父隠しを超えて

父隠しを超えて

『摩訶神隠し』展のテーマはピボット、であるように思えた。

ピボットとは、主にバスケットボールにおいて、軸足を固定して、もう一方の足でステップを踏む技術であり、支点、力点、作用点によって構成される「てこ」の原理における支点であり、旋回軸である。

ステイトメントによれば、この展示では、神隠しをカルトではなくアートと呼ぶことが目標設定されている。しかし展示会場では徹頭徹尾「カルトではなくアート」というよりは、「カルトでありアート」である宣言が繰り返される。「行き場を失ってしまい、現代に蘇らせなければならない」のは「神隠し」の想像力ではなく、ピボットの技術である、と感じた。ピボットの技術、すなわち、作品/展示は、カルトにもアートにもなり得るという事実を運用する技術である。

ピボットの技術について、二つの例で説明したうえで、「摩訶神隠し」展の具体的な作品評に入りたい。

 

例1:プロパガンダとPRのピボット

プロパガンダとは、ラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく)に由来する言葉で、特定の思想・意識・行動・世論へ誘導する意図を持った行為を指す。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、1622年に設置されたカトリック教会の布教聖省(現在のバチカン市国ローマ教皇庁福音宣教省)の名称だが、積極的にその言葉と手法を用いた組織は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とされている。しかし実際のところ、プロパガンダの研究と実践において世界をリードしたのは、1917年設立のアメリカ合衆国公共情報委員会(CPI:Commettee on Public Information)であった。その証明として、『プロパガンダによって国民を先導したナチスドイツ』という印象を定着させたのは、CPIの出身者たちである。CPI出身者、エドワード・バーネイズは1928年出版の自著『プロパガンダ』にて、戦争宣伝から商品の売り込みまで、広範な宣伝活動を紹介した。そして第二次大戦後、プロパガンダの呼び名をPR(Public Relations)に代え浸透させた。そして、PRの父と呼ばれてからもバーネイズはその手法を使い続け、冷戦下の反共政策を支えた。

 

ここで一本の映画を紹介したい。

映画『私は告発する』は、安楽死を社会に問う問題作である。

病理学者のトーマスは、愛する妻のハナが神経疾患であることを医師から告げられる。妻のハナは視覚障害、運動麻痺が進行し、やがて大好きだったピアノは弾けなくなり、目も見えなくなるのだという。

トーマスは深いショックを受けながらも、ハナの治療のため、また病理学者として新薬の開発に努めるが成果は一向に上がらない。進行する病状に自らの行く末を覚悟した妻ハナはトーマスに懇願する。「私を助けて。最後の瞬間まで、どうかあなたたのハナでいられますように。耳も聞こえず、話も出来ないなんて私には耐えられない。そうなる前に私を救ってくれると約束して」。悩みぬいた末、トーマスはハナに致死量の薬を与え、ハナは死に至る。

殺人の罪により、法廷で求刑を迫られるトーマスに判決のときが訪れる。トーマスは最後に宣言する。「私は、したことをもみ消そうなどとは思っていません。私は自分の妻を苦しみから解放したのです。さあ、判決をお願いします。」

こうして映画は終わる。

 

この映画は1941年にナチスドイツによって重度の身体障害と知的障害を持つ人々を安楽死させ、国庫・地方自治体にかかる医療費の負担や生産性の非効率を改善させることを目的に制作された『プロパガンダ映画』である。現代、内容をそのままに上映したとしても、社会的メッセージを持つ作品である、と評価されてもおかしくないこの作品はアートかカルトかの前に作品として自立している。アートかカルトか、という問いは作品にとっては何の意味も持たない。

そしてまた、この作品がプロパガンダとしてナチスドイツに利用されるカルト映画なのか、安楽死について考えるPRとして利用されるアート映画なのか。いずれにしてもそれは作品論ではなく、ピボットの技術でしかない。作品に軸足を置き、もう一方の足をプロパガンダにおいてもPRにおいてもその手法は同じである。しかし載る文脈は大いに変わり、受け入れられ方も大いに変わる。繰り返すが、そこで扱われているのは作品ではない。

 

例2:精神分析と神隠しの想像力のピボット

精神分析は、1886年にオーストリアの精神科医ジグムント・フロイトにより創設された、心を分析することで精神疾患を治療する手法である。心の構成要素のひとつ「無意識」下に抑圧されていた感情や記憶を意識化し、受け入れることで気づきや症状の軽減を目指すのが主な治療のプロセス。

抑圧されていた感情や記憶を意識化し受け入れさせる技術。この技術を構成する要素の一つに、医師による語り、がある。患者の状況を聞く手法に注目が集まりがちな精神分析において、聞く側から語る側に役割を変え、患者に対して、患者に受け入れさせ、気づきを与える語りの技術。

例えば、患者は幼児虐待に悩む母親。精神科医が患者に対し、あなたもまた虐待を受けていたのでは?と提案する。ここで重要なのは、それが事実であるかのエビデンスを取ったりはしないということだ。実際、患者の母親は虐待をしていたのか、を証明することは困難を極める。そうではなく、患者の話を聞き、それを事実としたうえで語る。本当に患者の母親が虐待をしていたのかはここでは問題ではない。実際に病院に来た患者が目の前にいる。治療を求めている。それに対し、まず文脈を理解し、そこに語りを載せる。それを患者が受け入れ、気づき、治療される。

こうも言えないだろうか。患者にはフィクションが与えられている、と。それが言い過ぎであれば、事実に基づいたフィクション、と言うべきかも知れない。ストーリーテリングの技術という点において、患者は小説や絵画や映画に感動するように治療される。

「神隠しの想像力を封印することで境界を通した逃げ場を失い、消滅との付き合い方に思考停止している人の一時避難所」としてのアート/カルト。その手法・技術は精神分析に似ている。フィクションの提示はアートによって行われることもあれば、精神分析によって行われることもあるのかもしれない。

 

以上が二つの例である。ここで例1と例2をつなげておきたい。

CPI出身者でPRの父と呼ばれた『プロパガンダ』の著者、エドワード・バーネイズは精神分析の創始者、ジグムント・フロイトの甥である。更に、ヨーロッパで台頭した精神分析をアメリカに浸透させたのはエドワード・バーネイズである。もちろんその浸透にはPR技術を駆使したことが容易に想像できる。更に言ってしまえば、その手法の多くにおいて、フロイトの精神分析が参照されている。

現在でもPRの現場では、この商品にどんなストーリーを付与するか?どの文脈に載せるか?という議論が日々行われている。プロパガンダ=PR=精神分析=アート=カルト。

改めて、カルトとアートは表裏一体であり、いつでも呼び代え可能な同一のものである。

 

繰り返すが、摩訶神隠し展のテーマはピボットである。一つの事実をアートのように、カルトのように、精神分析のようにストーリーテリングし、PRのようにプロパガンダのように広める。神隠しの想像力とは、単一の事象に軸足を置き、もう一方の足で光と闇を、聖と俗を、静と動を、まるでアートとカルトを行きかうようにステップし、ときに「てこ」の原理の支点として、動点(作品)から得られ作用点に繰り出される広がりを増幅させる技術のことである。

 

単一の事象が、ピボットによって千変万化するとき、それぞれの姿を規定しているものは文脈である。

例えば、映画「私は告発する」を第二次大戦下のナチスの文脈に載せてプロパガンダを語るか、周防正行監督映画「終の信託」の文脈で映画評を語るか、日本国内外の尊厳死に関する法律の文脈で医療法規を語るか。

文脈の病に取りつかれているような摩訶神隠し展のステイトメントから作品を切り離し、各作品と対峙する際には、文脈に載せられる前の『知覚』の段階に注目したい。目、耳、鼻、口、触覚。対応する刺激として、光、音、臭い、味、温度・質感。この五感にもう一つ、第六感目として時間感覚を加え、この六つの感覚を補助線に用いる。動員に用いられる感覚は耳、対応する刺激は音である。音の動員利用を研究したのがPR/プロパガンダである、と言っても過言ではないほどに、動員は音の暴力性を利用する。拳による動員よりもはるかに効率的に、音による動員は組織に能動的服従を植え付ける。戦後、PRは引き続き、音で、耳から動員を図り続けている。

 

木谷優太「妹と娘」は、光と時間の作品である。

写真を並べ、それぞれは静止した時間を並べているが、写真どおしの時間の前後関係が分からなくなり鑑賞者は混乱する。妹の幼少期から今までの時間が並べられているのだろう、と高をくくってみていると、実は妹との特殊な時間は、親が過ごすそれほどは長くなく、むしろ短いとも言えそうな気がしてくる。この作品はそれぞれ一点ずつの写真に一瞬をとどめると同時に、複数の写真たちがつなげた曖昧な継続線が存在する。そしてその継続線、つまりは時間の長さは意外にも短い。その短さこそが、鑑賞者に、妹の若さをパッケージせんと願う欲望を想起させ、誤解を生むところにこの作品の愛くるしさがある。あるかないかにかかわらず見えてしまうストーリー。少しはにかんだところで、作品から一歩引いて思い返す。木谷の写真を撮る親の不在を。愛を与え続ける木谷の姿を眺める鑑賞者たちが、やがて木谷を愛し始める。そして私たちの目が、木谷に光が当たる姿を焼き付ける。この姿の前に、カルトかアートかの問いは消え失せる。

 

小林毅大「We don’t talk much or nothing.」は、光と時間と音の作品である。

子供は主体的に生まれてきたわけではない。I was born. 受け身が基本。厄介なのは、子供にはなかなか言えないが、親もまた受け身だということ。子供を産もうと願っても、それが希望通りになるかは実は本人たちの意志とは関係がない。親もまた子供を授かる、受け身が基本。運命はいつでも後から確定する。しかし、それは子供には言わない。親にとっては数億からありえた可能性の一つとしてその子が産まれたのだとしても、子供にとっては唯一の親である。この非対称性の上にすべての親子は立っている。

声という暴力を使わないルールで親子が向き合うとき、際立つのは子供の暴力性と、親の空転し続ける愛。一挙手一投足にお互いの感情が揺さぶられる。会話でもして紛らわしたい。巻き込まれた母はそう思っているに違いない。その空気が伝わってくる。やがておそらくは思ったよりも早く、母は母子手帳を引き出しにしまい、対峙は終わる。

劇作家である小林は、鑑賞者が一定時間、留まって観てくれることに慣れている。そうでなければ、あれほど音と動きの少ない映像を流す決断は出来ないはずだ。その大胆さがこの稀有な作品を生んだ。音はあるが、声が、セリフがない。

 

繭見「こどくたちへ」は光と触覚と時間の作品である。

寺の娘が、いや寺の娘だからこそ、四十九日に違和感を表明していること。そして見慣れた葬式の当事者になったとき、それを受け入れられなかったこと。繭見は制度に違和感を抱いている。取り外しできる五十の虫たち。時間や場所に縛られない「50日目」があってももちろん良い。しかしそれが繭見の違和感を解決するとはとても思えない。抱くこと、触れること、やわらかい感触を確かめること。繭見が求めているのは、意味や言葉ではなく、優れて感覚的なものであることが伝わってくる。その点で彼女はすでに自分の違和感の対策を講じている。しかし面白いのは、繭見がそれでは満足できず、違和感について語り続け作り続けること。その行為こそが寺にはできない、しかし寺の娘が見出しつつある供養であろう。彼女はすでに自分のためだけではなく人のための供養を始めている。しかしまだ、本人はそのことに気づいていないのかもしれない。繭見は事後的に、作品を通して社会とつながろうとしている。

 

田中愛理「とある存在/混合する境界」は臭い、味、触覚の作品である。

動画を流しているにも関わらず、田中の作品からは時間性を感じない。それよりも存在感のある舌、そして臭い、味。

実は境界などこの世には存在しないことを知りながらも、それを意識してしまう自分を愛でるように境界を、思いつく限り最も動物的な方法で意識し愛でる。

アートとカルトが、違いのない表裏一体であるように、田中の境界線への意識もまた、有り、無いような、表裏一体のものなのだろう。映像が流れているにもかかわらず時間性を感じないのは、ここが田中の意識下で、現実とは違う時間の流れがある場所だからなのかも知れない。

 

鈴木和史「Aktion T4/T4作戦」は光と音と時間の作品である。

音が流れていた。音の終盤、緊張感が高まり、やがて止む。何かが終わったようだ。そしてまた音が流れる。改めて始まる、終わりで緊張の高まる音。永遠に繰り返す。密室の中の密室の中で、緊張と緩和を繰り返す。煙で視界は悪そうだ。マジョリティとマイノリティの境界の意味のなさが音で伝わってくる稀有な体験。そういえば鈴木が密室に入るきっかけもまた、耳に入る音の違和感からだった。それは自分の声だった。優れて音の作品である。

 

木谷作品に音はなく、小林作品は声を封じ、鈴木作品は音がけん引する。

音は暴力であり権威であり父性である。鈴木作品に感じたのは、ガス室にとどまらない権威の暴力であった。木谷からはそれが失われており、小林はそれを封じていた。

音に勝る暴力は拳である。直接接触。それを暴力ではなく、愛でるために使う繭見作品と田中作品。

摩訶神隠し展で最も隠されていたのは、父性ではなかったか。

 

戦後、企業へと受け継がれた父性は、結婚すること、子供を持つこと、一軒家を持つこと、として私生活へも浸食していった。

それらから逃れるためのカルト=アート=精神分析。今やPRは父性のものでなく、個人のものとなり、てこの原理で拡散していく。

2016年に出版された書籍「トヨトミの野望」(梶山三郎著)がPRの文脈に乗って広がり始め、日本企業の最高峰とされてきた自動車メーカーの『権威』を失墜させるPRも始まりつつある。

摩訶神隠し展は、父性というカルトに代わり、新たに打ち立てるアートは何か、を我々に問うている。その問いを受けて、私たちはいま、答えを探している。

 

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