『おどりじ-々々々-』を振り返る

『おどりじ-々々々-』を振り返る

(※本文中、敬称略)

 『おどりじー々々々ー』は、私のほか、鴻千佳子、鈴木杏奈の3名によりキュレーションされた。

鈴木がいなければ、鴻は当展示のキュレーションに手を挙げてくれなかったのではないかと思っている。

鴻は個人の無力さを愛する視点を持っている。当展示のステイトメントでは、『分断された「私」たちと「世界」を再統合しようとする試みである。』と結んでいる。鴻の視点はこの結びとは異なるところにある。分断された「私」は再統合される必要もなく、個として、それはもしかしたら世界とは全く無関係に存在し、その命を全うする。それのなにがいけないのか。そのような貴重な視点をもったキュレーターが当展示にはいた。改めて、展示を終え事後的に、鴻の視点こそがこの展示を言い当てていると思えてならない。

ここからは各作家の作品について言及していきたい。

 

伊賀大『代理潜水艦(泥)

 当作品は世界をひっくり返している。さかさまの潜水艦により、私たちが立っている地面が水面であり、しかも私たちは水面から海底に向かって立ち、水中に浸かっている状態にいることが想起される。足の裏が触れているのは海面であるが、それは、空気と触れている面ではない、海水側の海面だという想像力に触れたとき、『海面』『水面』という言葉は、空気と触れる水の面を指す言葉で合って、その裏側を指す言葉がないことに行き当たる。こうして、いきなり海の中をさかさまに歩いているイメージを持ちながらこの作品だけでなく、この展示空間に存在することになる鑑賞者は、さかさまになった状態から、水面から出た潜望鏡を覗くことになる。残念ながら、潜望鏡から見える像は判別がつきにくく、そこに何が像を結んでいるかは作品ステイトメントから推測することになったが、その像以上に、潜望鏡をさかさまになった鑑賞者が水の中から覗いている、というイメージとともに、私たち自身はさかさまでなく普通に立っていて、潜望鏡はむしろ地面に向かって伸びている、というイメージも想起され、水面の上/地面の下、を私たちは覗いていたことこそ特筆すべきである。土地の記憶という言葉があるが、記憶は現実ともにフィクションによっても生成される。土地の記憶とともに土地から離れた土地を持たないフィクションたちによる記憶もまた、私たちの記憶をそして歴史を作ってきた重要な要素であることをこの作品から思い出した。

 

小笠原盛久息子

 小笠原は当作品のモデルに当たる人物について多くを語ろうとはしない。その一方で、小笠原は繰り返し『作品と会話してもらいやすいように』という言葉を口にしていた。鑑賞者と当作品が作る関係を尊重したい、作家からのメッセージがもちろんないわけではないが、それが鑑賞者と作品が関係を作るうえで邪魔をしていないか、小笠原はその点に配慮していたのだ。当展示を評してくださった梅沢和木氏によれば、平面の絵画が現代美術であるか否かを決める要素の一つとして、作品の要素に絵の外部がある、ことが挙げられるとおっしゃっていた。小笠原は今回、3点の絵と現物のギターおよびキーホルダーを展示していた。その点でもちろん絵のほかに外部はあるわけだが、それにも増して、鑑賞者と絵が会話すること、がこの作品の重要な要素であることが、父親が息子の絵を描くという、ともすると極めて閉じた行為になりそうなこの作品を開かれたものにしていた。鑑賞者という外部を必須要素とし、絵の外部が加わって初めて作品として完成するように腐心した小笠原が、いかに閉じたところから、この開かれたところまで来たのか、その旅路を、この絵の前に立ち、この絵と会話しながら想像していた。

 

神尾篤史『第2回 片田舎凡芸術協会展』

 第1回 片田舎芸術協会展を見に行けなかったことが後悔される。その展示会場である福島市まちなか交流スペースに、私は訪れたことがある。神尾の案内で私を含む数名で神尾による福島市アートツアーが行われ、そのツアーコースに当の場所が組み込まれていた。福島の地元を案内する神尾は東京で会うときとは印象が違った。当作品のステイトメントを読んで改めて納得が言った。東京から地元に帰る新幹線での心情とともに、「我が街に帰る安心感」が綴られていた。設営段階のアクシデントもあり、当作品は神尾が福島からオンラインで五反田アトリエにいる数名の設営サポートに指示を出す形で展示された。作品は郵送で送ってもらった。作品を展示し、ステイトメントとともに改めてこの作品と対峙したとき、会期を終え、撤収作業までしっかり引き継げば、この展示においては、東京から地元への「帰りの新幹線」を神尾は体験しないことに気づいた。しかし神尾は撤収に来て、作品を引き取り、おそらくは新幹線に乗って帰っていった。そこでもまた、「屈辱、怒りと、静かな我が街に帰れる安心感」を感じたのだろうか。次の彼の作品を見るまで、そのことは聞かないでおくことにしている。

小林万凜 『花』

 三点の絵によって構成されている当作品は、それぞれが作成された時期に若干の隔たりがある。作家はその間、絵を描くことから離れた時期もあった。しかし改めて自分にとって絵を描くとは何なのかを問い、今回の展示に至っている。就職を機に上京した小林にとって、上京前と上京後の自分をつなぐものが絵画だったのかも知れない。それは学生と社会人という分断をつなぐためのものでもあり、付き合う人間が様変わりした、現在と過去の分断をつなぐものでもあったかも知れない。ステイトメントは「わたしはこれからどこへ向かうのだろうか。」という言葉で結ばれている。小林は今まさに、顕名から匿名に架かった橋を渡り、社会人になり東京人になった。自己が命名された唯一の自分から一身体(でしかない)自分を発見したかも知れない。その迷いの渦中にいる小林の作品を、ほかの7作品が見守っているように、私はこの展示空間で感じた。

藤井陸 『呼び名』

 藤井は、展示と向き合うことをなかなか許さない。常に展示スペースには藤井がおり、説明が加えられる。展示期間の初期にこの作品を観た鑑賞者と、最終日に観た鑑賞者とでおそらくこの作品の印象は異なるだろう。それは展示自体が変わった、というか付け加えられた要素がある、という点も去ることながら、なによりも藤井の説明が変わっていったことが大きい。その変化は講評を経た最終日にまで及んだ。断っておくが、これは未完成の作品が展示期間中に完成に至ったのではない。すでに完成していた作品に、藤井が日々手を加えていた、というのが正しい。実は私はそのことに最終日まで気が付かなかったし、もしかしたら当の本人もそうは思っていなかったかもしれない。作品の完成とは何かを考えるいい機会になったのと同時に、『人に迷惑をかけない』という倫理と『思いやり」の精神についても考える機会となった。この作品は、誠実さ、についての作品だったのだ。

三浦春雨『現実と虚構の狭間で踊る』

 三浦は最後まで迷っていた。作品のテーマは決まり、モチーフもドローイングも出来ていた。そのうえで尚、迷いは深まるばかりだった。しかしそこで判断した。絵のチカラを信じるという判断だった。テーマやモチーフ、もしかしたらドローイングにおいてまでも逡巡していた点について、出来上がった作品を観れば、払しょくされるのではないか、いや、それを払しょくすることこそが絵を描く理由なのではないか。完成した絵の前に立ち、改めて三浦の絵描きとしての実力に魅了されるとともに、なぜ三浦は絵を描くのかという問いを突き付けられた。「なぜ私(三浦)は絵を描くのでしょうか。」と問われているように感じる、この稀有な体験は何か。三浦の絵からしか感じたことのない、この強く潔い迷いに対し、私はまだ答えられずにいる。

杏子『座ってもいいですか?』

 本棚を背景にして「椅子に変身してしまう」女の子がこちらを見ている。とても大きな目だが、口がない。そのせいか更に目が強調され印象的だ。各作品が共存していた展示会場において、この作品が最も直線的な力、つまりは視線なわけだが、を鑑賞者に与えているように感じた。存在感があり、主張があった。それゆえに所有欲を掻き立てる作品でもあったように思う。おそらくは本人の意志とは無関係に椅子に変身してしまった女の子は不満と当惑のなかにいるのであろうが、どこかすでにそれらを受け入れているようでもありつつ、決してそのことに共感してほしいわけでもない自立した強さがある。キュレーターの一人である鴻の視点、分断された「私」は再統合される必要もなく、個として、それはもしかしたら世界とは全く無関係に存在する。それのなにがいけないのか。そのことを私に伝えてくれたのはこの絵であった。

紋羽是定『それ・ぞれ』

 紋羽もまた、展示期間中終日在廊した作家だった。ガリレオ温度計とは言われなければ気づかない黒いマリモのような物体が円柱の中で浮いている。説明を何度か聞くまで、円柱の中の液体が水であると思うことが出来なかった。なにか有害な、温度計から連想された水銀を含むような液体に違いないと思っていた。それほどまでに当作品は危険物に見えた。その危険物を大事に守りすがっている作品に見えた。水温を自分の体温と同じ温度に保つために電気ストーブや発電機、そしてなによりも自らの身体を使っていたその行為は「偏りなくバランスよく生と死の両方を同じだけ感じ取る」ためだったと理解しているが、その理解をする前に、印象として飛び込んできた、有害で危険そうな液体で満たされた円柱をなによりも大事に抱きかかえている姿。そこに感動をまず覚えたのだった。そのあとにステイトメントを読み、作家の説明を聞き、これはそのような作品なのか、と理解することになる。キュレーターでもあった私は事前に作品の説明を受けていたが、それでも、視覚によりもたらされた印象は事前の説明を超えて、『危険物を抱きかかえる男』に見えた。この、印象と理解の誤差こそが、この作品の中核だったのかも知れない。

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