芸術の母胎
災害は芸術の母胎である。
椹木野衣はかつて主著である『日本・現代・美術』において、「悪い場所」という歴史の「反復と忘却」モデルこそが「正史」なき「日本現代美術」の根源を規定していると指摘した。続く『震美術論』ではその問題意識を引き継ぎながらも、抽象概念としての「悪い場所」ではなく、具体的な日本列島の地質学的条件、つまりプレートテクトニクス理論における地殻構造的なメカニズムを「地盤」とした「悪い場所」を見出だし、再定義している。彼が「七難の美術」と呼ぶ村上隆《五百羅漢図》や藤田嗣治の「戦争画」は、そのような災害の予測不可能な周期性を基盤とした「悪い場所」に対する慰霊と鎮魂の芸術として描写されている。
一方で東浩紀は『ゲンロン10』における論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」において、加害と被害の非対称性について書いている。この論考においては収容所=大量死における数の暴力と忘却に対して、博物館=大量生における意味回復と記憶ではなく、第3項として団地=大量死の上、大量生の周辺に築かれた加害そのものの愚かさの記憶について考えている。具体的に言えば七三一部隊における「殺してもいいし殺さなくてもいい」という無関心で偶然的な加害について、被害者による必然性を軸とした物語化を経ずにどのように記憶すれば良いのか。村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』における団地の住民が「井戸に潜ること」は、その地下で暴力の記憶に触れ、団地を守る手段として引用されている。
椹木の『震美術論』における「悪い場所」が自然災害を前提としているとして、東の「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」における「悪の愚かさについて」は人による害を前提としている。そのような違いがあるとは言え、東浩紀編『思想地図β vol.2 震災以後』の巻頭言「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」において述べられている「確率的な」生死の問題を参照してみれば、震災という自然災害とアウシュヴィッツなどにおける人による大量虐殺の問題を繋げて考えているという意味でそれらは地続きの問題であり、この問題の発展系として「悪の愚かさについて」が考えられていることが分かる。さらに東日本大震災の後に考案されていた「福島第一原発観光地化計画」と紐付けて考えるならば、災害からの復興を目指した慰霊と鎮魂の芸術の視点は、椹木の言う「七難の美術」とも密接に繋がっている。
このような前置きを手がかりとして、展評というこの論考における当初の目的に立ち返る。
グループ展C「おどりじ―々々々―」は、災害における加害と被害の非対称性について、芸術という技術を使用してどのように記憶するかに焦点を当てた展覧会である。加害者が見えづらい、存在しない、人ではない災害において、加害と被害の非対称性は一体どのように記憶すれば良いのか。災害が芸術の母胎であるならば、我々はその母体の中に宿る記憶をどのように呼び覚ますことが可能なのか。展覧会ステイトメントでは、本来この展覧会の中心テーマとして据えるべき災害や加害と被害の非対称性というテーマが抜け落ちているようにみえた。ただし踊り字の反復構造、つまり事前の文字が事後の文字となり、事後の文字が事前の文字となる構造は、『震美術論』の「悪い場所」における事前に宿命を知ってしまうことと、事後に反復が起こるという永劫回帰を示していると解釈することができる。また代替可能と代替不可能の議論に関しては、加害者にとっては代替可能だが被害者にとっては代替不可能であると読み替えるのであれば、加害と被害の非対称性について述べていると解釈することも可能だ。
このような展覧会ステイトメントの性質を否定的にみるのであれば、テーマの掘り下げが不十分ということは可能であり、実際にその側面はあるだろう。キュレーションとしてテーマの掘り下げが不十分であれば、作家は作品が置かれる文脈が分からず、本来の実力を発揮できない。また鑑賞の解像度を下げるという意味では、観客の鑑賞体験も満足いくものにはならないだろう。しかし肯定的にみるのであれば、周辺的な情報を仄めかし、あえて切り込まないことによって醸成されるゆるやかな雰囲気のようなものをグループ全体や展覧会会場の居心地の良さとして波及させることには成功していた。災害や加害と被害の非対称性をテーマに据えたとすれば、もっと殺伐とした雰囲気が漂っていた可能性はある。しかしそれらが削ぎ落とされた末に生まれた、母胎のような安心感と安らぎのようなもの。そこに展覧会の1回性を前提としない、CL課程ならではのキュレーションとしての魅力を感じたことも確かだ。
「おどりじ―々々々―」における作品配置は単純であるが故に特徴的である。例外はあるものの、主に入口向かって左側が絵画に類する作品、右側がメディアアートに類する作品となっている。会場の左側に使用しやすい壁が多いという事情はあるだろうが、この亀裂が単純に使用するメディウムの違いであるとは思えない。そこでこの亀裂を仮に災害によって生じたものであると仮定した場合、特に右側に配置された作品群は、災害を出発点として覆い隠された加害と被害の非対称性について表現した作品が並んでいるように思えた。そこで今回は伊賀大《代理潜水艦(泥)》、藤井陸《呼び名》、紋羽是定《それ・ぞれ》の3作品に焦点を絞り、先程述べたテーマと合わせて掘り下げてみたい。
伊賀大《代理潜水艦(泥)》の潜望鏡を覗いた時に見えてくるもの。「軍の町」横須賀の風景とポケモンGOのポケモンたち。観光地の風景に映り込むポケモンたちからは、平和で楽しそうな雰囲気が漂ってくる。しかし、この風景には加害者が隠蔽されている。良く考えてみれば、そもそも横須賀に存在している米軍基地や軍港とは大量死の象徴である。そのような町に上塗りされた「軍の町」、「ポケモンの町」というPRのイメージは、どちらのイメージが人口に膾炙するかとは無関係に、等しく大量生の象徴として機能している。
軍の最も本質的な機能は、人の死を司ることである。それは戦争などで人を殺すことという意味だけではなく、防衛として人を守ることも含め、軍は大量死の問題を扱っていると言える。一方で海軍カレーやラプラスは、消費社会を土台とした物語をその大量死に上塗りしている。つまりこれらを東の議論を借りて言い換えるならば、米軍基地や軍港は収容所を象徴し、「軍の町」や「ポケモンの町」は博物館を象徴している。ではここにおける団地とは一体何であり、団地の住民たちは一体どのような記憶にアクセスするべきなのだろうか?
それは本作において示唆されてはいるものの、その度合いとしては不十分である。離れた場所に位置する潜望鏡は、覗いても何も見えない。つまり団地は可視化されていない。そして潜水艦とは、文字通り海の下に潜る機能を持っている。『ねじまき鳥クロニクル』における団地の住民が「井戸に潜ること」は、ここでは潜水艦の中から潜望鏡を覗き込むこととして表現されている。しかしその先で触れられる記憶はポケモン、ゴジラ、ワンピースといった物語、つまり博物館を象徴するものである。であるならば軍に対してアンビバレントな感情を抱きつつも支持する伊賀が本当に作り出すべきであったのは、軍(大量死)VSサブカルチャー(大量生)という対立構造ではなく、一見大量死が存在していないように見える風景に隠蔽された大量死の記憶を取り戻し、その上でその加害の記憶を肯定してみせることではなかったのだろうか。
藤井陸《呼び名》は、自身の名前である「藤井陸」が「藤井隆」と誤解されるという実体験が作品の元になっている。その予測不可能な周期性の「反復と忘却」は災害を想起させるが、ここで重要なのは加害者が存在しないということである。少なくとも人は加害の意志を持って呼び名を間違えているわけではなく、この件は単純に見間違え、記憶違いなどによって引き起こされている可能性が高い。しかしその度に藤井のアイデンティティは揺らいでいく。このような「加害者なき加害」によって生じた被害、その加害の記憶はどのように扱われるべきなのだろうか。
そのことについて考える際に、彼の映像にも少しだけ登場するVTuberについて考えてみたい。VTuberとはバーチャルYouTuberの略であり、一般的にはキャラ(アバター)の表象を、「中の人」がトラッキングと呼ばれる動きや位置を認識し追跡する技術、声などを使用して自由に動かし、動画配信を行う人のことを指す。ここで問題になるのは、VTuberのアイデンティティはどこに宿るのかということだ。VTuberにおけるアイデンティティの構成要素は、キャラと中の人という対比以上に、声、動き、性格など含めてより細かく分解できるように思える。例えば声だけ変わったらどうなるのか、名前が変わったらどうなるのか、「中の人」を入れ替えても同一人物として捉えられるのか。疑問を挙げていけばきりがない。
藤井は《呼び名》において、一見固有名とその呼び間違いに対するアイデンティティの揺らぎをテーマにしていたようにみえる。しかし本来の射程はもっと広く、ソール・クリプキ『名指しと必然性』における固有名と確定記述の束の議論に、VTuber的な角度から検証を加えていく可能性を持っていたはずだ。例えば同姓同名である3人の「藤井陸」が自己紹介を行った時の音声とその書き起こしの映像。それは正しく「中の人」が入れ替わってしまうような、声だけでVTuberを動かすトラッキング的な発想から作られているようにも思えた。そしてこの発想を徹底化させるのであれば、パフォーマンスとしてその場にいる藤井陸とは一体誰で、その分解されたアイデンティティは一体何処に所属しているのか、そもそも何処にも所属すらしていないのかが問われなければならない。その時「加害者なき加害」の記憶は、VTuberにおけるアイデンティティの構成要素の問題として捉え直すことが可能になるだろう。そういう意味で次作は、禅問答的な固有名や名指しに拘束されることではなく、VTuberのトラッキング的要素から浮かび上がるアイデンティティの揺らぎを突き詰めた作品を見てみたい。
紋羽是定《それ・ぞれ》は、3.11をスタート地点として構想されている。自然災害における加害と被害の非対称性の問題は、正しく「確率的な」生死の問題に人間は耐えることができないという問題と重なり合っている。彼が作り出した巨大なガリレオ温度計。そこに注入された紋羽自身の身体と同量の水と、その水温を調整し、自身の体温と揃え続けること。彼の提唱する「生死を分けるのは偏りである。」という仮説を検証するための装置として、作品を機能させ続けるパフォーマンスには圧力がある。
一方で作品には幾つかの疑問点もある。まず災害を出発点としていたにも関わらず、生死という抽象概念に移行し、その上で「生死を分けるのは偏りである。」という仮説に飛躍し、そこからさらに温度調整という単純化を通して再び飛躍させてしまうこと。その飛躍の連続の繋がりに説得力を持たせることができれば違うのだろうが、出発点である災害と終着点である温度調整の接続の間にはやはり埋めがたいギャップが生じているように思えた。ガリレオ温度計によって浮きが上下に沈んでしまえば死、均衡が保たれていれば生という説明がなされていたが、例えばこの装置を完全に放置して死が発生しても紋羽には何のリスクも影響も生じない。マリーナ・アブラモヴィッチのように命を賭けたパフォーマンスをするべきとは思わないが、《それ・ぞれ》が災害における生死の表象として納得し難い部分があったことも確かだ。
ここで冒頭の言葉に戻る。災害は芸術の母胎である。もしくは展覧会のテーマを掘り下げた際に出てきた「災害における加害と被害の非対称性」。この二つの観点から見た際に、一番可能性を感じたのは実は紋羽是定《それ・ぞれ》である。紋羽の作品において注目すべきは、実は偏りではなくその構造だ。ガリレオ温度計を災害の母胎として見立てた際に、浮きは受精卵のようにも見えてくる。であるならば、この二つの関係性はそのまま親と子、そして加害と被害の象徴として見立てることが可能だ。その非対称性に介入するための外部装置として、「反復と忘却」から脱出するための永劫回帰の運動。それこそが災害を母胎として生まれた芸術の在るべき姿ではないだろうか。
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