梗 概
ゆで卵は立たない
アメリカ大統領のロナルド・ハンプティは、集会のたびに、ゆで卵をいかに早く立てるかを競う” We can stand ! “ と呼ばれる大会を開催していた。参加者たちが口々に「不可能だ!」と叫ぶと、ハンプティが卵を二つ手に取り、壇上に上る。まず一つを、底を割って立たせた後、「これはペテンだ」と述べる。次に、もう一つの卵をそのままの形で立たせ、「私は、不可能を可能にする、正しい方法で」と言い、喝さいを浴びる。
しかしハンプティは、スペイン語系の民主党候補アル・ダンプティに大差で敗れる。ダンプティは、ゆで卵を手に「完璧な白人」と発言したダンプティを、徹底的に批判した。ハンプティが敗戦の弁ののち、ゆで卵を空高く放り投げると、卵は空中で消える。「この卵は、4年後、正しくない者の額を割るだろう」という言葉とともに。
上記大会もすっかり忘れ去られた頃、12歳だったウーボは、校庭にゆで卵を立て始める。ゆで卵は何十、何百と増え、笑顔でゆで卵を並べるウーボの様子は動画サイトで拡散され、ウーボはエッグ・ボーイと呼ばれちょっとした有名人になる。ウーボにとって同じスペイン語系のダンプティは英雄であった。ウーボはハンプティが投げた卵が直撃するのを防ぐため、消えた卵の行方を探していた。
高等課程に進んだウーボは、懇意になった物理の教師ルアンに、卵が消えたのは時空のひずみを捉えたからだ、との仮説を披露する。ウーボの説明によれば、卵ほどの大きさの時空のひずみ(スポット)がランダムに発生しており、卵の中に収まった場合には卵の動きが止まり、ひずみが卵より大きい場合には、卵は現在の時間・空間から消える。
ウーボは、ハンプティが投げた卵は、時空のひずみを飛び石にしながら、過去を遡り、再び現在に戻ってくると考えていた。そんなときウーボはハンプティの幼少期の映像に、彼が卵を投げて遊んでいる姿を見つける。ウーボは幼いハンプティが見つけたひずみと現在のひずみが連なっていると推測する。
ウーボは、ゆで卵を使って時空のひずみ(スポット)を捕まえる様子を、動画サイトに投稿する。かつてのエッグ・ボーイたるウーボが次々とルアンに卵をぶつける(時々卵が消える)様子が受け、” We can catch ! “ という遊びとして瞬く間に流行する。
街では老若男女が卵を空中に投げる中、大統領選が近づく。“~catch ! “ はダンプティのスローガンにも利用され、党大会は無数の卵が飛び交う混とんとしたものになる。
“~catch”の流行により、卵が消えた(現れた)という情報が大量に集まるようになったが、法則性を発見するには至らず、ウーボは焦っていた。ウーボは4年前のハンプティの映像を見直す。そして、投げられた卵は、投げられたと同時にハンプティの手の中に戻っていたとの結論に達する。スポットの連なりは円環状=卵形の楕円を構成していた。ハンプティは4年前の時点で賭けに敗れていたのだ。ウーボは慌てて大会会場へ向かう、祝いの卵をダンプティにぶつけるために。
文字数:1241
内容に関するアピール
遊びは、スポーツであれゲームであれ、容易に意味づけされ、合理化され、時には政治的に利用されます。逆に政治的運動(大統領選)であれ、科学的な探求(時空のひずみを発見する)であれ、熱狂、熱中することで、当初の目的を忘却し、不合理な遊びに転化します。本作は、ゆで卵が大統領候補の頭にぶつかるか否かといった、傍からみるとどうでもいいことを合理的に追及しているつもりの少年と、遊びを様々な目的に利用する人々と、ただ流行に乗って遊ぶその他大勢の人々が入り乱れるお話です。
本作はタイムトラベルものでもありますが、現れる時空のひずみは、大きさは卵約1個分で、どこに現れるかもわかりません。スポットの数は、ハンプティの幼少期から確実に増加しており、地球全体に影響が及ぶことがウーボの幼い検証によって暗示されます。しかし科学者は相手にせず、ウーボも、遊びに熱狂する人々も、そこまでの影響を見通すことはできていません。彼らは地球全体がスポットにのみ込まれる瞬間まで、卵を投げ続けているのです。
文字数:435
ゆで卵は立たない
プロローグ
その日、手に入れたばかりの車、他の誰のものでもない自分の車で、ハイウェイを走っていた。中古車だけど、仕方ない。デートの待ち合わせ場所へ向かっているというだけで、気分は最高だ。空には、雲一つない。ラジオではわが州の上院議員がだみ声で合衆国の危機について力説しているが、力強いジャズの演奏に聞こえる。
そんな日は、小さいけれど不思議なことが起こるものだ。空だったはずの助手席に、一つの卵が乗っかっていた。窓は開け放しだったけど、並走する車なんてなかった。両側は赤茶けた大地で、悪戯好きのガキが潜む場所はない。何度か確認したが、卵はまだある。車を止め、卵を手にとった。
感触からして、ゆで卵のようだ。大きさのわりに、少し重い。黄身が大きいのか。さすがに食べる気にはなれないが、捨てるのも気が引けた。彼女への手土産にしては、しょぼくれている。どう処理すべきか迷っていると、卵が小さく揺れた。まさか生き物が入っているのか?怖くなって、結局路肩に置き去りにした。何だったのだろう。彼女に会ったら、早速この不思議な話をしてやろう。待て、初回のデートでゆで卵の話なんて聞きたいか?
頭が軽く混乱する一方、胃は猛烈にスクランブルエッグを欲していた。まだ時間はある。ダイナーを探すため、再び車を走らせた。
第1幕 卵の長官の話
1 卵の親父と大統領
みなさま、卵の長官という仕事をご存知でしょうか?私は知りませんでした。では、初代卵の長官が誰だか知っておられる方は…いませんね。
私です、私が初代卵の長官なのです。びっくりしましたか?
私の名前は…仮にH.D.としておきましょう。なぜなら、名前で呼ばれることはほとんどないからです。大統領からは卵の親父、もしくは単に親父と呼ばれていますし、大統領周辺の人間もそれに従っています。
「親父」
大統領がお呼びです。
「何でしょうか?」
「明日の集会の準備のことだが」
「抜かりはありません」
「卵は何個くらい使う?」
「約3万個です」
「壮観だな」
卵の長官の仕事は、大統領周辺の卵に関する一切を取り仕切ることです。卵に関する一切とは、例えば大統領に命じられたら即座に目玉焼きを焼く、スクランブルドエッグをかき混ぜる、ゆで卵をつくる。大統領は、1日3食、必ず卵料理を召し上がります。目玉焼きはサニーサイドアップ、スクランブルドエッグはミルクたっぷり、ゆで卵は固ゆでがお好みです。晩さん会等の際には、メニューが決まっているため、就寝前に卵料理を用意します。
「親父さん、会場の設営は今夜からで大丈夫ですか?」
大統領補佐官のボールです。次席補佐官ですが、有望株でイケメンです。でも、卵に関する話なら、私が上司です。
「大丈夫だろう。天気が心配だな」
「予報では曇りですね」
「一応、テントも用意しておいてくれ。キャッチコピーが入ったやつだ」
「分かりました」
翌日は見事に晴れ上がり、春とは思えないほど高く見える青空でした。集会が行われるフロリダ州ジャクソンビルの公園には、4万人を超える支持者が集まる予定です。演壇、関係者席、マスコミ用のスペースに加えて、演壇から見える場所に、大量のテーブルを並べます。
テーブルは木製で、大人用と子ども用の2種類があります。表面がフラットであることが大切です。集会は午前11時から行われるので、早朝から選挙スタッフ総出でテーブルにゆで卵を並べてゆきます。卵はテーブルの縁を一周するように置いて、卵の前に番号札を貼り付けます。
ゆで卵は固ゆでで、予め立たないことを確認しておきます。立たないことが重要なのです。とはいえ、参加者がトライしたら、立っちゃったということもままあります。子どもがズルをすることだってあります(小石や土を板の継ぎ目に入れるとか)。でも「大統領とどっちが早いかな?」こう尋ねると、多くの子どもはにっこり笑って「大統領!」と答えてくれます。
午前10時、続々と会場に党員が集まってきます。子どもたちは我先にと“ We can stand !“の会場へと向かい、自分の番号を探します。党員でもある保護者は、子どもたちをスタッフに預け、自分の番号の席に座ります。同じテーブルの党員と交流を深め、政治的連帯感を醸成するのです。大人は、真剣にゆで卵を立てようとする人もいますが、すぐに食べちゃう人もいます。塩を各テーブルに用意してあるのがいけないのかもしれません。
子どもたちは、念を送るように卵の両側に掌を向けてスタートの合図を待ちます。ピストルの合図とともに、千人以上の子どもたちが、ゆで卵を立てようと様々な策を弄します。
「立ったよ」
「すごいね。じゃあ、指を卵から離してごらん」
「持ってないよ」
「本当に?」
「本当だもん」
こんな子には、微笑みながら” Good Job ! “ と書かれたたすきをかけてあげます。でも、多くの子どもたちは口々に「できっこない!」と言って癇癪を起してしまう。すると保護者もいっしょになって口々に「不可能だ」「ゆで卵を立てるなんて人間業じゃない!」と叫ぶのです。
フラストレーションが最高潮に達したとき、縦長の会場の一番奥から、ハンプティ大統領が現れます。「不可能だ」という怒りは、一斉に大統領を呼ぶ声に変わります。「ハンプティ!」コールの中を大統領はゆっくりと演壇に向かい、途中で子どもたちと握手を交わしつつ、演壇で使用する卵を探します。どの卵でも良いのですが、苦労して卵を立てようとしている子ども、立てられなくて泣いている子どもだとなお良い。
「私に、その卵を貸してくれるかい?」
大統領は卵を受け取ると、元気に駆け出し、一気に登壇します。聴衆を見渡し、喝采が落ち着くのを待ってから、一度高々と卵を見せます。ただし、ほとんどの聴衆は巨大なスクリーンを見ています。
「みなさん、卵を立てることはできましたか?食べちゃだめですよ」
ややウケです。
「ここにいる賢明な共和党員のみなさんは、現在のアメリカが未曽有の危機にあることをお分かりいただけるかと思います…」
演説が始まると、演壇に近い聴衆は真剣に聞き入り、拍手や口笛で盛り上げます。一方、卵が並べられたテーブルでは親子がいっしょになって卵を立てたり、投げたり、子ども同士でぶつけあって泣いたり、色々です。
「しかし、もし私が大統領でなかったら…」
私は会場を見て回ります。テロ対策はプロに任せますが、マスコミが定位置をはみ出していないか、チェックします。最近は、ドキュメンタリー作家を名乗る男が会場をうろうろしていることもあります。業界では有名人のようですが、見つけたらカメラを没収してやります。
会場の様子を歩いて確認していると、ふと一人の少年の姿が目に入りました。少年は8~10歳くらいでしょうか、肌の色からスペイン語系と思われます。周囲に保護者の姿はなく、1人で卵を立てようとしています。それも1つではなく、3つ、4つ、他の子が捨てた卵を集めているようです。
「上手くいった?」
私は少年の隣に屈み込んで尋ねました。少年は私の方を向くことなく、首を横に振りました。気温はそれほど高くないのに、マーヴェルヒーローがプリントされたTシャツは汗でびっしょりです。
「お父さん、お母さんはどこにいるの?」
「来てない。民主党員だから」
民主党員、と言った少年の口調は強めで、あくまで私と目を合わせようとしません。
「労働力を確保しつつ、移民の流入を抑える、これは不可能なことでしょうか?不法移民には厳しく対処しつつ、多様性のあるアメリカを世界へ発信する、これは間違ったことでしょうか?」
よく見ると、少年は一つの卵を立たせようというよりも、どれが立つかを見極めようとしているようでした。立てる場所もちょっとずつずらしている。私が少年に気を取られているうちに、演説は佳境に入っていました。
「私は不可能を可能にする、正しいやり方で」
会場の熱気が最高潮に達したところで、大統領は先ほど任意に選んだ卵を右手に持ち、高々と掲げます。左手には、会場にあるテーブルを模した手のひらサイズの板。板を持ち上げ、卵を少しずつ下げていき、両者が接したところで卵をもつ手を離します。
ゆで卵が立つと、爆発的な拍手と歓声が会場を包みます。大統領が、立った卵をスクリーンンを通じて会場全体に見せ、途中で卵が倒れると、歓声は温かい笑い声に変わるのです。
「ズルしてる」
「え?」
少年の言葉に、私は思わず聞き返しました。
「大統領はズルしてる」
「どういうこと?」
「板に置く前に、卵が立っちゃってるもん」
“ We can stand! “ のパフォーマンスに対する批判は多くあります。トリックだという指摘が特に目立つでしょうか。まあ、批判も含めての注目度なので、大統領も私も意に介しません。ただ、少年の指摘はそれら野次馬の種明かしとは少し違っていました。
「どういうことだい?」
「大統領の卵は、空中でまっすぐ立つんだ」
「そりゃすごいね。板に立てるよりすごいじゃないか」
「でも、ズルはズルだよ」
少年は秘密に気づいたのか。私は少年の真意を量りかねていました。
「糸を使ったのかな?こうやって」
私はジェスチャーを交えておどけて見せましたが、私の仕草を見ることなく少年はこう言い放ちました。
「違うよ、大統領はゆで卵が立つ場所を知ってるんだ。だから僕もその場所を見つけて、大統領がズルしてるって証明する」
思わず、よく分かったねと言ってあげたくなりました。誤解のないように申し上げておきますが、大統領が特別な技術やトリックを使っているというわけではありません。大統領は、ちょっとしたコツを知っているのです。
少しだけ、昔話をさせてください。私はかつて、ロスアンゼルスにあるおんぼろダイナーの店主兼コックでした。料理の腕には自信がありましたが、世界中の料理が集まる街のなかで口コミサイトからも無視されているような店でした。私が一番自信をもっていたのが、卵料理です。だから私の店は朝食の時間が一番混み、夕方以降はさっぱりでした。ハンプティ大統領がさる下院議員の秘書をしていた頃、よく私の店に朝食を食べに来ていました。いつもスクランブルエッグとトーストを大急ぎで頬張り、慌ただしく議員事務所のあった向かいのビルへ駆けこんでいくのです。
ある日、いつも朝飯時にしか来ない彼が、閉店間際の23時ころに入ってきました。改選時期が近づいていたこともあり、連日深夜まで事務所に詰めているようでした。カウンターに座るなり、ジンライムを注文し、手で顔を覆いました。お食事は?と聞くと、何か適当にということだったので、私はシーザーサラダを作り始めました。ぼんやりと調理の過程を見ていた彼は、こう言いました。
「そのゆで卵、1つくれないか?」
私は意図をはかりかねたまま、サラダのために茹でた卵を、彼に渡しました。彼は右手でゆで卵を持ち、蛍光灯の光が充ちた空間をぐるぐる回していました。正確に言えば探していたのですが、当時の私には分かるはずもありません。やがて、席を離れ、他に客もいない店内をうろうろ歩きながら、「まだまだ」などと呟いています。
ともかく元気を取り戻したようだと見守っていると、急に立ち止まり、指を一本ずつ卵のから離していきます。
「どうだい親父、驚いたか?」
卵は空中に浮いていました。私はカウンターを飛び出し、間近で確認しましたが、糸など見当たりません。よく見ると卵は回転、振動していました。
「これは見事な手品ですね」
「手品じゃない。俺もタネを知らないんだから」
「どういうことですか?」
「よくわからないんだけど、卵が浮く場所があるんだよ」
本人もわからないまま説明しているので、私はもっとちんぷんかんぷんでした。
「どこにあるかって言われると、決まってないみたいなんだ。昨日浮いた場所でも、今日はダメみたいで、事務所の中にあるかと思えば、遊説先にあったりもする」
「自然現象ということですか?」
「どうなんだろう。俺もつい3か月前に見つけたばかりだから、研究中だね」
彼がそう言って笑うと、卵は唐突に見えなくなりました。
「あれ?」
「そう、消えることもあるんだ」
どこへ行ったんですかと問うのも馬鹿らしくなるほど、一瞬の出来事でした。私は彼が帰った後、小一時間、店内で卵が浮く場所を探しましたが、見つけることはできませんでした。
私が再び大統領に会ったのは、5年前のことです。25年の歳月を経て、彼は共和党の大統領候補に、私は同じ場所でダイナーを営んでいました。彼が数人の選挙スタッフとともに、私の店を訪れたのです。秘書をしていた議員の事務所が移転して以来、顔を合わせたことはありませんでした。
大統領は、かつてよりわずかに、いや、だいぶ態度が横柄になっていましたが、根本のところは変わっていませんでした。気さくで、シャイなのです。
大統領は、私に選挙スタッフになってくれないかと言いました。ボランティアスタッフくらいに考えていた私は、喜んでと返答しました。
「私が無事大統領に就任した暁には、君に長官になってほしいんだ」
「長官?」
「そう、私は君のことを大変買ってるんだよ」
「上院議員、大変ありがたいお言葉ですが、私は政治の世界のことなど何も…」
「いや、君は君にできることをしてくれればいいんだ」
その場で卵の長官を拝命した私は、早速ゆで卵をつくるよう命じられ、大統領はあっという間にそれを浮かせて見せました。
「お上手になられましたね」
「今もってなぜこうなるのかは、はっきりとは分からないんだがな。ただ、俺はこれを使って大統領選に勝つ」
その後大統領は数えきれないほどパフォーマンスを成功させ(多少は失敗もありましたが)、大統領の地位を得ました。
「おじいさん、どうしたの?」
もの思いに耽っていた私を、少年が真正面から見据えていました。
「いや、大統領がもう一度大統領になれるかな、と思って」
「難しいだろうね」
少年の口調は、既に確認された事実、あるいは普遍の真理を語っているようでした。
2 消えた卵
少年の言ったとおり、ハンプティ大統領は再選を果たすことができませんでした。民主党候補アル・ダンプティ上院議員が、増え続けるスペイン語系移民の支持を背景に、レッドステートと呼ばれる共和党有利の各州で、次々と選挙人を獲得したのです。ダンプティ氏自身スペイン語系で、アメリカの歴史上意義深い当選ではありました。
もう一つの敗因として大統領の、「このゆで卵のように完璧な白人」という失言もありました。共和党は今や白人保守の党ではないのです。時代錯誤と言いましょうか、とにかく悪気はなかったんです。支持者を前にして、リップサービスが過ぎただけなのです。
ロナルドは復活のきっかけをつかむため、再び集会を開いております(大統領でも上院議員でもなくなったので、恐縮ですが呼び捨てにしております)。大統領は無理でも、連邦議会には席を得たい、といったところでしょうか。
寂しい話ですが、集会の参加者は数百人、ときには数十人ということもあります。参加者の大半がアンチ・ハンプティという地域もあり、ロナルドは少々ヤケになっております。
「私は大統領になる前から、卵を立て続けてきました。不可能を可能にする、これは今でも変わらない、私の信念です。ただ一つ違うのは、手段を選ばない、ということです」
力強く言い切ると、ロナルドは卵を板に立てるのではなく、空中に放り投げます。すると、卵が空中で消えたのです。
「この卵は4年後、正しくない者の額を撃ち抜くだろう」
正しくない者とは、もちろんダンプティ大統領のことです。私はこのとき、大統領の表情に、語気に、今までにない切迫感を読み取りました。何か恐ろしいことを考えていなければよいのに、と。
「撃ち抜く」とはどういう意味でしょう?ゆで卵が額に当ったとしても、卵が割れるだけのはずです。さっき大統領が投げた卵は、私が用意したものなのか。大統領は、私の手の届かないところに行ってしまったのではないか。例の自称ドキュメンタリー作家が会場にいたのも気がかりでした。
ロナルドの事務所は資金繰りが苦しくなり、スタッフが一人減り、二人減り、私も身の振り方を考えなければならなくなっておりました。貯金をはたいてまた店でもやるかと考えていたとき、あの少年に再会したのです。場所は、4年前と同じジャクソンビルの公園です。
少年は背も伸びて、顔つきも大人の男性に近づいていました。今は中等課程くらいでしょうか。声をかけたかったのですが、できませんでした。少年は公園の芝生に数百という卵を並べていたのです。ギャラリーが周囲を何重にも取り囲んでおり、ちょっとした有名人のようでした。どこか懐かしさを感じたのは、少年が卵を並べていた板がかつてロナルドの集会で使っていたものだったからなのかもしれません。
私は集会の準備も忘れ、少年の様子を遠巻きに眺めていました。野次馬は一様に動画を撮影し、ルートと呼ばれるSNSにアップしているようです。隣のカップルの画面をのぞき見すると「エッグ・ボーイ」というタイトルが付されていました。すごい勢いで拡散されているみたいです。
卵はきれいな正方形を構成し、一つ置くごとに各辺が均等に伸びていきます。あの日と同じ爽やかな陽光を受け、アート作品を制作しているようにも見えました。しかし、一つとして立っている卵はありません。
浜辺に砂の城をつくるように、少年は楽しそうに卵を並べています。四隅の一つに固定されたカメラは少年のものでしょう。自動制御で俯瞰とアップを繰り返しており、卵一つ一つの動きに目配りがされています。野次馬も遠慮なく画面をのぞき込んでいますが、倒れた卵が延々映っているだけなので、すぐに飽きてしまいます。
少年が何を追求しているのか、私には何となくわかります。だから、ロナルドが投げた卵の行方が彼の手によって明らかになるのではと期待してもいたのです。
「親父、何してる?」
振り返ると、ロナルドが立っていました。
「失礼しました。すぐに会場の準備に戻ります」
「これは、何のイベントだ?」
間の悪いことに、ロナルドが少年の遊びに興味を抱いたようです。
「さあ、私が来たときには既に人が集まっていたので」
「” We can stand !“ じゃないか…」
ロナルドは、見物客をかき分け、ずかずかと少年に歩み寄りました。足元に注意を払わないため、卵をいくつか蹴り飛ばしてしまいました。傍若無人とはこのことです。
「君、” We can stand! “ の会場はあっちだよ」
ジョークはウケなかったか、通じなかったか、いずれにしても場は一気に白けた雰囲気になりました。
「ロナルド・ハンプティだ」
お会いできて光栄です前大統領、と返してくれるとでも思ったのでしょうか。ロナルドが握手のために差し出した右手が痛々しく見えました。
「ハンプティさん、ゆで卵を立ててもらえませんか?」
ロナルドを無視すると思っていたので、少年のリクエストは少々意外でした。声変わりを経た少年の声は、落ち着いた印象を与えます。
「いいとも」
「これを使ってください」
少年が差し出したのは、ロナルドが演壇で使っていたものを模した同型の板でした。同じ公園で集会を開くロナルドが、自分のもとへ来ることを予想していたのでしょうか。ロナルドは上機嫌で板を受け取り、並べられた卵を取り上げました。
周囲の見物人にも見える位置に移動したロナルドに、少年が言い放ちました。
「無理ですよ」
「何だって?」
「かなり高い確率で、ハンプティさんがここで卵を立てることはできません。なぜなら、僕が並べた卵は一つも立っていないからです」
「君が卵を立てられないからといって、どうして私も失敗することになるのかね?」
ロナルドの言葉に含まれた怒気が、野次馬に緊張感を与えます。何だかもめ事が起こっているということで、どんどん人が集まって来ます。
「大事なのは、場所です。ハンプティさんが集会を開くのは、成功する確率が高い場所なのでしょう。ただすべては確率の問題なので、ここでも卵は立つかもしれません。だとしたら、僕の負けです」
「坊や、勝ち負けなんかどうだっていいんだよ。俺はとっくに負けてるんだから」
「じゃあ、さっきなぜダンプティ大統領を撃ち抜くために卵を投げたのですか?」
「何か勘違いをしているみたいだな。親父、行くぞ」
「はい」
不機嫌さをまき散らすロナルドとともに、私はその場を後にしました。ただロナルドも馬鹿ではありません。成功しても、失敗しても自分の利益にはならないと踏んだのでしょう。遠目に確認すると、少年は卵を並べる作業を再開していました。彼とはまたどこかで会う、そんな気がしてなりませんでした。
第2幕 卵の少年の話
1 卵の大冒険
「『僕は卵、数分前まで生卵で、今は固めに仕上がったゆで卵。本当ならあっという間にこの世界から消えてしまうところだけど、ごくまれに、別の世界へ行くことがあるんだ。空中に急に穴が開いて、そこへ吸い込まれる。穴が体の中に現れることもある。そうなると大変。目が回ってしかたない。もともとグラグラしている身だけど、穴が現れるとだいたい意識を失う。気づいたときには、磔にされたみたいにぴんと立ってるんだ。穴の大きさ次第で、卵の運命は変わる。
穴に吸い込まれた卵はどこへ?別の穴から飛び出す。時間も場所も異なる知らない世界に出てしまう。ただ何となく分かっているのは、行く先の世界が、今よりも前の時間だってこと。場所については、よく分からない。ただ飛び出した場所とあまり離れたところではないみたい。ここらあたりは、卵の限界かな…』
なるほど、卵の限界というより、君の調査の限界を感じるのだけれど」
「卵の気持になってみようと思って」
「疲れているのなら、少し休んだらどうだ?」
「いえ、大丈夫です」
僕の返答を聞くと、ルアン先生は呆れた表情で窓の外を見た。科学サークル「ニュートンの卵」の部室には、ひととおりの実験器具が揃っている。ただし現在は椅子や机が壁際に寄せられ、空いたスペースにはぎっしりと卵が並べられている。サークル名については、「~リンゴ」が良いと主張する部員が多数いたところを強引に「~卵」とした。そのため、部屋の前に描かれた卵の絵に、一本線を足してリンゴに変える悪戯が後を絶たない。
「雪のようなものが降っていた。綿花かもしれないし、石灰かもしれない。あー白いなあと思っているうちに次の場所へ移動する。もちろんそのまま地面、水面に落下して一生を終えることもあるけど、不思議と次の穴に飛び込んで、次の場所へ飛び出すこともある」
「スポットは、管状になっているということなのかい?」
「いえ、そうだとすれば全ての卵が戻ってくるはずです」
卵が消えたり現れたりする場所を、勝手にスポットと読んでいた。スポットが現れる場所は、現段階では予測できない。
「君の考えだと卵は一定の軌道上を通っているんだろ?」
「軌道上にスポットが点在しているイメージです」
ルアン先生と卵について話していると、自分が数十年のキャリアをもつ研究者であるような錯覚に陥る。同時に、ハンプティの集会で卵を並べていた幼い日から何も変わっていないようにも思える。かつてはハンプティの写真を見れば闘志が湧いてきたが、時折メディアに露出する姿を目にするたび、気持ちが萎えそうになる。老け込んだ元大統領が投げた卵を追う必要などあるのだろうか。
ルートの書き込みにもダンプティ大統領に関するコメントが増えている。初のスペイン語系大統領となったダンプティ氏は、43歳という若さと、長身、彫りの深い顔立ちによってマイノリティの若者や女性を中心に大きな支持を得ていた。相対する共和党候補の影は薄く、ダンプティ氏の再選は確実視されていた。
「ウーボ、模型は使わないのか?」
「今やります」
底面と二つの側面で構成した空間に、5本の細い支柱が置かれ、それぞれの先に卵の模型が取り付けられている。5つの卵は下に凸の放物線を描き、三面で構成された立体を横切る。同じ三面の立体を縦、横、奥行きの3辺に三つずつ配置する。「ニュートンの卵」の部屋に、異なる9つの空間が現れる。
「さて、今日も頭の体操といきますか」
卵はどこで消えるか分からない。だから、1つ目の空間は任意だ。支柱の長さを調節し、スポットに投げ込まれた角度を決定する。角度はその都度異なるが、放物線を描くというのが僕の考えだ。ある時間、場所で投げ上げられた卵は、スポットにのみ込まれ、その軌道を通って別の時間、場所へ移動する。現時点ではまだ、その仕組みを時空のひずみ、としか表現できていない。スポットは、多くが卵一個分の大きさであるため、出現する場所が拡大しているのか、分布がどのようになっているのか確認することは難しかった。ただ出現する頻度は増しているようだった。
「これ、折れてるぞ」
ルアン先生が折れた支柱を振って見せた。実のところ計算はコンピューターで行うため、模型など必要ない。だが気づけば卵をもって落下させている。別の時間、場所を表現するためにブックスタンドで「空間」をつくっている。キャンディーがなければ足し算を理解できない幼児のように、模型を動かして感覚を掴む必要があった。
「エッグ・ボーイ、いるか~」
同級生のガルシアとハーマンだった。大柄なガルシアの背中から、160センチ以上を自称するハーマンの声が聞こえた。
「何これ、ボロボロじゃん」
自分が呼びつけたのに、無遠慮に模型を持ち上げる二人への苛立ちが表情に出てしまった。
「忙しい中来てやったんだぜ、なあ?」
「俺は暇だったけどな」
素っ気なく返したガルシアを小突きながら、ハーマンは部屋を見て回っている。足元の卵をいくつも蹴り飛ばしているが、気にする様子はない。
「『僕が現れたのは、1600年代のニッポンのお屋敷、木製の床に軽く打ちつけられたが、何とか一命をとりとめた』。卵が喋ってるぞ?」
ハーマンは本当に不思議そうな顔をして、「卵の大冒険」が書かれたノートを読んでいた。
「この卵、俺たちより頭いいぞ」
「おまえといっしょにするな」
ハーマンは再びガルシアを小突いて、僕に尋ねた。
「で、俺たちはいつもどおりでいいんだな?」
「ウーボ、天気が悪くならないうちにやってしまおう」
作業が中途半端で不満そうな僕の表情を読み取ったのか、ルアン先生が促すように言った。
僕たちは、四方を校舎に囲まれた中庭に出た。ガルシアには静止画を、ハーマンには動画の撮影を依頼する。「卵の大冒険」と題された僕のサイトでは、スポットの秘密を探る実験の過程を様々な方法で紹介していた。アクセス数が伸びているのは、サイトと同名のショートストーリー、写真、動画を組み合わせているから、と言いたいところだが違う。
「もういいかい?」
準備が整うと、僕とルアン先生は20メートルほど離れ、キャッチボールをするときのように向かい合う。そして卵を投げ上げる。お互い相手にぶつけるつもりはないが、時々ぶつかる。生卵だから割れる、割れると顔が卵液まみれになる。
これがウケるのだ、なぜか。動画の再生数は既に3000万回を突破し、写真はルート上で拡散され、「卵の大冒険」は出版されたわけでもないのに、数えきれないほどの二次創作を生んだ。スポットを調査する過程で得たデータを公開していたときは、反響など皆無だった。エッグボーイというニックネームを覚えている者などいなかった。
ルアン先生と卵を投げていたのも、スポットが現れないか確かめるためだった。当然ゆで卵を使っていたのだが、ある日手違いで生卵を使ってしまい、それがウケてしまった。卵をぶつける動画なんかたくさんあるじゃないかと思ったが、ふんわり投げ上げた卵が放物線を描いて相手の顔に落下してくるのが面白いらしい。思えば、かつてエッグボーイと呼ばれたときも、僕自身の意図とは別に、大量に卵を並べている姿がウケをとったのだった。
「卵は並べるものじゃない、食べる投げるものだ!」
かつてのエッグボーイに対する愛にあふれたコメントの数々に、最初は反発を覚えたが、PRに利用するのが得策だと考えるに至った。入り口は生卵のぶつけ合いでも、スポットに関心を抱いてくれる人が出てくるかもしれない。ただ今のところ、卵が消える瞬間を捉えた方の動画は、やらせ、加工のレッテルを貼られ、顧みられてはいない。
「おい、疲れてきたからそろそろぶつけてくれよ」
ハーマンの心ないリクエストは、動画を視聴する人々の声を代弁したものだろう。僕は、ささやかな抵抗ではあったが、ぶつけるために投げることはしないと決めていた。ぶつけてしまうのは、あくまで実験の副産物で、偶然の結果だ。だが次の瞬間、僕の頭で生卵が割れた。ルアン先生に僕と同じ矜持を求めるのは無理なようだ。
「いい画だ」
プロのカメラマンを気取ったハーマンが、意味もなく撮影位置を変えながら、ルアン先生の頭に卵がぶつかるのを待っていた。今のところ、スポットに飲み込まれた卵はなく、多くの割れた卵が地面に散乱している。食べ物を無駄にするのには慣れているとはいえ、抗議のコメントが大量に寄せられるかことを思うと憂鬱になる。
あからさまに当たりにいったルアン先生のおかげで、撮影は終了した。動画をアップすると同時に、アクセス数が急上昇した。同じように子どもたちが卵を空中に投げ、相手の頭に落下させる様子を撮影した動画も多くあった。郡内の小学校では、卵を投げるのを禁止したようだ。
真似したり茶化したりするのは構わない。ただ、スポットに卵が呑み込まれる様子や、卵がスポットを呑み込んで静止する様子をとらえた動画に注目が集まらないのが残念だった。大統領選に向けた遊説がもうすぐ本格化する。ハンプティの「撃ち抜く」という言葉は、僕の頭の中で反響し続けていた。
2 卵の博物館
変なジジイが大量に珍しい卵を持っているらしい、という噂話をハーマンが吹き込んで来たのは、退屈な古典英語の授業中だった。卵を収集する趣味はないと返したが、実はその噂については既に知っていた。
僕の家から3ブロックほどの距離に、ジジイことH.D.の家はあった。広くないガレージは草に覆われ、人の気配は薄い。H.Dとは表に掲げられた名前らしきものだが、本名のイニシャルではないのかもしれない。ルートで検索をかけたが、これといったものはヒットしなかった。ところどころ塗装がはがれたドアを叩いたが、返事はない。
「留守なのかもしれない」
僕はそう言いつつ、家の周辺を歩いてみた。玄関の裏手にまわったとき、音量は小さいが、相手に食ってかかるような声が聞こえた。
地下だ。僕らはしゃがみこんだ。しかし、壁と土に遮られて、内容を聞き取ることはできない。
「いる」
土に耳を当てていても仕方ない。ハーマンが躊躇なく壁をドンドンと叩いた。言い争う声が止み、僕らは慌てて玄関に戻った。
「誰だ」
今度はノックもしていないのにドアが開いた。丸顔で、頭のてっぺんにだけ髪の毛が残った老人と、同じく丸顔ではあるものの、頭のてっぺんだけ髪の毛がない大柄な男。枯れたという形容がぴったりの老人に対し、大柄な男の方は、額から首筋にかけて脂ぎっている。老人はおそらくH.D.だろう。
「初めまして、ロバート・レッサーと申します」
先に挨拶したのは大柄な男だった。テレビで見たことある、というハーマンの呟きを聞いて思い出した。レッサーはオスカー受賞歴もある有名なドキュメンタリー作家だった。大物や渦中の人物にカメラ一つで突撃取材するのが売りだ。この家にも、映画になるようなストーリーが隠れているということだろうか。
「あなたは、エッグボーイですね。動画、いつも楽しく拝見しています」
「あ、ありがとうございます」
レッサーとのやり取りを聞いていた老人の表情が変わった。
「お時間をとっていただき、ありがとうございました。ではまた」
レッサーは、老人に対し形だけの礼を述べると、あっという間に立ち去っていった。僕たちの訪問が、場を辞するちょうどよい口実になったようだ。
老人の僕らを見る目が、さっきまでと明らかに違う。
「入りなさい」
ソファーに腰かけ紅茶とクッキーでも出してもらえるのかと思ったが、リビングを通り抜け、地下へ続く階段を下りていく。目の前に現れたのは真鍮製の把手が取り付けられた立派なドアだった。玄関のドアと全然違う。見た目にふさわしく重々しい音とともに開いたドアの向こうは、薄暗かった。何世紀も前のランプを模したLED照明の中に、卵がずらりと並んでいた。
僕は一つ一つラベルが貼られた卵を眺めていた。「16世紀(?)」、「1週間前」、「3時間くらい」など思ったよりアバウトだ。卵は中身を抜いて、残った殻を再び組み立てているようだった。洋書を並べるのにふさわしい棚に、卵が並んでいる光景は気味悪くもあった。
「君が欲しがっている卵は、この中にはないよ」
老人の言葉はしっかり耳にはいったが、意図を図りかねたため、とりえあず受け流した。
規則的に卵が並ぶ棚の端に、無造作に積み上げられているものがあった。写真立てだ。僕はこっそり持ち上げて、写っている人物を確かめた。老人とハンプティだった。
「ハンプティ元大統領とはどういう関係だったのですか?」
「おそばに控える料理人、といったところかな」
「“We can Stand!” の会場にいつもいましたよね?」
「君にも会ったことがある」
「はい、覚えています」
ガルシアもハーマンも何の話か分からず、戸惑っているようだった。
「僕が聞きたいことは一つです。3年前、ハンプティ大統領が投げた卵は、今どこにあるのですか?」
「その中にはない。それが私が知っていることの全部だ」
僕は質問を重ねた。
「もしあれば安心できたのですが、残念です。これだけの卵を集めることができたということは、卵が現れる場所を特定することができるのではないかと思ったもので」
「私は、卵の殻を集めるのが好きなただの老人だよ」
「ハンプティ氏は、卵が消える場所、スポットを見つけるコツを知っていました」
「それで?」
「卵はスポットに最初に投げ入れた軌道を保って、時間が異なる別の空間-過去に限定されますが-を転々として、速度がゼロになったところで、物が落下するように、逆方向、つまり未来に向かって戻ってくる、と考えています」
老人の表情からは、関心の強さを読み取ることはできない。
「問題は、空間の単位なんです。スポットは、空中のど真ん中に現れるようですが、違います。区切られた空間の限界、ある大きさの空間を仕切る壁の一点に現れるのです。スポットの場所と、卵の軌道を特定するには空間を特定することが必要になります」
「人生が山あり、谷ありであるように、卵も順調にはいかないものだよ」
「途中で地面にぶつかったり、誰かに食べられた場合には、戻ってくることはありません。僕もハンプティ氏の卵がそうなることを願っています。ただ、途中で誰かの手に渡った場合には、厄介です」
可能性は高くないが、ないとはいえない。その場合には軌道が変わる。どのように変更されたか、予想することは非常に困難だ。説明に夢中になるあまり、またいつもの、と呆れるガルシアやハーマンの表情に気づかなかった。
「ウーボ、この人も知らないんじゃないのか?」
ルアン先生が僕をたしなめるように言った。
「もしかすると、このご老人も、君と同じものを追いかけているのかもしれない。そうではないんですか?」
ルアン先生が老人に投げかけると、老人の表情が憂いを帯びたものになった。
「ウーボ君、ですか。一つ教えてもらえるかな?大統領が投げた卵は、ただのゆで卵だと思うかい?」
ハンプティは撃ち抜く、と言った。
「卵の管理は常にあなたが行っていたと聞きましたが」
卵の中に弾丸あるいは石のようなものが含まれていたとすれば、角度や速度によっては、卵を貫通し、当たった人間の額を撃ち抜くことができる。老人は、何かいいかけて、止めた。
「私は大統領を裏切ることはできない。どんなことがあっても」
「彼はもう大統領ではありません」
この老人から、この部屋から、僕たちは何かを読み取らなければならない。だがそれが何であるのか、今はまだわからなかった。
第3幕 卵の話
1 “We can catch!”
懐かしいいくつかの昼下がりと同じく、大勢の人が集まるには絶好のお天気でした。ジャクソンビルの公園では、ボランティアスタッフが額に汗をにじませながら卵を準備しています。あと1時間ほどで、ダンプティ大統領の集会が始まります。私もお手伝いしたいところですが、誰に頼まれてもいませんし、体力に自信もありません。時々目玉焼きを作りながら、トラックの中から眺めているのがちょうどいいようです。
卵の長官をお役御免となり、隠居生活を楽しむつもりでした。なのに、厚かましいドキュメンタリー作家と、卵について話し出したら止まらない高校生の訪問で、周囲は徐々に騒がしくなっていきました。地元メディアが取材に来たり、買い物に行っても卵のじいさんと声をかけられることも増えました。幸い悪質ないたずらはなかったものの、居心地が悪くなり、転居を決めました。あの監督の映画も、高校生の動画も思っていたよりずっと影響力があったようです。
1年以上かけて探した家を出るとき、手元にはわずかなお金しかありませんでした。車も売って、貯金もはたいて買ったのが、中古のフードトラックです。今の私にはこれで十分、狭いアパートにはほとんど帰らず、卵料理を作る日々です。立ち仕事は腰にくるので、時々店を閉め、昼寝をします。
集会はまだ始まっていないのに、公園では卵を投げ合う人々が大勢います。”We can catch!” というこの遊びの名前は、”We can stand!”をもじったもので、ダンプティ大統領のスローガンでもあります。流行らせたウーボという高校生は、どこで何をしているのでしょう。
“~catch!”は”~stand!”と同じくらいシンプルです。卵を見えなくなるほど高く放り投げて、相手がそれを受け止めようとします。ゆで卵ならキャッチすることもできますが、盛り上がるのは生卵です。上手くつかむことができれば拍手喝采、額で生卵が割れたら大爆笑。食べ物を粗末にするな、ゴミを散らかすな。主として年配者からの批判に応え、警察も注意を促すものの、警官が生卵を投げている画像が投稿される始末です。生卵に似た楕円形のボールが発売されたりしましたが、売れませんでした。
ついに、ダンプティ大統領もこの遊びを積極的に利用し、集会のたびに大会を催すようになりました。卵との付き合いは長いですが、まだこの光景に慣れません。
「おじいさん、卵ちょうだい」
3歳くらいの男の子が、無邪気に私を見上げています。あのおじいさんはたくさん卵を持っているよ、と教えてもらったのでしょうか。
「卵をどうするつもりだい?」
「食べるよ」
「本当に?」
「うーん…投げるかも」
「じゃあ、差し上げることはできないな」
私は、男の子を見ながら、ウーボのことを思い出していました。小さいころ、大統領の集会に参加していた姿を、公園でいくつも卵を並べていた姿を。彼はまだロナルドが投げた卵を追いかけているのでしょうか。
大統領が変わらなくても、世界は変化し続けています。人々がたくさんの卵を投げ合っている裏で、たくさんの卵が消えているのです。今までは100個投げたら1個消えるかどうかという割合だったのに、今は10~15個に1個といったイメージでしょうか。卵を立たせるだけの小さなひずみも含めると、その割合はもっと大きくなります。
思えば、似非ドキュメンタリー監督のレッサーも、最初は地球規模で何が起こっているのか知りたい、というから家に入れてやったのです。でもインタビューが始まると、ハンプティ氏の不正を知らないかといった政治的な質問ばかり。怒りを抑えて、やつが喜びそうなエピソードを2、3与えておきました。期待外れもいいところです。
ウーボが訪ねて来た際も、消える卵、立つ卵が増えていることに気づいたのかと期待したのですが、行方知らずの卵をひたすら追いかけているだけでした。それはそれで気になるのですが。
「ちょっと」
考えに耽っていると、お客さんを逃がしてしまうこともあります。
「垂れてますよ」
またか、と思って車体の上部を確認すると、4~5個の卵が割れて殻が散乱していました。鳩のフンよりタチが悪いです。卵のトラックの屋根にのせたらいくら、といった遊びなのかと勘繰りたくなります。卵からひよこが生まれる様子をかたどったロゴは、確かに目立ちます。
ありがとうございます、と元気のない声を返したとき、指摘をくれた人物がレッサー氏だと気づきました。野球帽をかぶっているのは以前と同じですが、無精ひげが伸び放題で、膨れていたお腹がさらに大きくなったように見えます。
「お久しぶりですね」
「来ていると思いましたよ。なんせハンプティ氏の宿敵でしたからね」
「勘違いしておられるようですが、私はただの料理人で、ダンプティ大統領のことは何とも思っておりません」
「ハンプティ氏はどこに?」
「存じません」
「案外、この集会に来ているかもしれませんね」
彼は私の家に来たときから、ロナルドがダンプティ大統領を暗殺しようとしている、の一点張りです。映画監督のくせに、思いつくストーリーがチープすぎやしませんか?まあ、当たらずとも遠からずではありますが。
「スポットの件については、調べてもらえましたか?」
「あれはトンデモの類でしょう。科学ネタはウケが悪いし」
「そうですか。ではこれ以上お話しすることはなさそうです」
誰に話しても本気にはしてもらえません。スポットの存在を信じているのは、ウーボと愉快な仲間たちだけなのでしょうか。ルートで検索をかけても、信ぴょう性の薄いサイトばかり引っかかります。ただ、卵以外も含めて、物が突然消えたという証言は確実に増えているのです。
「もし、ハンプティ氏が事を起こしたら、あなたも罪に問われる可能性もありますよ」
「私もそんな惨事は望んでいませんよ」
「まあいいでしょう。彼が『撃ち抜く』と言ったことは間違いないんだから」
「気をつけてください。卵が飛んできますよ」
私の忠告は間に合わなかったようで、彼が大事そうに抱えていたハンディカメラに、黄身がべっとり垂れています。
「ったく、馬鹿どもが…こんな遊び、何が面白いんだ。あ、そうだ、彼の姿を見かけましたよ。ウーボ君。声をかけたんだけど、無視されちゃった」
「ホットサンドを食べに来るよう言っておいてください」
レッサー氏はぶつぶつ言いながら去っていきました。大量に飛び交う卵の中、果敢にカメラを回しています。
彼が完成させた『ゆで卵は立たない』という作品では、ロナルドはトリックを使って卵を立たせる、つまらない手品好きの親父ということになっていました。ウーボは、手品に騙され、共和党を信奉する哀れな少年として登場します。その作品で二度目のオスカーを獲ったのですから、アカデミー会員もたいしたことありませんね。そして二度オスカーを撮っても、映像の世界で食べていくのは大変そうです。
私は路上に散らばった卵を踏みつぶしながら、低速で会場を回ります。集会に集まる人たちは、入場口で一つずつ生卵を渡されます。集会が始まると”We can catch!”と叫んで、聴衆に向かって卵を投げます。ホームランボールを取り合うように、聴衆は落下点に群がり、手を伸ばしますが、誰かの手に当たって割れ、数人が卵まみれになるというオチです。”We can catch!” には何の不思議もありません。
その後聴衆が大統領に向かって、実際はてんでばらばらに、卵を投げ始めます。会場が混とんとなったところで、「今卵を投げているのは…」と人種の共存を強調する演説を始めるのです。ただし、渡された卵を開始前に投げたり、自前の卵を大量に持ち込む人がいるため、集会の行われる場所はご覧の有様です。
私は遠まきに会場を眺めながら、携帯端末で中継を見ることにしています。ダンプティ大統領が投げる卵は、今日も無事聴衆に届くでしょうか?もしかすると、空中で消えるかもしれません。そのとき初めて、聴衆は本当の危機に気がつくのです。
世界は変化し続けています。かつては立てるもので、時々消えるものだった卵が、時々立てることができるけれど、ほとんど消えてしまうものになったらどうでしょうか?滑り台を滑っていた子どもが、突然消えたとか、消えなかったとか。
とはいえ、そんな空想じみたことを、フードトラックの親父が言ったところで何になりましょう。レッサー氏と同じような反応が返ってくるだけです。私にできるのは、この世界全体が、止まったり消えたりしないよう祈ることだけなのです。
2 “We can stand!”
卵を投げ合う人々を見るのは正直うんざりだった。僕の動画はそのために作ったものじゃないし、サイトだってとっくに閉鎖している。だけど人々が遊ぶのを止めることはできないし、何より今日この場所に来ないわけにはいかなかった。僕の計算では、今日こそ運命の日なのだ。
僕の隣にはハンプティ元大統領がいる。演説が行われる区画の外側で、幹に背を預け、木陰に座り込んでいる。会うのは2度目だ。最近はテレビでも見かけなくなり、独自に行っていたルート上の番組も終わってしまった。60歳手前だけど、それほど老け込んだようには見えない。
5分前に話しかけ、自己紹介も済ませたのに、それ以降会話は途切れていた。僕もハンプティも、90度別の方向を向いて、時々飛んでくる卵をよけながら、空中を飛び交う卵を眺めていた。
ダンプティ大統領の演説が始まっていた。今はそれほどでもないけど、幼かったころは、同じスペイン語系で、当時上院議員だったダンプティ大統領の熱烈な支持者だった。いつもどおり、卵にまみれて、熱く語っている。でも、4年前の同じ日、ハンプティが自分に向けて卵を放り投げたことには触れないだろう。いや、そんなことは忘れてしまっているのかもしれない。
「ハンプティさん、卵は現れると思いますか?」
ハンプティは答えない。
「あなたがダンプティ大統領の頭を撃ち抜くと言って投げた卵です。あなたが投げた卵には、固い芯のようなもの、弾丸の代わりになるものが入っていたのではないですか?」
遠くに、レッサー監督の姿が見えた。二人でいるところを盗み撮りされても、おかしくない。ハンプティは不意に笑顔を見せた。
「食うか?」
ハンプティは側に置いたバッグの中から、オムレツを挟んだホットサンドを取り出した。僕は遠慮なくもらうことにした。ミルクたっぷりのオムレツはとても優しい味だった。
「旨いだろ?」
「はい」
「卵料理の名人が作ったんだ…さ、話を続けてくれ」
ハンプティは再び僕から視線を外した。卵料理の名人?一人の老人を思い浮かべたが、せっかくなので、話を再開した。
「僕の言っていることは、もちろん推測にすぎません。あなたが投げたのは、いつもどおりのゆで卵だったのかもしれない。だけど、もしそうだとしたら、僕の青春時代はどうなるんですか…ってあなたに言っても仕方ないんですが、とにかく、僕は今でもあれが、特別な卵だったと信じています。
そして空中に投げた卵が消えたのは、レッサー氏が執拗に検証したようなトリックによるものではありません」
「あの映画は実に退屈だった」
「おっしゃるとおりです」
ハンプティのわざとらしい口調に、僕は少し笑ってしまった。
「あくまで、自然現象なのです。時間と空間のひずみに、僕はスポットと呼んでいますが、卵が消えるのです。あなたが投げた卵もスポットに飲み込まれたのです。あなたが卵を立てることができたのも、卵の中にスポットが生まれたからです」
「君が卵を並べていたのは、私が投げた1つの卵を探すためだった?」
「はい。見つけて捕まえようという気はありませんでした。ダンプティ大統領の額を撃ち抜かないことを証明できればそれでよかったのです。割れようが、食べられようが、何でもよかった」
「で、結果は?」
「分かりませんでした。正確に言えば、かなりの確率で、あなたの試みは失敗したというところまではわかりました」
「失敗した?」
「卵は投げ入れた軌道のまま、異なる時間の、しかし同じ大きさの空間を飛び石のように移動します。だから、空間の大きさが分かれば、次の時間にどの角度から卵が現れ、どの場所で消えるか分かるのです。空間の大きさをどう設定するか?それが問題でした。僕は、あなたが卵の長官に任命し、今この公園でフードトラックを運転している老人の地下室の大きさに設定してみました。一度訪れたことがあるのですが、空き家になった後、こっそりもう一度忍び込んだのです。
その結果、卵は、投げ入れた時間と空間にぴったり戻ってくることがわかったのです。私はレッサー氏の映画『ゆで卵は立たない』を何度も見直しました。レッサー氏は、あなたがゆで卵を立てるトリックを暴こうと、執拗にあなたの手元や、演台の周辺を撮影しています。愚かで、退屈な映像です。でも、そこに映っていたのです。あなたが、割れたゆで卵を持っている姿が。卵は、あなたのところに戻っていたのです。あなたの計画は、今日という日を迎える前に、既に失敗していたんです」
「すべて君の推測、不鮮明な映像を通じた不正確な観察にすぎないのでは?」
「ええ、証拠はありません。誰も相手にしてくれない。だから、ここで祈っているんです。何も起こらないという、最もつまらない結末を」
ハンプティ氏は、微笑んでいた。
「君の話だと、途中で軌道が変わる、ということもあるんじゃないのかな?誰かが拾ってもう一度投げるとか」
「むしろそちらの方が多いでしょうね。戻ってくる方が奇跡だといえます」
しばし訪れた沈黙の後、ハンプティ氏が穏やかな口調で言った。
「これだけ卵が飛び交っていては、一つ卵が戻ってきてもわからないだろうな」
「そうですね。みんな、たくさんの卵が消えているのに、気づかない」」
「知ってるかい?”We can stand!”のとき、会場ではいくつも卵が立っていたんだ」
「スポットがあったからじゃないんですか?」
「どうだろう。むしろ、ゆで卵は立てることはできるんだ、いろいろな方法で」
「僕は、下手くそなだけだったのかな」
「君が誰よりも楽しんでいたけどね」
ダンプティ候補の演説は続いていた。ガルシアとハーマンから動画が送られてきた。ガルシアの頭から肩にかけて、10個以上の卵が割れたようだ。
僕が10代の大部分をかけて出した結論は、あっけないものだった。飛び交う数えきれないほどの卵、そのうちのいくつかが空中に消えている。もしかすると、みんな気づかないふりをしているだけなのかもしれない。卵みたいに、自分たちが消えてしまうかもしれないということに。
エピローグ
つい3時間ほど前、昂揚した気分で走っていたハイウェイを、ブルーな気分で逆方向へ走っていた。デートの約束をすっぽかされるなんてよくあることだ。今この瞬間も、世界中で数えきれないほど多くの男が、同じ目に遭っているだろう。ラジオでは、議員がまだ自説をぶっていた。何時間喋るつもりだ?絶対こいつには投票しない。
隣に座るはずだった彼女の姿を思い浮かべていると、悲しみに襲われるとともに、突然助手席に現れた卵のことを思い出した。面白い卵の話をしてやろうと思ったのに、結局誰にも伝えずじまいだ。
まさか、と思い立って唐突に車を止めた。鳥にでも食われているだろうと考えつつ、うろうろと記憶をたどる。卵は、先ほどと変わらずそこにあった。横倒しになった卵を見ると、なんだか泣けてきた。卵が、自分を待っていてくれた気がした。
「置いてきぼりにして、ごめんよ」
両手で包み込むように卵を持ち上げ、無人の助手席に置いた。こいつ、どこから来たんだろう?もしかして、遠い宇宙の彼方とか?
卵の冒険をあれこれ妄想していると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。ラジオもよく聞いてみると、さっきとは違う議員だった。なかなか良いことを言っている。そして、エンジン音に包まれていたためか、助手席の卵が3時間前と同じ場所で消えたことには、全く気づかなかった。
了
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