6秒9
夕刻、正雄ら5年生男子数人が校舎を出ると、校庭をただ一人黙々と走る女子があった。同級生の佳歩だった。
「佳歩は良いさ、7秒1、逃げ切れる」
「6年男子より速い、生意気だ」
西美濃北小学校50m走最速の佳歩は、皆の憧れの存在である一方、嫉妬も拾う。孤高感をも纏わされる佳歩と同級生男子との間には微妙な距離があった。日暮れが日毎に早まる11月半ば、彼らは普段通り徒歩で下校。田園の遠く向こうの山並みに吸い込まれんとする夕日と下校時刻を知らせる放送音楽の旋律が夕景の主役に躍り出た。
帰宅後、傘を忘れてきた事に気づいた正雄は自転車で学校に向った。途中、一人で歩いて帰ってくる佳歩とすれ違い、「忘れ物した」とだけ言い放ち、強く自転車を漕いだ。学校で傘を取り、猛スピードで自転車を走らせて家に戻る途中、今度は先を歩く佳歩の姿が射程圏に入った。ドキドキだった。憧れの存在に接近、追いつこうとしているのだから。直後に正雄は異変を感知した。佳歩が歩みを止めたのである。見ると佳歩の少し前に人影があった。少し暗く離れているため不確実だが、マスク姿の女が佳歩と対峙していた。正雄は凍り付いた。(口裂女だ。佳歩が窮地だ、危ない!)と思った瞬間、僅かに見返った佳歩の視線が正雄を捉えた。(大丈夫、私、絶対逃げ切ってみせるから)叫ぶ程に強い視線が正雄の眉間を貫いた。(助けを呼ぶか。いや、今俺は傘を持っている。振り回せば太刀打ちできるかも。相手は恐怖の存在とはいえ、女だ)咄嗟に正雄は、バサバサと大きく、傘を広げたり窄めたりしていた。それが聞こえたのか、マスク女が正雄の方に目を向けた瞬間、佳歩がスタートを切り、女の脇をすり抜けて先へ走った。女も直ぐに佳歩を追いかけた。が、速い! 佳歩、速い!凄い! 佳歩がみるみる女を引き離し、やがて女は追うのを諦めた。暗がりも進み、佳歩も女も消えていった。
翌朝、正雄が登校すると、佳歩は教室に居た。室内の人数が増えてきて騒がしくなった頃合い、佳歩が正雄に近づいて、そっと呟いた。
「正雄、昨日、有難う」
「……」
戸惑う正雄に気づいた秀樹が嗾けた。
「ヒュー! この2人、デキてます!」
「佳歩と正雄?」
「昨日? 何があったの?」
クラス中が2人を囃し立てようとしたその時
「聞いたか? 南小6年女子が口裂女にやられたらしいいぞ!」
「マジ?」
たった今入室してきた勇次の一声でクラスの視線は一気に翻った。
(西美濃市辺りで近頃噂の『口裂女』とは、恐怖のマスク女の事である。神出鬼没のマスク女に夜道でバッタリ出くわすと、その女は冷ややかに「ワタシ、キレイ?」と問うてくる。問われた者は恐いので咄嗟に「キレイ」と応えてしまうだろう。すると女は「コレデモ、キレイ?」と更に問いかけながら徐にマスクを外すのだ。現れ出たその顔は、口が、大きく両の耳まで裂けて恐ろしく、対面者は震撼し立ち尽くす。女は持っていた剃刀で対面者を切りつける、という。もし仮に女から逃げたとしても、女は50mを7秒2で走る脚力のため、99%の小学生は逃げ切れないし、女にスマホやカメラを向けようものなら即刻切りつけてくる、という)
しばらく大騒ぎの教室だったが、教師が入室して授業が始まり、皆は席に着いた。
佳歩は11月下旬の西美濃市の陸上大会で優勝し、校内で更に高みに追いやられた。正雄もその後、佳歩と言葉を交わすことはなかった。冬休み明けの1月、佳歩の姿は教室になかった。親の転勤で急遽、東京に転校したという。3月、クラス宛に届いた佳歩の手紙には、東京の学校でも50m走で1着になったと書かれており、クラス内に大きな賞賛とため息が交錯した。
数日後、佳歩から正雄の家に手紙が届いた。『有難う。もっと色々話したかったけど学校じゃ恥ずかしくて。口裂女、見たよね私達。西美濃でも現実には居ない事になってるだろけど、絶対に居る。私、口裂女のお陰で記録、伸びたもん。でもスタートダッシュで逃げ切れたのは正雄のお陰。本当に有難う(東京では口裂女、1月に流行ったよ。笑うよね)。最後に6年生の私の目標です。それは全国大会優勝。6秒9は必要かな。無理かもだけど挑戦!』封筒には、もう一枚、別の紙が折り入っていた。開くと、白黒の版画であった。巨大な流線形の建造物が画面を超えて浮き出る如く描かれていて、正面に『国立競技場』の文字が力強く掘り抉られていた。東京の学校で図工の時間に彫刻刀で掘ったという事だった。
翌日夕刻、校庭を黙々と走る正雄の姿があった。すかさず秀樹らが囃した。
「何だお前、恐いのか? 7秒1目指して特訓か? 口裂女はフェイクだぞ」
「違う、目指すは6秒9だ!」
「6秒9? お前、まさか」
「マサ、ヒデ、俺らも全国大会で佳歩に会おうぜ! で、マウントだ!」
増員しギアを上げる特訓者たちに、下校時音楽の旋律が寄り添う。校庭脇の桜の色香も隠れ待ち構えていた。
文字数:1999
内容に関するアピール
小学生絡みの諸々を描いたのですが、読者各位に「美しい」と感じていただけたでしょうか。また、口裂女は、SFの枠に入り得るでしょうか……。
さて『口裂女』は、約50年前、私が小学生時代に実際に伝播した噂話で全国に広まった様です。後に、私の地元(岐阜県の西濃地域)が噂の震源と聞いて、少し誇らしくも思えたものです。一般には『口裂け女』と表記される様ですが、当時の私の耳では『口裂き女』でした。口の裂けた女が対面者の口を切り裂く話として僕らは震撼していたのです。今回は当時の恐怖をSFに借りました。『美しい』は諸々小出しに並べたので総体的に美しいと感じていただけたら幸いです。また『6秒9』の走力では現実には小学生の全国優勝はできないと思います(コンマ若干秒遅いと思われます)が、7秒の壁を破る意味・表現として今回は6秒9を採用しました。
文字数:365


