玉響の欲望のその先

玉響の欲望のその先

12月16日、44歳だった息子を殺害した76歳の男性に実刑判決が下された。繰り返されるのは、息子が「ひきこもり」だったということ。この日はグループDの展覧会「欲望の玉響/玉響の欲望」が終わってからまだ2日後で、改めて「ひきこもり」という言葉が気になった。小山昌訓さんの作品「視線」のせいだろう。

親が子を殺すという凄惨な事件が起きる。すると、当然何か原因があるに違いないと探してしまう。そして子が「ひきこもり」であるならば、「然もありなん」とどこか納得してしまう。でも「ひきこもり」とは何なのか。

厚労省の定義では「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人と交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」を「ひきこもり」としている。 時々の買い物などの外出しかしない場合も含めるらしい。

そんな「ひきこもり」を自認する小山さんは、デモンストレーションとばかりにギャラリーの中に建てた白い四角い小屋にこもって、ひたすらカラーの漫画を描いていた。小屋の壁に開けられた小さな穴から覗き込むと、小屋は色あざやかな漫画のページで埋め尽くされていた。小山さんは確かにひきこもっていた。だが、「人はみな本来、何かの『引きこもり』性を持っている」し、逆説的に「引きこもり」の「不安なんて大した問題ではな」いと切り返す。穴から覗き込んでくるそのほかのライトな「引きこもり」たちの視線を受けながら、本気の「引きこもり」が苦しみながらも全力で創造に打ち込む姿を見せつけているかのようだった。そして「辛さを表現したい」としながらも「そんなことない」、「苦しんでいるやつらのことなんて深く考える必要はない。という社会の大まかな流れ」を表現したいという。苦悩を分かって欲しいような、「簡単に分かってたまるか」とプライドを持って寸止めの覗き見だけで撥ね退けてもいるような、アンビバレントな欲望も反映された作品になっていると感じられた。

人は分かった気になりたがる。そんな欲望がある。

アメリカの高校での乱射事件をテーマにしたマイケル・ムーア監督の「ボーリング・フォー・コロンバイン」(2002年)は、事件の原因を過激な音楽やテレビゲームに安易に押し付けようとした状況を批判して、それなら生徒たちが直前にしていたボーリングこそが引き金だという皮肉を込めたタイトルになっている。ダムタイプ の「S/N」(初演1994年)では、「男性」「ゲイ」「HIV+」というラベル付けをして安心したがる人たちを前に、故・古橋悌二氏が対話を試みた。手近なところに「原因」を見出して、ラベルを付けては自分と他者を分けたがるヒトは、そう簡単には変われない。また今回も、ラベリングで仮初めの安心感を得ようとしてはいないか。そのせいで切り捨てられた何かに気付くことすらできていないのではないか。小山さんの作品にハッとさせられる。

見る側と見られる側のそれぞれの欲望の交錯が見えるこの作品は、「自らの欲望と社会なるものの欲望をこすり合わせること」、つまりは2つの欲望が出会う「玉響の欲望」という展覧会タイトルの後半の部分を最も体現していたと感じた。一方で、個人の中から湧き出る兆しとしての欲望を指す前半の「欲望の玉響」を一番表していると感じられたのは、タケダナオユキさんの作品「ぽかぽかてかてか」だった。

タケダさんは、自身の作ったルールに沿って平面の絵の中に独自の世界を構築しているようだった。この世界に登場するのは、絵の手前に置かれた立体で、2種類の3次元的な形が対になったペアと、それぞれを2次元の平面に落とし込んだペアだ。おそらくは多様性を示す「あい(だ)」を比較すると、2つの立体の対では大きいが、平面になると「あい(だ)」が小さくなるという。絵の中に登場する形がそれぞれどんな状態なのか、「あい(だ)」がどれくらいなのかを読み取っていくような作品らしい。それぞれの違い、つまりは「あい(だ)」を大事にしながら、それでいて統一感のある平面の世界としてどう成り立たせるか。そんな実験を通して理想に近づくことを目指す中で、今作では「ぽかぽか」と「てかてか」という2種類の光が当たるさまも両立させる形で表現できた世界を作り上げられたということではないだろうか。絵の中で実験がうまくいけば、現実世界を変えられる可能性も出てくる。

とここまで書いたものの、タケダさんは意志を持って講評会に出席せず、録音音声で独自のルールが説明されただけだったので、その世界観をどこまで理解できているのか、確認のしようがない。ただ、作品のコンセプトと一貫するように、作者と見る人との「あい(だ)」を尊重し、見る人に委ねられている部分が大きいと見ることもできる。テキストや説明で何かと冗舌になりがちな現代アートの作品の中で、コンパクトな説明だけで淡々と一人で理想を追求している姿を想像してみる。キュレーション担当の一人、瀬川拓磨さんは、ステイトメントの中で「欲望」は「生にこだわり、その内と外で悶え苦しみながら進む瞬間に立ち現れて消え行くもの、そのあわいに出現する捉えきれない微かな音のような『兆し』」だとしている。「ぽかぽかてかてか」の前で聞き取ろうとしていたのは、まさに理想の世界を追求したいという欲望の「微かな音」だったと言えるかもしれない。

でもここで一旦「欲望」と「玉響」について考えてみる。瀬川さんが提言するように、欲望は「微かな音のような『兆し』」なのかもしれないが、自らの欲望と社会の欲望を擦り合わせた時も「兆し」として「ほんの微かな、小さな音を立てる」だけなのだろうか。それで十分と考えてしまっていいのだろうか。

井上暁登さんの「美少女曼荼羅」は、「人(美少女?)を所有したい」という口には出すことがやや憚られる願望を昇華するために、線描の少女たちを仏に見立て、並べて曼荼羅としてギャラリーの奥の閉じた空間の壁を埋め尽くす作品だった。壁には半透明の白いベールがかかっていて、ベールが揺れる様子は幻想的ですらあった。あまりに心地よくて、創作のきっかけを知ると、こんな綺麗な空間を作らなければいけないほどのドロドロな欲望とは一体何なのか、逆に想像力を刺激されもしたが、仏の存在に頼りたくなるほどの手に負えない負の欲望を抱えた苦悩は垣間見えた。

誰しも人には言えない後ろ暗い欲望を1つくらい隠し持っている。例えば最近は日本製のかわいすぎるラブドールが自国に持ち込まれていることを懸念する外国もあるようで、欲望を別の代替物で解放すべきか、それとも欲望自体を忘れた方がいいのか、やり過ごし方の議論もあるくらいだ。まずは現実的な害がない形で、かと言っておおっぴら過ぎない形でこうした欲望を社会の欲望とこすり合わせて、正面からじっと見つめること。講評会でも指摘があったように、作品という形であればそれも可能かもしれない、そんな希望を感じもした。そこから議論が始まって、社会からは違う音が響いて返ってくるかもしれない。

粘土板さかきさんの「リトル・ガール・イーター」は、高校時代に投げつけられた悪意ある言葉をきっかけに芽生えた、世間的な「女の子らしさ」に憧れながらもそうなれない自分の悩みがテーマになっているという。当時から持っているクマのぬいぐるみ、当時着ていた制服、マニキュアを塗ったマネキンの手足を組み合わせた自画像的な「バケモノ」が床に座っている作品だ。クマはどこか懐かしく、そしてマネキンのすらっと伸びた脚は美しく、傍目にはバケモノには見えなかった。それでも、誰がどう言おうと簡単に解消しないのがコンプレックスに縛られた欲望なのだろう。実際、粘土板さんの作品を見た人からは「共感した」という感想もあり、勇気付けられる人もいるだろう。一人の欲望の音が少しは大きくなっているように見える。

「欲望の玉響/玉響の欲望」。

「玉響」という言葉には美しい響きがある。「欲望」が持つ強いイメージに繊細な言葉を合わせて、実際言葉の入れ替えが魅力的な展覧会タイトルになっていた。だが、玉響という言葉に引っ張られて、欲望の持つ粘着質な力強さや広がり、負の魔力が削がれて、必要以上に社会に向かう個別の儚い営みの集合という印象になってしまった感じもある。それぞれが個々にどう社会と接続するか試行錯誤してはいるが、1つの展覧会として、たとえどんなに小さくても社会にどんな影響を及ぼしたいのか、どんな社会を思い描くのか、共通の方向性が見えなかったからかも知れない。もしかして印象的なタイトルにしたいという「欲望」が優ってしまったのかとも想像できる。社会と繋がろうとする孤独で非力な個人の「欲望」が並んだだけと限定せずに、作品に込められた「兆し」としての「欲望」の可能性にもう少し賭けてみる「オルタナティブ」はないのだろうか。

例えば、キュレーションを担当したもう一人、山浦千夏さんがステイトメントで書くように、「異質なもの同士の関わり合いを試行錯誤」する実践の場として、まずは同じ展覧会の作品同士でもっとこすり合わせをしても良かったのかもしれない。井上さんの「美少女曼荼羅」と粘土板さんの「リトル・ガール・イーター」では、「美」はどう違うのだろうか。小山さんの「視線」と粘土板さんの「リトル・ガール・イーター」は、他者からの心ない視線や言葉の受け止め方の違いを比較して見ることができる。もし「ひきこもり」がタケダさんの「ぽかぽかてかてか」の世界に入るとしたら、対になるのは「ときはなち」だろうか。対ができると、「ひきこもり」も何か別のもののように見えてくる。作品同士の対話を促すような仕掛けが多ければ、個々の作品の足し算以上の可能性がより明確になったはずだ。

不穏な空気が立ち込めてきた世界に目を向けると、強大な「欲望」同士の衝突によって、世界の枠組みが変わろうとしている。「覇権争い」「イデオロギー対立」「冷戦の再来」「第3次世界大戦」…。そんなキーワードで表現される欲望のこすり合わせから聞こえるのは、耳を塞ぎたくなるぐらいの爆音や金切り音でも、最初は「兆し」としての微かな音だったのかも知れない。それとも、こうした大音量の「欲望」に対するオルタナティブとして、静かに鳴り響く微かな音の個人の「欲望」を提示したのだろうか。何れにしても、今せっかく響き始めた「玉響」がかき消されないようにするために、「玉響」の先にある世界をもう少し浮かび上がらせる必要があったのではないかと思う。

文字数:4284

課題提出者一覧