「甘え」について
(※本文中、敬称略)
『欲望の玉響/玉響の欲望』のテーマは『甘え』であるように思えた。
当展には、2つの展示ステイトメントが掲出されていた。キュレーションを担当した瀬川と山浦、それぞれの名前による2つ。当展のキーワードとなる玉響について解説していることもあり、瀬川のステイトメントが主を担っている印象を受ける一方で、よりこの展示の問題意識を体現しているのは山浦のステイトメントと感じるのは何故だろう。曰く、『社会に受け入れられない欲望があったとしても、攻撃ではない形で他者に接続しようとすること』。主となるステイトメントの隣にもう一つステイトメントがあること。一つにまとめない二人の欲望があり、それが他者と接続しようとしている。止揚を疑い、言葉による図式化を否定する立場から、それでも個人と社会の、あるいは個人と個人のあわいに出現する捉えきれない微かな音のような「兆し」。並置された2つのステイトメントがまさに奏でているその音、玉響を、私は『甘え』と言い換えてみたい。それにあたり、当展示で特に甘えを感じさせた3作品に触れる。そのうえで改めて『甘え』について考えるプロセスを経たい。
足立大地「Black desire」には、多層性が写っている。ガラスに反射することでレンズのあちら側とこちら側の境界を曖昧にされた像は、乱反射して手元のスマートフォンの画面、欲望のブラックボックスに行き着く。折り重なるような看板もまた多層性を写し出している。見る側に処理不可能な量の選択肢を、しかも単純に並列できない単位や深度の異なる選択肢を一斉に浴びせることで、何を選んでも正しい選択をしたとは思えない環境に置かれた個人が、街の、アプリのUI(ユーザーインターフェース)に従うままに、この場に来る前、このアプリを開く前までは思ってもいなかったものを選択・購入し、あまつさえシェアする。私は何も選んでいない、と言いたくなるような呪いのような選択。選べない、選ばない、決断しないという甘え。
井上暁登「美少女曼荼羅」は、人を所有したい、という欲望から距離を置こうとしている。この『人を所有したい』という欲望に共感しない人はいないだろう。それは『人を所有したい』という言葉の持つ意味の広さ所以だけではない。その欲望から『距離を置く』、という行為こそ、社会を形成し、一構成員としてあり続けるために誰もが被っている仮面である。そのことに身に覚えがあるからこその共感。実際、皮膜の向こうに描かれた美少女曼荼羅からは欲望と距離を取るというよりは、欲望を先送りにしているだけのようにも見える。または、これは一度欲望に耽溺した後の賢者タイムでしかないのでは、と邪推してしまいすらする。まだ修行の途中であろう、と留保したうえで、真に向き合うべきは、人でないものに出会いたいと思いつつ、それでも神や仏といった、人の形をしているものを求めるその欲望ではなかろうか。人を所有したい、という欲望をどうにかしたいがどうしようもない、だからせめてこうする、という悶えを感じるこの作品からは、悶えつつそれでも欲望を吐露する甘え上手な側面が垣間見える。誰もが持つ共通の欲望とそれと距離をおいて生きている我々の社会性、その二つがすまし顔で共存している。
小山昌訓「視線」は、人はみな引きこもりである、と喝破する。AIに仕事を奪われると言われて久しい昨今。人間のやるべき仕事はよりクリエイティビティが求められると言われている。答えはAIが出せるので、問いを立てるのが人間の役目だと言われたりもする。漫画を創作することは人間のクリエイティビティを発揮する仕事足る気もする一方で、真に創作的なのはネームづくりであり、そこからペン入れをする、いわゆる描く作業は分業でシステマティックに行われていることも漫画制作の現場ではよくある。更に小山は、一枚絵が描けないために、漫画に撤退している。ここで問題になっているのは、人間はクリエイティビティを発揮する仕事をすれば良いという話ではない。「出来ないという現実の密室」を抱え、そこから出られない全ての人が「引きこもり」である、というのが小山の主張だ。白く塗られた箱。中には作家自身と思われる人がいることにまず驚く。箱に開けられたいくつかの穴から中を覗くとき、そこに見えるのは作家の姿であり自分の姿である。美術制作というクリエイティビティに従事しているようにも見えるし、「出来ないという現実の密室」に引きこもっているようにも見える。そして、どうか中の人と目が合いませんように、と願いながら穴を覗き続ける。箱の中には創作中と思われる漫画が貼られているようだが、落ち着いて読むことは出来ない。自分の視線が見たいものに行き着けない閉塞感と、中の人と目が合うかも知れない強迫観念により、箱の中を覗く時のストレスは著しく高い。こうして、中にいる引きこもりと同じ程度のやりにくさを覗く側も感じるという点で、小山の試みは成功している。
ここでふと考える。人がみな「引きこもり」なのであれば、社会に出るという不安があるのであれば、それをお互いに言い合って消化し合いもたれあえばよいのではなかろうか。選択し決断できないのであれば、そのことを共有すれば少しは不満は解消されないだろうか。人に言えない欲望があったとして、それを言える関係を一人の他人と作ることを期待しても良いのではないだろうか。苦しんでいるやつらのことなんて深く考える必要はない、という社会のおおまかな流れにおいて、私もあなたも苦しんでいるよね、という甘えは許されないのだろうか。
甘えは、個人が社会で生きていくための技術である。子は家族を通して甘えることを覚え、集団においては他社と触れ合うことで甘えて良い程度を学び、人に頼ることを習得する。それが現代では機能していないということだろうか。
ところで、甘え、という言葉には対訳となる英語がない。子供の甘えについては、behave like a spolit child.と表現することがしばしばあるが、『spolit』が示す通り、spoilされたネガティブな意味合いが強い。また犬などが飼い主に甘える表現として、fawn on (its master)などがあるが、fawnは『ご機嫌を伺う』『へつらう』という意味が強い。相互に頼り合う、甘えるというコミュニケーションは英語圏では珍しいものなのかも知れない。少なくとも日本にはそれを指す言葉がある。しかし、それが失われつつあるとするならば、契機はどこにあったのか。いくつかの書物から、1945年以降の暴力の継承が浮かび上がる。
2017年出版の中村江里著『戦争とトラウマ-不可視化された日本兵の戦争神経症』によれば、戦後日本における戦争とトラウマの研究が少ない理由として以下の二点が挙げられている。
1.『戦争神経症は死の恐怖に耐えられなかった軟弱な兵士である』との戦時下の日本の精神医療における価値観が戦後も長く引き継がれたこと
2.戦中・戦後の組織的な資料焼却と隠匿によって、旧日本軍の戦傷病の全体像を示す統計が残されていないこと
まず1.について、前掲書の補論「戦争と男の『ヒステリー』―アジア・太平洋戦争と日本軍兵士の『男らしさ』」は、「ヒステリー」が西洋の歴史において「女の病」とされてきたことに着目し、戦争神経症が「男のヒステリー」として軍隊内では見下される病であったことを検証している。西洋に追いつけ追い越せを掛け声に明治以降の日本が歩んできた富国強兵政策が行き着いた太平洋戦争下、戦場における各中隊内での新兵への暴力は極限に行き着いていたことが想像できる。より具体的な描写を求めるならば、水木しげる著『水木しげるのラバウル戦記』や山本七平著『私の中の日本軍』に詳しい。こうして、帰還兵たちが戦場で植え付けられてしまった鉄拳制裁が戦後日本の家庭内でも横行し、体罰という負の連鎖を生み、その連鎖は現代の子どもたちへと続いている、と森田ゆり著「体罰と戦争―人類のふたつの不名誉な伝統―」は述べる。
ところで、現代の日本における引きこもりは、若者よりも中高年が多い。内閣府が2019年3月29日に発表した実態調査によると、40~64歳までのひきこもり当事者の推計人数は約61万人と、40歳未満の約54万人を上回った。なかでも中高年当事者の4分の1を占める一大勢力が、40~44歳の「ポスト団塊ジュニア」(この世代の親は1951年~1959年生まれで、戦後帰還兵を親に持つものが多い団塊世代の弟分に当たる)。「ポスト団塊ジュニア」は就職氷河期の2000年前後に大学を卒業し、就活の失敗などを機にひきこもり状態になった人が多い。戦争を経験した祖父、その祖父から教育を受けた父、いずれも戦後の高度経済成長を経験した二世代の価値観を内面化しているにもかかわらず、自分は就職に失敗し、社会化できなかった弱い存在であると、、日本兵ならぬ日本企業戦士になり損ねた挫折と、戦後日本に連綿と続いてしまった「精神が傷つくものは軟弱」という歴史の産物であるレッテルを自分のせいとして正面から受けた。まだAIが注目されず、クリエイティビティよりは企業への就職が優先された時代、戦場から、社会から、家庭に「強さ」が持ち込まれた。合わせて給料も持ち込まれるため、家族はそれを「正しさ」と誤解した。社会で闘っている体裁の父たちは「甘ったれるな」と子供を厳しく叱咤したかもしれないが、高度経済成長に沸く日本こそが国を挙げた引きこもりであり、永遠に続く(かに思われた)祝祭に沸く「ビューティフルドリーマー」であったことは押井守の作品が指摘するところであった。
もちろんバブル崩壊やテロ事件、続く震災を経験した現代はそれほど単純ではない。目に見える暴力は、まずは社会から、やがて職場でも指弾されるようになった。そして経済力の低下と歩みを同じくして父権も失墜した。こうして、優しくなったのか貧しくなったのか判然としない現代では、前述の、「戦後日本における戦争とトラウマの研究が少ない理由」における2.隠匿体質がこの国を特徴づけている。
2000年代、より複雑性が求められるビジネスの現場では、シリコンバレーのコーチング形式として1on1ミーティングが取りざたされた。2017年にはいちはやく日本で1on1ミーティングを取り入れたYahooの職場を紹介した書籍、本間浩輔著『ヤフーの1on1―――部下を成長させるコミュニケーションの技法』により、1on1ミーティングは人口に膾炙した。2018年4月からはパナソニックでも採用されたこのミーティング手法は、週に一度程度、上司と部下が1対1で30分間、仕事を中心に仕事以外のことも含めて、部下が今の悩みや、先週話した悩みの進捗をざっくばらんに話す。上司はそれを聞き、共感する。この仕組みを導入したことで、上司と部下の信頼関係が強化されたと答える企業がある一方で、全体会議での上司の態度と1on1で自分に見せる態度とのギャップに、上司への信頼を無くした、という問題も起こった。1on1は二人きりの密室で行われる。そのため、ブラックボックス化する危険を持つが、実のところ、1on1を導入するうえで重要になるのは透明性である。上司は部下からされる相談の内容に応じて、更に上の上司、場合によっては他部署とも連携し、情報を共有する。その情報をもとに現場で起きている問題を解決するために会社全体が動く。これにより、相談した部下は環境の改善や周囲の気遣いを得ることができる。決して、二人きりで話した自分の秘密を上司が周囲にばらした、とはならない。しかし、透明性の低い組織では、お前だから言うんだぞ、という、過度にコミットした1対1の関係、親子のようと言えば聞こえは良いが、職場における閉ざされた子弟の関係は、家庭内暴力を起こす親子と同じくらい危うい。結果として、1on1を導入したところで、部下が上司を信用していなければ、部下は上司に甘えることが出来なくなる。しかし、ここで言う信頼とは、共通の秘密を守ること、である。誰にも言わない前提ではない、むしろあなたの問題を皆が協力して解決する、という1on1の大原則を伝えると、部下はとたんに黙ってしまう。この欧米式のやり方では甘えが駆動しない。悩みを解決させようとすることに対する疑いが反射的に働いているようにすら思えてくる。自体は言葉で伝わるほど単純ではない、と。言葉を信じない、沈黙にとどまる甘え。
シリコンバレー流のコミュニケーションは、問題を整理し、選択肢を提示し決断、実行することを至上命題としている。理想的な選択数は2、最大でも3、と教育される。しかしその選択肢にまで問題を集約する過程には、いくつもの閾(しきい)値があり、このコミュニケーション文化に慣れないものから観ると、もともとあった問題があまりにも単純化され、どれを選択しても、当初あった複雑さ(豊かさ)を取りこぼしているように感じる。しかし、シリコンバレー流は時間を区切って決断を迫る。各選択肢のメリットとデメリットを提示してもくるが、それもまた何度も閾値というフィルターを通しているため、やたら整理はされているが当初あったメリットとデメリットが共存していた豊かさがなくなっている。しかし選択肢を前にした際の逡巡は甘えとして指弾され、ビジネスの現場で必要とされる決断を迫られる。
冒頭、玉響を甘え、と言い換える、と言った。それは慣れ合い堕落した依存ではなく、複雑でハイコンテクストな中間集団形成のための技術としての甘えである。社会と個人、個人と個人のあわいに出現する捉えきれない微かな音のような兆し。そこには衝突や摩擦があるかも知れないが、決して一つになることのみを選択しない選択保留のコミュニケーション。引きこもりや迷いを撤退と考えず、悶えつつそれでも欲望を吐露する所作。『欲望の玉響/玉響の欲望』は甘えという、異物同士の衝突を避け双方を保留し続ける技術、右肩上がりでない時代に人間のクリエイティビティ(閾値で仕分けしない複雑さ)にフォーカスするためのコツを我々に提示してくれている。
「私もあなたも苦しんでいるよね、という甘えは許されないのだろうか。」と私は問うた。が、そんな共感は甘えではないのかも知れない。現代の甘え、それは、人と分かり合おうとしないことかもしれない。それでも隣にいるという甘え。ステイトメントが2つある、という甘え。それは正しさやルールに耐え従う強さよりも、つらさを愚痴り合う弱さよりも、厳しく孤独な甘えなのかも知れない。
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