梗 概
ドリームデコーディング
もう長いこと、男の妻への煮えたぎるような嫉妬心に、目が覚めた途端から、眠りに落ちる瞬間まで苦しめられ続けてきた私だが、突然にこの苦しみから解放された。
男の妻がある朝、目を覚まさなかったのだ。静かな寝息をたてながら眠り続ける妻は病院へ運ばれ、モニターに繋がれ二十四時間監視下におかれた。医師団は思いつく限りの検査を行い、様々な刺激を妻に与えたが、原因はわからず、夢さえ見ないまま病院で眠り続ける。
私はこれ幸いと男を誘い長年果たせなかった旅行に出かける。旅先の冬の金沢で私は妻を見かけるが男はとりあってくれない。
旅行から戻ると、妻が夢を見始めたので記録をしていると医師に告げられる。
何かを見たときの視覚情報は、大脳の後頭葉の下部にある視覚野という領域で処理される。この視覚野の活動を調べることにより、見ている図形の画像を再現する実験が2008年に成功した。
その後、実際に目で何かを見ている時だけでなく、映像を頭の中でイメージした時や、夢を見ている時にも視覚野が同じように活動していることから、夢も視覚野の活動を記録することで、映像として再現できるようになった。誰かの頭の中にしか存在しない画像や映像が他人と共有できるようになったのだ。
ただ、視覚野の活動を調べるには機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)が必要であることから、fMRIが小型化されたとはいえ手軽に誰もが自分の夢を再現するというわけにはいかず、医療の場で使われることがほとんどだった。しかも、再現精度が人によって様々で、必ずしも映画のように鮮やかに再現されるわけでもなかった。
世間では新しいタイプの過眠症が話題になっていた。
小さい頃から毎日のように不可解な夢をみてきた私は夢の映像化の技術にただならぬ興味を持っていた。
男に頼んで妻の夢の再現映像を見せてもらった私は、そこに金沢での旅行中の自分が写っていることを知る。しかし、男は、こんな不鮮明な映像では誰だかわからないとまたしても取り合ってくれない。私は妻の夢の記録を見続ける。
妻は夢の中でいつも私を見ていた。私は幸せな若い母親で、エリート社員だけが入居を許された美しい社宅の芝生の庭で子どもに水遊びをさせている。
やがて、私は妻の夢の中で覚めない眠りにつく。夢の中では私が妻なので、眠るのが私で、嫉妬に苦しむのが妻なのだ。
妻の夢の中に私が写っていることを認めさせようとするが、男はどうしても認めようとしない。
それどころか、私と男とは二十年前から結婚していて、子どももおらず、私が見た夢の記録は、男の妻のものではなく、私の病気の治療のために記録した私の夢だと言い始める。
連れ込まれた薄汚れた小さな部屋が私たちの家だと言い張る男に私は恐怖を覚える。妻が入院したので今度は家政婦代わりに私をここに置こうとしているのだ。私はあの美しい社宅に帰してくれと叫びながら男に殴りかかるが、すでにその時には眠くて眠くて殴る手に力が入らなかった。
文字数:1215
内容に関するアピール
知り合いが「夢の話って、大体が面白くないんですよね」と言い放つのを聞いてひどく驚いたことがあります。誰かの見た夢の話を聞くのが好きです。大体が面白い。
私自身もよく夢を見ます。見たことがないものを夢に見ると、それを言葉だけでなく絵に描いて残したいと思います。もし、見た夢がそのままカラーで再現できるならどんなにいいでしょうか。
現在、実際に研究が進んでいる夢の解読に使われる方法は、BMIはもちろんですが、頭の中を可視化して、想像や幻覚を解読して、それを精神疾患の診断につかうことなども期待されているようです。
けれども、そんなことをしたら人はもしかすると夢から過剰に意味を読み取ろうとして、夢に絡め取られてしまうのかもしれないとも思うのです。
夢が記録できるようになった近未来においても、きっと私たちはつまらないことで人生につまづいてしまうのだと思います。そんな話です。
文字数:382
帰る場所(ドリームデコーディング改題)
男の妻に、長い間激しい嫉妬を抱き続けてきた。
美しくもないくせに、図々しい支配力で、私の男をゴミのような日常に縛りつけ、解放しようとしない女。妻の元から男を救い出さねば、じきに男は搾りかすのようになってしまう。そう思うと、居ても立ってもいられなかった。それなのに、男は私と極上のワインを飲んで、指を絡ませ合い、囁きあった後も、まるで呪いをかけられたかのように、満員の終電車に乗って妻の元に帰って行った。なぜなの。私の方が若くて美しいのに。私との暮らしのほうが、ずっと男の望むものなのに。そんな夜には、私は広い窓を持つ自室のダブルベッドの上から、星を眺め、月に照らされ、いつもに増して激しい嫉妬に身を震わせた。
しかし、突然に、この嫉妬から私は解放される。
男の妻はある朝、目を覚まさなかった。静かな寝息をたてながら、眠り続け、翌日も、そのまた翌日も目を覚ますことはなかった。妻は病院へ運ばれ、機械に繋がれ二十四時間監視下におかれた。医師団は思いつく限りの検査を行い、様々な刺激を妻に与え、そして、最後に妻は個室のベッドにおさまった。妻が眠り続ける原因はみつからなかった。
男は困惑していたが、最初の数日が過ぎると為す術もないといった様子で、仕事に戻った。実際、男に出来る事はなかった。男の娘たちはすでに成人していて、母の見舞いも、家事もそれなりにこなしているようだった。
「夢も見ていないそうだ」
男は、医者に言われたことをそのまま私に伝えた。
「せめて夢でも見ていれば、なにか手がかりになるようなことが見つかるかもしれないのにね」
私は、少し前に話題になった夢の再生システムを思い浮かべた。
妻への煮えたぎるような嫉妬心に、つい先日まで、目が覚めた途端から、眠りに落ちる瞬間まで苦しめられてきたが、いまや、どこにもそのような暑苦しいものはなかった。妻は嫉妬の対象ではなく、ただのお荷物になった。私は妻が目を覚まして欲しいと心から願った。死んだわけでもなく、ただ、そこで眠っていられては、男はますます身動きならない。妻が死ぬまで眠り続けるとしたら、男もまた、死ぬまで妻を抱えていくしかない。妻は、以前に増して、男を自分にどこまでも縛りつけることに成功していた。
しかし、一ヶ月ほどが過ぎて、私は嫉妬が消滅したわけではないことに気づく。向かう先を無くした嫉妬は、ショート回路を流れる電流のように私の中を高速で回り続けていただけだった。
私はもう嫉妬などしなくていいのだということを自分にわからせるために、男を旅行に誘った。今まで、のらりくらりとなにかしら言い訳をしては一度も泊まりがけの旅行に応じなかった男が、ためらうことなく「旅行か、いいね。今度の週末にでも行こう」と応えた。
師走に入ってすぐの土日に、私たちは金沢へ向かった。金沢を選んだのは私だった。理由はあってないようなものだった。敢えて言うならば、私の執念深さの象徴のような旅先かもしれない。
もう何年も前に二人で入った都心をはずれたフレンチレストランの窓から、金沢行きの夜行バスの発着場が見えたことがあった。その時、窓の外を見ながら「あのバスに乗って、今から金沢に行かない?」と言った私の言葉は、確かに男の耳に届いていたはずなのに、男は聞こえなかったかのように、会社の同僚の話を始めた。いくら私だって、本当に今から夜行バスに飛び乗るつもりなどなく、ただ男がほんの少しその気の見える返答をしてくれればそれで満足するのに、一体、この人はどこまで臆病者なのだろうか。夜行バスが発車した時、男の顔にかすかに安堵の色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。それでも、私はそんな男を忌むこともなく、むしろ、憐憫の情を深めるばかりだった。あんな女と暮らしているから、そんな情けない男になってしまったのよ。
私たちは夜行バスではなく、早朝の飛行機で羽田から金沢に向かった。羽田は晴れていたのに、金沢は厚い雲に覆われていた。空港から金沢の市街まで、ただただ灰色の景色が続いていた。海も波も灰色だった。
お昼は犀川のほとりの古い料亭を予約しておいた。通された二階の広い座敷に客は私たち一組だった。女将だろうか、和服姿の女性が挨拶に来てから、最初の料理が出るまで少し待たされた。最初は曇りなく磨き上げられた窓から犀川を眺めていたが、ふと、立ち上がって、反対側の窓から庭をのぞくと、私たちの通された建物と廊下でつながっている平屋の建物があり、大勢の客がしんみりと行儀よく座っているのが見えた。どうやら、法事のようだ。
間もなく、私たちのところにも料理が運ばれてきた。今日はお客様が多くて、お待たせして申し訳ないと、お運びさんが膳を整えながら言った。「大きなご法事ですね」
「ええ、金沢でも老舗の和菓子屋さんの、跡継ぎの息子さんが亡くなられて、今日はもう三回忌なんです」
亡くなったのは息子さんか。離れの座敷の客達の行儀の良さが急に物悲しく思えた。
昼食を食べている間に、雪が降り始めた。そのうち雷鳴がとどろき、雪は雹になった。驚いている私たちにお運びさんが「金沢ではいつもこうなんですよ。この時期の雷が、ブリを富山湾に追い込んでくれるんです」と説明してくれた。
食後、広い座敷でのんびりしているうちに雹が小さくなってきて、犀川の対岸も見えるようになってきたので、出かけることにした。寺町の方へ行くつもりで歩き始める。雹の積もった足元が滑りはしないかと下ばかり見てしまう。桜橋から坂を登れば、寺町の台地だ。
空気が澄み切っていて痛い。台地の上は静まりかえっている。狭い道の両脇には、たいそう古い家と少し古い家が混在して並んでいるが、家があっても人の気配というものがなかった。道には薄く雹が降り積もっていたが、路地から路地へと歩いてみても、どこにも足あと一つ見当たらなかった。あてもなく、家々を見て回った。そのうち、まるで目当ての家があって、探し歩いているような気になってくる。そこの路地を曲がれば、目的の家が現れるような気がした。
路地を曲がると、目をひく和洋折衷の家があった。どこかしら病院を思わせる建物で、先代か、先々代が医者で、ここで開業していたのかもしれない。そう思って見ると、門柱に微かに残った黒いシミが、「醫院」という字の残滓に見えなくもない。外から見ると、診察室のような待合室のような部屋が、中開きの玄関のドアの横にあった。
シャッという小さな音に、目をやると、待合室の反対側の和風に作られた部屋の引き戸が閉まる瞬間だった。一瞬、女の姿が見えた。部屋の暗がりの中から女も私を見ていた。男の妻だった。
慌てて男を見ると、男もそちらを見ている。
「奥さんがいたわね」
「バカだな、子どもだったよ。今時めずらしいウールの着物を着せられていたな」
男は嘘をついている。私が妻の姿を見誤ることなど絶対にないのに。
寺町の台地が青みを帯びた夕刻の薄暗さの中に沈み始める。そこここに暗がりが濃く溜まりかたまりになっている。
「そろそろホテルに帰ろう」
「さっきの、奥さんだったわよね」
男が私の手を取った。
「滑らないようにしろよ」
手袋を通して男の手の熱が伝わってくる。男の手はいつも温かかった。
「あいかわらず、冷たい手をしてるな、おまえは」
坂を下ると、夕刻のラッシュなのか、昼間閑散としていた道路が渋滞していた。道路のセンターラインから、融雪のための水が出ていた。大きな道まで出て、タクシーを拾う。
その夜はホテルに降り込められた。日本海の魚を楽しみにしていた男は、ホテルの近くでいくつか手頃な料理屋の目星もつけていたようだったが、とても出かけられるような天候ではなかった。雪だけでなく、ひっきりなしに雷鳴が轟き、部屋の窓から見える低い空が鈍く光る。出かけるのを諦め、ホテルの中の日本料理屋で、ぬる燗の加賀鳶を飲みながら香箱蟹をつついた。香箱蟹の名は知っていたが、ズワイガニのメスだとは知らなかった。オスに比べてなんと小さな身体なのだろうか。
金沢から帰っても、私は一瞬目を合わせたあの女が忘れられなかった。男の妻に違いないのだ。しかし、妻は病院で眠り続けている。生霊なのかもしれないと考えて、自分の軽薄さにうんざりする。そんなものがこの世に存在するはずもない。
何度もパソコンに金沢の地図を呼び出した。料亭を出てからの道を辿ってみるが、台地を彷徨うばかりで、でたらめに歩いた細い道を正確に辿るのは不可能だった。古い地図や航空写真を漁り、あの「醫院」を捜してみるが、それらしい場所を特定することもできなかった。
そうこうするうちに、お決まりの、本当に私はそんなところを歩いて、そんな女に会ったのかしらという気になってくる。男に確認しようにも、子どもが家の中にいたのは覚えているけど、そんな古い「醫院」のような家だったかななどと言い出す始末。
男に頼んで、妻の見舞いについて行く。そんなことをするのは本当は空恐ろしいのだが、私の中で「眠り続ける妻」というイメージが肥大してしまい、毎日、そればかり考えているような状態だった。自分が冷静でなくなる前に、ここらあたりで、現実を見ておいたほうがいいと判断した。
病室はがらんとしていた。もっと多くの医療用の機械に囲まれて眠っているのかと思っていた。枕元の小さな花瓶にはスイトピーの花が生けてあった。何もかもが白い病室にあって唯一の色彩だった。私は男の他に誰もいないことをいいことに、妻の寝顔をじろじろ見た。枕元の回診の記録も穴が開くほど見た。
強い既視感に襲われる。白い病室でいつかも私はこうして誰かの寝顔をのぞき込んでいた。あれは誰だったのだろう。思い出そうとするが、そもそも、私は病院へ見舞いに行ったことなど、生まれてこの方、数えるほどしかなかった。それともあれは夢の中のことだったのだろうか。もしかしたら、のぞき込まれていたのは私かもしれないと気づく。私が以前入院していた間のことを、さも自分が見舞いに行った時のことのように覚えてるのかもしれない。
妻は軽く肩を揺すってやれば今にも目を覚ましそうだった。医者からは、なるべく話しかけるように言われているのだけど、目を覚ましているときだって話すことがなかったのに、眠ってるカミサンに話すことなんか思いつかないよと、男はひそひそ声で話した。そんなことを私の前では言っていても、おそらく男は妻と二人になったら、会社のことか思い出話か、そんなものを話しかけているのだろうと容易に想像できた。そういう男なのだ。今も、話しかければいいのにと思うが、何を遠慮しているのか男はそれっきり黙っている。まさか、私が話しかけるわけにもいかない。いや、待て、私が話しかけてはいけないのだろうか。私はこの人に目を覚まして欲しいと本心から願っている。妻の耳に顔を寄せる。
「この前、あなた、金沢にいたでしょう。古いお医者さんの家」
男が固唾を飲むのを背中で感じた。あいかわらず肝の小さな男だ。妻はピクリとも動かなかった。妻への同情めいた感情が唐突に胸の中をよぎったのを感じた。妻に対してそのような感情を自分が持ったことに少なからず動揺した。この人のいったいどこに私が同情する理由があるというのか。
見舞いに行ってしばらくして男が困ったような顔をして報告した。
「カミサンが夢を見始めているそうだ」
困るようなことでもないだろうに。
「いつから」
「どうも、金沢に行った頃かららしい」
ああやっぱり、と咄嗟に思った。なにがやっぱりなのか自分でもわからないが、強くそう思った。
「夢の記録を始めたそうだ」
夢の記録。なんと詩的な言葉だろうか、しかし、実際には大脳の後ろにある視覚野の血流の変化を記録しているに過ぎなかった。
人が物を見たときの視覚情報は、大脳の後ろにある視覚野という領域で処理される。この視覚野の活動を調べることにより、見ている物の画像を再現する技術は、もう何年も前に開発されていた。
その後、実際に人が目で何かを見ている時だけでなく、映像を頭の中でイメージした時や、夢を見ている時にも視覚野が活動していることがわかり、夢もまた、視覚野の活動を記録することで、映像として再現できるようになっていた。恐ろしいといえば恐ろしいことだった。誰かの頭の中にしか存在しない画像や映像を、画面上に再現して、他人と共有できるようになったのだから。
ただ、視覚野の活動を調べるには機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)が必要であることから、fMRIが小型化されたとはいえ手軽に誰もが自分の夢を再現するというわけにはいかず、医療の場で使われることがほとんどだった。しかも、再現精度が人によって様々で、必ずしも映画のように鮮やかに再現されるわけでもなかった。
子どもの頃から毎日のように夢を見てきた私は、夢の再現映像にただならぬ興味を持っていた。夢の中では、いつも、何かから逃げているか、何かを探しているかのどちらかだった。見たこともない街、巨大な学校、捜しても捜しても出口のないデパート、数多くのホームがあるのに、出発する電車の見つからない駅、巨大なドームの中の干上がった海、そんなものがいつもステージとして用意されていた。
夢を画像として再現する技術が発表された時から、いつか自分の夢も記録して再現したいと思い続けてきた。
自分自身の夢ではないが、もしかしたら男の妻の夢の再現映像を見ることができるかもしれない可能性に私はわけもなく興奮した。
「見せてもらえることになったら、絶対、私にも見せてね」
世間では新しいタイプの過眠症が話題になっていた。夢と現実の記憶の混濁が特徴らしい。
あっけないほどすぐに男の妻の夢を見せてもらうことになった。
「何度見ても全然わからない夢だな。まあ、夢なんてそんなものなんだろうけど」男は鞄からCDを出した。すぐにパソコンに入れて再生してみる。 再生が始まっても、画面は暗いままだった。しばらく暗い画面を見ていると画面の真ん中あたりに何かがぼうっと見え始めた。目を凝らす。そこに傘をさした私が立っていた。
「ほら、私がいる」
不鮮明ではあるが、雹が降る中、傘をさして二本の門柱の間に立って、家の中をのぞき込んでいる私が見える。
「金沢の、あの家の前に立ってる私がいるじゃない、ここに」
男がわかっていないようなので、パソコンの画面に指を突き立てて教える。画面は徐々にまた真っ暗になった。
「見たでしょ。やっぱり家の中にいたのは奥さんだったのよ。私たちを見てたのよ」
私は鬼の首を取ったように男に言い募った。
「こんな映りじゃ、人間かどうかもわからないよ。ただちょっと明るいだけじゃないか」
男はやはりわかっていないのか反応が鈍い。
「ほら、また始まるよ」
画面がいきなり明るくなる。全体にぼんやりとはしていたが、今度は、はっきりと新宿駅だとわかる画像だった。写真のように静止している画像と、動画になる部分があった。新宿から総武線各駅電車で、おそらく二つ目の駅だろう、妻は電車を降りた。進行方向寄りの改札を出て、左手の階段を下りる。
夢の中に妻の姿は出てこない。夢のなかを移動している妻が見ているものだけが映っている。遠くまで風景が見えることもあれば、ただ、切り抜いたように目の前のものだけが存在することもあった。
三叉路を右に曲がり、すぐに左折して、少し広い道を歩く。
「私、ここ知ってる。よく知ってるところだわ」
申し分のない快晴のようで、黒い影が道におちている。しばらく歩くと、右手に、広い芝生の庭を持つ二階建てのテラスハウスが見えてくる。
見ている私にはそれが社宅だとすぐにわかった。よい時代の大手企業の、エリート社員だけが入居を許された特別な社宅だ。芝生の庭には、いくつもビニールプールが出ていて、ショートパンツ姿の若い母親たちが、子どもを遊ばせている。小さな水面が光を反射して画面が白くなる。
妻の視線は若い母親の中の一人に固定されている。長い髪を束ね、キャップを深くかぶっているので、顔は影になっているが、その若い母親は間違いなく私だった。
「これって私だわ」
パソコンの画面を指でさした。
「そうかな。そうかもしれないけど、でも、ちょっと雰囲気が違うんじゃないかな」
私は子どもに水鉄砲で打たれて逃げながら、それでも、子どもから遠く離れることはなく、笑い転げていた。妻の夢の中で、私は現実では経験したこともないほどに幸せそうにしている。
今、この瞬間、夢には映っていない妻が、激しい嫉妬に身悶えしていることが、私には容易に想像できた。想像するだけで、まるで自分が嫉妬をしている時のように息苦しくなった。
妻が視線を足元に下ろす。足元のサンダルが大写しになる。
足元から視線が再び上がると、ビニールプールのそばで、私がゆっくりと膝を折るのが見えた。そのまま、芝生の上に私は倒れる。私の周りに若い母親たちが集まる。
私にははっきりわかった。これが、私が覚めない眠りについた瞬間なのだと。私はここから永遠に眠り続けるのだ。
そうか、妻の夢の中では、私が妻なのだな。だから、眠るのも私なのだ。妻の夢の中では、嫉妬に苦しんでいるのは、私ではなく、妻なのだ。
「これでおしまいだ」
「私が映っていたわね」
「どうかな。わからないな。おまえなのかどうか」
「どうして嘘をつくの。社宅の庭にいたのも、傘をさして立っていたのも私よ。あなたにもわかっているんでしょ」
「社宅ってなんだよ」
「わかるのよ、私には。あれは社宅なの。私と結婚するあなたは、大企業のエリート社員なのよ」
男は頭をふりながら、しばらくの間、黙っていた。
「落ち着いてくれ。ゆっくり話を聞いてくれ」
私は頷いた。私は落ち着いている。
「おまえとおれは結婚している。もう二十年前から。でも、おれは大企業のエリート社員じゃないよ。おれたちに子どももいない」
男は、おまえの他に妻はいないし、浮気もしていないと言った。「そんな余裕のある生活じゃないだろう、おれたち」男が淡々とした口調で言った。
「だって、私があなたの浮気相手じゃない」
「だから、おまえは浮気相手じゃないんだよ。結婚しているんだ」
「じゃあ、今見たのは誰の夢だというの」
「おまえの夢だよ。治療のために記録したおまえの夢だよ」
男は、もっと見たければここにあるといって、鞄から数枚のCDを取り出した。私は片っ端から、パソコンに入れては再生した。
美しい部屋で男とワインを飲む私。ダブルベッドに寝っ転がって月を眺める私。金沢を歩く私。病院に妻を見舞う私。これは夢じゃないわ。これってみんなほんとうのことよ。
「夢だよ。全部夢なんだよ」
じゃあ、何が現実だというの。
男があたりを見回す。ズタズタに切り裂かれた壁紙。隣の部屋には小さな安っぽいベッド。くたびれた布団。冷たいしみだらけの床。カウンターの向こうのキッチンには何か汚らしいものが積み上がっている。カーテンのない小さな窓。窓の向こうは、すぐに隣の建物の壁だ。ここはどこなの。おれたちの家だよ。こんな汚い部屋が?
「私の部屋へ行きましょうよ。そして、またおいしいワインを飲みましょう」
「ここが、おまえとおれの家だ」
恐怖が湧き上がる。ここが私の家であるわけがない。恐怖は怒りを伴って膨らむ。
「いやよ、帰してよ。帰してよ。私の部屋に帰して」私は男をげんこつで殴りながら叫んだ。男は妻が入院したので、今度は私を家政婦代わりにこの部屋においておこうとしているのに違いない。こんな男に比べたら、あれほど憎んでいた男の妻さえもが親しい者に思えた。妻さえ目を覚ましてくれたらここから逃げられるのに。
「帰して。帰して。私をあの社宅に帰して」
そうだ。帰るべきはあの部屋ではなくて、社宅だ。私はあんなに幸せそうにしていたではないか。
叫びながら、私は自分がもう起きていられないほど眠いことに気づく。男を殴る手に力が入らない。
ああ、眠ってしまう。社宅のあるあの町へ帰らなくちゃ、眠っちゃだめ。帰して。もう、お夕飯の用意しなくちゃ、あの人が帰ってくる。ねえ、私のぼうやはどこ?
おわり
文字数:8126