六と楽

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梗 概

六と楽

 65536次元並行周期に一度催される並行世界たちの祭典、大(小)不統一祭。
 そこではあらゆる並行世界のなかから特に優れた展開を遂げた世界や優秀な成果を収めた存在が称えられると同時に、これまでに生じてしまった時空間的齟齬を調律し、鎮めるための儀式が執り行われることになっていた。
 異星の技術を持ち帰ったシタル博士が開発した装置により、時空を超えた活躍を続けていた高校生クモキリ・ミナモと、パートナーとして彼女の意識のなかにその精神を宿すイチカ。二人はいつしか超時空少女と呼ばれるようになり、祭典のティーンエイジャー部門にノミネートされてしまう。
 パラドキシカル・ボウトの結果、大賞に選ばれた二人は、調律の儀において奉納の役を務めることになる。悩んだ末に幼少期から修業を積んできた剣舞を披露することに決めたミナモは、家伝の舞踊刀「クモキリ」を手に祭典場を訪れる。
 あらゆる時空の歪みから集まった来賓に見守られるなか、無事に奉納の舞を終えた二人は、帰り道、時空の乱れを監視する守護者タイマイ(タイム・マイスター)によって、暇潰しの相手として時空の狭間に引きずり込まれてしまう。
 時空旅行者を遅滞させるため張り巡らされた亀甲模様の時空網(タートル・ネット)のなか、果てのないヘックス・ゲームに巻き込まれる二人。先手必勝とされるヘックスで無難に勝ち続けていった二人だったが、攻略するたびに盤面が拡張していくゲームはいつしか立体方向にも広がっていき、ボードは無数に積み重なったケルビン十四面体に変化していった。
 密集した泡の集合体を思わせる構造のなか、イチカはその正方形部分にもつれを発見し、脱出を試みる。作戦はうまくいったかに見えたが、イチカの意図に気づいたタイマイは立体を解体しはじめる。せめてミナモだけでも脱出させようと、イチカは意識を切り離して、タイマイの遊び相手として時空の狭間に残ることを選択した。

文字数:800

内容に関するアピール

 不合理に遊ぶ、というキーワードから「祝祭」と「蕩尽」という言葉を連想しました。意味もなく豪奢に楽しんでいるカーニバル的な様子を描き、そこで執り行われる空疎でふざけた儀式、時間も場所も無関係に集まった奇妙な観客といった騒がしい雰囲気を出して、しかし儀式自体は厳かな雰囲気で進行するというギャップを演出したいと考えています。
 またもう一つの舞台としてヘックスというボードゲームを取り入れました。これは蜂の巣状のゲーム盤を用いた二人対戦型の遊戯ですが(数学者ナッシュが先手必勝であることを証明)、敷き詰められた六角形のイメージが、これまで連作の中心的なモチーフとして扱ってきた「泡」の密集した状態を連想させる部分があり選んでみました。梗概では面の整ったケルビン十四面体を導入しましたが、実際にはより効率的に空間を埋める形状があるようです。
 時間を気にせず遊び続ける。しかし楽しいことでも毎日続いたら……。

文字数:400

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六と楽

 

 それは六日六晩催される、時間と空間のささやかな、戯れ。

 

      

           

      

          

      

 

 

  

 

「それでは衣類を脱いでください」と言われて、しばらくのあいだ下唇をかみしめて黙っていたミナモは、意を決して小さく肯いた。
 まずローファーを脱いで、踵を揃えて並べ直す。それからカーディガンを脱いで、きれいにたたみ、それを足元に置いて、ブラウスのボタンを襟元から一つずつ外していった。ボタンをすべて外し終えて、前を肌蹴たまま、ブラウスを脱ぐのを躊躇っていると「安心してください。ここでは誰もあなたの身体から刺激を受けることはありません」と念を押された。それは、たしかにそうかもしれないけれど、それはそれで何だか悔しくもある、と複雑な心境で周囲を眺めながら、ミナモはブラウスの袖から左右の腕を抜いていった。
 誰も気にしていないと理解はしていても、上半身下着姿になるとやはりなんだか恥ずかしさが込み上げてきて、ミナモは脱衣に意識を集中するように左、それから右のソックスを一気に脱いだ。紺色のハイソックスに赤い糸で刺繍されたウサギのワンポイントを見つめ、気持ちを静めるようにふぅっと小さく息を吐いてから、ソックスを丸めてそれぞれをローファーの履き口へと軽く押しこんだ。
 スカートのホックを外して下ろし、素早く足を抜いて、プリーツが皺にならないよう丁寧にたたんでカーディガンの上に重ね置き「脱ぎました」と周囲に並んだ異形の者たちの、誰にともなく呼びかけると「下着も脱いでください」と平坦な口調で言われ「どうしてですか」と声に抵抗の色を込めて確認する。
「これから、あなたの身体を浄化します」
 そう言われて「はい、そうですか。よろしくお願いします」とはすぐに答えられず、ミナモはしばらく下着姿のままで立ちつくしていた。どうして、自分はこんなところで下着姿を晒しているのだろうかと、冷静になって考えてみたところで、納得のいく答えを得ることはできそうにもなくて、このままもう一度服を着直して、引き返してしまいたいとも思ったけれど、すでにこの場所から帰る方法もわからなかった。
 流れに身をまかせてとにかく先に進むしかない。表情を引き締めて両手を背中へ回したミナモを、異形の者たちは表情一つ変えずにじっと見つめていた。別に勿体ぶったり隠し立てするほど立派なものをもっているわけでもない、と勢いに任せてホックを外し、緩んだ肩紐から両手を抜いて前で下着をたたみ、その勢いのまま躊躇う間も作らずにショーツも脱ぎ下ろした。
 こうして、クモキリ・ミナモは全裸になった。
 変に恥ずかしがっていると余計に滑稽に見えるかもしれないと考えて、ミナモは背筋を伸ばして胸を張り、堂々と一糸まとわぬ姿をさらけ出した。
 そんなミナモの心持ちなどお構いなしに「そのまま前に進んでください」と淡々とした調子で促され、裸足で地面の感触を確かめるように、ミナモは一歩ずつゆっくりと歩みを進めていった。いったい、この先に何が待ち受けているのか、文字通り身一つで心細さはあったけれど、いまはただひたすら前に進むしか道はなかった。
 とつぜん、土砂降りの雨のようなものすごい勢いで頭上から謎の液体を浴びせかけられて、ミナモは思わず悲鳴をあげて身を丸めるように両手で肩を抱いてその場にしゃがみ込んでしまった。
「安心してください。この液体は人体に悪影響はありません」
 そういう問題ではない、と思いながらミナモは立ち上がって、滝に打たれて精神統一をしている姿をイメージしながらゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着けていった。冷静になって身を委ねてみると、その液体は冷たくも温かくもなくて、ちょうどミナモの体表の温度と同じくらいで、さらに水よりもずっと軽いのか、肌に触れる感触もふわりと優しく軟らかかった。謎の液体のなかで、ミナモは何とも言えない不思議な感覚に包まれていった。
 頭上から流れ落ちてくる液体がおさまると、どこからともなく「お疲れ様です。これであなたの身体は浄化されました」というアナウンスがあり、それに続いて「ちなみにこれは、神聖な銀河ウミウシの粘液を濃縮して作られたとても貴重な……」という余計な解説が聞こえてきて、ミナモは全身に滴るウミウシの粘液を原料とするらしい液体を必死に払い落とそうとしたが、手のひらが滑ってしまいうまくいかなかった。恐るおそる頭部に触れてみると、当然のごとく髪の毛はべたべたになっていた。
 とろみのある液体を滴らせながら、さらに歩みを進めていくと、今度はパッション・ピンク色のガスが足元から噴き出してきて、ミナモはとっさに息を止めて口元を両手で覆った。
「安心してください。このガスは人体に悪影響はありません」
 それでもミナモは息を止めて口元を押さえたまま、ガスがおさまるのを待っていたが、いつまでたってもガスは噴き出し続け、そのうち視界もままならないほど周囲に充満していった。ついに耐え切れなくなってミナモが呼吸をすると、ガスはミナモの小さな口と鼻から体内に流れ込んできた。
 ガスを吸ってしばらくすると、何だか心が穏やかになってきて、ミナモは幸せな気分になっていった。まぶたの奥が熱くなって脳がふくらんで広がっていくような感覚に包まれながら、悪、ではないにせよ、このガスは明らかに人体に何らかの影響を与える類のものであるとミナモは確信した。
 あたり一面を美しい花々に囲まれ彩られているような、とても良い気分になってミナモがへらへらと薄ら笑いを浮かべているうちに、いつの間にかガスはおさまっており、はっとして我に返って周囲を見回してみると、そこには一輪の花も見当たらず、先ほどまでと同じように大小さまざまな異形の者たちが無表情に立ち並んでいた。
「これであなたの思考は浄化されました」と言われても、まったく納得がいかなかったけれど、ミナモは不満を押しこめてさらに先へと足を向けた。
「クモキリ・ミナモさん」ととつぜん名を呼ばれて、思わず「はい」と大きな声で返事をしてしまう。「あなたには二枚の招待状が送られていますね」と確認するように問われ、そのとおり、たしかに招待状は二枚受け取ったけれど、一枚はミナモ宛で、もう一枚はイチカ、ミナモの意識のなかにいる、もう一人の存在に宛てたものだった。
「これから、あなたの心を浄化していきます。それが完了すれば晴れて、あなたを正式に祝祭の会場へとご案内することができます。心の準備はよろしいですか」
 ウミウシの粘液をあびせかけられ、不気味なガスでトリップさせられて、いまさら準備もないだろう、とミナモは「はい」と返事をする代わりに無言で肯いた。
 ミナモが手紙を受け取ったのはちょうど今から一週間前のことだった。手紙といっても、それは郵便受へ届けられたものではなくて、気がついたらいつの間にか学校の制服のブレザーの左ポケットのなかに入れられていたのだった。
 二つ折りにされていた紙を取り出して広げてみると、それは何も書かれていない白紙、のように見えたけれど、しばらくじっと凝視して、瞬きをした瞬間にまぶたの裏側に文字が浮かび上がってきた。

 

 貴女がたの時空間における活動の功績が認められ、このたびの大(小)不統一祭におきまして、部門賞「ティーンエイジャー」の候補として正式にノミネートさせていただくこととなりました。
 この賞は該当時空における存在発生より、十から十九周期の時間経過に属する知的生命体を対象とし、その存在の該当時空ならびに隣接・分岐時空における活動内容を評価・検討し、その結果に基づいて特に功績の認められた個体に贈られるものです。
 各部門にはそれぞれ数十の候補がノミネートされ、祭参加者による投票によって受賞存在が選出されることとなります。
 つきましては貴女がたにも大(小)不統一祭へ出席を願いたく、招待状を送付させていただきました。
 ぜひ、ご都合のよろしい折に参加いただければ幸いでございます。

 

 読み終えてミナモが続く別紙に目を向けると、以下には《大(小)不統一祭》なるものの概要を紹介したチラシが添付されていた。その説明によると《大(小)不統一祭》とは、「六五五三六次元並行周期に一度開催される並行世界たちの祭典!」ということらしかった。そこでは、あらゆる時空間から招待された存在たちが、それぞれの時間感覚において六日六晩のあいだ、歌い、踊り、飲み食いしながら、無礼講で騒ぎつづけ、まさに享楽のひとときを過ごすのだという。
 解説文の右下には色鮮やかな抽象的イラストが描かれていたが、ミナモにはそれが何を描き表しているものなのか理解できなかった。
 さらに用紙をめくって続きを読み進める。
 祭の主要な目的は、あらゆる並行世界のなかから特に優れた展開を遂げた世界、また優秀な成果を収めた存在を表彰し、奉ること、そしてこれまでに生じてしまった時空間同士の齟齬を調律し、その歪みを鎮めることで再び世界を安定した状態へと均すための儀式が執り行われる。
 何も知らずに読めば、作り事かいたずらのようなその内容は、しかし、ミナモにとっては思い当たる節のあるものだった。そして、この祭に参加すれば、もしかしたら探していた人物に会えるかもしれない、という考えが不意に浮かんでくる。
 その考えはミナモ自身のものというよりは、物心ついたころから時折脳裏に浮かんでくる、自分のなかのもう一人の存在、ミナモとはまったく別の経験と記憶をもった、イチカという名の少女の考えに近かった。
 自分のなかのイチカの存在を明確に自覚して以来、ミナモはイチカの《友人探し》という目的を共有し、それを手伝うための活動を続けていた。
 もともとイチカは、意識体としてミナモの暮らしている世界とは異なる時空を放浪していたらしく、その過程でさまざまな世界を知り、多くの人間とは異なった存在と巡り合ってきており、その記憶を共有しているミナモにとっては、いま周囲に並んでいる異形の者たちの存在は取り立てて珍しいものでも恐れを抱くようなものでもなかった。
 イチカの探している友人は、シタルという名の少女らしいのだけれど、どうやら彼女はどこかの並行世界において、将来科学者となり、さらにタイムマシンのようなシステムを開発しているらしくて、そのシタルが開発したという時空間移動装置は、巡り巡って現在ミナモの所有物になっていた。
 ミナモとイチカはシタルの居場所をつきとめるため、その装置を使ってあらゆる時空を訪れていた。週末の休みを利用したそんな小旅行は何度も試みられたが、けっきょく未だにシタルを見つけることはできていなかった。
 二人は訪れた先で多くのトラブルに巻き込まれ、何とか協力して困難を乗り越えてきた。それは訪問先の時空で知り合った相手を助けるためであったり、行動の結果が偶然その時空間における問題の解決に結びついた場合など、さまざまなケースがあったけれど、そんなことを繰り返すうちに、いつしか二人は時空間トラブル解決の専門家と噂されるようになってしまい、時空を超えたスーパーガールズ、超時空少女と綽名されるようになっていた。
 今回、ミナモがこの祭に招待されたのは、そうした活動を認められて「優秀な成果を収めた存在」の候補として選出されたから、ということのようだった。ミナモとしてはこれまでにあげてきた「成果」はあくまでも副次的なもので、結果としてそうなってしまった、という類のものがほとんどだったので、あまり実感はなかったし、怪しげな集会にはできることなら参加したくはなかったが、別の時空間の情報を少しでも集めるためには、なるべく多くの存在に触れてネットワークを広げていったほうがいいとミナモのなかのイチカはずいぶん乗り気なようだったので、「パートナー」の誘いに乗るような格好でミナモは大(小)不統一祭への参加を決めたのだった。
 自分一人であれば、こんな場所に来ることはなかっただろうし、そもそも時空を超えた活躍をすることなどありえなかったのだから、招待状が送られてくることもなかったはずだ。イチカと一緒だから、いま、ここにいるのだとミナモは思った。異形の者たちの目の前で、臆せずに裸身を晒したのも、自分一人の勇気や度胸ではなくて、イチカが一緒にいればこその振舞いだった。
 ゴブセット氏族の大乱を鎮圧したときに用いたレインボーフラッグの鮮やかにはためく様がミナモの瞳の奥に甦ってきた。イチカの機転によって九死に一生の脱出を遂げた、機械惑星ガバラニの爆破事件では、偶然スカートのポケットに入っていたフーセンガムがとても役に立った。まさかガムにあんな使い方があったなんて、思い出すだけで驚き、笑ってしまう。
 三つの時空を分断するモクモクと呼ばれる大河の流れに触れたときの、指先の感触、目の前の流れの先に、はるか遠くのぬくもりや深淵を感じて、思わず背筋が震えたあの感覚。そのあとモクモクに意識舟を浮かべて、二人で時間の流れに身を任せて揺蕩った思い出が、つい今しがたのことのように鮮明に想起されてきた。
 どこからともなく、音楽が、聴こえてくる。溢れている音のなかから、ミナモが聴き分けることのできるものはほんの一部だったけれど、無数の層となって重なり、混ざり合った音のつぶたちが跳ねながらミナモの鼓膜と肌を振るわせていった。
 ミナモに流れ込んできた音が身体のなかで反響し、増幅していって、次第にミナモだけの特別な音となって、溢れ出してきた。その音楽を奏でるために必要な楽器を、ミナモはいつの間にか手にしていた。六芒星を象って、その頂点を結ぶように六弦が張られた六芒琴。それはミナモだけが奏でることのできる特別な楽器だった。いままで見たことも触れたこともない楽器の弦を指先でつま弾いてみると、鼓動が響いて流れ出していくような心地の良いメロディが鳴り響いた。
 耳の奥で小さな鈴の音が鳴って、誘われるように見上げた宙空には、青い満月が静かに浮かんでいた。

 

 

  

 

「ようこそ、大(小)不統一祭へ」と声をかけられて、ミナモの視界が啓けていくと、周囲では、それぞれの楽器を手にした異形の者たちが、溢れ出す感情に身を任せるように歌い踊り跳ね回っていた。長さの異なる触手のようなものを巧みに操る者、球の重なった体を伸縮させて懸命に楽器を奏でている者、細長いチューブのような体を目いっぱいに伸ばして揺れている者などが居並ぶなか、その様子に圧倒されている暇もなく、ミナモの身体も喧しく鳴り響く音楽のうねりに合わせて自然と揺れ動いており、手にした六芒琴は鮮やかな指さばきによって見事なグルーヴを唸らせていた。
 ミナモの頭の奥から、つんざくようなホイッスルの音が飛び出していった。それはイチカが吹き鳴らすイチカだけのメロディで、その鋭く突き刺す尖った音は、周囲の者たちの心を刺激して、彼らの音楽を加速させていった。
 ホイッスルの音に刺激されて、ミナモの脳は活性化され、普段あまり使われていない回路が激しく巡りだしていった。脳が覚醒していくにしたがって、視界に映し出されるイメージの輪郭が鮮明になっていき、それまで奇妙に身をくねらせ踊り狂う異形の者たちの流れるようなボディラインの動きに捉われ支配されていた可視領域が拡張していった。
 薄暗いホールのような部屋の端に、ミナモは立っていた。室内を照らしているのはミラーボールのように極彩色の光をまき散らしながらフロアを無軌道に飛び回っているいくつかの球体が放つ線状光のみで、ホールを埋め尽くして踊り狂っている者たちの表情や姿は、陰になってよく見えなかった。
 溢れる音のなかから心地の良い刺激だけを選別して、ミナモは拾い集めた音を脳内でハーモナイズして一つの旋律を作り出した。音に気を取られていると、飛び交っていた光の球の一つが、目の前を勢いよく通りすぎていった。とっさに避けようと身を引いたミナモは、球からもれだした一条の光の筋にまともに照らされてしまい、その眩しさに目を閉じた。するとまぶたの裏側の暗闇であるはずの空間に、紫色の草原の景色が映し出された。
 再び目を開くと、そこはやはり暗いダンスホールで、試しに片目だけを閉じてみると、ホールと紫の草原が重なって見えた。
 臓腑に響くような、激しい重低音にホール全体が震え、フロアで踊る者たちは奇声を上げて飛び跳ねはじめたので、ミナモもその動きに倣ってその場で思いっきりジャンプして、着地の衝撃と内臓に響き渡った低音の反響を利用して、最大限の大声を出しながら六芒琴を振り回して、もう一度飛び跳ねてみた。
 ミナモの声はホールの爆音に飲み込まれ、かき消えてしまう一方で、静かに風がそよいでいる紫の草原を駆け抜けていき、はるか彼方でこだまとなって、増幅されて戻ってきた。増幅された自分の声の勢いに押されて、ミナモは吹き飛ばされてしまい、何度も異形の者たちにぶつかりながらピンボールの玉のようにホールを転がってしまった。ぶつかり、転がる間中、不思議と痛みは感じられなくて、無軌道にホールを飛び回る光の球と同じように、音をまき散らしながらホールを飛び回っているという快楽だけが込み上げてきて、思わずミナモは声を上げて笑ってしまった。
 その笑い声が、新しい音楽となって、ホールに流れる旋律に変化をもたらした。「おまえ、楽しそうだな」という呼びかけがあって、横から差し出されたグラスに手を伸ばし、そのなかに満たされた水色と黄色の鮮やかなグラデーションをもった液体を、ミナモは一気に飲み干して、空になったグラスを放り投げた。重力の影響を受けずに宙を漂っていくグラスを光の筋が照らし、グラスの曲面で反射した光が散らばって、微かにグラスの底に残っていた液体が小さな玉となってこぼれ出し、空中で震えた。
 YO YO ホールの出口が見えてきた。ミナモは泳ぐように空間と異形の者たちをかき分けながら出口を目指した。ミナモが近づいていくと重厚な扉が自動的に開き、その先にはあらゆる方向に伸びた迷路のような螺旋階段が続いていた。勢いにまかせて無数の階段のうちの一つを選ぶ。その階段は目を開けていると上っているように、閉じていると下りているように、そして片目だけを開けていると真っすぐ進んでいるように感じられた。実際のところ、上っているのかも下りているのかもわからないまま、ミナモは跳ねるように一段飛ばしで先を目指した。ホールから離れるにつれて次第に音の数は減少していき、いつしかミナモの奏でる六芒琴の繊細で張りつめた音と、さびしげなイチカのホイッスルだけが虚空に響くだけになっていた。
 手摺のない螺旋階段を踏み外さないように進んでいく。周囲にはどこに続いているのかわからない階段がいくつも交錯するように伸びていて、階段同士の間には周囲を照らす灯火が一定の間隔で浮かべられており、灯火に明かりを点けるため、星の点灯夫たちが飛び回って、自らの明かりを次々に灯火へと移していた。
 灯火から灯火へと流れるように移動する星たちの動きを眺めながら、ミナモはひたすら階段を進んでいった。ときどき遭遇する分岐路では、常に一番左側の階段を選ぶことに決めて、ちょうど六つ目の分岐で左の階段を進みはじめたとき、どこからともなく新しい音が聴こえてきた。
 包み込むようなまろみを帯びた古いピアノの旋律に導かれながら、ミナモが階段を上りきった先には、紫色の草原が一面に広がっていて、その中央には華美なアラベスク模様の彫刻を施された円柱に囲まれた野外ステージが設けられていた。
 ステージには立派なグランドピアノが設置されていて、先ほどから草原に響き渡っていた心地よい旋律は、独特の音に調律されているらしいそのピアノから溢れ出してくるものだった。
 椅子に座って優しいまなざしで指先を見つめながら、慈しむように鍵盤に触れている少年の姿を、ミナモは円形のステージを囲むようして配置された観客席に座ってしばらく眺めていた。少年の横には彼よりも少し幼く見える少女が目を閉じて立っており、曲の進行に合わせて譜面をめくっていた。ミナモが曲の美しさに聴き惚れて、心地よさに浸るようにそっとまぶたを下ろすと、その裏側には椅子に座ってピアノを弾く少女と、目を閉じて譜面をめくる少年の姿が見えた。
 譜面に手を添えていた少年が不意にこちらに顔を向けて「こんにちは」と声をかけてきて、ミナモが目を開くと、少女があどけない笑顔を浮かべているのが見えた。座ってピアノを弾く少年は、演奏を止めずに軽やかに指を動かしたまま「どうですか、大(小)不統一祭の雰囲気は」と話しかけてきた。少年の声とピアノの旋律が重なって一つの音楽となって、ミナモの心の奥で響いた。
「何だかよくわからないうちに、ここまできてしまって……」とミナモがつぶやくと、少女が譜面をめくりながら「わかる必要なんてないんです。ただ身をゆだね、あるがままを楽しめば」と微笑んだ。 少女のあどけない笑みにつられてミナモは微笑み返した。目を閉じると今度は少年の笑顔が見えてくる。
「あらゆる時空の交錯するこの場所で、形に意味などないんです。あなたの目には、ただ自分の見ようとするものが映る、それだけです。でも、もしも本当のことが見たいなら目を閉じて、そこに映ったものを信じてください」
 少女の奏でるピアノの旋律は、少年のものとは違う、どこか無邪気な残酷さを秘めた苛烈さを帯びていき、そこには謎めいた詩が内包されていた。

 

 音楽は
 あなたの鼓動
 あなたの呼吸
 あなたのなかで
 生まれるゆらぎ

 聴こえる音は
 すべてまやかし
 音にのまれて
 たゆたううちに
 いつしか居場所を
 見失う

 歌えや踊れ戯れろ
 苦しみ忘れて
 狂おしく
 宴のつづく裏側で
 六つの月が
 世界をめぐる

 七つの月が
 顔だす前に
 まろうどたちは
 去ってゆき

 行き場をなくした
 まよいごたちを
 時間の王が
 つかまえる

 今度はわたしと
 遊びましょうと
 時の網目に
 絡めとられて

 まよいごたちは
 分かたれ
 消える

 

 少女のピアノがやんで、詩は紫の草原を駆け抜けてゆく風にさらわれるように、どこか遠くへ流されてしまった。少年と少女の演奏に拍手を送りながら、ミナモはピアノのそばへと近づいて行った。
「クモキリ・ミナモさん。妹からあなたにプレゼントがあります」と少年に言われて、ミナモが少女のほうを向くと、とつぜん、少女が顔を近づけてきて、そのままミナモの唇に小さくて柔らかい唇を重ねてきた。
 ファーストキスを奪われたことに戸惑っている暇もなく、少女の唇が触れた瞬間、先ほどの詩とそれを乗せた旋律がミナモの意識のなかに流れ込んできて、六芒琴の譜面となって脳裏に焼き付いた。
「予言詩よ、忘れないで」と少女に言われて「え?」とミナモが返した瞬間、耳元で小さな鈴の音が二つ鳴って、周囲の景色が暗転し、目の前にいたはずの少女と少年、そして古いピアノは跡形もなく消え去ってしまった。音が途切れたかと思うと、今度は陽気な笛の音があたり一面を包み込んでいって、音の流れが渦巻き状にいくつも空間に浮かび上がっていった。その渦を、二つの緑の満月が見下ろしていた。

 

 

  

 

 空間に発生した無数の渦の中心は音の個性に合わせた色の光を放っており、ミナモは青い光に誘われるように、その渦のなかへと飛び込んだ。渦のなかはコンペイトウのような形をした手のひらサイズの星たちで満ち溢れていて、ミナモは星々の間をかき分けながら泳ぎ進んでいった。ときどき小さな星を手に取ってそっと握りしめてみると、星はやわらかく砕けていってさらに小さな星の欠片となって、ミナモの指の隙間からこぼれ落ちていった。
 きれいでやわらかい星があまりに美味しそうだから、ミナモはそれをそっと口元へ運んで食んでみた。マシュマロのような歯ごたえの星は、ミナモの知らない味がした。それが美味しいのかどうか、判断はできなかったけれど、ゆっくりと、噛みしめるとその味は口内から身体の奥のほうへと染み渡っていった。小さな星は飲み込む前に、いつの間にか口のなかで溶けてなくなってしまった。
 ミナモが未知の味を楽しんでいると、とつぜん後頭部にふんわりとした弱い衝撃があって、振り返ってみると同じ衝撃が、今度は顔面に直撃して、ミナモは小さな悲鳴を上げた。
 顔に付着した星の欠片を払い落として、目を凝らしてみると、ピーナッツに手足のはえたような格好をした異形の者たちが、手に手に星を拾い集め、歌を歌いながら拾った星をお互いにぶつけ合っていた。

 

 星玉ひろえ 星玉くらえ 星玉ふわり 星玉われた

 

 さっそくミナモも異形の者たちと一緒に歌いながら「星玉拾い」に参加した。飛び交う星玉をかわし、時にはぶつかりながら、ミナモはせっせと星を拾い集めて異形の者へと投げつけていった。星玉拾いの始まりを知って、ピーナッツ型の者たち以外にも、あちこちの渦巻きを潜り抜けて、さまざまな存在が星の海へと集まってきた。投げ交わされる星たちは綿毛のようにふわりと散りながら、次々に分裂してどんどん空間を満たし続けていった。
ミナモが夢中になって星を投げていると、遠くのほうで大きな歓声が起こって、轟くような声の響きは星々を伝ってミナモの身体を震わせた。
 乱れ飛ぶ星の間を潜り抜けながら、ミナモは歓声の聞こえたほうに向かって泳いで行った。星まみれになりながらミナモがたどり着いた先には、巨大な八つ足の機械神輿が激しく揺れ動きながら練り歩いていた。
「おお、超時空少女」「超時空少女」の大合唱が巻き起こって、異形の者たちに担ぎ上げられたミナモは、バケツリレーの方式で、無数の手や触手やその他さまざまな接触器官に押し流されながら神輿のてっぺんに導かれていった。
 手拍子がミナモを鼓舞するように独特のリズムで響き渡り、音頭をとれよと促してきて、それに応えるように、これまで超時空少女として培ってきた突発的アクシデントへの対応力を発揮して、ミナモは六芒琴で祭囃子の軽妙な旋律を奏でながら歌いだした。

 

 プリモア プレモア アンジャラ ハプレカ
 クベコア クレオラ シャロニマスリハ
 嗚呼 なんてざま 生き恥さらす この夕べ
 祭だ祭 かき捨てろ 身ほどき さらせ 己がすべ
 ほろ酔いながら 噴き出すしらべ
 頽れ(くずおれ) 託つ(かこつ) 今世のさだめ
 忘れよ 忘れ 忘れたすべて
 真価をはかる 天秤に似た 時間の檻に 捕らわれた
 縛めといて 奮わす肌の 戸惑いうつす
 暁の 妙なる言の 葉の織る宴
 いま ひらかれた すべての者へ
 さあかかげよう その盃を

 

 イチカのホイッスルが拍子をとってミナモの歌を盛り立てた。神輿の周囲を囲んでいた異形の者たちは、手にした盃を高らかと掲げ、なみなみ注がれた神酒を勢いよくあおり、空になった盃を思いきり大地へ叩きつけた。砕けた杯は星になって、流れとび、あちこちに跳ね返りながら、天空につるされた鐘楼を次々に打ち鳴らしていった。
 神輿に担がれ、揺られながら、ミナモは鐘にぶつかって勢いを失い落下してくる星のシャワーのなかを突き進んでいった。機械神輿は広場の中央に到着すると動きを止めて、駆動部にたまった熱を排出した。排熱は煙のように噴き出して上空へと向かって狼煙のように立ち昇っていった。それを目印にあちこちから異形の者たちが集まってくる。
 広場はすぐにいっぱいになって、押し合いながらどんどん密度を増していった。排熱を終えた神輿は、支えを失ったように急にその場にへたり込んでしまい、その膨大な質量で大地を揺るがせた。地震のように広場が揺れて波打って、集まった者たちはバランスを崩して折り重なるようにドミノ倒しになっていった。
 神輿のパーツをつなぎ止めていた螺子やボルトが緩みだして、ぱらぱらカンカンと音を立てながら次々に落下していった。もはやつなぎ止めるものを失った神輿は溶け落ちていくようにバラバラに解体されていき、そのてっぺんに居座っていたミナモはバランスを崩しながらも落下しないように大きな柱のような部品にしがみついていた。
 崩れて地面に落ちた落下は、自動的に組み替えられて別の構築物を形成するために動き出していた。何か明確な形状を目指して組み立てられていく部品がパズルのピースがはまっていくように、整然と結びついていく様子をミナモは柱につかまりながら見守っていた。震動で倒れていた者たちもすでに起き上がって、新たに汲み上げられていく構築物を取り囲んで騒ぎ回っていた。それは巨大な神殿のようにもみえる白亜の建築物となった。
 ようやく地面に降り立ったミナモの耳元に小さな鈴の音が三つ聞こえた。目の前には三つの黄色い月に照らされた巨大なゲートが建ち現われていた。

 

 

  

 

 ゲートにはまだ封印のテープが張られていて、それをカットしなければ中へは入れない状態になっていた。
「おめでとうございます。あなたはちょうど六五五三六の六五五三六乗番目の来訪者になります。さ、このハサミでテープを切ってリニューアルした当館の落成を行ってください」
 そんな声が聞こえたかと思うと、いつの間にかミナモは右手に大きな三つ又のハサミを握りしめていた。刃の部分がいびつに捻じ曲がったハサミの使い方がわからず、ミナモは指の通った柄の部分を動かそうとしてみたが、びくともしなかった。
「さ、どうぞ。あなたの使ったそのハサミは、この時空間を象徴する唯一無二の記念品として当館に永久に保管されることとなります。え、使い方がわからない、そんな馬鹿な。だってハサミというものは使いようでしょう。さ、あなたの思うままにテープを断ち切ってください」
 声に促されて、刃の開き方もわからないまま、ミナモはハサミをテープにあてがった。そして六芒琴の弦をつま弾くように五指をリズミカルに動かしてみた。するとハサミの刃は縦横に開いて閉じて、テープを見事に切断して見せた。
「はい、ありがとうございます。皆様、盛大な拍手を、拍手を」
 万雷に鳴る拍手に押されて、ミナモはそのままよろけるように建物のなかへと足を踏み入れていった。一番乗りのミナモのあとに続いてなかに入ってくる者はなく、長く伸びた天井の高い廊下には、孤独な足音だけが響き渡っていた。どうやらこの建物は博物館か何かのようだった。
 広い廊下のあちこちに設置されていえる台座、さらに壁面から水平に突起したガラスケース、天井から吊るされているもの、あらゆる場所に無秩序に並べられた展示物を見渡しながらミナモは案内板の矢印の表示に従って先へ進んでいった。
 空間には重力にしらばれることなく、球形の透明カプセルがシャボン玉のようにふわふわと漂っていて、どうやらそのなかにも何かが展示されているらしかった。
 超高層ビルの崩壊を防いだ六角螺子、ある発明家がひらめきを得たときに浸かっていた風呂の残り湯、統合政府の長官に重大な決断を促した際に用いられた携帯式通信機、新しい宇宙を創生した大爆発時に発生した粒子の瓶詰、一つの惑星を滅ぼした隕石の欠片など、無秩序に並べられたパネルの説明書きを流し読みしていると、見覚えのあるレインボーフラッグが飾られていて、ミナモは懐かしさがこみ上げてくるのを感じた。
 ここに展示されているものは、あらゆる時空間において、無数に発生し続けている並行世界、そのなかでも特に重要な意義を有する展開を遂げた世界にとって大きな分岐をもたらしたものや、発展のきっかけとなったような重要なものだ。
 数々の展示物を見ながらそのことを理解したミナモは、自分のかかわったものが展示されていることが何だか誇らしく感じられて、思わず微笑んでしまった。
 黄金の図面、読めない文字の書かれた手紙、奇態な海洋生物の剥製の間をくぐり抜けていくと、展示物の一つにミナモの家に代々伝わっている舞踊刀・クモキリが飾られているのが見つかった。そして、その横にはミナモが時空間移動に使用していているハーモニカのような形状をした装置も置かれていた。
 どうしてここにあるのだろう、という疑問をいだく前に、目を閉じて展示台を見つめてみると、そこにはまだ何も置かれていなかった。つまり舞踊刀とハーモニカは今ではないいつか、別の時空間において、ここに展示されるような役割を果たすことになるのかもしれない、とミナモは思った。
 再び目を開いたミナモの視界に、まだら模様の小さな石を乗せた舟の模型が映った。その瞬間、目を覚ましたようにイチカが「こんな場所に流れ着いていたなんて」とつぶやいた。近づいてみると、小舟の中央にはガラス製の燭台が据えられていて、灯りの点いたキャンドルが小さく輝いていた。微かに揺れる火をしばらく見つめて、今度は目を閉じてまぶたの裏側に火を映してみると、そこには無数の小さな泡がブドウの房のように密集している様子が見えてきた。泡の一粒一粒が何かのきっかけで結びつき、大きな泡になったり、小さな粒のまま塊からはじき出されて割れてしまったり、そして塊の中心部からは延々と泡の粒が発生し続けていた。
 塊から二つ並んで離れていった小さな泡を、ミナモはじっと見守っていた。次第に泡は離れて行って、一つ、また一つ、割れてしまい、消えていった。割れた泡のなかから押し込められていた意識が放流となって飛び出していき、いくつかの時空を経て、ミナモが存在している場所へとたどり着く様子が走馬灯のように一瞬にして映し出され、どこからともなく聞き覚えのある哀愁漂うハーモニカのメロディが聴こえてきたかと思うと、まぶたの裏を小さな半透明のネズミの群れが勢いよく駆け抜けていった。
 驚いて目を開くと、赤と黄色のまだらの布で縫製されたマントのような衣装が展示されているのが見えた。パネルには「時の囚人服」と書かれており、意識と存在を時間の檻に囚われた哀れな存在を識別するため警戒と狂気を彩っている、という説明が添えられていた。

 

 館内放送、館内放送、皆様、投票の締切が迫っています、まだ投票のお済みでない方は、急いでお近くの投票所へお越しください。なお、その際、忘れず招待状をお持ちくださるよう、お願いいたします。

 

 館内放送、館内放送……そういえば、投票で何かを決めるだとか、何かの部門にノミネートされただとか、手紙には書いてあったような気がすると、ミナモは思い出して、読み返して確認しようと思ったのだけれど、服を脱いだ際にスカートのポケットにそのまま入れっぱなしにしていたことに思い至った。
 近くの投票所がどこにあるかもわからなかったけれど、それ以前にどうやら手紙がないと投票ができないらしいと考えて、ミナモは急いで取りに戻ろうと思ったが、帰り道どころか、ここが最初の場所からどのくらい離れているのかさえも想像できなかった。
 博物館のゲートを目指して廊下を必死に駆け抜けていると、空間全体を震わすようなブザーの音が鳴り響き、つづいて「ただいまをもちまして投票を締め切らせていただきます。皆様、ありがとうございました」という放送が流れた。
 全速力で走ってきたつもりだったが、息は上がっておらず、疲れもほとんど感じなかった。せっかく祭に招待されたのに、そのメインイベントの一つである投票を棄権してしまったことが悔やまれて、ミナモは小さく肩を落とした。もう走る必要もなくなって、ゆっくりと歩いていくと、すぐにゲートに到着して、ゲートをくぐったその先には、ミナモの衣類がきれいに折りたたまれた状態で安置されていた。
 どうしてゲートの先がこの場所につながっているのか、理由はわからなかったけれど、もう少し早く気がついていれば、投票にも間に合ったかもしれないと考えるとミナモは思わずため息を漏らしてしまった。
 頭上を見上げると橙色の四つの満月が眼前に迫るように大きな姿を浮かべていた。そのとき、ミナモの耳元で小さな鈴の音が四回聴こえた。その澄んだ音に促されるように、ミナモはいったん自分の世界に戻ろうと考えて、たたんであった衣服に手を伸ばした。ひとまずショーツに足を通して腰まで引き上げて、つづけて胸元に下着をあてがって腕を後ろに回した。
「皆様。お待たせいたしました。たったいま投票の結果が出てまいりました」
 周囲がざわついたのを感じて、ミナモは一瞬手を止めたが、そのままホックを止めて、次に左の靴下に手を伸ばした。
「まずは演出部門からの発表となります。皆様、ご存知かとは思いますが、この部門賞は、これまでの累積並行周期におきまして、最も優れた時空間演出により世界を盛り上げた存在とその功績をたたえるものであります。このたび、栄えある大賞に選ばれたのは……」というアナウンスにつづいて、聞き取ることのできない名称が読み上げられて「おめでとうございます」のあとに割れんばかりの拍手が響いたので、ミナモもいったん靴下を置いて、下着姿のまま拍手を送った。
 目を閉じてみると、まぶたの裏側に授賞式の様子が映し出された。まぶしい照明に照らされたステージの中央にプレゼンターらしき青の立方体状の存在が浮かんでおり、そこへ受賞者らしきアメーバ状の存在が這い進んでいた。時空の円環を示したモニュメントを象ったトロフィーが贈られ、ふたたび盛大な拍手が巻き起こり、ミナモも場の雰囲気に圧倒されながら拍手した。
 それからいくつかの部門の発表がつづき、しばらくは初めて見る光景を楽しんでいたミナモだったが次第に雰囲気にも慣れてきたところで、自分が先ほどから下着姿のまま突っ立っていたことに思い至り、慌てて靴下を拾って足に通した。
「つづきまして、ティーンエイジャー部門の発表となります」というアナウンスがあって、聞き覚えのある部門名にミナモの手が止まった。
「このたびの大賞受賞者は……クモキリ・ミナモさんに決定いたしました」
 その瞬間、下着姿で靴下をつかみ、片足を上げていたミナモにあらゆる方向からスポットライトが浴びせられた。そして、恥ずかしさに戸惑っている暇もなく、周囲の光景が一変して、ミナモはステージの上に転送されていた。
「さあ、受賞者の方はステージの中央へ、皆様、盛大な拍手でお迎えください」と言われて、鳴り響く喝采のなかを、何の辱めだろうかという思いをぼんやりと頭の片隅に浮かべ、朦朧としながらミナモはステージ上を進んでいった。
 受け取ったトロフィーは大きさのわりには軽かった。これが美人コンテストか何かで、水着姿で立っているのなら、まだ格好はつくのだけれど、大(小)不統一祭のティーンエイジャー部門というわけのわからない賞で、しかも下着姿に靴下を片方だけ履いた格好というのではあまりにも間が抜けていた。
「さあ、クモキリさん。今のお気持ちを、何か一言お願いします」と促されたところで、こんな格好で真面目なことを言っても滑稽なだけのように思われて「あ、あの、は、恥ずかしい……です」と小声でつぶやくのが精いっぱいだった。先ほどまでは全裸であちこち駆け回ったり飛び回ったりしていても、羞恥心など感じられなかったのに、衣服をまといはじめた途端、羞恥心が湧いてきたようだった。
「この喜びを、いま、誰にいちばんに伝えたいですか」と次の質問が飛んできたが、できれば誰にも知られたくない、というのがミナモの正直な感想だった。この受賞の様子は博物館にアーカイブとして永遠に記録されるのだと聞かされて、ミナモは眩暈がするのを感じた。今となっては、新調した可愛らしい下着を着用してきたことだけがせめてもの救いだと思うほか、なかった。
 ようやく質問攻めから解放されて万雷の拍手のなかミナモがステージを降りていくと「なお、クモキリさんには祝祭の最終日に執り行われる儀式において、奉納の役を務めていただくこととなります。皆様、もう一度、クモキリさんに盛大な拍手をお願いいたします」というアナウンスが流れてきた。
 聞いてない、という感想しかいだくことができず、ミナモはステージを降りる階段の途中で立ち止まってしまった。お疲れ様です、と駆け寄ってきたスタッフらしき存在に、とりあえずトロフィーを預けて、隣に並んで《儀式》についての説明を聞かされながらミナモはしばらく歩きつづけた。
 大(小)不統一祭の最大の目的――それは、無数に発生した並行世界によって生じてしまった時空間同士の齟齬や歪みを調律して、再び適切な状態へと統合することにある。そのためには、拡散して氾濫してしまった時間と空間の膨張を鎮めなければならず、そのための儀式を執り行い、時空の意識を儀式という一点に集中させることで凝集し、最終的には調律の針と呼ばれるものを中心の位置に戻すことが必要ということだった。
 ミナモに任されたのは、その儀式において時空の意識を集めるために何かしらの技芸を執り行うことだった。ミナモによる巧みな技芸によって、あらゆる意識をそちらに向けさせて、最終的にミナモに釘付けにし、その状態のミナモが調律の針に触れて整えることで、儀式は完了するらしい。
 そんな大役を、何も知らされずにいきなり振られて、しかも準備期間もろくに与えられないなんて、何事か、と叱責の声をあげたくなったのを、その矛先を見つけることができずにミナモはゆっくりと飲み込んだ。
 いつの間にか着替えの置いてある場所に戻ってきたミナモは、スタッフからトロフィーを受け取ると、トロフィーは折りたたまれるように変形していって、小さな鍵のような形状に落ち着いた。そして、鍵のなかにミナモの六芒琴とイチカのホイッスルが流れるように吸い込まれていった。
「再び祭の会場にいらっしゃる際には、そのカギを使ってください。それでは、よろしくお願いいたします」と頭を下げて、スタッフは地面のなかに吸い込まれるように溶けて、消えてしまった。
 取り残されたミナモは、着替えのつづき、まずは右の靴下を手にして、ゆっくりと足を通していった。ブラウスを羽織りボタンを留め、スカートを履いてカーディガンの袖に腕を通し、カバンを掴み上げてなかに鍵を放り込んで、ミナモは「帰ろ……」とつぶやいた。スカートから投票用紙を取り出してみると、そこには投票済の印が捺されており、ティーンエイジャー部門の欄にはミナモ自身の筆跡で「クモキリ・ミナモ」と書かれていた。
「え?」と思わず声に出してしまった直後「おめでとうございます」と背後から声をかけられて、振り向くとピアノを弾いていた少年が妹を乗せた車椅子を押しながらミナモのほうに近づいてきた。少年はミナモが投票用紙を見つめて戸惑っているのに気がついて「ああ、それですか。あなたは投票に間に合わないと考え、自分は受賞したくなかったと思った。この投票は、かなり特殊というか、ある意味ではパラドキシカルな要因を多分に含んだものですからね。結果にたいした意味なんて、ないんですよ」と笑った。
 あれだけ恥ずかしい思いをしてせっかく受賞したのに、たいした意味はない、と言われるとミナモは少し気分が悪かったけれど「あなたが選ばれたのはある意味必然、でも、別の考え方をすれば偶然とも言えます」という少年のあいまいな物言いに巻かれてしまい、むっとする間もなく「どういうこと」と聞き返すと「けっきょく、誰かの意思が働いてあなたを選んだ、ということです。誰か、といってもそれが単独なのか集合的なものなのか、僕にはわかりませんけど」と少年はつづけた。
「奉納の儀式、楽しみにしていますね」と妹のほうに声をかけられて、次の瞬間、世界が暗転したかと思うと、ミナモは携帯通信端末を片手に持ったまま、いつもの通学路の途中で立ち止まっていた。

 

 

  

 

「ミナモ先輩」と手を引かれて「焼きそば、半分こしませんか」と上目使いのサヤに見つめられたのに肯いて、屋台の前で立ち止まったミナモは、財布から小銭を取り出しながら特濃ソース焼きそばを一つ注文した。
 それじゃあ私は飲み物買ってきますね、とサヤはすぐそばのラムネの屋台へ、人ごみをかき分けながら小走りに向かっていった。鉄板に広げられ、じゅうっと音をたてて、ソースのにおいを漂わせながら二つの鉄ゴテによってかき混ぜられている焼きそばの完成を待ちつつ、ミナモは小さなサヤの背中を見守っていた。
 行き交う人々の喧騒と、スピーカーから流れる祭囃子、どこか懐かしい笛の音色が、無数に吊るされた提灯電燈の橙色の灯りにとけ込んでいた。
 焼きそばが完成するよりも早く、ラムネの瓶を二本手にして戻ってきたサヤは、その一本をミナモのほうへと差し出して、受け取ると冷たい瓶の感触が汗ばんでいた手のひらに心地よく広がった。ミナモがそっと瓶を首筋に押し当てると、夏の夜がもたらす蒸し暑さのせいで全身を包みこむように帯びていた熱が、すうっと引いていくようだった。
「お待ち」と声をかけられて、透明のパックに収まった出来たての焼きそばと割り箸を二膳受け取ると、ミナモはすこし肌蹴た浴衣の合わせを整えて、サヤと並んで雑踏のなかを歩いていった。
 はぐれてしまわないように、と笑いながらサヤは腕組みをするようにミナモの左腕に自分の右腕を絡めて、くっつきすぎてしまったのを「暑いですね」と先ほどよりもほんのすこしはしゃいだ声で言った。
 人ごみを抜けて、橙の灯りの陰った祭の端までたどりついて、しばらく辺りを見回して、ちょうどベンチが空いたのを見逃さずに、二人は小走りで駆け寄って、並んで腰を下ろした。
「早く食べないと冷めちゃうね」とミナモが言うと「ラムネも温くなっちゃいます」とサヤは応じて、まだ辛うじて出来たてといえる範疇にとどまっていた焼きそばを半分ずつ平らげた。ビー玉を押し込んだラムネの飲み口からしゅわしゅわと炭酸の泡があふれだして、二人の指先を濡らしていった。
 遠くから小さな祭囃子のメロディが聞こえてきた。それは二人が祭会場の神社の境内に足を踏み入れてから、すでに数十回以上もループ再生されていて、すっかり耳に馴染んでしまった、空間を支配する旋律だった。
「来月、父が戻ってくるんです」と空になったラムネの瓶の底を覗き込むように見つめながらサヤが呟いた。サヤの父親は高名な機械工学者で、ミナモの小さいころから発明王などと呼ばれていた町の有名人だった。
 両足を小さく前後に揺らしながら「モニタ越しでいつも顔は見てるんですけど、もうずいぶん長く直接会ってないんで、何か変な感じです」とサヤは言って「勤務先の施設で、今度、大規模な移転があるらしいんですよ。もしかしたら、その機会にクビになっちゃったのかも」と微笑んだ。
シトー博士が?」まさか、とミナモが応じると「でも、相手は天下のマルキ・カンパニーですから、もうパパの力は必要ないのかも」と何だか嬉しそうにサヤは言った。
 父親の帰還を待ちわびているサヤの様子を微笑ましく思いながら、ミナモは小さくため息をついた。すると「先輩、私といても退屈ですか?」と、先ほどまで笑顔だったサヤは、不満そうな表情を浮かべてミナモの顔を覗き込んできて「え、どうして?」とミナモが訊ね返すと「さっきからため息ばっかりついてます」と指摘されて「あ、ごめん、違うの、ちょっと気になってることがあって……」と謝罪して、もう一度小さなため息をついた。
「心配事ですか?……あの、私でよければ」と言いかけたサヤを遮って「あ、大丈夫、たいしたことじゃないから。あと数日もすればたぶん忘れちゃうと思う」とミナモは笑って誤魔化した。
 まさかサヤに相談できるわけもない。時空の果てで連日連夜催されている《大(小)不統一祭》と呼ばれる祭典。そのクライマックスを飾る儀式で、自分が奉納の役を務めることになってしまった、などと。
 限られた時間のなかで考えたすえに、すでに演目は決まっていた。子どものころから叔父の指導のもと身に着けてきた剣舞……幸いにも元来祭事用の舞踏といった性質のものだったこともあって、むしろこれ以外にミナモにできることはない、といってしまってよかった。
 祭事のために用いられる家伝の舞踊刀「クモキリ」。やはり重要な儀式には、最高の条件を整えて臨みたいと考えていたが、叔父が大切に管理しているその刀を、修行中の身であるミナモが頼んで簡単に借りられるはずもなかった。そこで仕方なく、隣接時空の自分には悪いことをしてしまったと罪悪感を覚えつつも、ミナモは時空間移動装置を使って、別の時空の叔父の家から「クモキリ」を拝借してきたのだった。
 サヤと一緒に行こうと約束していたこの夏祭が終わったら、ミナモはその足で大(小)不統一祭へと向かわなければならなかった。祭の開催期間のうちすでに五日目が過ぎ去ろうとしていた。渡された鍵を使わずに、無視して会場を訪れない、ということも考えてみたけれど、けっきょくミナモは奉納の役を務めることに決めた。
 六日目に入れば、六つ目の月が上る。ミナモは少女に託された予言詩のことを思い出して、祭がフィナーレを迎えないまま、七日目に入ったらどうなってしまうのだろうかと考えて不安を感じていた。祭を終わらせるためには、儀式を執り行って時空間の調整をしなければならず、そのためにはミナモが剣舞を披露しなければならないのだった。
「難しく考えることない、気楽にいきましょう」とミナモのなかのイチカがつぶやいたのを、サヤは心配そうな面持ちで見つめていたが、小さく微笑んで「綿あめ、食べたいです」とミナモを促した。綿あめを最後に食べたのっていつだろうかと考えてみたが、思い出せず「焼きそば、食べたばっかりだよ?」と笑い返すと「綿あめって、何でできてるんですかね」と質問されて、とっさには答えられず「何だろう、食べてみたらわかるかな」と、いつの間にか自分も綿あめを食べるつもりになっていたのが、ミナモは可笑しかった。
 町を二分するように流れている大きな河の向こう岸で、花火が連続して打ち上げられていった。「ミナモ先輩、きれいですね」と花火を見上げるサヤの横顔が、夜空で儚く放たれていく光によって、断続的に照らされているのをミナモは見つめていた。光に遅れて、重たい音が響き渡り、ミナモも夜空を彩る熱の輝きを見上げた。空には大きな満月が煌々と輝いていた。
 真白い月の明かりと、その周囲を飾りたてる花火の色がまぶしくて、ミナモは思わず目を細めて、そのまま瞬きをするようにゆっくりとまぶたを閉じていった。その裏側には、赤く不気味に色づいた五つの月が映っていた。
 花火の割れるような音が薄れていき、雑踏は暗闇に染み入るように静まって、何かを語りかけていたサヤの声も消えて、周囲は静寂に包まれていった。それから、別の世界へ誘うように、小さな鈴の音が五つ、ミナモの耳元で鳴り響いた。

 

 

  

 

 浴衣の胸元に舞踊刀「クモキリ」を忍ばせて、ミナモは手にした鍵をゆっくりと回して異界へとつづく扉を開いた。封印を解かれた扉はそのまま自動的に開いていき、次第に薄れて消えていった。髪を結わいていた飾り紐をほどき、手に残っていた鍵に通してそれを首からぶら下げる。
「クモキリ様、ようこそお越しくださいました。儀式の準備は委細整ってございます」
 暗闇から姿を見せず、声だけでそう呼びかけられたのに肯いて、ミナモはゆっくりと前に進みながら腰の帯を解いていった。足元へと落ちていく帯をそのまま後ろに流しながら、すべてほどき、前の肌蹴た浴衣を肩から滑り落としていく。胸元に収まっていた短刀を左手で握りしめながら、立ち止まって和サンダルを脱いで、その場で下着も素早くはぎ取った。
 はじめてこの場所にやってきたときと同じように、身と、思考と、心を浄化していく。その奇妙な感覚には相変わらず馴染むことはできなかったけれど、何が行われるかがわかっていれば、戸惑うこともなかった。
「それでは、儀式の前にその盃をあおっていただきます」と目の前に差し出された大きな盃には、透明な液体がなみなみと注がれていた。それは時空と空間の隙間に身体を浸透させるために、身体の組成を変化させるための手続きということだった。さらにその成分には精神を急激に高揚させる作用があるらしくて、時空間の歪みを調律し、鎮めるには、あらゆる流れから解放されるために、まずは理性を捨てなければならないのだという。盃をあおって理性を飛ばし、酩酊状態のまま、本能に従って技芸を執り行うことにより、奉納役の技量を捨象して儀式から神聖さと意義を剥奪する。
 両手で盃を掲げて、念のため「あの、私、未成年なんですけど」とミナモが確認すると「安心してください。その液体は人体に悪影響はありません」とお決まりの返事があって、それにつづいて「また、この時空間において、あなたの考える年齢という概念は意味をもちません」という補足があった。
 肯いて盃の端に唇を押し当てて、ミナモは一気にあおった。
「すべて飲み干してください」と促されるままに、いつまで経ってもなくなることがないように感じられる量の液体を、ミナモは喉の奥に流し込み続けた。胃のなかが液体で満たされていく感覚があって、すぐに全身が熱を帯びはじめて、焼けるように熱くなっていくのが感じられた。
 手を離れて地面に落下した盃は砕け、小さな星となって飛び散っていった、ようにミナモには思えたけれど、それが真実かどうか判断できなかった。視界がいびつに歪んで、無軌道な振り子のように縦横に揺れていた。
 おぼつかない足取りで、ミナモが前に進み出そうとすると、イチカの意識はミナモとは反対の足を前に出そうとして、意識のなかで両足がもつれ合って、倒れそうになったところで、この場所には重力がないようだと、ミナモ、あるいはイチカはぼんやりと思った。
 盃といっしょに手放してしまった舞踊刀が、少し離れた場所に漂っているのが見えて、つかもうと手を伸ばしたが、伸ばした手が右なのか左なのかわからず、刀が見えているのが眼球の先なのか、まぶたの裏側なのかもわからなかった。
 宙空をかき回すように両手を振り回していると、足の指先に刀が触れて、そのまま足指を使って掴み取り、鞘を引くと、磨き上げられた滑らかな刀身が姿を現した。眼前とまぶたの裏に映るその輝きに酔いながら、ふぅ、と熱い息を吐いて利き手で「クモキリ」の柄を握りしめる。
 ようやく一つにつながった、という感覚が伝わってきて、全身が一筋の刀になったかのように、背筋をまっすぐに伸ばすと、拍子をとる太鼓の大音声が空間をつつみ、押し広げていった。それから時間を引き延ばすような、長い長い笛の音色が水平に広がり、満ちていった。音楽が身体に染み渡るのを待って、まずは緩やかな動きで弧を描くように刀を振るう。動作の端で刀身を停止させると、動きに合わせて無数の鈴が振り鳴らされる。刀の動きと連動した鈴の音は、途切れることなく重なり続けて、笛の音色に縦のゆらぎをもたらしていった。
 ふらついていたはずの足元が、剣舞の修行によって身についていた足さばきを追いかけるように、懸命に正確な位置を求めて泳ぎはじめていた。動きを熟知しているミナモと、何も知らないイチカの動きが、音楽に合わせて本能的に連続していった。太鼓の放つ重たい音圧に弾かれるように揺れながら、前後左右、上下を無視したその動きに「クモキリ」の刀筋の描く軌道が重なって、酩酊した鋭い刃が放つ危うい輝きが、澄んだ鈴の音の連鎖を促していった。
「汝、時間と空間を調律せし者よ、針を引け」
 暴力的な音圧の渦のなかで、耳ではなく胃の奥のほうへそう呼びかけられて、返事をする代わりに、腹痛がするくらい身体を折り曲げて狂ったように笑いながら、刃物を振り回し続ける。
「調律せし者よ、針を引け」
 再びそう呼びかけられたが、ミナモには何を言われているのか理解することができなかった。ただひたすら、身体が朽ちて壊れるまで、意識が擦り切れて消滅してしまうまで、踊り続けること以外に、何一つ浮かんでこなかった。
 破滅に向かって暴走しかかっていたミナモの意識を押さえつけるように、イチカは刀を握っているのとは反対の手で、調律の針へと向けて手を伸ばそうとした。狂宴を終わらせようとするその動きを拒絶するように、ミナモは「クモキリ」を振り上げてイチカの手を切り落とそうとした。
 イチカは、とっさに手を引いて刃の軌道をかわすと、体勢を整えて再び針へと手を伸ばそうと試みた。いつの間にか太鼓と笛、そして鈴の音は消えており、刃が空を切る音が、克明に響き渡った。
 リン、リン、リン、リン、リン、リンと小さな鈴の音が五つ耳元に響き、鈴の揺れる気配がそれに続いた。イチカの手ひらが針の端に触れ、身体ごとぶつかるように勢いにかませてそれを引っ張った。同時に、小さな鈴の音が一つ、響き渡った。
 空には深紅に染まった六つの月がすべての終わりを告げるように残酷な光を放っていた。

 

 

  

 

「お疲れさまでございます。儀式は無事、終了いたしました」
 理性を取り戻したミナモの顔はとめどなく流れ出してくる涙と鼻水と涎でべとべとに汚れていた。息が上がって乱れた呼吸を整えようとするがうまくいかなくて、ミナモはむせるように咳をして、肺の奥から小さな擦れた音を響かせた。
 全身の筋肉が弛緩したように力が入らず、内股にへたり込んだまま立ち上がることもできなかった。儀式の最中のことを思い出そうとすると、背筋に悪寒が走って全身が小さく震え、粒だつような鳥肌が浮かび上がってきた。
 儀式の間、ミナモはすべてを奪われてしまうような恐怖に支配され続けていた。この場所に入るために浄化した、身体、思考、心、そのすべてが破壊され、自分が自分ではなくなってしまうような、存在を脅かされる恐怖だった。
 六つの月が互いに干渉し合う力によって、空間が崩れ始めていた。
「もうここも長くは持ちません。急いでご帰還ください」
 呼びかける声には、既に存在はなく、崩壊を始めたこの時空間に残っているのはミナモとイチカだけのようだった。イチカに支えられ、背中を押されるような気持ちで何とか立ち上がると、ミナモは脱ぎ落としてあった浴衣を羽織って身体を包み、とりあえず帯を適当に巻いて、首から下げた鍵に触れた。
「それでは、どうか気をつけてお帰りください」という言葉を残して、ついにあらゆるものが世界から消えていった。ミナモは鍵を回して世界から抜け出そうとして、手に握りしめたままになっていた「クモキリ」の鞘を置いてきてしまったことに気がついたが、もう取りに戻ることはできなかった。
 鍵で開いた先に続いていた暗いゲートを遊泳しながら、ミナモは自分の世界を目指して進んでいった。大切な役割を何とか終えて、時間ぎりぎりではあったけれど何とか無事に時空を調律することができた安心感が、ようやく込み上げてきて「ありがとう」と自分のなかのイチカに礼を言った。
 戻ったら、またイチカに協力して友達探しを手伝おうと、改めて決意を秘めながらミナモが泳いでいると、とつぜん、何かに引っかかったように身体が停止してしまった。視界には何も映っていなかったが、目を閉じてみると、そこには六角形を象った糸状のものが網ように張り巡らされた。
 手足に絡みついた糸を振りほどこうとするほどに、ミナモの身体を締めつけるように六角は細分化していき、ついに指の一本一本までがんじがらめにされてしまった。いったいこの網は何なのか、わけもわからずミナモが途方に暮れていると、前方から巨大な亀が空間を漂うようにふわふわと近づいてくる姿が見えた。接近してきた亀はその鼻先を突きつけるようにミナモの眼前で停止して「贄、遊ぼう」と大きな口をゆっくりと開いた。
 ミナモが黙って見つめていると、再び亀は「贄、遊ぼう」とつぶやいた。
「あなたは?」とミナモが問いかけると、亀はほんの少しだけ首をかしげて「時間」と答えて、しばらくして「空間」とつづけた。それから再び、淡々とした調子で「贄、遊ぼう」とつぶやいた。どうやらその誘いを断ることはできないようだった。
「何して遊ぶの」
 ミナモが躊躇っていると、イチカが亀の誘いに乗ってそう話しかけ、亀は嬉しそうに口の端を小さく上げて「遊ぼう」と言った。身体を締めつけていた糸が緩められて、ようやくミナモは自由を取り戻して、乱れた浴衣の重ねを申し訳程度に整えてから背筋を伸ばして亀とまっすぐに向き合った。
「お前が、先行」
 亀がそういったかと思うと、ミナモはいつの間にか六角形の大きなパネルの上に立たされていた。三マス掛ける三マス、九つの六角形が菱形のように敷き詰められたパネルのうちの、どうやら一枚を選べと迫られているようだったが、ミナモには遊びのルールが理解できず、どうすればいいのかわからなかった。「お前が、先攻」と繰り返す亀に「ルールを教えて」と頼んでみたが、亀は同じ言葉を吐きつづけるばかりだった。
「真ん中のパネルを」とイチカが言うと、透明だったパネルの色が黒く染まった。パネルは九枚しかないので、亀はイチカの選んだパネルに隣接しているものから一枚を選んで、パネルを白く染めた。つづいてイチカも適当なパネルを一枚選び、亀は初手で自分の選んだパネルに隣接するパネルを選んだ。
 三手目で、イチカがパネルを選ぶと、黒いパネルが一本の線のようにつながった。
「お前の、勝ち」
 亀がそう呟くと、白と黒に染まっていたパネルが透明に戻り、それからマスが各辺四マスに増設されていった。どうやらルールはいたってシンプル、順番にパネルを選んで行って、先に対角の辺と辺を結んだほうが勝ち、というものらしかった。一勝負終わるごとに次第にマスが増えていき、少しずつゲームが複雑になっていくということのようだった。
 正直、ミナモはこの手のゲームが苦手だったが、幸いにもイチカは楽しんでいるようだったので、ここは彼女に意識を預けて任せてしまおうと決めた。
 四マス、五マスとつづくゲームにもイチカは順調に勝っていき、遊びながら少しずつ要領をつかんでいった。どうやら亀は勝ち続けている限りはこちらに先攻を渡してくれるつもりのようだった。
 少ないマスのゲームはあっさりと決着がついてしまうため、どんどんゲームのフィールドは広がっていき、十一マスを超えたあたりから、急に複雑さが増してきたように感じられたが、イチカの感覚では、このゲームは先攻が有利なようにできており、慎重に進めていけば簡単に負けることはないはずだという手応えを次第につかんでいた。
 しかし、休みなくつづけられるゲームによって、イチカの思考は疲弊しはじめており、気を緩めると致命的なミスを犯してしまうかもしれない、という不安が募っていった。
 二十五マスを超えたとき「お前、強いな」と亀は笑い「楽しいな」と同意を求めるようにつぶやいた。嬉しそうに笑っている亀に「少し休ませて」とイチカは頼んでみたが、疲れ知らずの亀は「お前が、先攻」と言ってゲームの続きを促すばかりだった。
 イチカが要求に応えずに休もうとすると「早く」と亀はつぶやき、その言葉は勢いをもってイチカに迫り、強制的に思考を推し進めようと働きかけてくるのだった。亀の意思に押されるように、イチカは仕方なくゲームを続けていった。
 もう何マス目なのか数えるのもやめてしまい、フィールドははるか先、地平線のように彼方まで広がっていて、イチカの疲労は極限に達しつつあった。ミナモはできることなら交替したいと思いながらも、すでに複雑なゲームについていくことができなくなっていて、ただイチカの身を案じながら勝利を願い続けることしかできなかった。
 いったい、この空間はどこまで続いていて、このゲームはいつまで続けられるのだろうかと、ミナモは考えてみたが、どちらにも果てが見えなかった。
「新しい、遊びを、しよう」
 これまで同じ言葉を繰り返していた亀が、急に思いついたように新しい言葉を口にしたのに驚いて、イチカは朦朧としていた意識を立て直して「新しい、遊び?」と言葉を返した。
 亀は、イチカではなくミナモの疑問に答えるように「ここは、時空間のはざま」と言って「時間も、空間も、終わりは、ない」とつづけ「ここは、私の、世界。お前は、私には、逆らえない。だから、新しい、遊びを、しよう」と笑った。
 とつぜん、それまで延々と広がり続ける平面だったフィールドから六角形のパネルが起き上り、組み合わさっていき、地面から飛び出すように大きな立体物を形成していった。ミナモはその立体を見上げながら周囲をゆっくりと歩き回って、その形状を確認した。
 それは八つの正六角形と六つの正方形で構成された十四面体だった。十四面体は隣接し、重なり合うことによって隙間なく空間を埋めることができる構造になっており、つまり、亀の提案してきた新しい遊びというのは、これまで平面だったゲームを垂直方向にも広げようということらしかった。
 しかし、その変更を加えることで同じルールを維持できるのだろうかと、イチカは疑問に思った。これまでは辺から辺へ向かって道を伸ばして行くというシンプルなゲームを繰り広げてきたのだが、それが立体化することで結ぶべき始点と終点を定めることができなくなってしまう。それに、これまで六角形のみだったフィールドに正方形が加わることによって、その扱いについて新しいルールが必要になる。
 だが、亀は最初と同じように新しい遊びのルールについては何一つ説明しようとはしなかった。ほんの一瞬だけ、饒舌になったかのように思われた亀だったが、新しいフィールドが形成されると、再び「お前が、先攻」という言葉だけを口にしつづけるようになった。
 とにかく初手を打ってみないことには埒があかないと腹をくくって、イチカは適当なマスを選んでパネルを黒く染めた。亀もすぐにパネルを選び、しばらくお互いの手を交換し続けているうちに、イチカは亀も自分と同様にランダムにマスを選んでいるのではないかと勘付いた。もしかしたら、亀もこのゲームのルールを理解していないのかもしれない、という考えがイチカの脳裏をよぎった。
 ためしにイチカが正方形のマスを選択しようとすると、パネルの色は変化せず、手番の交代も行われることがなかった。正方形はフィールド上に配置されながら、ゲームのルールから除外された例外的な場所、ということらしかった。
 でも、ここが空間のはざまなら、場所には意味なんてないはずで、正方形にだって「例外」という意味が付与されることもないのではないか、と単純な疑問をミナモが思い浮かべたのを、イチカは汲み上げて、このフィールドは矛盾したゆらぎをはらんでいるのかもしれないと推測した。
 イチカはこれまでまっすぐに伸ばしてつなげようとしていたパネルの選択を変更して、正方形のマスを取り囲むようにパネルを選んでいった。亀はイチカの意図に気づくことなく、独自の基準によってパネルを選んでいるようだった。
 そうして一つの透明な正方形が黒い六角形に囲まれて、その隙間に浮かび上がった。その透明のパネルに顔を近づけて、目を閉じてまぶたの裏から向こう側を覗き込んでみると、この世界とは異なった時間が流れている様が映し出されていた。その流れがどこに続いているのかまではわからなかったけれど、ここに閉じ込められて終わりのないゲームに付き合わされるよりは幾分かはマシだろうとイチカとミナモには思われた。
 首から下げていた鍵にそっと触れてみると、まだ微かに力が残されているように、ぬくもりが感じられた。肯いて、次の手番で鍵を使ってこのパネルをこじ開けようと決めた。
 亀は、これまでと同じように白いパネルを一枚増やして、手番を終えて「お前の、番」とつぶやいた。これまでに発されたことのないその言葉に、こちらの意図に気づかれてしまったのではないかと、イチカは焦りを覚えたけれど、それを表には出さずに次のパネルを探すふりをして周囲を見渡した。
 さりげなく鍵を手にして、それを透明のパネルに押し当ててみると、その先端はパネルのなかにスッと吸い込まれていった。その瞬間、上手くいったと思わず微笑んだが、次に鍵を回そうとして、それがびくとも動かないことにイチカは全身に冷や汗が浮き出すのを感じた。
「なに、してる」と亀に問われて、上手く答えられずに必死で鍵を回そうとしたが、今度はどこかに引っかかって抜くこともできず、さらに焦りが募っていった。「贄、何してる」と亀はすこし語気を強めて繰り返した。それは「怒り」というほどの強さを帯びてはいなかったけれど、亀がはじめて見せた感情の断片のように感じられた。
 カチッと鍵のはまる手応えがあって、力いっぱいひねってみると、ついに透明のパネルにひびが入って鍵が回った。手を離してしまうとすぐに弾き返されてしまいそうで、全力で鍵を横倒しに押えながら、ひびの隙間を広げようと「クモキリ」の切先を突き刺していく。すると亀がうめくように喉を鳴らした。
 亀の甲羅の一部に小さな亀裂が走っているのが見えて、イチカはこの空間と亀の甲羅につながりがあることに気がついた。亀はこの場所を「はざま」と呼んでいたけれど、そのなかで時間の流れを支配しているのは亀の思考、空間を支配しているのは亀の身体で、先ほどまでは亀の言葉通り、この世界は亀に支配されていたのだけれど、亀が「新しい」遊びを思いついたことで、これまでのバランスが崩れたことと、鍵の力によって、ほんの少しだけ世界に歪みが生じつつあるようだった。
 抜け出すなら今しかなかった。黒いパネルで囲まれた範囲は、ゲームの間はイチカの領域となっていた。何とか亀裂を広げて、身体ごとここから脱出しなければと、鍵を握る指先に力を込めるが、透明のパネルは固かった。
「無駄だ、ゲームを、続けろ」と言いながら、亀は甲羅の亀裂を気にするように身をよじった。亀の巨体が積み重なっていた十四面体の一部にぶつかって、その衝撃で隙間なく連なっていた重なりが崩れ始めた。いちど崩れ始めた立体は、次第に勢いを増しながら瓦解していった。
 崩れゆく立体を焦りのまなざしで見上げながら、イチカはまだ領域を確保しているうちに出口を広げようと全身に力を込めていた。鍵にかかる抵抗はどんどん強くなっていて、手を離してしまったら、一瞬で弾き飛ばされてしまいそうだった。崩れたパネルの欠片が降り注いでくるのを、身を丸めて背中で受け止めながら、ミナモの突き刺していた「クモキリ」の先にほんの少しの隙間を見つけて、両手で鍵を押えながら足の裏で舞踊刀の柄の部分を全力で押していった。鉄の刃の軋む音が聞こえたような気がした。
「クモキリ」の刃が折れて弾き飛ぶのと隙間が広がるのは、ほぼ同時で、すぐにふさがろうとするパネルの動きを、差し込んだ鍵で必死に引っ張りながら、イチカはこの隙間にミナモだけでも入れなければならないと、とっさに判断した。
「ミナモっ」と自分の口からイチカが叫んだのをミナモは聞いた。「このゲームが終わったら、また一緒に遊ぼうね」と言って、イチカはミナモの意識のなかから自分を切り離して、ひとまずパネルに刺さったままの鍵に向かって飛び込むことに決めた。そうして意識を抜ける最後の瞬間に、イチカは片足に力を込めて身体を隙間にねじ込むようにジャンプした。
「楽しかったよ、ありがとう。シタルによろしくね」という言葉が脳の片隅で残響して、消えていった。暗闇のなかに落ちていきながら、ミナモはいったい自分がどこにいるのかわからないまま、意識を失っていった。
「贄、遊ぼう」
 鍵となったイチカに亀が呼びかけた。すでに亀裂はふさがっていて、崩れ落ちたはずの六角形のパネルは平面状にきれいに敷き詰められていた。人間の身体を失ったイチカからは、先ほどまでの疲れはすっかり消えてしまい、変わりにパネルに突き刺されて無理な力を加えられていた金属的な疲労が感じられた。
 この世界で遊ぶのに、どうやら形状にはあまり意味がないらしいと鍵の身体を確認しながらイチカは悟った。時空のはざまを支配している亀だって、恐らく亀であることに意味などなくて、必然性もないのだろう。そしてこのゲームにだって。
「ねぇ、もっと面白い遊び、知ってるよ」とイチカが意識を伝えると「面白い、遊び、しよう」と亀は答えた。「贄、面白い、遊び、しよう」と亀が繰り返すと「いいよ、面白い遊び、たくさん教えてあげる」と鍵のイチカは身を震わせた。
「贄、お前、優しいな」と時空のはざまの支配者は小さな鍵をそっと拾い上げた。

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