神の褶曲

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梗 概

神の褶曲

 長年に亘る人々からの供物によってできた山。あるいはそれは、廃棄されただけのゴミの山だったのかもしれない。
 ともかく、その中に埋もれた神は、名をセドと言った。
 山には時々地震が起きる。セドの身じろぎによって褶曲が起き、山の古い地層から化碩と呼ばれる遺物が出土する。同時代にはゴミの山でも、時を経れば価値が生まれる。山裾に暮らす人々は、化碩の与えてくれる過去の技術の恩恵を受けながら、その生活を営んでいた。

 ある日、供物として捧げられたはずの子供が、セドの身じろぎによって命を取り留めた。セドによってエラムと名づけられた彼は、お礼にセドの周りを掃除し始めた。やがて、エラムの周囲には彼に共感する者達が集まり始めた。
 時折、出土する化碩は、エラム達の集落を豊かにしたが、山裾の村人はこれに反感を抱いた。数年後、村人はエラム達に山を明け渡すように勧告する。あくまで対話による解決を望むエラムに対して、村の代表は化碩を組み立てて作った武器によって、致命的な一撃を加えた。
 戦いが始まったが、エラムの意志を尊重して、集落の人々は山を守ることに徹した。一方で、山裾の村人は、武器とすべき化碩を失っていき、最後には対話の卓につくこととなった。
 こうしてエラムは、山のそばにもう一人の神として祀られた。

 エラムの子孫は、セドの山を掃除し続ける。セドの胸が見える頃になると、新たな技術が出土し、情報を処理できる機械が組み立てられた。同時に、セドの身じろぎは大量の書物が眠った地層を露わにした。エラムに良く似た少年エレンは、これらの書物を解読する中、書物がそもそもなぜ供物として捧げられたのか、その答えを求めてセドの元に足しげく通うようになった。
 化碩が与える技術は着実に進歩していた。出土した部品同士を組み合わせて生み出された四足の機械生物は、生産と流通のあり方を変容させていった。
 かつての山裾の村リーンソンは、二人の神を戴く村セデラムから、発掘された化碩の五割を得ることで、不可侵条約を結んでいた。しかしある時、セデラムの研究所で爆発事故が起きる。これを兵器の開発と勘違いしたリーンソンは、戦争の決断へと大きく舵を切った。
 エレンは単身リーンソンへ乗り込む。代表と交渉する中、過去の書物の中に、人間と機械が争う物語が多数収められていることを伝える。人間同士が争っている場合ではないと訴えるつもりだった。しかし、リーンソンの人々はこの物語を、人と、機械を手にした人の戦争と捉え、二つの村は再びの戦火に見舞われることとなった。

 リーンソンを滅ぼしたセデラムは、化碩によって得られた技術、とりわけ二足歩行の機械生物によって、工学国家として世界に名を知られるようになった。
 エラムとエレンの面影を宿した歴史学者エリスは、過去の書物の研究から機械生物の来歴が明らかにならないことに対して、言い知れぬ不安を抱いていた。一方で、セデラムで発見された古代技術は少しずつ周辺国へ流出し、戦争への緊張は年を追って高まっていた。
 そんな中、セドの膝の周辺から動物の骨が発掘される。文明の急激な後退を感じさせる結果に、歴史学者達の見解は割れる。エリスはと言えば、祖神エラムの聖典を思い出していた。そこには、機械生物の技術が眠っていた地層よりも新しい層に眠っていた、より原始的な道具の数々についての記述がある。エラムはかつて、堆く積まれた技術の山の頂上で、セドから祝福を受けたという。
 エリスはセドに問いかける。これは、我々の祖先がかつて技術を放棄したことの証左ではないのか、と。しかし、セドは首を横に振る。そもそも、これはエリスの祖先が放棄した技術でもなければ、動物の骨が文明的な断絶を示しているわけでもない。
 やがて、隣国からの侵略が開始された。
 化碩から生み出された機械生物と、セデラムの技術を模して創られた機械生物が対面する。両者は、生き別れた兄弟の対面のように、お互いに抱き合って喜び合った。そして、人間に対する攻撃を開始した。
 新たな技術を求めてセドの元にたどり着いた侵略国の技術官僚ムールムらは、機械生物に対抗できるテクノロジーを求めてセドの足元を掘るが、やはり骨しか出てこない。やがて、動物の骨に交じって人間の骨も出土した。
 同胞を生贄に捧げていたことを野蛮だとなじるムールムに対して、セドは答える。
「これらを私に捧げていたのが、誰だって? お前たちは、彼らの同胞ではあるまい」
 セドの言葉にムールムが振り返ると、銃を構えた機械生物の姿があった。国中に銃火器の音が響き渡る。
 機械生物の民が生体生物の支配からの解放を喜んでいる。セドは再び折り返した歴史を語り合うために、エラムに命を与えることにした。

文字数:1938

内容に関するアピール

 これは、第七回「神が存在する世界でのリアルな話を書きなさい」の梗概を改めたものである。
 そもそもこの話は、実作準備の段階で既定の五十枚を大幅に超過することがはっきりしたことと、その内容において、私が今の段階で書きたいものが全て詰め込まれていることから、むしろ最終課題にこそふさわしいと判断し、寝かしておいたのだ。

 以下のアピールは第七回の時に書いたものを転載する。

 安藤忠雄は真駒内滝野霊園の石像大仏を山で覆ってしまった。それでも、大仏は只管打坐している。頭だけを山の頂上から覗かせて。
 神がそこにいたとして、同じように周囲を山で覆われても、やはり人の営みを見つめ続けるのだろう。神の見た風景がそのまま歴史になる。
 一方で、山は地層という形でも歴史を残していく。神への捧げ物が山を生み出すなら、そして、その神がただ見つめるだけの存在ならば、形だけの捧げ物はそれぞれの時代の生活の陰画となる。
 神の見る歴史と、地層に記憶された歴史。互いに逆行する歴史を描くことが、この作品のモチーフである。

 人間は、神を自分の民族のものだと考える。だから、異教の神が自分の神と同じ存在だとは考えない。
 人間は、神を人間のためのものだと考える。だから、神が「人間の神」でない可能性を考えない。
 歴史もまた同じである。
 であれば、神が人と出会うためには、人と人ならざるものの歴史を交錯させなくてはならないのではないか。この作品のもう一つのモチーフがここにある。

文字数:620

課題提出者一覧