出会いが教育になるとき
2020年12月5日(土)~12月13日(日)、ゲンロン新芸術校第6期グループDの展覧会『美術は教育できるのか?に対する切り込みと抵抗 THE MOVIE』が、ゲンロン五反田アトリエで開催された。出展作家として、赤西千夏、飯村崇史、甲T、星華、ながとさき、藤江愛、前田もにか、三好風太の8名が参加。キュレーターとして中田文(CL課程)、展示指導としては梅津庸一氏と弓指寛治氏が担当した。
筆者である私自身、美術予備校や藝大受験を経験し、美大での教育を受けてきたために、このテーマは興味深かった。
展示を見るにあたって、まず気になったのがタイトルだった。
本タイトルにおける「教育」とは、何を指しているのだろう。
「教育」と一言で言っても、その言葉の中には、様々な段階が含まれているように思う。
「教科書に沿った教育」や、その前にある「ある物事へ興味を持つきっかけとなる出来事や人との出会い」のような偶然によるものも、この言葉の中に含まれているだろう。
幼い頃に絵を描いたり粘土をこねたりして遊んだときは、それが「美術」と名がついて、学校で教科として勉強するものだとは知らなかった。元々そういった経験があったからこそ、学校での「美術」の授業も楽しく受けられた。という経験はないだろうか。
このように、ある物事への出会い方は、そのものの学び方を決めていくうえで重要な役割を果たすだろう。ということは、そんな偶然による出会い自体も、一つの「教育」の形ではないだろうか。
そんな「教育」に対して「切り込み」を入れ、更に「抵抗する」とは?
とくに「抵抗」の部分に、Dグループの意図するところがあるのだとしたら、この展示を通じて、「美術は教育できるのか?」に対する「抵抗」はどのように表出してくるのだろうか。作家各位の作品を見ることで追っていきたいと思う。
アトリエに入室すると、CL課程の中田による映像が流れている。映像内には講師を含めた10名が今回の作品に対する想いを語っている。導線的に、鑑賞者はこの映像を必ず見る仕組みになっている。鑑賞者は、作品の向こう側にいる作者らの生の姿を、作品を見る前に先に出会うよう仕組まれている。
きっと「こんな人達が作品を作っているのか」と思うだろう。
この映像が冒頭に設置されることで、鑑賞者は作家への印象を刷り込まれたあとの作品鑑賞をするかもしれない。
入り口右手の壁全体を覆う飯村崇史の作品。 壁には彼がスペイン巡礼に行った際に撮影した木の表面の画像が貼られており、壁や床を黒々としたナメクジが無数に這っている。木の表面に見られる複雑で枝分かれした模様が、ナメクジが這った後の道筋に似ているという。人生に色んな岐路がある中で、彼にとってスペイン巡礼とは、どんなきっかけになったのだろう。
ながとさきの作品は、床に広がる液状のようなオブジェだ。オブジェには所々に編みかけのレースが装飾されている。編みかけのレースもまた、放射状に広がって行く形をしており、オブジェ自体が生き物として成長しているようだ。彼女の夢は、山手線でぐるぐると回りながら編み物をし続けることだという。この願望は、作品制作という行為というよりも、彼女の原始的な衝動が引き起こすもののようだ。
甲Tは何気ないゴミの塊に◯という名前をつけ、愛情を注いでいた。作品では、一般の鑑賞者から見ればゴミの塊である◯に対する甲Tの深い愛情と、甲Tと◯の特別な関係性が伺えた。
意図された作品制作とも違う、彼の生活から生まれた◯という存在もまた、ある物事への強い関心がきっかけとなり生み出されたものかもしれない。
自分が何を作りたいのか分からないということから、今までの作品を大集合させた藤江愛。
これまで作品制作のつもりはなく、自分が何気なく手を動かして出来たものなどを集めることで、彼女はそれ自体を作品として展示した。藤江の作品もまた、表現に対する興味そのものが具現化したもののように感じる。
「くだん」を探す物語を通じて、「犠牲者」と「被害者」、「加害者」について思考する三好風太のインスタレーション作品。空間内に配置されている焦げた木組み、「くだん」の頭、魚の胎児などは映像作品内に出てきたオブジェだ。インスタレーションに物語性を付与するため、作品は自分にとっての実験の場だという。
彼の思考において、とくに興味深いのは、美術表現も一種の呪いだと主張する点だ。
呪いは、人の生を不可逆に規定することを狙うからだ。これは、鑑賞者と作品との出会いにも通じるという。彼のいう「呪い」とは、一種の美術における学びのありかた、もしくは教育に紐づくもっと前の種(たね)のような存在のひとつの形であるとも言えそうだ。
赤西千夏は、自分の空気のように繊細な色彩で描かれた絵画のことを、「名古屋系」と呼んでいた。 その表現は、 彼女の恩師との出会いに紐付いているそうだ。また、名古屋系というのはビジュアル系の派閥の一つでもある。彼女は、もし20年早く生まれていたら、今とは違う側の「名古屋系」にはまっていただろうという。
自分とは年代の離れたビジュアル系の「名古屋系」と、自身の絵画の傾向である「名古屋系」。 時代や場所が変わることによって、自分が出会うもの・影響を受けるものも様々だろう。だが、彼女が人生の出会いをきっかけとして培った技法と、丁度その頃、好きだった音楽の傾向に、ひとつの共通する「名古屋系」という言葉が浮かび上がり、それが今回の彼女の作品を生み出した。
小説の中で自分と同じ名前の登場人物が出てきた時に、少し似ているかもしれない。こころなしか隅に置けない感じがして、自分をもう一つの側に重ねてみたりしないだろうか。彼女の作品は、共通する名前が持つ、パラレルな世界へ飛ばす力を見せてくれているようにも感じた。
漫画独自にみられるコマ割りや擬態語を最低限残すことで、漫画の絵画化に挑戦をした星華。
画中には、実際の漫画に出てくるコマ割りの構図とともに「ドサドサドサッ」や「グアン」などの擬態語が書かれている。私達は、幼いときから漫画を読んできた経験によって、場面中の擬態語がどんな感情を表す役割をするのか?という部分が刷り込まれているために、彼女の作品の「絵画」と「漫画」の中間とも言える意図された曖昧さを感じることができるのかもしれない。
初めてのデートで、自分がただの「女性」という枠組みによって認識されていると感じたことから、自身を枯れた植物に重ねるようになったという前田もにか。自分のバラバラな気持ちを表すように、写真やドローイングを点在させ展示していた。多分、そんな苦い経験は、誰もが一度は経験しているだろう、彼女の経験談を聞くと、鑑賞者も連動して過去の記憶が彷彿され、胸の奥がチリチリ痛くなるかもしれない。彼女にとって、この経験が、今後の人生においてネガティブな影響を与えない事を願う。あらゆる人間がいる中で、たった一人の人の振る舞いによって、自分が自分に下した見え方にすぎないのだから。
以上、作家の作品を追っていく中で、どうやらこの展示タイトルにおける「教育」とは、いわゆる「教科書に沿った教育」ということではなく、その前段階にある「ある物事への興味を持つきっかけとの出会い」のほうが近いかもしれないと感じた。
Dグループの何名かの作家たちに共通することは、たまたま、あるもの/ある表現との出会いを得て、そのきっかけが三好のいう呪いのように、その後の人生に影響を与え、彼らの表現の遺伝子に少なからず組み込まれているということだった。
藤江のように、幼い時から少しずつ積み重なった、表現への興味。赤西のような、恩師からの影響。飯村やながと、藤江、また甲Tのように、一見美術とは関係のないように見える何らかの衝動や経験が、今の作品制作に結びついているなど。様々な偶然の結果が、グループDに集まった作品たちなのかもしれない。
すると、『美術は教育出来るのか?への切り込みと抵抗』の「抵抗」の部分が徐々に浮かび上がってくる。
「美術は教育できるのか?」という言葉は、つまり、美術教育に対して疑いを持っているということだ。だが、どんな出会いによっても、その後自分がそのものへの興味を保ち続け、続けていれば、はじめの出会いも後天的に「教育」の範疇に入ってしまう。それは些細なきっかけを元に彼ら自身が培ってきたものが殆どであろう。だが、その種(たね)となる、ある出来事や人から影響を受け、彼ら自身の表現の一部となってゆく現象は、少なからずあるのかもしれない。
それを、彼らの作品や制作に対する姿勢を通して垣間見ることができる展示だった。
鑑賞者は、CL課程の中田が制作した映像のなかで作家たちに出会い興味を惹き、その後、アトリエで各作家の作品を味わう。この2段階の過程を経験することによって、鑑賞者は、今回定義した偶然の出会いから始まる教育を、疑似体験させられたのかもしれない。
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