演劇的なるものを求めて@ゲンロン五反田アトリエ

演劇的なるものを求めて@ゲンロン五反田アトリエ

通常、美術館やギャラリーに演劇的なるものを求めて出かけるわけではないから、本タイトルはちょっと芝居がかっている。だが、それは仕方がない。演出家・劇作家など美術に留まらず幅広く活動する飴屋法水と、初個展『zoe』でスリリングな臨場感を打ち出した青木美紅が展示指導を務めたからだ。ハラスメント事件により黒瀬陽平主任講師が退任後、ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校からゲンロン新芸術校へと移行する際、A,B,C,D各グループ展のために、それぞれの審査員とは別に展示指導の講師が2名ずつ就任することに決まり、グループBは上記の組み合わせとなった(審査員は元々決まっていたやなぎみわ)。この編成により、良い意味では多様な視野が開けたと言えるだろう。ただ、今さらながら、これらグループ展はコンペなのだ。あくまでも私見として誤解を恐れずに言えば、作家だけでなく講師陣のバトルでもあるかのように見えてきたのは、このシステムに加え、グループB展の「過剰さ」によってもたらされた影響が大きいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「点取り占い」の偶然性に魅せられた金盛郁子(CL課程)が、あらゆる表現方法で偶然という捉えどころのない存在と闘えるのではないか? という思いを込めてキュレーションを手がけた本展示。第一印象は、担当講師の演劇的手法(と、どうしても思ってしまう)による圧倒的なインパクトの強さだった。ただ、黒瀬陽平が演劇をテーマに持っていたことを考えると、彼が去った後に、劇的効果をリアルに行使できる機会が生じたというのは、災い転じて福となしたとも言えるが、あまりにも大きさ・強さを主張する印象を受けたのも確かだ。展覧会の鑑賞体験に何を求めるのか、各個人によって違いはあるだろうが、自分自身に極めてアトラクション的な刺激を求める傾向があることに気づかされたと同時に、ちょっと展示ブースに立ち寄って作家の一人一人に話を聞きたくなるような展示でもあった。果たして偶然性と闘っていたのかどうかは別として、作品からさらに踏み込んだコミュニケーションを求めたくなる回路が開かれていたようにも思える。

 

そんな展覧会タイトルの「雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった ●1点」は点取り占いからの引用と思いきや、元々は「思わなかった」ではなくて「知らなかった」だったのを金盛が間違えた偶然をそのまま採用したということだが、会場のそこかしこに貼り付けられている点取り占いのコピーは金盛の創作らしく、むしろこうした偶然と必然の融合の妙が、本展示の不可思議なリアリティに結びついている。とはいえ、そもそも偶然集まった作家たちとCL、偶然重なったトラブル、偶然配属された講師たち……という時点で、偶然に満ち溢れているわけで、たとえその先、どんなにわざとらしい手法を用いたとしても、偶然性の土台に乗っていることに変わりはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

入口を入ってすぐ、サブロク板(910×1820mm)に描かれた安藤卓児の屏風絵《123[4]567》が立ち塞がるように現れる。聞くと、母親の身にふりかかったある出来事を知り、これまで自身が母親を聖母のように崇拝していたことを思い知らされ、衝撃を受けながらも制作に取り組んだという。「母親も1人の女性として変化し続けるという現実を超えて、神話は母なる瞬間のエッセンスとして生き続けるのだよね」といった立ち話をした。ふと見ると、足元には本物の動物の骨が飾られており、このゾーンに慰霊的・神秘的な雰囲気を与え、安藤の生活と制作との結びつきが舞台装置として再現されていた。後に、この骨が動物堂を営んでいた飴屋講師の私物だと知り、やはり本展示は講師の関与が大きいと実感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白井正輝《draw the circle●》は、トイレ内の窓枠ぴったりに黒く塗られた板に、「死ぬな!」と書かれたテープが何枚も張りつけられ、床にはチョークでメッセージが描かれている。「パンクか?」と思いながら洗面台に向かうと、鏡をぴったり覆った黒い板。ブラックホールを意識しての制作らしいのだが、これまで精神的に苦しみ、常に生死と向き合って生きてきたという彼にとって、ブラックホールは決して怖い存在ではなく、むしろ心安らぐものなのだそうだ。それらが空間に配置された様は、すっきりと洗練された趣を醸し出して見える。ただ、ハンドアウト上で彼の作品にだけ価格がつけられていたことが1つの謎として残っている。これも含めてブラックホールなのだろうか。

 

 

アトリエの内部に進むと、大倉なな《肺色の水》に出会うことができる。「肺色」とは、肺に溜まった水の色を指す造語らしい。大倉が2018年に描いた「おぼろげに花」という絵画について青木講師から画中画のようだと指摘を受けたことから着想し、プラスチック板でプレスして、偶発的な色彩を無限に生み出し、画と外を差別化した新たな画中画を定義したのだという。故意に偶然を創出するという行為は、金盛のキュレーションと通じ合うのかもしれない。肺色とは何色なのか? 何かが破裂し、血のような赤が滲み出している絵の前に佇む。2人の人間が絡み合い唇づけしている状態は、それ自体が肺のようだ。この絵の内部で燃えるような情念が外へと流出しているのではないかと想像してみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな会場の真ん中に忽然と出現するのが、鈴木祥平の《プレセッション交点》と題されたブルーボックスだ。こちらとあちらに椅子があり、中の天体を覗けるのだがお互いは見えない仕組みになっている。それってまるで「永遠のロミオとジュリエット」みたいだ、などと冗談で思ったりしたのだが、後から、座った時だけ天体が見えると知り、そのことを知らなかったことを少し残念に思った。もし、時々、ほんの一瞬だけ相手のシルエットを見ることができたりしたら……それこそ点取り占い的な偶然性が高まるのでは? と、心躍る要素を感じてしまう。潔いまでに無駄を削ぎ落したシンプルな設計には、他者の干渉が許される隙がなく、『2001年宇宙の旅』のようなSF作品の中に出現する謎の物体のような力強さを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その背後に設置されたメカラウロ子によるインスタレーション《ファインディング しゃけ》は、ユーモラスな声が響き渡るCG映像と、模型、フィギュア、人工いくら等々……といった鮭にまつわる盛沢山なアイテムで成り立っている。よくこれだけ用意できたものだと感心するほどぎっしり陳列された書棚や冷蔵庫からほとばしるエネルギーは圧倒的であり、経験や洗練、テクニック、そして批評性を超えるのはやはり情熱なのだろうか、と思わざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会場の突き当りには、きんたろうがシルバーシートに描いた台所バトル絵画《  花嫁*奉行  ~台所ニ大蟷螂ノ怪ヲ見ル圖~》が、さながら芝居小屋のテントのように張られている。きんたろうの生活において、母親と交代で料理をするプレッシャーや、結婚した姉が野菜嫌いであることへの思い、台所で作品制作する日常など……様々な背景や事情があるらしい。それらが混然一体となって渦巻く坩堝のような絵画なのだが、そんなことを知らずに見る観客にとっては、あたかも劇団内部を構成する舞台美術装置の一部として圧倒されることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田邊恵利子《原始神母》は、会場の一番奥の空間に、波の音、揺らめく布、砂、貝殻、花弁、骨……など土に還るサスティナブルな素材で設えられ、まるで祭壇のようだ。ここにいると、すべての物音が遠い声のようにこだまする感覚に襲われる。偶然与えられた状況と闘うわけではなく、受け入れようとする儀式。あらゆる生命の循環の中に自分も含まれているという虚無が、心地良い安堵に浸されていく。植物素材から発せられる仄かな香りや優しい色合いといった複合的な要素によるヒーリング効果も、作品の一部になっている。ふと、このどこか閉じた空間での静謐な気分はどこへ行くのだろう? と思う。「芸術」と「癒し」の混じり合う浜辺で、寄せては返す波のようにただ繰り返すのか、その果てに広がる無数の生命を孕んだ海へと泳ぎ出すのか。遊泳者が泳ぎ着く先はどこなのだろう。

 

そんなB展示で1位をエネルギッシュなメカラウロ子、2位をクール・ロマンな鈴木祥平が獲得したのは興味深い結果だ。指導講師がどこまで関与すべきか問題については引き続き考えていきたいと思うが、何はともあれ演劇的インパクトが大きくて、遠い昔、晴海埠頭で天井桟敷の『レミング』を観た後の人生が一変したことを思い出し、少々感傷的な自分を見出していた。

 

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