恋愛は経費じゃ落ちない

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梗 概

恋愛は経費じゃ落ちない

「死んだ女の瞳が、まだ恋をしている」

2047年、新宿。

政府は少子化対策で「恋愛促進税制ラブ・タリフ」を導入。成人に瞳孔センサー・アイリスの装着を義務化。

誰を何秒見つめたかで恋愛状態を測定。恋愛中は減税、半年スコアゼロなら重加算税と社会保障制限が課される。

既婚者にも愛情維持義務があり、視線データが低下すれば「冷却税」が課される。

副作用で代行恋愛業レンタル・ラブが横行するが、管理機関はスコア水増しを黙認。数字さえ出れば成功だった。

国税局調査官・大鷹大史(42)は代行恋愛業創設者マリアの変死を担当。

死因は心不全。死後72時間アイリスは恋愛値100%を示し続けていた。

捜査中、現役レンタル恋人・桐島リリス(25)と出会う。

彼女と古風な価値観の大史は反発し合うが、マリアが遺した「愛は終わった。でも数字は残る」をきっかけに共同捜査を開始。

マリアの部屋から恋愛値を操作する違法装置・オーバーライドの残留ノイズが見つかる。

死者のアイリスは誰を見つめ続けているのか。リリスは協力者として現れた管理機関法務局・白石蓮(34)に違和感を覚える。

第二の死体が発見。大史の妻・茉莉——税制度設計を主導した厚労省の官僚。

夫婦関係は冷え切っていたが、大史は妻を愛し、税金対策で週1回「見つめ合いタイム」を設けていた。死後もアイリス100%を示す。

大史が取り乱すのを初めて見たリリス。二人の間に信頼が生まれる。

茉莉のアイリスの異常データを解析。操作元のIPアドレスから死の直前に見つめていたのは——白石蓮だった。蓮を追い詰め、彼は自白。

5年前、恋人の千紗が税制のパイロット実験に参加。24時間視線監視で心を病み過労死した。スコア100%を示す。

管理機関とマリアは成功例と発表。茉莉は記録を改竄して制度導入を進めた。

「彼女を救えたのに、誰も止めなかった」

蓮は千紗を見殺しにしたマリアと茉莉にオーバーライドで脳内物質を異常分泌させ心臓発作を誘発。24時間の感情過負荷で殺害。死後も幸福な数値の中で生かし続けた。

「千紗は100%で死んだ。あなたたちの成功だ。同じ死で、永遠に眠ってください」

それは制度を利用した側・運用した側・設計した側への静かな復讐。

「まだ一人、残ってる」

蓮は自ら装置を起動。制止は間に合わず、アイリス100%で微笑みのまま息を引き取る。

「これで……千紗に会えます」

事件は技術的欠陥による事故として処理。税制も監視機構もそのまま残る。

後日、リリスは代行業を辞め店を開く。ふらりと現れた大史が声をかける。

「今夜付き合えよ」

リリスが微笑む。

「おっさん……アイリス反応しちゃうよ?」

「構わねぇ。恋愛は経費じゃ落ちねぇからな」

二人はアイリスを気にせず笑い合う。制度の中で生まれた本物の感情だった。

人間らしさは「測定誤差」にしか残らない。

それでも誰かと目を見て笑える瞬間があるのなら、この国はまだ心を失っていない。

文字数:1200

内容に関するアピール

【大鷹大史(42)】

国税局の恋愛税務調査官。既婚だが結婚は破綻気味で、自己過信から“おぢアタック”(若い女性に強引にアプローチする勘違い行為)を繰り返し煙たがられている。平成生まれなのに昭和的理想主義を引きずり、愛は打算じゃないと語るが、自身の矛盾にも薄々気づいている。

【桐島リリス(25)】

未来のレンタル恋人。恋愛はビジネスとして考えている。殺害されたマリアの上場企業に勤務。冷めた美人でサイバーパンク的虚無感。愛を信じないが、本当は本物を求めている。レンタル恋人ならではの特殊能力有。

少子化・離婚率増加による社会問題対策として制定された恋愛税。反発する者同士がタッグを組み、漫才をしながら税制度の闇を暴く話にしました。前回は定番パッチワーク展開の対処法を習作として挑戦しました。今回はAIが登場しない物語を目標にしています。大史の「理想」とリリスの「現実」が衝突しながら惹かれ合う展開も考えます。

文字数:400

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誕生グランプリ

 1

 意識が浮上した瞬間、温い闇が肌に貼りついた。息はないはずなのに胸の奥がひくりと酸素を探す。

「どこだ、ここは」

 42号は身じろぎし、自分の輪郭を確かめた。柔らかく、丸い。内側から淡く発光していて境目がぼんやり滲む。それが「自分」だった。

 周囲にも同じ光の粒が漂っている。数十。いや、もっと。数を数える前に目が滑るほど無数だ。彼らもまた困惑したまま揺れていた。視線をせわしなく走らせ、どこにもない出口を探すように。

 42号は知らなかった。ここにいる卵の中には、光に向かっても決して届かないものがいることを。

 どくん。どくん。

 遠くから響く重低音。規則的で力強く、世界の鼓動のようだった。その音がふいに高まり、弾けるように明るい声が空間全体に響き渡った。

「みなさぁーん、集合!」

 42号は驚いて音の方向を探った。すでに卵たちはそこへ集まっていたが、声の主の姿はない。

「母なる意志により、記念すべき、誕生グランプリの開幕です!」

 周囲の卵たちがざわめいた。

「申し遅れましたぁ。わたくし、母なる意志の代弁ナビゲーター、MC〈ハイム〉が実況させていただきまぁす」

 その声はどこからでも聞こえた。透明な膜の内側で響く、湿った明るさ。

「そして、こちらにいらっしゃる皆さんは、母体が選び抜いた、将来有望な候補者の皆さんでぇす。ルールはシンプル。生き残った者だけが、あの光の扉に入ることが出来まぁす。つまりぃ」

 一拍置いてハイムの声が弾む。

「勝者だけが、”生まれることができる”んです!」

 勝った者しか、生まれない。

 その言葉の意味を、42号はまだうまく掴めなかった。ただ、空気だけがひやりと変わり、内側がわずかに縮んだ。ここは始まりの場所であると同時に、誰かにとっては終わりになる——そんな予感だけが静かに広がっていく。

「負けた方は、その場で意識ごと回収されまぁす。記憶も番号も残りませぇん」

 ハイムの声はどこまでも明るい。

「でもでも、怖がらなくていいですよぉ。これは、みんなが通る自然な道なんです」

 声には悪意がない。君たちはただ選ばれるだけだ、と本気で信じている響きだった。卵たちの間に目に見えない揺れが走る。さっきまで同じように漂っていたはずなのに、互いを見る視線がわずかにずれていく。仲間ではない。競う相手だ。

「じゃあ、まずは自己紹介タイム。みなさん、自分の番号、確認してください」

 42号は自分を見下ろした。淡い光が腹のあたりに浮かんでいる。42。それが自分の名前らしかった。なぜ42なのか。疑問は浮かんだが、答えを探す暇はなかった。

 周囲にも数字が浮かんでいる。01、15、27、45、67、88。番号を与えられた卵たちがそれぞれの光を確かめ、不安そうに間合いを測り始めていた。その中で、42号の視線が自然と一つの存在に引き寄せられた。

 00号。他の卵とは明らかに違っていた。輪郭がゆらぎ、触れれば崩れそうだ。周囲の卵たちは本能的に距離を取り、視線も合わせない。

 42号が引っかかったのはその目だった。他の卵が恐怖や焦りに揺れる中で、00号の目だけは静かに凪いでいる。まるで、これから起きることをすでに見慣れているかのようだった。

「あいつ、なんか変だな」

 42号が漏らすと、すぐ近くの卵が鼻で笑った。

「おい、あいつに近づくなよ。何かうつりそうじゃん」

「番号も変だしな。00って何だよ」

「規格外ってことだろ。やつは欠陥品だな」

 くすくすと笑いが広がる。誰も本気で楽しんでいない。笑いながら、彼らの目だけが落ち着きなく泳いでいた。

 00号は何も言わずに漂っていた。聞こえていないのではない。聞いたうえで反応する価値も期待もないと切り捨てている。そんな目だった。気の毒だからではない。その乾いた無関心から42号は目を逸らせなかった。

「00号。お前、なんで何も言い返さないんだ」

  周囲の卵たちが距離を取る中、00号だけが反応しない。

「言っても意味がない」

 「意味って何だよ」

「お前らは聞かないだろ。言ったって信じない。信じても従わない」

  00号の目は42号を見ていなかった。もっと遠く、競技場の果てにある光を見ていた。

「俺は聞くぞ。聞かせてくれよ」

 00号の視線が初めて42号に向いた。品定めするような、あるいは何かを確かめるような目。

「……そうか」

 それだけ言うと、00号は静かに流れの外へ離れていった。42号はその背中を、しばらく目で追っていた。

「さぁさぁ、お喋りはそこまで」

 ハイムの声が空間を一刀で断ち切った。

「第一競技は、その名も、『低酸素サバイバル』でぇす!」

 42号の内側がひくりと縮んだ。低酸素。言葉だけでも嫌な予感が走る。

「母体にストレスがかかると、酸素がぐんと減っちゃうんですね。さぁ、みなさん。どうやって生き残るか、よぉく考えて行動してください」

 次の瞬間、世界の質が変わった。温かかった闇が一気に冷え込み、密度が抜け落ちる。空気。いや、空気と呼べる何かが急速に失われていく。呼吸という概念はないはずなのに、42号の全身が反射的に足りないと訴えた。内側から何かを求めて掻きむしられるような感覚。

「始まりましたぁ、低酸素サバイバル。生き残るのは果たして誰か!スタートです!」

 その声を合図に空間が一斉にざわめいた。卵たちは崩れるように動き出す。

 誰かが壁へ向かった。壁際だけ、薄い膜を伝って冷たい流れが滲んでいた。その周囲にいた卵だけが、まだ形を保っている。

「く、苦しい!」

「か、壁だ、壁の方が!」

 言葉が最後まで届く前に、全員が同じ方向へ流れ出す。押し、弾き、蹴落としながら、壁際へ殺到する。押し合いの中で早くも形が歪む。光が裂けて、音もなく卵たちが消えていく。

「あーっと、一つ、二つ……だいぶ光が薄れましたねぇ」

 調子だけは相変わらず軽い。

「でもご安心を。痛くないですからね。すぅーっと溶けて母体に還るだけ。自然なことなんですよぉ」

 42号は混乱の中で立ち止まっていた。壁際に行け、と本能は叫んでいる。だが、あの群れに飛び込めば押し潰される。中央に残れば押し潰されはしないが、酸素が薄い。どこに向かっても正解がない。

「騒ぐな」

 低く、冷たい声が聞こえた。周囲の喧騒の中でも、その声だけはなぜかはっきりと届いた。

「焦って動けば、消えるぞ」

 低く、抑えた声だった。叫びでも警告でもない。淡々と事実を告げるような声。00号は微動だにしていなかった。

 中央でもなく、壁際でもなく、流れの外側にただ静かに漂っている。卵たちが押し合い、弾き合いながら殺到していく中で、なぜか00号の周囲だけが空いていた。流れは他の卵には絡みつくのに、00号の輪郭が接近すると直前でふっと逸れた。渦が立たず、そのまますり抜けていく。誰もぶつからない。触れようとしても、触れられないかのように。42号は思わず動きを止めた。

 動けば、消える。その言葉に理屈はなかった。身体のどこかがそれを正しいと受け取ってしまった。

 壁へ向かう群れは必死だった。生き残ろうとしているはずなのに、どこか余裕を失っている。それに比べて00号は何もしていないのに、形を失っていない。理由はわからないが、42号はそれを見てしまった。

 あいつだけが、まだ保っている。

「馬鹿言うな!」

 近くの卵が叫んだ。

「壁に行かなきゃ、終わりだろ!」

 誰も00号の方を見ない。見ようとしない。あれを認めてしまえば、今やっていることを疑わなければならなくなる。欠陥品の戯言だと決めつけて流れに戻る。

「おやおやぁ、どんどん消えていきますねぇ」

 実況だけが楽しそうに弾んだ。

「壁際も危険。中央も危険。さて、どうしましょう」

 42号は動かなかった。00号の言葉が頭ではなく、身体に残っていた。あの冷めた目。流れの外にいる姿。誰にも触れられていないという事実。中央の、ほんの少し端。流れから外れているが、完全には離れない位置で42号は漂うことを選んだ。

 突如、横合いから衝撃が走った。悲鳴に近い圧が押し寄せる。パニックに陥った卵たちの群れが、制御を失ったまま流れ込んできた。壁際で弾き出された者たちが、逃げ場を求めて中央へ雪崩れ込む。逃走と反発が重なり、空間そのものが乱れる。

「くそ、押すな!」

 42号は踏みとどまろうとしたが、数に押されて弾かれ、回転しながら群れの中へ引きずり込まれる。壁にも届かず、中央にも戻れない。流れの隙間に挟まれ、輪郭が内側から削られていく。

「……っ」

 意識が滲む。身体が崩れ始める。視界の端に00号が映った。あいつは変わらない。静かなまま流れの外側に漂っている。誰とも接触せず、乱れもない。まるで、最初からこの混乱には00号が計算に入っていないみたいだった。

 どうして、あいつだけが。

「42号、脱落ぅ」

 その声を最後に世界がほどけ、光が歪み裂けて音もなく消える。輪郭が削られていく感覚とともに抵抗する間もなく、終わりだ、と42号は理解した。意識が薄れ、思考が途切れていくようだ。何かに還るというより、何者でもなくなる方へ静かに滑り落ちていく。

 ……。

 どれほどの時間が過ぎたのか、わからない。再び意識が浮かび上がったとき、42号は暗い空間に漂っていた。上も下もない。温度も流れもない。ただ、痛みだけが残っている。身体はひどく軋み、あちこちが崩れかけている。競技で受けた損耗がそのまま貼り付いたようだった。

 周囲を見ると、同じように傷ついた卵たちが数十体浮いている。誰も言葉を発さない。誰も動かない。全員、終わった顔をしていた。

 その静寂を破るように——

「みなさぁん、お待たせしましたぁ」

 あの声が空間に染み込んできた。どこからともなく。姿も、距離も、方向もない。

「敗者復活戦の開始でぇす!」

 この静寂に似合わないほど明るい声だった。

「ここにいる皆さんは、一度、選ばれなかったわけですがぁ。敗者復活に回された個体だけ、特別に記憶と番号が保持されていまぁす。母なる意志は、優しいですからねぇ。もう一度だけ、チャンスを用意しました」

 周囲の卵たちがわずかに揺れた。希望か恐怖か。区別はつかない。

「ただし」

 声がほんの少しだけ低くなる。

「復活できるのは、たった一枠。数十—いや百近い敗者の中から、ただ一体だけ」

 42号は悟った。終わったと思った場所にも、まだ選別は続いている。

「それでは敗者復活戦、『栄養キャッチ・サバイバル』のルール説明いきまぁす!」

 空間の上部がぐにゃりと歪み、小さな光の粒がぽつぽつと降り始めた。栄養だ。触れると体内に吸収され、身体がわずかに膨らむ。

「ラウンドごとに基準サイズを設定しまぁす。基準に届かない子は脱落でぇす。でもでもぉ」

 ハイムの声がほんの少しだけ低くなる。

「取り込みすぎると、ぱぁん。破裂しちゃいますからねぇ。あと、基準が上がるほど取り込むのに力がいりまぁす。頑張りすぎると力尽きちゃうかもぉ」

 バカバカしいほど明るい調子だったが、脱落した卵の行き先は言われなくてもわかった。

「どこまで取り込むか。どこで止めるか。どこまで力を残すか。母なる意志は、そういう判断力を見ていまぁす」

 胸の奥がすうっと冷えた。これは競争なんかじゃない。どこまで欲張れるかを誰かに見られている気がした。

「それではスタート!」

 栄養の粒が本格的に降り注ぎ始めた。卵たちは我先にと飛びつく。取り込むたびに身体が膨らむ。大きくなれば安心だと言わんばかりに、誰もが貪欲に光を追った。

 第一ラウンドで早くも数体が消えた。基準に届かなかった者たち。

「まずい、欲張りすぎた……」

 17号が丸々と膨らんでいく。限界を超えた瞬間、内側から光が漏れ、ぱん、と弾けた。

「あらら。17号、過剰摂取で脱落ぅ」

 第二ラウンド。基準が上がり、卵たちは取り込むのにより多くの力を求められる。栄養を掴もうとしても、するりと逃げていく。

「くそ、届かんぞ!」

 63号が必死に手を伸ばす。何度も何度も。やがて動きが鈍くなり、光が薄れていった。

「63号、力尽きて脱落ぅ」

「分裂だ。数を増やせば、どっちかが取り込める」

 27号が自分を三つに裂いた。分身たちが散らばり、栄養を追う。だが、裂いた身体は元より小さい。基準に届くには、より多く取り込まなければならない。三つの分身が同時に膨らみ、同時に限界を超え、同時に弾けた。

「27号、分裂過剰摂取で脱落ぅ」

 やめてしまえばいい、という囁きが42号の内側に入り込む。痛みもなく溶けるだけだと、ハイムは言っていた。——だが、それでいいのか。そのとき、低酸素サバイバルの光景がよみがえった。

 流れの外側に立ち続けた00号の姿。あの凪いだ目。期待も恐怖も、その手前で止まった目。諦めではなく、最初から別の場所を見ていた目だ。あの目を知ってしまった以上、ここで止まる自分が許せなかった。

「まだ、終わっていない」

 42号は呟いた。必要な分だけ。それ以上は取り込まない。力も使いすぎない——00号の目が頭から離れなかった。欲張るな。流れに乗るな。あの目がそう言っていた気がした。

 最終ラウンド。基準サイズがさらに上がり、生き残りは42号と88号だけだった。

 88号が近づいてきた。

「お前、さっきから動かないな」

 42号は答えなかった。

「賢いつもりか。俺は最初から温存してたんだよ。力も、容量も」

 88号は笑っていた。余裕の笑みだった。

「お前みたいに、怯えて縮こまってるやつとは違う!」

 一気に動いた。栄養の粒を次々と取り込んでいく。身体がみるみる膨らむ。42号の倍。いや、それ以上。

「でかい方が勝つに決まってる。基準なんか余裕で超えてやる」

 42号は動けなかった。必要な分だけ。基準を、ほんの少しだけ超える分しか取り込めない。

 88号の身体が限界に近づいていた。輪郭が張り詰め、内側から光が漏れ始める。

「まだだ。まだ取り込める。俺の方がでかい。俺の方が——」

 ぱぁん。

 弾けた。内側から光が飛散し、88号だったものが霧のように散っていく。

「あらら。88号、過剰摂取により脱落ぅ」

 軽やかなアナウンスが明るく響く。呆然とするしかなかった。勝ったのではない。欲張らなかっただけだ。88号が弾けなければ、負けていたのは体力が弱っている自分だった。

「敗者復活戦を勝ち残ったのは、42号でぇす」

 歓声の代わりに静寂が広がる。栄養を取り込めなかった卵たちはすべて消えていた。

「おめでとうございます、42号。最終競技へ向かってくださぁい」

 その明るさは祝福にしか聞こえなかった。

 ふと、00号の顔が浮かんだ。あいつは今どこにいる。あの凪いだ目が胸の奥に残っていた。あの目を思い出したから、諦めに流されずに済んだ。いったい00号は何者なのか。

「いよいよ最終競技を始めまぁす。残っている皆さん、こちらへどうぞぉ」

 42号の身体がゆっくりと引き上げられる。抗うことはできない。流れに乗せられるように前へ運ばれていく。

 最終競技。辿り着けるのは一体だけ。競技場はそれまでとはまったく違う空間だった。遠くにひときわ大きな光がある。温かく、眩しく、境界のない光。あの光に触れた瞬間、すべてが終わる。

「ここまで来られたのは、低酸素サバイバルを抜けた子と、敗者復活戦を勝ち残った子。合わせて、二十三体。この中から、向こうの光の扉へ行けるのは、たった一体だけ」

 その言葉と同時に光が強まった。

 ゆっくりと周囲を見回す。低酸素サバイバルを生き残った精鋭たち。その中に00号がいた。相変わらず輪郭は不安定で他の卵たちから距離を取られている。だが、その目だけは変わらない。冷めていてすべてを見透かしているような目。

 ふと、目が合った。ほんの一瞬。00号の視線が42号を捉え、何かを確かめるように留まり、すぐに逸れた。見ていることを気づかれている。その確信だけが胸に残った。

「お待たせしましたぁ。ここからは最終競技、『母へのダッシュ、光の産道スプリント』見事ママのお迎えゲートに一番乗りした子だけが、この世にデビューできまぁす。愛されたい子は、走れ走れぇっ」

 ハイムが楽しげに声を転がす。

「ルールは単純明快。扉前にある光のリングを、最初にくぐった子が優勝です」

 単純なレース。言い訳の余地がない。速い者が勝ち、遅い者が置いていかれて消える。それだけだ。

「母なる意志は、一番最初に会いに来てくれた子を待っています」

 一拍置いて声が甘くなる。

「愛されたいなら、走ってくださいねぇ」

 その言葉に卵たちの空気が変わった。視線が一斉に光へ向く。あそこに辿り着けば選ばれる。愛される。生まれることができる。

「位置についてぇ」

 卵たちが身構え、42号も光を見据えた。身体は正直で敗者復活戦のダメージが残っている。万全な状態の卵たちに敵うとは思えない。それでも、立ち止まる理由はなかった。

 ここまで来た。だから、走る。

「ぃよぉーい」

 00号を見た。00号は相変わらず静かに漂っていた。構えるでもなく、力むでもなく。

「スタートぉ!」

 卵たちが一斉に飛び出した。光に向かって全員が必死に進む。押し合いはない。純粋なスピード勝負。自分の力だけで光を目指す。42号も全力で進んだ。だが、周りの卵たちに次々と抜かれていく。身体が重い。思うように進めない。

「速い速い。先頭集団は15号、67号、45号。おっとぉ、ここで00号が上がってきましたぁ」

 42号は目を見開いた。00号が動いていた。00号は押し出すのではなく、流れに引かれるように滑っていた。さっきまで静かに漂っていた00号が信じられない速さで先頭集団を追い抜いていく。その動きは滑らかで無駄がなく、空間そのものと一体化しているようだった。

「すごいすごい。00号、あっという間に先頭です」

 42号は呆然としながら、00号の背中を見つめていた。低酸素サバイバルで動かなかったのは動く必要がなかったからだ。あの余裕は実力に裏打ちされたものだった。00号がどんどん光に近づいていき、二番手との差が開いていく。圧倒的だった。

 あいつが勝つ。

 42号はそう確信した。それでいいとも思った。00号には何かがある。他の卵にはない何かが。あいつこそが生まれるべきだ——そんな予感すらあった。

「00号、独走状態!このまま一気に、光のリングに向かうのかぁ!」

 軽快だった実況が、ふいに途切れた。

「これはぁ」

 00号は誰よりも速く、誰よりも美しく、光のリングに入ったはずだった。だが、リングから見えない壁が現れて00号を弾いた。競技が中断され、会場がどよめく。

「00号、あなた」

 声色が変わった。さっきまでの明るさが消え、冷たく事務的な声になっていた。

「栄養外胚葉。胎盤になるはずだった細胞」

 空間が凍りついた。42号は息を呑んだ。生まれる側ではない、支える側。最初からそう決まっていた存在——そんなものがいたのか。

 00号の目が、一瞬だけ壊れた。輪郭がわずかに震え、すぐ凪いだ目に戻った。

「失格です」

 そこには、もう笑いの気配はなかった。

「00号、あなたには参加資格がありませんでした。あなたは、最初から生まれる側ではなかった」

 00号は何も言わなかった。光に弾かれたまま静かに浮いている。抗議も、驚きもない。受け取るべき結果を受け取っただけ。競争に執着しなかった理由が、今ようやく腑に落ちた。自分がここに属せないことを最初から知っていた。それでも紛れ込み、走り、光に触れた。

「前回の統合に失敗した残存個体が、今回の選別過程に混入していました」

 ハイムが淡々と処理を続ける。

「本来、存在してはならない例外です」

「母なる意志が求めるのは、完全な個体のみ。欠損を含む存在は、選別対象外とします。これは判断ではありません。規則です」

 空間の光が一段冷たくなる。祝福の色が消えていった。

「以上をもって、00号を失格とします」

 00号が排除されることは自然なのだ。欠けた者、不完全な者、規格外の者。そういう存在は最初から愛される側にいない。ハイムに悪意はない。本当に自然なことだと信じている。だからこそ、残酷だった。

「00号、白層へ強制送還します」

 冷たい白い光が00号を包み始めた。

「だろうな」

 00号が呟いた。その声は諦めとも受容ともつかない、静かな響きだった。最初からこうなることを知っていた。そんな声だった。喉の奥が暴れた。声にする前に身体が動いていた。

「00号!」

 なぜ叫んだのか、自分でもわからなかった。助けられるわけでもない。何ができるわけでもない。でも、黙っていられなかった。00号が42号を見た。初めてまっすぐに目が合った。あの凪いだ目が少しだけ柔らかくなった気がした。

「俺は……帰るだけさ」

 そう言って、00号は白い光へ沈んでいった。語り口だけが何事もなかったように通常運転へ戻る。

「失格者が出ましたが……競技再開しまぁす」

 光の道が再び脈打ち、残った卵たちが反射的に前へ飛び出す。押し返す力はもう残っていないのか、皆ふらつきながらも必死に光へ向かう。

「うぅん。光のリングに最初に到達したのは67号ですが、力尽きているようですね。15号も、03号も」

 先頭集団は00号に追いつこうとしてすべてを使い果たしていた。

「次にリングに辿り着いたのは、42号!敗者復活から勝ち残った42号が、優勝でぇす!」

 ハイムの声は最後まで明るい。

「光の扉に入る権利は、あなたのものですよ。母なる意志が、あなたを向こうで待っています」

 光がわずかに強まる。42号はその眩しさから目を逸らさなかった。

 これでいいのか。あいつが行けなかった場所へ、俺が行っても。

 境界のない光が脈打つ。そこに00号の気配はない。

 あいつが一番速かった。一番強かった。

 それでも、生まれることは許されなかった。

 今ここに立っているのは、あいつの空いた場所を埋めるための一体にすぎない。

「2位の枠は89号。3位は56号。この三名で、表彰を行いまぁす」

 2位と3位の卵が42号の隣に並んだ。どちらも疲弊しきった表情だった。

「ではでは、優勝者の42号、光の扉へどうぞぉ」

 42号は光に向かって一歩一歩、ゆっくりと進み始めた。2位と3位が後ろから見ている。彼らは光の扉に入れない。ただ見届けるだけ。そして、消えていく。

「……おめでとう」

 89号が言った。

「行ってこい」

 56号が言った。42号は振り返らなかった。振り返れば足が止まりそうだった。

 光が近づいてくる。温かい。眩しい。身体が溶けていくような感覚。

 これで、生まれるのか。

 競争は終わった。あとは、光に包まれて消えるだけ。

「待てよ」

 光が42号を包み込んでいく。視界が白に染まる。音が遠くなる。

 それでも疑いだけが、胸の奥に小さく残っていた。

 最後に見えたのは、00号が消えていった方向だった。白い光。冷たい光。

 あいつは、あそこに——意識が途切れた。

 ……。

 途切れたはずだった。

 42号は意識してしまった。

 これで、終わりなのか。

 その疑いが一瞬だけ生まれた。たったそれだけで、光の意味が裏返った。

 光の向こう側が透けて見える。

 本来、誰も見るはずのない場所。通過されるだけの裏側。

 白。音も境界もない層が静かに広がっていた。

 ここは出口ではない。終点でもない。

 選ばれなかったものたちが落とされる場所。

 生まれたのではない。――外されてしまったのだ。

 白い層が、ゆっくりとこちらへ迫ってくる。

 2

 白い。境界も上下もなく、距離や温度といった感覚が抜け落ちた空間に42号はただ浮かんでいた。さっきまでの喧騒は初めからなかったかのように消え、音の気配すらない。

「こ、ここは」

 声を出したつもりだったが、言葉は広がらず、吸い込まれるように消えた。反響すらない。

 光に入ったはずだった。勝者として扉をくぐったはずだった。それなのに、ここはどこでもない。

「お前、なんでここにいる」

 振り返ると00号が漂っていた。輪郭は相変わらず不安定で、形が定まらない。ただ、その目だけが明らかに揺れていた。あの凪いだ目にはっきりとした驚きが浮かんでいる。

「00号。お前こそ、追放されたんじゃないのか」

「俺は追放された。だから、ここにいる。お前は、勝ったんだろ。なぜ、向こう側に行かなかった」

「行った。行ったはずなんだ」

 周囲を見回しても、白い空間で何もない。それでも、何かが溜まっているような気配があった。遠くで影のようなものが、ゆっくりと揺れている。

「そうか。お前、光を疑ったな」

「何、だって」

「普通は疑わない。あの光を誕生だと信じて、浴びるように通り抜ける。考える暇もなく、溶けるんだよ」

「ああ。確かに疑った」

「そう。だから、ここが見えた」

 00号は短く息を吐いた。呆れに似た仕草。その奥に、かすかな安堵が混じっている。

 その表情を見て42号は気づき始めた。00号は、ずっと一人だったのかもしれない。この白い層で誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ一人取り残されてきたのだと。

「ここは牢獄さ。統合に失敗したものが、処理されずに溜まる場所。俺は元々、胎盤側の細胞らしいな。個体として数えられない側。なのに前回の統合後、意識と記憶だけが残ってしまった。――俺の形、変だろ」

 00号は淡々と語り始めた。自分が何者なのかを。

 前回の妊娠。そこにも00号はいた。他の卵たちと同じように競争し、同じように光を目指した。だが、統合の瞬間。弾かれたのは00号だけだった。

「個体としての境界が薄すぎた。溶けきれず、消えきれず、ここに引っかかった」

 声は静かだった。形を持たないまま、どこにでも滲む存在。それが00号だった。

 白い層。出口でも終点でもない場所。

「今回の大会を期待していたんだ。前回は失敗したけど、今度こそ生まれて来られると思った」

 42号は何も言えなかった。あの冷めた態度。無関心を装った振る舞い。すべては期待することが怖かったからだ。また弾かれたら、最初からなかったことにされる。だから、欲しがらないふりで自分を守っていた。

「なんで、紛れ込んでいたんだ」

 00号は答えなかった。視線がわずかに揺れ、輪郭が不安定になる。言葉にすれば壊れてしまいそうなものを、必死に押さえ込んでいるようだった。

「俺、馬鹿だろ。期待して、必死になって、それでもまた、弾かれるって分かってたのに」

 競技では最強だった。誰よりも速く、誰よりも正確に光に辿り着いた。それでも、個体として認識されなかった。一つの命として数えられなかった。最強なのに生まれる資格がない。能力の問題じゃない。存在の問題だ。00号は最初から選ばれない側だった。

「なんで、教えてくれなかったんだ。低酸素サバイバルのとき、お前は全部知ってたんだろ。競争のことも、俺たちがどうなるかも」

「言っただろ。誰も、俺に聞かなかっただけだ」

 それがすべてだった。聞いたら競争は成立しない。信じなければ走れない。

 だから誰も聞かない。00号を欠陥品と呼ばせて、視界から外す。そうやって自分を守る。

「俺は聞いていたぞ」

 42号は反論する。

「お前の言葉がずっと残ってた。動くなって。結果は同じだって。だから——」

「それで、立ち止まったか?」

 00号が遮った。

「わからない。ただ、お前が知っている側の目をしてた気がしたんだ」

 00号は何も言わなかった。沈黙の中で42号は問いを投げた。

「競争とは、なんだったんだ。勝者だけが生まれるって言ってたけど、お前は、結果は同じって言った。どういうことだ?」

 長い沈黙。逃げ場のない沈黙。

「全員、統合される」

 白い層の奥でひとつの影がぼこりと膨らみ、溶けて消えた。

「勝っても負けても、脱落しても、最後は全員が一つの命になる。それぞれが過ごしていた時間も記憶も、統合の瞬間に完全に消える。」

 視界がぐらりと揺れた。あの苦しみも、あの選択も、足跡ごとすべて飲み込まれる。

「じゃあ、俺たちが必死に戦ったのは——」

「茶番だ」

 00号は淡々と言った。

「この競争は、母体の意志だ。健康な子がほしい。その願いが、俺たちを走らせている」

 一呼吸おいて言葉が落ちる。

「でも結果は変わらない。最後は全員、一つになるだけさ」

 母体の意志。ハイムはそう呼んでいた。元気な子がほしいという願いが、茶番の競争を愛情の衣で包んでいた。

「俺は、その基準から外れた」

 00号の声は平坦だった。

「個体として認識されなかったんだよ。だから、母体の愛情の対象にもなれなかった」

 そこに感情はない。怒りも、悲しみも、期待もない。愛されなかった。自分は最初から、愛の候補にすら含まれていなかった。完全な子がほしい——その願いが00号を外した。愛情が排除の理由になっていた。

 42号が次の言葉を探した瞬間、空間がわずかに歪んだ。

「来たか」

 00号の声が低く張りつめる。

 白い層の奥で影が動いた。形を保てない塊が、いくつも重なり合っている。その内側の何かがこちらを見た。気づいたときには、距離が一気に詰まっていた。

「な,何だあれは」

「統合に失敗した残骸だ。あいつらは新しい卵に縋って、統合をやり直そうとしている。触れられたら、お前が“核”にされる。白層に縫い止められて、二度と光には行けない」

 その塊から声が——いや、声の残骸が漏れていた。

「……うま……れ……」

 途切れ途切れに、断片的な言葉が繰り返される。

「あいつらも、元は俺たちと同じだったのか」

「ああ。ただの悪意じゃない。ここに置き去りにされたまま、形に縋ってるだけだ」

 統合体が42号を狙い始めた。別の塊がすぐそばに現れ、空間を無視して距離を詰めてくる。

「……いっしょ……になろう……」 「……かたち……を……」

 42号は本能的に後ずさった。見つめられただけで、腹の数字が薄くなっていく。あれに取り込まれたら、自分もああなるのか。形を失い、意識を失い、ただの残骸になる。

「俺についてこい」

 00号が42号の前に出た。

「お前も、いずれ、あんな感じになるのか」

「……」

 00号は答えなかった。それが答えだった。

「逃げるぞ」

 00号が動き出した。42号もそれに続いた。白い空間を二人は走り始めた。背後から、失敗した統合体たちの声が追いかけてくる。

 白い空間が変わり始めていた。走りながら、42号は気づいた。白だった空間がわずかに暖色を帯びている。遠くから音が聞こえ始めた。どくん、どくん——母体の心音だ。

「統合進行率……60%……」

 どこからか声が響いた。ハイムだ。さっきまでの陽気さは消え、ただの報告になっている。

「お前の統合が進んでいるようだな。向こうでは、もう光に入ったっていう認識になってる」

 00号は走りながら答えた。

「俺はここで道案内はできるが、光には行けない。お前だけが行くんだ」

 後ろから統合体たちが追ってくる。空間を歪めるように動いてくる。

「統合進行率……70%……」

 空間の色がさらに暖かくなっていく。粘性が帯びてきて走りにくい。身体が重い。

「00号。なぜ、俺にそこまでしてくれるんだ」

「……」

「お前には関係ないだろ。俺がここで消えても、お前には何も」

「いいから、走れ。あいつらに少しでも触れるな」

 00号は42号を置いていかない。道を示し、統合体から庇い、光の方向へ導いている。

 42号は00号の背中を見ながら理解した。こいつは誰かを助けたかったのだ。ずっと一人で、誰にも繋がれなかった。だから、誰かに覚えていてほしかった。

「統合進行率……80%……」

 無機質な報告と同時に空間が脈打った。

 統合体の腕が42号に伸びた瞬間、00号が割り込んだ。不定形の塊が00号の輪郭を掠め、端がぼろりと崩れ落ちた。触れられた側から輪郭がほどけていく。形の弱いものほど、先に削り取られる。

「00号!」

「き、気にするな……そのまま走るぞ」

  00号は振り返らなかった。崩れた部分を気にする素振りもない。まるで最初から捨てるつもりだったかのように。

 空間の暖色が強くなり、どくん、どくんと、心音が重なってくる。光が近い。確実に近づいている。同時に背後の気配も、距離を詰めていた。

「……かたちを……よこせ……」「……かたちを……よこせ……」

 不定形の塊が輪を描くように迫ってきた。逃げ道が消え、追いつめられていく。

 42号は足を止めた。統合体が近づいてくる。その表面に一瞬だけ輪郭が浮かんだ。見覚えのある光だが、誰とも一致しない。過去に統合できなかった卵たちの名残が、溶けたまま重なっている。

「あいつらに取り込まれたら、光には届かない。こ、ここで終わる。お前の中にある声も、全部ここに沈む」

 喉が震えた。

「俺たちも、ああなるのか」

 輪郭を欠いたまま、それでも00号が一歩踏み出す。

「お、お前は、行け」

 声は低く、静かだった。

「何を言って——」

 42号が言い切る前に00号はさらに前へ出る。統合体との距離が決定的に縮まった。

 00号は統合体に向けて言った。

「境界を失った。か、形になれなかった。生まれ損ねた存在だ」

 不定形の塊がわずかに揺れた。

「でも——」

 00号は振り返らずに言った。

「お、俺は、こいつらと同じさ。統合に失敗して、こ、ここに残された」

 統合体が揺らぎ、声の残骸が漏れる。

「同じだって?」

「そ、そうだ。だが、俺は、お前を向こうへ行かせる」

 迷いを帯びた静寂が白い層に沈んだ。

 その瞬間——00号は統合体の前へ身を投げ出した。削られた輪郭の薄さを逆手に取るように、自らを膜のように引き伸ばし、崩れかけた身体で塊を包み込む。触れればほどけるはずの存在同士が絡み合い、わずかな時間だけその進路が鈍った。

「今だ、行け!」

「統合進行率……90%……」

 空間が震えた。光が白い層を侵食し始め、42号への統合が最終段階に入ったことを告げる。温かい光が空間全体を浸していく。

「……あぁぁぁぁ……」

 統合体たちが悲鳴を上げた。光が彼らの形を否定する。存在承認が外れた瞬間、輪郭が保てなくなる。長く留まりすぎて、もう光に耐えられない身体。かつて取り込まれ、生まれ損なった声だけが、砂のように散っていく。

「……うま……れ……たかっ……た……な……」

 最後の断片が光に吸い込まれたとき、そこには何も残らなかった。本来なら、00号も同じはずだった。光に触れれば、存在ごと消えるはずなのに、00号だけが残っている。崩れもせず、拒まれもせず、ただそこに立っている。光の中に取り残された影のように。

「00号——」

 42号の、まだ形になりきらない手のようなものが、光へ伸びた。光はそれを静かに包み、輪郭がほどけ始める。

 タイムリミットは終端だ。

「お前も来い」

「……無理だ。お、俺はこの光に触れない」

「しかし」

「さ、さっき聞いただろ。な、なんで、助けるって言ったのか」

 声が震えていた。揺れる輪郭が痛みを隠しきれていない。

「お、俺も、向こうに行きたかった」

 その一言は音というより願いだった。

「きょ、興味がないふりを、してただけさ。ど、どうせ弾かれると思って、期待するのが怖かった」

 それでも、みんなが光へ向かうのを見ていた。欲しいと口にすることすら許されなかった存在の目で。

 光が42号の腕をさらって、引き裂くように引き離す。00号の手はすぐそこにあるのに、どうしても届かなかった。

「な、なんで、なんでお前だけが」

 42号の声も震えていた。

「お前が一番速かった。一番強かった。一番、生まれるべきだった」

「そ、そういうもんじゃ、ないんだ」

 00号は笑った。泣いているような、笑っているような、曖昧な顔で。

「資格ってのは、能力じゃ決まらない。お、俺は、最初から、ここにいるべきじゃなかった」

 ここにいるべきじゃなかった——その言葉が42号の胸を抉った。誰が決めた。欠けた者はいらないと、誰が決めた。完全な子がほしいという母体の願いが00号を排除した。そんな条件付きの愛を、果たして愛と呼べるのか。

「そんなの——」

 00号が遮った。

「お、お前がここに来てくれて、よかった。だ、誰かに、本当のことが言えた。それだけで、十分さ」

「十分なわけがあるか!」

 42号は叫んだ。

「お前は、お前だって生まれたかっただろ!俺たちと一緒に、外に出たかっただろ!なのに」

「あ、ああ。出たかった」

 00号はあっさりと頷いた。もう何も隠さずに。

「でも、無理、だった。それだけさ」

 光が強まり、42号の輪郭が溶け始めた。時間はもうない。

「い、行け。お前なら行ける。お、俺の分もな」

「馬鹿言うな。お前の分なんて、背負えない。俺は、俺だ」  

 42号は震えながらも視線を逸らさずに言った。

「それでも、お前のことは忘れない。俺たちの奥に、お前の願いは残る」

 00号の輪郭が、かすかに揺れた。

 光が42号の身体を上書きしはじめる。番号も境界も、ゆっくり溶けていく。

「俺たちも、ここにいるぞ」

 無数の声が内側から溢れた。低酸素で消えた声。敗者復活で折れた声。光の手前で諦めた声。すべてが42号の中で重なっていた。

「結局、勝っても負けても同じだったな」

「でも俺たち、生きたよな。必死に」

 42号の境界が消える。「俺」という輪郭がぼやけてゆく。

「無駄じゃなかった。お前が覚えていてくれるなら」

 柔らかい声だった。もう、誰の声かは区別できない。誰よりも強く、一番先に辿り着いたのに、完全からこぼれ落ちた、ただ一つの存在。42号は思わず背後を振り返った。

「お前が願った光の、その先を俺が見届ける」

 光が閉じる。「俺」は「俺たち」になる。

 眩しい未来へ溶け落ちながら、たったひとつの記憶だけが消えなかった。――00号はまだ、あの向こうにいる。

 ◆

 白い層。

 光は遠ざかり、静寂だけが戻る。

「お、れも、いきた、かった、なぁ」

 震えた声はそこまでだった。輪郭の端が白の中へぽろぽろと崩れ落ちる。痛みはほとんどない。ただ、遅れてきた悔しさだけが、かすかな熱になって残っていた。

 白に溶けかけながら——「いけ。おれ、も——」

 声が途切れた。胸の奥に、言葉にならない温かい残響が残った。

 砕けた光の欠片が一度だけ白の奥で瞬き、すぐに見えなくなる。生まれることを許されなかった者の痕跡。

 42号へ託された願いだけが、新しい命の方へ微かに脈打っていた。

 ◇

 産声が震えた。

 光の奔流に押し出されるように意識が形を得る。「俺」という輪郭はもうない。ここにあるのは「俺たち」だ。勝った者も負けた者も、数字も意味を失い、今はただ一つの存在。

 それでも、ありがとうと言いたい誰かがいる。

 名前は霧の向こうに消えたが、忘れてはいない。揺らぐ輪郭。凪いだ目。「俺も行きたかった」という声。その思いだけが胸の底で脈打っている。

 光に拒まれた唯一の存在。それでも、あいつは走った。生まれる側ではないと知りながら。

 「俺たち」はそれを忘れない。忘れてはいけない。眩しい世界が閉じていた瞼の向こうで拡がる。初めての呼吸が未来の気配を連れてきた。

「元気な男の子ですよ」

 聞き慣れない声。そのすぐあと、震えた小さな声が覆いかぶさる。

「よかった……」

 泣きながら笑っている声。

「生まれてきてくれて、ありがとう……」

 その声を聞いた瞬間、「俺たち」の奥底で誰かが小さく笑った。——届いた。形はない。番号もない。統合されたわけでもない。

 でも、願いだけがここにいる。

 「俺たち」は目を開けた。

 眩しい世界の中に、あいつもいる。

文字数:16000

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