グループB『雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった●1点』 展評

グループB『雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった●1点』 展評

◎展評についてのステイトメント

 

本展評は展示を見ていない広い読者へのアーカイブとしては適していないと思われる。

ここでは本展作家の作家たちやCL、また展示を見た人たちに質問したり、一緒にお話ししたいようなことを伝えたく、これを展評として残したい。

 

◎展示全体について

 

〇『雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった●1点』

 

本展タイトルはCL課程金盛郁子が「点取り占い」に着想を得て、参加作家らは通じて「偶然」という目に見えぬ事象と格闘しているとしてつけられた。

講師として飴屋法水、青木美紅が参加し、会場は作品のほか随所に小道具が置かれるなど、さながら舞台装置のように抜け目なく嗜好が凝らされていた。

本展時においてはいつ起こりえぬともしれぬ「偶然」と、絶え間ない稽古を重ねていくことで絶対性を目指す「演劇」との成立しそうでいてそれでもどこか危ういような感覚を抱かせた。

また参加作家のひとり、メカラウロ子の映像作品にあった「自分のことについて、自分で決められることはどれくらいあるのだろう」という言葉が、この展示全体における「偶然」の定義づけのようにも思われた。

 

◎各作品について

 

〇安藤卓児『123[4]567』

 

本作品はサブロク板と呼ばれる板に聖母子像や自画像を描いた大型の絵画作品である。

作家の安藤卓児が愛知県にて家族と半自給自足的な生活をしているということ、またかつてグラフィティーアートの領域で活動されていたという背景から、「絵画の移動すること」について考えさせられた。

愛知県での生活の中に、溶け込むもの、自明のものとして制作活動の位置する中で、この果たして五反田に移動することが前提とされて作られたとは思えぬほどに巨大な作品であった。ここに生活の中で生み出された作品がその場所を離れ、遠くの展示空間として用意された場において展示されるということの意味や効能について、再考しなければならないと強く感じさせられる作品であった。(五反田と作品サイズの関係性については説明されていたが……)

 

〇白井正輝『draw the circle●』

 

本作品は会場内のトイレに展示されたインスタレーション作品である。扉を開けてすぐの鏡は真っ黒に塗りつぶされた絵画によってふさがれ、トイレ後方には黒地に白の円とその周囲に「死ぬな」の文字。床には作家からのメッセージ、また天井裏の作品は壁にかけられた鏡から鑑賞することができる。

白井正輝は「円」というモチーフを循環の象徴としてとらえ、すべてを飲みこみ境界をなくしていく、この過程のなかで転生し生き続けていくのだと語る。

ここで作家の言う「転生」と「すいこむということ」、展示場所がトイレであったことの関係性について考えさせられた。作家の語りにはトイレを流すときの渦とブラックホールの渦は似ている、ということであったが、トイレの渦はあくまで不要になったものをながしてしまうもののようにおもわれる。つまり作家にとっての転生、循環とは、その繰り返しの中で清められていく魂(あるいは身体?)ということなのであろうか。

 

〇大倉なな『肺色の水』

 

本作は「画中画」の様式をとりながら、二人の人物がキスをした様子を描いた絵画作品である。

過去作に描かれたベッドフレームが画中画のようであったことから、外側の枠については絵具を乗せたものをアクリル板で押し付けることにより作者の意図の反映されない「偶然」に任せた模様を浮かび上がらせている。また肺がんを患う祖母の肺にたまる水と生命の源である羊水とを題材とし、生命とは愛とは何かを問いかけ、寄り添う二人はまるで対の肺の様だ。

本作や作家のそのほかの作品を前にいつも思わせられるのは「絵画の中を流れる音」についてである。大倉ななの絵から感じられるのは静けさ、また聞こえたとしても低く低くなる重音のようなものだ。自身や人々の体験と映画のシーンが重なったときに制作の起こること、画中には二人の人物がいることから何か小さな話し声やシーツのこすれる音、音楽のながれていてもおかしくないのに、である。

本作のステイトメントに「羊水」の文字を見つけた時、はっとさせられた。絵画の静けさ、この重音は羊水越しに聞こえる胎動なのではないか、と。色彩の鮮やかで、劇的な場面の欠かれている中で、どこか心地のよさを感じるのは、かつてあった絶対的な安心感を思い出させられるからなのかもしれない。

 

〇鈴木祥平『プレッセション交点』

作品は展示会場の中央に位置し、長方形の箱のようなものの両端には椅子が置かれている。昨今の疫病蔓延という状況下において、「距離」の生まれた他者を想えるだろうか、という問題意識から、箱の内部を覗くと蛍光塗料のために、その前に座っていた人の痕跡が感じられ、また自分の座った痕跡も次に座る他者に伝わるのだ。

作家のたてた、距離を伴いながらも出会える関係というのは「情報」に過ぎないのではないかという問いはその距離を感じさせる装置が立方体であるということと強い繋がりを感じる。表面に模様の描かれ嗜好の凝らされているものの、そこからはどこか無機質さを感じることとなる。

蛍光塗料にみる、ぼんやりとしたひとのあたたかさも無機質な立方体によって浮かび上がらせられた情報に過ぎないということを強く思わされた。

 

〇メカラウロ子『ファインディング しゃけ』

 

本作品はしゃけが人間の性にまつわることについて語るCGの映像作品を中心として、作家が訪れた北海道の鮭についての資料館で得た資料などを展示したインスタレーション作品である。

人間の性について考える際、もっと遠い存在を用いて考えようと思ったという言葉に、「しゃけ」という人間にとって都合のいいように、生殖にまつわることさえも品種改良の行われる対象を用いていた。

自分にまつわることを遠い他者に語らせるという手法と、その周りにその遠い他者について学んだ痕跡を残すということはその二者をどのように意味付けるのであろうか。そのことについて考えていかねばならぬ作品であったように感じる。

 

〇きんたろう『   花嫁*奉行   ~台所ニ大蟷螂の怪ヲ見ル圖~』

 

本作はエプロンを着た女性が野菜でできた巨大なカマキリに調理道具で戦いを挑む様子を描いた絵画作品である。講評時には、作品制作が実家の台所で行われていることから講師らに「台所絵画」とも称された。

たしかに、描かれる題材、制作場所、そして会場でのライブペインティング時に身につけていた割烹着やお椀、フライパンを絵の具の器として使用していたことからも、「台所絵画」要素は感じられる。

しかしこれらの他に、より強く「台所絵画」的要素を感じたものがある。それは絵の具が無臭であったことだ。

作者は会期中、会場内でライブペインティングを行なっていた。実際に会場で、近い距離で鑑賞した時気づいたのは、いくつかの画材特有の、ツンとしたにおいのしなかったことである。

装いや題材等々、「台所絵画」を構成する要素はさまざまあるが、実家の家族に迷惑をかけぬよう心がけのなされた絵の具選びというのに、台所絵画の真髄を見た。

 

〇田邊恵利子『原始神母』

 

本作品は自分の子供として育てる犬のあめを刺繍した祭壇を思わせる作品を中心としたインスタレーション作品である。

向かって左脇の作品には雨が染み込ませられ、絵の具としては野菜などからとれた染料を用いて、全て土に戻る素材選びを行なったという。

祭壇を模した作品の下には、子を産むことができない自分を×を用いて描き、埋葬するという写真作品が展示されている。

本作品は五反田アトリエの奥まった場所を展示スペースとしている。多くの場合、窓を暗幕などで覆い、暗室として用いられることの多いスペースであるが、本作品の場合は明るいままに、開けられた窓辺には貝殻で作られたリースがつるされ、風が吹くとかすかに音が聞こえた。

作家は雨と自分とが子として認められることのないことを困難としているが、一体どの側面においてその困難さを感じているのかもっとわかりたいと思った。寿命の差というのも作家自身があげてはいたが、のちに作家の提出した作品ではあめと自身の同質性に注目しつつも、どうしても違うのであるというその一点については明らかにされていなかった。

制度か、あるいは種族の壁か、それでも犬のあめを子として迎えることはどのような意味を持つのだろうか。作家にとって本当の母子とは何か、引き続き、作家の作品を見る中で知っていけたらと思う。

 

 

(中村馨)

 

文字数:3453

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