展覧会を理解するピースについて

展覧会を理解するピースについて

新芸術校第6期グループD『美術は教育できるのか?に対する切り込みと抵抗THE MOVIE』は12月5日から12月13日の会期でゲンロン五反田アトリエにて開催された。

出展者は赤西千夏、飯村崇史、星華、甲T、ながとさき、藤江愛、前田もにか、三好風太の8名、キュレーションはCグループに引き続きCL課程の中田文、担当講師は梅津庸一と弓指寛治が務めた。

 

アトリエにはいるとすぐに、CLの中田文による『「芸術は教育できるのか?」に対する切り込みと抵抗』と映像作品が出迎える。伺ったその日、たまたまスピーカーの不調により映像の音声を聞き取ることができなかった。個々の作家紹介、担当講師による展覧会の概要説明か、と想像はできたものの、そこで話された情報について知ることができなかった。これまで行ったことのある展覧会において全体の概要を映像として提示された経験がなく、強い興味を抱いた。それだけに、完全な状態で鑑賞することが叶わなかったことを今も悔しく思っている。

 

映像の先、左手の壁に見えるのは星華による「GET☆LOVE‼ GAME11-P.10」に始まる3品の絵画作品だ。本作は漫画におけるキャラクターやセリフといった「説明的」な要素を排したコマ割りの中に抽象画の様式を170×120.2のキャンパスに落としこんでいる。漫画のコマにあたる部分は丁寧に塗り込まれ、ストーリーは把握できないほどに抽象化された画面においてもその色彩や筆運びに参照していたページの動きとその勢いが感じられる。

一方で単行本のような漫画においては見開き1ページを一目で見渡せることから、見どころのシーンにおいてはコマを大きく使ったり、淡々としたシーンにおいては均一のコマを並べたりと、「全体が見渡せること」により効果的なコマ割りというのがあるのではないだろうか。

手のひらに収まる漫画、それと自分の背を越すほどの、また思うようにひきがとれず全体を把握することが難しい状況にある絵画にとっての「コマ割り」は同じ意味を持つのだろうか。その両者の距離感についてもう少し知りたい。

 

星華の鮮やかで心地の良い余白のある作品から振り返ると一転、視界一面に水たまりの波紋か迷路を思わすような一面黒い壁と、天井に壁に床に無数に這いずり回る黒いナメクジとに対峙することになる。飯村崇史の「岐路」である。

飯村自身が自身の岐路と向き合うために行ったスペイン巡礼から強く着想を得ており、壁に貼られたのは現地で撮影した樹の幹を拡大したもの、ナメクジも現地では実際に黒くでっぷりした種類のものがいるそうだ。

飯村は本作に人が岐路に立たされた時、そこで1つの選択ができたこと、道を開くことができたことが何よりも重要であるというメッセージを込めている。ここで登場する「ナメクジ」は進化の過程で自分を守る殻を捨てる選択をし、天井に壁に床に自ら道を作る存在として登場する。

作品の趣旨とはまた異なるであろうが、その後会場を回る中で遭遇する無数のナメクジ群には、設営時のナメクジを抱えた飯村の視線を想起させた。ナメクジは壁や床だけでなく、他の作品の中にも、かなりきわどい近距離にさえ見つけることができた。飯村が会場と作品の隙間を見つけるために巡らせた視点、その過程の道のりを想像することもおもしろく、これほどまでに作家が会場内について巡らす視線というものについて意識させられるのは初めての体験であった。

 

黒いナメクジのその先に先に地を這うのはながとさきの半透明の何か生き物を思わせる立体作品だ。編み込まれた糸を淡いピンクのスライムに固めた本作を、ながとは本作品をホコリやカビにたとえ、また人類の生まれる前から地底にいたものが人知れずはみ出てきたものなのだと説明している。

本作を見みるとき、ながと自身が「抜け殻」や「タマゴ」ともたとえていたが、その赤い糸と半透明のスライムの質感から、臓器の標本あるいは治りきっていない傷口を好奇心から絆創膏をはがし眺めるような感覚を思い出す。グロテスクで触ってはいけないのになぜか指でつつきたくなるような、目を背けてもいいような物体なのにどうしてかのぞき込んでしまうような不思議なバランスの魅力がながとの作品にはある。

 

それから奥に進むと、煤けた木枠と屠られた〈くだん〉の生首、二つの映像作品からなる三好風太の「くだんのおや」がある。映像作品では「犠牲者」と「被害者」の違いをキーワードにいけにえとして屠られる〈くだん〉、またに意図せず、三好のステートメントから言葉を借りれば「奇妙な因果律」によって呪いをかけてしまう/かけられてしまう可能性について、〈くだん〉にまつわる呪いについてのストーリ―が展開されていく。

映像作品を見るために腰掛け、ステートメントを読んでいたところ、

『ここから先は物語のネタバレを含みます』の注意書きにぶつかった。言葉の通りに読み進めるのは控え、映像作品に体を向けた。友人に〈くだん〉探しに誘われ多主人公が、予期せず呪いを受ける被害者になるも主人公がそれを他者に拡散する加害者へと覚醒したところで物語は幕を閉じた。それからステートメントの続きを読んだ。するとそこには鑑賞者もまた、意識せざる間に三好から呪いにかけられていたことが明らかになったのだ。ふいに呪いにかけられてしまったと「やられた!」とはっとさせられる瞬間までの作品とステートメントをつなげるその演出がまた見事であると感じた、

 

処刑台、生首といった三好の殺伐とした作品から一転、その左手に始まる藤江愛の作品群からはどこか和室の居間に入り込んだかのような心地よさがある。本作のタイトルは「記憶にある初めて描いた絵は保育園児の時で母の日用の母の絵。紫色が好きで紫もクレヨンで目鼻口を描き、何かが違うと思って横に描き直した。そして初めて作った立体物はプッチンプリンの容器に砂場の砂を入れてかたどりドングリや花びらでデコレーションした砂ケーキ」。表現とは何かという藤江自身に生まれた根源的な問いに、今まで制作してきたあらゆる表現物を振り返り展示するという試みであった。

落書きやドローイング、天井から干された残布を寄せ集めてきたワンピース、年賀状といった作品群を見ていく中で、藤江の表現の枝分かれやその関連について追うことができる。それが非常に日常の中に溶け込んだ表現であるためにたとえば年賀状の一枚一枚をこたつで見せてもらうような心地のする作品群であった。

藤江の表現は鑑賞者との関係という視点から見ると、まるで対面で話を聞いているような距離感を持つものであると感じた。

 

左角、キッチンスペースともいえるひとかどには甲Tの『〇』がある。台所スペースでゴミの詰まったゴミ袋からなる生命体〇が皿といった支持体に投影されている。ステートメントによると生命体の〇の発生の発生に必要な存在かつ養育者ともなった「 」は次第に「自分の生」をささげ続けることを負担に思い最終的に「ゴミに過ぎないのだ」と判断し、破棄してしまう。投影させる〇の姿はどこか遺影のようにも思えてくる。

結末として、甲Tは講評時にパフォーマンスとして〇を復活させる。

依存してくる他者を抱え込む不安を伴いながらも、どうしても最後には捨ておくことのできない存在。これを特定の人間関係として置き換えてみるとどうだろう。〇のもつ少しチャーミングな様相からはUMA的な姿を投影することもできる。それでもなぜか、〇と「 」の物語から、姥捨山に捨てやられた母親を、最後息子が迎えに行くような情景が浮かんだのである。

 

さらに進み、その右手には前田もにかの「延長計画」がある。女性としてのフィルターを通さない自分を魅力的には思ってもらえなかった、せつないデートの思い出からかれた草花に自分を重ね、その姿を発見し、理想の自分の姿をチューリップに置き換え、過去の思い出の場所に配置・撮影し、それを加工していく中で思い出を延長していく。

他者から自分に与えられるフィルターを強く意識されたのち、理想の自分と現状の私はこれだとしてみている自分を発見していくこと。相反する自己像を並べていくことはこれまでとの継続の中でも新しい自分を発見していくための自己物語につながっていくのではないだろうか。

 

そして最奥の壁には赤西千夏の「Like@Angel」がある。

もともと白い壁であったが今回の展示に合わせて赤西の展示ゾーンの壁は一面に濃いピンクに塗られていた。貴族の肖像が書かれるという比較的大きめのキャンパスには自撮りをする赤西自身の自画像、その右わきにはハートのキャンバスにスパッタリング法で描かれたヴィジュアル系バンドのアーティストが三枚並ぶ。そしてその足元には口紅を塗りつけたバナナを刃物に見立てて指の間を順に指していき、最後口紅で汚れた手でピースサインを見せるというパフォーマンスの映像が投影されている。

ピンク色に塗られた壁に投射されるパフォーマンス映像は白いスクリーンに映し出されるのより断然全体のもつ淡さを表現していた。色のついた支持体に映像作品を投影することによってより塗り込められた壁と絵画と映像との世界観が完成されていた。

 

最後に展覧会全体のテーマについて。

今回、タイトルにあった「切り込みと抵抗」という言葉持つの強さを展覧会全体から理解することは難しく感じられた。

しかしこれは冒頭の中田の映像作品がかけていたことが理由なのではないか、という仮説が立つ。込み具合や時間の関係上、すべての作品を見ることがかなわないことはあれ起こりうることである。その時、展覧会を丸ごと理解することは不可能なのであろうか。それとも抜けを担保する強度とはどのようにして生むことができるのだろうか。この「不幸にも起きた偶然」から上記の問いを生んだ。

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