梗 概
意思と四肢
六年前、小さな海辺の街で起こった「第一侵食」により、街は不思議な泡に飲み込まれ、その跡には巨大な濃紺のブロック群が残されていた。そこは「青い都市」と名づけられ管理区域となる。
救助活動も空しく、跡地から生存者は発見されなかった……公にはそう発表された裏で、実際には唯一の生き残りの少女「シタル」が、身体の大部分を失った状態で発見されていた。
脳と右目を含む頭部の半分のみのシタルは研究施設に隔離され、脳波による意思の疎通が可能となる。そして、シタルは左目を通して見える「青い都市」の向こう側にある世界の存在と、自分の身体が都市の内部に取り込まれた状態でまだ生きていることを伝える。
初期の大幅な侵食は見られないものの、泡による侵食は日々ゆっくりと、止まることなく続いており、数十年後には地球の大部分を飲み込んでしまうのではないかと恐れられ、その研究・対策が喫緊の課題となっていた。
調査に協力する代わりに、シタルは「簡易球体」と呼ばれる音声コミュニケーションと平面移動が可能な仮想の「身体」を手に入れ、限定された範囲内での行動の自由を得る。
単独行動に不自由のあるシタルには補助ロボットの「クン」が付き添い、警護や移動のサポート、そして監視を行うことになる。
調査をつづけながら「身体」を探していたシタルは、ある日、都市をさまよう「首なし」の噂を聞きつけ、クンとともにその行方を追う。
ついに再会を果たしたのは六年前の小さなままの身体だった。己の「心」を取り戻そうと簡易球体に手を伸ばす身体に対し、クンの防衛機能が働くが、すでに人体の生成を失い、都市の一部と化していた身体の力により、クンは破壊されてしまう。
簡易球体を手にした身体は、そのまま泡と溶けて球体と混ざり合い、そうしてシタルの心と身体は再び融合を果たす。一つに戻ったシタルは、溶けてゆくクンのパーツの一部を拾い上げて、そっと抱きしめる。
文字数:800
内容に関するアピール
心と身体が分断された状態から物語がはじまり、それぞれの活動・状態を描きながら、再び対峙する場面を「見せたいヴィジョン」と設定してストーリーを組み立ててみました。
また、エンターテインメントとして、すこしでもアクションシーンを取り入れてみたいと思い「身体」と「クン」の対決の場面も用意しました。
シタル=心はあるが身体がない
ク ン=身体はあるが心がない
という構造を用意して、その交流を描きながら、最後には、役目を終えて消えていく「道具」(玩具と言い換えてもいいかもしれません)へ向けられる視線を通して、主人公の精神的な成長のような部分も想起させてみたいと考えています。
かつて大切だったけれど、今はもうほとんど顧みることはなくなり、それでも、捨てきれずに部屋の片隅に放置されているもの。そんなものが不意に目に入ってきたときの、何とも言えない感覚が、ほんのちょっぴり読後の味わいとして残せるかどうか。
文字数:400
意思と四肢
1
(ねぇ、クン。起きてる?)
二人きりの部屋、その問いかけに応えるように、クンは静かにシタルの視界のなかへと回りこみ、そのつぶらな瞳をぱちぱちと明滅させた。クンの動きに反応して室内灯の明かりが点り、自分を見つめるクンの姿、それから白い壁と天井がシタルの右目に映った。
(いま何時?)
クンはシタルが聞き取りやすいように右の耳に頭部を近づけて「午前四時四十三分です」と呟いた。ややハイトーンで硬質なその声は「少年」をイメージして設定されていた。
(ありがとう)
礼の言葉に反応して、クンがケーブル状の細長い尻尾を振って喜びの感情を表現しているのを見てシタルが笑うと、少し離れた場所で充電中の《簡易球体》から微笑の声が漏れ聞こえてきた。
シタルにとっては、もうすっかり慣れてしまったラグだったが、こうして離れた状態で聞くとやはり多少の違和感を覚えた。消失前の声帯や口腔、肺臓などの形状を遺伝子データからシミュレートして再現されているというその声も、年月を経るにつれて、成長していく意識とは乖離していくように感じられた。
散歩に出かけるにはまだ少し早い時間だったが、このまま再び眠りにつく気にもなれず、シタルが《簡易球体》を通じて「クン、散歩に行こうか」と声をかけると、クンは尻尾を振りながら「了解です」と応えた。
散歩をするのにもそれなりに準備が必要で、一人では一歩たりとも動くことさえできないシタルは、まず移動のための足となる《簡易球体》に乗り込む必要があった。いつものようにクンはシタルの入っているカプセルを、翼のように背中から伸びた作業用アームでしっかりとつかんで《簡易球体》のコクピットにセットした。
カプセルは、シタルの脳波を計測し、それをシグナルとして外部へ発信するための装置で、その透明な容器のなかには細いケーブルが多数走っていた。ただでさえ狭いカプセルが《簡易球体》の中央にはめ込まれると、その狭さはさらに際立って、どうにも居心地が悪かった。球体に備わっている広範囲カメラを通してむしろふだん片目で眺めている範囲よりも広い視界が得られているのにもかかわらず、妙な圧迫感を覚えた。しかし、その狭苦しさも、シタルがほんのわずかな自由を享受するためには必要な制約だった。
「ありがとう、クン」
充電器との接続を解除して床をゆっくりと転がりながら、シタルは《簡易球体》との接続状態を確認していった。
「うん、問題ないみたい。行こうか、クン」
ドアのロックを解除し、入口を抜けて部屋から転がり出たシタルのすぐ後ろを、クンはボディーガードのようについてきた。クンは小型犬のような形状をした四足歩行型のロボットで、移動用の四肢のほかに、先ほどシタルの入ったカプセルを持ち上げた作業用の二本のアームが折りたたまれた翼のように背中にくっついていた。そして後部で揺れている細くて長い尻尾は実に愛嬌があった。
急ぎの際にはクンの背中に乗せてもらうこともあったが、ふだんシタルは自分で転がって移動することを好んでいた。《簡易球体》による移動は、実際には身体を動かしているわけではなかったが、自分の意思で目的地へ向かっているという感覚を少しでも感じていたかった。
まだ午前五時前だったが、施設内ではすでに一部のスタッフの作業が開始されていた。廊下の端を静かに移動するシタルとクンを見かけると、彼らは「おはよう」と声をかけて、忙しなく行き過ぎていった。シタルはその背中に向かって「おはようございます」と返した。
この時間に活動しているのは主に調査用の機材を調整する整備班と、調査場の作業環境を整えたり、大型の機械を用意したりする設置班のスタッフで、彼らの入念な準備のおかげで、いつもシタルたち調査班のメンバーは安全に調査活動を行うことができているのだった。
上行きのエレベータを待っていると医療班のエミリアがやってきて「シタル、おはよう」と微笑しながら下行きのボタンを押した。
「おはよう」と挨拶を返してから「エミリア、今日は早いね」とシタルが訊ねると「週末、ベースの移動があるでしょ。そのために備品の棚卸をしなくちゃいけなくて」と言って、エミリアは小さな欠伸をした。
エミリアは、昨年からシタルのメンタルケアと健康診断を担当していた。ケアや診断、とはいっても、シタルの身体については検査可能な部分が極度に限られているため、実際のところは脳波を測定しながらの単なる世間話といった程度のものだった。定期的に実施されているカウンセリングで触れ合う機会が多いこともあって、シタルにとってエミリアは施設内でも親しい相手の一人だった。
「もうメールは見た?」と脇に抱えたタブレットを指さしながらエミリアに問われて、シタルは急いで電子メールを受信し、ついでに最新のニュースデータの取得手続きを開始した。メールやニュースは自動受信に設定しておくこともできたが、自分の思考に関係なくとつぜんデータが送り込まれてくるのが煩わしかったため、シタルは必要に応じて自らダウンロードすることにしていた。
はじめにベースの移動に関する連絡のメールを確認し、それからざっとニュースのヘッドラインを確認してみたが、上位記事のなかにシタルの興味を引くような話題は見当たらなかった。シタルが読み飛ばした情報を受け取りながら、クンはその内容を整理して要約し送り返してくれた。すでに六年ちかく連れ添っている間柄で、シタルの関心をすっかり把握しているクンはキーワードにハイライトまでかけてくれていた。
エミリアの言っていたメールは、クンの換装パーツに関するもので、ベースの移動完了後に配備される最新システムの概要と事前に実施される動作テストの日程が示されていた。
「別にこんなの必要ないのに、ね、クン」というシタルに、クンは「しかし試験への協力は貸与条件に含まれています」と真面目に応え、そんな二人のやり取りを笑いながら「そう言わずに付き合ってあげて、シトー博士は楽しみにしてるみたいだから」と軽く手を振って、エミリアは先に到着した下行きのエレベータに乗り込んでいった。
上行きのエレベータは途中階に停まることなく真っすぐに屋上へと昇って行った。誰もいない屋上は静かで閑散としていた。朝日を浴びて、背伸びをしたような気分だけを味わいながら、シタルはカメラを最大までパノラマに広げて景色を眺めた。ベースの向こう側には、一面に深い青色が広がっていた。それは群青色のブロックが重なり合って、大都市の高層ビル群のように林立した無機質な景色だった。
青い都市――いつからかそう呼ばれるようになった青いブロックの群、その見た目から都市と呼称されてはいるものの、実際には現在その場所には誰も暮らしていなかった。その青さはまるで無人の静寂を称えているかのように朝の陽射しを飲み込んでおり、重なったブロックの間に不気味な陰を作っていた。下のほうは白い靄、まるで雲のような濃い霧に覆われて隠れていた。
シタルがカメラを望遠に切り替えると都市のさらに向こうには微かに海が見えた。かつてもっと手前にあった海岸線は、月日が経つにつれて際限なく増殖し続ける青いブロックによって埋め立てられてしまい、その侵食から逃れるためにシタルたちが拠点としているベースが少しずつ内陸へと移動していることもあって、海はどんどん遠ざかっていた。
2
六年前に起こった「第一侵食」によって、かつてシタルの暮らしていた海辺の町は深い青に飲み込まれてしまった。とつぜん発生した不気味な泡は、人も建物も区別なく、触れたものをすべて融かしながら増え続け、たちまち町を覆い尽くしてしまった。
それはちょうど夏祭りの夜の出来事で、浜辺に集まっていた人々の多くは異変に気がつく間もなく泡に飲まれて消えていった。シタルのように泡に気がついて逃げようとした者もいたが、泡の増殖する速さからは逃れられず、けっきょく泡に包まれて融かされてしまった。そうして消えていったもののなかにはシタルの家族や友人も含まれていた。
一緒に祭見物をしていた友人と手をつないで、迫りくる泡から逃れようと走り続けていたときの絶望感と、最後につないでいた手が離れてしまった感触をシタルは鮮明に覚えていた。
町を覆い尽くしていった泡の増殖する勢いは、それほど長く続くことはなく、ほぼ一晩で自然に治まっていった。しかし、ほんの数時間のうちに町全体が泡によって融かし尽くされてしまい、その跡地にはこれまであったはずの建物に代わって、凝固した泡が群青色のブロックとなって無秩序に並んでいた。
町の異変を察知した政府によって、すぐに救助部隊が編制・派遣されたが、すでに町は跡形もなく消え失せており、隊が到着したときには青いブロックのほかには何も残されていなかった。不気味な静けさを称えるブロックの隙間をぬいながら、昼夜を徹した捜索活動が行われたが、けっきょく人間はおろか、その場所にあったはずの生活の営みの痕跡さえいっさい発見することができなかった。
当初の勢いが失われていたとはいえ、捜索の間にも泡はゆっくりと周辺地域を侵食し、広がり続けていた。泡に対する必死の鎮圧作戦も虚しく、あらゆる手を尽くしたところで止めることも、弱めることさえできなかった。そして、泡は六年経った今でも、そのときから変わらないペースで世界を侵食し続けていた。
数週のうちに捜索は打ち切られ、泡の予測進路と重なる周辺地域には避難勧告が出されることとなった。その後、解散した救助部隊に代わって各国からさまざまな分野の科学者が集められて調査チームが編制され、不気味な泡と、その跡に形成される青いブロックについての調査が開始された。
以上が公に発表されている情報の概要だったが、情報のなかにはいくつか隠蔽されているものもあり、その一つが青い都市から救出された唯一の生き残りの少女、シタルの存在だった。
救助隊によって発見されたとき、シタルは身体の感覚を失って身動きが取れない状態であったため、救助隊員のブーツが視界に入り、助けを求めようと必死に叫ぼうとしたが、声を出すことができなかった。どんなに意識を込めてみても声は出せず、身体を動かすこともできなくて、かろうじて自由が効くのは右のまぶたと眼球のみだった。
しばらくしてシタルの存在に気づいた隊員は思わず悲鳴をあげて一歩後じさりしてから、慎重な足どりでゆっくりと近づいてきた。シタルはその様子を見上げるように右目で追い続け、ついに二人の視線がぶつかったとき、隊員は再び小さな悲鳴をあげた。
隊員はシタルを見つめたまましばらくじっと立ち止まっていたが、シタルが瞬きをしたことに気がつくと、ようやく意を決したように近づいて、しかし自分の手を伸ばすことなく、帯同していた瓦礫撤去作業用のロボットに指示を出して、アームでシタルの頭部をつかませると、地面からシタルを引き起こすようにして持ち上げさせた。
シタルを慎重にアームでつかんだロボットは隊員の視線の高さまでシタルの頭部を持ち上げ、そこで再び二人の視線が合った。シタルが続けて二回瞬きをすると隊員は瞳を覗き込むようにして顔を近づけて「子ども……か?」と呟いた。その問いかけに言葉で応えることができず、シタルは肯定の意思を込めて瞬きを一回した。
その後、医療施設へ搬送されたシタルはメディカルチェックを受けて、脳波を計測する機材を頭部に装着させられて、さまざまな検査を受けることになった。その結果、脳に異常は見られず、健康状態であると判定された。
脳に異常がないことがわかり、機器と接続されて脳波による意思の疎通が可能になったことで、ようやくシタルは自分の意思を人々に伝える術を得ることができた。まずはケーブルで接続されたコンピュータがシタルの脳波を解析し、それを言語化して機械音声によって発話するというスタイルで、ようやくシタルは救出後、最初の一言を発することができた。
「イチカ……」
「イチカ?」
「友だちの、名前」
それはシタルと一緒に泡から逃げていた友人の名前だった。シタルが問いかけに対して明瞭に応えたことで、その場に居合わせた医療スタッフからは多少のざわめきが漏れたが、その後に続けられたいくつかの質問にもシタルは滞りなく回答を示していった。
「それじゃあ、君の名前は?」
「シタル……」
「齢はいくつ?」
「十一」
「君の暮らしていた町について何か覚えていることは?」
「……深い碧色をした海に面した、白い砂浜が広がっていて、町の中心の丘の上には古くて大きな図書館がそびえ建って、町のどこからでもそれを見上げることが……できました」
「なるほど、それじゃあ、意識を失う前のことを聞かせてくれるかい?」
「イチカ……友だちと、手をつないで走っていました。青白い大きな泡が、ものすごい速さで広がって、追いかけてきて……一緒に逃げたけど、逃げられなくて、泡に包まれて、気がついたらイチカがいなくなってて……」
「その泡はどこから発生したの?」
その質問にシタルは沈黙で応えた。
「覚えてない? 少し疲れちゃったかな、続きはまた次回にしよう」
救出から数日が経つと、それまで完全に失われていた身体の感覚、たとえば掌を握ったり、関節を微妙に伸ばしたりといった動作の、ほんの微かな感覚をシタルは取り戻した。しかし、まだスムーズに動いたり、大きな動作を試みたりするほどには、全身に力を込めることはできなかった。
「すこし聞きづらい質問をしてもいいかい?」
「はい、大丈夫です」
「いま、自分の身体がどういう状態か、わかる?」
「……たぶん、ひどい、怪我をして、全身が、動かなくて、右目だけ、見えて、る」とシタルは一言ひとこと区切りながら、考え、確認するように呟いた。それからしばらく黙りこんでいたシタルは「でも、少しずつ、感覚が、戻ってきている、みたいです」と付け加えた。
「感覚が?」
シタルの周りを囲んで立っていた医師たちは戸惑うように互いに顔を見合わせた。その戸惑いを払拭しようとするかのように、シタルが右の掌を握りしめようと意思を込めると、脳波計にはそれに応じた反応が示され、医師たちはさらに驚いた様子だった。
計測や問診はシタルの状態に配慮しながら慎重にすすめられていった。応答を繰り返していくうちにシタルの記憶もより明確になり、また時間の経過とともに身体感覚も少しずつ回復しているような手応えがあった。しかし、シタルはいつまでも仰向けにベッドに寝かされたままの状態で、視界に入るのは何もない白い天井と、ときどき近くに現れる人々の顔だけだった。
問診を続けていくうちに、もう自分の身体は回復することがないのだということに、シタルは薄々気がついていった。動くこともできず、機械に接続されていなければ話をすることもできなくて、目覚めている間、シタルはひたすら考え事を続けるしかなかった。回復しているかのように感じている身体の感覚も、おそらくは自分を慰めるための錯覚にすぎないのだと思いはじめていた。そんな願望を反映するかのように、暗い夜の街のなかを歩き回る夢を、そのころシタルはよく見ていた。
夢のなかのシタルは、現実とは反対に左の眼だけで世界を見ていた。緩慢な動作で、一歩ずつ街を彷徨っているだけの夢。周囲は青い壁に囲まれていて、どこまで歩いても景色に変化はなかった。目的もなく何も考えず、足どりの赴くままに暗い青のなかを歩き続けている退屈な夢だったが、目が覚めると全身を覆うような疲労感と、左目に映っていた青い景色が鮮明に残っていた。
夢のなかのシタルは、言葉にならない、唸り声のようなものをあげ続けていた。それはふだん自由に話をすることのできないシタルの欲求を発散するかのような悲壮感を帯びた低い叫びだった。
問診の際にそんな夢の話をすると、医師たちは青い街というキーワードに興味を示した様子だった。そして、夢に見た街について何か覚えていることはないかと何度も質問を受けた。はじめのうち、夢のなかのシタルは何も考えずに彷徨っているだけだったが、繰り返し同じ夢を見ているうちに、少しずつ現実との境界が曖昧になってきて、どうやら青い街のなかで、自分は何かを探しているらしいということがシタルにはわかってきた。
相変わらず歩みは遅く、脱力した緩慢な歩行しかできなかったが、右に進むのか、それとも左なのか、そこに自分の意思を反映させることができているのではないか、と思えるくらい夢の世界は鮮明になっていった。それは夢を見ているというよりは、どこか別の場所にある自分の身体を離れた場所から操っているような感覚だった。
そんな夢を見続けていたおかげか、医師たちが躊躇いながらもついに真実を告げたとき、シタルはそれほどショックを受けることはなかった。数カ月ぶりに鏡に映った変わり果てた自分の姿は、たしかに衝撃的ではあったけれど、シタルは鏡を見つめたまま数回瞬きを繰り返して、それを受け入れた。
鏡に映っていたのは左耳の上あたりから右の頬にかけて斜めに切断された子どもの頭部の上半分だった。その断面は肉色のプラスティックのようにつややかで、奇妙な作り物のように見えた。
鏡を片付けた医師たちは明らかに安堵した様子で、小さな溜め息をついて、それからいつもと同じように問診が続けられた。独りきりになって、眠りが訪れるのを待つ間、シタルは変わり果てた自分の姿を思い出して、泣いた。右の瞳から筋になってこぼれを落ちていく涙をぬぐうための指先はもう失われていて、流れた涙の跡は、ただ乾くのを待つしかなかった。
作業用の遠隔操作ロボットを改良して、シタルのために仮想の身体を用意しようという話が持ち上がったのはそれから間もなくで、希望を聞かれたシタルは、一も二もなく同意を示した。
交換条件として青い都市と呼ばれる地域の調査活動への協力を要請されたが、このまま頭部だけの状態で永遠に寝かされ続けることに比べれば、調査員の一人として働くということはむしろありがたいくらいだった。
ロボットの形状は、移動の方式によってクモ型や獣型、キャタピラ式などいくつかのパターンがあったが、シタルは最もシンプルでコンパクトな球形のボディを選んだ。
《簡易球体》と呼ばれるボディには、複数の広角カメラ、音声会話のための集音機とスピーカーがついていて、最低限のコミュニケーションが可能であり、移動の際にボディの内部への振動や衝撃が緩和されるよう、高性能のバランサーによる姿勢制御が行われていた。基本的に地面を転がって移動するため、段差や坂道が苦手であり、アームがついていないため物をつかむことができないなどの欠点もあったが、ボールのような単純な見た目がシタルは気に入った。
《簡易球体》の持ついくつかの欠点を補うこととシタルのコミュニケーションの相手として、さらにシタルの身に危険が及んだ際のボディーガードの役割も兼ねて、サポート用のロボットがあてがわれることになり、それには小さなボールのようなシタルとの見た目のバランスも考慮して仔犬型のロボットが選ばれた。
「よろしくね」と《簡易球体》のスピーカーを通じてシタルが声をかけると「ぼくはクン、はじめまして」と犬型ロボットは返事をした。
「クン、はじめまして」
「あなたのお名前を教えてください」
「私はシタル」
「シ・タ・ル……登録しました。シタル、よろしくお願いします」
まだぎこちないクンの応答が可笑しくて、シタルは他愛のない言葉をかけてその反応を楽しんだ。はじめのうち、やや的外れな応答をしていたクンだったが、学習機能によって少しずつシタルとのコミュニケーション・パターンが蓄積されていくにつれて、シタルの考えを先読みしているかのようなスムーズな応答も可能になっていった。
3
ボディの操作に慣れるためにシタルはしばらく《簡易球体》の開発者であるシトー博士のラボでトレーニングを積まなければならなかった。バランサーによる姿勢制御があるとはいっても、はじめのうちは少し転がっているとすぐに酔ってしまい、まともに移動することさえ難しかった。
博士はクンのメンテナンスと改良も担当しており、シタルのトレーニングと並行して、彼女の動きをサポートするためにクンのプログラムの調整も行われた。単純に街中の移動をサポートするだけであれば、初期設定のままでも大きな問題はなかったが、ブロック同士の段差が激しく、また泡の侵食に合わせて少しずつ形状を変化させている青い都市の内部を移動するためには、特別な設定が必要になった。
そうした訓練を経て、ついに調査のために青い都市へ降り立ったとき、シタルはそこがいつも夢のなかで歩き回っていたのと同じ場所であることを知った。夢では自分の身体でもって歩き回っている場所を、小さな球体として転がっていくという、視点の低さがもたらす違和感はあったけれど、カメラを通して映されるヴィジョンは完全に見慣れた街のそれであった。
補助パーツによって機動性を高められているクンは、シタルを背負って巨大なブロックの壁面を水平に駆けあがったり、数メートル離れたブロックの間をジャンプして移動したりすることが可能で、そのスピード感は夢のなかで力の入らない身体を引きずるようにゆっくりと歩いているのとはまったく異なる感覚をシタルにもたらした。
クンの移動速度に合わせて目まぐるしく移り変わっていく映像をカメラはとらえ、その情報量に振り回されてしまって、慣れないうち、シタルはそれらを上手く処理することができなかった。
「クン、もうちょっとゆっくり」シタルが叫ぶように呼びかけると「了解しました」と言ってクンはすぐにスピードを落としてくれたが、基本速度がかなり高速に設定されているらしく、けっきょくシトーに制限をかけてもらう必要があった。
クンのスペックにこだわりのあったシトーは渋々シタルの要求に応じてくれたが、以降のメンテナンスのたびに少しずつリミッターの上限があげられていることにシタルは気がついていた。
青い都市に発生する泡は、触れたものを融かして飲み込み、青いブロック状の固体へと作り替えてしまう。その溶解力は非常に強力であり、泡を採取することは困難であったため、観測装置を至近距離まで近づけて実地で調査する以外に方法はなく、研究は思うように進展していなかった。さらに泡が物質を融かす際に発生する気体によって、都市内部はつねに霧で覆われたような状態になっており、非常に視界も悪く、その霧も多量に吸引すると人体にとって有毒であることが判明し、長時間の調査活動が難しいことも遅滞の原因の一つだった。
青い都市の外縁部は、日に数センチメートル程度の速度で周囲を侵食し、拡張を続けていた。それを食い止めるためにも泡の正体の解明は喫緊の課題ではあったが、触れることさえ難しい泡の成分を解明し、さらにそれを阻止する方法を確立することは不可能であるとさえ思われていた。
泡のあとに残されていく青いブロックに関しても調査は行われていたが、その組成に関しても解明されていない部分が多く、かなりの硬度をほこるブロックの一部を研究のために削り出すには高出力のレーザーカッターを必要とした。
わかってきたことといえば、GPSによって同地点とされる場所のブロックの位置が日々変化しているということくらいだった。監視衛星によって青い都市の内部構造の動きは観測されていたが、地表近くは白い霧で覆われて隠されていたため、ブロックの移動パターンは把握することができず、研究の参考にはなりそうにもなかった。調査のたびに構造が変わってしまうため、都市内での継続的な探索活動は難しく、内部の地図を作製することもできずにいた。つまり、調査活動の困難さだけが、より明確になっていた。
そんななか、夢で青い都市を彷徨い続けていたシタルは、ブロックの内部が洞窟のようになっていて、それらは無数の通路や部屋によって結ばれており、その壁面にはびっしりと記号のようなものが描かれているということを発見した。その記号は文字として機能しており、並んだ記号は文章として読むことができた。夢のなかのシタルは、その世界での「文字」を読むことができて、壁面に描かれている文章を読み解くことができたのだが、目が覚めるとそれらの知識は失われてしまい、はっきりと判読できていたはずの文字の形状さえあやふやになってしまうのだった。
当初、青い都市の調査は泡やブロックの組成に関する科学的なものが中心だったが、シタルの夢の話が広まるにつれて、言語学をはじめとした文化的な側面にも注目が集まって、何としてもブロックの内部への侵入を果たそうと主張する過激なグループも現れるようになった。これまでの調査で生身の人体による活動には限界があると悟っていた彼らは、クンよりもはるかに大型の調査用ロボットを導入し、ブロックを破壊しはじめた。
それがきっかけになったのか定かではなかったが、第一侵食から三年が経過したころから、すでに広大な範囲に広がっていた青い都市の一部で調査用ロボットが襲撃される事件が多発するようになった。遠隔操作されるロボットのカメラを通して映しだされた襲撃者の姿は、群をなした「青い動物」だった。動物たちはその大きさや形状はさまざまだったが、その色は周囲のブロックと同じく深い青色をしており、群がるようにしてロボットを覆い尽くして噛み砕き、融かしていく様子が記録されていた。
動物たちはつねに集団で移動し、ブロックに危害を加えようとするロボットだけを標的にして襲いかかっていたため、都市が自衛本能によって生み出したものではないかと推測された。ただでさえ難航していた遺跡の調査に、青い動物への対処という難題も加わってしまい、一時期、調査は完全に中断してしまったが、ロボットによる破壊活動が制限されると同時に動物たちも姿を現さなくなったことから、調査は方法を限定した形で再開されることとなった。
しかし、またいつ危険な動物たちが襲ってくるかもしれない場所での作業となるため、これまで以上に強力な防備が必要となり、それは調査団に膨大なコスト増という負担をもたらすこととなった。
そこで張り切ったのはシトー博士で、この機を逃さんと言わんばかりにクンのアップデートを実施して、それまで可愛らしい仔犬のようだったクンの脚部や背面にシタルの美観にはまったくそぐわない厳つい強化パーツを次々に取り付けてしまった。
「こんなもの必要ないと思います」と主張するシタルに「いや、このブースターを装着することによってクンの機動性は飛躍的に向上するんだ。ふだんの調査はもちろん、いざというときに君を守る際にも絶対に必要になるだろう」とシトーは熱弁をふるい「シタル、どうやらエネルギー効率も向上しているようです」とクンも満更ではない様子を示した。
そんなことが何度か続いて、けっきょくクンは軍用ロボット並の重武装が可能になっていたが、シタルの強い希望もあってふだんの調査時はなるべく軽装な状態で同行することになっていた。
4
シトー博士の呼び出しに応じて、シタルとクンがラボを訪れると、博士は届いたばかりの小型ガウスガンを恍惚とした表情で眺めていた。
「それをクンに?」
シタルが声をかけるシトーは大きく肯いて「これがあれば動物に襲われても安心だよ」と満足そうに笑った。
たしかにクンにはオプションとしてさまざまなパーツを取り付けることが可能だったが、どちらかというと極地での移動や、敵と遭遇した際に逃げ切るための機動性重視のカスタムがなされており、これまで戦闘用の兵装は最小限にとどめられていた。
「こいつはかなりのエネルギーを食うんで、クンの容量では数発撃つのが精一杯だろうが、命中させることさえできれば形勢逆転も可能だよ」と嬉しそうに語るシトーに対して「反動はどの程度あるでしょうか」とクンはあくまでも機動性を気にしているようだった。
「なに、そいつをこれから確かめるってわけだ。大丈夫、自慢の機動性は殺さずに、最大限の威力を発揮できるように出力を調整してやるから」
クンに取り付けられていた移動用のパーツを外しながらシトーはさっそく調整をはじめていた。
「クンを玩具にしないでください」とシタルが強い口調で言うと「いや、これもカンパニーからの指示でね、仕方ない面もあるんだよ」とシトーは悪びれもせずに言ってのけ「シタル、心配は無用です」と逆にクンに気遣われてしまった。
シタルとクンがパートナーを組むようになってからすでに五年以上が経過していた。もともとクンは試作機として調査隊に配備された作業ロボットの一体であり、クンのあらゆる活動データは収集・分析されて、その結果をフィードバックする形で改良が重ねられていた。調査隊にはクン以外のタイプのロボットも参加しており、そのなかには「最新型」のプロトタイプとしてさまざまなテストを兼ねながら運用されているものも少なくなかった。クンに課せられているのは、同タイプを改良する際の方針や新型開発の判断も兼ねた調査であり、ただシタルのお守りをしているだけというわけにはいかず、こうしてときどき検証試験に付き合わなければならないのだった。
「ちゃんと試験結果を報告しないとフリツ君が叱られてしまうからね」とシトーが笑うと、計測室の外で計器の調整をしていた助手のフリツは苦笑した。
クンの開発元のマルキ・カンパニーとシトーの間には直接の契約関係はなかったが、ラボでシトーの助手を務めているフリツはカンパニーから派遣された人員だった。
「試験は外で行うことになるけど、シタルも見学にくるかい?」とシトーに声をかけられたが、兵器として破壊活動を行うクンの姿を見たくなかったのでシタルは誘いを断ってベースのなかで待つことにした。
今回の試験は、以前、青い都市から削り出してきた希少なブロックの一部を対象にガウスガンの有効性を検証するというもので、プロジェクトとしてもそれなりに大掛かりなものだったため、クンの扱いに不安がないわけではなかったが、別のベクトルではあってもシタルと同じくらいクンに愛情を注いでいるシトーが傍にいれば無茶なことはさせないだろと考えて「博士、クンを頼みます」と言い残してシタルはラボを離れた。
どちらにせよ午後からはエミリアのところでカウンセリングを受ける予定になっていたため、試験には数時間しか付き合えなかったし、おそらく準備作業を待っている間にその時間は過ぎてしまい、青いブロックが破砕される貴重な場面を目撃することはできなかっただろうとシタルは思った。
カウンセリングまでの時間をラウンジで過ごすことに決めて、シタルはラボとベース居住区を結ぶ通路を転がっていった。クンの試験は丸一日かかる予定になっていたため、今日は青い都市へ調査に出ることもできず、シタルにとっては久々の休息ということになった。
ラウンジでは早朝の作業を終えたスタッフたちが語らいながらくつろいでいた。シタルが入っていくと皆の視線が集まって、それから親しげな挨拶の声がかけられた。カウンター席で班員と談笑を交わしていた整備班のジルが手招きしているのに応じて、シタルはジルの足元まで転がっていった。シタルが足元で停止すると、ジルは両手でつかんでテーブルの上に載せた。
「よう、嬢ちゃん、元気にやってるかい」
《簡易球体》を軽く叩きながらジルは豪快に笑った。まだ午前中だというのにすでにかなり酒に酔っている様子だった。技術屋のジルは《簡易球体》の構造もある程度まで理解していることもあって、その叩き方にはどこか愛情が感じられ、会うたびに軽く叩かれることに対して、シタルは悪い感情をいだいてはいなかった。
「ジルさん、セクハラっすよ」
いちおうレディであるシタルのボディに気安く振れているジルに対して、隣に座っていた若い班員が冷やかしの声をあげると「うるせぇ、嬢ちゃんの調整には俺だってすこしは関わったんだ。言ってみりゃ娘みたいなもんよ」とジルは若者を軽く小突いた。
ジルが班長を務めている第三整備班には比較的若いメンバーが多く、最年少の班員とはほとんど同い年ということもあって、シタルは何となく居心地の良さを感じていた。
「シタル、見学に行かなかったの?」
「今度のやつ、すごいらしいじゃん」
技術に関心のある彼らはどうやらクンの試験の話題で盛り上がっていたようで、シタルがラウンジに姿を現したことが意外だったらしかった。
「午後からカウンセリングがあるから……」とシタルは言い訳して、それからしばらくクンの兵装の組合せや機動性をより高める方法について交わされている彼らの議論を黙って聞いていた。
「そういえばシタル、あの噂、聞いた?」
班員の紅一点であるカレンに声をかけられたシタルは「あの」が何を指しているのかわからずに「何のこと?」と聞き返すと「青い都市を彷徨う幽霊の噂」という答えが返ってきた。
「幽霊?」
「そう、一月ほど前から目撃情報があるらしいんだけど、白いワンピースを着た少女が夜な夜な街のなかを彷徨い歩いているって話」
基本的に青い都市の内部は夜間の立ち入りが制限されているので、その噂がどこから出てきたものなのか、かなり怪しいと思いつつシタルは「それで?」と続きをうながした。
「うん、それでね、その少女にはね……」少し間をおいて勿体ぶってから「首から上がないんだって!」とカレンは声を弾ませた。
皆が自分の反応を気にしているのを感じつつ、シタルは平静を装いながら「ふーん」と生返事を返したが、頭部のない少女が夜の街を彷徨っている姿を想像すると、それがあまりにも自分の見る夢に似ていることに戸惑いを覚えた。
「でも、一体誰がその幽霊を見たっていうの?」
落ち着いた調子でシタルが問い返すと「それは……夜間パトロールとか?」とカレンは曖昧な返事をした。たしかに夜間パトロールの隊員なら、夜の街で何かを目撃する可能性はあった。そして彼らが「幽霊」を目撃したというのが事実だとすれば、その巡回ルートを確認することで、幽霊の出現場所はかなり絞り込めるかもしれなかった。
いちおう巡回は、その日の日中に調査が行われた範囲を重点的に行われることになっていたので、幽霊が姿を見せたのはふだんからシタルたちが活動を行っている場所の近くである可能性が高かった。
もし、その幽霊と自分の夢に関連があるとしたら、自分の身体は消失してしまったわけではなく、離れた状態でまだ生きているかもしれない、という期待感と、自分の意思とは離れた身体が幽霊のように勝手に彷徨っているという不快感が、シタルのなかに同時に込み上げてきた。
5
「シタル、どうしたの?」
「え?」
エミリアに問いかけられて、シタルは不意に我に返った。
「何か考えごと?」
「うん、ちょっと」
「クンのことなら心配しなくても、上手くいってるらしいって聞いたけど」
「そう、よかった……」
心ここにあらずといった様子で応えるシタルを心配そうに見つめながら、エミリアはチェックシートにコメントを記入した。
あまり高出力の兵装を使用するとクンのコンバータがオーバーフローを起こしてしまう可能性もあると聞いていたので、クンの無事を知って安心したのは本心からだったが、先ほど噂に聞いた少女の幽霊のことが気がかりで、今日のカウンセリングは適当な受け答えに終始してしまったことをシタルは反省していた。
もう調査活動への協力も五年目に入ろうとしており、スタッフたちにも受け入れられて、居心地の良さを感じていて、《簡易球体》を通した生活にも慣れていた。おそらく自分はもう一生このままの姿で、クンと一緒にこのベースで暮らしていくのだろうと考えていた。そんなときに噂という形で不意に現れた可能性だった。仮に噂が真実であって、幽霊として彷徨っていた身体を取り戻したところで、シタルは調査活動から解放されることなく、その身体は研究や実験に供されることになるだろうことは想像できた。
それでも一度は失われて、諦めていた「身体」が取り戻せるのなら、シタルはその可能性に賭けてみたいと思うのだった。そのためには、危険視されて破壊されてしまったり、捕獲されてしまったりする前に、誰よりも先に幽霊を見つけ出さなければいけなかった。
カウンセリングを終えて、エネルギーパックによる栄養の補給を済ませてから部屋に戻ると、クンはまだ試験から解放されていないようだった。通信回線を開いてシトーに呼びかけると、すぐにつながって「やあ、シタル、少し遅くなったが先ほどテストは無事に終わったよ。明日からでも使えるぞ」と満足げな声が聞こえてきた。
「何時ごろ戻れますか?」
「そうだな、これから換装と関節部の簡単なメンテナンスをするから、すこし遅くなるかもしれない」
「わかりました、クンにつないでもらえますか?」
すぐに回線が切り替わったのを確認して「クン、お疲れさま」とシタルが呼びかけると「シタル、テストは問題なく終了しました」とクンは応えた。
「先に休んでるね」
「了解しました。シタル、お休みなさい」
自力では《簡易球体》の内部から出ることができず、シタルは充電器への接続を確認してモニタを切り、それから音声以外のすべての神経接続をオフにしていった。もう慣れてしまったとはいっても、つねに球体をコントロールし続けるのにはそれなりに神経を使うため、シタルは軽い疲労感を覚えていた。
いつもはクンのサポートを受けながら他愛のない会話を交わすことで気を紛らわしていたのだが、今日のようにたまに一人で行動する時間が長くなると、どうしても移動に集中してしまって余計な疲れが溜まってしまうのだった。
モニタを切った状態で右目を開いてみても、密閉された《簡易球体》の内部は真っ暗で、シタルの瞳には何も映らなかった。まぶたを閉じて眠ろうとすると、幽霊の噂話が妄想のように頭のなかに浮かび上がってきた。どうにかして真相を確かめたいと思いながら、いつの間にかシタルは眠りへと落ちていった。
重たい身体を引きずるようにシタルは青い街のなかを歩いていた。左目の視線をゆっくりと落としていくと、どうやら自分が薄汚れた白いワンピースを着ているらしいことがわかった。これまで夢のなかで自分の服装をたしかめてみようと思ったことなど一度もなかったが、何故か自分の格好を確認し、納得したのだった。
ブロックの隙間をぬうように歩き、その壁面に穿たれた穴を通り抜けながら、壁面に書き記された言葉を読み上げようとしたが、呂律が回らずに口元からはただ低い唸り声が漏れていった。穴を抜けた先にもまた高く積み上がった青いブロックの群が広がっていた。そのなかに小さな光が見えた。
光はゆっくりとこちらに近づいてきて、シタルも光に導かれるように引き寄せられていった。懐中電灯を片手に持ったパトロール隊員はシタルを発見すると小さな悲鳴をあげて足を止めた。シタルが構わずに光に向かって近づいていくと、隊員は一歩後じさりした。シタルはゆっくりと右手を伸ばして、虚空をつかむように指先を泳がせた。
隊員は意を決したように唾を飲み込んでから、左手の懐中電灯をシタルの顔のあたりに向かって投げつけた。その眩しさにシタルは一瞬だけ左目をしかめた。その直後、強い衝撃がシタルの腹部を襲った。緩慢な動作で衝撃のあったあたりを撫でてみると、そこは大きく砕けたように抉れていた。しかし、痛みはまったく感じられなかった。
隊員が銃の引鉄にかけた指先に再び力を込めようとしたとき、蝙蝠のようなものが数匹飛来して彼に襲いかかった。さらに足元からは鼠のようなものが無数に群がって、隊員の身体を這い登っていった。蝙蝠と鼠の群に襲われて、数分もしないうちに、男の身体は泡と融けてしまい、その跡には濃い青の染みだけが残っていた。集まった「動物」たちはそのまま隊員と一体となって融けていき、いつの間にか消えてしまっていた。
ほんの一瞬の出来事を見つめていたシタルが抉られたあたりを再び撫でてみると、そこはすでに再生し、元通りに戻っていた。白いワンピースは薄汚れてはいたが、ほつれや破れは見当たらなかった。
シタルの脳波の乱れを察知したクンは《簡易球体》を開いてカプセルを取り出すと、シタルをベッドの上にそっと移動させた。すぐにクンからの緊急呼び出しに応じてエミリアがやってきて、シタルの状態を確認した。
「大丈夫?」
エミリアの呼びかけに目を覚ましたシタルが(うん)と応じると、ほんの少しのラグがあってから《簡易球体》から「うん」という声が発せられた。
「シタル、まだ少し脳波が乱れています」というクンに、シタルは自分の言葉で(大丈夫)と返事をした。
「大丈夫」とシタルがはっきりとした応えを返したことにエミリアは安堵して「鎮静剤、どうする?」と念のため確認した。
「いい、平気」
たしかに効き目はあるのだが、シタルはあまり薬に頼りたくはなかった。
「ちょっと、変な夢を見て、久しぶりだったから」とやや不安げなシタルに「しばらく一緒にいようか?」とエミリアはそっとカプセルに掌を添えながら言った。カプセルに当たるエミリアの左の親指が、シタルの右の瞳に映っていた。
「平気だよ、子どもじゃないんだから」とシタルは笑い「それに、いつの間にかクンも帰ってきたみたいだし、一緒に寝るから、大丈夫」と続けた。
「シタル、脳波が安定してきました。そのまま少し休息を取ってください」とクンは尻尾を振った。
嬉しそうに尻尾を振りながらシタルの傍に寄っていったクンを見つめて「それもそうね」とエミリアはカプセルに添えていた手を離し「何かあったらすぐに呼んでね。いつでも駆けつけるから」とクンの頭部を軽く撫でた。
「おやすみなさい」と手を振って部屋を出て行くエミリアの背中に「おやすみ」「おやすみなさい」とシタルとクンは返した。
先ほどまで兵装の試験でさまざまなパーツを取り付けられていたはずのクンは、今はすっかりいつもと同じ小型犬の軽やかで可愛らしい格好に戻っていた。
「やっぱりそのほうがずっといい」とシタルが呟いた意味が、伝わったのかどうか、クンは大きく尻尾を振り続けていた。
6
翌朝、ベースは行方不明になったパトロール隊員の話題で持ちきりだった。シタルとクンがラウンジに入ると、すぐにカレンが駆け寄ってきて「例の幽霊、また出たらしいよ」と声を弾ませた。
行方不明となった隊員の顔写真や氏名などが公開されているとのことで、シタルはサーバーから該当のファイルを取り出して中身を確認した。その顔には見覚えがあって、それは以前から何度かベースですれ違っていた相手であり、そして、昨日の夜、もう一人のシタルが青い街のなかで遭遇した相手でもあった。
シタルは黙って噂話を聞きながら、業務記録のデータを探ってパトロールの巡回ルートを確認した。
(クン、このルート情報を記憶しておいて)とシタルが音声には出さずに呼びかけると(了解です……記録しました)とクンはすぐに応え、続けて(通信の途絶えた位置を記録しました)と付け加えた。
隊員の失踪事件をふまえて、調査への出発前には各自通常よりも厳重な警戒態勢で臨むようにとの通達があり、クンにも通常装備のほかに戦闘用の高周波レーザーカッターと胸部に格納する小型の銃火器が装着されることになった。
基本的に調査は一定の範囲を定めた後は、各自個別に行うこととなっていたが、この日は警戒のため二人一組で行動することに決められた。ただ、もともとクンとペアで行動しているシタルについては、通常どおりの単独行動が許されていた。
「シタル、調査範囲を外れています。速やかに引き返してください」
隊員の消失ポイントを目指して転がっていくシタルのすぐ後ろを歩きながら、クンは先ほどから同じ言葉を繰り返していた。
「シタル、引き返してください」と言いながらも、クンにはシタルに強制力を行使する権限が与えられていないため、ただ彼女を護衛するためについていくことしかできなかった。ポイントに近づいていくにつれて次第に「シタル、危険区域に接近しています。ただちに停止してください」とクンのセリフの緊急度合いは増していった。
不意に眩暈がしてシタルが立ち止まると、その動きに同調してクンもすぐ後ろに停止して「危険区域を離脱します」と言って、背中のアームで《簡易球体》をつかんだ。カメラを通して右目に映る青い都市の映像に重なるようにして、もう一つ別のヴィジョンがシタルの意識のなかに映し出されていた。それもまた青い都市の、しかしこことは違う別の場所の景色で、二つの青と青がシタルの瞳の奥で重なっていった。
それから、接続されているはずの《簡易球体》とはまったく違う身体感覚がシタルを襲った。クンのアームによる拘束から逃れるかのようにシタルは身体を揺さぶった。動きに合わせて視界が揺れ乱れたが《簡易球体》は微動だにしていなかった。折り重なった視界と身体感覚が共鳴するように混ざり合って、シタルの意識を混乱させた。
「あ……あぁ、クン、お願い、離して」
「危険区域を離脱します」
シタルの変調に気がついていないらしいクンは、先ほどと同じ言葉を繰り返し、背面の固定フックに《簡易球体》を接続しようとしていた。
(クン、離して)
スピーカーを通さずに直接呼びかけると、クンはすぐにアームを下ろしてシタルを解放した。「ありがとう」と礼を言ったがクンの反応がなかったため、シタルが(ありがとう)と言い直すと、クンは小さく尻尾を振った。
どうやらクンは《簡易球体》の音声をうまく拾えていないようだったが、こんなことはこれまで一度もなかった。念のため「クン」と声をかけてみたが、やはりクンは無反応だった。
地面に下ろされた《簡易球体》は、ゆっくりと移動を再開した。球体は明確な目的地へ向けて迷いなく進んでいたが、それが自分の意思による動きなのかどうか、シタルにはわからなくなっていた。
「シタル、引き返してください」と繰り返しながら、一定の距離を保ってクンはシタルの後についてきていた。先ほどから同じ言葉ばかりを発しているクンは、いつもの可愛らしいパートナーとは違う、記録された情報をただ再生するだけの機械のように感じられて、シタルは不安だった。いまのクンは、《簡易球体》の音声に反応しないこともあり、うまくコミュニケーションのとれない相手のように思えた。
再び眩暈に襲われてシタルは停止した。しかし、ゆっくりと両足を動かして歩みを進めていくような身体感覚は残っていた。意識と機能のバランスがうまくとれず《簡易球体》は小刻みに揺れながら、同じ場所を円を描くように回転した。まだ球体を操りはじめたばかりのころのように、シタルはその動きに酔っていた。
「きもち、わるい」とシタルが呟くと「シタル、精神状態が乱れています」とクンが応えた。次第に激しくなる酔いに耐えきれず、シタルが唸り声をあげると、その声に呼応するかのように、すぐ近くのブロックの向こう側から何者かの低いうめき声が響いてきた。
不快なうめき声に反応するかのように、クンが声のするほうに顔を向けて、身体の重心を低くして警戒態勢をとった。声が聞こえるほどの距離まで何者かが近づいていたのなら、もっと早くクンのセンサーに反応していてもおかしくはなかったはずだが、どうやら今までクンも察知していなかった様子だった。
クンのモードがエマージェンシーに切り替わり、これまでのようにシタルの後ろではなく、盾になるように前へと回り込み、ブロックの向こうにいる相手を待ち構えた。先ほどまで《簡易球体》をつかんでいたアームの先端部には、攻撃用の二枚のレーザーカッターが解放されていた。
シタルの視界に小さなボールのようなものと、小型犬のようなロボットが、映った。それに重なるようにして、白いワンピースを着た少女がゆっくりと近づいてくるのが見えていた。うまく焦点を結べずに上下左右に揺れる視界に振り回されながら、シタルは何とか目の前の情景を処理しようと懸命に意識を集中させた。シタルの目の前に立つ小柄な少女の頭部は左耳のあたりから右頬にかけて、斜めに切断されたように欠損していた。
《簡易球体》はもはや完全に停止状態に陥っており、シタルが自分の身体として動かしているのは青白い少女の身体のほうだった。左目に映っている小さなボールをつかまえようとして両手を伸ばして近づいてくるシタルの姿が、シタルの右目に映し出されていた。
すぐ横にいるクンは、警戒態勢を維持したまま、白い少女の動きを注視していた。
小さな白い手がボールに触れて、それをつかみあげようとした瞬間、クンのレーザーカッターが少女の両手首を一瞬のうちに切断した。切り落とされた手首は切断面から白い靄を立ち上らせながら、泡状になって青い地面に吸い込まれるようにして融け落ちていった。手首に刃があたった瞬間、シタルは鋭い痛みを感じたが、それはほんの一瞬の錯覚だった。
手首を失った少女が動きを停止させるのと同時に、ブロックの陰から小さな青い鼠型の動物が這い出してくるのが見えた。鼠たちはクンとシタルをとり囲むように円陣を組みながら、徐々にその円を狭めていった。レーザーカッターの有効範囲に鼠が侵入した瞬間に、クンは高速でカッターをふるって、数匹をなぎ払うと、脱力したように垂れていた尻尾を予備アームとして固定させて《簡易球体》をつかみ、そのまま地面を蹴って跳躍した。
飛び上がったクンに群がるように、蝙蝠型の青い動物が襲いかかってきたが、クンはカッターでそれを払いのけて、近くのブロックの側面に張り付くように水平に着地した。
するとブロックを這い上がってきた鼠たちが間髪入れずにクンに迫ってきた。胸部に格納されていた短銃を解放してそれを連射しつつカッターを振るい、足元の鼠を前足で叩き潰しながら、クンは後ろ足で壁面を蹴って鼠から離れた。空中でブースターを噴射させて姿勢を制御し、上体をひねりながら短銃で蝙蝠を狙い撃ってクンは再び地面に降り立った。
ブロックを這い下りてクンのほうへと向かってくる鼠たちを、銃の単射で威嚇し、頭上ではカッターを振りまし、一定の場所にとどまらないように絶えず動き回りながら、クンは動物たちと距離を保っていた。
不意にクンの動きが止まった。地面から伸びた小さな手がしっかりとクンの後ろの左足をつかんでいた。つかまれた部分が泡状に融かされていくのを、クンはレーザーカッターで自らの足ごと切断し、大きく跳躍して逃れた。若干バランスを崩しながら着地したクンは、尻尾の先に取り付いていた《簡易球体》を背中の固定フックに移し替えて、左脚の代わりに尻尾を地面に下ろした。
「やめて」と叫んだシタルの声が《簡易球体》と白い少女の口の両方から同時に漏れた。合わせてシタルの心の声が(やめて)と直接クンに届いた。三つのシタルの声を受け止めて、混乱したクンの動きが乱れたその一瞬を見逃さずに、動物たちはいっせいにクンに覆い被さるように押し寄せていった。
接近を許しながらもギリギリで防御行動に移ったクンは、地を這う鼠を銃で掃討し、蝙蝠をカッターで切り伏せながら後方にジャンプしようと飛び上がった、その刹那、宙に跳ねたクンに、これまでの緩慢な動作からは予測できないスピードで白い少女が迫った。ねじ伏せるように真横からクンをつかんだ少女は、そのままクンを地面に叩きつけた。その衝撃でアームが一本折れ、左側の目を模したカメラに亀裂が走った。残されたアームで背中の《簡易球体》を庇いながら、クンは地面に押しつけられたまま数メートル引きずられて、その摩擦で外装の一部が剥がれ落ち、残っていた右の脚部の関節が折れ曲がった。
少女は華奢な見かけに反した力で、片手でクンを持ち上げるとそのまま青いブロックの壁に向かって投げつけた。激突する寸前、クンはまだ機能の生きていたブースターを噴射させて何とか衝撃を和らげ、残っていた前肢と尻尾を使って壁に張り付いた。
いくら蹴散らしても無制限に湧き出してくる青い動物たちに取り囲まれ、正面の少女と対峙したクンは、少しでも自重を軽くするために弾薬が切れた短銃を切り離した。クンに残された武装は一本のレーザーカッターのみとなっていた。エネルギー残量はわずかで、出力の低下したカッターは頼りなくほのかに輝いていた。
容易に身動きが取れないクンに向かって、少女はゆっくりと近づいていった。《簡易球体》とクンの両方から発せされているエマージェンシー・コールは、とっくにベースに届いているはずだったが、助けが来る気配は一向に感じられなかった。
「シタル、接続を解除したら、全速力で退避してください」と言って、クンは一気にブロックを駆け上がっていった。壁面を這って追いかけてくる鼠や飛来する蝙蝠のすべてを払いのけることは難しくて、クンは突進してくる動物たちを避けるように蛇行しながら、ひたすらブロックを登り続けた。ブロックに激突した動物はそのまま青のなかに融け込むようにして消えていった。少女は欠損した首を上向けて、高くブロックを登っていくクンと動物たちの攻防を眺めていた。
頂上まで到達すると、クンは《簡易球体》との接続を解除し、なるべく遠くに押し出すようにして尻尾を使って球体を突いた。その反動を使って、クンは登ってきたブロックを今度は一気に駆け下りていった。クンを標的としていた動物たちは、その動きにつられるようにして、下へと向かって方向を転換した。
(クン、やめて)と呼びかけたシタルに、クンは少しだけ頭部を傾けて、まだ生きている右の目をシタルのほうへ向けた。クンとシタルの右の視線が一瞬だけ重なって、すぐにクンは前に向き直り、下で待ち構えていた少女へと迫っていった。
少女の前に壁を作るようにして動物たちが集まり、重なっていった。一点突破を試みたクンは、残されたエネルギーをカッターに注ぎ込んで、その壁の一部を切り開くと、身体をねじ込むようにして障壁を突破した。
直後、激しい光と爆音、それから突風が周囲に広がった。衝撃はシタルのいるブロックの上まで押し寄せてきて《簡易球体》の姿勢制御が効かずにシタルは勢いのまま数メートル吹き飛ばされた。ようやく球体のコントロールを取り戻したシタルは、ブロックの端へと急いで、衝撃のあったほうを見下ろした。
深く抉れた青い地面から大量の泡が湧き出している様子がモニタに映し出されていた。泡の周囲には白い靄が立ち込めており、青い動物たちや白い少女、クンの姿は確認できなかった。
不意にシタルは全身に焼けるような痛みを感じて小さな悲鳴をあげた。きつく閉じていた左目を開くと、目の前は無数の泡に覆われており、足元にはシタルの身体を保護するように覆っていた、動物だったものが、焼けただれて融け落ち、白い靄を発しながら消失していった。保護しきれなかった身体の一部は爆風に削られて、抉り取られていたが、その傷口はすぐに塞がっていった。
右目で見下ろしながら左手で見上げると、自分と自分の視線が重なった。目を合わせたままで、もはや操っているのか操られているのかわからない、漂うような脱力感を帯びたまま、身体は《簡易球体》を目指してブロックを登りはじめた。ブロックは身体の通り道をつくるかのように形状を変化させていき《簡易球体》も緩やかな坂道を下って身体へと近づいていった。目の前に現れた少女の身体は、切り離された六年前のままの幼さを保っていた。離れていた間に心と思考だけが成長してしまい、シタルは身体と同じように切り離されていた時間の隔たりを改めて感じた。
しゃがみ込んで球体を手にしたシタルは、それを抱きしめるように抱え込んだ。小さな身体に抱かれた球体はゆっくりと融かされていって、さらにそのなかのカプセルも融け落ちてしまい、ついにシタルは直接シタルに触れた。
青い都市によって略奪された身体に触れながら、シタルは何としても自分を取り戻したいと願った。いちど泡に包まれて融かされてしまった身体は、都市によって作り変えられており、すでに人体とは別のものとして生成されていたが、それでもかつて自分と一体だった、その身体をシタルは強く求めていた。
シタルの意思と身体が重なって、泡状に融けだしていった。次に目が覚めたとき、自分の意思で自分自身をコントロールできるのか、それとも青い都市によって支配されてしまうのか、わからなかったが、シタルは六年ぶりに一つに戻れることに対して、純粋に安らぎを覚えていた。泡は再び人型を模していき、小さな少女が、今度は欠損のない完全な身体を得て生成された。
久々に味わう生身の感覚は、球体として転がっていたときとはまったく違っていて、裸足で一歩ずつ地面を踏みしめていく感覚にしばらく馴染めなかった。夢を見ていたときの緩慢な動きとは違う、イチカと一緒に走っていたときの解放された身体が、シタルの意識を包み込んでいた。
取り戻した身体を操りながら、シタルはブロックによって形成された坂道を下って行った。深く抉れた爆発跡の周辺では、かつてクンだった金属片が泡によって静かに融かされつつあった。その断片の一つを右手で拾い上げて、そっと左の指先で撫でてみた。破片の鋭い断面をなぞった指先の皮膚が切れて、薄らと赤い血がにじみ出してきた。
自分の血は赤いんだ、と思いながらシタルが玉になった血を眺めていると、すぐに傷口は塞がってしまった。取り上げたクンの欠片は、シタルの手のなかで泡となって消えていった。
もしもクンが最新の兵装を施されていたら、すべての青い動物を蹴散らして、シタルの身体も吹き飛ばし、《簡易球体》のままこれから先も一緒にいられたのだろうかと想像してみたけれど、すでに身体を取り戻したシタルにとって、その想像は非現実的なもののように思えた。
「ごめんね、クン」と呟いてみて、六年ぶりに聞いた生の声は、《簡易球体》によって再現されていたものよりも少し幼く響いた。すでに出血の止まった指先に視線をやると、そこには薄い傷跡が残されていた。その傷跡を口元まで引き寄せて、唇と鼻孔を押し当ててみると、ほんのりと優しい鉄の匂いがした。
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