我らが腕を

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梗 概

我らが腕を

人類が消えた地球で、無人偵察船が、太陽系監視局の捜査員である305の死体を発見する。死体の腕は切り取られ、着陸船の近くに転がっていた。私は、同局の捜査員225を派遣し、調査を命じる。なぜ305は、命令なしで地球に向かったのか?

 

1万年前の疫病で人類のほとんどは死に絶えていた。生き残った者は、救出の手を差し伸べた異星人の管理下に置かれ、多くが遠方の惑星で生涯を終えていた。

 

225の調査によれば、腕は死後切り取られたものであり、305の死因は宇宙服の誤作動による窒息死とのことだった。

 

なぜ腕が切り取られたのか?通信記録や無人偵察船の映像を精査したが、死亡後、誰も着陸船に近づいていないことがわかった。私は、上司から、殺害されたのか事故なのか調査結果の報告を迫られていた。

 

私は、無人偵察船から送られてきた映像の時間が改ざんされ、拡大写真の一部が削除されていたことを突き止め、調査担当者であった225の尋問を決める。

 

問い詰められた225は「では、なぜ私は305の腕を切り取ったのですか?」と言い、自らの手首をナイフで切り死んでしまう。私は、その瞬間、生命体が自らの生命を断つ「自殺」を初めて目撃し、衝撃を受ける。そして、225が滅びたはずの人類の遠い子孫であり、それを隠していたことを知る。

 

私は、305も225と同様に自ら命を絶ち、225が305の自殺を隠ぺいしたと考える。305はなぜ自殺したのか?人類が滅びたはずの地球で、人類の肉体、すなわち映像にあった腕を発見したからだ。305は発見した腕に、現在の我々とは異なり、左右の区別を認めた。加えて、腕には傷跡があり、その傷跡が人類特有の習性である自殺の跡だと気づいたのだ。先の疫病の際、人類の多くは治療方法の発見を待たずして、自ら命を絶った。それは私たちには、理解できない行動だった。

 

305は考えた、もしここで人類の復活が知られた場合、疫病対策を理由に、徹底した殲滅作戦が行われる。既に記録されてしまった右腕の存在を隠ぺいするため、自らの腕を発見した腕と入れ替えようと考え、225に相談した。225は、到着と同時に305の腕を切り取り、人間の腕を回収したうえで、帰還する船の中で入れ替えた。

 

私は、人間の腕を隠すために、305がなぜ命を絶つという方法をとらなければならなかったのか、考えていた。305は、腕を隠すこと以上に、自殺という方法で、自身の中にある人類の因子を確認したい欲望に駆られたのではないか。被支配者となった祖先の怒りを、差別され下級吏員に留まる自分の身に重ねたのではないか。私は、225が死んだ瞬間を反芻するうち、自らの祖先が人間である可能性に思い至り、調査を始める。

 

私は自分も、2人と同じく、人間の子孫ではないかと考え、地球に向かう。彷徨のすえ、地球上で人間らしき存在に出会う。相手は、姿かたちから私が仲間であるか疑う。私は、人間の性質をもつことを証明する、唯一の方法たる自殺を試みるが、制止される。そのとき、10本ある私の腕の1つを掴んだのは、225と305が見た人間の右腕であった。

文字数:1273

内容に関するアピール

本作では、なぜ遺体を切断したのか、という謎解きのフォーマットを使いながら、語りである私の出自と、滅びたはずの人類及び地球の歴史と行く末に迫っていきます。一人称の語りなので、主人公が人間とは異なる姿かたちであり(同型の腕が複数あることなど)、人間が持っていた性質を持ち合わせていないこと(自ら命を絶つという選択肢をもっていないことなど)も後半で明らかになります。謎解きを担うのが「私」であることが、本作の謎を解ける、あるいは解けないことのカギとなります。

 

梗概では、謎解きの構造を示すことに紙幅を費やししたため、人物名も含め無味乾燥な印象を与えますが、疫病以来地球の歩んできた歴史や、生き残った人類の状況を活写することで、小説としての厚みをもたせたいと考えています。

文字数:331

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我らが腕を

 

私は病院の待合室にいた。ごぼっと低い咳をしているのは、私だけではない。隣では幼い兄妹が診察の順番を待っている。咳をしているのは妹で、片方の手を兄が、もう片方の手を母親が握っている。兄はもう一方の手にゲーム機をもっている。妹の病状を見かねたのか、電源は切られたままだ。外来は同じ症状を訴える患者であふれていた。

なかなか順番はまわってこない。カーテンの向こうで本当に診察が行われているのか、疑わしくなる。立った姿勢で待つ高齢の夫婦もいたが、席を譲る気にはなれない。じっと座っているだけでもめまいに襲われるからだ。

時間の感覚がなくなってきた頃、入り口付近が騒がしいことに気づいた。診察を待つ人々が壁際に退き、防護マスクを被った者たちが勢いよくこちらに向かってくる。検疫局の調査官だろうか。待合室を緊張感が満たす。先頭が足を止めると、他も倣った。彼らは紙切れを取り出し、事務的かつはきはきとした口調で内容を読み上げ始めた。私の意識が鮮明でないせいか、具体的な中身を聞き取ることができない。

通告の途中で逃げ出す患者もいたが、調査官たちは顧慮せず淡々と職務をこなしているようだった。隣の兄妹は互いの両手を重ね、重苦しい時間をやり過ごそうとしている。本来ならこの先どうなるか気にかけるべき状況だったが、私は診察の順番が回ってこないことを心配し続けていた。

その場にいた患者たちは、次々と腕に番号を貼られていく。拒否する術はなかったが、兄妹の腕に番号が付されたとき、唐突に恐怖が襲ってきた。自分は診察を待つ必要がないのだと気づいて、世界が突然不安定なものになった。

私の顔の前に腕が伸びてきた。その腕が何をしようとしているのか、私はまだ分からずにいた。

 

 

私は病院の待合室にいた。自分の咳の音で目を覚ます。ごぼっという低い咳をしたせいか、周囲から疎ましそうな視線を向けられていた。診察の順番を待っているうちに眠ってしまったようだ。浅い眠りは悪夢を誘う。夢の中でも診察を待っていたが、夢から覚めてもまだ待たされている。

思わず自分の隣を確認したが、幼い兄妹はいなかった。首から噴き出した脂汗を袖でぬぐう。手乗り文鳥ロボット「テバ」のスイッチを入れる。病院ではうるさいかと遠慮していたが、肩に乗せ耳元で囁けば問題にはなるまい。

「ここはどこですか?」

「病院」

「今は何時ですか?」

「27000MS、くらいかな」

「あなたは誰ですか?」

「おい、それはないだろ…」

テバの知能レベルは自由に設定できる。高度なやり取りも可能だが、抜けているくらいが心地よかった。

「電源が入っていないとき、何をしてたんだ?」

「寝ていました」

「おまえは夢は見るのか?」

「夢?」

「寝ているときに見る世界だよ」

テバに夢を説明することほど難しく、空しいことはない。テバを通信モードに切り替えて、局からのメッセージを確認する。

「…地球より緊急連絡」

225の声だった。折り返すと、緊急事態とは思えない明るい声が返ってきた。

「参りましたよ」

「不審者か?」

「305です」

「305がどうした?」

「死にました」

返す言葉が見つからなかった。225のからっとした口調も、取り繕った結果なのかもしれない。

中間管理職としての思考回路に接続すべき情報が、感情を司る部分へと流れ込む。詳細を確認し、事態を類型化する必要があるのに、直立不動で指示を聞く305の姿が不意に思い出された。225は、私が上司としての言葉を取り戻すのをじっと待っていた。

「すぐに戻る。詳細は着いた後にしてもらえるか」

さすがに私も動揺している、とは言えなかった。移動中に報告を聞かされたところで、225の判断を丸ごと受け入れることしかできない。225のあっけらかんとした口調に苛立つことも目に見えている。

殉職は、最前線で調査を行う者なら常に覚悟している。補償の面でも、精神的な面でも、家族、上司、仲間を失う用意できている。それでも、死の衝撃を和らげるには絶対的に時間を必要とした。

看護師に声をかけようと思ったが、見当たらない。10A専用の病棟は放置されているのも同じで、医者も週に1度、2時間しか来ない。仕方なく無人の窓口に書き置きを残して

病院を後にした。診察を受ければ治る病気でもない。

ツイッグ病は、腕の関節の可動域が狭くなり、徐々に付け根の部分も固まって真っすぐになり、やがて動かなくなる病気だ。硬直した腕には体液が行き渡らなくなり、最終的には腐ってしまう。今はまだ少し動かしづらいといった程度だったが、慢性だけでなく急性症状もあるのがツイッグ病の恐ろしいところだった。1万人に1人しか発症しないといわれ、死に至る例もあった。今は地球監視局の局長補佐という地位にあるものの、仕事をいつまで続けられるのかも分からない。後進の育成が急務だと考えていた矢先にもたらされた悲報だった。

病に冒され仕事も失うとすれば、何を目的に残りの生を全うすればいいのだろう。家族を養う立場から、介助される側になるのだ。あるいは、ステーション内の施設で毎日同じ景色を眺めているのか。展望を伴わない不安が、通勤時の風景を寒々しいものにする。

地球監視局がある宇宙ステーションは、地球をぐるりと取り囲む環状になっており、2本の輪が少しずつ移動しながら、スキャナーのように地球を監視している。病院も私の家も、飲み屋もミサイルの発射台も全てこの宇宙ステーションの中にある。つまり、ひたすらステーション内部を行き来しているということだ。

「どこへ?」

「職場だ」

「明るい」

「昼間地帯に入ったからな」

「明るい、とても明るい」

うるさいほどに何度もそう呟きながらテバは車内を飛び回っていた。いったん停止して落ち着かせようと思っているうちに局に着いた。ドアを開ける前に捕まえたかったが、腕の間をすり抜け、パタパタと上昇、下降を繰り返している。捕獲を諦め外に出ると、テバは飼い主を置いて局内へ入っていく。

まっすぐ私の席に向かってくれると助かるが、そう上手くいかないところが動物っぽい。総務の484は、身体が一枚の薄い膜なのでテバを捕まえるのが得意だ。

「テバちゃん、元気でけっこうですね。今日は非番じゃなかったんですか?」

「ちょっとトラブルがあってね」

484からテバを受け取ると、消費電力レベルを20%に落とした。電源を切ってしまえば扱いは楽になるが、二度と動かなくなるのではないかという不安がつきまとい、電源をオフにしたことはない。

局内を見まわしたが、225の姿はない。軽い苛立ちを覚えつつ、無人調査船の映像を確認する。自身で確かめるまで、305の死を受け入れることはできない。ある時間帯にマークがされていた。霧か煙か、地上に近い場所から撮影しているにも関わらず、不鮮明な箇所が多い。これは、腕か?

「305の腕です」

顔を上げると、225が立っていた。

「人を呼びつけておいて離席とは、立派な部下だな」

「胴体から切り離されたと思われますが、頭部などは映像から確認できていません。おそらく船内に残されているのでしょう」

私をからかうように、225は報告を続けた。

「単なる不法侵入者のものではないのか?」

「それを言うなら、305自身が、地球に不法侵入していたのです」

一つ一つの情報が重みをもっていた。地球に不法侵入した部下が遺体で発見されたとなれば、私も病魔を待つことなく職場を去ることになるかもしれない。

「26900MSから27000MSまで、305は非番なのでステーションからは出られないはずですが、実際には探査船を使って地球に向かったようです」

出られないといっても、局長の許可を得れば出られる。許可証を偽造することもさほど難しくない。ただ危険の多い地球でバカンスを過ごす局員はいないし、やむを得ない用がなければステーションから出ることもない。

「なぜ305が地球に向かったとわかった?」

「救難信号が届いたからです」

「メッセージは?」

「ありませんでした」

救難信号はあるかないかの2つの1つで、極めてアナログな仕組みだ。救難信号を受信すると、まず乗組員の生存を確認し、生存していた場合は発信場所を特定し、救助隊を編成する。

「救難信号の直後、305の生存反応が消えました。また、生存反応が消える0.006MSpほど前に、防護服のエネルギー供給が停止しています」

事故として処理できるか?小役人としての本能が囁くが、何らかの攻撃を受けた可能性は否定できない。

「無人調査船が到着した時点で、墜落した305の調査船と付近に転がっていた腕を映像に収めました」

「無人調査船が現場に到着するまでの時間は?」

「17MSpです」

「ずいぶんかかったな」

「ほぼ裏側にいたので」

腕を切り取るには十分な時間だ。転がっている一本の腕が、事故として処理することを困難にしている。

「なぜ腕が切り取られた?」

「わかりません。爬虫類の一部には腕を噛み切る顎をもつものもいますが、昨日までの時点でそのような生物は確認されていません」

地球には、かつて惑星全体を支配していた人間はおろか、哺乳類も存在していない。爬虫類や両生類が現れたとの報告もあったが、未確認生物として処理されている段階だった。

「地球へ行ってもらえるか?」

「すぐに出発できます。リアルタイムオペをお願いできますか?」

「用意がいいな。ただ、ちょっとだけ待ってくれないか?なんせ俺は今日非番なんだ」

家族サービスはさぼれないんだ。私はこそこそと職場を後にした。

 

 

病院から帰ったら、胞状アクアリウムを見に行こうと約束したのに、既に27500MSを過ぎていた。家に戻っておそるおそるリビングを見ると、娘が縄跳びをしていた。

「上手だね」

「おかえり」

「3本飛べるようになったのか」

「うん、見て」

娘は嬉しそうに3本の縄を回して跳ぼうとしたが、2回目で引っかかってしまった。

「惜しいね」

「もう1回」

「そうだね、もう1回」

ママは?と尋ねるタイミングを窺っていると、階段を下りてくる足音が聞こえた。

「帰ってきてたの?」

「今帰ってきたところだ」

「腕は、何だって?」

「それが、診察を待っているときに緊急連絡が入って…」

妻はそれ以上聞きたくないという表情を浮かべた。なかなか病院に行かないことにも、私が診察の順番待ちに苛立つことにも、妻はうんざりしていた。私のために用意していたらしき昼食を片付けながら、夕食の下ごしらえをする妻に、話しかける隙はないように見えた。

「パパ、『水族館』は?」

「今日はちょっと無理になったんだ、ごめん」

「じゃあ、今度ね」

物わかりの良い娘の返答に、心苦しさが増すばかりだった。口調もどことなく妻に似てきたようだ。

「あれ、確認してくれた?」

妻の指摘に、はっとなった。娘の生体番号に関して異議申立の手続きをするよう頼まれていたのに、すっかり忘れていたのだ。妻からの小言を先回りしてあれこれ考えると、軽く混乱した。

「ごめん、忘れた。オンラインでもできるから、今日中にやっておくよ」

予想に反して、妻からの返答はなかった。アクアリウムもオンラインで買っておこうかと言いかけたが、余計に空気を悪くするように思えてやめた。

私は予定よりずっと早く家を後にした。そして局に着いた時には、娘の番号のこともアクアリウムのことも頭から消えていた。

 

 

厚い雲を抜けると、第二臓器のような濃い緑色の景色が広がっていた。地球の90%は海であるため、森林地帯は貴重になりつつあった。リアルタイムオペでは、操縦しているのは自分ではないのに、風景に吸い込まれそうになる。225のように、私の操縦技術を会得した者が操縦桿を握る場合はなおさらだ。

森林の上空を滑るように移動すると、平野と点在する市街地の痕跡が見えた。痕跡といってもわずかな金属片やブロックが残っているだけで、そこが街であったというデータによって補完しなければ痕跡にさえ見えない。特定の探査対象がないときは、上昇と降下を繰り返しながら、消滅しつつある文明や自然の痕を探す。調査船から伸びる10本のアームで様々な破片を採取し、形だけ局に報告し、不要との返事を確認した後、家に持ち帰るのだ。

「もうすぐです」

「地球に降りるのは久しぶりじゃないか?」

「ええ、最近も局長から行くように言われたんですけど、別の衛星に変更してもらったんです」

理由を探るべきか迷っていると、225が続けた。

「夢を見るんです」

「夢?」

「細かいところは覚えていないんですけど、僕は病院にいるんです。たぶん診察を待ってるんでしょうね。すると衛生関係の職員みたいなのがどかどか入ってきて、腕を掴んでどこかへ連れて行かれるんです」

私は驚きを悟られないよう、黙っていた。

「待っているのは僕なんですが、連れて行かれるのは僕じゃないような…上手く言えないんですが」

隣に幼い兄妹はいなかったか?そう尋ねたい気持ちを堪えた。

「不思議な夢だな」

「地球への探査から帰ると決まってその夢を見るので、だんだん気持ちが萎えてしまって」

「産業医には相談したのか?」

「考えはしましたが、ただの夢ですからね」

225の口調にわずかな不安が混じっていた。指示者と操縦者は視界を共有するが、互いの表情は見えず、指示者が操縦室の様子を確認することはできない。そのため305の最期を見ることは永久に不可能だ。

調査船が減速した場所は、視界の半分を海が占める岩礁だった。何度見ても、これほど多量の水分子が存在していることは、驚嘆に値する。調査船では、必要な時を除いて音声を捕捉することはしないが、波が岩に打ちつける音が聴覚器で自然と再生される。

「305も、同じ夢を見るって言ってました。伸びてくる腕が怖いって」

着陸直前に225が呟いた一言は、誰に向けられていたのだろうか。的確な返事ができないまま、305の遺体の回収が始まった。

「オペ開始します」

305が乗っていたのは、225と同型の探査船である。墜落ではなく不時着との報告を受けていたが、機体が大きく損傷している箇所もあるようだった。225は、地上にいったん降りてから回収作業に取り掛かった。10本のアームが10本の脚となり、凹凸の多い岩の上を一歩ずつ標的へ近づいていく。

「腕のほうはどうする?」

「まず305の遺体を確認してから、回収します」

225レベルの腕をもつ操縦者であれば、指示者の役割は、帰還困難などの例外的な事態を除いて、ほとんどない。305の機体に到着すると、外壁に沿ってスキャンしたが生態反応は見られず、電源も全て失われていた。乗組員の生存可能性がゼロであるという前提で、折れ曲がったアームを切断し、機体の上部に穴を開けていく。本来出入り口となるはずのハッチが半分岩の表面に圧迫されていることから、不時着は自動操縦によるもので、305は衝突時、既に死亡していたとみて間違いない。

くり抜いた部分からライトシーズを一粒落とすと、発芽し、発光体となった茎や葉が船内を照らす。身体をくの字に曲げた305の姿が見える。頭部は落下した計器の下敷きになっている。視野を絞り、1本のアームを差し入れる。穴より外側の関節部分は束ねて細くし、船内に入った関節より下は太くし、先端についた5本の指を広げる。

「手動カッターを使いたいのですが、船外作業の許可をいただけますか?」

画面を確認すると、回収対象のアームが1本、225の船のアームと交差している。225は船外へ出て、腕の長さほどのカッターで障害となっているアームの先端を切り落とす。再び操縦室に戻った225が小さく舌打ちした。

「どうした?」

「船内の計器が倒れて、遺体の一部が下敷きになっているようです。もう一度、船外作業の許可をいただけますか?」

許可を受けると、225は調査船を自動操縦モードにして、船内へ入っていく。自動操縦時の監視も指示者の役割の一つだ。何度か映像がゆれた。計器を切断して、船外に捨てているのだろう。作業は難航しているようで、225が操縦室に戻ってきたのは、10MSp以上が経過した後のことだった。

アームが持ち上げた305の遺体は、腕が1本切り取られ、傷だらけだったが、防護服に包まれていたせいか、顔面は生前の姿そのままに見えた。

「腕の回収に向かいます」

腕が落ちていたのは、305が不時着した場所からほとんど離れていない場所だった。なぜ腕が切り取られ、こんな場所に放置されていたのか。

「確認、お願いします」

モニター越しではあったものの、225がカメラに近づけた腕は、305のものと見て間違いなかった。

「ご苦労。回収物とともに、速やかに帰還してくれ」

「了解」

調査船はアームを機体に貼り付けるように収納すると、瞬く間に地球の成層圏の外へ抜けた。私も225も遺体回収業務は何度も経験しているが、今回ほど沈痛な空気に包まれることはない。死亡の事実を確認するまでの往路は時間の経過が早い。逆に遺族の顔を思い浮かべながら遺体の引き渡し準備を進める復路は、異様なほど時がゆっくりと流れる。

見知らぬ遺体であることも多いが、知己であっても故人について操縦者と話すことは少ない。操縦者の横には、遺体が横たわっているからだ。だが、225に訊きたいことがいくつかあった。

「305はなぜ地球へ行ったんだ?」

「さあ、僕にもわかりません」

地球への巡回は定期的に担当しなければならない任務だ。懲戒を受けるリスクを負って、勤務外で地球に向かう理由が思いつかない。特別に局長の許可を得れば、職務として行くことができるのにその手続すら踏んでいない。急いで確認しなければならない何か、上司には言えない理由があったのだ。

「305の様子に、最近変わったところはなかったか?」

「僕も思い出そうとしてみたんですが、口数の少ないやつだったんで。あえて言うなら、さっきお話しした、夢の話ですかね」

夢の話は私も引っかかっていた。だが、同じような夢を見ていたとしてもそれが同じ夢だとはいえないし、何か意味があるとしても、報告書に書けるレベルの話ではない。

305の最近の検索履歴を確認したが、特に不審な点はなかった。一つ気になったのは、生体番号の異議申立を行っていることだった。結論は却下だった。どのような内容の申立だったのかは、高度なプライバシー情報であるため、令状をとらなければ知ることはできない。

局長の興味は事故なのか他殺なのか、ということで、305の心理にはさほど興味がないだろうが。

死因は酸素濃度の急激な低下による窒息死だった。事故の可能性は高いが、305はこの類の事故を起こしたことはない。逆に他殺だとすれば、船外から何らかの攻撃を受け、酸素供給システムがダメージを受けたことになる。この点は帰還して船体を調べてみなければならないが、部分的に大破しているため、墜落時の傷と区別するのは難しいかもしれない。残るは各数値の変化及び通信記録で、これはすべてコピーされているため、手がかりとして期待できる。その後も225に何か話しかけようとしたが、局に到着するまで、合図を除く言葉を交わすことはなかった。

 

 

帰還後、遺体が間違いなく305であることを視認した後、後の処理を225に任せ、生体登記所へ向かった。29700MSを過ぎたころで、来訪者はまばらだった。

「娘の生体番号について、異議申立をしたいのですが」

「どのような内容ですか?」

「ちょっと待ってください」

テバが間の悪い合いの手を入れる。

「審議は、申立の後に行われるのではないんですか?」

「申立に入る前に申立人の方とブリーフィングを行うと決められているので。もしよろしければ、ブリーフィングルームの方へ」

「ここはどこですか?」

「テバ、うるさい」

連れて行かれた部屋は、2人がやっと座れる広さだった。腕を広げると後ろの衝立に当たるので、こじんまりと座るしかなかった。リアルタイムオペから続く一連の業務で、腕の病を忘れかけていたが、急に痛みが襲ってきた。診察を待ち切れず、薬ももらえなかったことを今さらながら後悔する。

「娘の生体番号が間違っているので、訂正してほしいんです」

「お嬢さんの番号は?」

「153000000000001040006、です」

「誤りというのは?」

「…0006の末尾から4つめのゼロですが、ここは父親と同じ番号だと思うのですが。私が1なので、娘も1になるのではないかと」

「確かに、病理因子なのでおっしゃるとおりですね。お父様の番号を確認してもよろしいですか?」

目の前にいる担当者は484に似た薄い膜をもっていたが、びっしりと柔毛が生えているため、パネルを操作するのが速い。

生体番号は発生時に与えられ、主として身体や健康に関わるライフイベントを経るたびに桁数が増えていく。そのため子どもは桁数が少なく、老人は長く延びている。遺伝子情報など、発生時に所与のものとされる番号もある一方で、冒頭の数桁は親及び本人が任意に決めることができる。例えば発生時の時刻の下3桁などが多い。娘の場合、私が妻にプロポーズした時刻の下3桁だった。

担当者の表情が曇った。

「少しお時間をいただけませんか?後日連絡いたします」

「どういうことですか?」

「どういうことですか?」

担当者は、テバを一瞥した後、緊張感を含んだ口調で答えた。

「今すぐ回答することはできません。娘さんの番号に問題はありません。ただお父様、あなたの番号で確認しなければならないことがあります」

「今すぐ教えてもらうことはできませんか?」

「この場でアクセスできる情報には限度があるので」

連絡をくれるよう念押しして、登記所を後にした。生体番号の誤り自体は珍しいことではないし、生体番号は増減、変化する性質をもっている。ただ病理因子を表す番号であることが気にかかった。305も、自身の因子に何か疑いを抱き、申立をしたのだろうか。

待ち合わせ場所のペットショップに着くと、妻と娘は既に展示されている胞状アクアリウムに夢中だった。娘が5つのアクアリウムを持って、中の魚を見比べている。表面が柔らかく押すとへこむ球体は、特殊な液体でできており、餌の役割も果たす。餌やりを必要としない反面、定期的にアクアリウムを購入、交換しなければならない。

伸縮性のあるアクアリウムの中を、色鮮やかな魚がゆったりと泳いでいる。泳ぐ方向に球体が伸び、移動するため、魚は閉じ込められていることにすら気づかない。板のような胴体に直立した脚のようなひれがついたデスクフィッシュで、マルティプルシュリンプは両側に頭部があるエビだ。

「どれがいい?」

「これ」

テバが口出しすると、娘は嬉しそうに振り向いた。

「あ、テバだ」

妻がけん制するような目つきをした。妻は、テバのことをよく思っていない。だからいつもは職場に置いてくるのだ。

「テバはこれがいいの?」

テバが乗っかったのは、マリモが3つくっついたような形の貝、ローラークラムだった。

「ねえ、なんでこんな形してるの?」

「そうだねえ、病気になって治って、また病気になってを繰り返したからかな」

「病気になると変な形になるの?」

「そういう生き物もいる」

「私も、風邪をひいたら変になっちゃうの?」

「大丈夫だよ。形が変わるためにはものすごく長い時間がかかるんだ。何度も生まれ変わらなきゃなんない」

正直、私自身はアクアリウムには否定的だった。遺伝子操作ならまだしも、ウイルスを人為的に注射して、ほぼ全滅するのと引き換えに、突然変異を誘発することで生まれた品種もいる。寿命が長いのも厄介だった。

「パパの腕は?」

「ちゃんとお薬を飲んでるから大丈夫だよ」

娘から見ても関節の動きがぎこちないのだろうかと不安になった。この子がもう少し成長するまでは、元気な姿を見せたい。

「番号はどうだったの?」

「間違いはないって」

「でも、違ってたじゃない」

「俺の方が間違ってるかもしれないらしい」

反論したい様子の妻に、とにかく分ったら連絡をくれるらしいと伝えて話題を打ち切った。娘と私のいずれに誤りがあったとしても、親子関係に疑義が生じる可能性がある。発生時の記録があるため親子関係の存在は明らかであるものの、気分の良いものではない。

番号を辿っていくと、誰でも自分の身体的特徴を把握できるし、発生時に遡ることができる。学校や職場でも、3桁以上の表示を求められることはない。生体番号はあらゆる組織や機関が把握しているが、隣に座っている同僚が知ることはない。自分の番号を暗唱できる者は珍しく、だからこそ不意に自分の番号を全て知りたくなるときがある。娘にも、305にも、私にも。そのとき、多くの者と同じく平凡な出自や特徴を知って安堵、落胆するのであればよい。しかし自分のアイデンティティを揺るがす事実、あるいはそのカギを見つけたとしたら?

「局より連絡があります」

テバが突然慇懃な口調で喋り始めたと思ったら、モードを切り替えたのを忘れていた。225から、305の事件について容疑者らしき人物を確保したとの連絡だった。

「パパ、お仕事なの?」

「ごめん。アクアリウムは好きなのを買いなさい」

「テバ、パパは行っちゃうの?」

「局より連絡があります」

妻に頭を下げ、局へ向かう。

225から届いた情報が本当だとすれば、305の死は他殺だったことになる。調査は長期化するかもしれない…うんざりした気分は否定のしようがなかった。

 

 

「容疑者じゃないのか?」

「正確には、不審者、不法侵入行為についていえば容疑者です。ただ305の機体が不時着した時刻、現場付近にいたのは確かです」

地球には局の許可なしでは入れないし、局員以外に許可が下りることは滅多にない。地球上で生命体を発見した場合、ほぼ間違いなく不法侵入者とみて間違いない。私はテバを総務の484に預け拘留室に向かった。

待っていたのは石ころ程度の大きさで、スライム状の生物だった。

「今はこの大きさですが、最大で1万倍くらいの大きさになります。何らかの方法で305の機体に乗り込み、体長を拡大し、機内の酸素供給を妨害した可能性があります」

「そんなことしてねえよ」

翻訳機の声は高音に設定されているため、口調との齟齬が滑稽に感じられる。ただ暴力性は隠しようがない。

「ではなぜ地球に行った」

「肝試しだよ」

「肝試し?地球に幽霊がいるってのか」

「療養所の跡には行ったことあるか?」

「何度もある。幽霊なんて見たこともないし、肝試しをしている人間にも会ったことがない」

地球上を支配していた人類の最期はあっけなくて悲惨なものだった。ウイルス性の疫病が蔓延し、急激に人口が減少する中で、惑星間連盟が現在の地球監視局を立ち上げ、本格的な調査、介入を開始した。無人の建造物を取り壊し、大規模な療養所を次々と建設した。いくつものワクチンが開発されたものの、その度にウイルスの突然変異が繰り返され、人類は絶滅した。感染した人類を地球に閉じ込め、隔離したことは現在でも批判的に言及される。しかし太古の出来事であるため、人文学的な意味での歴史というより、自然史上のエピソードに過ぎなかった。

「おまえが大昔の幽霊を見たかはどうでもいい。聞きたいのは、地球監視局の機体を目撃したかってことだ」

「俺は容疑者じゃなく証人ってことでいいのかな?」

不法侵入者のふてぶてしい口調には慣れっこだ。生命体の絶えた地球で、思わぬ情報をもたらしてくれることもある。不法侵入者を「外部調査員」と呼ぶ局員もいるくらいだ。

「調査船が不時着した時、おまえはどこにいた?」

「そっちの兄ちゃんが言うように船内に入り込んでいた、と言ってやりたいところだが違う。近くで落ちてくるのを眺めてただけだ」

「周囲に他の生命体はいたか?」

「いなかったと思う」

「どの時点まで見てた?」

「もう一機が来て壊れたのを回収するところまで見物してたよ」

こいつの言うことが本当だとすれば、逆に事故の可能性が高まる。

「俺は身体に映った視覚情報を360度取り込んでるんだ。ほとんどは未整理のまま消えていく。下等生物だから、情報を蓄積する容量も小さい。ちょっと経てば全部忘れちまう」

「何が言いたい?」

「ちゃんと質問してくれないとってことだ」

私と225はいったん拘留室を後にし、休憩をとることにした。あのチンピラは、何を見たのだろう。あいつ自身も自覚していない情報を引き出さなければならない。さっきの挑発的な物言いは、何か重要な視覚情報を保有していることを仄めかしていた。

「305が死ぬ瞬間を見たとは考えづらいですよね」

あいつの視野にあったのは、不時着地点周辺の情報、不時着前後の時間帯の景色だ。思考を進めようとするが、周期的に激しい痛みが襲ってくるため、上手くいかない。225も、煙草を吸いながら報告書類を埋めていたが、落ち着かない様子だった。

「様子を見てきます。施錠はしていますが、ああいう形態のやつなんで」

「わかった」

225と305、そして自分が見ていた夢のことを思い出す。地球監視局の局員が同じ夢を見ることには、何か意味があるのだろうか。人類の幽霊?まさか。

そのとき、一つの質問が浮かんだ。急いで総務課へ向かう。

「おかえりなさい」

テバが間抜けな声で迎えてくれる。

「305の遺体を見たい。悪いが、かなり急ぎなんだ。局長にサインをもらってる時間がない」

「わかりました」

484は快くカギを貸してくれた。遺体安置所へ向かいながら、無人調査船の映像、305が監視員だったときの映像をしらみつぶしに当たっていく。305が地球へ向かう1000MSpほど前、画像が欠けている箇所があった。それ以降、同じ地点を撮影した画像が不自然に粗くなっている箇所も発見した。

眼前には、305の切り取られた腕があった。今の自分の腕とは違い、鍛え上げられた健康そうな腕だ。

事故であればなぜ腕は切り離されたのか?他殺であればなぜ犯人は305の腕を切り取ったのか?

薬液に漬かったままの腕をもって、拘留室へ引き返す。身分証をかざして中に入ると同時に、ダメです、という声が聞こえた。

「どうした?」

拘留室では、225が不安そうに視線を泳がせながら立っていた。

「やつの姿が見当たらないんです」

「施錠したんじゃなかったのか?」

「僕が入ってきたときには、姿が見当たらなくて…」

「なぜすぐに報告しない!」

「すいません、僕の責任だと思って、とにかく拘留室の中を…」

「ここにいないことなどすぐに分かるだろ!俺が入ってきたときに、扉から逃げた可能性があるな…」

「すぐに局内を探させます」

居眠りしていた局員が容疑者を逃がした事件では、直属の上司は問答無用で降格になった。305の件といい、不祥事続きだ。

そのとき、拘留室から出ようとした225の表情が目に入った。緊張や不安ではなく、安堵の表情を浮かべていた。

「待て」

「何でしょう」

「手を広げてみろ」

「なぜですか?」

「いいから、今すぐ全ての手を広げて見せろ」

225は拒んでいたが、手のひらを握りしめる力がわずかに緩んだのだろう。チンピラスライムが、一つの手のひらから勢いよく飛び出した。

「てめえ、殺す気か!」

「225、なぜ嘘をついた?」

225は答えない。225が拘留室に戻ってから、私が戻ってくるまでどのようなやり取りがなされたのか分からない。ただこのチンピラが決定的な情報を保有していることを確認したのだろう。225に訊きたいことは山ほどある。だが、まずはチンピラの記憶が失われないうちに質問をぶつけなければならない。

「おまえは、地球に転がっていた腕を見たか?」

「ああ」

死にかけた直後だったから、不機嫌そうではあったものの、自分がまだ囚われの身であることを思い出したようだ。

「その腕を見たのは調査船が落ちてくる前か、後か、どちらだ?」

「落ちてくる前だ」

腕は、305の調査船が不時着する以前から地球上にあった。

「その腕は、これか?」

私は、安置所から持ってきた305の腕を見せる。

「違う、気がする。今そのときの情報を引っ張ってくるからちょっと待ってくれ」

「局長補佐、どういうつもりですか?」

「こいつが見たのは、305の腕じゃない。別の腕だ」

225は扉が開いたままの入り口をじっと見つめている。

「305はおそらく無人調査船の映像から、腕が地球上にあることを発見し、回収に向かった。私が確認したのよりも鮮明な画像を見て考えた。映っているのは人間の腕ではないかと」

「待ってください。今局長補佐が持ってきた腕は、間違いなく305の腕でしょう?」

「225、おまえが入れ替えたんだ。305の遺体を回収するとき、305の腕を1本切り取り、既にあった人間の腕を回収し、2本の腕を交換した」

「リアルタイムオペでは、常に私の作業に指示を送っていましたよね?」

「305の機体に入るとき、計器が倒れているという理由で、作業が止まったときがあっただろう?あの時間を利用した。障害物を除去するのは、腕が5本あれば十分だからな」

225は、5本の腕で作業を行いながら、残りの5本の腕を使って305の腕を切り取った。船外に転がっている人間の腕を回収し、305の腕と入れ替える時間だけは、操縦室を離れ、作業を中断せざるを得なかった。

「人間の腕が落ちていたという証拠はあるんですか?」

「両端の指の長さと太さが違う」

チンピラスライムが小さく感嘆の声をもらした。どうやら目的の視覚情報に行きついたようだ。

「黙れ」

「初めて見たぜ、こんなの」

「情報を再生する能力がないんだから、証拠能力はありませんよ。デタラメ言ってたってわかりゃしない」

「デタラメじゃねえよ!あんたの言うとおり、この腕はあんたらの腕とは違う」

いや、225の言う通りだ。決定的な映像も残っていない今、査問にかけるには証拠が足りない。

「今から、捜索令状をとってもいいか?」

「もちろん構いませんよ。僕のデスクでも、自宅でも、好きなだけ調べてください」

「捜索するのはおまえの家じゃない、305の自宅だ」

225は言葉を継ごうとしたが、上手く行かず、黙り込んだ。回収した人間の腕は処分せず保管してあるに違いない。私の読みは間違っていなかったようだ。私はチンピラスライムを別の局員に預け、225と2人で305の自宅に向かった。225は車内で一言も発しなかった。

本当に225が305の死に関与しているのか?事実上の自白を得た今でも、心のどこかで信じられずにいた。自分のもとからまた一人、部下が去るのだ。

 

 

305の部屋は一人暮らし用の小さなものだった。驚かされたのは、地球に関する書物が本棚の外にも大量に並べられていたことだ。地球監視局の局員として熱心に勉強している、という範囲を遥かに超えていた。電子化されていない紙の資料を独自に収集していたようで、かつて使用されていた地球上の地図をコピーしたものが壁に貼られていた。それらの資料に埋もれるように、空のアクアリウムが転がっていた。

「知ってましたか?」

225の声は静かではあったが、落ち着きを取り戻していた。

「305は、ずっと人類の影を追っていたんです。そのとき、これを見つけた」

小さな部屋に似つかわしい小さな冷蔵庫から、225は1本の腕を取り出した。「親指」と「小指」があり、確かに人間の腕であるように思えた。人間は私たちと違って腕が2本しかなく、左右の区別がある。ただし基本的に同型の腕をもつ私達でも、10本の腕や5本の指がぴったり同じというわけではない。両端の指が、長さや太さにおいて異なることも珍しくない。

「人類が復活した…そう興奮した様子で話していました」

225は、もしこの事実が公になれば復活した人類が殲滅されてしまう、と話す305の表情に狂気を読み取った。225は305をたしなめようとしたが、305は既に無人調査船の映像を加工、削除していた。発覚を早める行為といえるが、合理的な判断ができない状態になりつつあったのだろう。225は、腕が人類のものだと信じて疑わなかった。

「305は、自分の腕とこの腕を入れ替える計画を提案してきました。腕は死後切り離されたものでなければならない。検死をクリアするには、僕の助けが必要だと」

「だからおまえは305を殺した」

「違います。僕はきっぱりと拒んだ。太古に絶滅した人類が復活したなんて、何の科学的根拠もない。地球外生命体の一部、あるいは我々の奇形だと考えるほうが自然だと」

305は言った。これは復活した人類から我々へのメッセージなのだ。

「あいつは僕に懇願しました。この腕を調べてくれ、きっと指先に殻が付着しているはずだと」

「殻?」

「僕は…」

225は不意に黙り込んだ。長い物語を思い出しているように見えた。

225が生み出した沈黙は、私が続けて問いかけることを許さなかった。225の表情に影が差した。

「このあいだ、夢を見るっておっしゃってましたよね?病院にいると、連れて行かれそうになるって」

「ああ」

「その夢の続きって見たことあります?」

「いや、ないな」

「僕もなかったんです。でも、305は同じ夢の続きを見ていた」

225は、ゆっくりと語り始めた。

夢の中で、私たちは人間だった。だが、ウイルス性の疫病に感染したことを理由に、療養所へ隔離されてしまう。疫病は、手や足の指先から徐々に腐敗し、腕や脚が動かなくなり、最後には死に至る恐ろしいものだった。隣で寝ていた家族、友人が次々と病に襲われていく様子を目の当たりにして、人類は恐慌に陥る。

彼らは発症し、苦しむ前に、自ら命を絶とうとする。腕の力が残っているうちに、互いに首を絞め合う光景が療養所の至るところで見られた。

「幼い兄妹が、互いの首を絞めて、力の弱い妹が絶命するのを見たそうです」

喉元からせり上がってくるものがあったが、225の話を遮ることはしなかった。残った者は、石を研いだ鈍い刃物で手首を切った。切れ味が悪いため、傷口を何度も切りつけなければならなかった。

「305は、自ら命を絶つという行為を見て、衝撃を受けたと言っていました」

私も、人間が自殺という行為を行うこと、療養所で多くの自殺者が出たことは、知識として知っている。だが私は生まれてから、身近にも、報道においても、自殺という行為に接したことはない。私たちの世界で、生命体が自ら生命を絶つことは想定されていない。寿命の長さや早すぎる死を呪うことはあっても、自ら命を絶つという観念はない。

「夢は、自分が最後の一人になるところで終ります。不思議なことに、そのとき自分の腕は今と同じ10本あるんです。今話したのは305が見たものですが、僕も全く同じ夢を見るようになりました」

療養所建設の経緯や建設については様々な説があるが、資料もほとんど残っていない。305の夢には何の裏づけもない。それでも、自分が小さく震えているのがわかった。

「305は、自ら酸素供給システムを停止したということだな」

「彼に自殺という行為を経験したかったのだと思います」

「なぜ、305はそこまで人類の存在に執着したんだ?」

「僕らが、人類の末裔だからですよ」

225は「僕ら」と言った。先ほどまで305の主張を冷静に分析していたのとは違う、確信に満ちた言い方だった。225は、埃をかぶって転がっていたアクアリウムを手に取った。

「ウイルスをばら撒かれた我々は、長い進化、苦しみの果てに、腕が10本もある奇妙な姿になってしまったんです。アクアリウムに変わった形の生物を閉じ込めるのと同じく、鑑賞され、バカにされるために」

私は呆気にとられた。ウイルスをばら撒いたのは誰だ?異星人か?神か?バカバカしい。数多ある陰謀論の亜流にすぎない。しかし225の目は本気だった。心の底から、自分たちが人類の末裔で、被支配者であると信じている目だった。

「これだけ多様な姿かたちの生命体がいる中で、なぜ我々の姿を『奇形』だといえる?」

「いかにも役人らしい言い方ですね。僕も、305に共感する部分は少ないですが、局長補佐が彼の思考や行動を理解できることはないでしょうね」

「理解したいとも思わないね」

「一度、ご自分の生体番号を確認してみたらどうですか?」

「何?」

私が問いかけようとすると、225が袖から、調査船に備え付けてあるはずの手動カッターを取り出した。225が305の船のアームを切り落としていた姿を思い出し、冷たいものが背筋を走った。

「僕らの祖先は2本の腕しかもっていなかった。それが本来の僕らの姿なんです」

225は1本の腕でカッターを持って、あっという間に周辺の腕を3本切り落とした。視界を遮るほどの出血だった。壁と床が一瞬で真っ赤に染まる。

225はカッターを持つ手を替え、さらに1本切り落とす。

「305の腕も、あと7本切ってあげればよかったな…」

225は身体のバランスを崩したのか、出血により気を失ったのか、6本の腕を残し、前のめりに倒れた。あっという間の出来事で、救急信号を発するのが精いっぱいだった。私は305の部屋を出た。

484に預けっぱなしだったはずのテバが、305の部屋の前で、パタパタと羽を動かしていた。

 

 

私はテバを連れて生体登記所へ向かった。仲間が自ら命を絶つ姿を見たショックが生々しく残っていた。305も225も、純粋に自らの命を絶つことはできなかった。305は発見した腕を隠ぺいする、225は腕を切り落とすという別の目的を死へと結びつけた。直接的な自殺ができなかった点で人間とは違うといえるし、それだけ自殺や人間という存在に惹かれていたともいえる。

10Aという自分たちの種に疑問をもったことなどなかった。他の種と比較すると、知的レベルは高く争いも少ないため、官吏をはじめとする待遇の良い仕事に就いている者が多い。だから生物学的な祖先など気にしたことがなかった。しかし、もし祖先が人間で、今の自分にその因子が組み込まれているとすればどうか。

夢のなかで人類を襲った疫病と自分がり患している病を結びつけてしまう。ツイッグ病は、10Aに特有の疾病であるため、人類がり患した疫病と直接の結びつきはないだろう。だが、10本の腕が1つずつ機能停止していく過程を、人間への接近と捉える思考を捨てることができなかった。

私の中に人間がいるのか?

登記所の担当者は先日と種は同じだが違う個体だった。

「ええ、確認は済んでおります」

「更新された番号を教えてもらえませんか?」

「あと100MSp経過後に、ご自身で確認いただけます」

「今すぐ知りたいんだ!」

声を荒げた。他の利用者が私を訝しげに眺めている。また個室に誘導されそうになったところを、謝罪とともに自分で確認すると伝え、登記所を後にした。

225の最期が何度も頭の中で再生される。10本の腕をもつ自分の姿が急に醜く映り、腕を失う病にかかったことが正常なことのように思える。

私の眼は、既に地球を見ていた。地球監視局局長補佐としての自分、10Aとしての自分、そして夫、父親としての自分に現実感を抱くことができなかった。

「どこへ行きますか?」

「家へ帰る」

玄関には、買ったばかりのアクアリウムが飾られていた。ローラークラムは、三つに分離し貝殻の模様を見せたかと思うと、再びくっついて丸い形になる。

妻は勤務時間中に帰ってきたことに驚いた様子だったが、忘れ物を取りに来たんだと言うと、台所へ戻っていった。

「パパ、見て」

新しい縄跳びの技かと娘の方を振り向くと、娘は袖をまくり上げ、芽のように膨らんだ部分を嬉しそうに見せてきた。

「新しいの、生えてきた」

娘に、7本目の腕が生えてようとしていた。本来なら祝福すべきことで、新しい縄跳びの技ができるようになるぞ、と微笑みかけるべきだ。だが、今は娘の生えかけの腕に嫌悪感を覚えた。私の様子がおかしいことに気づいたのか、娘はまくり上げた袖を戻した。

「パパ、また行っちゃうの?」

「お仕事が残ってるからね」

そう答えるのが精いっぱいだった。追い立てられるように家を出る。私は変わってしまったのか。

 

 

局へ戻ると、すぐに地球探査任務に係る発令を行った。理由は305調査船の残骸回収と、事故原因の究明だ。局長補佐の立場を利用すれば訳はない。理由をでっち上げたのはいいが、自分自身、なぜ地球へ向かうのかはっきりと説明することができなかった。

肝試し?ふとチンピラ野郎の言葉が浮かんだ。誰もいない地球で出会うことができるのは幽霊だけだ。

調査船がステーションを発ち、青い地球が全面に広がったと思うと、あっという間に成層圏、大気圏を抜ける。目の前に存在し続けたにもかかわらず、身体的、精神的にこれほど緊張感を強いる場所であったことはない。海洋の面積が拡大し、残酷なまでに青くなった地球の表面を、低空飛行で滑っていく。

「ここはどこですか?」

「地球だよ」

305は、生きている人間を、自分の目で確かめることができなかった。生命と引き換えに、信じていた人類の存在を隠そうとしたからだ。305の船が不時着した場所に降り立つ。潮の匂いが防護服の隅々まで満たした。外部からの音声はほぼ遮断されているが、きっと波が砕ける音が響いているのだろう。

歩きづらい岩礁を進み、徐々に海から離れていく。生き物は見当たらない。305は、かつて療養所があったと考えられる場所を、現在の地球と重ね合わせて、特定しようと試みていたのではないか。305の部屋にあった大量の資料、船内に残っていた遺品から私はそう推測していた。

岩地を抜けると、砂地に背の低い灌木が生えている一帯があった。乗ってきた船は既に遥か後方だ。

ここか?305の家で見つけた紙の地図を片手にたどり着いたものの、遺構らしき人工物を発見することはできない。だが、先ほどまでとは違う生き物の気配を感じる。

夜間帯に入ろうとしていた。テバはげっぷが出そうなほど多くのメッセージを溜めこんでいることだろう。ライトシーズを数粒撒くと、乾燥した木々や小ぶりな葉がぼんやりと照らし出された。

ここが療養所だったのなら、数えきれないほどの人間が暮らし、死んでいったに違いない。私は地面を掘り始めた。掘削する装置などないため、自分の手で掘り進める。柔らかい砂地はすぐに手応えのある石ころの層に変わり、岩盤が姿を現す。力が落ちた腕を交互に使いながら、下へ掘り進むことができなくとも、横へ穴を広げていく。灌木の根を引っこ抜きながら、穴は徐々に大きくなる。無人調査船には補足されているだろうが、局で映像が確認され、調査命令が出るまでには時間を要するはずだ。

本当に人類など存在していたのか?資料でしか見たことのない存在に、なぜ305は自らのアイデンティティーを託すことができたのか。そして私は病によって腕が1本ずつ失われていくことで、本来の姿に戻るのか。

10本の腕が疲労にまみれ、痺れを感じ始めた。

「いっぱいです。いっぱいです」

テバのSOSに、いくつかのメッセージを吐き出させることにした。ほとんどが唐突に命令を発出したことへの疑問、糾弾だったが、それらの中に登記所からの回答もふくまれていた。

「…正式にまだ調査中なのですが、お急ぎでご入用とのことだったので、現段階での調査状況を回答致します。申請者の生体番号には、不確定因子が含まれています。今回の場合、病理因子があるかないか分からないということです。不確定因子は、一定の確率で現れるもので、今後確定する、変化する可能性があります。また補足すれば、病理因子は親子で異なる方も稀にいますし、病理という名称から誤解…」

不確定因子?急に自分の身体に穴を開けられた気分だった。305や225も不確定因子をもっていたのかもしれない。明確に出自を知ったのではなく、決定できない部分、黒く塗りつぶされた部分が、療養所で起こったとされる陰惨な出来事へ惹かれていく呼び水となったのだろうか。

「おいでよ」

登記所の説明を再生していたはずのテバが、突然異なる声を発した。小さな女の子の声だった。私の娘のようでもあり、夢でみた兄妹のようでもあった。何かが憑りついたようなその声は、恐怖を呼び起こすものではあったが、もう一度聞きたいと切に思った。すると肩に乗っていたはずのテバが、ライトシーズの光を抜け、闇へ消えた。

私は呆然と座りこんだままだったが「テバ!」と呼びかけながら、小さな後姿を探し始める。ライトシーズを使いながら、海から遠ざかる方向へ歩いていく。光で照らされているとはいえ、道らしい道があるわけでもない。不安が恐怖に変わり、テバを探さなければという思いが、生き延びなければという防衛本能に変化しようとしていた時、テバがぐったりした私の腕に止まった。

「テバ、どこへ行ってたんだ」

テバは私の問いかけには答えず、私の手のひらに、くわえていた小さな破片を落とした。それは貝殻だった。中身はなく、端が欠けている。殻の模様は玄関のアクアリウムで飼っているローラークラムに似ていた。

「これは?」

「貝殻です」

テバの知能レベルを上げ、貝殻を持ってきた意味を尋ねようかと考えていると、テバは再び私の腕から飛び立った。しかし今回は私を置き去りにするのではなく、私を誘導するようにゆっくりと飛んでいる。

テバが動きを止めた場所は、穴を掘っていた場所からそれほど離れていなかった。残り少なくなったライトシーズを撒くと、ローラークラムの殻が山のように積まれていた。貝殻の山は、貝を獲り胃袋に収めた生物の存在を誇示しているようだった。

「おいでよ」

今度は男の子の声だった。いや若者だろうか、305や225のような。私は少しでも長く、せめて太陽が昇るまで、この場所にいたいと願った。

 

 

 

文字数:20052

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