」
「確認しましたが、彼女は同じ日に自宅近くで起きた変死体の発見事件をツィートしています」
「なるほど、その事件のせいでキュウリの異変のことなど頭から吹っ飛んでしまったのだな。これが犬の不思議な行動の理由だ」
「犬の?」
アシスタントAIほど教授に慣れていないルーヴィンは聞き返した。バートレット教授は、それには答えず推理を進める。
「恐らくUN57689–2の緑川百合子は、平行宇宙間に生じるわずかな差異のために冷蔵庫からキュウリではなくトマトを先に取り出したのだろう。UN57689–3の宇宙で、トマトの代わりにすでに取り出されていたはずのキュウリが冷蔵庫に残っていたのはそのせいだ。UN57689–3の緑川百合子がキュウリを取り出した直後に冷蔵庫の置かれていた時空がUN57689–2のものと入れ替わったためにUN57689–3の緑川百合子は、取り出したはずのキュウリを冷蔵庫の中に見つけたというわけだ。これが2つ目のキュウリの謎の正しい解答ですよ。ありがとう。そしてごきげんよう、ルーヴィン博士」
バートレット教授は、早口にそう言った、そしてためらいがちに会釈したルーヴィンの姿が目の前から消えると、アシスタントAIを呼んだ。
「ヘイスティングス大尉!」
「はい、エルキュール・ポアロさん」
賢いAIが答える。
「東城卓也教授についての資料を揃えてくれ」
AIは、数秒のうちに資料を揃えて教授の前に表示した。
東城博士はダークエネルギーについての研究を行っていた。宇宙空間を押し広げている観測不能のエネルギーは、一体どこからやって来たのかという研究だ。
やがて博士は重力の奇妙な性質に注目するようになる。自然界に存在する4つの力、電磁気力、弱い力、強い力、重力のうち、なぜか重力だけは不自然に弱い。他の3つの力の強さを考えれば重力の力とは本来こんなものではなかったはずだ。ではその力は一体どこへ行ってしまったのだろう?
どこから来たのか分からない力と、どこへ行ったのか分からない力。
東城博士は、この2つを同じものだと仮定した。問題は重力の不足分に比べてダークエネルギーが大きすぎるという点だった。
そこで考え付いたのが〈のし餅理論〉だった。博士は宇宙を積み重なった餅のようなものだと考えたのだ。
柔らかい餅を積み重ねると、下の方の餅は上に乗った餅の重さで押しつぶされて平たく広がる。餅を宇宙と考えると、宇宙がその外側からの力によって押し広げられる形になっている。宇宙の外側にあるものは観測できないが、押し広げられた宇宙そのものは観測できる。これが観測できないダークエネルギーによって宇宙が押し広げられる仕組みなのだと東城教授は考えたのだ。
上の宇宙の重力は、下の宇宙を押し広げるのに使われるため宇宙の内側で働く力は弱くなる。上に積み重ねられた宇宙の数が多ければ、下の宇宙には大きな力が加わることになり、ダークエネルギーの大きさが重力の不足分よりはるかに大きい理由の説明がつく。
宇宙が生まれた当初、このダークエネルギーは存在しなかった。宇宙を広げていたのは専らビックバンの名残りのエネルギーで、だから宇宙の膨張はやがて止まると考えられていたのだ。
だが、ビッグバンから6800億年ほど経った頃、なぜか宇宙の膨張が再加速する。再び宇宙を押し広げ始めたダークエネルギーの正体をベビーユニバースの重力だと考えれば、この理由が説明出来る。
ベビーユニバースは、元の宇宙が生まれた後で生成されるものであるからだ。
バートレット教授は積み重ねられたのし餅を想像して「一番下の餅は重そうだな」つぶやいた。
「一体どのぐらいの重さなんだろうね?」
と、AIに話しかけた時、マハロ博士の来訪が告げられた。
「君がアロイス議長から頼まれて、例の言語学者の持ち込んだ問題に取り組んでいると聞いて助言しにやって来たんだ」
マハロは空中に浮かぶシャボン玉の中でせっかちに体を揺すりながら、言った。
「どんな助言だね?」
「無駄なことだ。すぐに止めろ」
「その根拠は?」
「時空を入れ替えるなどという大掛かりな犯罪は、マルチバースの制御システムを使わなければ不可能だ。僕はあの後すぐにマルチバースの制御システムの確認を行ったんだ。システムはただの一度も破られていない。たとえ誰かが時空犯罪を企んだとしても手段がなければ実行は出来なかったはずだ」
「なるほど。君の言うことは論理的だ」
バートレット教授は素直に感心してみせた。
「だろう? だから君の為すべきことは、言葉を操るのだけが得意な言語学者なんかの嘘に踊らされて無駄に時間を浪費することではなく、奴がなぜ嘘をついたのか、その理由を探ることなんだ。何か大きな陰謀の臭いがするぞ……」
「興味深い話をありがとう」
興奮に鼻をひくつかせたマハロの姿が目の前から消えると、待ちかねたようにアシスタントAIが「教授」と呼んだ。
「先ほどのご質問の答えが出ました」
「質問?」
「一番下ののし餅、すなわちファースト・ユニバースにかかるダークエネルギーの大きさについての質問です」
バートレット教授は、さっき自分がAIに話しかけた言葉を思い出して苦笑した。誠実なAIは、あれを「質問」と捉えたのだ。
「で、その解答とは?」
馬鹿正直なAIが目の前に表示した数字を見て微笑みかけた教授は、ふと真顔に返った。
「ターニップ博士に面会を申し込んでくれ」
AIは、速やかに命令を実行した。
古参のマルチバース委員は、少し面倒臭そうな態度でバートレット教授を迎えた。安楽椅子にもたれ、目は半分閉じかけているように見える。
「プライベートな時間にお邪魔して申し訳ありませんが、ターニップ博士。実はアロイス議長から例の言語学者の持ち込んだ問題の解決を頼まれまして」
その言葉にターニップ博士は、かすかに目を開いた。
「アロイスから、やっかいごと押し付けられたのか?」
「喜んで押し付けられました。これはどうやら密室犯罪ミステリーのようなので」
「密室?」
「そうです。アロイス議長によれば、マルチバースはその誕生以来、委員会によって厳重に監視されています。言わば密室です。そのマルチバースにおいて時空犯罪が行われた。つまりこれは密室犯罪なのです」
「面白い考え方だ」
と、ターニップ博士は言った。
「東城教授の〈のし餅理論〉によれば……」
と、バートレット教授は話し出す。
「この宇宙は平行宇宙積み重なったのし餅のような構造をしています。そのままでは〈一番下〉の平行宇宙であるファースト・ユニバースは、その後に生まれた無数のベビーユニバースから受ける重力、すなわちダークエネルギーによって押し延ばされ、最終的に裂けてバラバラになってしまう。ビッグリップと呼ばれる現象です」
「私に物理学の講義をしに来たのかね? お若いの」
「もちろん、博士がマルチバース委員会最古参のメンバーであることは存じております」
バートレット教授は、遜った態度で言った。
「その教授にお尋ねしたいことがあるのです。なぜビッグリップは起きていないのでしょう?」
「なるほど、君は私に面白い話を聞かせに来たのだな」
ターニップ博士は、安楽椅子から身を起こした。
「……このマルチバースのいずれの宇宙でもビッグリップが起きていない理由は、マルチバースが回転するドーナツ状の構造をしているからだ。正確には無数の平行宇宙をドーナツ状に並べた格好だ。平行宇宙が、もしも積み重ねられたのし餅状だったなら、ファースト・ユニバースは、その後に生まれた全ての平行宇宙から来る重力をダークエネルギーとして受けとめなければならないことになる。だが平行宇宙がドーナツ状に並べられているマルチユニバースでは、ファースト・ユニバースは自らにかかる重力をラスト・ユニバース——便宜上、そう呼ぶが——に逃がすことが出来る。危険なダークエネルギーをマルチユニバースの回転エネルギーに変えることでビッグリップが起きるのを防いでいるのだ」
ここまで一息で言ってから、ターニップ博士はバートレット教授の目をまっすぐに見つめた。
「……だが、君が聞きたいのは、こんな話ではないのだろう?」
「さっきマハロが僕のところへやって来まして、とても興味深い話をしていったのです」
「お得意の陰謀論かね?」
「まあ、それもありましたが、彼はこう言ったのです。『手段がなければ実行は出来ない』」
「マハロにしては論理的だ」
「ビッグリップを防ぐには、マルチバースの無数の平行宇宙を全てドーナツ状に並べなければならない。それには全ての宇宙の文明が協力して同時にその位置を動かさなくてはなりません。しかし回転するマルチバース・システムが作られた時点で、本当に全ての平行宇宙の文明が自らの宇宙を動かす技術力を持っていたのでしょうか?」
「ベビーユニバースは親宇宙のコピーだ。どれもだいたい似通っている。技術の水準も同じようなものだった」
「同じようなものだった。【「だった」に傍点】よくご存知だ。なぜならこの回転するマルチバースのシステムは、あなたが考案したものなのですから」
「ひけらかすつもりもないが、隠すつもりもない。その通りだ。現行のマルチバースのシステムは私が作った」
「そうです。回転するマルチバースのシステムは多次元宇宙の自然の状態ではなく人工的に作られたものだった。つまりこのシステムが完成する前の時代というものが存在するわけです」
「当然だ」
「その時代に時空犯罪が行われたのならマルチバースのシステムをどんなに監視していても犯罪は発見できない。そしてシステムが完成する前に、それに匹敵する時空制御システムを動かせたのは、マルチバースのシステムを作り出すほどの技術力を持った者だけのはずです」
バートレット教授は、ターニップ博士の目をまっすぐに見つめて言った。博士は軽く首を振った。
「それが君の面白い話かね? なぜ、この私が時空犯罪を犯したと考える?」
「博士は先ほど平行宇宙の技術の水準は同じようなものだったとおっしゃいましたが、例外はなかったのですか?」
「例外?」
「ある宇宙、例えばUN57689–2ユニバースの技術水準が、他の宇宙より劣っていたとか?」
博士の表情は動かなかった。バートレット教授は少し戸惑った。自分の推理は完璧なはずなのだが……。
「21世紀の後半……」と、教授は話し始めた。「UN57689–2宇宙でひとりの男が交通事故で死にました。乗用車に撥ねられ首の骨を折っての即死です。その乗用車を運転していたのが当時新進気鋭の物理学者だった東城卓也教授、後に〈のし餅理論〉を発表した科学者です。いや発表するはずだったというべきでしょう。UN57689–2の宇宙では、この事故が原因で彼は大学を退職。研究も止めてしまったのだから」
バートレット教授は、ターニップが何かを言うだろうかと思ってその表情を窺ったが、相手は無言のまま、ただ顔をまっすぐこちらに向けている。白くて丸い顔。まさに蕪【ルビ:ターニップ】だ。
「宇宙全体か見れば小さな差異。しかし回転するマルチバースのシステムを作ろうとした際に、この差異は大きな問題となりました。東城教授が〈のし餅理論〉を生み出さなかった宇宙では、多元宇宙の構造についての研究が遅れ、その結果、時空の制御技術が大きく遅れてしまっていたからです。これでは全ての平行宇宙を同時に動かさなくてはならないマルチバース・システムは起動させられません。すでにファースト・ユニバースでビッグリップが起きかけていたというのに!」
ターニップ博士は顔色すら変えない。
「……そこであなたは2つの宇宙、UN57689–2と隣接するUN57689–3の時空をほんの一部だけ入れ替えることにした。東城教授の車にはねられた浜田ヒロシの体が存在する空間を中心に、たった半径5メートル。しかしその内側には薄いアパートの壁を隔てて、緑川百合子のアパートの台所が、彼女の冷蔵庫があったのです」
「なるほど、面白い。そしてどうなったんだね?」
ターニップ博士がようやく口を開いた。何か面白がっているようにさえ見える。
「……平行して存在する宇宙は、似通ってはいるが、完璧に同じではありません。UN57689–2の宇宙では、UN57689–3の宇宙と比べて、浜田ヒロシが道路に飛び出すのが少しだけ早かった。UN57689–3では東城教授の車が通過したあとで道路に飛び出した浜田ヒロシは、UN57689–2では乗用車のすぐ前に飛び出してしまった。そして撥ねられた。体が空中へ飛ぶ。あなたが時空を入れ替える。その結果、UN57689–3ユニバースで、浜田ヒロシは目の前に落ちて来た自分自身を目撃することになり、UN57689–2ユニバースでは東城教授の起こした事故はなかったことになった。歴史の改変が行われ、マルチバースの回転システムは無事に動き出しました」
言い終えて、バートレット教授は軽い息切れを感じていた。人格データの身体認識はいらないところで精巧だった。
「正解だ」
ターニップ博士は、なぜか嬉しそうに言った。
「あんな小さな時空の交換に、まさか気づかれるとはね。物理的観測ではまず発見されないはずだったのに、まさか言語学者に見つかるとは。ところで、それが分かったところで君はどうするんだ?」
「委員会で定めた法に則れば時空犯罪を犯した者は、その存在を全宇宙において抹消し、それによって犯罪をそのものが起きなかった状態に時空を修復します」
「うん、その法律も私が作った」
「けれど今回の場合、規則通りの修復を行えばマルチバース・システムそのものが生まれなかったことになり、当然、マルチバース委員会も存在しません。存在しないものが法を執行することは物理的に不可能です」
少し沈黙があった。次に口を開いたのはターニップ博士だった。
「賢明だね、バートレット教授、君も薄々気づいている通り、我々の住む多元宇宙世界は人工的に手を加えられた宇宙によって成り立っている。自然のままの宇宙が我々にとってこんなに都合よくできているはずはないだろう。私がやったことが小さな交通事故の隠蔽だけだと思っているのかね?」
そう言うと博士は、唇に悪魔の微笑みを浮かべた。
バートレット教授は、ターニップ博士の前から姿を消すと、すぐにアロイス委員会議長にアポイントを取った。教授の頭からはターニップ博士の言葉が離れなかった
「自然のままの宇宙が我々にとってこんなに都合よくできているはずはないだろう」
博士は、いったいどのぐらい昔から宇宙に手を加えているのだろうか?
(彼は間違いなく時空犯罪者だが、そもそも人類とその文明は時空犯罪の上に成り立っていたのかも知れない)
AIがアロイスの来訪を告げる。目の前に現れたマルチバース委員会議長に、バートレット教授は言った。
「提案がひとつあるんだが」
「提案?」
「ルーヴィン博士を委員会の顧問にできないだろうか? 物理学的には見えにくいものが彼には発見できるようだ」
「君がそう言うということは、彼の持ち込んだ時空犯罪の問題は解決できたということなのかな?」
「それについては良いニュースと悪いニュースがあるんだが、どちらを先に聞きたい?」
アロイスは教授の不自然な快活さに疑いの目を向けながら、
「良いニュースから聞かせてくれ」
と、リクエストした。
「では、良いニュース。例の時空犯罪はマルチバースのシステムのせいではなかった」
「で、悪いニュースは?」
「システムが原因ではないので、僕には解決できない」
アロイス議長は、旧友の顔をじっと見つめた。バートレット教授が目の前にある事件の解決を、こうもきっぱりと投げ出すのを見るのは初めてだったのだ。
「どういうことだ?」
「犯罪者を支持せざるを得ないという結論に達したということだよ」
「ちゃんと説明してくれ」
「話は、僕が2本目のキュウリの謎を解いたことに関するものなのだが、最初から話した方が良いかな? 長い話になるんだが」
「構わない。最初から話してくれ」
「じゃあ最初から話すよ。そもそもは、ビッグバンによる宇宙開闢から6800億年後のこと……」
……それは、本当に長い話になった。
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