「非協力ゲーム」としての欲望の囚人 / 囚人の欲望

「非協力ゲーム」としての欲望の囚人 / 囚人の欲望

第3期以降の新芸術校におけるグループ展は、「選抜成果展」に出展する「選抜者」を選ぶための「サバイバル」形式となっており、それは「ゲーム理論」に沿って理解することができるかもしれない。「ゲーム理論」とは複数の主体が相互に影響し合う意志決定をする際に、最適な選択とは何かを導き出す理論のことだ。その有名な一例として、協力することが互いの利益を最大化する選択だと分かっていても、協力を拒むことで利益が出る場合には互いに協力しなくなる、という「囚人のジレンマ」が挙げられる。

グループ展の「サバイバル」形式において求められているのは、互いが協力し合うことで展覧会全体として成功させつつ、個人として協力者を出し抜いて「選抜者」として選ばれることだ。ここで全員が「選抜者」として選ばれることばかり重視すれば、展覧会全体としての協力が失われ、全員が不利益を被る。つまりこの点においてこのグループ展の「サバイバル」形式は、「ゲーム理論」における「囚人のジレンマ」をどのように克服するかを試されるゲームと捉えることができる。

ここで新芸術校に第5期から導入された、コレクティブリーダー課程(以下CL課程)について触れないわけにはいかない。第3期~第4期におけるグループ展の「サバイバル」形式においては、展覧会のキュレーターはその「サバイバル」形式のライバルでもあるアーティストが兼任することが多々あった。その場合、制作とキュレーションを同時に行う人に対する負荷が多いということもあるが、それ以上に自分自身が「サバイバル」の利害関係に絡む立場で人々を協力させることの困難があった。

一方でCL課程の人々はその「サバイバル」の利害関係とは全く無縁の立場である。それ故に展覧会全体としても協力して成功させつつ、作家個人の作品の魅力を最大限に引き出す、という「ゲーム理論」における最適な選択を行うことができる。これを「ゲーム理論」になぞらえて理解するならば、CL課程の人々は「非協力ゲーム」を「協力ゲーム」に変える可能性を持つ人材であると言うことができる。

先程紹介した「囚人のジレンマ」は「非協力ゲーム」、つまりプレイヤー同士が提携しないゲームの代表例である。他方で「協力ゲーム」とは、意志決定において、拘束力のある合意形成の枠組みを元に提携するゲームのことだ。これらに優劣などは存在しないが、グループ展の「サバイバル」形式において「囚人のジレンマ」を避けるためには、「協力ゲーム」を選択した方が良いと言うことはできる。

ここで言う「拘束力のある合意形成の枠組み」とは、展覧会ステイトメントのことだろう。厳密に言えば展覧会ステイトメントに拘束力はない。よってこれは依然として「非協力ゲーム」であると言うこともできるが、あくまでこれは比喩的な話である。展覧会ステイトメントの存在によって、キュレーターと作家の間に、作家と作家の間に、または展覧会と鑑賞者の間に合意形成の枠組みが生まれ、「協力ゲーム」がプレイされることになる。

さて、このような「ゲーム理論」の観点からグループ展D「欲望の玉響 / 玉響の欲望」のキュレーションを捉えた場合、どのように評価することができるだろうか?まず注目すべきは、CL課程の山浦千夏、瀬川拓磨の両者から異なる内容の展覧会ステイトメントが提出されていたということだ。これをキュレーターの2人の間で合意形成を取ることができなかったと捉えるのであれば、2人は「非協力ゲーム」の中にいるということができ、両者の異なる見解を提示された鑑賞者は戸惑うことになる。

展覧会会場全体を見渡してみても、まず目に付いたのは各ステイトメントやデザインを担当した6:30によるメインビジュアルがペラペラの紙に印刷され、特に形式などが統一されないまま張り付けられていたこと。ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエはオルタナティヴ・スペースであり、かつてカオス*ラウンジの展覧会搬入中に仲山ひふみが放ったとされる「限りなくゴミに近いマテリアル」という言葉を思い返してみれば、このような状態を肯定することも一見可能に思える。

しかし、「現代美術ヤミ市/芸術動画ヤミ市」に限らず、そのような「限りなくゴミに近いマテリアル」が現代美術に変貌する魔法とはキュレーションの力でもある。むしろ今回の展覧会の状況はキュレーションの不在に近い状況の中で、「非協力ゲーム」における「囚人のジレンマ」が発動しているように思えた。それは瀬川の展覧会ステイトメントにあるような「玉響」と「欲望」といった言葉で回収し、納得できる状況とは言い難かったが、むしろ展覧会を「非協力ゲーム」として行った際に起こり得るカオスを体現していたという意味では興味深かった。

ここからは個別の作品評に移る。先程「ゲーム理論」には「協力ゲーム」と「非協力ゲーム」があることを述べた。展覧会が「非協力ゲーム」を体現していたとして、ではその特徴とその先の可能性を最も色濃く反映していた作品は一体何だったのだろうか。本展評では井上暁登《美少女曼荼羅》と小山昌訓《視線》がそれに該当すると考え、この2作品についての考察を深めてみることにする。

井上暁登《美少女曼荼羅》は、井上の持つ「人を所有したい」という欲望を体現した作品である。例外はあるとしても、言うまでもなくこの種類の欲望は、「協力ゲーム」としての合意形成を達成することが困難だろう。また「非協力ゲーム」としての彼なりの最適解が肉体の所有ではなく、画像やイメージの所有であったことには納得がいく。

ただし彼が表現として行き着いた先が「曼荼羅」であったことには疑問の余地が残る。「曼荼羅」とは世界の構造について模式的に表現した、密教的な図像のことである。井上が描いた《美少女曼荼羅》は3面にわたって鑑賞者を取り囲み、光によって聖地巡礼のような雰囲気を醸し出すことには成功していた。

しかし、美少女の配置やその他の模様的な図像を細かに観察していくと、「曼荼羅」というには余りにもそのような構造に興味がないように見え、特にそこに意味を持たせているようにも思えなかった。さらに描かれている美少女も、本人の欲望を抑圧したような描き方であるように感じた。

であるならば、むしろ井上がやるべきであったのは「非協力ゲーム」を徹底すること。自分の中に宿る所有の欲望を徹底して肯定し、その上で表現に落とし込むことであったように思う。この場合における「曼荼羅」はむしろそのような欲望を抑制してしまう。まず美少女が描かれた「曼荼羅」の上に白くかけられたヴェールは剝ぎ取るべきだろう。その上で美少女の外見のみを所有し、並べ立てたショーケースがあったとするならば、瀬川の言う「自らの欲望と社会なるものの欲望をこすり合わせること」による「玉響」の瞬間に立ち会うことができたかもしれない。

小山昌訓《視線》は外側からの視線が内側の存在として取り込まれ、内側からの視線が外側の存在として立ち現れる無限の円環構造を持っている。そのような内外、視線、存在が反転し、互いに取り込み合い、制限し、囚われるような関係性を小山は「引きこもり」と呼んだ。つまり小山の言う「引きこもり」とは特定の部屋の内側に囚われた存在を、他者という特権的な視線から見た概念という基準には限定されない。

むしろ彼は万人が視線を持つ存在である以上、「引きこもり」の内外の構造から逃れられない性質を持っていると主張する。これはジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』に近い立場であり、フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』における「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という一節を思い起こさせる。

このような彼の思考は、インスタレーションの構造の中にふんだんに埋め込まれ、表現されていた。まず「引きこもり」の部屋を模した小屋には、幾つもの穴が空いている。鑑賞者は小屋の外側から内側に視線を向ける。すると小屋の内側に籠もった小山本人がそこにはおり、彼が描き続けている漫画が目に入る。一方で小屋の隣の台の上には、『外の部屋』と『内の部屋』と題された漫画が置いてある。内容としては小山本人の独白に近いことが描かれている。

ここで重要なのは、小山は小屋の内側にいるだけではなく、漫画のコマの内側にも引きこもっているということ。そしてそのコマの内側から外側の鑑賞者に対する視線を注いでいることだ。その内側からの視線は、外側にいたはずの鑑賞者という存在が、いつでもコマの内側の存在として取り込まれる可能性を示唆している。漫画の中に登場するキャラとして。逆に言えば、漫画の中に登場するキャラはいつだって、外側の存在として立ち現れる可能性をも示唆している。そのような「引きこもり」の内外、視線、存在が反転する無限の円環構造からは誰も逃れることができない。

ここで「非協力ゲーム」の話に戻る。小山の作品は「引きこもり」の概念を万人にまで拡張してみせることで、我々の社会全体が「非協力ゲーム」における「囚人のジレンマ」に陥ってしまっていることを示唆しているようにみえる。であるならば、小山のステイトメントにあるように「苦しんでるやつらのことなんて深く考える必要はない」が結論であって本当に良いのだろうか。

そのように囚人同士が自分の利益のみを追求した結果は、互いに協力し合った場合より確実に悪くなることが分かっている。そして「囚人のジレンマ」のジレンマたる所以は、それが分かっていたとしても、その選択をせざるを得ないことにある。しかしそれは「非協力ゲーム」の中で、最適解を追求した場合に限る。

であるならば、ここで考えなければならないのはその最適解のゲームを降りること。つまり「憐れみ」を持つことである。しかしそれは人類全体に対する「憐れみ」ではなく、個別的で偶発的な「憐れみ」、つまり「視線」の先に宿るものへの「憐れみ」である。それは東浩紀『一般意志2.0』で言及していた「憐れみ」の議論とも重なるものだ。

しかもその「憐れみ」については、ステイトメントには書かれていなくても、作品においては表現されていた。小山の作品は小屋と漫画のインスタレーションが中心となっていた。その小屋の右側に、ひっそりと展示されていた絵画がある。それは本作において特に機能していないようにも思えたが、実はここに描かれている「視線」こそが「憐れみ」を表現していたのではないか。

本人もステイトメントで書いているように、小山は制作の途中で思うように絵が描けなくなってしまっていた。その代わりに漫画の制作は進み、作品の中で絵はおまけの要素として展示されることになった。しかしこの絵には家、周囲を取り囲む人々、無数の視線、傷付いた太陽と乗り物に乗った月、それらに加えて血の涙が表現されている。表現として上手くいっているとは思わないが、複数の「視線」の元から流された血の涙こそが、彼が無自覚に描いてしまった「憐れみ」の姿なのではないだろうか。その涙は全ての眼球から流されているわけではないという部分も含め、そこには個別的で偶発的な「憐れみ」が表現されているとみることができる。小山が表現する「視線」の先には、「憐れみ」があったのだと。

最初から振り返って以上の考察をまとめてみる。新芸術校のグループ展における「サバイバル」形式においては、「ゲーム理論」で言うところの「協力ゲーム」を選択するべきである。何故ならこの場合における「非協力ゲーム」は、「囚人のジレンマ」に陥る可能性が高いからだ。その鍵はCL課程の人々のキュレーションが握っている。しかし、本展におけるキュレーションは展覧会ステイトメントを含め、むしろ「非協力ゲーム」における可能性を探るものになっていた。

その元で展開された個別作品においては、その「非協力ゲーム」を徹底したらどうなるのかという可能性を感じさせたのが、井上暁登《美少女曼荼羅》である。一方で「非協力ゲーム」における最適解のゲームを降りた先、その「憐れみ」の可能性を感じさせたのが小山昌訓《視線》だ。我々の社会が既に「非協力ゲーム」としての欲望の囚人で満たされているとすれば、それを囚人の欲望と「視線」を転換し、円環構造を提示してみせること。この小山が表現する「視線」にこそ、個人と社会の欲望を擦り合わせる瞬間の「兆し」と転倒の往復、つまり「欲望の玉響 / 玉響の欲望」と呼ばれる展覧会における可能性の中心が宿っていたのではないだろうか。

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