存在/傷/境界線の倫理−「摩訶神隠し」について

存在/傷/境界線の倫理−「摩訶神隠し」について

存在/傷/境界線の倫理−「摩訶神隠し」について

CL課程瀬川拓磨

消失と境界、前者は後者を起動させる。存在が失われた瞬間に、わたしたちはそこに明確に引かれていた、わたしたちはそこに明確に引かれている、線のようなものを想起する。しかし存在がわたしたちと同じ「境界」線上に有る限り、わたしたちは互いに存在を分け合っているから、その存在との「境界」は、而して曖昧である。ここまで思って、しかしグループBによる展覧会「摩訶神隠し」はわたしたちに語りかける、消失の向こう側で、わたしたちはもう一度存在を共有することはできないのか。「『境界』の向こう側と固有の関係」を今一度、いやその前からずっと結び続けてきた作家の振る舞いと作品に相対することで、わたしたちは神隠しという脱構築の所作を体感するのである。本論の第一の結論は、この前文に集約される。しかしそれだけでは、展覧会の構成を素朴に受け入れるだけでは、本当に「消失」と「境界」を思考したことにはならないだろう。つまり境界が曖昧な他者・存在に対して、この展覧会は言葉少なになっているように感じられる。それが繭見氏・大島有香子氏・小林毅大氏・木谷優太氏の四者からなる展示のパート2における「家族」という(筆者が考える一つの)主題、そしてそこを通過して到達/退出する鈴木知史氏の作品との展覧会全体の関係性という問題系へと思考を繋ぐことになる。「摩訶神隠し」は神隠しという消失と境界の構成を一つの展示として体現しようとした、しかしそこに不可避的に現れる家族という主題を回収し損なっている。そしてもう一つ、倫理性に踏みとどまっていない。この優れた作品と構成による展示にまず第一に指摘することがあれば、つまりこれが本論の第二の結論となる。これら二つの主張を、個別に作品を辿りながら提示したい。

明確に体感できる、この「異界」の展示の扉となるのが、zzz氏による「Now fading. Now loading.」である。明滅する蝶の痕跡と回るベッド、このテクスチャーとオブジェの選択には、ステートメントにあるような夢幻能の世界を想起させる仕掛けがあり、何よりもこの展覧会を構成する入り口として、この作品は大きな役割を果たしていると言えるだろう。しかし、その逆を考えて見るとどうだろうか。つまりこの作品を、展覧会の文脈から切り離して、単独の作品として、つまり扉ではない純粋なオブジェとして想定するとき、この作品の持つポテンシャルは十全に発揮されるのだろうか。飴屋氏が指摘するように、レディ・メイドなベッドを選択したことに、この作品の齟齬が感じとられる。点滅する蝶のモチーフは眠りに誘うある種静かで動的な操作の一つだろう。しかしその蝶が舞う(点滅する)場は、このベッドが喚起するシンプルでクリーンなイメージに限定されるものではないだろう。眠りという無意識の発露の場では、それこそ消失と境界が揺さぶられる。この二つのタームを引き継ぎながら、それでも夢幻の世界を、その身体性を手放すことなく表出しようとするなら、やはりその形態にもう少し変化が必要だったのではないかと思われる。異界の扉が現実の世界に召喚される時、その時にこそ作品の真のポテンシャルが問われるのではないだろうか。

この扉が世界の境界を跨ぐ装置であったなら、その先に設置された田中愛理氏による「とある存在/混合する境界」は、わたしとあなたの境界を跨ごうとしているかに見える。わたしたちが一番最初に触れるのは、よくわからないが生々しい何かの痕跡である。そのくもったテクスチャーを見つめていると、何かが動きプレートの表面が削がれていく動作を確認することになる。ここで鑑賞者は、この雑然としたプレートの表面にあるものは何かクリームのような食べ物であり、映像に映った人物たちが「舐めとった」痕跡であることに気づくのである。もしこの作品のタイトルが「混合する境界」であったなら、展覧会の構成に引き寄せられすぎたものとして眼前から過ぎ去っていってしまったかもしれない、わたしにとっては。しかし、田中氏はそこに「とある存在」という言葉を並置した。わたしたちの目の前に現れて、何もいわず画面を(プレートに仮託されていてもわたしたちが目にするのは「画面」である)舐めるその他者は、一体何を揺さぶっているのか。わたしとあなたの境界か、あなたと誰かの境界か、作者があの日はじかれてしまったグループとの、その損なわれてしまった境界か、あるいはその全てか。境界を揺さぶることは、その実あまりに難しい作業であると言えるだろう。その実践に対して、田中氏は基盤に「存在」を措定した。つまりここに生きるわたしたちという存在の出会いの場がここに作られていると見るべきだろう。だからその微妙な実践の所作は、グロテスクさと親密さの間を揺れて同定できずにただ演じられるのである。

ここまでで展覧会のパート1を総括することができる。それは異界に誘う夢幻能の明滅であり、またそこに足を踏み入れたわたしとわたしを待つあなたとの境界を揺さぶる一つの実践である。これでわたしたちは異界へと踏み出した。その先には何があるのか。先に述べたように、パート2では多様な主題の中に「家族」というものが設定され、そしてその認知と表現に失敗している。それは展覧会全体の構成に関わるものである。しかし、その前に、わたしたちは大島氏と繭見氏の作品の持つ被傷性と傷の贈与という側面に触れなければいけない。

大島有香子氏の作品「そうぞうする理想」では、昔助けることのできなかった犬をモチーフにした作品が中心に置かれている。その時の風景を再構成したモノクロの背景、犬なのに猫と書かれたダンボール、その犬を守るように配置された二匹の犬、これら全体の構成は、それがあまりにも事実に寄せられたものであるだけに、残念ながら作品の構成としては弱さを感じ得ずにおれない。大島氏にとってその犬を記憶の中で再生し守ることは、しかしこのように形式をなぞることにおさまるものではないだろう。その構成の不備に、見る者は留まらずにいられないのである。それは代理=表象の問題とも言えるし、大島氏の態度とも言えなくもない。しかしこのような構成の弱点を抱えながら、それでもメインの犬のオブジェの持つ力は非常に大きい。丸まった犬の背から飛び出るモザイク状の四角片は、大島氏に直接聞いた話だが、傷の表象だというのだ。それも外傷ではなく、その時見つけることのできなかった内部の傷である。大島氏は動物を利用していない、どころか、その生命が抱えた傷を、一つの形として丁寧に表現している。傷は人の住む建物のようであり、丸まった犬の腹から広がる入り江に面しているかに見える。ステートメントだけでは、自らの記憶の一つを、それが動物であるから自由に再構成できるのだという人間中心主義的な側面をどうしても感じてしまう。しかしその尾が二つに別れているように、大島氏は犬を別の生き物として、自分たちの境界の外から来たものとして表象した。その時傷はモザイクでありながら別の生を希求するもう一つの力となって、静かに眠る犬の外部に放たれる。そのギリギリのラインで、大島氏は人間を中心とすることから離れていくのである。

傷と生という、言葉にすることとそれに対面することのはるかに困難な事象に対し、誠実な回答を行なったのが、繭見氏の「こどくたちへ」である。「感情の臓器」を蝕む虫たち、そのオブジェはしかし、地上との接点を失っている。それはわたしたちの中にあるものでありながら、それがわたしたちの「中の」異界にあるものであるから、この境界を越えた世界でわたしたちが出会おうとすると、足場を持たない浮遊する存在として現前することになるのだろう。そしてその浮遊を支えるのは、光である。光は光線として作品を照らし出しながら、もう一つの役割、その魔法のような役割、つまりこの脆く不安定な存在が地上に落下しないように支える役割を担っているのである。修正しよう。感情の臓器は異界から引き出された創造の範疇を超える存在だから浮遊するのではない、それを支える光が地面に立脚する限り、そこに存在するのである。そしてその光の真上に、50匹目の虫が存在している。わたしは、その虫が光を栄養に成長する様を想像する。繭見氏の作品の持つ被傷性は、それに対し動的に回答する。わたしたちは光で支えることができると。

傷と生は、わたしたちの存在や領域と紙一重の要素といえる。それは「家族」という主題の中でも変わることはない。木谷優太氏の「妹と娘」と小林毅大氏の「We don’t talk much or nothing.」は、その両者が「家族」という主題を描くことで通底している。小林氏の「関係の偶然性」という言葉の重みは、家族という区分の中で私たちがいかように新たな関係を構築できるのか、という問いへと切実に直結している。しかしその切実さのゆえに、どこか作品として完成する一歩手前で止まっている感が否めない。それはこの展示の構成とも関わるものだ。つまり異界の中で消失と境界を語りながら、自分たちが昔から、今から存在を作り直そうとする曖昧な他者との接続を問いきっていないのである。展覧会は境界という二項対立を分解しようとし、成功しているかに見える。しかし自らの欲望が絡む他者との境界は、最後まで不明瞭なままである。その象徴が木谷氏と小林氏が描こうとして突き抜けていない「家族」なのである。

最後に、展覧会全体の構成として鈴木知史氏の「Aktion T4/T4作戦」にふれたい。内と外を反転させる、その線引きを揺さぶる。そこにこそかけられているのが、鈴木氏の作品と言えるだろう。しかしどれほど強いモチーフも、どれほど入念な構成も、それが効果としてそのような反応を起こすものであっても、ナチスの歴史のように語ることさえ困難なものと安易に接続していいはずがない。その限界の倫理で踏みとどまらなかったことに、強い異議を感じる。

以上、序文で提示した「神隠し」という展示構成が持つ力と、作品が個別に生み出す境界性の揺さぶりや傷と生というモチーフを概観し、家族という主題の変奏に躓いたことを確認し、最後には展覧会全体の倫理性に触れた。作品や構成の入念な形成に首肯しながらも、やはり倫理性に踏みとどまりそこで思考すべきだとわたしは考える。

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