苦い花と甘い花

選評

  1. 【小川一水:3点】
    とてもよくもてなされた。美しく苦しい話で、芯が通っている。少女アニータはつらい道へ足を踏み入れた。強く生きていけるだろうか。
    SF創作講座に提出された作品だが、この出来栄えと、次の月の梗概を見るに、SFの枠を意識しないほうがいいものが書ける人のように思える。「読者をもてなす」という方向性と力の出し方が一致している。

    【小浜徹也:2点】
    梗概の隙間を埋めるのに終始してしまっている印象を受けた。実際に東ティモールに住んでいたことが活かされており、たくさんの情報が盛り込まれている点は評価できるが、もっと五感で感じられるエキゾチシズムがあったほうが得をする題材なのでは。〈声〉の導入にもう少しフック(ひっかかり)を持たせ、誰にどのように聞こえているのかなどの書き込みを加えれば良くなりそう。なぜ双子の設定なのかもくっきりしない。展開が素直すぎるので、もう少しひねりが必要にも感じた。

    【大森望:2点】
    日本初の東ティモール小説。現地の食べ物や衣服、風景がまんべんなく描写されているのは良いところだが、突出する部分がないため、読み手からは文字資料や写真やGoogle Earthから想像できてしまうものの枠を出ていないと思われるかもしれない。ホテル・ティモールでアニータが双子と会う場面の湯面妖な空気感はよく出ているが、それと対比されるべき日常がやや解像度不足か。実際にその場にいた人だけがわかるなにかが1つでも入っていると、それを突破口により生々しさが出せると思う。ただ、強いて言うならそこがもったいないというくらいで、作品としてはよくまとまっている。

    ※点数は講師ひとりあたり9点ないし10点(計29点)を3つの作品に割り振りました。

梗 概

苦い花と甘い花

1478789538769

 

 大統領にはブロンドの髪をした22歳の双子の恋人がいて、いつもふたりを連れてパーティーやバーに出かける。ヤギ小屋の脇に住む8歳の少女、アニータはとても貧しい。タロイモの茎の炒めかトウモロコシ粉を水で溶いたスープがアニータの食事で、それだって食べられるだけありがたいことなのだと祖母はいう。10数年前にポルトガルから独立したばかりのこの国は、長くつづいた内戦後の治安安定のためにPKOが駐在している。海沿いを走る首都ディリの、通称海岸通りには、りっぱなホテルも音楽の流れるレストランもあるけれど、それらはアニータの国にあっても外国人のためのもので、アニータはなかをみたこともないのだ。

 午後の海岸通りで、双子の運転するオープンカーが、アニータの祖母にぶつかる。双子が通話中のスマートフォンを切り、車から降りて丁寧にあやまったので、祖母は「何でもないことです」と土地の言葉でいう。けれどそれ以来、足を引きずって歩く。その年のおわりにアニータは重いマラリア熱にかかり、病院に運ばれる。医療支援で訪れている日本人医師マツザワ・ミチコが、アニータを診る。ミチコは、子守唄代わりに歌った日本の童謡にアニータが唱和したので驚く。「どうしてこの歌を知っているの?」「たまに聞こえてくるから。先生には聞こえないの?」医師は涙を流している。アニータにはどうしてだか分からない。

 アニータには小さなころから、それを感知することができた。音声に近いものとして聞こえるときも、感情の余波だけが伝わることもある。どちらにしても、それは常に、空気のなかに満ちている。祖母もそれを感知する。だから普通のことだと思っていたら、ちがうらしい。ミチコと一緒に突きとめた結果、それが死者たちの声であることが分かる。死者に時間の感覚はない。過去も未来も行き来する。肉体を離れると感情は薄れてしまうものなのか、どぎつさはない。エゴもない。大半のそれが、ただ彼女を守ってくれようとしている。ときどき感受する日本の童謡は、第二次世界大戦のときにこの国で死んだ、日本兵が歌っているらしい。ミチコの同僚のアメリカ人医師は渋い顔をして、そんなことはあり得ないと首を振る。

 大統領がアニータの能力に興味を持つ。彼は死んだ父親の声を聞きたい。世界は恐ろしいスピードで変わっている。アメリカで予想外の人物が大統領に決まり、中国はこの国の海底資源を狙って巧みな外交をしかけてくる。大統領は困惑している。ひとことでいい、独立戦争の立役者で優れた指導者として国を独立に導いた、亡き父の助言がほしいのだ。ブロンドの双子が、アニータを招待する。あこがれのホテル・ティモール。食べたことのない卵の焼き菓子、遠くの国の賑やかなアニメーション、「あたしたちには入らないから」と渡される、花びらのようなワンピース。双子は少女をもてなして、機嫌を取ろうとする。アニータは、大統領への進言ひとつで彼女たちをここから追放することができる。翌日、アニータは大統領の前に立つ。死者たちはきょうもさざめいている。アニータは、自分を双子の妹にするよう頼む。大統領が尋ねる。「私の父がそうしろといっているのか?」死者たちの声がこちらを取りかこみ、一斉に高まる。それを無視してうなずくと、いままで満ちていた声が空洞になる。初めて知った静かな世界に、足をふるわせながらアニータは立っている。

文字数:1397

内容に関するアピール

「一点豪華主義でいいから、おもてなしをすること」という課題について考えたとき、自分がよく知っていること、好きだ、得意だと思えることをもとにして、それをさらに洗練させて差し出すことが、解のひとつになるのではないかと考えました。
 他の受講生や作家の方たちとお話をしているときに、「海外に住んでいた経験をもっと書いてはどうか」という助言を頂くことがありました。自分ではそこに価値があるとあまり思えないでいたのですが、指摘を頂いたことで、少なくともそれが自分にとって「知っていること」であり、「好きなこと」でもあると気がついて、舞台を以前住んでいた東ティモールにしました。調べたかぎりでは、東ティモールを舞台にした日本の小説はまだないようです。土着の呪術的な風俗や近代史での日本との関わりなど、興味深い事実を素材に、実際の国についての知見を楽しんでもらえるよう工夫しながら、テレパスの少女のドラマを書きます。
 また、物語のなかでの文字通りの「もてなし」を考えたとき、最も鮮烈な設定は、持たざる、けれど何かに強いあこがれを抱いている人物が、その場所に招き入れられ、異世界のようにその世界を体験するというものではないでしょうか。モンゴメリの「赤毛のアン」やアンソニー・ドーアの「すべての見えない光」などで、苛酷な境遇にいた孤児の主人公たちが、その聡明さと幸運から、本や音楽や美しい食べものなどで、初めてのもてなしを受けたときに放つ驚きと歓喜は、読む喜びを掻き立てられるものです。そのようなもてなしの場面を目指したいと思います。
 タイトルは、死者にたいして一週間苦い花を、その次の一週間は甘い花を捧げるという東ティモールの風習から付けました。気がついたら死者の声がモチーフになっていたのは、自分自身が先日父を亡くしたことが大きく関与しているように思います。考えてみれば父にも、「東ティモールのお話を書いたら」といわれたことがありました。そのときは受け流してしまったけれど。

文字数:829

苦い花と甘い花

 

わたしたちの黒は植民地時代の暗黒を
わたしたちの赤は戦争で流された血を、
わたしたちの黄色は独立のための戦いを、
そしてねアニータ、あの白い星、
あれは、あなたたちの平和と希望をあらわしている。

 

 

 きょうも〈声〉が歌っている。目を閉じて聞いていると、空気を引っ掻くような音を立て、となりの家の鶏が鳴いた。
「アニータ、市場に行こうよ」
 ジョアナが戸口のところに立っている。
「うん」
 唯一の自分の靴、外国人アパートの裏のゴミ捨て場で祖母が拾って来た大人用のビーチサンダルを履いて、アニータは外に出る。路地の脇のぬかるみを、まだら模様の子豚が数匹、母豚のあとを追ってキイキイ鳴きながら駆けてった。母豚はどこでみつけて来たのか、黄ばんだスポンジのようなものを食い散らかしている。路地を抜け、大通りに出ると、一面の海がひろがっている。
 正式名称ポルトガル通り、アニータたちは海岸通りと呼んでいる海沿いの大きな道路は、アスファルトの舗装もきれいで、アニータたちのお気に入りの散歩コースだけれど、それはここに赴任している外国人たちにとっても同じらしい。暑さの苛酷でない朝と夕方には、欧米人たちがキリスト像の立つ丘のふもとまでランニングをしているし、車はしじゅう行き交っている。国連の「UN」というマークが入ったトラック、海外のNGOや大使館関係者の運転するトヨタのジープ。それからフロントガラスが割れたり、サイドミラーがもぎ取られたりしている埃まみれの地元のタクシー。
ディリの街は、この一年だけでも車の数が急増した。車だけじゃない。ホテルやレストランも次々にできている。中国人が経営するインターネットカフェや海賊版DVDのショップが開き、省庁のあたらしい庁舎も建設中だ。
〈この国は六歳。アニータと同じ子ども。だからこれから、どんどん成長するんだよ〉
 外務省の庁舎は中国政府が出資していて、国で初めてのエレベーター機が設置されるらしい。そのことは学校でもかなり話題だったし、レアンドロなどは、何とかして絶対に乗りに行くんだって話してたけど、アニータたちは誰もエレベーターが何だか知らなかった。
「あっ、みて。双子だよ」
 アニータとジョアナは道の脇に押し付けられたように立ち、真っ赤なオープンカーが目の前を過ぎてゆくのをみつめる。双子は白地に青い大きな水玉がプリントされたそろいのワンピースを着てサングラスをかけ、首に大判の檸檬色のスカーフを巻いている。太陽の下ではほとんど白にみえるブロンドの長い髪に、オープンカーと同じ色の口紅。対向車に知りあいがいたらしく、派手にクラクションを鳴らした。向かいのトラックの窓から、国連警察の制服を着た白人の男が腕を突き出して、笑顔で何かを叫んだ。
「あの双子ってさ」
 ジョアナが耳もとでいう。
「大統領の恋人なんだよ」
「恋人?」
「そうだよ。ふたりとも恋人。ねえ恋人同士って何するか知ってる?」
 アニータはすこし考える。
「一緒に、お出かけしたりとか?」
 ジョアナは呆れたように眉をつりあげてみせる。眉をつりあげるのが上手なのだ。
「アニータはほんと子ども! 田舎の子って何にも知らないんだね」
 はあああと、声に出して大きな溜め息をつく。
「あたし、ほんとはレイラたちと仲良くしたいんだよね。レイラはあたしと同じディリっ子だし、きっともっと大人っぽいおしゃべりができるし」
 何百回もジョアナはそれをいった。そのあとに続く言葉も繰りかえしいわれたので、アニータはすっかり覚えて、こころのなかで一緒にいえる。
「アニータと遊ぶのってたいくつ! でもアニータはすっごい田舎から来たんだし、パパもママもいないし、おばあちゃんはちょっと変だし。おとなりのあたしが仲良くしたげないと、ひとりぼっちになっちゃうからね」
 ジョアナのいうことは、ほんとなんだってアニータは思う。一年前までアニータは、ボウカウ県の小さな村に住んでいた。椰子の木と赤土の道、痩せた畑しかない村だ。祖母とふたりでディリへやって来たときは、まいにちびっくりしてばかりだった。海をみたのも初めてだったし、街のいたるところに外国人がいるのも驚きだった。
 世のなかに、こんなにたくさんきれいな建物があることも初めて知った。大きな門扉の前で守衛が常に見張りをしている各国の大使館。熟れたバナナの色に塗られ、とりどりの国旗にかこまれた欧州連合機関のカサオロパ(ヨーロッパの家)。開けはなした二階の窓から音楽や笑い声が聞こえてくるブルーの壁のカフェ・エスプラナーダ。なかでもいちばんきれいだと思ったのはホテル・ティモールで、他の建物みたいにカラフルでなく、白壁と木を基調にしてあって、佇まいも静かでクラシカルなのが、アニータの目にはかえってうつくしくみえる。古いホテルで、外国のえらい人たちが泊まるところなんだと、祖母が教えてくれた。ディリにあるきれいな建物は、この国にあっても外国人たちのためのもので、アニータたちは中に入ることはできないのだ。
 それでもアニータは、ディリに来てよかった。食事は菜っ葉やタロイモの茎の炒め、トウモロコシ粉を溶いたスープなんかが多くて、お腹が減ることもあるけれど、日々の暮らしは村にいたときよりも楽だった。村にいたころは、ほかの小さな子どもたちと裸足で赤土の道を歩いて、遠くの川まで水を汲みに行かなくてはならなかったけど、ディリでは近所の人と共同で使う水汲み場があって、水を使うときにそこへ取りに行くだけでいい。学校も村のときよりずっと近くにあるし、祖母は外国人アパートのゴミ捨て場から、いろいろな素敵なものをみつけてくる。バスタオル、子ども用の洋服、プラスティックのフォーク、よい香りのする瓶に、まっしろな紙の空き箱、いまアニータが履いているビーチサンダルも。それにここには、村よりもたくさんの〈声〉がいた。〈声〉のひとつがそよいだので、前方に注意を向けると、市場の入り口に同じ学校のレイラがいた。
「レイラ!」
 ジョアナも声をあげる。レイラはリマと一緒にいて、ふたりは、バナナの房が羽根をひろげた鳥みたいにいくつも吊るしてある露店の軒先の、ビニルの日除けの下で、ココナッツジュースを飲んでいる。
「買いものしたの?」
 ふたりが手に下げている袋をみて、ジョアナが訊く。そうだよとリマが答えた。
「古着とか買ったの。こないだ双子が頭に付けてたのがかわいかったから、あたしたちも古着で同じやつ作るんだ」
 袋から、レースの布地と飾りつけ用の造花を出してみせてくれる。
「ヘッドドレスっていうんだって。双子みたいにおそろいで付けるの」
「へえ?」
 ジョアナはうらやましそうな声を出して、
「あたしもさっき双子みたよ」
 という。
「どこで?」
 レイラが初めてジョアナのほうを向く。ジョアナの頬が赤くなる。
「海岸通りの、州庁広場の近く。車に乗ってて、首に黄色の布を巻いてた」
「きょうもヘッドドレスしてた?」
「えっ。どうだったかな。してたかも……」
「してた?」
 レイラはアニータにも尋ねる。してない、とアニータはいう。
「そうなの?」
 レイラのがっかりした顔に、ジョアナはアニータを咎めるようにみやる。
「ねえレイラ、知ってる?」
 小声になる。
「あの双子って、大統領の恋人なんだよ。いつも三人で、パーティーやバーに行ってるんだって」
「それあたしも聞いたことあるよ」
 レイラの反応は素っ気ない。
「大統領は独身なんだし、立派な人なんだから、別にいいんだってパパはいってた。じゃあねニワトリちゃん。あたしたちもう帰るから、またね」
 ストローを刺したままのココナッツの実を、道の脇に投げ捨てる。アニータはあの実を割って、ナイフでなかの果肉を剥いで食べたい。ココナッツの果肉は、村にいたときからアニータの好物だった。ニワトリと呼ばれて、ジョアナはすこし元気をなくしたみたいだ。ジョアナの父親は、闘鶏で使う鶏を売っている。いちばん強い鶏は売らずに取っておいて、自分が試合に持って行って闘わせる。
脚を紐で縛った鶏を小脇に抱えて闘鶏場に向かう男たちは、アニータの育った村にもいた。だけどレイラの父親のような人間は村にはいなかった。レイラの父親は、国連スタッフや大使館員として赴任している外国人たちに部屋を貸している。
国連がやって来たとき、ディリには彼らが泊まれるところがなかった。彼らはディリ港にカジノ場つき客船を横付けし、そこで寝泊まりしなければならなかった。国民投票で、国の独立を選んだ人々に怒ったインドネシア軍とそのシンパたちが街に火をつけ、すべての建物を破壊していたからだ。一九九九年のその年、家も、市場も、ホテル・ティモールの前進のホテルも焼かれた。治安は最悪だった。アニータの父も殺された。二十一世紀最初の独立国になるはずの国の、記念すべき日の記事を書くために訪れていたジャーナリストたちは、退避勧告を受け、各国の政府が手配した飛行機に乗って帰って行った。
 レイラの父親はこれらの状況を注意深くみていた。もともとポルトガル系の家系でいくらか裕福だった彼は、貯金をつぎ込んで家を建てることに決めた。ジェネレーターと家具を取りつけ、外国人たちに月ぎめで部屋を貸し始めた。トウキョウやマンハッタンのど真ん中にあるアパートメントと同等の高額な家賃を設定したが、借り手はすぐに決まった。国連には金があり、ディリには外国人が住めるような家がなかったからだ。半年もすると、レイラの父親は賃貸しで得た利益をもとに自分たちの家を建て、さらに十ヶ月後には、外国人向けの貸し家をもう一軒増やすことができた。いまも外国人向けに建てられたホテルやレストランのオーナーのほとんどは、中国やマカオ、シンガポールの投資家たちだ。あるいは隣国のオーストラリアか、宗主国だったポルトガル。レイラの父親は、国連の駐在によって成功した数少ない地元の人間のひとりだった。
アニータとジョアナは市場のなかを歩く。レイラたちが買いものをしたといっていた古着屋の屋台をふたりものぞく。ビジネスをしているインドネシア人や、駐在していた外国人たちが置いて行った衣類が、一ドルから三ドルの値で売られている。ふたりともみるだけだ。水着もあってふたりは笑う。あんな布切れを着るひとがいるなんて! 元気を取り戻したジョアナがいう。
「アニータと遊ぶのってたいくつ! でもアニータはすっごい田舎から来たんだし、おとなりのあたしが仲良くしたげないと、ひとりぼっちになっちゃうからね」
 それからふたりで、ジープの行き交う海岸通りを歩いて家に帰る。

 

「それでは、皆さんに質問です」
 地理の時間、先生が黒板に地図を貼って、皆のほうを向く。アニータは地図をみる。ティモール島は、大きなワニが島になってできたのだという伝説がある。その昔、遠くの世界をみたくて、大きなワニの背中に乗って海へと旅に出た少年がいた。そのワニがティモール島になり、少年の子孫が島の人々になったという。地図の真ん中に大きく描かれた島は確かに、すこし身体を曲げたワニのかたちをしている。ワニの上から半分、テトゥン語の「ロロサエ」(太陽ののぼる場所)が、アニータたちの国、東ティモールだ。
「この国で採れる燃料には、どんなものがあるでしょう?」
先生は地図の、水色に塗られたところに触れる。
「海のなかにあるものですよ」
「魚!」
 レアンドロが元気よく口火を切って、皆がくすくす笑う。アニータも、魚かと思った。
「魚は燃料ではないでしょう」
 先生にいわれて、レアンドロは、
「人の燃料にはなるよ」
 と大きな声でいう。アニータはレアンドロにすこしあこがれる気持ちがある。自分の考えを、それが皆と違っていても、皆の前できちんとしゃべる。先生は黒板に文字を書く。
「答えは、石油と天然ガスです」
 石油と天然ガス。アニータは海のなかに、どんなふうにしてそれらがあるのかと不思議に思う。〈声〉が空気のなかにいつもあるのにみえないように、それらも水のなかに溶け込んでいるのだろうか?
「石油と天然ガスは、どこの国の人も必要なものです。この天然資源をたくさん持っているのですから、私たちの国はとてもお金持ちになれますよ。では次に農業です。この島の農産物で、石油やガスのように、他の国の人たちに売ることができるものは何でしょう?」
 米。ココナッツ。バナナ。キャッサバ。トマト。ジャガイモ。タロイモ。緑豆。トウモロコシ。皆して、市場にある野菜やくだものの名まえを口々にいう。なかなか正解にならない。あっ、先生、もしかしてパパイヤじゃないですか? レイラが発言する。お肌がきれいになるからって、双子がまいにち買ってるそうです。
「皆さんが挙げたものも、おいしくて、よいものですね。いつかたくさん生産したり、日持ちする加工品にしたりして、他の国に売れるときが来るかもしれません。けれど、いま私たちが輸出しているいちばんの農産物は、コーヒーです。飲んだことはありますか?」
 誰もない。
「コーヒーは、世界のなかで、石油の次にたくさん貿易で取引されているものです。ティモール島では、ポルトガルの植民地になった十六世紀からコーヒーが植えられていました。十九世紀になって、外国でコーヒーの病気が流行しました。おそろしい病気です」
「コーヒーも病気になるの?」
「コーヒーは木ですから、病気になります。野菜や魚も病気になることがありますよ」
 と先生はいう。
「この病気はさび病といって、コーヒーの木を次々に枯らしてしまうのです。育てていたコーヒー樹林が、全滅してしまった国もありました。あまりのことに、スリランカという国では、もうコーヒーを作るのをやめて、紅茶を作ることにしたほどです。そのとき、とても不思議なことが起こったのです。普通は一緒に植えていても交わることのない二種類のコーヒーの木が、どういうわけかここティモール島の森のなかで自然交配して、おいしいけれど病気に強い、世界で初めてのコーヒー豆の木が生まれていたのです。そこからそのあたらしい品種が世界に広まりました。ティモール島のコーヒーは、このあたらしいコーヒー種のご先祖さまなんですよ」
 先生が誇らしそうにそう結んだので、アニータたちも何だか誇らしい気持ちになる。リマが質問する。
「コーヒーってどんな味なの?」
「皆さんはディリ港の側の、倉庫の前を通ったことがあるでしょう。そこで、香ばしいような、不思議な香りを嗅いだことはありませんか。あれがコーヒーの香りです。エルメラ県やアイナロ県の山で作ったコーヒー豆を、船で外国に運ぶために、あそこに置いてあるのです。コーヒーの味は、すこし苦いけれど何にも似てない、とてもおいしいものですよ」
「先生」
 レアンドロが手を挙げる。
「どうしてたくさんの石油やガスやコーヒーがあるのに、東ティモールは他の国に助けてもらってるんですか。お家のない人もいっぱいいるよ」
 先生はレアンドロのほうをみる。黙っている。怒っているんだろうかと子どもたちは心配になる。先生は窓の外に目をやる。陽を受けてかがやく背の高い椰子の木。道路や木々の向こうにみえる切れ端のような海。皆は首を伸ばして互いをみやる。レアンドロは気にしてない。はやく! という目で先生をみている。やがて先生は、こちらを向く。どうしてでしょうね、という。
「そうですね、レアンドロ。ティモールはたくさんの国に助けてもらっています。石油もコーヒーも、昔からここにあったものです。けれど、海から石油を取り出すのにも、コーヒーをおいしく育ててよい値で売るのにも、技術がいります。四百年ものあいだ、ここはポルトガルの植民地でした。太平洋戦争のときは日本軍に三年、そのあとはおとなりの国インドネシアに二十年以上、占領されました。インドネシア軍が独立派のひとびとにおこなった虐殺で、人口の四分の一を失いました。わたしたちはやっと、独立したばかりです。わたしたちがここにあるものを自分たちのために使おうとし始めてから、まだ少ししか経っていないのです。たぶん時間が必要なのかもしれません」
〈この国は六才。アニータと同じ子ども。だからこれから、どんどん成長するんだよ〉
「二〇〇八年のいま、東ティモールにはティモール人のお医者さんがほとんどいません。お医者さんの勉強をするための、学校も設備もありません。八百人近い医学生たちが、ここからとても遠くにある、キューバという国の支援を受けて、キューバの大学で医学の勉強をしています。キューバは、たくさんのお医者さんを派遣してくれてもいます。キューバ人のお医者さんが、ティモールの全土で働いてくれています。それでもお医者さんの数は足りません。田舎の村には、ドクターがひとりもいない地域もあります。しかしあと数年もすれば、いま勉強している医学生たちが、ティモール人のお医者さんとして戻って来てくれるでしょう。何でも、時間がかかるのです」
 いくつかの〈声〉が先生のすぐ側で、アニータの知らない歌をうたう。ほかの〈声〉たちはいつものように、意味の取れない音やそよぎの気配を残しながらあちこちに飛び去ってゆく。授業のあと、皆はコーヒーを飲んでみたいと話しあう。レイラはパパにお願いすれば飲めるかもしれないという。いいなぁと皆はいう。
「コーヒーを飲んだら目がパキンと覚めるんだって」
「ミルクよりかおいしいのかな?」
「ぜったいそうだよ」
 この間は、国で初めてのエレベーターのことで持ちきりだったけれど、いまはコーヒーに興味津々だ。

 

 週に一度、土曜日の朝に祖母とふたりで市場へ出かけるのが、アニータのたのしみだ。市場で祖母は、野菜をすこし買う。顔見知りの魚売りに、小さな魚の干物を分けてもらうこともある。肉はまだ買ったことがない。海岸通りを歩きながら、アニータは学校のことを祖母に話す。コーヒーの病気が流行ったとき、ティモール島の森のなかで偶然に生まれた、あたらしいコーヒーチェリーの木のこと。フランスという国が、全国の学校にテトゥン語で印刷された「星の王子さま」という本を贈ってくれること。祖母は学校に行ったことがない。アニータが行っているのを喜んでいる。
豆類やトウモロコシ、雑穀などを金属製の容器に入れて売っている店の前に、先生が立っている。店の男が測りで雑穀の重さを測っている。
「こんにちは」
「こんにちは、アニータ」
 先生は黒衣を身につけ、頭に黒いフードをかぶっている。誰か、近しい人が死んだのだ。祖母がおくやみの言葉をつぶやくと、先生はいまから故郷の村に帰るのだといった。
「先月妹が亡くなったのです。きょうが二週間目のお参りの日なんです」
〈人が死ぬと、一週間目には甘い花を、二週間目には苦い花を捧げる〉
〈葬式では、その人の人生を歌にしてうたう〉
〈若い人のときは悲しい歌〉
〈悲しい〉
 いくつかの〈声〉たちが通り過ぎるのを聞く。妹は、出産のときに感染症にかかったのだと先生は話した。村には医者はいない。村の人たちは火で熱した鋏を使ってお産をする。
「この子の母親も同じでしたのです」
祖母がゆっくりのテトゥン語で伝える。
「この子を産んだときに死んでしまいました」
 先生はアニータをじっとみる。
「わたしの妹の赤ん坊も、きっとあなたのようなよい子に育てばいいと思いますよ」
気をとり直すみたいに顔をあげ、きっぱりした口調で祖母に告げる。
「アニータさんは、ポルトガル語の発音が大変いいんです。リンガ・フランカ(共通言語)のテトゥン語にもすぐに馴染みましたし、作文も上手です。おとなしくてあまりしゃべりませんが、語学に長けているのかもしれません」
「それはいいことでしたでしょうか」
 祖母がおずおずと尋ねる。とてもいいことです、と先生は請けあう。
「ここでは占領の後遺症もあって、言語が分断されています。語学の習得に長けていることは、仕事を得るうえでも、そのほかの面でも、大きな助けになるでしょう」
 アニータは学校のことで褒められることが初めてだからびっくりする。祖母が小さな声で先生に礼をいう。よろこんでくれているのが分かる。アニータのことが誇らしいのだ、アニータはうれしい。先生と別れたあと、祖母とアニータは手をつないで市場をまわる。青梗菜、キャッサバ、インゲンを一束買う。それから何と卵をひとつ! アニータが先生に褒めていただいたのだからと、祖母はいう。
ほんとのことをいって、アニータは先生にいわれるまで、自分のポルトガル語の発音がいいなんて全然知らなかった。たぶん〈声〉のおかげかなあと思う。〈声〉は、意味の取れない、いろいろの音のつらなりでうたっているけれど、ポルトガル語やテトゥン語でうたっていることも多い。だから学校で初めてポルトガル語を習ったとき、アニータは、これを知らない言葉だとは思わなかった。海岸通りを歩いて帰りながら祖母にそれをいうと、祖母も、
「〈声〉はいろんな歌い方をなさるからねえ」
 と頷いた。
「それでも、アニータがちゃんと〈声〉を聴いてるからだねえ」
「ちゃんと聴いてる?」
「そうだよ。自分のことしかみてないと、〈声〉は聴こえなくなるんでねえ」
 後でふりかえったら、まさにそのときのアニータがそうだった。確かにその瞬間、周囲で〈声〉がそよいだのだ。祖母は気がついてふりむいたけれど、とっさには避けられない。赤い車のボンネットが、祖母にぶつかった。車はほとんど失速していたけれど、それでも祖母は前に飛ばされるようにして倒れた。手をつないでいたアニータも引っ張られて転んだ。道路に膝と手のひらを打ちつけた。いくつかの〈声〉が案じるようにアニータたちのまわりを流れる。野菜の入った袋が放り出され、アスファルトの上で卵が割れる。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
 車から双子が降りて来た。手に携帯電話を持っている。運転しながら、電話をしていたのだ。
「おばあちゃん」
 アニータは祖母のからだに抱きつく。おそろしくてふるえる。大丈夫、と祖母はアニータの背中をなでる。
「病院に行きますか? 立てますか?」
 双子がしゃがみこんで祖母を支えた。テトゥン語で話す。
「本当に、何とお詫びをいったらいいか……」
「病院にお連れします」
 祖母はよろめきながら立ちあがった。出血はしていない。大丈夫です、と祖母はいう。病院には、行かないで大丈夫です。双子の携帯電話が鳴る。早口の英語で何かをしゃべる。
「ごめんなさい。お宅までお送りしたいのですが、あたしたちいまから用事があって」
 お宅はどこですか、と双子は訊く。
「お見舞いに行きます」
 アニータが場所を教えた。海岸通りをこのまま行って、赤十字の建物の斜め向かいにある小道を入った右側にある二軒目。鶏を飼っている家のとなり。双子は復唱する。
「分かりました。近いうちに伺います」
再度ていねいに謝罪をし、車に乗って去ってゆく。様子をみていた地元の人たちのなかから、顔見知りの魚売りが近づいて来た。
「おばあさん災難だったね」
祖母は魚売りのバイクに乗せてもらって家に帰ることになる。ひとりで帰れるかい。魚売りに訊かれて、アニータは頷いた。
「それにしてもあの双子、見舞いに来るとかいって案外ちゃんとしてる。もっとチャラチャラしてるかと思ってたよ」
 魚売りは感心してみせながら、祖母をバイクの後ろに乗せる。アニータは道路に投げ出された野菜の袋を拾った。アスファルトの上で割れた卵をすくいとろうとするけど、ゆびで潰してしまう。黄身が道路に流れ出る。卵、とアニータは思う。家に帰ると、祖母の腿には大きな痣ができていた。祖母はしきりに足をさすった。痣のあるところではなく、みためには何ともない足首が痛むらしかった。
 アニータはこころぼそい。祖母は、双子の来訪のほうを気にかけている。一間だけの部屋をみまわす。竹の壁、土の床、ニッパ椰子の葉で葺いた屋根。煮炊きをするかまどと眠るときのゴザ以外には、衣類と雑貨、身のまわりの持ちものがあるだけの小さな住居。
「あんまりきたないと、びっくりなさる」
 祖母はかまどを掃除する。いつもは敷きっぱなしにしているゴザをたたみ、足を庇いながら地面が剥きだしの床を掃く。家の前で車の音がするたびにアニータはみに行く。双子は来ない。翌日も翌々日もその次も、祖母はまいにち掃除をする。どの車も、アニータの家の前には停まらない。祖母は足を引きずって、遠くまで出かけるのが難儀になる。土曜日の朝、もう以前のように市場へ行くことはできない。アニータはひとりで買いものに行く。〈声〉たちの歌があるのでさみしくない。いろんな歌をアニータは聴く。雨季に入り、島にみどりの量が増える。双子のことを一度みかける。デニムのミニスカートにつま先のとがったハイヒール、赤い小さなバッグを持って、そろってカフェ・エスプラナーダから出て来た。車に乗りこみ、アニータには気づかないで、海岸通りを駆け抜けてゆく。

 

人々が墓地に花を供えるサンタクルス記念日も過ぎた朝、アニータは身体のふしぶしが痛むことに気がついた。いつもだったらとうに起きて、学校へ行く前に水汲み場に水を取りに行く時間なのに、何だかきつくて起きあがることができない。
「アニータどうしたの!」
「はやくアニータ。学校に行くよ」
 祖母やジョアナに何度か呼ばれた気がする、そしてその度に何とか起きあがって、水汲み場に行って水を汲んだと思ったのに、それは全部夢で、実際には床に敷いたうすいゴザに横たわったままだった。顔が火で炙られているみたいに熱い。身体はぶるぶるとふるえている。お臍のなかまで濡れている気がするくらい、つめたい汗が全身を流れている。骨ばった手の感触が頬にあたって、祖母が驚いて声をあげるのが聞こえた。何かを尋ねられたが、ものすごい力で引きずり込まれるようにして眠ってしまう。途中で半身を起こされ、食べものを口のなかに入れられた。米のスープ。久しぶりに食べる米なのに、胸のなかの気持ちのわるいもやもやがふくらんで、数時間もしないうちに吐いてしまう。
連なるような〈声〉たちのささやきで目が覚めたら、知らないところで寝ていた。
「病院だよ」
 ティモール人の男の人が教えてくれた。フレテリン(独立派)という文字を縫い取ったキャップ帽をかぶっている。水を持ってきてくれる。アクア社のペッドボトル。
「マラリア熱にかかったんだ。ドクターが顕微鏡で確認したから間違いない」
「ドクター?」
「ミチコ・マツザワっていう女のドクターだよ、熱帯の病気の専門家だ。いつもはポルトガル人の先生がいるけど、きょうは大統領府の検診に駆り出されていていない」
すぐにミチコが来る。肩ぎりぎりの長さの黒い髪を、うしろでぎゅっと縛っている。白いティーシャツに白い上着、黒い綿のズボン。身のこなしがかろやかで、何となく仔馬みたいだとアニータは思う。ミチコは帽子の男性がいっていた通り、この病気のことはよく承知だという。病原体を持った蚊に刺されてかかる病気。寝ている間に注射をしたので、楽になるはず。薬もあげるので、きちんと飲むこと。ミチコはテトゥン語を上手にしゃべる。
「ドクター。ドクターはキューバ人なの?」
 ミチコは虚を突かれた顔をして、それから笑い出す。
「わたしは日本人よ。カトリックの団体から派遣されて来てるの。キューバの人に似てる?」
 アニータには答えられない。キューバ人たちがどんなふうなのか知らないのだ。
「どうしてキューバ人だと思ったの?」
「学校の先生が、キューバからたくさんのお医者さまが来てるといったの」
ミチコはまた笑う。あかるい声。
「ゆっくり眠りなさい、アニータ。ゆっくりね」
 けれどアニータは夜に目が覚める。泣いていると、帽子の男性が来て、どこか痛むのかと訊く。アニータは首を横に振る。どこも。泣きつづける。男はミチコを呼びに行く。
「どうしたの?」
ミチコがベッドの傍に来る。
「眠れないの?」
「お家に帰りたい」
「あしたになって検査をしたら帰りましょうね」
「おばあちゃんがいなくなる夢をみたの」
 アニータは祖母と離れて眠ったことがない。
「かまどのところにいたと思ったら、いなかった。水汲み場にも」
 ミチコがアニータの肩をさすった。
「心配しないで。夜だからこわい夢をみただけ。おばあさまも、あなたに会うのを待っていらっしゃるからね」
アニータはすこし落ち着く。いくつかの〈声〉も、心配はいらないと伝えている気配があった。
「ドクター。ドクターのおばあちゃんは日本にいるの」
「そう。日本の小さな島に住んでるの。ここほどではないけど、日本のほかの場所とはちがって、暑いところ。ここみたいに、きれいな海もあるのよ」
「ワニもいる?」
「ワニはいない」
 ミチコは、ベッドの傍にすわった。アニータを寝かしつけるように、自分の祖母がうたっていたという歌を口ずさむ。
「ゆりかごのうたを かなりやがうたうよ」
 アニータは目を閉じて聴く。なつかしいメロディだ。この歌を知っている。アニータも小さな声で一緒にうたう。
「ゆぅりかごのうえに びぃわのみぃがゆれるよ
 ねんねこ ねんねこ ねぇんねこよ」
 ミチコがうたうのをやめたので、アニータは目をあけて彼女をみあげた。ミチコはものすごく驚いた顔で、こちらをみていた。夜道で妙なものに出くわしてしまったみたいに、すこしの脅えと狼狽が混ざっている。その驚きぶりに、アニータのほうが驚く。何かまちがったことをしてしまったみたいだ。
「ううん、そうじゃない」
 ミチコはアニータの肩に置いていた左手を、自分の首もとにあてる。
「何もまちがってないよ。ただ、あなたがこの歌をうたったことにびっくりしたの。どうしてこの歌を知ってるの? 誰に教えてもらったの?」
誰にも、とアニータは小さな声でいう。
「村にいたとき聞いたの」
「村?」
「ディリに来るまえ住んでた村」
「日本の人がいたの?」
 いない、とアニータはますます小さな声でいう。
「〈声〉がうたってたの」
「声?」
「うん」
 アニータは思い出す。七つになる前まで住んでいた村。牛を飼っていた人の小屋の前。
「上手な〈声〉だった」
 小屋の前の陽のあたる草っぱら。雨季になると流される橋。水牛のあたたかな腹。水汲みの帰りに休憩した、ピンク色の花が咲きみだれる潅木の陰。いつもアニータを助けようとしてくれている〈声〉だった。アニータをみてなつかしいと思っている。アニータに似た誰かのことを思っている。うたっているのは、同じ歌が多かった。アニータは何度も聴いた。よく思い出して、もう一度うたってみる。さっきよりもすこし大きな声。うたい終わって医者のほうをみると、医者はいまにも笑い出しそうな顔で、それなのに涙を流している。アニータには、どうしてだか分からない。

翌日アニータは、午後過ぎまで眠っていた。眼鏡をかけた、目の大きなポルトガル人の男性医師がアニータを診る。ミチコは車で近郊の村をまわる、モバイル・クリニックに出かけたらしい。医者はアニータの体調を確認すると、もう家に帰っても大丈夫だと告げた。何かを紙に書きつけ、思い出したようにこちらをみた。
「君は、死者の声が聞こえるんだって」
苦笑している。
「ミチコが話してたよ。君が、自分のおじいちゃんの歌声を聴いていたのかもしれないって……」
 死者の声。ドクターのおじいちゃん。いわれたことの意味が分からなくて、アニータは医者の顔をみた。
「ミチコの祖父は、太平洋戦争のとき徴兵されてティモールに来て、この地で戦死したらしい。おそらくオーストラリア軍の空爆にあったんだろうね。中立国だったポルトガルの植民地を日本軍が侵略したというので、オーストラリア軍が、ここに随分と、B29を飛ばしたそうだから……。そのとき日本にいたミチコの父親は、まだほんの赤ん坊だったらしい。ミチコは、自分の祖父の霊が、赤ん坊を思ってうたっている歌を君が聴いたのかもしれないって話してたよ」
 医者は唇をゆがめて、首を三回、横にふった。
「わたしはこの島で長く働いている。歴代の大統領や政府の要人たちとも、彼らが要職に就く前の、独立運動の活動家だったときからの顔見知りだ。二年前には、衛生教育のために僻地の村もまわった。だから、君たちティモール人が、そういう霊的なことを信じるのは知っているよ。田舎のほうだと特に、病人が出ても、医者に診せるよりも先に、鶏を殺して診療所に行くのにいい日取りを占ったり、呪術師に呪いを解いてもらおうとしたりするくらいだからね……。だけど、まさかミチコがそんな非科学的なことをいいだすなんて、わたしには意外だった。普通だったら、患者の妄言や幻聴を疑うべきところなのに」
 アニータはうつむいた。左の腕の内側に、注射をされたときの止血の脱脂綿が、テープで貼られたままになっている。〈声〉たちは、医者の言葉に頓着していないようだった。思いおもいの音や気配を発しながら、あちこちを行ったり来たり流れたりしている。
〈青い魚、黒い魚、黄色い魚〉
〈ロスパロスは遠い〉
〈だってね〉
アニータがうつむいているのをみて、医者はやさしい口調になる。誤解しないでほしいんだけど、という。
「君が嘘をついているといいたいわけじゃないんだよ。アメリカの研究では、芸術的な創造力の評価ポイントが高い人間は、前世や予知夢を信じたり、変わった知覚体験をしたと証言したりするケースが多いことが分かっている。シューマンという作曲家は、亡くなった作曲家たちが墓地から自分に音楽を伝えていると信じていた。君にも何か、そういう高い創造性があるのかもしれない」
アニータは何もいわない。診察室のなかが翳る。窓の外で、スコールが降り始める。木も家も、すべてが激しい水に打たれる。医者は窓を閉める。そうだね、とひとりごとのようにいう。
「わたしたちは、空や星がどうしてあるのか、命がどのように与えられ、死んだらどうなってしまうのか、すべてを知ってるわけじゃない。君に、鼓膜の振動によるものとは異なる何かが聞こえていて、それがミチコのいうように死者の声だという可能性がゼロであるとは、誰にもいえない。ただ、何ていうのか……」
 眼鏡の奥で大きな目をしばたかせる。
「それはとても、アジア的な考えかただとわたしは思う」
アニータは家に帰る。今週いっぱいは家でゆっくり休むようにと医者はいった。祖母のとなりで、まいにち半日以上眠る。水は、ジョアナやジョアナの弟たちが汲んで来てくれる。三日後、家の前で車が停まった。この国で一台だけの、赤いオープンカー。双子が、アニータの家にやって来る。

最初、祖母もアニータも、双子がようやく祖母のお見舞いに来てくれたのかと思った。あの晴れた土曜日の午後、彼女たちの運転する車が、海岸通りの歩道を歩いていた祖母にぶつかった。あのときふたりは、祖母の怪我を心配し、かならずお見舞いに行くといっていたのだから。けれど、すぐにそうではないことが分かった。ふたりはあの日のことを覚えてすらいないみたいだ。祖母にはボンディア(こんにちは)と挨拶しただけで、アニータに話しかける。
「あなたがペドロ先生のところに入院してた子?」
「いくつなの。随分小さな子なのね、子猫ちゃん」
祖母にもアニータにも、何が起こっているのか分からない。双子は、
「一緒に遊びに行きましょうよ」
 とアニータを誘う。
「かわいそうに。マラリア熱にかかってたんでしょ? こんなところで寝てても元気にならないよ」
「そうよ。おいしいものをいっぱい食べて、楽しい気持ちにならなくちゃ」
ふたりは祖母に、これからアニータを連れ出すことの許可を取りつける。この子に栄養のあるものをご馳走させてください。ご心配なく。夜には車で送り届けますわ。祖母にはことわる理由がみつけられない。ただおろおろと、わけを聞く。どうしてそんなとをしてくださるのか。
「わけ?」
双子は肩をすくめる。
「大統領がこの子に会いたがってるんです」
「大統領……」
「マトス大統領です」
祖母は足が萎えたようにすわりこんでしまう。
「昨夜のカクテル・パーティーで、医者のペドロ先生から、死者の声が聞こえるといってる子がいると聞かされたんです。太平洋戦争で死んだ、日本兵の歌を聴いてたって」
もうひとりが言葉を継いだ。
「ペドロ先生は別に、このことを信じてるわけじゃないんです。あたしたちもその場にいましたけど、ただ話の流れから、軽い雑談として話しただけなんです。正直に申しあげて、あたしたちもどうなのかしらって思ってます。だけど大統領はとても興味を持って、すぐにでも会いたいといってるんです」
「では、いまからこの子は大統領に会うのでしたでしょうか?」
「いいえ、それはあすです」
 双子はそれが、何年も前から決まっているスケジュールであるかのように断言する。
「大統領に会う前に、まずはあたしたちと仲良くなってもらわないと」

アニータは生まれて初めてオープンカーに乗る。いつも歩いている海岸通りを、初めて車に乗って走った。双子は自己紹介をする。パトリシアとシャーロット。父親がオーストラリア人、母親がイタリア系ブラジル人の一卵性双生児。区別はつかない。アニータを、自分たちの家に招待するという。
「家っていっても、ティモールでの家だけど」
「そう。ほんとの家はサンパウロとメルボルンにあるのよ」
 ふたりは白亜の建物の前に乗りつけた。アニータは驚いて、双子をみる。あこがれの、ホテル・ティモール。双子はアニータの驚きには気がついていない。こともなげにいう。
「ここのいちばん上の三階に部屋を借りてるのよ」
アニータには信じられない。ホテル・ティモールに住んでいるひとがいるなんて、想像したこともなかった。ガラスの玄関扉の前に立つと、シルバー・グレイの制服を着たベルボーイがドアを開けてくれる。なかの床は、ディリ海の向こうに浮かぶ朝方の月のように白くひかって、どこまでも平らですべすべしている。すこし考え、そっとサンダルを脱いだら、双子が怪訝な顔でアニータをふりかえり、それから身体を二つ折りにして笑った。
「子猫ちゃん! 靴なんか脱がなくったっていいのよ」
「こっちへおいでよ」
 ホテル・ティモールのロビーにあるすべてのものが、アニータにはまばゆく感じられる。高い天井から吊り下げられたらシャンデリア、額縁に入った大きな絵、中央に活けられた多種の花。まるでこの空間から生み落とされたみたいに、双子はここに似合っている。ふたりとも、みえない糸で天からまっすぐ吊されているように姿勢がよく、そのまますべるように歩く。すらりとした手足、背中まである金色の髪、風の強い日の船の帆みたいにふくらんだ、張りのある紺のスカート。ゆび先にまで自信と緊張感が行きとどいて、いつだって皆に注目されていることを承知しているのだ。
 ロビーにいる客の大半が外国人だ。誰もがきちんとした靴を履いていて、アニータみたいなビーチサンダルを履いている人間は、ひとりもいなかった。客たちは、何かを飲んだり談笑したりしているけれど、双子に気がついて視線を向ける。双子をみて、それからすぐ後ろにいる子どもに目を留めて、はっきりと訝しげな顔をする。もつれた糸のかたまりみたいな薄茶色の髪の毛を頭に乗せ、生地の薄くなった大きすぎる洋服を着せられ、身体のなかにしょっちゅう下痢や寄生虫を抱えているみすぼらしい子ども。空港の向かいにひろがる難民キャンプに行けば、アニータの分身のような子たちであふれているけれど、ここにはいない。双子が両脇から手を伸ばし、するりとアニータの腕に絡ませる。子どもが自分たちの連れであることを周囲に誇示するように、アニータを挟んで歩く。人々がこちらをみている。マラリア熱がぶりかえしたみたいに、アニータの頬が熱くなる。

 人生という、ひと連なりにみえる日々のなかに、それまでとそれからを明確に区切る、重要で特別な日というものが何日かあるとして、アニータの人生にとって、きょうはまちがいなくその日だった。ホテル・ティモールの、最も高価な客室のなかで体験するすべてのことが、アニータには驚きだ。壁に掛けられた大きな白い幕のうえを、絵で描かれた動物たちが生きているように動きまわって、しゃべったり踊ったりしている。双子はプレゼントだといって、同じ動物が描かれたポルトガル語の絵本と、花びらのような手ざわりの濃いブルーのワンピースをくれる。

「あしたは大統領に会うんだから、おめかししなくちゃね」
アニータを椅子にすわらせ、もつれた毛糸のような髪を豚毛のブラシで梳く。星のついた髪留めを付けてくれる。髪を梳かれるのは気持ちがよかった。
「食事にしましょ」
 客室係が次々に料理を運んでくる。トウモロコシの味だけど、トウモロコシよりももっと甘くて濃厚な、なめらかな飲みもの。色とりどりの野菜で飾りつけられた「ポルトガル風」魚の蒸しもの。あたたかな大皿にのってきたのはみたこともないぶあつい豚肉で、ミルク色の熱いソースがかけてある。ソースには、何だか分からないが、濃いピンクの粒と細かく刻んだ黒いものがたっぷり入っていて、初めての味だけれどとてもおいしい。驚いたのは、双子がまるいパンにのせて食べていたもので、白い長方形のかたまりをすこしだけ切ってもらって口に入れると、つめたい感触のあとすぐにやわらかくなり、うっとりするような風味だけを残して、舌のなかに浸みこんでしまうのだ。
「バターだよ。食べたことないの?」
 双子は笑う。双子は花の絞り汁みたいなピンク色がかったものを飲み、けれどこれは大人の飲みものだからと、アニータには別の飲みものを注いでくれる。それは水にみえるのに、注がれるときに空気をくすぐるような音をたて、グラスのなかで小さな泡をいくつものぼらせるのだ。飲むとびっくりするくらいつめたくて、小さな虫が一斉に喉のなかを刺してゆくみたいにちくちくする。水汲み場から汲んでくる水ではなくて、こういう不思議なものを飲んでいたら、アニータはアニータでない、双子のようなきれいな女のひとになる気がする。アニータはもらった絵本の表紙をそっとなでる。ポルトガル語の文字。
「子猫ちゃん、本が気に入ったの? それブラジルの絵本なのよ、またあげるわ」
 ブラジルのひとも、ポルトガル語をしゃべるんだろうか。アニータの疑問に、そりゃあそうよ、とナイフとフォークで肉を切りながら、双子たちはいう。唇が、肉の脂でつやつやしている。
「ブラジルも、この国と同じでポルトガルの植民地だったのよ……。いまはブラジル・ポルトガル語のほうが、国際会議のポルトガル語に指定されてるけどね」
「そうよね、いまじゃポルトガルよりブラジルのほうがめだってる。サッカーだってブラジルはすごく強いんだしね、クールなサッカー選手が山ほどいるのよ。キリスト教も、ブラジルに伝えたのはポルトガルだけど、世界でいちばん大きなキリスト像はブラジルにあるよ。ほら、ディリにもキリスト像があるでしょ? ここのは世界で二番目」
 アニータはトイレに行きたい。そこのドアよ、と双子が教えてくれる。テトゥン語では、トイレに行くというのは「遠くに行く」といういいまわしをする。だけどホテル・ティモールでは、外に出なくても、お部屋のひとつひとつにトイレがあるのだ。アニータは感嘆するけれど、なかに入ると、感嘆は困惑に変わってしまう。そこにあるのは、学校や病院にある、アニータの知っているトイレとはちがうものだ。アニータはそれを凝視する。ここによじのぼって用を足さないといけないのだろうか? どっちを向いて? それに、したあとは? 水を溜めた桶も柄杓もここにはみあたらない。どうしたらよいか分からない。尿意がせりあがってくる。双子に尋ねることもできないで、とうとう耐えきれず漏らしてしまう。まっしろな床が、アニータの尿でよごれた。しゃがみこんで泣いていると、双子がドアをノックして入って来た。
「何してるの子猫ちゃん」
「えっ、そこでしちゃったの?」
「ごめんなさい」
アニータは泣きながら、何度もあやまる。双子はアニータのからだをシャワーで洗う。ふわふわした大きなタオルで身体をくるむ。フロントに電話をかけ、客室係を呼んで掃除をさせる。まだ泣いているアニータに、
「別に泣くことないわよ」
 という。
「こんなこと、何でもないことじゃないの」
「そうよ。ソーダ水を飲みすぎちゃったんでしょう」
 ちがう、ちがうとアニータは首を振る。やり方が、分からなかった。
「そうなの?」
「全然難しくないわよ。椅子みたいに座るの」
 みててごらん。双子は腰かけてみせる。それでね、こうやってここを押すの。水が湧き出して来て、流れる。このお部屋では川まで汲みに行かないでも、いろんなところから魔法のように水が出て来るのだ。
「もう泣かないで。こっちに来てデザートを食べよう」
 黄金色の小さな焼き菓子が、素晴らしい香りを放ちながら籠のなかに山盛りにされている。こんなにおいしいものを食べたことはなかった。端っこのほうを囓ると、さくさくと熱く口のなかで崩れ、中央に詰めてある黄色の甘くてとろとろしたものが口のなかに流れこむ。
「ポルトガルの伝統的なお菓子だよ」
「卵と砂糖とバター、カスタードクリームで作るの」
 バター。カスタードクリーム。忘れないように頭のなかでくりかえす。
「ほかの店でも出してるけど、ホテル・ティモールのがいちばんおいしいよね」
 双子はコーヒーも飲ませてくれる。泥を溶かしたみたいな色。苦い。次には砂糖とミルクをたっぷり入れて、お菓子を食べたあとにひとくち飲んでごらん、という。
「コーヒーと作りたてのエッグタルトは、黄金のくみあわせなのよ」
 これがティモールを四百年植民地にしていた国の伝統的なお菓子。これがティモール島の森のなかで生まれたコーヒーチェリーの味。窓からは、陽を受けてきらめくディリ湾がみえる。コーヒー豆のコンテナを満載した船が、ゆっくりと港を離れてゆく。国連のジープが忙しく行き交う海岸通り、人々が苛烈な太陽からのがれて木陰で涼んでいるガジュマルの樹。いつも歩いている場所なのに、この部屋の窓からみると、知らない光景みたいにみえる。部屋のなかは、山の上みたいに涼しい空気が流れている。〈声〉たちも、ここでは外より静かにそよいでいるみたいだ。
お菓子を食べながら、アニータの目に、また涙が零れる。粗相をしてしまったからじゃない。知らなかった、とアニータは思っている。アニータも祖母もジョアナもレアンドロも、こんな世界があると知らないで生きていたのだ。
「ねえ子猫ちゃん」
 パトリシアだかシャーロットだかがいう。
「あたしたちすっかり仲良しじゃないの?」
 きれいな貝殻の内側のように磨きこまれた爪で、アニータの頬をつつく。
「あしたは何があっても、あたしたちのことを悪くいったりしないでね」
「そうよ、やくそくね。女同士のやくそく」
 双子が大統領の恋人だとジョアナがいっていたのは、ほんとなんだろうかと思うけど、
「やめてよ子猫ちゃん」
 双子は一笑に付した。
「パパとママの親友だから、よくしてもらってるだけよ」
「そうよ。歴代の大統領だったら、正直わるくないっておもうけど。マトス大統領って目立たなすぎて、ウィキペディアからも忘れられちゃいそう」
 いい人なんだけどね、でも大抵の人間って、いい人にはたいくつしちゃうものでしょ。白い喉をのけぞらせる。
食事が終わると、双子に送られて家に帰った。赤い車から降りると、ジョアナの家から、ジョアナとジョアナの弟たちが走り出て来た。アニータ! どこに行ってたの! 何をしてたの! 子どもたちの興奮が伝播したみたいに、釣鐘型の籠に閉じ込められた鶏たちがけたたましく騒ぎたてる。ホテル・ティモールへ行ったの。アニメーションっていう、動いたりしゃべったりする絵のお話をみて、お魚やお肉のお料理を食べたの。
「それで!」
 ジョアナの弟たちは興奮を抑えきれずに、走って親たちに伝えに行く。アニータは双子の車に乗ったんだよ! ホテル・ティモールへ行ったんだ! アニータとジョアナだけが庭先に残される。日が暮れかかった、街灯がひとつもない家の前でも、ジョアナの複雑な表情が分かった。敵意と羨望と好奇心、友だちの幸運をよろこぶ素直でやさしい嬉しさが、顔の上で同時に点滅する。
「あんたが双子と出かけたなんて」
小さい声でいう。
「レイラとリマが驚く。先生や、皆も」
 アニータはそれには答えない。
「これジョアナにあげる」
 双子にもらった青いドレスを渡す。信じられないくらいなめらかな、絹の感触。
「えっ」
 ジョアナはドレスをひろげて、息をのむ。
「アニータ、いいの? なんで!?」
 いらないから、とアニータはいう。家で待っていた祖母には、卵の焼き菓子を渡した。紙ナプキンに包んで持ち帰ったのだが、みてみたら潰れていた。はみ出したクリームが、ナプキンにべったり付いている。それでも祖母はよろこんでくれる。こんなにおいしいものは初めて食べたといい、それからアニータを心配そうにみる。
「あした大統領が会いたがっとると、あの方たちがいってらしたが」
「うん」
 祖母は何かをいおうとして思案しているようだけれど、そのときはいわない。眠るために床に横になったときに、アニータ、と小声で呼んだ。
「アニータ。気をつけないといけないよ」
「なあに」
 アニータも、小声で聞き返した。祖母のほうを向くけれど、あかりのない家のなかでは、気配だけしか分からない。〈声〉のことだよ。祖母はささやいた。
「わたしらの家の女は代々〈声〉が聞こえるけれど、聞こえない人もおるんでねえ。聞こえない人たちのなかには、聞こえることをおかしいと思う人もいなさるんだよ……」
むかしアニータの家の女たちは、村の人たちに頼まれて〈声〉の話を聞いていた。皆と〈声〉を結んでいたのだ。けれどインドネシア軍が侵攻して来たとき、インドネシア軍は、この奇妙な女たちをスパイではないかと疑った。
「気をつけないといけないよ」
 祖母はもう一度そういった。アニータは、クリニックで診てくれたポルトガル人の医者を思い出す。あのお医者さんも〈声〉のことを信じていなかった。でも、自分に聞こえないからといって、百パーセントそれを嘘だとはいえない。そんなふうなことをいっていた……。まもなく、祖母は寝息をたて始めた。アニータは一睡もしない。電気も水道もない部屋のなかで、〈声〉たちのそよぎに包まれてじっとしている。目を見開いて考えている。
大統領の邸宅は、ディリ市街地の海をみおろす高台に建つ、モダンな作りの家だった。アニータは迎えの車から降りると、椰子の木々にかこまれた敷地のなかに入って行った。ポーチの車寄せには、何台かの車が停めてあり、双子の赤いオープンカーもある。アニータは広間に通された。大理石の床。中央には、ティモール島の伝統民芸、背の高いほっそりとした木彫りの人形が一対飾られ、壁には、これも伝統の、みごとなタイス(織物)が掛けられている。両脇に何人かの大人が並んでいた。双子もいる。膝丈の赤いワンピースを着て、薄手の白いジャケットを身につけている。アニータをみて、自分たちが与えた洋服を着ていないことに驚いたようだった。アニータは、布地の薄くなった洋服、祖母の拾って来たビーチサンダルといういつものかっこうだ。髪にだけは、双子からもらった星型の髪留めを付けている。
奥の扉が開き、大統領が部屋に入って来た。マトス大統領。独立派ゲリラとしてインドネシア軍との激しい地上戦を指揮したカリスマ、シャナナ・グスマン、スポークスマンとして、国際社会に無視され続けていたティモールの惨状と独立を訴えてノーベル平和賞を受賞したラモス・ホルタ、シャナナと共にゲリラ戦を闘い抜いたタウル・マタン・ルアク。歴代の、偉大な大統領たちと比べたらその存在感は薄いけれど、おだやかな人柄と粘り強い政治手腕で知られる、アニータたちの大統領。
大統領のとなりに立った補佐官の男性が、無表情でアニータの氏名を確認した。
「きょうは、マトス大統領から君に質問がある。ディリ・クリニックのペドロ医師と、同クリニックの日本人、マツザワ医師によると、君は死者の声が聞こえるらしい。君は、九九年に獄死した大統領の父君、アルフレード・マトス氏の声を聞くことはできるか? 元フレテリンの副司令官だ」
 分かりません、とアニータは答える。そういうふうに、やってみたことがないから……。
「ではやってみなさい」
 補佐官は高圧的だ。はなから疑っているふうでもある。アニータはこころのなかで〈声〉たちを呼ぶ。できないと思ったけど、〈声〉たちは来てくれる。ひとつの〈声〉が別の〈声〉を連れて、重なったり、離れたりしながら、たくさんの〈声〉たちが流れるように集まってくる。思いおもいに、さざめている、ひとつの〈声〉が、わたし、というのが聞こえる。わたし。アニータの側に来ている。アニータは大統領の顔をみる。
「聞こえるのか。何といっている?」
 補佐官がアニータを、脅すようにみすえる。大統領が、手で制した。
「わたしに質問させてくれ。わたしと父しか知らないことを尋ねよう」
 大統領は、アニータにいう。
「父に聞いてくれないかな。わたしの『しっぽ』はどこにあるかと」
しっぽ? いあわせている人々は怪訝な表情をかくせない。アニータにも、まるで意味が分からない。しかしアニータの傍らにいる〈声〉は、微笑みの気配で揺れる。しばらく微笑んでいる。なつかしむように、この時間を愛おしんでいる。人々は、手持ちぶさたにため息をつく。とりわけ双子を含む数人の外国人たちはそうだ。子どもの戯言に付きあわされていることにうんざりしているように、意味ありげな目配せを交わしたり、これみよがしに時計をみたりする。〈うろ〉と声は教える。
「うろ……」
 アニータの言葉に、大統領は胸を衝かれたようになる。そうだ、と唸るみたいにいった。
「そうだ。君は聞こえている。わたしの父が、ここにいるんだね?」
獄死するとき、苦しんだのか。この国は、どう進んで行けばいいのか。何か、いいのこしたことはないか。大統領には、父親に聞きたいことがたくさんある。〈声〉は、ひとつひとつに答える。苦しかったが、もうわすれた。常に歴史にたちかえれば、指針を見失うことはない。いいのこしたことはないが、息子を誇りに思っている。
「父に、わたしの感謝を伝えてほしい」
 大統領の声はふるえている。
「生きているときには一度も伝えられなかったが」
 伝わっている、と〈声〉は応えた。
〈花を供えてくれているのも知っている。苦い花と甘い花、わたしたちには分かるのだ〉
 大統領は最後の質問をする。
「わたしのすべきこと、わたしにしてほしいことがあったら、何でもいってほしい」
〈ない〉
 即答だった。
〈もうするべきことをしている。わたしからいうことは、何もない〉
 アニータは伝えない。心臓がどきどきと胸の内側を撃ちつける。いうなら、いまだと思う。いえるだろうか。できるだろうか。手のひらを握りしめる。大統領はアニータの言葉を待っている。さっきまでばかにしていたようにこちらをみていた外国人たちも、静まりかえってアニータを注視している。アニータのたくらみに気がついて、いけない、と〈声〉たちがささやく。いけないよ、アニータ。やめなさい。この国は六歳、アニータと同じ子ども。だからこれから、どんどん成長するんだよ。人が死ぬと、一週間目には甘い花を、二週間目には苦い花を捧げる。葬式では、その人の人生を歌にしてうたう。青い魚、黒い魚、黄色い魚。ロスパロスは遠い。ビビケ。〈声〉たちのさざめきが、アニータを取りかこむ。
アニータは知っている。〈声〉たちに物理的な力はない。しかしそのほとんどが、アニータをみまもって、護ってくれようとしている。生まれたときからそうだった。村でもディリでもそうだった。だけど、アニータはワニのことを考えている。遠くの世界をみたくて、大きなワニの背中に乗って、海への旅に出て行った男の子。そのワニがティモール島になり、少年の子孫が島の人々になったという、この国の起源のお話。アニータは、自分のお腹のなかにワニがいるのを感じる。自分を遠くへ連れて行くワニ。このワニは、アニータが祖母とふたりきりで小さな村で育ったから、いつも〈声〉たちの歌に耳を澄ませていたから、卵の焼き菓子もきれいな動く絵も知らなかったから、生まれたワニ。このワニに乗って、アニータは遠くへ行きたいのだ。ここにいる誰よりも彼よりも、遠くのものをみたいのだ。喉から言葉を絞りだした。
「わ。わたしを」
 息がくるしい。
「双子の妹に」
 人々が驚いた顔をする。双子は顔をみあわせる。大統領はおだやかにアニータをみつめる。
「君を双子の妹にしろと、わたしの父が、そういっているのだね?」
 わたしたちの黒は植民地時代の暗黒を、わたしたちの赤は戦争で流された血を、わたしたちの黄色は独立のための戦いを、そしてねアニータ、あの白い星、あれは、あなたたちの平和と希望をあらわしている。アニータ。アニータ。やめなさい。〈声〉がこちらを取りかこみ、一斉に高まる。やめなさいアニータ。それを無視して、
「はい」
 うなずいたら、いままで満ちていた〈声〉が消えた。身体感覚がひとつ、まるごと抜き取られたみたいだった。何の〈声〉も聞こえない。残響もそよぎもない。まったくの空白だった。初めて知った静かな世界に、足をふるわせながら、アニータは立っている。

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文字数:23423

課題提出者一覧