選評
梗 概
生殖文
幾度もの核戦争を経験した人類は、何代にも渡る放射能の濃縮によって変質した。超寿命のミュータントと化した人類は旧文明の遺産を掘り起こし、科学を復興することに成功、失われた生殖機能の復活を目指す。生殖考古学による〈張り型〉の調査発掘や三文ゴシップ誌の解釈学、受胎告知のイコノグラフィ、体位幾何学など、さまざまな研究が行なわれているが成果は挙がらない。
霊長類研究センター生殖言語学研究室主任のエレクトラ女史は、遠く言語的理解を隔てた旧文明のあらゆる桃色言語の翻訳・分析に取り組んでいる。メモの断片や円盤など、すでにデッドメディアとなった記録媒体を史料とする彼女は、桃色言語解析装置〈秘壺〉を用いて研究を行っている。壺のなかに史料を収める──すると〈秘壺〉はテキストを処理し、文脈化された翻訳語案のリストを返す。それらを複数の史料と突き合わせて翻訳を進めていくのが彼女の業務だ。
自動処理にセットしておいたとある音声ログの解析結果を取り出したエレクトラは、研究室で奇妙な声を聞く。「サワッテヨ」──え? 彼女は耳を疑った──「ヤダ、ハズカシイ」。「さわってよ」。エレクトラにとって意味は判別不能だが、果たして、それは二台の〈秘壺〉の掛け合いなのであった。入力に対して出力を返すだけの〈秘壺〉がこんな風に自由会話を嗜むなど、到底ありえないはずだ。そんなエレクトラの内省をよそに、昂ぶっていく機械の嬌声。
明くる日も研究室は桃色吐息に満ちていたが、エレクトラはここからひとつの仮説を得て実験を始めた。同僚のヴァニティと共に〈秘壺〉の言葉を唱和する。その意味不明な言葉の響きやイントネーションを真似て、何度も何度も発声する。ヴァニティは次第に、エレクトラの頬が朱に染まるのを感得する。古代から連綿と紡がれてきた生命の疼きを内に感ずるエレクトラ。手を握りあったふたりは、もう少しこうしていたいと思った。もしかしたら〈秘壺〉たちの掛け合いは、太古の人類の睦言だったのかもしれない──。
〈秘壺〉たちの睦言にヒントを得たエレクトラは、人工母胎と〈秘壺〉を接続し、そのことによって新たな生殖技術〈繁栄の言語〉と、愛すべき子どもたちを勝ち取る。耳で孕むポスト・ヒューマンの誕生である。
文字数:927
内容に関するアピール
なによりもまず、遊んで書くということを目標に据え、神林長平の『言壺』にオマージュを捧げた。本作に登場するミュータント人類は、その科学のすべてを生殖機能の復元のために組織している。シリアスな生殖を一方に置いたとき、他方には遊びとしてのセックスがある。エレクトラの発明は、生殖という営みを修飾するレトリックである「愛の言葉」をそのまま生殖活動に変換できる技術〈繁栄の言語〉であった。ジーンにとっては二次的であったはずのミームが、ジーンを乗っ取ってしまうという転倒。本作は、睦言を囁いては新たな子をなすネオ・ホモ・ルーデンスとしてのポスト・ヒューマンを描いている。
文字数:279
生殖文
***ルビを表示するために、当方でレイアウトしたPDFをご用意しました。そちらでもお読みいただけます──著者より***
地に雨が降る。鉄の雨が。
既に干上がり地割れの走った大地をさらに痛めつけるかのように、大昔の人工衛星が軌道上から降り注ぐ。
その様子をエレクトラはモニタ越しで無感動に見つめる。周りの男たちは蛍光グリーンで地表に引かれたグリッドを盤面に見立て、ビンゴゲームに興じている。地表の盤面にパンチ穴を穿つ人工衛星。リーチ、リーチと誰かが叫び、上がるのは何年後だと別の誰かが茶化す。
エレクトラは助手のヴァニティに映話し指示を出す。
「久々の〝雨〟よ。地上に上がるわ。付いてきて」
「ナンセンスだとは思いませんか。いまだにわたしたちは雨が降ると云う」
不意打ちじみた台詞の意図を汲みかね、エレクトラは曖昧に頷いた。
「古代英語の名残りで、非人称の空虚な主語を立てている。母なる地球の循環系がきちんと機能して、水滴が降っていた頃の言語です。事実に即して、わたしたちは雨が堕ちると云うべきではないでしょうか。自然現象のイットではなく、あの鉄の雨を主語に取って」
「換喩がいかに長生きか、考えさせられる話ね。世界を創りし七日間の雨が蒸発し切っても、〝雨〟という単語はかたちを変えて、〝鉄の雨〟として生き永らえた」
「はじめに言葉ありき、なんてフレーズもありますから。それにしても」そこで一拍置き「わたしたちの祖先はいかにも無責任だったと云わざるを得ませんね。彼らは片手で水の雨を根絶やしにしておいて、片手で鉄の雨を打ち上げた」
ヴァニティは旧い大戦について語っている。核が地表を焼き尽くし、人類を窮地に追い込んだ旧い人間たちの所業について。それでも文明の火を絶やすまいと、彼らは土壇場で〈アーカイブ〉を軌道上に遺した。科学と歴史の大半が失われたが、大深度地下からビンゴゲームを楽しめるくらいには、人類は復興を遂げた。
「言葉が途切れない限りにおいて、歴史は続くのよ。そして──」うんざりしながらエレクトラは続けた「──歴史は罪の上に築かれる。だから軌道上の〈アーカイブ〉は、彼らにとって贖罪だったのではないかしら。現にわたしたちは、そこからきちんと恩恵を受けている」
「歴史を遺せるでしょうか。次の世代に」
確かに胸が傷んだが、努めて気丈に彼女は応じた。「そのために、わたしたち科学者が居る。そうではなくって?」
「あなたは底無しのロマンチストですね」
それが皮肉かどうか、映話越しのエレクトラには判断しかねた。「御託はここまで。三分後にシャフトの前で会いましょう。通信終わり」
§
「史料番号・三六五一四を語釈プールに回しておいて。ランチに行ってくるわ」エレクトラは音声入力でコンソールに向けて云い、そして去り際に付け加えた。「それと昨日のデジタル・データ、軽くインデクシングを進めておくこと。ざっとでいいわ」
雑然とした倉庫のような一室。切れかかった蛍光灯が不規則に点滅する。ここがエレクトラの働く生殖言語学研究室だった。研究成果を認められず、数年前の研究室の移転・再編に際して彼女にあてがわれた〈第七倉庫〉。
コンソールの周囲には、打ち捨てられたカプセル状の人工母胎が数十体も鎮座している。それらを見渡しつつ昨日のヴァニティとの会話を想い出し、エレクトラはしばし物想いに耽った。人類が子孫を残す機能を失ってから流れた時間の長大さに目眩がした。わたしたちの世代が人類史の最終頁の位置を占めることになるのだろうか──。そしてその〝書物〟は、それ以降決して読まれることもない。
かつて科学者たち──生化学的・生理学的なアプローチで生殖機能の復活を目指した科学者たち──が無意味とわかり、置き捨てた人工母胎のカプセルには何ひとつ期待できそうもない。
この倉庫で仕事をしていると、彼女はふつふつと湧き上がる予算委員への怒りを禁じ得ない。塩基配列もまた生命をプログラムする〝言語〟には違いなく、だとすればエレクトラの専門とする〝言語学〟もまた有用性を認められ、立派な研究室を与えられて然るべきである、と。しかし一向に成果を挙げていない自身を省みるに、いまではそんなレトリックにもあまり自信を持てなくなってきた。
雑念を振り切るようにエレクトラは白衣を翻し出口に向かう。ドアノブに手をかけ、後ろ手に扉を閉める。目線の高さに掲げられた「第七倉庫」の文字を見て自分の無能ぶりを確認したくはなかったのだ。
カフェテリアに向かう途中、倉庫棟を抜けて研究棟の廊下を歩く。途切れることなく唸りを上げる機械の作動音を聞きつつ、エレクトラは歩く。一点透視の消失点が霞むほど奥行きの深い廊下の両脇には、ガラス張りのラボが並ぶ。ガラス越しには、ほとんど天井まで伸びた史料棚が窺える。天を衝かんと屹立する長大な〈張り型〉がびっしりとラックを埋める。発掘調査で掘り起こされて汚れの目立つものから、まっさらな新品と見受けられるものまでいくつもある。ドアには〈生殖考古学研究室〉の文字が見える。
男性器を象ったそれらは、旧人類が熟慮のうえで未来に託したものだった。それを〈アーカイブ〉に含める際に行われた議論の様子を、エレクトラは想像しようとしてみる。周囲を戦火に包まれながら学者たちが大真面目に議論する。必要でしょうか、と誰かが問い、これも文化だ、と誰かが応じる。〝検閲〟は歴史への暴力だ、とすら云ったかもしれない。いずれにせよ、彼らは張り型を含めることにしたわけだった。
修復痕の残る宗教画の類も見える。けれど〈受胎告知〉の図像学は生殖不全の謎を解き明かすこともない。向かいに眼を転じると、まぐわっている人体図が投影されている。人体の骨格に沿ってワイヤフレームが沿わされた体位幾何学。
人類復興の要である霊長類研究センターでは、どこを見渡してもこのような下半身学問が取り組まれている。旧人類と現世人類との間で徐々に失われていった生殖機能を取り戻すことが、そのすべての目標である。
そそくさと廊下の隅を歩く。研究室から出てきた同僚とすれ違いざま、声をかけられる。「君の論文を読ませてもらったよ。門外漢のぼくが云うのもなんだが、次年度の予算に繋がる議論とは思えなかったけどね。でも、言語学ならデスクがあれば研究出来るのか」
最後の部分は、倉庫棟で充分だという当てこすりに他ならない。苦し紛れにきっと相手を睨み据え、応答せずにその場を去った。
エレクトラは焦っていた。来月に控えた審査会、その場で予算委員を説得できねば更に研究資金が縮小されてしまう。人類復興という御題目を以てしても、すべての研究が平等に扱われるわけではない。むしろ資金の集中投下のために、有力な(少なくともそのように審査会が判断した)アプローチに対しては極端な傾斜配分が行われているのが現状だった。
昼食から戻ったところで折好く、コンソールが作業完了を告げた。機械音声で「予約のタスク、すべて完了しています」結果を一瞥すると、デジタル・データのほうは音声ばかりのジャンクだった。発話者が絶滅した口語の解読は宇宙を彷徨うようなものだ。
そちらを無視して、エレクトラは桃色言語解析装置〈秘壺〉を立ち上げた。自分の窮状を頭から締め出し、翻訳の続きに取り掛かる。
昨日墜落した〈アーカイブ〉のうち、エレクトラのもとに仕分けられた言語学史料は数冊の書物だった。エレクトラはデッドメディアのなかでも、特に書物に愛着を感じていた(実務上では、自動処理にかけられない分だけ手間のかかる厄介なものではあるのだが)。
遠く言語的理解を隔てた旧文明の、意味不明な言葉の連なり。文字のかたちも並べ方も、時代と地域によってまったく異なる。それを眼で追う体験は、彼女にとって秘め事めいた愉しみであった。ぱらぱらと捲ったのち、任意のページを開いた状態で〈秘壺〉のなかにインサートする。
すぐさま〈秘壺〉が応答を寄越す。
「視覚走査プロセスを開始……データベース照合プロセス終了……当該史料の基本仕様は次の通りです。文字体系:表意文字(複数種混在)、表記体系:縦書き、組版規則:一段組かつ図版無し。本推定の確度は八六・三パーセントです。パターン認識に移行……」
「濃度分布の信頼度を〈優先〉にして」複数種混在の表意文字を用いる言語は極めて少なく、単種の表音文字同士を比べる場合よりも、使用言語を特定するうえでは考慮すべきパラメータはさほど多くない。ページ単位の〝黒さ〟──つまり文字が含まれる密度──に関する解析に計算資源を割り振るほうが、その後の処理がスムーズだとエレクトラは経験的にわかっていた。
「了解。信頼変数間で偏向を加えて再プロセス…………プロセス終了。パターン認識の結果、当該史料のスペックに次の項目を追加します。使用言語:日本語。本推定の確度は七四パーセントです。続けて日本語の文字パレットを用いて、詳細な辞書対照プロセスを開始することができます。当該ページにかかる処理見込み時間は三四分」
「そのまま進めて」云いながらデスクチェアを回転させ、すぐさま二台目の〈秘壺〉を起動、もう一冊の史料に取り掛かる。一連の初期プロセスを経て、こちらも日本語の文献である可能性が高いとわかった。同じ時代と地域のものがひとつの〈アーカイブ〉に集められるのは至極自然な流れであり、そのまま二冊目も日本語の解析処理を走らせることにした。
その後エレクトラは〈秘壺〉と共に翻訳作業をしばらく続けた。が、あまり有益な史料ではないかもしれないと途中から踏んでいた。日本語辞書の語彙を増やせる点では、無意味とは云えないけれど、と。
〈アーカイブ〉から届く言語学史料のなかで、性と生殖に直接結びつくものは決して多くない。数少ないそれらを寄り集め、エレクトラは最新の論文を「人新世の文学作品における性描写について」という題目でまとめた。旧人類がセクシュアルに描いた文学的行為を〝実践〟した実験だ。使い古したナイトガウンの襟を嗅ぐこと。眠った女性に刺青を彫ること。しかし、意味がなかった。妊娠には結びつかなかった。襟は汗臭いだけだったし、刺青は痛がられただけだった。
何かが足りない、とエレクトラは考えていた。古代の文学作品に描かれた性描写を演じるだけでは、何かが足りない。
日を追うごとに迫りくる審査会を前にして、エレクトラの焦りは募る一方であった。
§
誰かがビンゴと叫んだ。
ルーティンの翻訳作業に取り組んでいる最中、センター全体の映話チャンネルで彼は叫んだ。〝雨〟だ、とエレクトラは判じ、ヴァニティを呼び出す。
「わたしたちにもツキが回ってくるかしら」
「ビンゴのことですか? あなたがあれで遊んでいるとは知らなかったな」
「冗談云わないで──〝中身〟のほうよ。切羽詰まってるの、わかっているでしょう」
「恵みの雨というわけですか」
「そうあって欲しいものね」
「しかし確かに──」計器を見るためか、映話のフレームから一度見切れて「──ツイている。頻度分布ベースの降雨確率は三パーセントを切っているんです。つい先日堕ちたばかりですから」
二人を含めた回収チームは、普段とは様子の違う〈アーカイブ〉と対峙していた。サイズの小ささなど外見的特徴のなかでも一際エレクトラの眼を引く差異は外装のアルファベットであった。〈国連〉と書かれているべき球面の外装には、見知らぬ符丁。墜落の衝撃を受け消えかかっているが、辛うじて判読できたのはNとSとAの文字。
エレクトラは〈アーカイブ〉を開封する瞬間が堪らなく好きだった。真空パックに包まれた、過去からの贈り物には匂いがある。植物由来の微かな残留芳香。緑、それは失われて久しい。乾き切った大地に頭上を覆われた大深度地下でそれを嗅ぐと、郷愁が胸いっぱいに拡がった(もちろん緑の大地は記録写真で見たことしかなかったが)。
それまで傍らでむっつりと黙り込んでいたヴァニティは遠慮気味に切り出した。
「こいつは中身も妙ですね……」
現実に引き戻され、エレクトラも同意した。「似たようなデータ・ユニットばかり。旧国連の方針では、〈アーカイブ〉一件当たりに複数のバリエーションを持たせた史料の梱包が原則だったはず」
「未来の人々──つまりわたしたちのことですが──がどんな知識を求めるか、予測するのは不可能ですからね」そこで想い出したように「遥か昔の人類学者が〈ブリコラージュ〉という術語を使いました。これは器用仕事という意味で、あり合わせの材料で生活用品をつくり出し間に合わせる技術のことです」
ヴァニティの講釈癖には慣れていたので、口を挟むことなくエレクトラは聴くに徹した。
「彼がこれを発想した背景には、民族の調査があった。ここからが重要なのですが──森に暮らす民族は、あえて用途のわからないものばかりを拾ったそうです。添え木になりそうだ、とか、熊手になりそうだといったものは残らず捨てた。後で何が必要になるか、その時点では判断が付かないからです」
その基準ではディルドは捨てられるのだろうかという疑問が頭を擡げたが、そう問う代わりにエレクトラは議論を引き取った。「だから出来る限りのバリエーションを持たせようとした〈アーカイブ〉方針は人類学的に正しいと、そう云いたいわけね」
「その意味で、今回降った〈アーカイブ〉は奇妙極まりない。何か別の意図を感じます」
「中身が何であれ、見てみるだけよ。今日はもう遅いから休みましょう。〈秘壺〉の自動処理に放り込んでおくわ」幸いなことに、デジタル・データは処理のほとんどを機械に任せておくことができる。
明くる日の第七倉庫、入室と同時にエレクトラは奇妙な声に気づいた。「サワッテヨ」──彼女は耳を疑った──「イヤ」──初めは誰かがそこに居て話しているのかと思った。しかし、それは聞き慣れない言語だった──「サワッテヨ」──耳を澄ませて理解に務める。それは自分にとって懐かしい響きであることを彼女は掴んだ。ある時期エレクトラは、ラジオ代わりに史料の音声ログを流しっ放しにしていた。するとこれは古代語か、と彼女は判じた。いつかどこかの、古代語。しかし記憶のなかの音源と比べると、その発話はどこか湿っぽい雰囲気を湛えている。唄っているという見方ができなくもない。
そこで明かりを点ける。が、誰も居ない。なおも声は止まない──イヤ──デスクに近づいて声の出処を理解した。果たして、それは二台の〈秘壺〉同士の掛け合いなのであった。
会話の内容は皆目判別不能であったが、それよりも奇妙なことがある、と彼女は思考を進めた──ヤダ──入力に対して出力を返すだけの〈秘壺〉がこんな風に自由会話を嗜むなど、到底ありえない。
しばし沈思黙考し立ちすくむエレクトラの内省をよそに、昂ぶっていく機械の嬌声。
ひとまずヴァニティを呼び出すことに決めた彼女は映話を繋いだ。
「相談したいことがあるの。来てもらえない」
「昨日のサンプル、何か出たんですか──後ろが騒がしいですね。何事ですか」
「どちらも懸案よ。すぐに来て」
「これは……古代語ですか」ヴァニティは到着してすぐに察した。
「おそらくは、そう。それは大したことじゃない。気がかりなのは──」腕を組み替えて「──喋っている。それも勝手に」
「故障ですかね。メモリのオーヴァフローでループしてるとか」
「〈秘壺〉は完全に正常よ。診断シーケンスはきちんと走り切って問題無しと断じたわ」
昨夜の議論を想い出しているのだろう、一寸反省するように「〝拾っちゃいけないもの〟だったかな。ともあれ」そこでエレクトラに向き直り「確認しておきたいのですが、サンプルはひとつしか挿れていないのですよね。たまたま掛け合っているかのように聞こえているわけではない、と?」
「もちろんよ」〈秘壺〉のベイを引き出し、片方は空で、もう片方にはユニットが入っていることを確認してみせた。
「問題を切り分けるのが先決です。別のサンプルに入れ替えてみます」
様々な場合分けを試して彼らが得た結論は、昨日のすべてのデータ・サンプルが〝感染〟している──そのヴァニティの表現は的を射ているような気がした──ということだった。サンプルのうちのどれひとつとして、勝手な掛け合いを始めないものはなかったのだ。
結局、エレクトラは感染原因への探究心より学究心を優先することにした。手持ちの翻訳は行き詰まっていたうえに審査会が翌週にまで迫っていた。準備の時間を考えるともはや絶望的であり、彼女は一瞬、出来の悪い学生になったかのような気分に陥った。
「よくわからないものを使ってみてもいいのではないですか」
ぽつりとヴァニティがそう呟いた。
いったいどうやって、と云うより先に閃いた。先の論文に書いたのは、文豪による性描写を模倣するという実験だった。単純に、ここでもそのアプローチを取ったらどうだろうか。
ヴァニティと共に〈秘壺〉の掛け合いを、唱和する。その意味不明な言葉の響きやイントネーションを真似て、何度も何度も発声する。
──イヤ──サワッテヨ──ヤダ──。
寄せては返す嬌声を聴くものは、室内の周囲を固めた人工母胎を措いて他にない。
二人は様々な音源を試し、役を取り替え、自然と付いてくるジェスチャもそのままに、いやむしろより大袈裟に、模倣しようと努めた。数時間もそれを続けた。ヴァニティは次第に、エレクトラの頬が朱に染まるのを感得する。既にどこまでが模倣だったかも忘れ去り、絶叫に近い二つの声の塊がリズムのうねりを生み出し、そして空っぽになった肺腑を空気が満たす流入音が小さく響いたとき、声はぴたりと事切れた。古代から連綿と紡がれてきた生命の疼きを内に感ずるエレクトラ。自然と手を握りあった二人は、もう少しこうしていたいと思った。
もしかしたら〈秘壺〉たちの掛け合いは、太古の人類の睦言を再現したものだったのかもしれない。
いつの間にかエレクトラは、自然とその仮説に導かれていた。
翌日カフェテリアで共に食事を摂っていると、ヴァニティがおずおずと話し始めた。前日の一件以来、お互い視線がぶつかると、何故だか気まずいように眼を逸らした。そんなはずもないのに、二人が一緒に居るところを周りに注目されている気にもなった。その雰囲気から逃れたくて話を振ってみたのかもしれない。
逆に〝あれ〟を吹き込んでみたらどうでしょうか、とそう云った。
その意味をエレクトラは考えてみたが、行き着く先はひとつしか想い浮かばなかった。翻って、それはもう一度二人で睦言の真似事をするということである。ヴァニティがその行為をどのように認識しているのかもわからなければ、純粋な学究としての提案であるのか、または個人的な関心に基づく提案であるのかも、彼女にはわからなかった。この全体が自分の想い過ごしであることまで含めると、いよいよわからない。
しかしいずれにしたところで、とエレクトラは想った。嫌な気分はしないのだった。
§
幾層もの岩盤を隔てて、遥かな頭上に地表が寝そべる。
〈アーカイブ〉の飛来・墜落をモニタリングする当直室から、エレクトラはぼんやりと地表を観察していた。コミカルなタッチで描かれた鋼鉄の傘アイコンが添えられた降雨確率計は、七パーセントを指している。
誰も居ない一室でコンソールに正対しているのも馬鹿らしくなる。机に突っ伏し、組んだ両手に顎を載せる。
学生時代のように徹夜で審査会用の発表を準備したツケで、強烈な眠気に誘われる。微睡んだ視界の隅で、ドアを開けるヴァニティの姿を捉える。
「それは〝散々だった〟というポーズでしょうか」伏した彼女を見下ろすように、口を開いた。「あんなに手伝ったのに?」
「そうとも云えるし、そうでないとも云える」エレクトラはてきとうに応えてやり過ごしたかった。心底疲れていた。
隣のデスクに腰を下ろしつつ「教えてくださいよ。いったいどんな評価だったんです」
うんざりしながら顔を上げた「おざなりの保留。予算は増えもしないし減りもしない。つまりは研究室も、倉庫のまま」
「良かったじゃないですか」大袈裟に云ってみせて「わたしたちが示した仮説が、少しは受け入れられたのでしょう」
エレクトラはそこから審査会の概略を伝えた。謎の睦言史料とその実験について語った際には冷ややかな反応を受けたものの、その後の〈秘壺〉を逆用した人工母胎の胚胎プロセスについては大きな関心を示したこと。
「実際、あれは世紀の発明ですよ。人工母胎のモニタ越しでは、ちゃんと生命が兆していた」形を保てずすぐに死滅したけれど、とは云わなかった。
二人の間に一瞬の沈黙が落ちた。
「それにしても、あの音源は何だったのでしょうか。あんなにもプライヴェートな記録が大量に、しかも一箇所に集められていたのは何故でしょう。〈アーカイブ〉の保存対象は種としての人類文明であって、特定の個人に関する情報は収めない方針だったはず」そこで一息ついて「この出処を掴み、自分たちがやったことを充分に理解しない限り、わたしたちの研究は科学として証明することはできない」
エレクトラは向き直り「そう。それについて調べてみた。NSAという例のアルファベットは、かつて米国と呼ばれた英語圏の大国が擁した諜報機関を示す符丁だった」
興味深そうに頷き、ヴァニティは先を促した。
「NSAに関して、〈アーカイブ〉内に情報が無いか探してみたのね。いくつかの史料を突き合わせて、部分的に翻訳をしながら辿った。一冊だけ文献が見つかったわ。正直に云って、よくわからない固有名ばかりでほとんどが理解不能だったのだけれど、どうやらそれはNSAを告発するテキストだった。NSAの行き過ぎた情報収集を告発するという趣旨の、ね」
ヴァニティは要領を得ない様子で聞き入っている。エレクトラはなおも続けた。
「それらを踏まえたわたしの仮説はこうよ。何らかの方法を使って──それが何なのか、わたしたちには知る由もないけれど──、米国は国民の極めてプライヴェートな会話を盗聴していた。そしてその膨大なログを打ち上げた。たぶん、それほど力のある機関なら、国連のようにパブリックではない独自の〈アーカイブ〉を打ち上げることくらいは、造作も無かったはず。しかしそれを回収すべき米国は旧人類と共に消滅、耐久年数が尽きて墜落した衛星は、遥かなる時を隔ててわたしたちのもとに届いた」
しばし二人は黙り込んだ。が、やがてヴァニティは悪戯っぽく微笑むと、いかにも楽しげに問うた。
「つまり悪趣味な覗き屋のお陰で、わたしたちは救われたわけですね」
その総括はあまりにも間が抜けていて、エレクトラは発作じみた笑いに襲われて、そして云った「わたしたちだけでなく、もしかしたら、人類も。もちろん仮定の上に仮定を重ねた、脆い推論でしかない。〈秘壺〉の〝感染〟についても、説明が付いていない。けれどわたしたちは少なくとも、生命の兆しを掴んだ」
ヴァニティは口を挟まない。
「このまま音声認識の精度が上がって、古代語の口語が解明されていけば、わたしたちの仮説を裏付けてくれるでしょう。わたしたちが繋いだ歴史が、わたしたちの正しさを証明してくれる──そんな日が来るのかも」
「あなたは本当に、底無しのロマンチストですね」
〈了〉
文字数:9414
【新井素子:2点】
文章はとても安定していて、落ち着いて読める。ただ、肝心の嬌声部分にもう少し艶っぽさがほしかった。その点は改善の余地あり。
【鈴木一人:5点】
おもしろい。ほとんどプロの小説として読むことができた。少し地味目という弱点はあるが、抑制が効いた綺麗な文体で書かれている。短篇連作のように横の広がりのある何種類かのお話を作って、物語にメリハリを付けられれば、一冊の書籍にまとめられるくらいのクオリティではないか。
【大森望:1点】
梗概の段階では一発ネタのようだったが、実作になってみるとちゃんとまとまった小説に収まっている。逆に言えばその収まりの良さが弱点でもあって、そこから弾けられるとよりよいものになりそう。梗概のときは馬鹿馬鹿しさも魅力だったので、その点をうまく残せれば。
※点数は講師ひとりあたり8点ないし9点(計26点)を4つの作品に割り振りました。