飛浩隆は(株)ゲンロンが主催する「大森望SF創作講座」の第11回に登壇し(ただしスカイプにより遠隔地から参加)、最終課題「ゲンロンSF新人賞【実作】」の選考を担当した。
以下は、2017年3月16日(木)午後7時から開催される本番のため事前に作成した講評メモをベースに、当日の発言を加味したりしなかったり、言いそこねたことや後で思いついたことを補ったり、言いすぎたところを謝ったり、駄目押しで殺しにかかったりという修正を施した「講評録」である。
ファイナリストたちへの贈り物(迷惑でしょうが)としてボランティアで執筆するが、公表の如何は主催者であるゲンロンに委ねる。
当日述べたとおり、講評はそれぞれの作者にあわせて処方したもので、これに含まれるアドバイスを他の作者は参考としてはいけない。おおむね有害となる。ただし、候補作とセットで読めば、なんらかの教訓を得られる可能性はある。
総評としては、総じてみなさん優秀である。呼んでいるさいちゅうはいろいろ腹が立ったところもあり(笑)、それが当日の発言に反映されているが、思い返してみるとみなそんなに悪くない。飛のデビュー前後の作品は、それはそれはひどいもので、ここに居並ぶ作品の足下にも寄れない。そもそも小説の書き方などまるで理解していなかった。それでも虚仮の一念で石にかじりついて四十年ちかく経ち、なんとか(食えてはいないが)新作を読んでもらえている。
受講生よ、書けば書くほど自分の至らなさに気づくだろう。そして書けば書くほどなんて自分は才能があるんだろう、とも思うだろう。
書き続けなさい。さすればなんとかなるであろう。というか、なんとかしなさい。
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以下は、候補作への飛の講評を、当日発言した順に並べる。タイトルの前に作者名を、タイトルのあとには当日の採点――飛の持ち点(10点)の配分を記した。ご覧のとおり、配ったのは7点のみである。
メモとして手元に置くために作成したため、箇条書きになっていたり行頭のマークを付けていたり、読みにくいかもしれない。あらかじめお断りしておく。
高木刑「ガルシア・デ・マローネスによって救済される惑星」【1点】
○途方もなくレベルの高い目標にチャレンジしたことはたしか。これを120枚で書き切れるプロ作家はそう何人もいまい。俺はもちろんダメ。だれがやってもまず無理な構想。それをとにもかくにも押し通した、これはすごい。しかし押し通したために、なにもかも台無しになった。
○今回の審査は、「編集者の入札」も予定されていたことから、そういうイベントと理解し、「オーディション」をするつもりで読んだ。そのアナロジーで言うならば高木刑は「4回転ジャンプを4回連続でやります」と宣言し、どれひとつとして4回転に届かなかった、という印象である。
○なぜこの作品の難度が高いかというとリアリティレベルの異なるステージが四つ重ねてあるから。
・大航海時代のカトリックの「世界観」を堅持する人間のレベル
・その世界のリスボン沖に到着した異人がもたらすオーバーテクノロジーの肩に乗って宇宙に進出しているという改変歴史のレベル
・その上で、今回到着した惑星のリアリティ、みずからをユダヤ人と呼び「舌を持たず」ヘブライ語を操る、旧約的世界が出現しているレベル(ただしそこでの宇宙観や神の存在感は明確ではない)
・さらにこの惑星上のすべてを一掃しようとする「神」の行為というレベル
これはですね、4連続ジャンプというより、回転するコマを4つ縦に重ねて、それで綱渡りさせようみたいなチャレンジ。しかも、わたり切った先には、さらに「神への書簡」という大ネタが控えているんですね。
無謀ですね。
結局この四つのリアリティレベルをどれひとつとしてクリアしていない。たとえば舞台になる異人の星、到着そうそう奇蹟が立て続けに起こるのですが、これ、この星では当たり前のことなのか、驚くべきことなのかいまひとつよくわからない。たぶん良く起こっているんだろうなと思わせる記述が一二行あるんだけど、この世界のリアリティレベル、この程度のことなら普通なんです、ということを解説してくれる視点がいないので、読者はなしくずし的にもやもやしながら先に進まされる。そうするとですね、異常事態に(つまり読者に驚いてほしいイベントにも)不感症になるのですよ。なんだか作者が適当にイベントを放って寄越しているようにしか見えなくなってくる。
なので、この星に神の偉大な力がふるわれたとき、それがありふれた奇蹟の一部なのか、それとも大変な事態なのかわからない。
一事が万事です。そんなわけで、どのレイヤーも説得的な世界として立ち上がってこない。
○さて、そんなぐらぐらな土台へ、作者はさらに多視点を導入。
・ガルシアとマテオ
・キルヒナーとアンドレア
というふた組の視点、このそれぞれの立場とモチベーション、秘めたる欲望があきらかでないため、読者はだれに寄り添ってこの世界を眺めればよいのか判らない。これもつらい。
※個人的には、この作品の最大の発明は「「神が実在した時代の精神」をそのまま宇宙へ連れ出すと、あらふしぎ、神が現前する」という曲芸だと思うんだが。「神が撤退し科学が前景化した時代の精神を、宇宙なり何なりへ連れ出すと、あらふしぎSF的なイベントが発生する」というのがSFだとすれば、それを360度だか、720度ひねってしまう可能性を持ったネタ。そこのところ作者は自覚していたのだろうか。
○さらに容赦なく続けます。ナビゲーションのていねいさがちょっと足りない。複雑な世界へずんずん入っていく展開なので、もっともっとていねいに、くどいくらいでないと読者に無用なストレスがかかる。(東京創元社の小浜氏が最初の何ページか朱を入れたと言っていましたが、あれは親切心ではなく、我慢できずに手を入れてしまいたくなる、ということだと思います。)
○読者は不安なのです。いま物語のプログレスバーのどこにいるのかを知りたい。いま読んでいる場面がどんな場所で人が何人いて、ということが知りたい。それをわかっていないと安心して没頭できないのです。しかし作者はそこに無神経ですね。遠くにいたはずの異人を描写して、人間の背丈がその胸あたり、と書いてしまう。なぜいけないかわかりますか? 背丈を比べるにはすぐそばに立っている必要がある。人間はそういう身体感覚を持って文章を読んでいる。青比べさせるなら、両者の間隔が近づくプロセスをきちんと書かないといけない。あるいはもう少し工夫した書き方を(「近くで比べれば」と仮定のフレーズを入れるとか)。
○作者は、章の始めをごく短いセンテンスで(すっ)と入りますよね。で、続けて息長くうねる文章が続く。いろいろな情報をどっさりもりこんであって、それが複雑に波うちながら読点でリレーされていく。これをのみ下すのがすごく苦労だし、苦労している間に多くの情報がこぼれ落ちていると思います。まずうねらせているうちに書くべきことが落ちている。つぎに読者も目では読んでいるけれど頭には入ってこない。このうねりは美しいダンスになり得ていない。きちんとした分析はしていないけど、たぶん軸がぶれているとおもいます。体幹をきたえましょう。
○この物語のクライマックスでは「宙洞」というオブジェクトが出現します。しかしこれをいきなり「宙洞だ!」という。良く読むと、ずっと前の方にたしかに「宙洞」って出てきて説明もされているんだけど、でも、それ読者は忘れていると思った方がいい。(工夫の跡はたしかに窺えるけど。)こえは「宙洞」に限らず、ほかのこともそうです。
○そして章の終わりもごく短い文章で(すっ)と鞘に収めようとする。スタイルとしては格好いいんだけれども、読者にはストレスです。情報やインパクトが渡し切れていない。文章に、その章全体の重量や慣性を受け止めるだけの目方がないからです。作者がそこまでの慣性を計り切れていないからです。
○とはいえ、
とはいえ、志の高さというか、広げたフロシキの大きさというか、それは断然他を圧していたことは間違いない。引用のパッチワークも凄みはある。
○そしてこの物語のクライマックスで、主人公が涙目で「手紙」を書きなぐる姿に、飛はこれが「新人賞」の原稿であることを想起して、うっかりと感動もしていたのです。(当日は言わなかったけれどもね。スカイプ参加で、他の人の話に割り込むのは凄くむずかしいんですよ。)
○そこにほだされて、正賞の授賞に同意しました。過去作を3作も読んだのは高木さんの作品だけですけど、ほかのは確かにいちいち面白かったし、基本的にセンスがいいひとですね。(「チコとヨハンナ」ってブラーエとケプラーでしょ。)それも考慮しました。(選考のルールに「過去作の得点」も参考にするって書いてあるんです。)
○あとは大森主任講師にこってりと絞ってもらってください。
○見違えるような完成原稿を――四つのレイヤーが圧倒的なリアリティで立ち上がり、作品世界にちりばめられた事物や奇蹟が「シン・ゴジラ」でゴジラを押し倒したビル群のように読者の頭上に落ちかかり、そしてガルシアとキルヒナーの想念に身をよじるような痛切さが感じられるような、そういう完成原稿を期待します。(プレッシャーをかけとく。)
火見月侃「道具箱」【1点】
○道具箱を介して、平成2年のハンダゴテが小学生の自分に送られてしまい、一瞬歴史がずれる(別の人生史が生まれる)が、すぐにエラーは修復され、おだやかな日常が回復される。
○だれもが身に覚えのある「もしもあのとき妄想」をまっすぐに小説にしている素直さ、率直さがめざましい(ほめていません。)作者が自己アピールしているとおり、自己満足にもほどがあるという印象です。以下は思いつくまま。
○作者はモノが好きな人なんですね。手でさわれる道具であり、しかも手と「かかわりあう」モノが好き。
モノを手にしたときの手ざわり、重さ、その実在感が好きでありそれをいかにもいきいきと描き出すことができる。しかも、そこにフェティシズムの影がないんですね。で、かわってそこにあるのはノスタルジー、モノに向かうノスタルジー、言い替えるとこの作者は「ノスタルジーを心象としてではなく具体物で書ける」人であろうと思いました。
○本作のタイトルは「道具箱」で、それを作品の重心に置くために、作者は和菓子職人の先祖まで引っ張り出して、道具箱の周囲に実体感ある手ざわりを構築していますが、でもノスタルジーの向かう先は、箱ではなくハンダゴテ、金属を溶かし、流動させ、電子回路というワンダーを作り出せる、けれどもそれ自体は濡れ雑巾で温度調整をする、電熱器を仕込んだローテクのデバイスということですね。
○そのローテクが時空と自分の人生を工作する。自分の手の、指の延長がじかに世界そのものに触れ、そこを変えていく、そういうストーリーです。
○このハンダゴテをたとえば万年筆や鉛筆といったローテク文具に置き換えれば、即座にこれは「SFを書くこと」につながっていきますね。作者はそれを意識してはいないと思いますが、「私がSFを書く」という意識が「SFがわたしを素描する。「もうひとつのあり得た私」と「この私」を素描する」として結実している。これはそういう可能性をひめている作品です。
それを情報理論や認知問題みたいな最新モードではなく、ローテクを通じて実体感あるものとして、ここに、このテーブルの上に置けるような物として書ける。あるいは、書きたい。作者は自分のそういう部分にもうすこし意識的になるべきだったかと思います。もし自覚していてこの程度ならアカン。
○この作者の資質は、昔の課題作「ロボちゃんの印鑑登録」にも端的に表れていますね。あのときの塩澤意見には異論があって、あのお話は「印鑑登録」がクライマックスではない。「AI覚醒」ものの定石を考えると、AIが自己覚知するきっかけ(落雷とか、仲の良い子どもがいじめられるとか)がある。これはクライマックスではないですよね。物語が転がり出すポイントのひとつ。そこに「印鑑登録」を持ってきたところに妙趣がある。実印は「法律の世界」と人間とのインタフェイスです。AIが法的な自然人に擬制されたときになにが起こるかという課題を、印鑑という素朴な実体物に、その素材にまでこだわって書いた作品。「ロボちゃん」の良さは、ノスタルジーのベクトルとAIの未来というベクトルという、正反対の動きが、ひとつのデバイスに籠められた、その点ですね。しかし今作は冒頭に陳べたような「一抹のさびしさをともなう自己満足」にとどまっている。
○というわけで、本作は志の低さ、挑戦する精神の乏しさゆえに、1点です。0点にしなかったのは、とにもかくにもまとまっていたこと。人間は好きなものを書いているときは魅力的でいられるし、そのチャーミングさに免じてあげよう!という気になるから。
○しかし作者は小学4年にして「人間椅子」を読みながら同級生の逆上がりを見物するような人物だったんですかね。けしからんですね。逮捕しないといかんですね。
みわ「わたしのクリスタル」【2点】
○「丸の内にサイゼリアはない。」……有益な知識を得られて読んだ甲斐がありました。
○この作者は、文章の中で重要なフレーズを、紙の上でしぜんにうきあがらせることができる人ですね。ただ流れるだけでなく、気持ちの良いモーメントと起伏があって、情報がもらさず頭に入ってくる。ひとつには作者の耳の良さ(リズムや音が心地よい)。もうひとつは文章のリズムとか呼吸とかとは別のレベルで「タメと解放」がしくまれていること。たとえば女性の笑いを表現して、「朝顔が蕾のねじりをほどきながらいっせいに咲き出す夏の朝のように」とたとえるくだりがあって、ここには「ねじれ」と「ほどけ」がある。「力」がぜんまいのように巻き上げられ、文章に視覚的イメージとは別の「力」を組み込む。生物的な円運動を比喩に入れてくるの、なかなかできませんが、うまいですね。これたぶん天然でやっているでしょ? 天性のものというか、おそらくはそのようにして読書や生活を、その心地よさを楽しんできた人。その気持ち良さにふれて、読んでいる人は「もしかしてこの小説、わたしのことが好きなのでは?」と錯覚する。
○というと褒めているみたいですが、そうでもなくて、この天然の美質でたいへん得をしているけれども、この程度の才能ではなんともならない領域というのが小説道のすぐ先には無限に拡がっているんですね。
○たとえば作者はおそらく主人公二人が好きですね、シエラさんのことも、おばあのこともみほ子の両親のことも。しかしそんなに親しくてよいのか、なれあっていてよいのかとも思います。この小説にぬぐい難く漂うのは、高校生の文芸部員の習作みたいな匂いで(それは他の講師が言ったような「キラキラ」ではなくって、むしろあの紺のプリーツスカートのような野暮ったさ、どん臭さです)、だけど小説内世界に惚れ込みながら、親しみながら、しかし作者と作品の間に一線を引くこと、切断を行うことは可能です。
○この作者の作品には強い引力がある。それは作者じしんにとってさえ心地のよいものなのです。それは危険なことで、本作はそこをわたり切っていない(しかしだからこその良さはもちろんある)。物語の頂点が東京男子の告白に置かれていること。これはこの物語の肉体が欲していることだったでしょうか?
○作者は「わたし」のクリスタルにも、もっとふみ込むべきだった。冬の世界や、そこに住む不気味だがやさしい生き物だとか、その生き物の肉を貰って作るシチューのおいしさ、温かさ(以上は飛の思いつきです)にもふれるべきだった。そしてみほ子の「けもの人間」はそこへ下り立つべきだった。
○そこが突破口になれば、クリスタルの世界をひろげられたし、現実の世界全体へともひろがっていけただろうし、そうして作者も自分をふかく耕せた。そう思います。まあ続編と完結編を書いちゃえばいいんですけどね。この不満が高橋作と1点差の2点にした理由です。1点差にとどめた理由は、「苦い花と甘い花」のような、立ち竦む感覚もかける人だから。ちなみにあっちの「おもてなし」は凄かった。本格的に読者を落としにかかっていましたね(笑)。
○SF度の高さという点で、あまり辛い点をつける気にはならなかった。イントロダクションとエンディングのパラグラフがその不満を救っている。特にエンディング。あれで十分だと思います。
○ところで、当日他の講師が言ったような「島の闇を書け」とか「八つ裂き」とか、真に受けないように(笑)。この作品がどうやったら深まっていくのか、それはご自分で苦心惨憺しながら探りあてていくしかありません。それはとても苦しいが、その苦しさが楽しいのです。
音依真琴「分離」【0点】
○ごめんなさい、私には「評価不能」でした。端的に言って何が書いてあるかわからない。お話の筋もぼんやりとしか判らない。頭が悪くてすみません。
○技術的にはあまりに問題が多すぎる。
・冒頭のはったりは実に素晴らしい。個々の記述の科学的正確性はわからないが、これだけでおおーとなる。
・修道院で夜ひとり歩きをする主人公の描写も雰囲気満点。なるほどこれはアンファン・テリブル、とか思いながら教会の旧棟での計算機械の描写に入ると、いきなり作画崩壊ならぬ描写崩壊状態に陥る。ほんと、何がどうなっているのか判らない。
○その後主人公レンツは、この機械と生物の挙動が計算を実行しているということを、常人から遙かにかけ離れた能力で理解するのですが、そしてメンデルの顔からもそれを読み取るのですが、ここも非常にもやもやするのですね。
○これが読み取れるというのは、DVDの表面のキラキラを見て映像や音楽を読み取れる以上の能力だと思うが、ほんとにそういうことなんですか、と。
○その機械についていうと「メンデル」は単体でも量子コンピュータ並の力があるようだが、なぜこんな大掛かりな機械装置が必要なのか。この機械装置でなにをしているのか、実はよくわからない。
○とにかくなんでもいいから「物凄い存在」である人物をこの物語が要請しており、それを読み取れる人物もまた登場して欲しくて、この二人を出合わす際の舞台装置として機械群を置いてみた、というところのようにしか見えないのが難点。
○以下、綿密な記述がえんえん続く。実はですね、こういう文章には見覚えがある。だれあろう、ほかならぬこの私が書いている。思うに、これは作者が自分を説得しようとして書いている文章ですね。俺のアイディアはこう、そのアイディアの展開はこう、その展開を支える背景はこう、そして敵役が出てきてこう、あいての作戦はこう、しかしこういう盲点がある。よしよし繋がるぞ、大丈夫だぞ、作品として成立するぞ。そう自分を納得させながら、アイディアやプロットの輪郭を固めていく。こういうメモをどんどん書いている。しかしですね、それは読者に見せるものではないのです。自分が読むと意味がある。けれどもそれだけでは書きたいことが伝わらない。
○印象に残った点を書きます。
若きメンデルが自分をナイフで解剖するシーン。じぶんが人間では無いと知るシーン。じぶんが人間の「模写」ではないか、そしてそれは実存ではなくて、機能を演じる、と言うか動作させるためのものではないかと懐疑的になるくだり。ここにはこの作者の中の本質的な部分があらわになりかけている、というふうに感じられます。
○そして超絶的な存在であるメンデルの一端を理解し、そのメンデルに見込まれて、何かを託される。そういう力動関係に作者のツボがある。それは自己アピールでも読み取れるし、過去の実作「ふたり」にも近しいモチーフが出てきている。
○このような「本体と模写の感覚」は、単に観念的な遊戯としてではなく、もう少し小説の骨身に絡みつくような、作者本人の資質の深いところからわいてくる濃い問題意識と不可分であることはうかがえる。
○この小説の本文は非常に未整理で、さまざまな要素が統制されぬまま、錬磨されぬまま、検証されぬまま飛び交っている感じですけど、これは私に言わせれば「線香花火に火をつけた直後の状態」なんですね。こよりのところで炎が上がったり、不測の火花が散ったりしますけど、まだ本番じゃない。しかしいずれ火薬は丸まって静まり返り、美しい光の球になる。そしてそこから目もくらむような火花が出はじめる。
○作者の中には未使用の火薬がたんまりあるけれど、まだそれは発火準備が整っていない。美しい光の枝々を描き出す力に不足がある。だから、作者は「まず自分を説得する」必要があった。というのが私の判断です。
○まあ、それなのにあれだけの支持を集めるんですから大したものです。
○この作者が、持ち前のやむにやまれぬ意欲と強迫に見合った技術――イマジネーションや物語をあやつる技術――を獲得することを期待します。うまくいくとは限りませんよ? でもその「時」はそんなに遠くないかもね。
崎田和香子「エンケラドゥスの烏賊」【0点】
○ナイスキャラの崎田さんにはまずひれ伏してお詫びしなければならない。その節はどうも申し訳ありませんでした。
○だって予備知識が無かったらだれだって「なにゆえエンケラドゥス?」「どうして烏賊?」と思うじゃないですか。「全然必然性ないし」と。あれ、東さんの放言がきっかけだったんですか?それをお題にしたんですか? もしかしてそれ『クリュセの魚』からの連想?
○それをいってくれればあんな失礼な話を「いきなり」にはしなかったなあ。むしろそんな馬鹿なお題からあれだけ書けたんだから、もっとほめるんだった。
○しかも準備期間が短くって、実は崎田さんのだけ、講評メモが間に合わなかったんですね。これもほんっと申し訳ない。
○なので大いに反省しつつ、しかしあのときの講評もきちんと織り交ぜながら、改めてイカのとおり申し上げます。
○ナンセンスなコメディのテイストを一貫して維持して、いささかのストレスもなく、イカソーメンのようにつるつるシコシコの歯ごたえでどんどん読ませるのは、じつは簡単なことじゃないんですよね。会場で編集者のだれだっけ、「ケータイの画面で最後まで読めた」と言っていて思わず膝を打ったのですけど、テンションをほどほどにしながらリーダビリティ保たすって、これはこれでなかなか大したことなんですよね。
○だから崎田さんの最大の敗因は東浩紀のでまかせを真に受けて、きっちり小説に書いちゃったところですよ。これがもし……と思いつつ、遅ればせながら過去作(「地球を救いにきた男」)を読んで見ると、あー、普段からこういう感じだったのですね(笑)。
○この二作を読むかぎりですけど、崎田さんって、物語を前から順番に、段取りを取って語っていくところがありますね。もしかしてですが、そういうふうに――出来事が起こった順番に――お話を書くクセがついていませんか。お話の中身にもよりますが、ちょっと語る順番を変えるとぐっとメリハリが出ることがありますね。手持ちのカードの「どれを」「どの順番で」「どういうタイミングで」出すか、というのは大事。あと「どれを使わないか」もね。みわさんの作品は、読者とテーブルを挟んでアフタヌーンティーをしている感じがありますが、その伝で言うと、崎田さんは読者と花札をするとか、ポーカーをするとか、そういう「読者に追い込みをかける」「全部巻き上げてすってんてんにしてやる」という意気込みで作戦を練るといいと思います。読者がでんぐりがえるような会心の一枚を出す、その快感をぜひあじわってみてください。
○さて、その上で当日の講評に戻って言いますけど、やっぱり「この原作で漫画を読みたい」と思わせちゃうところがネックかなと思います。たとえば吾妻ひでおの、楳図かずおの、ちばてつやの絵柄を乗せたら、と想像すると、ぐっとイメージがひろがるでしょ。そう思わせるということは、文章にそういう色気、コケットリー、肉感、崎田さんならではの個性がまだまだ足りないのだと思います。なんてことない一行でもくすくす笑えちゃう、ヒロインの言動がどうにもたまらない、みたいな形でファンがつくように。
○あとほんとどうでもいいですが、ポチくんが体表をディスプレイにしているという絶妙のアイディアがあるんで、これはもったいないなあと思いましたね。他にもたぶん烏賊ネタを用意しておられたとは思いますが、ストーリーの手綱をちょびっとゆるめて、小説が自走する奔放さを楽しまれてもよかったかと思います。
○ではまたどこかでお会いしましょう――と、崎田さんには言いたくなるんですよね。ではまた。
高橋文樹「昨日までのこと」【3点】
たいへん優秀な作者ですね。タイトルのセンスひとつとってもそれがわかる。内容を知らない段階で一瞥したときの印象ではおそらくトップでしょう。何が書いてあるかまったく判らないが、しかし読者の足もとから作品の中への導線をさりげなく引いている。
選考前にツイッターで事前に次のような「読みポイント」をお見せしました
■アピール
・タイトル(表題)のセンス
・どんな話か、かんたんに説明できるか
・自分の強み・魅力がわかっていて、それをプレゼンしているか。あるいは自覚しているかどうかを問わず余人にない魅力があるか
■技術
・アイディアとストーリーと語り口が乳化しているか(あるいは意識しているか)
・冒頭1枚の牽引力
・構成。どのカードをどのタイミングでどう見せるか。緩急と起伏とペース配分
・描写にふけっていないか。こまめに文章のアクセルとブレーキ、ギアチェンジしているか
■SF小説としての魅力
・アイディアのポテンシャルを十分に伸ばしてやっているか
・アイディアとストーリーがお互いをエキサイティングにしているか
■総合感銘度
・度胸(ページから感じる風圧)と愛嬌(心地よさ)があるか
・また「この人」と話をしたい、と思えるか
・記憶に強く残る「何か」があるか
○高橋さん、これらをことごとくいい感じにクリアしていますね。
と思ったら、いままでに新人賞をふたつも取っている人であったのか……! そりゃうまいわけだ。
○さて、今作の内容は、異様な人類のたそがれを描き、そこに立つ「現代人」の孤独と悲哀を書く。自己アピールによれば、この世界のデザインには、反知性主義の横行という現代の課題が反映されているという。記録文書を並べて長大な時間のスパンを切り詰めるのはよくある手ですが、主人公の嘆きを、その文書に封じることで切実さが高まるというのがお手柄です。もうそこに手を差し伸べるすべはないのに、しかしその苦しさはいま現在のものとして心の中に居座って読後感を残す。彼女がそこで行ったさまざまな行為について、文書の中からかいま見得るだけなのですが、それがかえって想像を刺激してもくれる。――そんな仕上がりになっていて、これで約40枚というのは、まあお見事ですね。
○というわけで、お待たせしました、ここからは無い物ねだりです。
○想像してみてください。この作品を読み終わったSF好きが三人居酒屋にあつまって、あそこがよかった、ここがひどかったといって、さて何時間盛り上がれるか。自分は、あまり長くないと思う。せいぜい15分? いや30分はいけるか。他の作品ならもっと持つ。『エンケラドゥス』なら、それこそイカ刺しとかイカ天をつつきながら2時間はいける。しかしこれは最終課題です。選考委員が読むのは技術水準だけではない。このようにサラリとしていてよいのか。作者はもっとじたばたする余地があったのではないかという、まあ、ほとんど言いがかりですが、そこを考えて3点にしました。
○と思ったら、なあんだ、当日の作者発言によれば、このお話には書かれなかった80枚があったんですってさ。時間の制約でこれだけしかかけなかった、と。なるほど。それならもっと居酒屋に居座れたかもですね。
○作者の課題作は「マーシャル・テオの分解」しか読んでいないのですが、テーマとしてはあれに通底するものがあります。しかし、あちらのめざましいアイディアには届いていない印象です。あそこでは「刑罰」のパラダイムをくつがえすような罪と刑が設定されていたし、その抜け穴としてイワシをつかうといういいアイディアもありました。そう、それに鰯のタタキを肴にすることもできますしね。
○まとめますと、本作はこの完成度と引き換えに失っているものもあると認めざるを得ず、後ろ髪を引かれつつ、高木作に正賞を、その代わり高橋さんには大森氏の即席の提案で飛浩隆賞を進呈することになりました。
○というわけで、高橋氏におかれては、次なる新人賞にふらふら旅立ったりすることなく、不惜身命の心構えで「完全版『昨日までのこと』」をとっとと完成させ、あの場に来ていた編集者(ないし大森氏)に売り込みをすること。東氏もいっていたように、ハイディのひとり語りはじつに良かったですから。