参照

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おどりじとは、前の文字を繰り返して読む、という指示でしかない文字。確かに私たちは皆おどりじのような存在なのかもしれない。ステートメントにはこのようにある。「まずは最初の文字を作り出すところから始める。」つまり、何を繰り返せばいいか、何を参照すればいいか探すことから始めること。これは固有な文字になろうということではない。私たちが皆おどりじとして生まれてきたなら、自分の個性のなさに絶望することはない。固有な文字になろうという不毛な闘いをするのではなく、参照することで自分の存在を確かめていけばいい。

本来世界に区切りなどなく、世界は世界で一つである。それでも便宜上か、人間は名前や時間などで世界を分ける。そうして分けられた世界が世界として浸透すると、私たちは固有性の見あたらない自分に生きる価値などあるのかと不安になる。社会に埋もれている自分は本当に存在しているのかと。そのような不安を抱えて葛藤しているのは人間個人だけでない。自治体や商売などの団体としても、区切られているにすぎない世界のなかで、他にはない固有性を模索する。

伊賀大氏の〈代理潜水艦(泥)〉では、逆さまの潜望鏡から、ポケモンやワンピースといった「作られた」イメージを利用して地域の活性化をはかる横須賀を覗くが、横須賀という地において、「作られたもの」を作り込むことの難しさを感じた。架空のものを利用した街づくりをしているところは横須賀以外にも少なくない。また、架空の物語ではなく歴史に則っていたとしても、それが事実だとはかぎらない。とすると、あらゆる観光地が、作られたストーリーによって観光地化しているといえるだろう。そしてこれは観光地に限った話ではなく、世界は、ある意味虚構によって成り立っている。だから事実にそぐわないことがあったとしても、それを細かく指摘するのは興ざめというものだろう。だが、そのような作られた虚偽は、どこまで許されるのだろうか。それが必要なものなのだとしても、固有性ばかりが競われているとき、本来そこにある自然やそこに住む人々といった内実が、蔑ろにされてしまう危険性があるのではないか。自然や人間は、それぞれ交換不可能だが、形式としては生物であるという点で皆変わらず、固有なものだとみなされにくいゆえに。それらには個性がないからと無視して、徹底的に外側の虚構を作り上げていった先に一体何があるのだろうか。延長線上にあるお隣さんとの違いなど大してなく、おどりじ的な存在なのだから、固有な文字になることなどもともと無理な話であるが、反対に、作り話次第で何にでもなれるということでもないはずだ。本作品の、粗めに作られた潜水艦からのぞき見える泥が、その土地での物語の作り込めなさを物語っているように思えた。考慮すべきは、何になるか、ということではなく、何を参照するか、ということなのかもしれない。

神尾篤史氏〈第2回 片田舎凡芸術協会展〉は、ローカルなものを中央である東京に持ち込む。だが、これは東京に向けた反抗や挑戦というより、地方でやったものの再演である。よく観光地で行われるような固有性の強調のような演出はなされておらず、ローカル感はあえてそのままに展示が行われている。また、そもそもこの協会の会員は神尾氏一人だけであり、地方を代表しているのではなく、地方に住む一人の人間の展示である。だが、地方の個人の家で描かれた、溢れんばかりの絵たちからは、東京と地方という距離感が生み出す面白さを感じずにはいられなかった。作者自身が「1万円パワー」と呼ぶ、地方と東京の往復にかかる高いお金。これだけのものをかけて東京まで赴いて、大したものを得られなかったら確かに悔しいだろうと想像した。東京は地方から上京してくる人々の期待に応えられているだろうか。地方が観光客からの期待に応えようと躍起になっているのと同じように、東京もまた外国人訪問客からの期待に応えようと躍起になっている。一方通行で、終わりが見えない。地方ならではの何か、東京ならではの何か、ではなく、作者が実家と新芸術校を行き来したこと、第2回 片田舎凡芸術協会展が東京に持ち込まれたことを考えることで、地方と東京が延長線上で繋がっているという実感が得られるのではないか。

展示の中盤では、固有性のなさそうなものから、自身の存在を確かめようとする取り組みが行われていたように思えた。紋羽是定氏の〈それ・ぞれ〉では、自分の生を水温で表す。ガリレオ温度計を自身の体やヒーターなどを使って体温に保ち、体温を偏りなく保つことを生き続けることと捉える。シンプルな生の表現だが、シンプルだからこそしっくりくる。固有性など求めなくていい。ただ自分が生きて存在しているということを確かめること。そのためには必ずしも優位性を得ることは必要ない。均衡を保ち続けること、均衡を保とうと努めること、それだけで十分に生存だろう。

小林万凛氏の〈花〉の3点の絵は、あれこれ考えたりせずに、好きという気持ちを駆動させて描かれている。ただ描きたいという気持ちに従いたい。絵を好きであり続けるために。三つの絵に特に統一したテーマなどがないのは、特定の何かを主張することへの抵抗だろうか。主張を絞れば何かが失われてしまう。反対に主張なくては対話をするのは難しい。どちらがいいかなどは決められない。作品との関わり方も、他者との関わり方も、なんと難しいことだろう。

杏子氏の〈座ってもいいですか?〉では、椅子になった女の子がこちらを見る。言葉にしようとすると椅子に変身してしまうのだという。椅子とは座る用途を持った家具であり、家具とは自分の意思を持たず、使えなくなれば別の家具に取って代わられる。この絵の中のキャラクターは、自分がそのような「椅子」に変身したと思っている。だがこれは彼女の自我によるもので、観客は恐らくこの絵を「椅子に変身した女の子」と見るのではないかと思う。この時点で観客の見るものには相違がある。つまり、本人は固有性のないものに身を潜めているつもりでも、他者からはそうは見えない。ということは、自分自身もまた交換可能なものに変身してるつもりで、この絵の中の自分を見つめる女の子からはそう見えていないということもあり得るのかもしれない。

小笠原盛久氏の〈息子〉の絵には、紛れもなくかけがえのない存在があった。息子さんの姿と、愛用品の絵。愛用品も含めて、どう考えても代替不可能だった。

会場の一番奥にあるのは、藤井陸氏による〈呼び名〉。「藤井隆」とよく誤解される作者が、展示期間中個室内にあるものをマジックペンで名付けたり消したりするパフォーマンスをしている。名前を間違えて呼ばれるというシチュエーションはよく見かけるが、これによってそれほど大きな問題が起きるわけではない。間違えられたら訂正すれば済む話だ。だが、間違えられることがあまりにも多いと、どっちでもいいやということにもなってしまうだろう。どっちでもいいやと思いながらも、心の中で引っ掛かっていたりもするのだろう。名前は自分を参照させてくれるものであり、自分の全てではない。だが作者が「藤井陸」という名前がしっくりくると感じた瞬間があったように、思いの外それが自分に染み込んでいる、もしくは名前に自分が染み込んでいることがあるのかもしれない。同じ名前の人などいくらでもいるのにも関わらず。

前にある文字は何か。何を参照すればいいか。おどりじ的な存在として、それを探す。おどりじは固有な文字ではない。だが、同時に固有性がないとも言い切れない。もしかすると固有なのかもしれない。恐らくそういうことはそれほど大した問題ではなくて、どちらにしても、おどりじとして、参照先を探す。それは、虚構かもしれないし、ネイチャーかもしれない、自分の身体かもしれないし、用いた道具かもしれない。入れ替え可能なものばかりの世界のなかで、参照先を探しながら存在を確かめていく。競争ではなく生き残るために。

 

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