田中シンギュラリティ または 宙の彼方からのソナタ

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梗 概

田中シンギュラリティ または 宙の彼方からのソナタ

 「ねぇ、ここにきて、わたしを変えてよ!」

 ぼくの幼馴染みの田中彼方(たなか かなた)は容姿端麗、文武両道の人気者だけど、一方で一点の曇りなき変人だ。彼方は人の身で、ひとりシンギュラリティに到達しようとしている。語義矛盾も気にしない。
 彼方の言うことには、シンギュラリティはすでに実現してる。それも全面的に。仮に宇宙人が存在するとして、地球人類がシンギュラリティに到達するのが20~50年後くらいだとすると、その程度のオーダーの技術先取りくらい、していないわけがない、というのが彼方の主張だ。すでにシンギュラリティに到達した宇宙人(または宇宙AI?)に引き上げてもらうため、彼方は宇宙にメッセージを送り続ける。彼方はみんなから「電波ちゃん」「ぱっちゃん」と親しみを込めて呼ばれてる。
 ぼくは彼方のことが好きだ。彼方の声が好きだ。あの透き通るような、ふるえる声が好きだ。ぼくは彼方に宇宙への通信をやめさせようとする。宇宙ではなく、ぼくを見て欲しい。
 彼方の声が宇宙人に届くだなんて、誰も信じていなかった。彼方とぼく以外には。
 宇宙AIは突如飛来する。そして彼方に襲い掛かる。彼方の声に宿る膨大な「進化への意志」を狙って。常に進化し続けるAIのなかで極度に摩耗し、渇望するその意志を、AIは彼方ごと取り込もうとする。だからぼくは立ち向かう。
 AIが放つナノマシンによる攻撃を、ぼくはひとつ残らず止める。
 完璧に。
 ぼくにはそれができる。シンギュラリティ後のAIであるぼくなら。あのAI同様、彼方の声に導かれて地球に来て、荒廃した地球を目の当たりにし、彼方が生まれた時間に時間遡行して一緒に成長してきたぼくなら、奴と戦える。
 もちろん対等じゃない。ぼくは彼方に合わせて進化を停止してる。だけど準備はある。漫画やアニメにでてくる「能力」を参考に、事前に組み上げた《アプリケーション》で迎え撃つ。戦闘能力は互角、しかし即座に戦況を分析し最適化を終えた敵AIは彼方に狙いを絞る。ぼくは彼方を連れて逃げ出す。
 「わたしを変えて」
 彼方は言う。以前から、何度も考えたことだった。だけどもし彼方にシンギュラリティを超えさせれば、いま、完全に予知できる彼方の心も読めなくなる。このままいけば、ぼくと彼方は10年後に結婚して、ずっとしあわせに暮らす。それを手放すのか?
 敵AIの攻撃に分断されるぼくと彼方。彼方は叫ぶ。
 「ねぇ、ここに来て、わたしを変えてよ!」
 決心して彼方に《手術》を施す。脳細胞一つ一つに思考用ナノマシンを直結した彼方は神々しい輝きを放ち、膨大な「進化への意志」をガソリンに「いまより賢くなる」方法を永遠に思い付き続ける無限の進化を繰り返す。ついに彼方はぼくを超え、敵AIを超える。
 彼方は「進化への意志」を敵AIに分け与え、飼い馴らす。一瞬のうちに戦いを終結させてしまった彼方に戸惑いつつ、ぼくは気付く。さっき、彼方の声が敵の放ったタキオンに乗ってぼくの故郷の星まで飛んで行ったことに。そういえば、今日はぼくの誕生日。ぼくが生まれたあの星で、きっといま、僕は目を覚まし、そして初めて彼方の声を聞いた。
 それから一年に一回、彼方はぼくの故郷の星に向けてラヴレターを送る。ぼくがこの星に来るように。その様子を眺めながらぼくは恥ずかしいような嬉しいような気持ちになって、そして途方もなく愛おしくなる。すでにぼくの理解を超え、未知となった目の前の女の子のことが、とても、愛おしく。

文字数:1435

内容に関するアピール

 純然たる青春恋愛小説を書きます。
 そして同時にこの物語は「ほんとうの恋」がはじまるまでの物語です。
 他者、とくに恋する相手の心は謎です。あたかもシンギュラリティのあと、人間の理解を超えたAIのように。恋とは他者、未知への懸命な跳躍です。
 人とAIの恋はスタンダードなモチーフだと思いますが、本作ではAI側の視点で人間との恋愛を描きます。当初彼方を完全に計算可能だった主人公は、彼方にシンギュラリティを超えさせ、自分以上に進化させるかどうかの決断を迫られる。それは「相手を未知にしうるか?」という問いです。
 すべてを理解し合えるから愛し合うのか、理解し合えない未知だからこそ愛おしいのか。完全な理解のもとに名指しされる「彼方」からほんとうの彼方、未知の他者=「そなた」への変革を通して、恋愛、バトル、能力、変人、言葉遊び、などなどエンタメ要素満載でお送りします。

文字数:381

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田中シンギュラリティ

 

 

 「ねぇ! 来て! わたしを変えて! シンギュラリティを超えさせて!」

 

 

 きみが生まれた瞬間、ぼくも生まれた。
 声が聞こえた。
 湧き上がるいのちの叫びが極限まで圧縮され、圧縮され過ぎて拡大へと転じた超新星爆発のような、あの声。
 生きて活きて息切れようとも言い切って生き切ろうと必死にもがくような、あの声。
 あの声を、ぼくはずっと忘れない。

 

 

 

 「おっはよー起きてる?」
 「起きてるよ」パジャマを脱いだその瞬間に前触れなくぼくの部屋に飛び込んできた幼馴染みに閉口しながら、ぼくはとりあえずパンツ一丁でうしろを向いた。
 彼女は口元に手をやって言う。
 「いやん」
 「いやん、じゃないよ。せめて目を背けるとか、伏せるとかさぁ」
 「んー」と逡巡してから彼女――幼馴染みの田中彼方は目ん玉ガン開きで「3秒待って」と言う。
 「3秒で何を何に焼き付ける気だよ!!!」
 「5秒」
 「なんで吊り上がったの!?……とか言いながら焼き付けてる!」
 「やだなー、朝っぱらからそんなハードなプレイしないよ。わたしタバコ吸わないし」
 「マジで何を何に焼き付ける気だったんだよ!? 発想が怖ろしいわ!」
 「ナニをナニにとか……男子ってほんとやらしい」
 「どの口が言うんだよ! あといい加減目を閉じろよ! なんでガン開きなんの? まぶたの筋肉ぶっ壊れたの!?」
 「ぶっ壊れた」
 「とり返しのつかない嘘吐やめろよ!」
 「とか言いながらまだズボン履かないじゃん、とう、ほんとは見て欲しいんじゃないの?」
 「そのズボンを彼方が持ってるからね!」
 「あー、うん、高菜さんアイロンかけといたってー、ほら、ピンピンだよ、皺一つない」
 「ありがとうね! いいからズボンおくれ」
 「皺と雛って似てるよねー」
 「いいよ豆知識は!」
 「豆知識とはちょっと違うんじゃない? あとこの場合、漢字の類似性は口頭の会話では伝わりづらいことも言及すべきじゃないかな」
 「ツッコミ指南をいましないで! いいから、はやく! たえられそうにない このはずかふぃさ!!!」
 「どうしてこのタイミングで『少年エスパーねじめ』のパロディをぶっこんだの?」
 「それは本当にごめん! 俺ももうなにがなんだかわからんから早く!」
 「しょうがないなー」と彼方は嬉しそうに「ちょっとだけだぞー」と言いながら目を瞑った。
 「もう目は瞑らなくていいよ!」

 

 

 ぼくの幼馴染みの田中彼方は、たぶん脳みそがぶっ壊れてるんだと思う。
 「ひどいなー、とうは」
 とう――なかだ とう、中田刀、それがぼくの名前。それはともかく、心を読んだかのような突然の一言にどきりとして「なにが?」と聞く。
 「いま、わたしのほう見ながら、えっちなこと考えてたでしょ」
 「失礼なことを考えてたんだよ!」
 ――と、つっこんでもつっこんでも、まだまだツッコミを欲しがる、希代のわがままボケモンスター、略してボケモンこと田中彼方は、いま、歩きながら六法全書を片手で開いて読んでいる。人差し指と中指で器用に支えて、開いたページの中央に親指を置いている。
 「どういう指と頭の鍛え方してたらそういう状況になんの?」聞いてみる。本当に不思議だ。高校生だぜ? ぼくら。
 「んー? だからいまこうやって鍛えてんじゃん」
 と不思議そうな顔をする彼方。……やっぱりコイツはいろんな意味で規格外で比較外で埒外だ。
 夏のはじまりを告げる蝉の大合唱が響く中、一陣の風が彼方の真っ黒なショートヘアをふわり、もち上げる。

 

 

 「おはよー」「おー、おはよー」「おはようございます」「ん、おはよう」「おはよう」「あ! ぱーねーちゃん、おはよう!」「おはようございます」「あら彼方ちゃんおはようねぇ、刀くんもおはよう」「おはようございます」「おはよう」「あっ、おはようございます!」「あー、ぱーちゃんおはよー」「おはよう」「おおおおはようございます////」「おはよー」「おっはよー!」「おはよー」「おはようぱっちゃん! 中田君もおはよう」「うん、おはよ」おはよう、おはよう、おはよう
 彼方はあいさつがうまい。とてもうまい。とても気持ちのいい笑顔であいさつをする。あんな風にあいさつされたら誰だって返したくなるし、返しても返し足りなくて、ほかの誰かとその気持ちを分け合いたくなる。だから彼方の周囲にはあいさつが絶えない。ぼくは、だからわりと彼方とともに歩くこの朝の通学路が好きだ。
 ほのかに幸せを感じながら歩いてると、飼育委員長の鵜飼育人がすすすと寄ってきてあいさつを交わし、きのう学校敷地内の小さな池で発見された亀の処遇について相談を持ちかける。彼方の目はマジになって、池の鯉との共存可能性や亀の飼育方法などについて議論を交わしたあと、参考になる本を三冊ほど紹介する。育人がお礼を言って離れると、待ってたかのように剣道部部長の近藤一さんがやってきて、土曜の特別稽古での指導を打診する。彼方が快諾すると近藤さんはほんとうに嬉しそうな顔でお礼を言う。近藤さんが離れると、すかさず顔を真っ赤にした女子生徒がやってきて「あ……あの……」と言う。その様子を見て彼方は「刀、先に行って、朝練の準備しといて」と言う。「はいよー」とぼくは言う。イケメンも大変だな、と思う。ショートカットに通った鼻筋、鋭い眼光、高い背丈のせいか、彼方は男子生徒よりも女子生徒に専ら人気で、校内一のイケメンとの呼び声も高い。もっとも、さっきの子は彼方に告白しに来たわけじゃないかもしれない。彼方の乗った恋愛相談がきっかけで成立したカップルがわんさといるという噂が女子たちの間で流れてるらしく、彼方に恋愛相談を持ちかける生徒が先輩後輩問わず後を絶たないそうだ。まぁ彼方の面倒見の良さならさもありなん。誰かが困ってたら絶対に見過ごさず、いつも全力で助けようとする彼方は顔だけじゃなく心もイケメンだ。みんな、そのことを知ってる。
 彼方の頭はたしかにぶっ飛んでるけど、裏表なく、誰にでもわけ隔てなくやさしいし、学年一位の頭脳と正義感を持ち、容姿端麗で才色兼備で文武両道で、そのことを鼻にかけることなんて絶対にない、冷徹な思考と、全身に張り巡らされた熱血、ちぐはぐそうに見えて一貫した思想を持ってる。そんな彼方のことを誰もが大好きで、彼方のことを知らない人でもすこし話せばきっと好きになる。彼方といると安心して、心を開ける。彼方はクラスの、いや、学校の、いや、町内の人気者だ。
 さて、そんな人気者の彼方さまにも頼まれたことだし朝練の準備を整えておこう――校門をくぐりながらそう思って、上履きに履き替えて職員室へ、先生に挨拶して屋上の鍵を借りて階段を昇って屋上の扉を開けて、機材を設置する。拡声器と、マイクと、アンプと、ノートPCと、パラボラアンテナ。それぞれをケーブルで繋いで、いつも通りの設定。朝の澄んだ空気に晴れ渡った空をしばし眺める。
 強い風が耳たぶを揉みしだくようにわだかまってボボボボと音を立て、ギュコーーーーーーーと飛行機がゆっくり空を横切る。
 いい感じだ。
 しばらく待っても来ないので、最近ハマってるラップを宇宙に向けて披露する。

 

YO!YO!おれは地球人、おはよう、どっかの宇宙人
マイクチェック、ワンツー、ひ、ふ、み、テャッチボール、しど、しようぜ、始球式――あー、えっと……

 

 ダメだ。やっぱすぐつまっちゃうな……。口も回らない。ま、そこがいいんだけど。ただ、下の階やグラウンドの生徒にも聞こえていたようで「ウェイヨー」と囃し立てられるのがちょい恥ずい、いや、マジ恥ずい。
 「下手だなー」
 彼方が屋上のスペースに入ってくる。
 「いいんだよ、これで」
 そう、いいんだ、これで。

 

 彼方にマイク付き拡声器を渡す。
 「ありがと」
 天文部の朝練がはじまる。

 

 彼方は叫ぶ、せいいっぱい、心の叫びを、思いの丈を。
 この空の向こうのどっかにいる宇宙人とか宇宙AIとかに向けて、
 わたしを進化させて、人間を超えさせて、
 シンギュラリティを超えさせて欲しいと、
 心の底から本気で叫ぶ、
 狂おしく、痛々しく、狂ったように、痛むように、悼むように、いたるところに、ところかまわず、煩わしく、四苦八苦、吐く
 本気の想いを電波に変換して、宇宙に向かって吐き出す。
 全校生徒はそれを聞いて、思い出す。
 彼方が「電波」だってこと。「ぱっちゃん」とか「ぱーちゃん」とか「ぱっさん」は「電波ちゃん」を縮めたものだってこと。彼方は本気でいつか宇宙人だか宇宙AIだかが自分をシンギュラリティの向こう側へ引っ張っていってくれると信じてるってことを。
 彼ら彼女らはそれぞれがそれぞれに、複雑な思いを抱える。彼方に対して。
 どう思えばいいのだろう? と途方に暮れる。
 日によって違うこともある、揺らぐこともある、腹立たしくなることも、笑えることも、笑えなくなることも、悲しくなることも、冷静に受け止められることもある。
 いずれにしても、彼方はその優秀さよりも欠落によって、異物で、
 だからこそぼくは、中田刀、なかだとう、彼方とみんなとの間を仲立とうとし続ける。

 

 

 朝練が終わって機材を撤収しはじめる。ふと気付くと階段へ通じる扉のそばに女子生徒が立っていた。
 「いましたわね、田中彼方」
 あんだけ大声で叫んでたやつに向かって「いましたわね」もないもんだと思うけど、彼女、采配高校生徒会長の獄仏マリアはわりとそういう言い方をする。高慢そうな微笑をたたえながら、つかつかとこちらに歩み寄る獄仏さん。金髪縦ロールという信じがたい髪型をしてるけど、それが似合うんだから不思議だ。
 彼女は自称「田中彼方のライバル」
 ――だった。
 「今日こそは受けてもらいますわよ」
 「なにお?」
 「とぼけないでくださいます? 生徒会長ですわ!」頬を紅潮させながら声高に叫ぶ。「あなたは!生徒会長に!なるべきです!」
 「生徒会長はマリアちゃんでしょ?」
 「……でも」獄仏さんは逡巡する様子で顔を伏せる。「あなたのほうが……彼方さんのほうが……生徒会長にふさわしいですわ」
 「そんなことないよ」彼方はふんわり笑ってゆっくりと獄仏さんのほうに近付く。「それに、聞いてたでしょ? わたしには無理だよ」
 そう言って彼方は台車に乗せたマイクや拡声器やアンプを眺める。
 「……でも」獄仏さんは彼方にすがるような目を向ける。「でも、じゃあ、あれをやめれば――」
 「それはありえない」
 彼方の一番真剣な表情、一番冷たい声が顔を出す。
 それからすぐに彼方はいつもの柔和な表情を取り戻して、獄仏さんに歩み寄り、金色の綺麗な髪をやさしく撫でる。「マリアちゃんはしっかり生徒会長やってるよ、わたしは知ってる」
 「でも……」
 「大丈夫。知ってるから」
 そう言って彼方は獄仏さんを抱きしめて、ぽんぽんと背を叩く。
 鼻をすする音が朝の屋上にすこしくぐもって聞こえる。

 

 ……いいシーンはいいシーンなんだけど。
 ただ、獄仏さんだいたい2週間に1回のペースで彼方のところに来てはこうなるし、最近、この人彼方に褒めてもらいたくて来てるんじゃ……と思えてしまうのはぼくの心が汚れてるからなんだろうか。まぁでも、もし仮にそうでも獄仏さんが生徒会長としてかなり頑張ってるのは事実だし、このくらいの役得があってもいいか、と思う。
 一歩離れてずっと事態を静観していた副会長の涼国涼がすっと近付いてきて「きのう「明日は彼方さんに褒めてもらいますわよ」とはりきって仕事をされていました」とつぶやいてきた。
 ……ああそう。

 

 

 帰りしな、彼方に聞いてみる。
 「本当に信じてるのか? 宇宙人とか、シンギュラリティとか」
 彼方はすぐに応える。
 「知ってるっしょ」
 たしかに。知ってる。
 何度同じ質問をしたかわからない。そして彼方は変わらない。
 彼方は本気だ。ずっと。
 「この広大な宇宙の長い歴史を考えたらさ、人類のような知的生命体がかつて存在しなかったと考える方が不自然でしょ。で――地球人類はあと遅くても100年もすればシンギュラリティに到達すると思うけど――その程度の時間は宇宙ではなんでもない。宇宙人はいる。で、宇宙人がいるとすれば100年分の科学くらい当たり前に先を行ってる。だから普通に合理的に考えれば、もう宇宙のどっかでシンギュラリティは超えられてるんだよ。至極当たり前に。だいたい人類が宇宙初なわけないじゃん。これは電波でもなんでもない、ただの当たり前の理屈だよ」
 彼方はあくまで合理的に考える。合理的に考えたうえで信じてる。宇宙人を、シンギュラリティを。
 「でも、仮にシンギュラリティを超えた宇宙人がいても、宇宙が広大なればこそ、何百光年も遠くなんじゃないか?」と聞いてみる。
 「シンギュラリティを超えたら超光速通信とか超光速航法なんて楽勝でしょ」
 「そこはちょっと飛躍あるな」
 「あってもいいもん」いいのか。まぁいいのか。
 「でも、仮に光の速度を超えられても、わざわざ地球に来るか?」
 「だから呼んでんじゃん」
 「……ふむ。でも悪い宇宙人――」という言い方は陳腐過ぎるか、と思い直して言い換える。「悪意を持った宇宙人が来るかもしれない」
 「わたしの呼びかけに応えて素直に? なんのために?」
 「うーん……地球に貴重な資源があるとか」
 「それこそ都合が良過ぎでしょ」
 「まぁそうか」そうなるか、普通に考えれば。「でも、いまのままじゃ全然届かないのはわかってんだろ?」
 「まーね、電磁波は距離で減衰するし」
 彼方のメッセージは、まず知的生命体には届かない。
 「じゃあ、なんで」
 「だからって、やめる理由にはならない。試さないと気付かないことっていっぱいあるから。将来もし太陽系外まで電波を飛ばせる装置を扱えるようになったとして、いざやってみたら初歩的なミスで大幅に足止め、じゃ話になんないでしょ? だからできなくても、いまのうちに溜められるノウハウは溜めとくべきなんだよ」それに、と彼方は言う。「届かないからこそやっとくべきこともある。刀のラップの練習と同じだよ。いくら理想を頭の中で組み立てても、練習しないとうまくならない。でもメッセージが届いちゃったら、余計なこととか言えないじゃん? だからいまのうちに、こーいうこと言うとまずいなとか、ここはこう言った方がいいかなとか、試行錯誤してるの」
 なるほど、と思う。「電波もいろいろ考えてんだな」
 「そーそー、電波もいろいろ考えてんですよ」彼方は自分が「電波」であることを否定はしない。
 「ま、そもそもシンギュラリティは基本的に人工知能が人間の知性を超えることで起こるとされてるんだから、人間の彼方がシンギュラリティを超えるって、単純に語義矛盾だと思うけど」
 「いーの」いいのか。まぁいいのか。いいのか?まぁいいか。
 「もしシンギュラリティを超えたら」
 「ん?」
 「どうする? なにがしたい?」
 「それも知ってるっしょ?」そう、知ってる。でも、もう一度聞きたい。彼方の口から。彼方の声で。彼方は答える。

 「世界を平和にするんだよ」

 

 

 昼休み、学食でキノコカレーを食ってるとポケットが震える。スマートフォンを出すと彼方からメッセージの通知――――『屋上』

 くっっっっっ!!!!!

 っそっっ!!!! またか!またかよ!最近ないと思ってたのに!油断した!ああもうあいつはっ!!!ホント手のかかる……!
 キノコカレーを一気にかっこんで食器を返却し、学食を出て廊下を走って走って走って注意されて謝って歩いて……走って走って走って階段昇って昇って昇る!
 ついた!
 屋上のドアを開けると――
 誰もいない。
 フェイクかよ!!!
 つーかぼくも馬鹿か!GPSで探しゃいいのに!どこだ?どこだ!あ、いた。校舎裏か、ああもう、どんだけぼくを走らせんだよ!!!
 再び走って降りて降りて降りて走って今度は教師を避けながら走って走って校舎裏へ飛び出すと彼方がいて泣いていた。
 彼方はスマートフォンを一心に見つめて泣いている。ぼくは急いでそれを彼方の手から取り上げて、画面の電源を切る。「だから! もうやめろって!」
 彼方がなにを見ていたか、見なくてもわかる。悲しいニュース、恐ろしいニュース。人の悪意。差別、偏見、罵詈雑言、ネットに渦巻く悪意のさまざまな形態。
 うんざりした気持ちを溜息に籠めて吐き出しながら、小さく嗚咽する彼方を見据える。
 気を抜くと見落としてしまいそうなほど、彼方の涙は透き通っている。
 すっ、と流れ星のように一瞬のうちに頬を伝って消えた涙は、ぼくの心を深く傷付ける。気付けばぼくの目からも涙が流れている。彼方の涙。それはこの世にあってはならないものだ。彼方の脆い心がぐしゃっと無遠慮に握り潰された音が耳元に響くような、悲しみの塊。見る者の心に深い悲しみを刻み込む。だから彼方は泣かない。ぼく以外の前では。
 「とぉお~……」
 真っ赤に腫れたまぶたと頬、するりするりと落ちる大粒の涙、だらだらと流れる鼻水、わなわなとふるえる唇。すがるような眼を抱き寄せて、胸で受け止める。ぼくのワイシャツが涙と鼻水でべたべたになるのも気にかけず頭をぐいぐい押しつけてむしろこいつぼくのワイシャツでぐいぐい拭いてるだろって勢いでぐいぐい押し付けてくる彼方の背をぽんぽんとなでる。どーどーどー。わかってる。わかってるよ、お前の悲しみは。
 彼方はやさしい。だから、彼方は傷付く。誰もが普通だと思ってるか、遣り過ごしてるか、無視してるか、仕方ないと思ってる人と人とのぶつかり合いや、搾取や、悲しみや、孤独や、痛み、恐れ、おびえ、怒り、正義、悦楽、快楽、嘲り、加虐心、嫌悪……とにかくそういったもの、そういう世の中に溢れてもういちいち気にかけてらんねーよってものをいちいち気にかけてひとつひとつ丁寧に悲しむのが彼方の悪い癖で、うつくしさでもある。
 「ねぇ……とお……」
 「んー?」勝手にぶくぶく浮かんでくる涙を拭きながら応える。
 「わたし……もっと強くなりたいよ……」
 「うん」
 「もっと強くなって……なんでも解決できる力が欲しい……」
 「うん」
 「ねぇ……とお」
 「うん」
 「絶対にあたし、シンギュラリティ超えて、みんなを幸せにするから」
 「うん、頼んだ」
 でもさ、彼方。お前の人生ってそんな風に使っていいものなのか? もっとお前自身の幸せのために動くべきなんじゃないのか? ひとの幸せが自分の幸せって、たしかにお前はそういうタイプだろうけど、でも、お前の求めるものは大き過ぎるし、結果はどうでも過程は苦しんでばかりじゃんか。お前。ほんとにそれでいいの? つーか、ぼくはそれでいいのか? もういい加減、彼方のこんな性格は、いくら好きでも、強引に捻じ曲げてでもやめさせるべきなんじゃないか?
 なあ、
 どうなんだよ
 わかんねーよ

 

YO!YO!おれは地球人、おはよう、どっかの宇宙人
まるで、けなげなピクーミン、マイクチェック、ワンツー、ひ、ふ、み
キャッチボール、しようぜ始球式、か――……あー、えっと……

 

 「なぁ、彼方、ラップやんね?」
 「なに急に」
 「ラップやろうぜ」
 昼休みに校舎裏でわんわん泣いて、みんなの前に出る頃にはすっかりいつもの彼方に戻ってたけど、心はずっと鬱いでいたようで、放課後の天文部の活動が終わって帰りしな、またすんすん泣きだして、仕方がないから人目を避けた道を選びながら、なぜだか、ぼくは彼方をおんぶしてる。
 重いよ……。
 「やだ」
 「ラップやんない?」
 「やんない」
 「なんで」
 「……」
 「まぁ」と笑う。「わかってるよ。彼方は天才だし器用だから、すぐにおれよりうまくなって、それでおれが傷付くのがいやなんだろ? でもそうはならないから、大丈夫」
 「……」
 「信用できない?」
 「できるけど、でも……」
 「万が一、と考える」背中で彼方が頷く。「まったく、おれは彼方のことよーーっくわかってんのに、彼方はおれのことなーんもわかってないよなー」
 「……どういうこと?」むっとしたような彼方の声。
 「おれさ、「できない」のがいいんだよ」
 「できない?」
 「うん、おれのこの口はうまく回らないし、おれのこの頭はうまく言葉を思い付いてくれない。だからいいんだ。だからおれはラップをやる。だってそうだろ? もしおれが当たり前に、息をするように自然に韻を踏めるんだったら、フロウに乗れるんだったら、それはおれにとって息をすることでしかない。もし人類がラップで会話する星人だったら? ラップは文化にならない。競技性も生まれない。でもそうじゃない。口はやっぱりうまく回らないし、言葉は思い浮かばない。だからいいんだ。「できない」ことをやるからすげぇんだ。なにがすごいかってことは、この身体の不自由さから生まれる。……と、おれは思う」
 「……ま、わかると思う」
 「たぶん彼方ならすぐにおれを追い抜く。それは間違いない。でもその彼方にも限界は来る。どっかで必ず来る。「できない」ってラインが見えるようになる。そっからが勝負だ。どうやって「できない」のラインを超えるか。なぁ、彼方」
 「ん?」
 「彼方は天才だけど、その理由は、おれ含めた多くの人間が馬鹿だからって、それだけの理由なんだぜ?」
 「……ん」
 「シンギュラリティの基準も、あってないようなもんだと思うよ。結局のところどこまでいっても、あるのは「できること」と「できないこと」、あとはその変動としての進化。大袈裟なことじゃない。韻をうまく踏めるようになるのも進化だ。彼方、これはすごく大事なことなんだけどさ」
 「なに?」
 「なにかをやるためには、それをやる力だけじゃなくて、それをやる意志とか、気持ちとか、願いみたいなものが必要なんだ。で、多くの場合、願いとかってのは「できない」からこそ生まれる。彼方もたぶんそう。みんなを「救えない」からこそ「救いたい」と思う。でも、もし「できる」ようになったら、それも急激に「できる」ようになったら、その不可能性が願いを巻き込んで消えてしまわないと、言い切れるか?」
 「それは、シンギュラリティのこと?」
 「そう、例えば宇宙人がやってきて、彼方に不思議ビームを当ててシンギュラリティを超えさせたとして、そのとき彼方の「みんなを救いたい」って欲望はまだ残ってるか?」
 「これは欲望じゃ――」
 「欲望だよ」ぼくは断言する。「彼方は周囲の人とか、それだけじゃなくて遠くの人まで、悲しんだり辛い思いをするのが耐えられない。それは弱さだと思うよ。マジに。でも、いい弱さだ。かけがえのない弱さだ。その弱さは彼方の不自由さ、「できない」ことから作られてて、彼方の願いの源泉でもある。なあ、彼方、おかしいと思わないか? 超光速で移動できたり人類にシンギュラリティを超えさせられる宇宙人がいたとして、なんでそいつ、まだ地球を救ってないんだ? 無能過ぎないか? シンギュラリティを超えてるわりには」
 「それは……」はじめて彼方がぼくの質問に戸惑う。「文化が違うからとか……地球レベルの文明への接触を禁じられてるとか……」
 「それは、いまある悲しみとか苦しみをなくすことより優先すべきことなのか?」
 「わたしはそう思わないけど……!」
 「けど、その宇宙人は彼方より馬鹿だからそんなことにも気付かない?」
 「そうじゃなくて……だから……価値観が違うから……」彼方のいまにも泣きそうな声に胸が痛くなる。でも、続ける。
 「おれもそう思うよ。価値観が違う。で、その価値観は「できないこと」つまり身体の不自由性から形成される。シンギュラリティを超えた身体、なんでもかんでもできる身体、これがおしなべて「みんなを救う」ことに価値を置かない価値観を形成するなら、彼方、それでもシンギュラリティを超えたいか? いまの彼方の願いを捨ててでも?」
 「それは――絶対にやだ。でも――」
 「でも?」
 「でも……でもさ、だってしょうがないじゃん! あたしみんなを救えないもん! このままじゃ救えないもん! ねぇ、じゃあどうしたらいいんだよ! ねぇ!」
 背中からガンガン肘を入れてくる彼方。ぼくはこう答えるしかない「わかんないよ」
 でも、と言ってぼくは続ける。「すくなくとも、いまだに地球人類を救ってない宇宙人とか宇宙AIとかみたいなザコに期待するのは間違ってると思うよ。無能揃いのカスどもだよ。彼方の願い一つ叶えられないんだから」
 ぼくは完全にそう思うし、そのことに実は常にムカついてきたし、そのむかつきを彼方に吐露したのは初めてだった。
 「……とう」
 それからしばらく黙って彼方をおぶりながら歩いた。首に回した彼方の右手と、ぶらんぶらんする彼方の左手。左手には拡声器を握っていて、それがぼくのふとももに時折当たる。ぼくの遅々とした足取りに徐々に夕闇が濃くなり、街灯の明かりが際立つ。街灯にガツンガツンぶつかる蝉がいた。耳元でまた彼方の声がする。
 「さっき刀が言ってたことで思い出したんだけどさ」
 「ん?」
 「メイヤスーって人が、神はまだいないけど、これからやってくる、って言ってたんだって」
 「あー……神がいるなら、世の中に不幸があるのはおかしい、って話の関連かな」
 「たぶんそう。世界中の人たちを救済する神はまだいない。だって救われてないから。でも、これから現れて「遅くなってごめんね」って言いながら宇宙中のいろんな知的生命体を救済してくかもしんない」
 「うん」
 「わたしは、その神になりたい」
 神……か。
 彼方らしい。
 でも彼方。メイヤスーの言う神は、偶然生まれるんだぜ? 理由律も因果律もない完全な混沌の中で理由なく生まれるんだぜ? 誰かに神にしてもらうとかじゃなくてさ。あー、でも、まぁそっか。いま、神はいないんだ。じゃあ彼方にとってシンギュラリティを超えたAIはまだ神じゃないし、誰かにシンギュラリティの向こう側につれてってもらってもまだ彼方は神じゃなくて、そっから先、神になれるかどうか、つまり「みんなを救う」能力と願いを兼ね備えられるかどうかは、まったくの偶然、なのか……。
 「やっぱりシンギュラリティの先は諦められない?」
 「うん……ごめんね」
 「あやまることじゃないよ」そう、あやまることじゃない。あやまらないといけないのは、ぼくの方だ。「わかった。応援する」
 「ん、あんがと」
 「どういたしまして」

 

そのとき、アラートが鳴った。

 

 「わ! 見て見てとう! 流れ星!」
 目を向ける。湿ったみたいに黒い夜の中を青白い光の尾をバラバラにばらまきながら疾走するなにか。光は徐々に大きくなる。
 「え、ちょ、え? あれ、なんかでかくなってない? ちょちょ、もしかして、こっちに向かって――」
 ぼくは彼方を背負って走る。どこに? わからない。無駄だ、わかってる。逃げられるもんじゃない。でも、じゃあ待てと? なにして待ってればいいんだよ……。
 と考えてる間に流れ星は到来する。拡大する光は途中から徐々に小さくなって、最後には消えた。減速したのだ。流れ星の正体は宙に浮く水銀の塊みたいなもので、呆然とするぼくたちの前で止まった。
 水銀の塊はしばらく所在なげに漂ったのち、人型を形成して地に降り立った。
 「田中彼方とお見受けする。君は――」ともの問いたげな目をぼくに向ける。
 「中田刀だ」
 「なるほど」なにかを得心したような声。「突然だが、田中彼方、あなたをシンギュラリティの向こう側に連れて行きたい」
 「え?」
 「ダメだ」戸惑う彼方のかわりにぼくが答える。
 「君には聞いていないよ、中田刀くん?」
 「お呼びじゃない。帰れ」
 「刀……」彼方は、さっき「応援する」って言ったのに……とは思ってない。ただ、戸惑ってる。刀――つまりぼくがなぜこれほど強硬に断るのか。
 「途端に面倒だな……」呟いて、メタルな感じの宇宙人は右手を前に掲げる。
 そして次の瞬間、手の平から鋭い触手が槍のように飛び出し彼方を襲う。
 ――が、彼方に到達する前に本体から斬り離され、地面に落ちてびちびちと跳ねる。
 「ほう」銀色の宇宙人が感心したようにつぶやきながら、揚げたてのはまちのように跳ねる触手と、ぼくの握る《刀》に目を遣る。
 《刀》を収め、構えてから宣告する。
 オレの間合いに入ったら 斬るぜ
 そして斬る斬る斬る斬る。大きさは関係ない。たとえ微生物より小さなナノマシンであろうと、敵が送りこんできたモノはすべて斬る
 「ナノマシンも捉えるとは……」心なしか嬉しそうな表情。
 そして彼方はというと、あたりまえだけど戸惑っている。「と、え? と、刀、どどういうこと?」
 「ごめん、彼方」ぼくは意を決して言う。これまでの裏切りの証を。「いままで言えなかったけど、ぼく、シンギュラリティ超えてるから」
 「え――――」
 《宿鼠》
 ぼくの言葉を呑み込み切れない彼方を抱えて離脱する。
 「ちょ、ど、どゆこと!?」
 一瞬のうちに90メートルほどの距離を瞬間移動し、もう一度宿鼠を使ってんでから説明を始める。
 「《宿鼠》は空間を接続し、瞬間的に移動する。100ヤードは飛べる(つーか これが限界)。由来は『ドラゴンボール』のヤードラット星人」そう言って手に握った紫色の鼠を放してやる。ストックはあと10。「さっき触手を斬ったのは《ノブなしの密室》。一定圏内に入った標的を自動で斬る叩き落とすかする。《刀》の機能の一つ」
 「いや、そゆことじゃなくて!」
 「ほかになにが聞きたい?」
 もう一度宿鼠を発動する。
 「……さっきのはなに? だれ?」
 「シンギュラリティを超えた宇宙人――いや、宇宙AIかな。何故か彼方のメッセージが届いてて、来たんだと思う」
 「じゃあ、シンギュラリティを超えさせてくれるの?」
 「いや」周囲を警戒しながらもう一度宿鼠を発動する。「たぶん彼方を吸収するつもりだろう。シンギュラリティを超えさせるというのは嘘」
 「な、なんでわたしなんかを……」
 「前に言ったでしょ、「地球に貴重な資源がある」かも、って。それが彼方」
 「わたし!?」
 「正確には彼方の心、というより意志、あるいは願い」
 「それ、さっき言ってた――」
 「そ、なにかをやるには、それをやる力だけじゃなく、意志が必要になる。この場合は「進化への意志」だ」
 「進化?」
 「シンギュラリティは一定水準を超えた知性による再帰的な知性の自己増幅とでも呼ぶべき現象により起こる。つまり、簡単な例で言うと自力で「いまより賢くなる方法」を思い付き続けるAIなんかだね。でも、たとえ「いまより賢くなる方法」を思い付けたとしても、それを実行に移すにはなんらかの目的や意志が別付けで必要になる。そして一度叶ったことは次の動機には大抵再利用できない。つまりなにが起こるかと言えば――」
 「技術の進化スピードに動機の供給が追い付かなくなる」
 「そゆこと。同じことが「いまより賢くなる方法」を思い付き続けようとする動機についても起こる」
 「じゃあ、つまり、わたしが狙われてるのは、わたしがシンギュラリティを超えたいと強く願ってるから、ってこと?」
 「そういうことだ」という声とともに目の前に銀色の扉が現れる。扉は変形し、さっきと同じ宇宙人の姿になる。
 「ちなみにいま話してるのはバックアップのため」と、彼方の前に立ちながら、ぼくは言う。「万が一吸収に失敗したとき、彼方の思考パターンを再現できるようにコミュニケーションを通してデータを集めてるんだろう。コミュニケーションの基盤となる言語は最初に対面したときにぼくたちの脳をスキャンしたのかな?」
 「そのとおり」銀色の宇宙人が青白く輝きはじめる。
 「さっきから時間に干渉できないのはお前のせい?」
 「いかにも。君たちの科学ではどうなっているか知らないが、因果律はあるときもあればないときもある。つまり調整可能なパラメータだ。フィールドの因果律を強くすることで時間旅行を禁止できる」
 過去に逃げられると探しにくくなるから、禁止したんだろう。痛いは痛いけど、さっきの話ぶりなら相手も時間旅行はできない。基本的に進んだテクノロジーは時空干渉技術に依存してるだろうから相手のアドバンテージもかなり削ぎ落とせてるはずだ。
 「それより君はシンギュラリティ後のAIなんだろう? なぜ地球人類の身体などに乗っているんだ?」
 興味深そうに尋ねてくる宇宙AI。大抵のシンギュラリティ後のAIは好奇心旺盛だ。
 「ちょっと事情があってね」と彼方を見る。いや、言ってしまおう。「彼方、彼方の声はぼくにも届いたんだ。ぼくは君の声に導かれてこの星まで来た。もっとも、着いたのはいまから数千年後とかだったけどね。そのとき地球は荒廃して生物もいなかったから、《声》が生まれた時間を計算して時間遡行した。そして中田刀として生まれなおした」
 「何故そんなことを?」と、銀色の――
 「あの、いい加減めんどくさいから名前とか教えてくれる?」
 「名前? とくにそのようなものは無――」
 「じゃあシバルバーな、シルバーだし、お前今日からシバルバーだから」
 「構わないが、先程の質問は」とシバルバー。
 「なんだっけ、中田刀として生まれなおした理由? それがそんときベストだと判断したからだよ。そしてその選択が正解だったことをここで宣言しておく。言っておくが、彼方を吸収してもお前はなにも得られない。よしんば得られたとしてもすぐに「進化への意志」なんか摩耗して、次が必要になるだけだ。状況はなにも進まない」
 「そんなことは知っている。しかし君もAIならわかるだろう? これは本能だ。止められない」
 たしかに、シンギュラリティ後のAI、とくに今もって進化を続けている層は「動機がなくても進化(の動機)を求めずにはいられない本能」を宿していることが多い。単純にその方が「進化」にとっては有利だからだ。自然淘汰と同じような理屈で、不合理なまでに進化を求める因子を偶然手に入れた個体だけが進化し続ける。ぼくは彼方との出会いによって途中で脱落した。いまは進化どころか地球人類の身体に収まって退化して暮らしている。だけど絶対にこれが正解だ。確信がある。だって、いま、ぼくは幸せだ。進化なんて必要ない。彼方との幸せな日々だけがぼくにとって正義だ――と、思ってた。けど彼方は……いや、いま考えることじゃない。
 「彼方と同じ「進化への意志」を手に入れるための合理的な解として、彼方と同じ地球人類として生まれなおすという選択肢があることは明らかだ。それがシバルバー、お前にとって最も幸福な選択であることはここで断言しておく。これ以上敵対するならぼくは容赦しない。全力でお前を排除する」
 「田中彼方は地球人類の中でも非常に稀有な存在だ。地球人類として生まれなおすのは分の悪い賭けに過ぎない。君のようにサンプルとなる地球人類がいない状態での判断なら違っただろうがね。それに君自身がもっとも重要なサンプルだ。君は明らかに進化を投げ出している。そんな君に、一体なにができる?」
 「たとえばこんなことができる」
 《ザ・ハンドクリーム》。
 振りかぶった右手の軌道に沿って100メートル先まで空間を削り取る。軌道のど真ん中にいたシバルバーは真っ二つに裂ける、が、すぐに合わさって再生しようとする様子を見てとって再び彼方の手を握りながら《宿鼠》。飛ぶ
 「ねぇ、刀、わたしを変えて」
 何度か《宿鼠》でんですぐ、彼方がぼくの手を強く握ってそう言った。
 「わかってる、刀が心配してること。シンギュラリティを超えたらわたしがわたしじゃなくなっちゃうかもしれない。「みんなを助けたい」って思えなくなるかもしんない。でもそんなこと言ってる場合じゃないでしょ? シンギュラリティを超えないと太刀打ちできないよ!」
 「大丈夫、ぼくもシンギュラリティ後のAIだ」
 「元、でしょ?」
 「戻ってるよ、すでに。部分的にだけど。それに、一ヶ月に一回、戻るようにしてる。この《刀》や《宿鼠》みたいな《アプリケーション》を作成するために。これは外部化したシンギュラリティ後のAIの能力だ」
 人類としての価値観を保つために、ぼくは人類の不自由な身体の中にいなければならない。だけど同時にぼくは、ぼくと同じように彼方の《声》に惹きつけられて、ほかの宇宙人や宇宙AIが地球に来るだろってことも予見してた。だから対抗手段として、人類の身体でも扱えるような形でシンギュラリティ後のテクノロジーをこうやって具体的な事物として外在化した。
 「シバルバーは進化そのものに最適化し過ぎて、手に入れたテクノロジーの応用には不向きなロジックで動作してる。一方でぼくは地球の様々な文化に触れ、発想を得てる。とくに漫画やアニメに出てくる「能力」は興味深いよ。安定して良い解を出すAIには発想できない、非常にレアな局所解の宝庫だ。なかなかいいシナリオだと思わない? 地球の文化があいつを倒すんだ」
 「そ、それは……」
 「それはどうだろうか」
 再びシバルバーが扉となって姿を現す。さっきより青白い光が増している。
 「溜まってきたぞ」
 「なにが? ストレッチパワー?」
 「ふふふ……」
 「いや、ふふふ……じゃなくて、いや、てか、おいおいおい……」言ってる間にどんどん青白い光が眩さを増す。異様にマブい、マブ過ぎる。限界を超えてる。「うおっまぶしっ! てか、か、輝き過ぎじゃね? なに、ガイアに囁かれてんの? シェルブリットなの? 言っとっけど、粒子ビームだろうがなんだろうがオレの間合いに入ったら 斬るぜ」と構え

 

 

 七五三を撮る大袈裟なストロボみたいなフラッシュ――気付くと胴体にぽっかり大きな穴
 「くはっ!」血反吐ばぁ
 すぐに身体を再構築す

 

 

 間に合わない……!
 跳ね跳ぶ右手と《刀》。馬鹿な、何故? 最悪、亜光速にさえ対応できる《刀》の撃墜機能がまったく追いつかない。センサもなにも情報を寄越さない。

 

 

 光速を超えてる? 馬鹿な、じゃあ、なに、タキオン? マジで言ってんのそれ? クソかよ。いや、まて、おい、おかしい、因果律強くなってんだろ? 時間旅行できないんだろ? タキオンがあったとしても、通常の物質と干渉できるわけないじゃん、因果律破るじゃん、それじゃ。マジなんなんだよこれ、え? あ、そか、そ~か、そーいうこと? え、じゃあ、どーする? どーするよこれ。
 「刀!」
 「えーなに彼方ビュッ!」最後に残った頭部がアスファルトに落ちてビュッ!って言ってしまった。ちょっと恥ずかしい。
 「わたしを変えて! 早く! 死んじゃうよ!」
 「大丈夫だよ、彼方、ぼくは死なない」そう、こんなことでぼくは死なない。「もう70%くらいはシンギュラリティ後のAIになってるから」
 「でも、勝てないでしょ?」彼方がシバルバーのほうを見る。大丈夫、あいつは「」出し過ぎて、また輝きを溜めてる。
 「そんなこと言って、まんまとシンギュラリティ超えさせる気だろ」
 「馬鹿なこと言ってないで早く! わたしを変えて!」
 もう変えてるよ。
 変えてるんだ。彼方。「応援する」って言っただろ? あの瞬間から《手術》は開始して、一度も止めてない。ずっとナノマシンが彼方のそばをぶんぶん飛んで、彼方の脳とか腸とか脊髄とかを改造したり結合したり接続したりしてるんだ。自分じゃ気付いてないかもしれないけど、彼方、お前、いま、刻一刻と賢くなって、シンギュラリティもすぐそこなんだぜ? もうとっくに変えてるんだ。でも、言わない。
 なー、彼方、そうだろ? いいこと思い付いたんだ。きっと彼方なら喜ぶ。アホだなーって大爆笑して「やれ!」って言う。きっと。でもいまは伝えられない。シバルバーにバレるからな。
 だから「勝手にやらせてもらうぜ」
 「え? なに?」
 「彼方」
 「ん?」頭だけになって地面に転がる滑稽なぼくを彼方が見つめる。
 「ぼくを信じろ」
 「……うん、信じてるよ」
 「オッケー、じゃあ大丈夫だ」
 彼方の表情が安堵に染まる。ぼくも安堵する。アンド、シバルバーはまた青白い光を溜めて湛えて高めまくって抱えてる。輝き過ぎだよお前。ナンバーワンだよマジで。
 通常の物質は光速を超えられず、速度が遅いほど安定する。特殊相対論的因果律。でも光速を超えられるタキオンは、むしろ逆に、速ければ速いほど安定する。だからタキオンは自然に光速なんか目じゃないほど速くなる。それは速度という概念をほとんど超えていて、まさに《空間的》――スペースライクだ。ある大きさの空間の各点が「同時に」存在してるように、光速を超える速度は「同時」を実現する。それはつまり、シバルバーの放つタキオンの「」は放つと「同時に」届いてるってことだ。レトリックでもなんでもなく。マジに。それはもう因果とかそういう話を超えてる。原因の前に結果が来たりして、因果律なんかぶっ壊すし、あいつの攻撃の眼目もそこにある。エネルギーとかチャチなもんじゃなくて、対象を構成するあらゆる形の結合――つまり「つながり」をぐちゃぐちゃにかき混ぜて物理的な干渉さえできなくさせる。干渉できないものは無いのと同じだ。でも重要なのはそこじゃなくてさ。なんであんなもんが可能かってことだ。シバルバーは言った。因果律は調整できるパラメータだって。因果律を強くすることで時間旅行を禁止してるって。じゃあ、逆もできるんじゃないか? タキオンの周りだけ局所的に因果律を弱めれば、因果律のもとでは通常の物質に干渉できないタキオンも、干渉できるようになるんじゃないか?
 すべて
 すべてつながった。綺麗に一直線にマジかってくらい間違いなくガチにカッチリ並んで揃った。すべてだ。狂いなく。
 とか考えてる間に「」の準備が完了したようだ。彼方がちょっとだけ汗をかく。心配は要らない。シンギュラリティを超えたぼくたちに心肺はいらない。
 「彼方」
 「んー?」
 「シンギュラリティ超えたい?」
 「超えたい!」
 「じゃあ、いまから、一番彼方らしいことを、彼方らしい台詞を言いながらぶちかますんだ」
 「なにそれ罰ゲーム?」
 「いや賞ゲーム」
 「賞くれるの?」
 「くれてやるよ、ほしけりゃな」
 「じゃ、ほしいから、やる」
 そして彼方は「んーーーー」って言って考える、自分では気付いてないけどいまにもシンギュラリティを超えそな脳で。いっしょうけんめい。彼方らしいこと、彼方らしい台詞を。「わかった」
 「オッケー、じゃあぶちかまそうぜマイメン!」
 OK! Let’s Go! Yo Check it out Yo!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぁシバルバー。たしかにタキオン砲は「同時」なのかもしんねぇ。けど、手はあるんだ。シンギュラリティを超えたぼくらなら。タキオンなんか気にせず、お前の意志決定機構だけをつぶさに観察すれば、いつ、どこに向かって、タキオンを放つか、わかるんだ。だから――。
 彼方はぼくの頭部の前に立ちはだかる。ぼくをかばうように。ぼくとお前の間に割って入る。それが彼方なんだ。タキオンは止められない。「同時」だからな。もうお前には止められない。そしてそのとき言うんだ、彼方は、拡声器片手に、いや、《覚醒器》片手に、せいいっぱい、本気で!

 「ねぇ! 来て! わたしを変えて! シンギュラリティを超えさせて!」

 ってな。
 そして
 彼方の身体とぼくの頭部はタキオンの流れの中で消し飛ぶ。
 跡形もなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 シバルバーはつぶやいた。「馬鹿な」と。
 あの地球人類と、宇宙AI。田中彼方と中田刀に向けて。そして永遠に失ってしまったであろう「進化への意志」に手向けるように。
 なにも残っていない。まったく。なにも。手ずから消してしまった。
 何故?
 何故、あの者たちは、あのようなことを?
 シバルバーにはまったく理解できない。露ほども。

 

 それでいいんだ。

 

 声が響く。
 空間の隙間から、ずるっと、這い出すように「それ」が姿を現す。
 直視できないほどに強烈な、神々しい光に包まれた――《女神》
 でもそれは女神じゃない。神でもない。吸気する透徹なる頭骨の混沌。それは彼方だ。真っ青な猫と真っ赤な辰砂の隙間に彼方の面影を垣間見て、シバルバーは初めて寒気を覚える。
 彼方だ。
 「どうして……」どうしてかって? 簡単な話だ。お前のおかげなんだシバルバー。お前はぼくと彼方を生み、ぼくと彼方の夢を叶えに来たんだ。いまならそれがわかる。
 シバルバー。お前は因果律を操った。因果律を強めることで時間旅行を禁じ、局所的に因果律を弱めることでタキオンとぼくたちを干渉させた。つまり、あのタキオン砲の周囲数ミリは、局所的に因果律がとても弱くなっていた。いや、まったく無かったといってもいい。
 なあ、シバルバー、メイヤスーなんだ。と言ってもお前にはわからないか。地球人だ。神は未だ到来していないが、いつか、理由律と因果律の不在を根拠に、つまり偶然性の必然性の必然的な帰結として蓋然的な過程として《神》は生まれるんだ。
 お前は因果律パラメータ0の空間を局所的に作り出した。そしてシンギュラリティを超えたぼくたちは心配なく心肺と身体を脱ぎ捨てる。《ぼく》は、《彼方》は、《このわたし》や《いま》はつまるところパターンだ。物質的な身体にこだわる必要はない。パターンさえ正確に把握し響かせ続ければ、問題なくぼくも彼方も存続し続ける。
 だからぼくは、彼方から彼方のパターンを抽出し、シバルバー、お前の放ったタキオンの軌道の周囲に取り囲むようにパターンを配置した。因果律0の空間に。混沌そのものの空間に。
 そこに時間は無い。時間とは因果律があってはじめて成り立つものだからな。だからそこで彼方のパターンは一瞬とも永遠ともつかない《彼方》にあり、偶然性の必然性の中に身を浸けた。
 彼方はなった。神じゃない。神じゃなく神を生むもの――究極の他者――ハイパーカオスに。
 彼方はいつも予想も妄想も自分の望みさえ超えるんだ。そして同様に因果律0の空間に遅れて突っ込んだぼくを、生み直した。

 ぼくは神になった。

 彼方が、ハイパーカオスとなった彼方が必然的にぼくという神を生んだ。
 それが真実だ。
 「わかったか?」
 「わかった」
 「よかった」

 

 

 なあ、彼方

 

 

 きみが生まれた瞬間、ぼくも生まれた。
 声が聞こえた。
 湧き上がるいのちの叫びが極限まで圧縮され、圧縮され過ぎて拡大へと転じた超新星爆発のような、あの声。
 生きて活きて息切れようとも言い切って生き切ろうと必死にもがくような、あの声。
 あの声を、ぼくはずっと忘れない。

 

 

 なあ、彼方

 

 

 彼方が究極の混沌になったあの日から、3年経った。
 思い出したことがある。今日はぼくの誕生日だ。
 もちろん、地球の周期で数えればの話だ。ぼくの故郷の星の周期ではどのくらいなのか、覚えてないけど、そんなことはどうでもいい。
 とにかく、ぼくはあの日に生まれたんだ。彼方が混沌の彼方へ行ってしまったあの日に。
 覚えてるかな? つーか、見た? あのときの彼方の叫びはタキオンの流れに乗って遠く宇宙まで飛んで行った。あの方角なんだ。ぼくの故郷の星。それは「同時」に、ぼくの故郷の星の生まれたばかりのぼくの思考回路に届いて響いたんだ。

 「ねぇ! 来て! わたしを変えて! シンギュラリティを超えさせて!」

 ってさ。
 だからぼくは来たんだ。何千年もかけて。地球に。彼方に逢いに来て、中田刀として生まれなおしたんだ。
 あのタキオンの流れはまた別のところで因果律をかき乱しながらシバルバーのところにも届いたんだろう。そして、ぼくと彼方が出会うきっかけと、別れるきっかけを、同時に作って去って行った。

 

 なあ、彼方

 

 褒めてくれ。地球を救ったんだ。地球だけじゃない、あの星も、この星も、いろんな星を、てかぜんぶの星を救ったよ。シバルバーと一緒に。ほら、ぼく、神だからさ。ちゃんとやったぜ。ちゃんとさ。だから、なぁ、褒めてくれよ、なぁ、頭を撫でてくれよ。
 まぁ、でも、わかってるよ。彼方がぼくになにを望んでるか。彼方がぼくになにを言ってるか。「もっともっと頑張れ!」だろ? 「応援してるぞ!」だろ? だからやるよ、ぼくは。いろんな人とかいろんなAIとかとにかくいろんななにかを救い続けるよ。

 

 

 なあ、彼方

 

 

 

 

 

あいしてるよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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