「神隠し」で隠されたもの

「神隠し」で隠されたもの

新芸術校の受講者が出展する今年度2つ目の展覧会「摩訶神隠し」が開催された。受講するアーティストが4つのうちのどの展覧会に出展するかを選ぶため、それぞれの作品の共通テーマを見出すことは難しいのではないかと感じていたが、今回の展覧会では個人的な傷や喪失をとても具体的に表現している作品が多いという印象だった。そして具体的な個人の物語の描かれ方が強まるのに比例するように、「社会」の存在が薄まっていると感じた。展示空間が物理的に外から隔絶されていることを意識させる構成になっていたことも、「社会」との距離をより感じさせる要因になっていた。展覧会のキュレーターの1人、NILさんによるステイトメントではこの展覧会での「神隠し」の意味を定義されていたが、展示全体を通してそこにないものを挙げるとすれば「社会」ではないだろうか。同時代性が大きな柱とされる現代アートの中で、この欠損は意図的で、何かメッセージが込められていると感じてしまう。展覧会が開催されたタイミングも考慮して、メッセージについて考えてみる。

10月12日から20日まで、ゲンロン カオス*ラウンジ五反田アトリエでは7人のアーティストの作品の展覧会「摩訶神隠し」がNILさんとマリコムさんによるキュレーションで開催された。ステイトメントにあるように、「現代社会において失われた『神隠し』の想像力を再起動することで、いかにして『消滅』の手触りを記憶し続け、『境界』の向こう側と関係を結び直すことができるかについて考え」るためのきっかけにこの展覧会をしたいという。そして会場には「行き場のない想いをカルト化させないため」の発露となるような、とてもパーソナルな想いが込められた作品が展示されていた。

会場の入り口のすぐ近くにあったのは、zzzさんのインスタレーション「Now fading. Now loading.」だった。子供用と思われる小ぶりなベットが縦向きになるように上から吊り下げられていて、ゆっくり回転し、ベッドの裏側に蓄光インクや蛍光インクで描かれた蝶がライトに照らされると光るという、「胡蝶の夢」を題材にした作品だ。夢と現の間に存在し、異空間へとつながる入り口にあたる回転ドアのような役割をしていた。そして対になるように、会場の一番奥にあったのが鈴木知史さんの「Aktion T4/T4作戦」だ。外へとつながる換気ダクトの下で観客の中の喫煙者にタバコを吸うように促し、いとも簡単にマイノリティーへのレッテル貼りをする社会にささやかな反撃をするかのように、「ひっくり返ったガス室」として外の世界の「健康な人たち」に煙を吐き出していく作品になっていた。この2つの作品によって、「摩訶神隠し」の空間が社会から隔離された場であることが強調されていた。この場が、ステイトメントにある「『一時避難場所』として、あるいは『理由が不明ではなく、不問になる場所』」ということなのだろう。

そして2つの作品の間には、行き場のない想い、特定の相手への具体的な感情や痛みを表現した作品が多くあったのが印象的だった。大島有香子さんは、以前に助けられなかった捨てられた犬への懺悔の想いを込めた彫刻作品「そうぞうする理想」を展示していた。小林毅大さんは、「必然的」だと思い込んでしまう母との関係を「偶然性へと戻」そうと試みた映像作品「We don’t talk much or nothing」を出展し、木谷優太さんは親代わりとして育ててきたつもりの妹の「親離れ」への戸惑いを、写真を中心とするインスタレーション「妹と娘」で表現していた。そして近しい人たちとの突然の別れを受け入れられずに「置いてきぼり」になった感情を包む込むために、繭見さんは布で大きな玉の作品「こどくたちへ」を制作していた。それぞれが抱える「行き場のない想い」が、閉じた空間の中で確かに吐露されていた。田中愛理さんの映像を使ったインスタレーション「とある存在/混合する境界」は、特定の相手はいないが、誰にぶつけていいか分からない「行き場のない想い」が露わになっていると感じられた。周囲と自分の間には透明な膜があると感じてきたという自身の感覚をテキストで紹介し、透明の板に塗布されたクリーム状のものを舌でひたすら舐めとっていく個人をとらえた映像は、普段は見ることのないどこか異様で生々しい行動に周囲の目も気にせずに没頭する人、無数の傷を舐め続ける孤独な人を連想させられた。

強い想いが並ぶ展示ではあったが、こうした個人的で極めて具体的な想いや痛みが直接的に表現している作品は、部外者が触れにくい何かがある。抱える傷を前面に持ってきた表現に対しては批評できないという批評家の意見を発端に、1990年代に米国でvictim artの議論が巻き起こったという事実を思い出す。致死性の感染病に苦しみながらもダンスをする人たちが登場する舞台と、今回展示されている作品はもちろん違うし、当時の米国での激論は政治的な背景も踏まえた議論であった点も同じではないが、抱えている痛みや傷を明らかにして訴えかけてくる人の作品というのは、議論しにくいという共通点はあるのではないだろうか。想いが強ければ強いほど作品が想いそのものに直結してしまうため、ますます触れにくくなる。強い個人的な想いを存分に訴えられるこの「一時避難場所」は、「理由」が「不問」になる「神隠し」が起きる場所だからという免罪符によって「社会」との接点を回避していい場になっているようにも見えた。

だが、社会との接点との回避は、「理由」が「不問」ということで本来は簡単に済ませていいことではないはずだ。テーマによっても直接的な表現によっても「社会」から距離を置いているように感じられる作品が多いことは、アートによって社会を変えられるという希望を抱いていたソーシャリー・エンゲージド・アートがさほど理想を実現できなかったことからくる諦めや、それならば目の前の個人的な課題を最優先しようという反動もしくは開き直りと見ることもできるかもしれない。鈴木さんの作品のステイトメントでも、隔離された中から外に向かって煙を吐き出すものの、その影響力はどれくらいあるのだろうかという自虐的な締めくくりになっていたのが、どこかアートの無力さのことを言っているようにも感じられた。あるいは、これまでの人間中心の世界観を反省してか、「オブジェクト思考存在論」や「人新世」の考え方に影響されて、生き物ではない物も含めてあらゆるモノに一気に視野を広げた西欧のアートに対抗し、まずは自分の身の回りを見つめ直して地に足をつけた作品から取り組もうとする姿勢と受け取ることも可能かもしれない。それとも、展覧会の開催時期が影響した結果である可能性もある。展覧会はちょうど、日本での表現活動が直面している危機について、国内外で活発に議論されていた時期と重なっていた。表現活動が社会的な関心事になっていたタイミングに、「摩訶神隠し」では「社会」との関連を感じさせるテーマや表現があまり見られないという点はかえって何か意図があるのではないかと見える。隠されていたのは「社会」で、この欠落こそが一連の騒動に影響を受けた結果や反応と見ることもできる。

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の中の企画展の1つ、「表現の不自由展・その後」が中止になったのは、芸術祭開幕した1日後の8月2日だった。主催する愛知県の補助金の交付申請手続きが「不適当」だとして、文化庁が全額不交付を決定したのが9月26日、そして参加アーティストらによる批判や意見が噴出した後、展示は閉幕の約一週間前の10月8日に再開された。今まさに、表現活動に対する検閲が日本では強まっているのではないか、という危機感が国内外で高まっている。「摩訶神隠し」に出展していたアーティストの方々も、作品の制作に専念しながらも、当然こうした状況は意識せざるを得なかったのではないかと思う。11月に入ってからも、オーストリアで日本との国交樹立150年を記念する芸術展で、安倍総理大臣や原発事故を風刺した作品が含まれているためか、「友好関係の促進に合致していない」として現地の日本大使館が公認を取り消したことが明らかになった。強まる上からの圧力に対して、多くのアーティストが作品の内外で表現の自由の重要性を強く訴え続けている。だが、こうした真っ向からの批判に対して、別の形もありうる。もしこうした圧力に屈したらどうなっていくか、というシミュレーションを見せることで警告を発することもできる。「摩訶神隠し」はもしかしたらそういう展示だったのではないか、という気がしている。

「不適切な表現」だとされてしまう作品が「お上」の判断によって展示されなくなってしまう可能性がある場合、その圧力がかけられて表現の自由が制限されている状況に対抗する作品を発表するアーティストが出てくるはずだと期待したい。だが、メンタルが強くて実行力のあるアーティストばかりではないかもしれない。作品を公表する数少ないチャンスを求めて、自然と空気を読み、誰からも批判される点がない「安全な」作品を作るアーティストが増える可能性もある。最も安全なテーマは、社会については一切言及せず、他者が誤読してしまう余地もなくアーティストが完全に責任を負い切れる表現、例えば関係者がアーティストとその周囲の限られた人たちの具体的な話を元にしたような作品にならざるを得ない。「摩訶神隠し」では、騒動を受けてこうした忖度や自主規制をあえてしてみたのか、それとも無意識でもあったのか、実際のところは知らない。だが、あえて外の「社会」から隔離された小さな空間で、このタイミングで「社会」との接点が見出しにくいと感じられる作品が複数並ぶと、欠けているものの方が意識される。ここで「上隠し」に遭っている「社会」を見てしまうのは、「神隠し」の想像力の影響を受け過ぎたためだろうか。

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