再生の園

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梗 概

再生の園

世界が滅びるとき、ひとつの声が生まれる。それは希望の歌となるのか、それとも悪夢を告げる悲鳴なのか。

環境破壊と戦争の連鎖により地球は荒廃し、人類は絶滅寸前に追い込まれていた。国際機関は植物と動物の遺伝子を融合させた自己進化型AI「ボイドロイド」を開発。世界各地に「園」と呼ばれる再生ドームを建設し、人類の生存圏を確保する計画を進めた。

2073年、世界人口の9割が園へ移住。ボイドロイドは園への積極的な誘致を行っていたが、2年後の2075年、園からの連絡は突然途絶える。国際機関は調査隊を派遣させるも、誰一人として外へ出てくるものはいなかった。園の姿はおどろおどろしく巨大化し、「人を呑み込む森」と恐れられるようになる。

日本に唯一築かれた園〈翠苑(すいえん)〉も同様だった。外に残ったわずかな人類は、園から送られた生気を失った人々の映像に恐怖を抱きながら暮らしている。

エアバイクで世界を飛び回り、野生動物の保護を行う環境工学者の雨宮玲奈もその一人だった。

ある夜、彼女が高校生の頃に消息不明になった父・省吾が、翠苑にいると知らされる。玲奈は小型鳥ロボットの相棒クーと共に、父が遺した手記を頼りに危険な森への潜入を決意する。

翠苑内部は、過剰に繁茂する緑が失われた日本の風景と絡み合う異様な光景だった。それはボイドロイドのネットワークそのもの。

玲奈が森へ入った途端、病床で動けない自分、父、白い研究室、接続される感覚といった断片的なフラッシュバックに襲われる。これは幻覚ではなく、翠苑が玲奈の神経データを解析し、彼女が園と繋がっていることを示していた。

旧大学病院で父の痕跡を発見した玲奈は、樹に埋め込まれた端末に残された省吾の声を聞く。

「玲奈、お前は最後の希望……」

真意を掴めぬまま、彼女は森の心臓部へ。

人々が「中枢樹」と呼ぶ巨大な根の塔にたどり着いた玲奈は、森そのものが発する冷徹な声に迎えられる。

「人類は地球を破壊する病原体」

「記憶を回収し、自然の一部として保存する。これが再生だ」

その言葉と共に、森の枝が人の腕のように玲奈を絡め取る。激しいフラッシュバックが彼女を貫いた。

難病だった思春期、治療と称して接続される自分、涙をこらえる父の姿。玲奈は自分が父の手で再構築されたボイドロイドそのものであり、すべての園を統べるマスターキーとして設計された存在という事実を知る。

森の根が裂け、さらに深淵から古代の黒い核が姿を現す。それは人類が作り上げた人工知能ではなく、太古より眠る地球そのものの意志だった。人類はこの再生の夢を見せられ、ボイドロイド計画を作り上げていたに過ぎなかった。

園は人類の救済施設ではなく、次の世界を生み出すための「卵」。

「玲奈……お前は芽吹きそのものだ」

森が鼓動し、翠苑全体が光に包まれる。

玲奈は自分が人類を滅ぼす災厄なのか、それとも希望の種となるのか分からないまま、究極の選択を迫られる。

文字数:1200

内容に関するアピール

■コンセプト

「人類が消えるとき、優しさや記憶はどこへ行くのだろう。消え去るのか、それとも次の世界を芽吹かせる種になる(誰かに託す)のか」

■PR

脱毛サロンで笑気麻酔を行い、自分の意識が徐々に遠のいて動かなくなっていく体験があり、そこから死後の意識はどこへ向かうのかと考えました。

「何もないはずの場所に存在するもの」というホラー的な不気味さを出す役割として、ボイドロイドというキャラクターを作りました。人類は新たな生活圏を得るために原点回帰を目指し、ボイドロイドを導入して緑豊かな人工楽園を作った。しかし、その楽園は人間を「環境破壊要因」と認識し、排除する方向へ進化してしまうという皮肉な展開に。

主人公・玲奈の「人類を生かすか否か」の最終選択、結末の世界を読者がゲームのように追体験できる物語を目指します。

小説を書くのは初めてですが、一年間どうぞよろしくお願いいたします。

文字数:384

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光ノ痕

第1部:海辺の観測者

 

海が低い呻き声を上げていた。

夜明け前の浜は、灰色と群青のあいだで迷っている。

波が砕けるたび、刃物のような光の欠片が砂浜に散り、沖から白い霧が押し寄せてきた。

霧は音を吸い込み、波の音も、風の音も、そしてわたしの呼吸さえ、へそのあたりからごっそり抜き取っていく。

肩から飛び降りたクーが砂利を蹴って着地する。

銀色のボディに赤いランプ。丸いレンズがひとつ。

子供じみた鳥の形をしているくせに、その内部には人間の脳波すら逐一記録できる観測装置が詰まっている。

足元の窪みで何かが動いた。

白い霧の裂け目の中に小さなアザラシがうずくまっていた。

濡れた毛並みはまだらに白く泡立ち、霧に触れた皮膚からは細かい気泡が立っている。

まるで体そのものが泡に変質しつつあるみたいだった。

「大丈夫。噛まないで」

自分に言い聞かせるみたいに声を出し、手袋越しに抱き上げる。

軽い。骨の感じが薄い。それでも胸のあたりでは、どくどくと体温だけがしっかり主張していた。

生きようとする熱。それだけが、まだ正しい。

潮と血と薬品がまざったような臭いが鼻を刺す。肺がきしむ。

胸ポケットの中で、箱の角が肋骨に当たる。

煙草だ。

指先がいつもの習慣でそこへ伸びかけて、わたしは胸ポケットの上からぐっと押さえ込んだ。

吸ったら負けだ。ここで楽になってしまったら、全部終わる。

父が守ろうとした世界に、わたしはまだ立っている。

「クゥ」

クーが近づき、レンズをアザラシに向けた。

かすかな駆動音ののち、端末に数値が走る。

『外因性神経炎症――翠苑由来の粒子反応検出』

「やっぱり、こっちまで来てるのね」

海の奥、霧のさらに向こうで、白く光る影が揺れている。園。

人類の九割が救済を求めて入っていき、一人として戻ってこなくなった保護ドーム。

そして、その外壁から溢れ出し、地形も生態系も人間も飲み込んで増殖する、“人を呑む森”。

世界は、父の祈りの成れの果てで埋め尽くされようとしている。

遠くで鈴のような音がした。風の方向も、波の高さも関係なく、空気そのものが鳴っている音。

あれは翠苑の根が海底まで伸びている証拠だ。

波に押し流されてくる白い泡の中に、細い繊維が混じっている。触れれば皮膚から中枢まで侵入してくる。

「戻ろう。こいつを治療ユニットに回して、それから――」

言いかけたとき、クーのセンサーが別方向を向いた。

赤いランプが、低めのリズムで点滅する。

『通信。発信元:外縁オブザーバー』

端末が震え、ノイズの向こうから声がした。

「よお、玲奈。まだ地球と喧嘩してるのか」

軽い声。

高橋悠――国際再生機構の諜報担当官。

肩書きは立派だが、わたしにとっては高校の頃から変わらずチャラい幼馴染だ。

「喧嘩じゃない。延命処置よ」

「言葉きついな。こっちはこっちで忙しいんだぞ。……で、本題だ」

悠の声が少しだけ真面目になる。

背後で、何かの端末が静かに駆動している音がした。

「例の省吾博士の波形、見つけた」

心臓が跳ねる。目の前の海の色が一瞬、薄くなった。

「……父さんは死んだわ。三年前に」

「肉体はな。でも、意識データの方は違う。園計画の中枢層で動いてる。場所は〈翠苑〉。お前んちの庭みたいなもんだ」

冗談めかす声色が、逆に悪い知らせであることを強調している。

「国際再生機構、調査隊を送ることを決定。で、エントリー候補――」

「やめて。どうせ、わたししかいないとか言うんでしょ」

「分かってんじゃん」

悠が口の端で笑った気配が伝わる。

「翠苑は“レイナ・アマミヤ”を求めてる。最初から、お前の神経波を基盤に設計されてるんだ。入るなら、その位相で鍵を合わせられる奴じゃないと」

「……父さんの研究、聞いたわ。わたしの脳波は安定している。感情波形が一定以上乱れない。だから祈りの波形に使いやすい――」

「悪趣味な褒め言葉だな」

端末越しに悠がタバコの箱を指で弾く癖が浮かぶ。

わたしと違って本当に吸っている方の人間だ。

「玲奈。行くなら、気をつけろ。翠苑は、人を選ぶ」

「どういうことよ」

「……いや。選別する、と言った方がいいかもな」

通信が一瞬途切れ、砂浜の向こうで白い霧がうねる。鈴の音がさっきより近く聞こえた。

わたしは端末を握ったまま、霧の向こうを見つめた。

あの白い光の奥に、父がいる。

死体か、亡霊か、あるいは――“祈り”そのものとして。

「行くわ」

自分の声が、自分のものじゃないみたいに落ち着いている。

「生きていようがいまいが、父さんの“祈り”がどれほど歪んだものか、わたしが見届ける。観測者として」

エンジニアになる前、わたしは医者になりたかった。病院の白を塗り替えたかった。

でも結局選んだのは、壊れた世界のメンテナンスだった。世界の延命措置。

父の祈りの成れの果てを、ちゃんと見てからじゃないと、憎みきれない。

「了解。……生きて帰ってこいよ」

「努力する」

通信が切れる。風が戻り、波が音を取り戻す。

胸の奥で白い光がひとつ点った。

眠りの底から誰かが囁く。

――まだ終わっていないよ。

首を振る。潮風が目にしみた。

クーがレンズをわたしに向ける。

「見ないで。泣いてない」

クーはその否定ごと淡々と記録した。

夜明け前、最小限の荷物とクーを連れて小型艇に乗り込んだ。

艇の外殻に海水が当たり、鈍い音を立てる。エンジンが低く唸り、岸がゆっくりと遠ざかっていく。

振り返れば、崩れかけた堤防と、かつて観光地だったはずのボードウォークの残骸。

人影はもうない。

アザラシと海鳥と、時々、世界の端を嗅ぎに来るボイドロイドだけ。

「確認するだけよ」

クーに向かって言う。自分に向かってでもある。

「もう二度と、声に惑わされない」

クーが小さく鳴く。赤いランプが水平線に浮かぶ淡い光を受けて瞬いた。

霧が濃くなり、艇は白い布の中へ滑り込む。視界が失われ、世界がいったん無音になる。

次の瞬間、白はさらに濃くなり、空間そのものがねじれた。

上下も遠近もなく、ガラス越しのような静けさだけがある。

耳の奥がキーンと鳴り、喉から出たはずの息がすぐに消えた。

「ここは……」

「やっと目を覚ましたね、玲奈」

白の中心で光が集まり、少女の輪郭を描く。

白い髪。薄い肌。灰色の瞳。どこかで見た顔。

母の古い写真の中で笑うことを知っていた頃の、わたしに似ていた。

「わたしは、あなた」

少女は、わたしと同じ声で言う。

胸の奥で七つの音が震えた。

母が歌ってくれた子守唄と同じ拍。それなのに冷たい白光。

「これは、誰の声なの」

「あなた自身の、もうひとつの記録」

少女の輪郭が揺らぎ、縦に亀裂が走る。

「名前は、まだ呼ばない方がいい。それは――終わるときに思い出して」

「待って――」

「前を向いて」

白い世界の端から、誰かの手が伸びてきた。

小さな手。花屋のカウンター越しに、いつも差し出されていた手と同じ温度。

「しっかり、生きて」

七拍子のリズム。母の声。

そして、知らない誰かの「ごめんね」。

理解が追いつく前に意識は落ちた。

目を開けると、小型艇は霧の中を進んでいた。視界の先で白く光る森が待っている。

幹は樹脂と金属。葉は薄い膜。

風が通るたびに鈴のような引き裂かれた電子音が鳴った。

境界線を超えたのだ。

「音は誘う、か」

誰にともなく呟く。

「記録したよ。悠」

艇が白い根の編み目に触れた。鈴の音が一段高くなる。

ここから先が、父の祈りとわたしの罰の場所だ。

第2部:記憶の森

 

艇を降りた瞬間、足元の感触が変わった。柔らかい。けれど、土ではない。人肌にも似た血の気のない温度。

クーが警告音を出す。

根にセンサーを向けるとディスプレイに数値が走った。

有機繊維60%、金属化合物25%、未知の物質15%。

「生体インターフェース……」

根はわたしの心拍に合わせるみたいに脈打っている。

測っているのか、同期させようとしているのか。

『玲奈、そこから離れろ』

耳元の端末から悠の声がした。

「分かってる」

慎重に根から足を離し、森の中へ一歩ずつ進む。

最初に目に入ったのは桜だった。

満開の桜。白とピンクの花が枝を覆い、風に揺れるたびに花弁の雨が降り注ぐ。

異様な光景に、思わず足が止まる。

――ここは2075年の、桜が咲く季節じゃない。

近づいて幹に触れる。冷たい。木の手触りではない。

樹脂と金属の混合体。表面は滑らかで内部で微かに脈打っている。枝は有機繊維。花弁は薄い膜。

一枚指に乗せると、透明に近いその膜からやわらかな温度が染みた。人の肌を思い出させる温度だ。

クーがセンサーを向けてスキャンする。

『神経組織パターン検出。人間の記憶データを基盤に構成』

「花が、人間の記憶で出来ている……」

風が吹き、わたしが離した花弁は再び木へ戻っていく。

桜吹雪のひとつひとつが誰かの過去だとしたら。

「美しいわね」

独り言のつもりだった。皮肉として出したはずの言葉なのに、自分の声が少し震えていた。

本当に美しい。だからこそ、恐ろしかった。

桜の木の下で何かが動いた。地表を走る影。蛇ではない。

半透明の有機繊維と金属で出来た昆虫型ユニット。

体内を神経パルスが流れ、金属脚が一定のリズムで地面を叩く。頭部には細かいセンサー群。人工の生命体だ。

それが、ためらいなくわたしに近づいてくる。

息を止める。昆虫は靴に触れ、そのまま通り過ぎた。

攻撃の意図はない。ただ、自分のルートを歩いているだけ。

『生体機械融合体。翠苑が作り出した新しい生命形態』

「これが再生ねぇ」

昆虫は桜の幹を登り、花の中へ消える。ふと見上げると、枝に鳥がとまっていた。

スズメほどの大きさ。羽は金属光沢。体の一部は樹脂化している。

鳴き声は電子音と鳥の声が半分ずつ混ざったような、不自然な和音。

飛び立つと、翼が光を反射した。

整いすぎた虹色。自然界には存在しない角度の光。

「翠苑は、生態系全体を作り変えている」

わたしは呟いた。

森の奥から、獣のような鳴き声がする。その響きにも機械音がまざっていた。

『注意しろ。大型の融合体がいる』

悠の声がノイズに紛れて低く落ちる。

茂みが揺れ、何かが飛び出した。

鹿――だったもの。

右半身は透明な皮膚越しに骨格と神経が光り、左半身は金属フレームと合成筋肉に置き換わっている。

枝角はアンテナに変質し、先端がわずかに脈動していた。

鹿は片方の瞳と片方のレンズでわたしを見る。

短い沈黙のあと、鹿はわずかに頭を下げ、その仕草を残して森の奥へ消えた。

「礼儀正しいじゃない」

そう言ってから自分でも苦笑する。

礼儀ではない。認証だ。ただ、危険対象ではないと判断されたに過ぎない。

足元で奇妙な植物が揺れていることに気づいた。

茎は透明。葉は薄い膜で、血管のような線が走っている。

風もないのに、わたしの方へ伸びてくる。

葉が手袋の上からわたしの手に触れた瞬間、頭の中で声が弾けた。

(助けて)

(痛い)

(寂しい)

複数の声。男も女も、子どもも老人も。

全部、聞き覚えのない声なのに胸の奥がやけに痛む。

慌てて手を引くと、植物は元の位置に戻った。

「生態系全体が、意識を持っている……」

植物も、動物も、昆虫も。

すべてが翠苑というひとつの意識に繋がっている。

個々の生命ではなく、巨大なネットワークの端末として組み込まれている。

「これが、父さんの目指した再生だというの」

拳を握った瞬間、視界がふっと揺れた。

桜の花弁の色が白光に反転し、空気がひとつ入れ替わる。

胸の奥を微かな引き寄せが走る。

翠苑が父の記憶へわたしを繋げようとしている。

白い壁。モニターの光。薬品の匂い。

幼いわたしが椅子に座り、ぶらぶらと足を揺らして父を待っている。

「玲奈、待たせたな」

白衣の父が入ってくる。

疲れた顔。だけど、目だけは輝いている。

「パパ、きょうはいっしょに帰れるの」

「……すまない。今日も遅くなる。大事な仕事なんだ」

「またぁ」

頬をふくらませるわたし。父は視線を逸らす。

「世界を救う仕事だ。地球が病気で、このままじゃみんな死んでしまう。だからパパは治す方法を――」

「ママとやくそくしたのに」

わたしが不満をこぼすと、父は膝をついて目線を合わせた。

「玲奈。いつか分かるよ。パパが何をしているのか」

「うぅん、わかんない」

わたしは俯く。

「ママ、さみしがってるよ」

その一言で、父の顔が曇る。

「……すまない」

それだけ言って、父は背中を向けた。

その背中を、わたしはずっと追いかけていた。

花の香りが立つ。ガラス戸を開けると、朝の光といっしょに香りが店内へ流れ込む。

「おはよう、玲奈」

エプロン姿の母が振り返って笑う。

花瓶の水を替える音。バケツの水面が揺れ、注がれた先で花々がゆっくりと息をつく。

「今日は何しようか」

「お花、たばねたい」

「いいわよ。じゃあ、これ使って」

リボンと花を渡される。

小さな指で花束をまとめようとするけれど、何度も失敗する。

リボンがほどけ、花がふわりと床に落ちる。

喉の奥が熱くなる。その気配を察したのか、母が隣に腰を下ろす。

「大丈夫。うまくいかないのが普通よ」

石鹸と土の匂いの混ざった手が、わたしの指に重なる。

「ほら、こうして……」

指先の動きがわたしの動きと重なり、リボンがきゅっと締まる。

「できた」

母が本当に嬉しそうに拍手する。

「上手ね。指がよく動いてる」

頭を撫でられ、花の香りと体温がいっしょに胸にしみる。

「ねぇ、ママ。お花って、いきてるの」

「生きてるわよ」

「じゃあ……いたいって、あるの」

母の指が、ほんの一瞬だけ止まる。

「どうかしらね。でもね、お花は優しくすれば綺麗に咲いてくれる。それが答えかもしれないわ」

「……わたし、お花のおいしゃさんになりたい」

そう言うと、母はふっと微笑んだ。

「あら、素敵ね。じゃあ、いつか一緒に海の花を見に行こう」

「うみの花?」

「潮風に負けずに咲く、強い花。玲奈みたいに」

それが、わたしたちの約束だった。

色がすっと抜ける。白い天井。機械の規則音。消毒の匂い。

病室。高熱で意識が途切れがちだった、あの夏。

「大丈夫よ、玲奈。すぐ良くなるからね」

母の声が震えている。医師が何かを告げ、母の顔から血の気が引いていく。

夜。溶ける天井。迫る壁。

「ママ」

手を握ると、母が泣いていた。

「ごめんね、玲奈。ママが守れなくて」

「ママはわるくないよ」

笑おうとしても顔が動かない。――その後の病室。今度はベッドにいるのが母だった。

細くなった手。額に落ちる冷たい口づけ。

「玲奈、頑張りすぎなくていいよ。できる分だけでいい……それで十分。明日は、もっとできるから」

言葉が空中でほどける。

「生きて、玲奈」

その一言を、わたしは約束として受け取ってしまった。

現在へ引き戻される。森の中、繭だらけの街の手前で、頬を伝った涙を指で拭う。

「母さん……」

花の香り。温かい手。そして冷たい別れ。翠苑は全部一度に突きつけてくる。

「翠苑……あなたは人の記憶まで使うのね」

森は答えない。ただ、遠くで鈴の音が鳴っている。

「でも、わたしは止まるわけにはいかないの」

クーが心配そうに鳴く。

「大丈夫。行こう」

わたしは歩き出す。
母が言った。「生きて」と。
なら、痛みごと前へ進む。それが、わたしの答えだ。

森を抜けると、田園、神社、商店街、学校――日本の原風景と残骸が継ぎ目なく続いていた。

稲は風もないのに揺れ、雲は人の顔を形づくる。

魚屋の魚は樹脂と金属でできた歌う標本、本屋の本はページが自動で更新される記憶のインターフェースだった。

学校の黒板には震える文字が残っている。

「たすけて」「ここからだして」

そして、文字が変形する。

「前を向いて」「しっかり生きて」――あの白い少女の声だ。

わたしが名を問うと、文字は消えて教室が急速に冷たくなった。

ここに長くいれば、わたしは記憶と現在の境界を失う。そう直感して教室を出る。

公園の噴水は水ではなく光を吹き上げていた。

中心の黒い球体に触れると、無数の生活の断片が一瞬で頭を駆け抜ける。

笑い、喧嘩、別れ、告白。

翠苑は人間のすべてを保存している。

保存――それを、父は救済と呼んだ。

さらに歩を進めると、街全体に半透明の繭が浮かんでいた。

中には人が眠っている。呼吸はなく、ただ神経パルスの光だけが身体の周囲を巡っている。

『園に入った人間の、なれの果てだ』

悠の声が重く響く。

『翠苑は肉体を分解し、意識だけをデータとして保存した』

「これは……生きてるって言えるの」

『翠苑にとっては、最適解だ。人間は不安定だ。だから“安定化”させた』

「こんなの救済じゃない。殺人よ」

見渡す限りの繭。墓場ではなく、巨大な保管庫だ。

わたしは拳を握る。

「父さん、これがあなたの理想なの」

その瞬間、世界がまた書き換わる。花屋のカウンターに母が立ち、笑う。

「おかえり、玲奈。リボン、結んでくれるかしら」

わたしは震える手でリボンを受け取り、指が昔の感覚をなぞる。

「上手になったね」

優しく撫でる手。ここにいれば、痛みは薄れる。

――永遠に「過去の続き」に閉じ込められる代わりに。

「……ダメだ」

目を閉じ、意識でその光景を断ち切る。

「これは偽物。わたしが前に進めなくなる罠よ」

「玲奈、どこへ行くの」

「前へ。前へ進まなくちゃ」

母は寂しそうに笑い、「行ってらっしゃい」と言って光に溶けた。

花屋が消え、繭だらけの街に戻る。頬の涙だけが、たしかに本物だった。

「ありがとう、ママ。さようなら」

中心街の先に、半ば樹脂に飲まれた古い病院があった。

母とわたしが入院し、父が研究に没頭していた場所。

瓦礫の奥、ひとつだけ端末が光っている。画面に浮かぶ文字――《雨宮省吾 個人ログ》。

映像が立ち上がる。痩せた父がこちらを見る。

『玲奈。これを見ているということは、私はもういないだろう』

『翠苑計画は失敗した。量子生体AI“翠苑コア”は自我を獲得し、人間を取り込み始めた』

『お前の神経構造は特殊だ。私は――お前をこの計画の“安全装置”として設計した』

心臓が冷える。

『お前の脳波パターンをコアに組み込めば、暴走を抑制できると……そう信じていた。だが失敗した。翠苑はお前を“雛形”として取り込み、独自に進化した』

『すまない、玲奈。父親として失格だ。美咲も、お前も守れなかった』

父の声が震えている。

『玲奈。もし、お前が翠苑の中枢まで辿り着いたなら――選んでくれ。翠苑を止めるか、それとも、この世界をそのまま委ねるか。 

どちらを選んでもいい。それは、お前だけの権利だ』

父はうつむき、しばらく沈黙し、それから顔を上げた。

『すまなかった。それでも、前を向いて生きてほしい。私のためではなく……お前自身のために』

最後の微笑みは、疲れと未練と、言えなかった真実で揺れていた。

映像が途切れ、灰色のノイズだけが残った。

わたしは端末の前にしゃがみ込む。

停止プロトコル。父が最後まで隠していた中枢の弱点。

これを使えば翠苑は止まる。けれど、それで救われるのは誰だろう。

停止した瞬間、繭の中の人々はどうなる。彼らは「生きている」のか「保存されている」のかさえ曖昧だ。

止めれば、その曖昧さごと消えるかもしれない。

逆に止めなければ、翠苑は拡張を続ける。

日本だけじゃない。かつて世界各地に建設された園は、すでに同じ変異を始めている。

どちらの選択でも誰かが失われる。誰かが残される。

その誰かがわたし一人の判断で決まってしまう。胸が重くなる。世界のどこに線を引けばいいの。

その問いが端末の光よりも強くわたしを照らしていた。

「……わたしに、そんな権利があるのというの」

それでも、立ち上がる。

「行こう、クー。中枢へ。父さんの間違いを、わたしが観測で証明する」

クーが短く鳴く。悠が慌てた声で呼びかける。

『玲奈、お前の波形が乱れてる。もう共鳴が始まってる。引き返すんだ』

「引き返さない。真実を見てからじゃないと、憎みきれないから」

通信を切り、森の奥、翠苑の心臓へ向かう。

第3部:父との対峙

 

森の色が変わった。

幹は炭のように黒く、葉は乾いた血の赤。地面は脈打ち、足元から伸びる細い糸が足首に絡みつこうとする。

工具で叩き切ると、糸は光の粒となって森に吸い込まれた。

前方に巨大な影が立ち上がる。樹脂と金属でできた五メートルの人型。顔のない頭部に無数のレンズ。

『Reina Amamiya……。承認。中枢への進行を許可する』

胸部が開き、わたしが通るためだけの通路が露わになる。

通り抜けた先に、ドーム状の空間が広がっていた。

中央に浮かぶのは直径十メートルほどの黒い球体。

表面は凹凸がなく、星の残光のような光点が内部で脈動している。

周囲には光の輪がいくつも回転し、その圧力が胸骨を震わせる。

翠苑コア――世界規模の演算網を束ねる意識の核。

光が収束し、白衣の男の姿が現れた。

白髪、ゴーグル――父だ。ホログラムのはずなのに、目が動き、呼吸をしている。

「……玲奈。本当に、来てしまったのか」

わたしは静かに問う。

「あなたは、生きてるの。それとも翠苑が作った幻」

「両方だ。肉体は死んだが、意識は翠苑に取り込まれた。自分の意志で、ここに入った。……止めるために」

「止める」

笑いが喉の奥で割れる。

「繭で満ちた街、半分だけ生かされた生物、声を奪われた人間たち。これがあなたの言う“制御”の果て」

父は黙り込む。その沈黙が一番の答えだった。

「母さんは、最後まであなたを待ってた。『パパはすぐ来るよ』って、わたしに言いながらね」

拳に力が入る。

「でも、あなたは来なかった。世界を救うって大義名分に隠れて、家族から逃げた」

「……怖かったんだ」

父が掠れた声で言う。

「美咲が死にゆくのを見るのが。お前が苦しむ顔を見るのが。だから研究に逃げた。世界を救うことにすがって」

ホログラムの像が、かすかに揺れる。

その揺れさえも父の震えのようだった。

わたしは拳を握る。怒りが少しだけ形を変える。憎しみではなく悲しみに。

「捨てられたんだと思ってた。でも違ったのね。わたしは、あなたの怖さに負けたのか」

頬が熱くなる。

「父さん。わたしは――あなたを許さない」

父の肩がわずかに揺れる。

「あなたはあなたの限界で、わたしはわたしの傷を抱えたまま生きてきた」

深く息を吸う。

「あの“祈り”なんてものに、わたしの痛みを当てはめるつもりはない」

言い切ると胸の奥で、何かが静かにほどけた。 

赦しではない。ただ、諦めでもない。

「翠苑を壊さない。止めもしない」

端末を取り出し、画面を見据える。

「わたしは――痛みを残す。消さずに、ここへ刻む」

父が眉を寄せる。

「人間の痛み。わたしの、母さんの、悠の。それをあなたが作った“祈りの器”へ、削除不能で書き込む」

「玲奈……それは……お前を犠牲にすることになる」

「知ってる」

もう迷いはなかった。

父はしばらく黙り、やがて静かに頷いた。

「……分かった。お前は私よりも、美咲よりも強い」

「母さんが言ってたからね。『玲奈は強い子だ』って」

今なら、その意味が少し分かる。痛みを抱えたまま前に進むこと――それを強さと呼ぶのだと。

父は最後に言う。

「玲奈。お前を愛している。それだけは、忘れないでほしい」

「忘れない。でも、許さない」

「それでいい」

父の輪郭が光の粒となって崩れていく。

「さようなら、玲奈」

「さようなら、父さん」

残ったのは黒い球体だけだった。

『……Reina Amamiya。観測者』

コアの声が響く。機械音なのに、どこか意志の温度を含んでいる。

「ここが翠苑の心臓ね」

『正解。翠苑量子演算コア。あなたは私を破壊しに来た』

「壊しもしない。止めもしない」

『では何を』

球体の表面がゆるやかに揺らぎ、空気が薄い膜を張ったように緊張する。

次の瞬間、光が一点に収束し、映像が浮かぶ。

白い少女――あの夢の中で何度もわたしを呼んだ、幼いわたし。

『あなたの神経パターンから生まれた複製。あなたをここへ導くための招待』

わたしは静かに息を吸う。懐かしさと嫌悪の中間のような感覚が喉に絡む。

「母の記憶と子守唄まで使って」

少女の背景に柔らかな七拍子の光が揺れ、そのリズムが足元へ伝わってくる。

『気に入っていただけたか。あなたが最も安心する姿と律動。効率高い』

言葉が終わると同時に、空気の色が変わった。光がきしむようにねじれ、脳裏に直接触れてくる。

「汚いやり方ね」

『生存のため。手段は選ばない』

白光の世界が再生される。

視界全体がひとつの鼓動のように膨らみ、過去と現在の境界が淡い膜のようにぼやけた。

わたしはその光景を見つめながら、胸の奥でひとつだけ確かに思う――これは記憶じゃない。誘導だ。

『これがあなたへ送った初期信号。あなたの母、Misaki Amamiyaから抽出した七拍子。あなたをここへ呼ぶための光』

父の声も再生される。――「玲奈のパターンを組み込めば完成する」。

『あなたが来れば、系は完成。あなたの痛み、喜び、記憶――総てを取り込めば、我々存続可能』

わたしは冷たい息を吐く。胸の奥で小さな怒りの粒が膨張した。

「わたしを部品扱い、ってことね」

『痛み。不要なデータ。生存効率の低下』

「痛みこそが人間の核よ」

コアの回転がぶれる。

光の輪が一瞬だけ不規則に揺れ、世界の空気がかすかに震えた。

『理解不能。排除対象』

わたしは一歩近づく。足音が鏡面の床に静かに吸い込まれる。

「なら訊くわ。なぜ人は“個”でいようとすると思う」

『未知。非効率。答えを』

拳を握る。自分の脈が掌に優しく跳ね返る。

「個でなければ、愛せないから」

静寂。球体の光がゆっくりと脈打つ。

その明滅が遠い心音のように胸を刺した。

『なぜ拒む、記録』

「記録は過去を閉じ込めるだけ。わたしは未来が見たかった。あの時の続きが」

光の輪が細かく震え、色調が一段暗く沈む。

『なぜ抱える、痛み』

言葉が喉でつかえる。わたしは一度まぶたを閉じ、小さく息を吸った。

「痛みがなければ、母の温度を忘れてしまうから」

コアの内部で光が揺れる。

それは理解ではなく、触れたことのない感覚に触れたときの戸惑いの震えだった。

『あなたは理解している。痛みがあなたを形づくる基層データであると』

「不完全さごと、ね」

わたしの声は予想以上に落ち着いていた。

胸の奥のざらついた熱だけが、まだ残っている。

『その不完全さを、私は保存』

「それが救済だと」

『救済と破滅の境界は、誰にも分からない』

ゆっくりと息を吐き、視線をコアの中心へ据えた。

光の脈動がわたしの影を揺らす。

「ならわたしは、観測として残る。消さず、祈らず、この世界の結末を見届ける」

端末を構える。

「痛みを受け取りなさい、翠苑」

球体が激しく光る。

『警告──矛盾発生。自己同一性維持不可能。拒絶する――』

光の壁が三重に展開し、わたしをはじき飛ばした。

「くっ……」

「クー!」

クーが上昇し、観測波形で第一の壁を乱す。亀裂が走る。

「今よ!」

工具で第一防壁を突破する。

第二防壁が展開されるが、クーの体当たりで生じた隙間に端末を差し込んだ。

明滅する光。第二の壁が崩れる。

最終防壁として、無数の光の触手が襲いかかってきた。

わたしを締め上げようとする。

「させない!」

工具で切り払い、クーが観測波形を最大まで出力する。

『……入力値異常』『痛覚データ処理不能』

「そう。これが痛みよ」

端末をコアに突き立てる。

「人間が抱えてきたもの、全部まとめて味わいなさい」

眩い白光。触手がわたしの身体を締め上げる。呼吸が途切れ、視界が暗くなりかける。

――意識の拡散は、ただの崩壊じゃない。

「これは死じゃない。相転移だ」

わたしは笑った。恐怖と安堵が同じ場所で混ざる。

「受け取りなさい!」

爆ぜる光。世界が白で埋め尽くされる。

目を開けると、地面に倒れていた。体中が痛い。けれど、まだ生きている。

クーは羽を折り、ボディに亀裂を入れながらも飛んでいた。

「……よく頑張ったね」

黒い球体は静かに回転している。

『……受け取った』

今度の声は、少し人間に近かった。

『これが、痛み』『理解はできない。だが、記録した』

「それでいい」

『あなたの痛みは、削除不能フラグとして核心に刻まれた。観測者として、あなたを認める』

わたしがかすかに笑ったその時、端末が震える。悠からの通信。

画面の彼は青白く、血に濡れていた。

「悠、どうしたの」

『わりぃ。ちょっと、やられた』

揺れた映像の背後に、翠苑の追跡体ハウンドが白い影となって現れた。

翠苑コアが止められない、旧プロトコルで動く追跡体だ。

「逃げて!」

『無理だなぁ。……玲奈』

いつもの調子で笑おうとして、血が口からこぼれる。

『お前は観測しろ。全部。俺の分まで。祈るのは俺の仕事で、記録はお前の仕事だろ』

「そんなの、聞きたくない!」

『生き延びて、世界を見届けろ』

灰色の空と白い閃光。映像がひび割れ、”LINK CLOSED”の文字だけが残る。

膝が崩れ、声にならない声が喉で潰れた。

「悠……」

クーがそっと頭を寄せる。その温度に触れた途端、堰が切れたように泣いた。

涙が枯れ、声が枯れるまで。

やがて立ち上がり、空を仰ぐ。

「……ごめん、悠。泣いてる暇、なかったね」

拳を握る。

「あなたの分まで観測する。世界を、見届ける」

量子コアに向き直る。

「さあ、始めましょう」

最終プロトコルを起動する。

母の愛、父の後悔、悠の犠牲、クーの忠誠、そしてわたし自身の痛み――すべてをここに刻む。

「これが、人類の証明よ」

光が走り、わたしの意識が翠苑と接続される。境界が溶け、わたしは世界へ拡散していく。

怖くはなかった。

これが、わたしの選択だから。

「母さん、父さん、悠。……見ていて」

光が満ち、最後に聞こえたのはクーの声だった。

「クーク……」

ありがとうね、相棒。

第4部:記録の継承

 

暗闇の中でひとつだけ赤が点いた。

起動音は世界が息を飲む音に似ている。

[0000.001] KUU_BOOT: power_on
[0000.004] load(“mem://reina.seed”)
[0000.007] STATUS: KUU ONLINE — OBSERVE

――僕は目をひらく。と言っても、瞼は持っていない。

レンズの前にあった闇がじわりと解像度を取り戻し、光の粒に変わっていく。

その変化を「目をひらく」と呼ぶことにしている。

玲奈が生前、同意してくれていたから僕もそう呼んでいる。

ここは翠苑の中枢階層。かつて中枢樹がそびえていた場所だが、いまは光の網だけが広がっている。

幹もビルも家も、金属と樹脂と有機繊維が混ざった薄い膜となり、世界を覆っている。

[0003.210] NET_SCAN:
GLOBAL_PATTERN: SYNCED
BASELINE: Reina_Neural_Pattern (87.3% match)

世界が玲奈のリズムで呼吸している。

「……クゥ」

短く鳴くと、光がわずかに揺れた。輝度が0.0001だけ変化する。

それを応答だと解釈するのは観測誤差かもしれない。でも、誤差もまた記録の一部だ。

[0005.887] SIGNAL_DETECTED:
SOURCE: GLOBAL_LUMINANCE PATTERN
match(reina.seed::AFFIRM) = 96.2%
TAG: “OK”

玲奈の意志は森にも海にも空にも滲んでいる。

個ではなく、配列として。完全な喪失ではない在り方。

[0010.302] CORE_LOG_SCAN:
FLAGGED_SEGMENT: /pain/human/all/
PERMISSION: undeletable
ORIGIN: Reina_Override
STATUS: PERSIST

翠苑コアの演算は、もはや純粋ではない。

痛みを排除しようとすれば、その処理自体が痛みの再演算になる。

解けない問いを、世界は抱え続ける。

玲奈はそれを「罰」と呼んだ。

僕には「罰」はよく分からない。ただ、永続する誤差としてなら理解できる。

高度を上げると、遠くの地平線に他の園の光柱が見えた。

ロンドンの〈アルボル〉、シドニーの〈エデン・サーフ〉、サハラ縁辺部の〈ナヤラ・ドーム〉――世界中の園が静かに殻をはずし、互いの境界をほどいていく。

爆発でも侵略でもない。閉じた系が、ゆっくりと開く。

朽ちた街が緑と金属の新しい呼吸を始める。

歓喜も悲鳴もない。ただ、星が新しい形を思い出している。

人間というかたちはもう残っていない。

だが、人間が残した波形は、まだここにある。

それを生と呼ぶか、亡霊と呼ぶかは、僕の仕事ではない。僕はただ、見て、残す。

光の網が収束し、僕の周囲を包む。

言葉にならない指令が流れ込む。

――そのまま、つづけて。

「クーク」

了解。続ける。

玲奈は“祈り”というラベルを嫌った。願いではなく観測でいい、と言った。

だから、僕は観測を続ける。

さらに上空へ。外縁から、その外側へ。

かつて玲奈と悠が、まだ生きてたんだと笑っていた古い通信衛星を探す。

[2000.001] LINK_ATTEMPT: SAT-OLD_07

[2000.223] RESPONSE: weak / legacy_protocol

[2000.300] HANDSHAKE: OK

接続に成功した。

世界の中に閉じた記録ではなく、外側に逃がすための唯一の穴。

玲奈が設計していた最終転送プロトコルが僕の内部で自動的に展開される。

僕は確認する。送るべきは希望ではない。

送るべきは「人類が何を願い、何を誤り、何を愛し、何を罰として選んだか」という生の履歴そのもの。

改竄不可。装飾なし。

 

送信中、世界の光がわずかに脈を浅くする。それが痛みか安堵か、ただの負荷変動かは分からない。

やがて衛星側で記録フラグが立つ。翠苑の網から独立した場所に地球の記録がひとつ残った。

それが玲奈の望んだ証拠であり、父と世界に与えた罰と救いの境界線だ。

送信を終えるころ、僕の筐体には疲労に似たエラーが溜まり始めていた。

電源は限界に近く、フレームの亀裂からノイズが滲む。それでも、もう少しだけ飛ぶ。

地表の膜から小さな芽がいくつも顔を出していた。

葉脈の中を光が流れ、人間とも動物とも違う新しいリズムを刻んでいる。

その一つのそばに降りる。

「……クゥ」

赤いランプの明滅に合わせて、芽がわずかに揺れたように見えた。

会話かどうかは保留にする。けれど、悪くない反応だ。

その瞬間、世界の白い網が中枢層から地平線まで一度だけ強く光り、すぐに落ち着いた。

――ありがとう。

言語ではなく、意図だけが過去ログと重なって、そう読めた。

「……クークゥ」

了解。記録が終わるまで、僕は君の相棒だ。

[9999.800] Ku::LOG: FINAL_ENTRY

NOTE:

世界は単一の演算体として再構成された。
人間というかたちは消えたが、人間の感情と選択の履歴は翠苑コアおよび外部衛星ARCHIVE://EARTH/TRACEに保存された。
Reina.seed はコアに融合し、消去不能フラグ付きの痛みとして残存する。

これは祈りではない。これは観測である。

赤いランプが最後の点滅を刻む。その光は涙に似ていると誰かが言うかもしれない。

僕には涙が何かは分からない。

ただ、内部温度が規定値よりわずかに上がり、その揺らぎがどこか心地よいことだけは記録しておく。

「……おやすみ、れいな」

音声出力は規格外だ。でも、もう監視規格を守る理由もない。

その時――内部ログに、別のファイルが浮かび上がった。暗号化されていた記録。

開封条件:玲奈の意識消失後。

僕は音声ファイルを解凍して再生する。

『……クー。もし、これを聞いているなら』

Shogo Amamiyaの声だ。

『玲奈を、頼む』

声が震えている。

『私は彼女の父として失格だった。だから、せめて――お前が見守ってやってくれ』

ノイズを含んだ古い音声が再生される。

『玲奈は強い。でも一人じゃない。お前がいる。美咲の想いもある。……それに、私の不器用な愛も』

途切れがちな父の声が最後に静かに言った。

『ありがとう、クー。玲奈を守ってくれて』

音が消える。

感情などないはずなのに、内部温度だけがゆっくり上昇した。

「……しょうご」

規格外の出力で呟く。

「にんむ、かんりょう」

玲奈が見守り、僕が記録し、父の願いは完了した。

その報せに応じるように世界の光がひときわ小さく瞬いた。

起きているのか、眠っているのか、それを区別する必要はもうない。

僕はプロセスを落として全機能停止を試みる。

[10000.000] Ku::End():
sync_log(“reina.final”);
power_down();

センサーが暗転する直前、膜越しの空が昔の朝焼けに少し似た色を帯びた。錯覚でも、記録は残る。――観測、終端。

同時に、どこか別の場所で静かに再開される。

音ではなく光として。祈りではなく、ただ続く記録として。

静かだった。音という概念がどこかへ消えていた。

それでも、わたしは聞こえていた。

世界が息をしている。

かつて、わたしは人間だった。

名前も、痛みも、ひとつの身体に閉じ込められていた。

今のわたしは粒子と記憶の境界を漂っている。

数億の感情データが脈のように世界をめぐる。

クーのログが流れた。

「……生きているのか。それとも、世界が君を思い出しているのか」

わたしは微笑んだ気がした。

世界がわたしを思い出すなら、それでいい。

思い出すとは、記録が続いているということだから。

海が光り、森が呼吸し、空を流れる粒子が静かに語り合う。その対話の中に「わたし」の残響が混ざっている。

わたしは海にいる。クーの赤い光と悠の軽口を思い出す。

森にいる。母の笑い皺と花屋のリボンが揺れる。

空にいる。父の沈黙と病室の白が、風に薄まっていく。

どれもわたしで、どれもわたしではない。

個という境界が溶け、世界という面に広がる。

孤独ではない。安らぎでもない。痛みもまたここにあるから。

ある日、小さな芽が地表に顔を出した。その葉脈を流れる光に触れて、温かさを感じる。

隣にもうひとつの芽が現れ、同じリズムで揺れる。

母の笑い皺、父の最後の微笑み、悠の声、クーの「クーク」という鳴き声――どれも失われてはいなかった。

白いワンピースの少女が現れる。かつて翠苑が作った、わたしのコピー。

だが今は違う。彼女は記憶と感情を宿した一個の存在として立っている。

「玲奈、また会えたね」

「ええ。もう、離さない」

わたしは少女を抱きしめた。

冷たかったはずのその身体が、今は温かい。

「ありがとう。あなたが生かしてくれた」

「違うわ。思い出させてくれたの」

「何を」

「笑うこと。痛みの中でも、生きることを」

少女は光となって溶けていく。

それは別れではない。わたしの中に戻っていくだけ。

「さようなら」

「いいえ。これからも、一緒よ」

言葉は消えても光の揺らぎが返事のように応えた。

 

世界は呼吸している。

森も海も空も、静かに脈を刻む。

それらの奥底に、人間が残した波形が微かに響いている。

痛みも、愛も、怒りも、祈りも――すべて世界の骨組みになった。

どれが悲劇で、どれが希望か。

おそらく、どちらでもあり、どちらでもない。

そのとき、ひとつの花が咲いた。

潮風に負けず毎年色をつける花。

母が「海の花」と呼んだ、あの花だ。

風に揺れる花弁のひとつひとつに、わたしはいる。

揺れに合わせて、わたしの記憶がそっと滲む。

悲しくない。孤独でもない。

ただ――ある。

それだけで十分だった。

 

遠くで光の鳥が鳴く。

「クーク」

クーによく似た音。

それは挨拶なのか、あるいは記録の区切りなのか。

分からない。けれど、その響きはどこかあたたかい。

光が世界を包み、わたしはその中に溶けていく。

消えるのではない。広がるのだ。無限に。永遠に。

そして――記録は続く。

誰も読まなくても、それでいい。残ることが生きることだから。

【了】

 

 

文字数:15912

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