赴くは我が寂寞たる夢のため

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梗 概

赴くは我が寂寞たる夢のため

”アルコ”と呼ばれる高い塔には、昔から”ティスファ”と名乗る氏族が住んでいた。
伝説によればその手でアルコを建てたと言われているティスファだが、今となってはその建て方はおろか、塔の外に出る方法すらわからないほどに文明は退化していた。

ティスファの人々は昔から原因不明の病を患っていた。
彼らには、共通して「知らない風景をまるで見たことがあるかのように鮮明に映し出したり、知らない人の顔が浮かんだりする」など不思議な幻影が見えるのだ。

主人公クリプトは入れ墨師だ。
(成長して大人になった証として通過儀礼の風習があるティスファにとって、入れ墨は氏族の一員として認められる大事な儀式である)
クリプトが見る幻はいつも同じで、それは一人の少女の姿だった。
会ったこともない見たこともない女の子であったが、彼は幼少期より度々見ていたその幻に、恋をしていた。

ある日、クリプトはアルコの下層に幽閉される「ホラ吹き老人」と接触する。
”塔の外から来た”という彼の言葉は氏族の誰も真に受けないが、クリプトは興味を持った。
老人は、ティスファの人々が見る”幻”は病ではなく、人間に備わった正常な機能だと告げる。
曰く、それは古代の人間が備えていた眼球内のコンピューターであり、彼らが見ている”幻”はその通信によって偶然得た、この世界のどこかで暮らす別の人間の姿だという。
文明後退によって映る文字の意味すらわからなくなった人々は、それを幻と捉えていたのだと。

──それが本当であれば、彼の”幻の少女”も、この世界のどこかに実在するはずだ。

クリプトは老人を信じ、古代の文明について調べ始める。
彼は、自分が掘っている入れ墨の模様と、幻として目に映る奇妙な模様が似通っていることに気づいた。
入れ墨の模様は彼らが失った”文字”であり、代々受け継いだそれは生体コンピューターの管理者権限を起動する鍵だった。
クリプトは入れ墨を解読し、コンピューターを”利用”状態にすることに成功する。
管理者権限を利用して氏族全員を彼らの持つコンピューターへと強制ログインさせることで、ティスファにかつての文明の残滓が舞い戻る。

一方、彼はそれを通して幻の少女の情報を探るが、その結果得られたのは「少女は塔の外にいる」という真実であった。
だがティスファの人々は塔の外へは出られない。
失意に暮れるクリプトだったが、その時に入れ墨と並んでティスファにはもう一つの通過儀礼として非常に細工の凝ったペンダントを贈呈する習慣があることに気づく。
自身のペンダントを解析した結果、彼はその意匠の中に「絶対に塔の外に出ることはできない」と言われていたアルコの外に出る方法が隠されていることを突き止めた。

クリプトは、アルコの外へ出ることを決意する。
幼い頃から幻としてその目に見続け、恋焦がれてきた少女に会いに行くことを誓い、彼は塔の外へと出るための一歩を踏み出した。

文字数:1187

内容に関するアピール

「謎を解く物語」という課題のため、梗概には2つの謎を用意しました。
まず、主人公の生きる世界全体に関わる謎である「謎1:なぜ、人々は幻を見るという病を抱えているのか?」
もう一点が、主人公個人に関わる謎である「謎2:主人公の追い求めている少女は誰か?」
大きな謎と小さな謎の二本の軸をベースに、謎の解決にSFガジェットを絡めるという構成にしました。

キーに使ったSFガジェットは今年発表された「googleが眼球に注入する液体コンピューターの特許を取得した」というニュースから着想を得ました(初めて見たときから、この講座のどこかで使いたかった…)。
液状コンピューターのような身体と一体化したコンピューターの発展系があるとすれば、「生まれたときからすでに人間の身体に予め組み込まれている」コンピューターであろうと考えたからです。

プロットの大筋は「正体の分からない初恋の女の子の姿を追う」というものですが、これは今回の講師が新井素子先生だったため、「SF要素のあるラブストーリー」にしようと考えた次第です。

文字数:446

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赴くは我が寂寞たる夢のため

「──不幸なことに、我々は我々自身にまつわる全てのことを忘れてしまった」

俺の親父がそう言っていたのを覚えている。

「どこから来たのか、何をすることができたのか、そして何をしてしまったのか──だからこの入れ墨を刻むことは、その罪の証を身体に刻み込むということなんだ」

俺達は忘れてしまった罪の証をその身体に刻んでいる。
親の罪を子が受け継ぎ、子から子孫へと伝えてゆく。いつの日か、遠い過去に親が犯した罪を思い出したその時に、きちんと罪の重さに見合った贖罪を子ができるように、と。
だから、俺達の氏族は成人すると、その証として墨を入れる。何をしても全てが戯れとして許された甘い刹那の子供時代を終えて、忘れられた誰かの罪すらも背負って生きる、大人の証として。

その役目を司るのが、高き塔アルコの住人〈ホロゥ〉の氏族の末裔、叡智の継ぎ手として神に指名されし者──〈入れ墨師〉クリプト。俺の名前だ。

俺は(俺へと連なってきた親達は)人からそう呼ばれている。
人は俺のことを(俺から連なる子達を)そう呼んでいる。

* * *

俺達は、数え切れないほど積み重なった無限の階層と、壁から壁まで歩くだけで一日が終わるほど広い床、それから一生かかってもすべてに入りきることは到底不可能な途方もない数の部屋で構成された高い高い塔の中で生きている。

この高い塔──通称〈アルコ〉と呼ばれている──に一体いつから住みはじめたのか、そもそもなぜこの塔にいるのか、それはもはや誰にも分からない。
伝説によれば、この高い塔は俺達〈ホロゥ〉の氏族の祖先が建てたのだと伝えている。それが本当なら皮肉なものだと思う。なぜなら住人である俺達は、今となってはその建て方はおろか、塔の外に出る方法すら誰にもわからなくなっているのだから。

この塔で生きている俺達にとって、わかっていることはたった一つ。
「俺達は、この塔で生まれてこの塔の中で死んでいく」

それだけだ。それだけだった。

* * *

俺達がこの塔で過ごす一日なんてものは遥か昔から決まっていた。決められていたし、それ以外には存在しなかった。
まず朝起きて食事をした住人たちは〈プラント〉で食料生産に従事する。太陽が上りきったくらいでプラントを離れ、今度はそれぞれの〈役割〉へと向かう。役割は様々で水流管から水を汲んで配給したり、住人が着用する活動着を編んだり、資材を採取したり……それぞれが氏族によって決められた「為すべきこと」を為す。日が沈んだら役割を終えて家に帰る。食事をして寝る。
そんな毎日を時折祭りをしたり、結婚したり、子供が生まれたり、身近な誰かが死んだりしながら繰り返す。生まれてから死ぬまで繰り返す。無論、ホロゥの一員である俺も含めて。
俺が今まで過ごしてきた”そんな毎日”に最初の異変が起きたのは、〈承認祭〉を目前に控えたある日の昼のことだった。
午前のうちに収穫した安全種子を脇に抱えた俺は、収穫物を倉庫へと積み込もうと、同じように種子を抱えた氏族達と倉庫へと続く階段を降りていた。
すると列の前方がにわかに騒がしくなり、一定の歩みで進んでいた隊列が急に止まってしまった。
大勢の人で遮られて前のほうがよく見えなかったので、手近な奴を掴まえて問いかけた。

「何があった?」

肩を掴まれた男が振り向きながら、戸惑ったように俺の質問へと答えた。

「前列の男が足を滑らせて階段から落ちたらしい。聞いたところじゃ、どうやら急に〈幻視〉に襲われたなんて話だ」
──〈幻視〉。それはホロゥの人々を悩ませる、原因不明の病だ。

それは言葉の通り、今まで目に見えていたものが急に見えなくなり、その代わりに視界には全く違う像が写りはじめるという不思議な病だ。
人によって見えるものは様々だが、全く知らない風景がまるで見たことがあるかのように鮮明に映し出されたり、出会ったことないはずの知らない人の顔が克明に浮かんだりすると言われている。
この奇病は短くて数秒、長くて数十秒もすれば元の視界を取り戻すことができた。回復すればその後の生活には特に支障もない。
一説には塔の過去と同じくらい古くからあった病気だとも言われているが、一体いつから氏族がこの病に罹っていたのか、何がきっかけで発症するのか、そして我々に見えているものが一体何なのかさえ、全て不明のままだった。

俺達ホロゥに”氏族の悲願”なるものがあるとすれば、それは二つ。
一つは〈幻視〉の病を解明すること。そしてもう一つは、アルコの外の世界へと出ること。

それはつまり、氏族が背負った罪──俺達が忘れ去ってしまった過去の出来事──を取り戻す。そういうことに他ならない。
俺? 俺は”幻視の正体”も”外の世界”もあまり興味がなかった。実のところ、どうでもいいとさえ思っている。
俺が興味あるのは、後にも先にも一つだけだ。だが、それには到底手が届かないこともわかっていた。

その話はあとでしよう。

* * *

〈承認祭〉の日が今年もやってきた。

ホロゥでは、男女ともに13歳までは”子供”として扱われる。
成人の歳に達した子供たちは、その年に開催される〈承認祭〉で行われる儀式に参加する。儀式は成長して大人となった証を子供が授けられ、授かった子供はその証を氏族たちに見せることで完成する。この儀式を経ることで子供は大人として認められ、正式にホロゥの氏族の一員として迎えられる。
そして昇る陽が一年のうちで最も高い位置となる今日、その儀式が執り行われるのだ。
承認祭における儀式は主に二つの証を授けることによって成り立っている。
一つはホロゥに伝わる文様を入れ墨として身体に彫り込むこと。文様は男女による違いこそあるものの、それ以外は皆同じものを入れる。もう一つは首長から授けられる首飾りだ。この首飾りはその者の出身系譜によって四つの異なる意匠が存在する。いわば入れ墨によってその者がホロゥの氏族であることを表し、首飾りによって氏族の中でもどの系譜に属するのかを記すわけだ。

この儀式で入れ墨を刻むのが代々〈入れ墨師〉を務めた系譜に属し、自身もその役割を受け継いだ俺の務めだ。
実際には時間のかかる彫り作業を全て承認祭のうちに終わらせることは難しいため、成人者の入れ墨は事前に彫っておく。だから今日の承認祭における儀式の要も、彫ることではなくその入れ墨を氏族の仲間に披露することに重きが置かれている。

承認祭は、普段は食料生産が行われるアルコの最上階層で行うのがしきたりだ。アルコ最上階層には空間を4つに仕切るようにプラントエリアが配置されている。その中心部にそれぞれのプラントに囲まれるような形で広場が存在し、この広場が承認祭の舞台となる。
勿論、何故この場所が選ばれるのかはわからない。
そういえば何代か前の族長がこの場所を「アルコで一番太陽に近い場所」だと呼んでいた。だからもしかしたら、遠い昔の人々もそう考えてこの場所を成人の儀の舞台としたのかもしれない、なんてことを俺は考えている。

* * *

夕刻から始まる祭りを前に、俺は自身の作業場でとある少女と向き合っていた。
彫り台に寝かせている少女の肌は透き通るように白く、手足はすらりと長い。一見して大人びた印象を持つ一方、まだ子供としてのあどけなさを残した顔は、まるでその娘の純真さを表しているようだった。
彼女も今年の承認祭に参加する新成人の一人であり、名をフトという。
フトは俺と同じの系譜で居住区も近かったので、自然と幼いときから知った仲だった。年は少し離れていたがよく遊んだし、彼女の成長も見守ってきた。そんな彼女が俺が今年彫る最後の子供であり、また今日の仕上げでそのすべてが終わることもあってか、知らずと気持ちが入っているのがわかった。
いつも以上に丁寧に、そして確実に進めてきたその入れ墨は、完成すればそれは見事なものになるであろうという確信があった。
何歳になっても色彩は鮮やかに褪せることなく、入れた線の境が薄れることはない、フトの氏族入りにふさわしい美しい証。ただそれだけを想像して一心に指先を動かす。
幸いまだ陽も高い。このままいけば、祭が始まる前にはしっかり彼女の彫りも終わるだろう。
──異変が起きたのは、肩の文様の境目に手を付けた時だった。

寸前まで眼下に捉えていたはずのフトの白い肌が、突然消えた。仕上げの一つとして、輪郭を際だたせるために文様の外側をなぞるようにして一段濃い色を入れる作業がある。これに取り掛かっている最中のことだった。細心の注意を払って動かしていた指が消え、俺の入れた美しい墨が消えた。見えていたはずのすべての視界が消えていた。

そうして俺の眼前に代わりに広がっていたのは、一人の少女だった。フトではない少女。その少女を、俺は知らないはずだった。会ったこともなければ、見たこともなかった。……そのはずだった。

だが、俺は知っている。
会ったこともなければ、見たこともないはずの少女を、俺は知っていた。
なぜなら、これが俺が抱えている幻視という病だからだ。

俺の幻視は決まって一つ、いつも同じだった。
少女はどこか広くて高い場所に立っている。体を覆う蒼い外套と、腰まで達しそうな長い髪が風になびいている。後ろ頭しか見えないので表情は分からないが、顔を上げて空を眺める彼女は、きっと穏やかな表情をしているだろうという確信があった。

眼前に現れた少女、彼女の幻を俺は幾度も見てきた。

俺は、その幻以外を見たことがなかった。
それは生まれてから今日まで俺が唯一見てきた、俺だけが見ている、俺自身の幻視。

そして俺は、この幻に……幻の少女を──
気がつくといつの間にか幻視は収まっており、視界には先程までと同じフトの白い背中と、最後の一筆に差し掛かった朱い入れ墨が映っていた。

「……クリプト?」

突然の幻視によって動揺した俺の気配を背中に感じたのか、彼女は心配そうに俺の名を呼んだ。
俺は気を取り直すため、一つ大きく息を吐いてから答える。

「いや、なんでもないよ。最後の最後だからね、失敗したらいけないと思って集中したんだ」

「そっか。クリプトはホロゥで一番絵がうまいから、きっと私の入れ墨もとても綺麗に入れてくれたんだろうな」

フトは柔らかな声で応え、それから笑いながら言った。

「今日の承認祭、私すっごく楽しみ。大人になることがじゃなくて、いやそれもそうなんだけど──なによりも一番、クリプトの入れ墨をみんなに見せられるのが嬉しい」

振り返って俺の目を見た彼女は、優しく微笑んでいた。

「私の人生の大事な瞬間を預けるのがクリプトで良かったよ。私、クリプトだったらなんでも任せられるよ。入れ墨もそうだし、それに──」

そう言ったフトはまるで言い過ぎた自分をたしなめるかのように勢い良く顔を伏せ、そのまま頭を彫り台に沈み込ませた。

「……もうすぐ完成するよ。さぁ、あとちょっとの辛抱、がんばってくれ」

俺はそれだけを言って最後の入れ墨を仕上げる作業に戻った。
──本当は、君がその後に何を言いかけたのか、なんとなくわかっているんだ。フト。

君が俺に友情以上の好意を持っていることを、本当は知っている。その気持ちには気づいていたんだ。君は気づかれていないと思っているようだけれど。

だけどごめん。俺はおそらく、君の気持ちには応えられない。

なぜなら俺には、好きな人がいるからだ。
認めたくはないが、どうしようもなく好きになってしまった。

幻視の間だけ出会える幻の少女。
幼少期より度々見ていたその姿に、俺は気持ちが惹かれているのを自覚していた。会ったこともない見たこともない、ましてや実在するかもわからないが──それでも、はじめて幻視を見たときから気になっていた。

俺は幻視の間にだけ会えるあの幻の少女に、どうしようもなく恋をしていた。

* * *

赤々と燃える聖枝の山を囲んでアルコの塔とホロゥの先祖に祈りを捧げながら、今年も承認祭が始まった。

今年の子供たちが並んでいる。彼らの成人をホロゥの皆に、そして氏族の先祖達に認めてもらうのだ。フトも並んでいた。

彼女が披露したそれは、思った通りの美しさだった。
炎に照らされて宝石のように赤く輝く白い肌と重なり合った彼女の証は、まるでこの夜を飾るにふさわしいと決めた神によって、特別な魅力を授けられたようだった。

フトが俺の方を向いて笑いかけた。美しい笑顔だった。

だが俺は、そんな彼女に向かって何を返したのか──あるいは返さなかったのか。そのことは今もよく思い出せない。

* * *

「水流管が破けた」と大騒ぎしていたのは、承認祭を終えて二月ほど経ったある寒い日のことだった。
水流管はアルコ中に張り巡らされた水の流れに干渉し、その流れの一部を誘導することでプラントや住居に供給する、ホロゥの大事な生命線の一つだ。
特にプラントで栽培している安全種子を無事に実らせるには、とにかく水が欠かせない。安全種子は俺達にとって唯一の主食であり、水流管のトラブルはそのままアルコの住人の生命線が切れかけていると言っても過言ではなかった。

表で騒いでいる人たちに話を聞くと、どうやらそのうちの一本が老朽化で破裂し、流れている水が漏れてしまっていると言っていた。
いつ建てられたのかもよくわからないアルコの施設は、とにかくよく壊れる。水流管が破けたのも一大事には違いなかったが、それほど慌てることでもない。まあ、実際にはよくあることだった。

「……壊れたなら、直せばいいんじゃないのか」

そう、壊れたものは直せばいい。それはここで生きる住人たちの合言葉であり、また日常でもあった。
すると、そんな俺の呟きが聞こえたのか、近所の老婆が声高に話しかけてきた。

「それがね補修員のトロクスが最近インガ病にかかっちまって寝込んでるんだよホラあの人部材採取とかも得意だったろうだから本当大変でさ近くの集落から別の補修員に助けてほしいって言っているらしいんだけど向こうは向こうでたいへんみたいだしいつ来れるかわからないしあそうだ」

耳を突き抜けるような速さでまくし立てていた老婆が急に押し黙り、それからにやりと口角を上げて俺を見た。

「そうだ、いいことを思いついた。あんた、承認祭も終わって暇だろう? ちょっと水流管直すの手伝っておくれよ」

……それは全然いいことじゃないのでは?

* * *

「とんだ貧乏くじを引いたものだよ。氏族たちにわざわざ役割を割り振っている意味もあったもんじゃない」

入れ墨師は手先が器用だから直すのに向いているし何より若い子は体も丈夫だから部材採取も楽だろう、などと有無を言わさぬ勢いで理由を並べ立てる婆さんに気圧されて思わず頷いてしまった俺は、いつの間にか水流管を直す仕事を押し付けられる羽目となった。
愚痴をこぼしながら重い足取りで歩く俺の後ろを、一人の少女がひょこひょことついてきた。

「まあそう言わないで。みんなクリプトのこと、頼りになるって思っているんだよ」

フトだった。そんな俺の状況をどこで聞きつけたのやら、彼女はいつの間にか俺のもとへとやってきて、自分も手伝う手伝わせるまで帰らないと言って俺の寝床の占拠した。ほとほと困り果てた。こうなると彼女の意思を覆すのが難しいことは長年の付き合いからわかっていた俺は、その同行を渋々了承せざるを得なかった。

「なんだか不満そうな顔、してない?」

鋭いな。いや、普通わかるか?

「でもよく考えてみて。私、狩猟浪人の娘だよ? 遺産回収のなら右に出るものなしの一族だよ? それを考えてみると、採取なんてお手の物だよ? 一緒にいたほうがお得だよ? 以上、私の主張は終了です。その上でもう一度考えてみてください。はいどうぞ」

狩猟浪人というのはアルコ各所に眠る、〈失われた遺産〉と呼ばれる過去の道具を採取して住人が使用できるように細工する人々のことだ。フトの父は高名な狩猟浪人であり、その腕はアルコ随一とさえ言われている。無論、俺も彼の腕については尊敬している。

「さ、早く下層に降りよう。さっさと修理資材見つけて水流管直さないと、みんな困っちゃうもんね」

でも父の評判と娘は関係ないのではなかろうか……と思ったものの、反論する隙を見つけられなかった俺は、前のめりに俺の手を引っ張って先を急ごうとするフトの姿に、黙って流されるしかなかった。

彼女の後ろ姿を見ながら歩いてると、ふとそういえばもう”少女”ではないのだな、なんてことを思った。

* * *

アルコの内部は大きく上層、中層、下層の3つの区画に分かれている。
上層は食糧生産をする〈プラント区域〉で、住人の生命線とも呼べる最重要区画だ。
中層は〈居住区域〉となっており、ホロゥの人々は基本的にすべてここに居を構えている。
そして今回俺達が向かうのが、最後に紹介する下層空間だ。
先に紹介した二つと違い、下層には何もないと言われている。だが実際には、探せば色々なものが出てくる便利な場所だ。だからホロゥの人々は時折、必要な物資や資材を採取しに下層まで降りてくる。例えば今回もそうだ。
ただ、この空間が”それだけじゃない”ってことにはみんな気づいていた。かつては上層や中層と同じように何かこの塔にとって大事な役割があったのかもしれないが、今の俺達にとってはもはや何をする場所なのかもわからなくなってしまったのがここだった。

だから今は〈廃棄区画〉とだけ呼ばれている、ただそれだけの広大な無人空間だ。
俺達はそんな場所へと向かっている。
二人を待っていたのは、巨大で背の高い、ひたすら頑丈な扉だった。
上層から下層まで、アルコの各階層へは基本的にこの扉を使って行き来する。いわばアルコの各階層を繋ぐ中心部のようなものだ。
扉の脇にある板に手のひらを押し付けると扉が開く。二人で入り、内側からもう一度手のひらをつける。すると扉が閉まり、どこからともなく壁の震えるような重低音が大きく鳴り響いた。
しばらく待って扉が開くと、いつの間にか下層まで辿り着いているという寸法だ。
特に苦労することもなく辿り着く。

扉が開いてまず感じたのは、長いこと誰も足を踏み入れなかったために淀みきった空気と、室内照明の稼働率が極端に落ちているために空間のそこかしこに闇の落ちた不気味なまでの薄暗さだ。
そして、これこそがまさに下層の特徴と言うべきものだった。

「こんなに不健康そうな景色に、溜まって淀んだ空気。いるだけで病気になりそう。この不気味な雰囲気を感じると、下層に来たって感じがする」とは、フトの弁。

あまりこちらへは来ることのない俺だが、その意見には賛成だ。長居はあまりしたくないと思う。
「嫌なら帰ったほうがいいんじゃないか?」と言いかけたが、すんでのところで思いとどまった。

「そうだな、さっさと用事を済ませてここから出よう。フト、君は一段下の層へ下がって溶着剤を探してきてくれ。俺は管の代わりとなる物を探してくる」
「わかった。なんとなく、管の資材はこのまま奥へ進んだところがありそうな気がする。行ってみて」

そう言うとフトは下へと続く通路を手早く見つけて降りていった。一方、俺は彼女に言われた通りに扉の先にある道を真っすぐ進むことにした。
薄暗い空間はどこまで歩いても変わることなく、この場所ではおよそ生命というものが根付かずに全て消え去ったような印象さえ受ける静かさだった。

そんな空間に目も慣れてきた頃、ふと違和感を感じて立ち止まった。
前方で何かが動いた気配に目を凝らすと、物陰の奥で何かが光ったような気がした。手に持った明かりを気配の感じた方へと向けると、そこにはただ黒くて平らな壁があるだけだった。

「……なんだ?」

先程の違和感が妙に気になった俺は壁まで近づいて辺りを探ったが、やはり何もない。気のせいだと思いその場を離れようと壁に手をついた時にその変化は起こった。

それまで沈黙していた黒い壁が眩いばかりの光を放ち、壁一面が白くなった。
白く光る壁に図形が浮かび上がり、それらは幾つかが動き、幾つかが変化し、集合と離散を繰り返して壁に像を結んでゆく。
先程まで何の変哲もない壁だったはずの場所は白く光る奇妙な壁となり、その真中には不思議な像が浮かんでいた。

それには頭と胴、それから手足らしきものがあった。
だがそれらは全てのっぺりとした球と円で構成され、その姿はまるで子供が落書きした人間のようだった。そして驚くべきことに、その突如現れた壁の像は動いていた。

俺は目を疑いながらも、光る壁とそこに浮かぶ奇妙な像に釘付けとなった。
信じられないような気持ちで動く像を見ていた俺は、もう一度触れてみようと壁に手を伸ばす。
すると、壁の中から声が聞こえた。

『完全環境都市〈ソーレイ・アルコロジー〉生活支援システムです。ご使用になられる方はログインをお願いします。未登録の住民の方はサインインを、外部の方のシステム利用にはゲスト登録が必要です』

不思議な声だった。幼い少年か女のような声に聞こえるが、どこか不自然で金属質な響きがある。今聞こえているのが自分と同じ人間の声だという印象をどうにも受けることが出来ず、俺は警戒しながら反応を伺った。

「かん……そ……なんだって? 今喋ったのは一体だれだ?」
『こちらは完全環境都市〈ソーレイ・アルコロジー〉生活支援システム”RH-09” Rev.11.5.1、開発コードShellac。通称〈シェル〉です。ご利用にはログインをお願いします』
「生活支援……? おい、今喋っているのはそこの……そこの光る壁の落書きマン、もしかしてお前か? お前は何者だ? 生活を助けるのか?』
『はい。シェルは住人のアルコロジーでの生活を生涯にわたってサポートします。メディカルモニタリング、生活習慣サジェストといった日常生活から資産管理、人格マッチングロジックによる交流優先リスト、外出時の塔内移動における位置情報と最短ルート案内、需要品の自動補充機能……』

位置情報。耳慣れない言葉だが、察するに俺が今いる場所がわかるのだろうか。もし仮に俺が求めているものがあるとしたら、それがどこにあるかもこいつはわかるというのか。
そのような質問を投げると、答えはすぐに返ってきた。

『勿論です。巡回セールスマン問題を解決したアルゴリズムによる世界最高精度のナビゲーションをご提供します』
「俺は破裂した水流管の代わりとなる部材を探している。この近くにあると思うのだが、どこに行けばいい」
『シェルの機能をご利用になりたい場合はログインが必要となります。ログインしますか?』

落書きマンの言うことは依然よくわからないが、俺は促されるままに頷いた。

「よくわからない。それで使えるならそうしてくれ」
『住人台帳照合……該当者は登録されていません。ログインにはサインインが必要です。サインインしますか?』
「使えるならなんでもいいよ」
『サインインに必要な情報を入力しています……エラー。サインインには生体情報登録が必要です。生体情報が取得できませんでした。お客様の生体電算は電源が入っていないか、またはログイン状態にありません。シェルは生体電算用プラグインシステムです。生体電算のご利用がない方はサポート対象外です』

この落書きが喋る言葉について、もはや理解できる単語のほうが少ないということはわかってきた。

『〈ソーレイ・アルコロジー〉居住者は生体電算の装用、及び常時接続が必要となります。お客様の利用環境をご確認ください』
「よくわからない。つまり俺はどうしたらいいんだ?」

俺にもわかるように言ってくれ、という要望を出すと、落書きマンはまるで理解の足りない俺をバカにするかのように身体を回しながら踊ってこう答えた。

『あなたは、自身の保有する生体電算にまだログインしていません。生体電算とは、体液内に溶け込ませた有機コンピューターを利用して、人間の身体そのものを情報端末として利用する情報技術です。液状化して眼球内に注入されたデバイスを通して視覚野に直接情報を投影することで、自身の持つ情報と外部情報を区別することなく多層的に情報処理、インターフェースを通じずに生体に直接展開が可能となります』

落書きの説明は幾秒も経たずに俺の理解できる範囲を空高く超え、今や星の高さまできていた。

『あなたの生体電算は現在スリープ状態にあります。このままでは生身の身体と変わらないため、処理できる情報、およびこのアルコロジー内で利用できるシステムが大幅に制限されています。視界に投影されている情報を参考に生体電算へとログインし、アルコロジーの住人として正規登録をしてください』

かろうじて聞き取れた単語から推察するに、俺の身体にはこの落書きから情報を引き出す何かの仕掛けがある。
だがそれは、今のままでは使えない……そういうことになるのだろうか。

「それをすると、どうなる?」
『あなたは現在、住民登録及びゲスト登録もされていません。このままではアルコロジーのサポートを受けることはできない他、短期滞在も認められません。部外者は立ち入り可能区域が極端に制限されていますので、アルコロジーへの滞在を希望される方は住民登録をお願いします。登録状況の紹介を希望される場合は、生体電算をログイン状態にしてください』
「どうすればできるんだ、それは」
『セキュリティの観点から生体電算へのログイン方法について個別にご回答することは出来ません。詳しくは製造元のサポートへお問い合わせください』
「この塔でお前の言っていることがわかるやつはもう一人もいない、お前しかわからないんだ」
『セキュリティの観点から生体電算へのログイン方法について個別にご回答することは出来ません。詳しくは製造元のサポートへお問い合わせください』
「……待ってろよ。そのへんで適当に長くて重くて、振れば壁にめり込みそうな角材を探してくるから。腹が立つほど丸いお前の体が歪むほどその壁を壊してやる」
『セキュリティの観点から生体電算へのログイン方法について個別にご回答することは出来ません……困ります。』

壊れたように同じことばっかり言っているのに腹を立てて半ばヤケクソに脅してみたのだが、意外なことに別のことも喋るようだ。
気を取り直した俺は、ふわふわと壁の中に浮く落書きマンをもう一度見つめた。

俺は壁に描いた絵が動く方法を知らない。落書きが言っている意味もわからない。だが、俺は今本当に大事な話に直面しているということはなんとなくわかった。そして、目の前に偶然掛けられたこの細い橋を渡らなければいけないのは俺だということも。

「俺はこの塔で生まれて、今までここで生きてきたんだ。親も、祖父さんも、そのまた祖父さんもずっとそうやって生きてきた。お前が言っているのは恐らく俺達のはるか先祖の時代のことだろうが、もう、お前が何を求めているのかも俺達にはわからないんだ。だから、教えてくれ。俺は何もわからない。お前の言っていることがわかるようになるには、一体どうしたらいいんだ」

そう言った俺に対して、落書きはしばし考えるかのように沈黙。踊るような動きで身体を回し続けた。

『あなたの身体には、あなたの能力を飛躍的に拡張させる仕組みが生まれたときより備わっています。それはかつて、このアルコロジーを建設するより更に前に、あなた方の祖先が自らの身体を発展させることを目指して手に入れた能力です。その能力を使えば、あらゆることが可能となります。例えば、遠く離れた人々との意思疎通が可能となります。それから、情報の共有。それは言葉と、音と、映像と、匂いと、触覚と、感覚と、それから全ての、あなた以外の誰かが得た情報をあなたも受け取ることができるのです──』

信じられないようなことを次々と並べ立てる落書きの言葉にじっと耳を澄ませる。

『──ですが、今のあなたではその能力を使うことが出来ません。〈生体電算〉と呼ばれる貴方に能力を授けるその仕組みは、その能力を使用することをあなた自身の身体が認証しなければ使うことはできないのです』

「俺達の氏族は、ある病に悩まされている。今見えているものと全然違う世界が見えることが時々あるんだ。それはもしかして、今話していたこととも関係があるのか?」

『通常、出生時に自動認証するはずの生体電算においてログインをせずに使用した例が存在しないためなんとも言えません、ですが、そういった通常の利用方法を経ていない生体電算が誤作動を起こす可能性は十分考えられます。例えば記録されている過去の情報へのランダムアクセスや、他の人間のチャンネルへ繋がってしまうことも──』

──他の人間に、繋がる。

それはつまり、俺が見ていた〈幻視〉が、この世界にいる誰か他の人間が見ていた景色だった……ということにも、なりえるのだろうか。

「も、もし他の人間の視界を見たことがあったとしたら、その視界の持ち主──繋がってしまったその誰かの居場所を知ることもできるのか!?」

『可能です。』

息の止まるような思いだった。もしそれが可能だとしたら、幻のみで出会っていた、絶対に手の届かないと思っていた彼女にも、もしかしたら──

「俺は、この世界のどこかにいるかもしれない一人の人間を探したい。もし俺の身体にそれが可能となる力を秘めているのなら、それを俺は使いたい」

はやる気持ちを抑えて、落ち着いてゆっくりと口を開き、それから俺は先程尋ねた質問と同じことをもう一度問いかけた。

「もう一度聞く。俺は、どうしたらいい。」

『──それには、ログインしてください。あなたは、あなた自身へとログインする必要があります。あなたが生体電算へとログインする方法を見つける必要があります』

俺は、俺なんかが想像できるよりも遥かに広く、深く、そして高い世界へと自分自身が迷いこんでいることを感じていた。

だがその先に、あの少女が──幻の少女がいるとするのなら。

その迷路には挑むだけの価値がある。

(未完)

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