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「グループ展B『摩訶神隠し』展評」

  • 講師:伊藤亜紗
  • 講師:黒瀬陽平

展示・講評会| 2020年1月12日(日)

実作提出締切| 2019年11月10日(日)

概要:

新芸術校では第5期より「コレクティブリーダー課程」を新設しました。
このコースの受講生は、それぞれグループ展のキュレーションを行うとともに、
キュレーションに参加しない3つグループ展の展評を発表します。
今回は、グループ展B「摩訶神隠し」展評の展評です。

■ 展覧会概要

展覧会名:「摩訶神隠し」
出展作家:大島有香子 / 木谷優太 / 小林毅大 / 鈴木知史 / 田中愛理 / 繭見 / zzz

キュレーション:NIL(CL課程)、マリコム(CL課程)

デザイン:6:30

会期:2019年10月12日(土) ~ 20日(日) ※10月19日(土)は講評のため終日休廊
開廊時間:15:00-20:00

■ キュレーターステートメント

此処ではない何処か。
異界。他界。常世。彼岸。桃源郷。

人ではない何者か。
山人。稀人。異人。神。鬼。

日本人は古来から続く信仰の中で、それらの場所と存在に対し、時に恐怖心を抱き、時に羨望の眼差しを向けながら生きてきた。此処ではない何処か、人ではない何者かと人が遭遇した時、そこには「神隠し」の物語が生まれる。

では「神隠し」とは一体何なのか。それは「消滅」と「境界」を巡る想像力を起動するための装置である。「神隠し」では理由や説明の付かない「消滅」という現象を扱うために、自分たちの生活空間と認識不可能な空間の間に「境界」を発生させる。自殺も失踪も怪奇現象も、かつては「神隠し」を通して認識され、扱われる対象であった。

翻って現代日本に生きる我々は、「神隠し」を素朴に信じることはできない。どのような事件や事故や現象も、全ては科学的な事実に裏付けられた/られるべき現実だ。其処は此処であり、虚構は現実であり、人間こそが化け物の正体なのである。

斯くして「境界」を失った我々は、「消滅」に対しても合理的かつ形式的な理解の元で向き合うことになった。しかし、それは同時に「神隠し」にまつわる想像力を封印するとともに、「境界」を通した逃げ場を失うこと、もしくは「消滅」との付き合い方について思考停止することを意味する。

本展覧会では現代日本において失われた「神隠し」の想像力を再起動することで、いかにして「消滅」の手触りを記憶し続け、「境界」の向こう側と関係を結び直すことができるかについて考えてみたい。

そのためにはまず、本展における「消滅」と「境界」の意味について解説する必要がある。

「消滅」とは死を通して肉体が消えること、精神や関係性が変容することで自己/他者がいなくなること、人間の知覚として不可視になること。これらはそれぞれ肉体的な死、社会的な死、認識の不可能性と対応している。人は時に慰霊、治療や新しい関係性の構築、またはテクノロジーを通じて「消滅」と上手く付き合うための術を獲得してきた。

ここで注意したいのは、我々は「消滅」に耐えられない一方で、強く惹かれることもあるということだ。「神隠し」における失踪は、何処か別の世界で生きていること、あるいは逃避することへの願望や希望でもあった。我々はそのような救いが失われた世界において、行き場のない想いをカルト化させないために、「消滅」の感触に触れ、記憶し続けるための術を見付け出す必要がある。

一方で「境界」とは向こう側との関係を繋ぐ「扉」のようなものである。言い換えればこちら側と向こう側の「境界」を移動する際に「消滅」が発生する。ここで「神隠し」における類型パターンとしては、大別して以下の三つが考えられている。

1.行って帰ってくること。
2.行ったまま帰ってこないこと。
3.行った後に死者として発見されること。

本展における「境界」とは現実/夢、加害/被害、生/死、家族/疑似家族、健常/障害などを扱っている。行って帰ってきた際に災いや祝福を持ち帰ること、行ったまま帰らずに生活してしまうこと、亡くなった対象を弔ったり自らの存在の根拠に据えること。それぞれの作品は「境界」の向こう側と固有の関係を結んでおり、出口のない世界における「神隠し」の物語は、「理由を問われない避難所」へと続く「扉」を開くのである。

ここで日本現代美術における「神隠し」の系譜について考えてみたい。サブカルチャーにおいて「神隠し」を扱った作品は『千と千尋の神隠し』などが挙げられるが、日本現代美術の展覧会/作品においては飴屋法水による「バ  ング  ント」(2005年)と「 ニシ  ポイ  」(2005-2019年)を挙げることができる。これら二つの言葉を組み合わせた「バニシングポイント」は「消失点」という意味だが、西洋絵画における遠近法を通して発達してきた「消失点」の問題は、極めて一神教的な世界観を思わせる。

1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件後、飴屋は作家活動を休止し、「バ  ング  ント」にて作家活動を再開した。行って帰ってくるという「神隠し」を思わせる身振り、「バ  ング  ント」にて自らを「箱」という「境界」に閉じ込め、「消滅」させてみせたこと、「 ニシ  ポイ  」にて自分が「なぜか、生きている」ことと父親の骨壺があること、オウム真理教に関する鮮明な記憶。これらの活動は「神隠し」の想像力における自己「消滅」/他者「消滅」、アート/カルトの「境界」を問うものであった。

行き場を失った「神隠し」の想像力は、この閉じられた世界に滞留したまま渦巻き続ける。それは何処かではなく此処に、人ではない何者かを発生させ続けている。であるならば、我々は「一時避難所」として、あるいは「理由が不明ではなく、不問になる場所」としての「神隠し」の想像力を、日本現代美術の想像力へと接続し、現代に蘇らせなければならない。

我々が作品と展覧会を通じて作り出した「消滅」と「境界」の「神隠し」。それをカルトではなくアートと呼ぶために。

(NIL)

※伊藤亜紗・黒瀬陽平の2名による講評は、2020/1/12(日)を予定しています。各受講生が出した3つの展評のうち1つをセレクションした上で講評が行われます。

課題提出者一覧