つくられた偶然の中で

つくられた偶然の中で

 ゲンロン新芸術校第6期グループ展Bのタイトル「雨の降る日は天気が悪いとは思わなかった●1点」は、CL課程の金盛郁子によるステイトメントによれば、かつて駄菓子屋で見かけた『点取り占い』から想を得たものだと言う。一瞬では意味を取りづらい短文と点数が並記されて気を惹かれるが、ステイトメントを読み進めていくと、「本展示において、出展作家たちは、偶然を引き起こした得体の知れない根源をあらゆる方法で追求する。」とあるように、『偶然』が本展の重要なファクターであることが提示される。

 会場に足を踏み入れるとすぐに、安藤卓児の巨大な屏風状の作品《123[4]567》が視界を覆い尽くしてくる。屏風の中央下部にサッカーボール大の穴が穿たれ、そこから大きな木の枝が天井近くまで伸びて、枝先に素朴でカラフルなオーナメントが吊り下げられている。屏風の画面に描かれた絵は、シンプルかつダイナミックな線と色でデフォルメされたモチーフが所狭しと並び、プリミティヴなエネルギーを放っている。
 奥に進むと、左手にいくつかの絵画作品の断片が立ち現れてくる。少し後ろを振り返ると、先の安藤作品の屏風の裏にも、作品が貼り付けられている。大倉ななによる大小様々なサイズの作品群には《肺色の水》とタイトルが付けられ、二人の人物が熱い口づけを交わす様が、表現主義的な劇的な色彩で描かれた画面が印象的だ。”肺色”は大倉による造語で、なるほど、口づけを交わす二人はまるで両肺を表しているようでもある。
 大倉作品の奥は斜めに置かれた棚に塞がれているので、別方向に足の向きを変える。会場の中央には、棺桶ほどの大きさの直方体の箱が据えられている。両サイドに椅子が置かれ、目線の高さに合わせて窓が開いている。鈴木祥平による《プレセッション交点》は、窓を覗くと真っ暗だが、奥の方に微かに緑色の線が薄っすらと伸びて明滅を繰り返し、半円上を動いている。まるで夜の星の運行図を見ているようである。反対側に回って見ると同様の様子が見て取れ、映される像に規則性はなく、どうやら見ている人の動きに反応しているようである。
 会場にあるトイレも展示室として用いられており、そこには白井正輝の《draw the circle ●》が展示されている。黒く塗り潰されたF4号が4枚組み合わされ、その上に”死ぬな”と書かれた蛍光テープがランダムに貼られた平面作品である。F4号の組み合わせの都合で中央には四畳半の真ん中のように隙間が空いて濃い黒が覗き、ブラックホールのように観る人を奥に誘い込むようである。
 トイレを出て右手には、大きなモニターに映像が映され、その周りを鈍い赤色を放つ小さなライトや鮭に関するオブジェや資料が取り囲んでいる。メカラウロ子の《ファインディング しゃけ》は、さながら祭壇のような神秘性をもって空間を作っている。流れる映像にはCGアニメ化された鮭が映し出され、鮭の視点から人間の生殖行動に対してざっくばらんに語られる。そして鮭自身が徐々に鮭節やいくら漬けなどに加工され、人間の栄養となっていく様がシュールにループしていく。
 会場奥の壁面は、きんたろうの《花嫁*奉公〜台所二大蟷螂ノ怪ヲ見る圖〜》によって覆われている。本作は、支持体としてシルバーシートが用いられた、260×360cmもの大画面絵画作品である。中心には鍋を被ってお玉を握った女性像が据えられ、その周りを野菜や食器の群れが飛び交う様が描かれている。作品は余白が多く、会期中作家は在廊して少しずつ加筆をしていた。聞くと、現場で人に見られる感覚の中で筆を取る、パフォーマンス要素も取り入れていたようである。
 きんたろう作品が展示された壁面の裏側、会場の一番奥の小スペースには、田邊恵利子の《原始神母》が展開する。映像、布に描かれた絵画や刺繍、オブジェを組み合わせたインスタレーションとなっている。映像では、布などが川や地面に打ち捨てられた様子が映されており、インスタレーションに用いられた布がそこから転用されたものであることが示唆されている。床面には、無数のバツが書かれた布や、ハサミ、ハンガーなどが無残に置かれ、そこから上部へ向けて布が昇華するように伸び、その先には犬の姿が描かれたドローイングがイコンのように祀られている。

 

 『偶然』とは何か。
 展覧会ステイトメントの中で、『偶然』は「全く捉えどころのない、見えない敵」と位置付けているが、果たしてそうだろうか。
 九鬼周造は、「第一に何かあることもないこともできるようなものが偶然であります。第二に何かと何かとが遇うことが偶然であります。第三に何か稀れにしかないことが偶然であります。」(九鬼周造『偶然と運命』p.70)と、偶然の性質として三つの要素を挙げている。
 この考えを本展に援用させると、第二と第三の要素が強かったと感じた。つまり、鑑賞者と作品とが遇うこと、さらに言えば、稀れを”装って”遇うことが演出により巧みに仕組まれていた。稀れを装って遇う、とは、鑑賞者が意図しない形で作品と遇うことであり、同時に企画者が意図的に鑑賞者と作品とを遇わせることである。
 私が『意図しない形で作品と遇う』としたのは、会場の中に巧妙に配置された非作品群の影響が強いためである。会場の所々には、脚立や箒、椅子などが、点在して置かれており、それらはなぜか斜めに傾き、一見デュシャンのレディメイド作品かと思わせるような不思議な存在感を放っていた。それらが作品と作品の間に差し込まれるため、鑑賞者はどこからが作品でどこまでが作品なのかが曖昧なまま作品と向き合うことになり、結果、鑑賞者には作品が唐突に現前するように認識されるのだ。
 この鑑賞者=受け手、企画者=出し手の関係は、点取り占いを巡る関係にも通じる。受け手は、クジの中身を知らないため出てきた結果に偶然性を見出すが、出し手はクジの中身を決定することで可能性を制限している。そうした意味で、会場全体は点取り占いの包みの中のようであり、個々の作品がクジの一つ一つであった。CLの金盛から各作家に寄せられたクジの文言が会場の各作品のそばに貼られており、展覧会タイトル・ステイトメントが会場全体を貫いた演出として評価したい。
 こうした受け手/出し手の非対称性により『偶然』を演出するものとしては、RPGゲームに見られる敵との遭遇方法、ランダムエンカウントも同様である。出し手がプログラムで規定した可能性の中で、受け手は偶然性を感じながら一喜一憂をする。本当はそこにあるのに、目に見えないため偶然を(そして恐怖を)感じてしまうのは、昨今の新型コロナウイルスとの関係性にも似ている。

 個々の作品を見たときに、この『偶然』というファクターを強く感じさせたのは、鈴木祥平ときんたろうであった。
 鈴木の《プレセッション交点》は、窓から覗く映像が、鑑賞者が椅子に座る動きと連動して蓄光塗料によって像を結ぶ仕掛けになっている。鑑賞者の行為によって個々に異なる鑑賞体験を生み出し、作品によって何かと何かを遇わせることを試みている。ここで鈴木は、出し手に、つまり偶然を創出する立場となっており、本展出品作家の中で特異な存在であった。他者の干渉を前提とし、偶然を許容して作品化するスタイルを貫いている。
 きんたろうの《花嫁*奉公〜台所二大蟷螂ノ怪ヲ見る圖〜》では、会場内でのパフォーマンスにその場での偶然性を引き起こそうとする姿勢が垣間見れた。予定調和的で興行的なパフォーマンスではなく、あくまでその会場空間に立ち会い、その中で起きることや湧き起こる感情を画面に映し出そうとした。鈴木とは異なり受動的な姿勢は強いが、偶然を許容して作品化することは共通する。

 最後に、展覧会タイトルについて。
 これは、雨の降る日が好き、と思っていた人が、誰か(おそらく信頼している人)に、それは悪いことだ、と断言されたことで落ち込んだ様子を想起させる。雨が降るかどうかは『偶然』であり、それを良いか悪いか決めるのは自分自身であるはずなのに、他者依存に陥っている状態である。転じて考えれば、『偶然』に満ち満ちたこの世界で、起きたことに対して自分で評価するのか、それとも他者の評価を優先するのか。どちらが正でどちらが負か。その向き合い方を示唆するようである。
 ステイトメントの結びにある、「偶然の向こう側に佇んでいる捉えどころのない存在」とは、自身を規定してくるこの他者に他ならないのだ。

文字数:3465

課題提出者一覧