残響

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梗 概

残響

戦争は終わった。だが、佐々木鉄平の耳には、まだ誰かの声が残っている。

鉄平は幼い頃から特定の音に過敏だった。恐怖は消えず、対象が変わるだけだった。今はカラスが怖く、甲高い声に脂汗が滲む。

父と山を歩き、獣を追う暮らし。銃を握れても、音への怯えは克服できなかった。音が自分を縛るのか、自分が音に縛られているのか。地球での居場所をなくした鉄平は、その問いから逃げるように軍へ志願した。

宇宙では、外縁コロニーとの戦争が続いていた。敵は低周波振動で脳を攻撃する共鳴兵器を使用。対抗すべく、鉄平らには振動を中和する「共生体」が埋め込まれた。共生体は宿主を学習し、能力強化を図る。鉄平の場合、音への怯えを異常と誤認し、敵の兵器と同質の振動として外へ漏れるようになった。共生体は鉄平の反応を学習するうちに、過去の怯えの記憶にまで根を伸ばし、共生体自身もまた音を恐れ始めた。どこまでが鉄平で、どこからが共生体なのか。

潜宙艦では静粛が絶対。音を出す鉄平は忌避されていた。ただ一人、衛生兵の誠が近づき親しくなる。靴紐を三重に結ぶ癖のある男で、鉄平のことを信頼していた。

戦闘中、鉄平の緊張が臨界を超えた。共生体が暴走し、艦内へ振動が漏れる。鉄平の危機に誠が駆け寄った瞬間、致死域の振動が放たれ、誠は崩れ落ちた。殺したのは鉄平か、共生体か。

終戦。鉄平は父のジビエ店を継ぐため帰郷する。獣を捌く音が他の音を紛れさせてくれた。

数年後、集合墓前で誠の婚約者、凛と出会う。誠の最期を問う凛に、鉄平は「すまない」としか返せなかった。やがて、凛は鉄平の店を手伝い始める。誠を知る者との日々は、安らぎと罪悪を運んだ。

しかし、凛は密かに軍の記録を調べていた。誠の死の経緯を知った凛が詰め寄る。鉄平の動揺が共生体を震わせ、凛の声が遠のいていく。鉄平が落ち着いた頃には、凛の姿はなかった。

軍の解体により、共生体の除去が可能になったことを知る。だが、摘出後、自分はまだ自分でいられるのか。

手術の前夜、耳の奥で声がした。

「いなくなるのは、嫌だ!」

誰の声か分からないまま、震えが止まらなかった。そのとき、かき消されていた凛の言葉が響いた。

「あなたは誠に似ている。ずっと隣にいたかった」

受け止めきれないまま、除去を決めた。

数秒ののち、静寂だけが残る。

翌朝、カラスが鳴く。身体が強張るも、以前のような緊張はない。代わりに、昔克服した風の音が気になった。恐怖が消えたのではなく、最初からやり直しているようだった。

靴紐を三重に結び、店へ向かう。いつからか、誠の癖が移っていた。

「仕込み、始めますね」

凛の声が聞こえた気がした。

包丁の金属が、かすかに鳴る。音は消えない。怯えも消えない。

鉄平は包丁を握り直す。

「誠なら笑うだろうな。お前が店に立つのかって」

誰かが笑った気がした。凛か。自分か。それとも、まだ残っている何かか。

恐怖も笑いも混ざったまま、今日が動き出す。

文字数:1200

内容に関するアピール

私はミソフォニア(音嫌悪症)の当事者です。特定の音に対して怯えや嫌悪を感じ、脳が勝手に反応して逃避行動に移る。3歳の頃からこの症状と向き合う中で思うことがあります。その音に対する恐怖を克服しても症状は消えない。恐怖の対象が身近な別の音に移動してさらに怖くなるだけではないかと。

本作はその体験をSFに昇華しました。「共生体」という生体兵器は私自身の脳の比喩です。元々自分に備わっている脳の一部なのか、自分に寄生する他者なのか。共生体は鉄平の恐怖を学び、自らも恐れ始める。その共鳴が誠を殺しました。

本作で問いたかったのは存在論的な問いです。共生体を除去した鉄平は、除去前と同じ人間か。仲間を殺めてしまった自分は、手術で消えるのか、残るのか。

結局、恐怖は消えません。それでも、今の自分を受け入れて共に生きる道を探っていきます。ちなみに、鉄平が怖がる音の対象(カラス)と衝動は今の自分とリンクさせています。

文字数:400

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残響

1

戦争は終わった。だが俺の耳には、まだ誰かの声が残っている。

カラスが一声鳴くだけで、身体が先に固まる。父と山を歩いていた頃から、そういう耳だった。

山梨県、山裾の旧道沿いにあるジビエ精肉店『もりた』。シャッターを上げる朝は外の音が少ない。そのぶん、店の中の小さな音まで拾ってしまう。玄関の鍵に指をかけようとするが、止めた。――余計な確認をするな。俺は頭の中で言い聞かせる。

棚の端に置いた耳栓を取る。指先でつまんだときの感触が昨日と同じなら、大丈夫だ。

右、左に耳栓を押し込む。奥まで押し込まない。入れすぎると外からの音が静かになりすぎて、代わりに内側の音がうるさくなる。

入れ終えた瞬間、いつもの“残り”が混じる。

「……大丈夫ですか」

外の音じゃない。頭蓋の内側に落ちる、息を含んだような声だ。息を吐いて、余計なことを考える前に手を動かした。

作業場に回り、包丁を取り出す。砥石を濡らして刃を当てる。シャッ、シャッ、と薄い音が積み重なる。自分が操る音は、嘘がない。聞いていても怖くはない。

冷蔵庫を開けて鹿肉の塊を台に移すと、背後から声がした。

「おはようさん。さっきから呼んでるんだが、また耳栓してるのか」

振り向くと、近所の猟師仲間の男が立っていた。帽子を取って、にやりと笑う。

「相変わらず厄介な病気だな。今日は猪、入るかい」
「いらねぇ。鹿だけでいい」
「へっ、おまけに愛想もねえってか」

男は笑い、店先の貼り紙に目をやった。「本日臨時休業」。俺の字は、いつも荒い。

「また、あそこに行くのか。休みの日はいっつも同じだな」
その一言で、耳の奥が熱を持った。ただの世間話なのに、行き先を当てられると身体が先に構える。

「用事だ」
「用事って何だよ」
「用事は用事」

男は肩をすくめ、「じゃ、またな」と去っていく。足音が砂利に吸われ、遠ざかる。

作業台の端に、樹脂のケースを見た。軍の刻印は古いのに、素材だけが新しい、蓋付きの箱だ。

開けない、と決めている。決めているのに視線だけが寄ってしまう。

地球で居場所をなくして、逃げるように志願した先で――俺はこれを渡された。

箱の側面に貼られた小さな札が目に入る。

遠藤 誠

読むつもりもなく、読んでしまった。

胸の奥で、さっきの声の余韻が擦れる。言葉にならないまま、耳の奥に残っている。俺は包丁を握り直し、低く吐き捨てた。

「……俺に構うな」

胸の奥がざわつく前に、刃をもう一度砥石に当てた。静かになりすぎると、聞こえちゃいけない声が、先に来る。

2

中央線の車内は朝から混んでいた。
イヤホンじゃなく耳栓を入れる。雑音は丸くなるが、車輪の振動だけは骨に残る。

甲府から東京まで、特急で一時間半。軌道エレベータの広告が窓に流れていく。
行きは短い。帰りは長い。毎回そうだ。

都営の合同慰霊碑は東京の外れにある。石段を上がると、管理棟から係員が顔を出した。

「ご参拝ですか」
「ああ」
「お花は――」
「……いらん」

言い切ったあとで、喉が乾いた。

係員が一瞬止まって、「失礼しました」と頭を下げる。俺も頷いて先へ行った。

壁に名前が並ぶ。

見慣れた字面を探すだけなのに、指先が冷える。

遠藤 誠

見つけた瞬間、息がひとつ引っかかった。

今日は謝りに来たわけじゃない。謝ったら、許しを乞う形になる。俺はそんな柄じゃない。でも、来ないままだと俺のほうが壊れるような気がする。石の前に立つ。手は合わせる。祈りじゃない。手を合わせていると、呼吸が整う。

――終わった。帰ろう

そう思って踵を返しかけたところで、台座の脇に花束が見えた。新しい。花弁がまだ乾いていない。根元に、名刺大のカードが添えてあり、走り書きの名前。

一条 凛

知らない名前だ。指が勝手に伸びて、途中で止まった。

読んだだけで、余計なことに巻き込まれそうな気がした。遠くで係員が咳払いをした。肩が勝手に反応する。俺はカードから目を外して、背を向けて石段を下りた。

帰りの特急は空いていた。窓に自分の顔が映る。顔はぼんやりして、他人みたいだ。

“一条 凛”だけが、頭の奥に残ったまま動かなかった。

3

店の前に、見慣れない車が停まっていた。塗装が新しく、旧道の埃だけが浮いている。

シャッター脇を通りかかると、女が一歩前に出た。黒いコート。髪をまとめ、目元だけが妙にくっきりしている。泣き腫らした赤じゃない。乾いた涙の跡が影になっていた。

女は先に頭を下げた。呼吸が乱れていない。

「森田さん」

名前を呼ばれた瞬間、息がひとつ浅くなった。指が耳栓へ走る。抜けていないか、触れて確かめるだけだ。

「……誰だ」
「一条凛です。――遠藤誠の婚約者でした」

「でした」が喉に引っかかった。過去形ひとつで、ここにあるものが全部“戻らない側”に押しやられる。俺は息を吐いて、言葉を選ぶ時間だけ作った。

「それで……何しに来た」
「話がしたいです」
「電話でいいだろ」
「電話だと、切って逃げるでしょ」
笑うより先に、息が漏れた。
鍵束を握り、余計なことを考えないよう手を止める。
「商売の邪魔だ。とっとと帰れ」
「お願いです。ここで終わらせないでください」
一瞬、目の焦点が外れた。瞬きで押し戻す。

「……入れ。外で騒がれても困る」

驚くほど、普通の声が出た。

凛は頷いた。戸を開ける音を最小にして、靴を揃える。余計な音を立てない。

それだけで、肩の強張りが少しだけほどけた。

座敷に通すと、凛は鞄から白い封筒を取り出し、畳の上に置いた。角が揃いすぎて、畳の目が乱れる。

「これは、何だ」
凛は封筒から目を離したまま、低い声で言った。

「……あの人のこと、知りたいんです」

耳の奥が熱くなる。沈黙が伸びた。伸びるほど、内側が騒ぎ出す。息を含んだあの声が、喉の裏側で形を取りかける。

――大丈夫ですか。

俺は唾を飲み込み、声を出さない。

凛は俺の顔を見て、 初めて視線を揺らし、ほんの少しだけ眉を寄せた。

「……辛そうですね」

その言い方が、あの声に似ていた。似ているだけで別物のはずなのに、奥歯が浮いた。

「……何も聞くな」

言ったあとで、自分が一番聞かれたがっているのが分かって腹が立つ。

誠の名前を知る人間が、目の前に座っている。

それだけで、内側の“残り”は言葉にならないまま、ほんの少しだけ遠のいた。

4

凛は最初の夜から「泊めてください」とは言わなかった。
風呂を借りるときも、台所を使うときも、必要最低限なことだけを言う。遠慮というより、手順みたいだった。

先に折れたのは俺の方だ。

「……二階、布団あったか」

「あります」

「飯は――」

凛は一拍置いて答えた。

「作りましょうか」

「……勝手にしろ」

凛は「はい」とだけ返して台所に立った。包丁や鍋を使っていても、音を殺す。俺は座敷で茶を飲みながら、背中でその気配を追っていた。

その夜の味噌汁は普通の味だった。思い出の味でも、慰めの味でもない。ただの味。嫌な問いも、余計な音も増えなくて安心する。

「お塩、足りますか」

凛が聞いた瞬間、箸が止まった。

「……足りる。いちいち聞くな」

「聞かないと分からないので」

「分からなくていい」

凛は「そうですか」と引いた。引き際が早い。俺の周りには、善意で踏み込んでくる奴が多かった。善意は扱いにくい。断るたびに、こっちが悪者になる。

翌朝から、店の流れが変わった。

俺が裏で解体台を洗っていると、凛が表のガラスを拭く。
俺が肉を吊るすと、凛がトレーを並べる。
声をかけなくても、次の手が自然につながる。

「……お前、店で働いてたのか」

「いいえ。やっていませんよ」

凛は包丁を洗いながら返した。

「慣れてると、考えなくて済むから」

「考えなくて済むだと。おいおい、今刃物持ってんだぞ」

「危ないのは、考えすぎて手が止まるほうです」

「……俺のこと言ってんのか」

「言ってません。そう見えるだけです」

俺は返す言葉を失った。凛の言うことが、腹立つくらい正しいように聞こえた。

「……お前も、音が嫌いなのか」

凛は首を振る。

「嫌いじゃないです。ただ――届かない相手がいるのは、嫌です」

その言葉を飲み込んだまま、昼の客が来た。

近所の年配の男が、鹿の薄切りを指差す。

「てっちゃん、今日は鍋にするから、肉は薄めに頼むよ」

「薄めな」

包丁を入れて肉を捌く。凛がトレーを差し出す。俺が並べる。凛がラップをかける。レジを打つ。釣り銭の硬貨を、凛が先に揃える。

細かい段取りが、いつの間にか二人分になっていた。

客が去ったあと、俺は椅子に腰を下ろした。

「……こういうの、久しぶりだ」

「何がですか」

「店が、店になってる」

凛は少しだけ目を伏せた。

「誠も、似たようなこと言ってました」

俺の指が止まった。膝の上で、力の入れどころが分からなくなる。

「……何て」

凛は一拍だけ迷って、言葉を選ぶみたいに続けた。

「“段取りが揃うと、頭が静かになる”って。……森田さんの手元は迷わない、って」

言い終えた瞬間、凛は踏み込みすぎたと気づいたみたいに息を飲んだ。

「ごめんなさい。言わない方がよかったですね」

「……謝るな」

凛は黙った。

助かったのに、癪にさわる。それでも、胸の奥が少しだけ落ち着いたままだった。

5

凛が家に来てから、胸の奥が落ち着いていた。

その安心に甘えて、棚に手を伸ばして——止まった。

棚の端に置いたはずの耳栓が見当たらない。

不安がよぎった瞬間、胸の奥がざわついた。指先だけが先にせわしなくなる。

「……大丈夫ですか」

あの声が聞こえた気がした。俺は息を吐いて、探す手を止めなかった。

耳栓は棚の奥、救急箱の影に紛れていた。

それでも、息が戻らず、苦しくなる。

台所から凛の声がした。

「森田さん。予備、ここに置いておきます」

振り向くと、机の端に白い小袋がそっと置かれていた。新品の耳栓だ。

「……買ったのか」

「はい」

「勝手に——」

言いかけて止めた。

助けられたのが癪で、でも助かったのも本当で、言葉が行き場をなくす。

凛は淡々と言う。

「探してるとき、指が震えてました」

「……見てたのか」

「見えます。そういうの。あなたには、それが必要だと思ったから」

俺は鼻で笑った。笑ったぶんだけ、気持ちが軽くなる。

「必要って言うな。俺が弱いみたいだろ」

凛がほんの少しだけ口角を上げた。

「弱いです」

「おい」

「でも、それで死なないならいいです」

“死なないなら”。

慰められるより、ずっと助かった。俺は慰めに噛みつく人間だ。

耳栓を入れながら、俺は言った。

「お前、口悪いな」

「森田さんが先です」

「そうかよ」

「はい」

そこで会話は途切れた。

途切れたのに、胸の奥が穏やかだった。——あの声は、来ない。

その日の昼、肉を切りながら、ふいに口が動いた。

「お前、東京には戻らねえのか」

凛は包丁を洗い、手を拭きながら言った。

「戻りません」

「誠の……思い出、あるだろ」

「あります」

「じゃあ——」

凛が俺を見る。視線がぶれない。

「だから戻りません」

俺は何も言えず、包丁を握り直した。

金属が小さく鳴った。嫌な音じゃない。その音が、いつもよりやさしく聞こえた。

6

閉店後、外の旧道の音が遠のくと、家の中の静けさが目立ってくる。

冷蔵庫の低い唸りが床を這う。洗剤の匂いが残っていて、指先に獣脂のぬめりだけがしつこく残る。俺は奥の棚の前に立っていた。
鍵付きの薄い戸棚。そのいちばん下に、軍の刻印が残る樹脂のケースがひとつ、奥へ押し込まれている。

凛は普段ここに寄らない。触る前に一言聞く。勝手に開けるようなことはしない。
その凛が、戸棚の前で足を止めた。

「……これ、見てもいいですか」

凛の声は小さい。断れるはずなのに、喉の奥で言葉が引っかかった。

「何を」

「箱の中。誠のものがあるなら」

その名前が出た瞬間、体が先に動いた。俺は耳栓に指を当てて、すぐ離す。

抜けてない。――これを確かめてからじゃないと、言葉が返せない。

「……そいつに触るな」

言い方が荒くなる。凛は顔色を変えずに頷いた。

「触りません。見るだけです」

「中身は俺が出す。お前は見てろ」

「分かりました」

凛は一歩引いた。戸棚には手を伸ばさない。俺が鍵を回し、箱を引きずり出す。

除隊の日、監察の事務員が言った。
「遠藤と仲良かったよな。これは保全扱いだ」
受領のサインだけさせられて、そのままここへ押し込んだ。中は一度も確かめていない。

蓋を開けてみると、いちばん上に薄いクリアファイルがあった。付箋が短く切られて何枚も貼られている。紙の角が少し波打っていて、何度も開閉された跡が残っている。

「それ、何だ」

俺が問うても、凛は答えない。

彼女はファイルから一枚だけ抜いた。旧軍事病院の照会票の写しだ。宛名欄に「遠藤 誠」とある。凛の指先に印の朱が移り、親指で一度だけ拭う。

「……どこまで調べた」

「彼の記録が残っていそうな場所を、回りました」

それ以上は何も言わず、紙だけは迷わずめくる。

箱の中には、他にも三つの書類があった。衛生兵手帳のコピー。

時刻:23:46
呼吸:×
死因:振動性神経停止
呼名:森田鉄平

俺はそこだけ見て、視線を外した。数字が先に目に刺さる。

次に、応急処置メモが書かれた手帳だ。
走り書き。遠藤の字だと分かる。あいつの字は線が細いのに、結びが強い。

三行だけ、はっきり読める形で残っていた。

「靴紐は三重。――近づくな」
「それでも来た。止められなかった」
「呼吸、止まる 23:46」

凛の指がその三行のところで止まった。

「森田さん、ここの、サイン見えましたか」

それは署名のことではない。三重に結ぶ癖、包帯を巻く癖。遠藤が俺にだけ分かる形で残した“合図”だ。背中が一瞬だけ冷え、反射で言葉が出る。

「返せ。もう触るな」

凛は引かない。押し返す言葉も足さない。ファイルを閉じる音だけを殺して、角を押さえたまま言った。

「見えないなら、見えるまで、私が拾います」

拾う、という言い方が腹に残った。

俺は箱の中に目を落とす。名札、古い手帳、包帯の切れ端。軽いものばかりだ。軽いのに、持ち上げる指が重い。目立たない場所へ隠すように押し込んできた。

「……やめろ」

声が弱くなるのが分かる。

凛はファイルを抱えたまま、俺を見た。もう決めた顔だった。

「やめません」

そう言って、ファイルを棚の上に置いた。付箋が剥がれないように、角が乱れないように、きっちり揃えて。

凛は戸棚を閉め、鍵には触れずに戻っていく。

俺だけが鍵に手を伸ばしそうになって――途中で止めた。
凛がいると落ち着いていられる。その事実を、今日は認めたくなかった。

7

通知は、紙で来た。
角ばったクラフトの封筒。差出人に軍の部署名が印字されているだけで、指先が落ち着かない。差出住所へ視線が滑ると「2丁目3-4 ●●病院6号館」という記載があった。その並びが引っかかり、頭の内側で数字が勝手に並ぶ。

23:46

凛は何も言わず、台所で湯を沸かしていた。やかんが鳴く前に火を止める。気を遣われているのは分かるのに、段取りを先に握られる感じがして背中が冷えた。

背中越しに、凛が聞いてきた。

「……開けないんですか」

「開けたら、手術の日が決まる。そうなれば、逃げる理由が減る。やるしかなくなる」

「それなら、区切りをつけたほうがいいです」

俺はため息をついて、封を切った。裂ける音が、外の静けさの上を薄く滑っていく。耳栓で塞いでいるはずなのに、胸の内側だけが勝手に反応した。

“共生体除去術 適応判定済み”

“共生体識別番号:AX-002”

“実施可能”

“第一次実施期間:二〇××年×月×日~二〇××年×月×日”

“受付:東京都■■区▲▲ ●●病院 外来手術センター(旧軍事病院)”

“持参:本人確認書類/同意書”

字面が事務的すぎる。その分、断る余地が消えていく。

「外来手術センター」の文字で、白い廊下を思い出させる。金属の光。番号札。無機質な声。俺は紙を机に戻して、短く言った。

「……東京だ」

凛は湯呑みを二つ置いた。

「私も、行きます」

「お前がか。行く必要はない」

「いいえ。付き添わせてください」

凛は理由を言わない。だから俺は、反論する前に首だけが頷いてしまう。その動きが、自分でも気に入らない。

「しばらく店を閉める」

「休業の貼り紙、書きますね」

「いや、俺が書く」

凛は一拍置いて、声を落とした。

「……逃げないでくださいね」

笑いそうになって、笑えなかった。そう言われるほど逃げたくなる。だが、逃げる場所がもう残っていないのも分かっている。

「……逃げねえよ」

口にした瞬間、引き返せないと分かった。言った以上、俺は行く。

凛は机の上の通知を見ないまま、言った。

「期限があるのは、いいことです」

「何がだ」

「これで、やっと終わらせられる……。当日、私が車を出します」

「どこへ」――そう聞いたら、もう完全に相手の段取りに乗る。俺は聞かなかった。

届いた紙は机の上で、ただ整っている。整いすぎて、断る余地がない気がした。

8

東京のホテルは白かった。
白い壁が音を逃がさない。絨毯の足音さえ、薄く跳ね返ってくる。

チェックインを済ませ、カードキーを受け取る。

廊下を歩くと、凛の靴音がほとんどしない。わざとだ。俺の耳に触れないように、音を殺している。ありがたいはずなのに、先回りされているみたいで落ち着かない。

呼吸の置き場がなくなる。目が焦って、部屋番号の数字が少しずれて見えた。

部屋の前で立ち止まり、カードキーを差し込む。

赤いランプ。
抜く。
もう一度差し込む。

赤いランプ。

俺は扉の数字を何度も確かめた。確かめた手応えだけあって、数字そのものが頭に入ってこない。
抜く。指がキーの角を強く押さえる。

「何してるんですか」

凛の声は小さいが、廊下が反響して声が太くなる。

「反応が遅い」

「さっきからずっと赤です」

俺はもう一度差し込んだ。三度目。

赤いランプ。

抜く。息を吐き、舌打ちを抑える。

「……カードが悪い」

言い訳だと分かっているのに、口が勝手にそう言ってしまう。

凛は距離を保ったまま、受付で渡された紙を確認する。

「この部屋では、ないみたいですね」

その一言で、身体が固まった。確かめてきたはずの数字が、頭の中でまとめてずれる。
胸の奥が、ざわっと波打った。
問われる気配がしたが、凛は何も言わなかった。
ただ、俺に部屋の番号が書かれた紙を渡して、一歩だけ下がる。逃げ道を残すみたいに。

俺は隣の扉へ移り、カードを差し込んだ。
緑のランプ。
小さな電子音が鳴ると、扉が開いた。

部屋に入ると、窓の外に夜景が広がっていた。ガラスに映り込んだ自分の輪郭が二重になるのが、いやに目についた。

「今夜、眠れますか」

「眠れる」

「嘘」

「嘘じゃねえ」

凛はそれ以上、踏み込まない。踏み込めば“問い”になる。沈黙が逆に俺を追い詰める。言い逃れみたいに口が動いた。

「手術が終われば、静かになる。そうすりゃ、こんな生活とも――」

凛は一拍置き、静かに言った。

「静かになると、聞こえてきますよ」

指先が、わずかに硬くなる。

「あなたに、残ってる声」

凛の言葉を返せなかった。返したら、ただの間違いじゃなくなる。

俺は窓の外を見た。夜景の光がガラスに二重に映る。二重の輪郭の片方が、俺じゃない気がした。

9

翌日、凛は「行きましょう」とだけ言った。
行き先を言わない。言わなくても分かる――その無言の一致が気持ち悪い。

東京の集合墓地は高い壁に囲われていた。外の車の音は遠い。遠いせいで、自分の呼吸と足取りだけが目立つ。

空は薄い灰色。霧じゃないはずなのに、墓石の列がやけに濃く見えた。

耳栓の奥に、音がいくつも残る。

砂利を踏む音。線香の匂い。匂いまで音みたいに混じってくる気がして、喉の奥がざらついた。

凛は墓の間を迷わず歩く。

その背中を見ながら、ふと思う。――彼女は、何度ここに来たのか。

迷いのない足取りは、ここに通った回数と、そのたびに固めた覚悟を見せつける。

凛が急に立ち止まった。

墓石の前じゃない。集合墓地の端、古い樹の影が落ちるところ。人目の届きにくい場所。

「ここで、いいです」

俺の指が、上着の裾をつまんで離した。喉の奥が乾く。

「……何の話だ」

返事は出たのに、自分の声が遠い。胸の内側が先に固まっている。

凛が俺を見る。視線がぶれていない。

見られるだけで、問われている気がする。言い訳の言葉が、喉の手前で引っかかる。

喉の奥がきしんで、唾が引いた。視界の端が、墨が水に溶けるみたいに滲んでくる。

まだ、何とか耐えられる。

凛が口を開く。

「逃げないでね」

三度目だ。

その言葉が繰り返されるたびに、「逃げない」が頼みじゃなく、手続きみたいに固定されていく。

固定された瞬間から、逃げ道が細くなる。

「逃げねえよ。だから、さっさと言え」

凛の口元が、ほんの少しだけ上がった。
笑みでも、息を整える動きでもない。迷いを切り捨てた顔だった。

10

凛は小さな声で言った。

「逃げないでね」

耳の奥が熱くなる。胸の内側が先に身構える。
「あの人のサイン、見えてきましたか」

視界の端が滲む。墨が水に溶けるみたいに、輪郭だけが先に薄くなる。
背中から、声が届かない感覚が這い上がってくる。

俺は吐き捨てた。

「見えるわけねえだろ。やつは、死んだんだぞ」

凛は頷かない。否定もしない。紙に書かれた事実を読み上げるだけ。

「三重。――“近づくな”って。」

胸がぐっと締め付けられた。
三重。靴紐。包帯。手元。
断片が繋がりかけて、すぐに手から滑る。滑るたび、世界の動きが一拍遅れる。

凛の輪郭が、ほんの一瞬だけ二重に見えた。口の動きが声に遅れてついてくる。

「でも、あなたは届かなかった。」

“届かなかった”。——俺に。
その言葉だけが奥に刺さって、抜けない。

熱が臨界に近づいた。内側の声が息を含んで混じる。

「……大丈夫ですか」

凛の声じゃない。内側のやつだ。
凛は温度のない声で言った。

「だから私は、あなたを誠の前から退かせる」

視界の墨が溢れた。凛の輪郭が崩れ、目だけが残る。そこだけが、俺を見返す。

俺はやっと言葉を出せたが、喉の奥が焼ける。

「お前、何を知っている」

凛は質問に答えない。
答えないまま、俺の胸ポケットの通知に視線を落として、一言だけ落とした。

「あなたが、知らなくていいところまで」

その瞬間、耳の奥が燃えて、視界の端が墨で塗りつぶされる。

凛が何かを言っている。だが、声が届かない。

視界が真っ暗になると、世界が次の場面へ滑ろうとする。

俺は踏ん張った。ここで落ちたら、向こうの思惑通りになる。

「手術、やりますか。やめますか」

その声だけは、はっきり届いた。

胸の奥が凍る。

やれば、凛は消えるのか。やめれば、凛は残るのか。

俺は答えられなかった。

墨がいっぱいになって、視界が閉じた。

11

次に息を吸ったとき、冷たい空気が肺に刺さった。

身体の奥だけが、まだ墓地の冷えを引きずっている。

凛の声が、遠くで聞こえた気がした。顔を上げたが、周りには誰もいなかった。

部屋に戻ると、暖房の乾いた風だけが均一に鳴っている。均一な音は平らで、怖くない。怖くないはずなのに、胸の奥だけが落ち着かない。

「凛」と呼びかけた声が、柔らかく戻ってくる。反響は嫌いだ。反響は“次の音”を作る。

洗面所を見る。浴室を見る。ベッドを見る。
凛の荷物はある。けれど、人の気配だけがない。

俺は椅子に座り、息を吐いた。
部屋は暖かいのに、外での冷えがまだ肺に残っている。頭の中まで冷える。

視界の端の滲みが、ゆっくり引いていった。

霞が引くみたいに、輪郭が戻っていく。

倒れるほどじゃない。

墓地で上がった熱が、胸の奥に引っかかっているだけだ。

俺は耳栓を外しかけて、止めた。静かになると、あの声がまた聞こえてくる。

「……大丈夫ですか」

誰の声かは、考えない。考えた瞬間に“次”が来る。

息を吐いた拍子に、テーブルの上に、白い封筒が置かれているのに気づいた。

ホテルのロゴが薄く印刷されている。

表に、短い宛名。――森田さんへ。

凛の字だと直感で分かった。線が硬く、迷いがない。

俺は封を剥がさなかった。

剥がせば音が鳴る。鳴れば、内側が反応する。

――それでも、指先は勝手に動いて、封筒を持ち上げていた。
紙が擦れる音は小さい。小さいのに、胸の奥がざわつく。

視界の墨が、また少し濃くなっていく。

12

病院は真新しい看板を掲げていた。けれど建物の造りに、古い軍の名残りがある。直線が多く、無駄がない。廊下がやけに長い。
白い壁と天井に囲まれると、世界が一枚板みたいに硬くなる。

受付の声が遠い。番号を呼ぶ声が遠い。遠いから、聞かなくていいはずなのに――その隙間に、内側が割り込んでくる。

「……大丈夫ですか」

俺は耳栓に指を当てて、押さえるだけに留めた。

ここでは邪魔だ。医者の声を聞かなきゃいけない。

同意書を差し出され、サインを求められた。
ペン先が紙をひっかく音が、頭の裏に刺さる。

俺は黙って書いた。
看護師が軽い声で言う。

「緊張されてますか。自然体で。大丈夫ですよ」

言い返しそうになったが、ぐっとこらえる。
大丈夫、という言葉は嫌いだ。

「……平気です」

自分の声が白い廊下に吸われていく。本来なら、凛がいるはずだった。

視線を動かして探す。

いた。少し離れて立っている。凛が近づかない距離。俺が近づけない距離。

「……来てたのか」

凛は頷いた。

「当然です」

俺が言い返す前に、凛が言葉を重ねる。

「逃げないで」

この白い廊下で、その言葉はお願いじゃなく命令みたいに響いた。
手のひらが勝手に固くなる。視界の端に、薄い墨がにじむ。

看護師が呼んだ。

「森田さん、前室へお入りください」

白い扉が開いた。
扉の向こうから機械の匂いがする。乾いた消毒の匂い。外の空気みたいに冷たい。
俺は足を踏み出した。

背中に、凛の気配が刺さる。刺さるのに、彼女は近づいてこない。

見送るだけの距離。その距離が怖かった。

13

扉が閉まり、音がひとつ減った。

部屋は広く、手術灯の丸い光が天井に張りつき、器具の金属が冷たく光る。

俺は出口の表示を探して、視線だけが空回りした。

白い壁に囲まれて、戻る先が選べない。

前室に入ると、看護師にストレッチャーに乗せられ、腕に点滴が刺さる。

刺す痛みより、手袋が肌をなぞるこすれのほうが不快だった。

医師が言う。

「眠くなるお薬が入ります。数を数えてください」

俺が息を吐いて数を数えた。三を言いかけたところで、看護師が医師に小声で何かを告げた。

医師の手が止まる。白い手袋が空中で固まった。

「……いったん止めます。森田さん、こちら。お預かりものです」

医師が白い封筒を差し出した。

ホテルの封筒とは違う。無地で、角が揃っている。置いていくために作られた形だ。

喉が鳴りそうになって、飲み込む。

「……誰からだ」

「同伴の方が、受付に預けていかれたそうです」

看護師が言って、すぐ視線を外した。ここで余計な言葉は禁物だと知っている。

俺は封を切った。

裂ける音が、耳じゃなく胸の奥で鳴った気がした。

視界の端が、ほんの少しだけ滲む。
『あなたは誠に似ている。あなたの隣にいると、悩まずにいられた』

『でも私は、誠の前からあなたを退かす』

“悩まずにいられた”。

その一行が、いちばん残酷だった。

悩まなくてよかったのは、責められない時間だった。

誠のことも、自分のことも、いったん棚に上げていられた。

その時間を凛が作ってくれていたのに、最後は消すと言う。

「消す」という言葉が、この前室よりも冷たく感じた。

医師が短く言った。

「……よろしいですね。では、入ります」

その声が遠くなる。

俺は紙を握りしめた。紙が皺になる音がした。

その音が合図みたいに、視界の端から暗さがにじんだ。

呼吸の音が、自分のものか分からなくなる。そのまま、瞼が落ちた。

14

俺は冷たい床の上に転がっていた。
金属の通路。灯りが低く、空気が乾いている。

かつて所属していた軍を思い出す。静粛が絶対の艦。

潜宙艦〈鳴神〉。資源航路の奪い合いの最前線で、音は敵に拾われる。こちらの出す警告すら“音”としての使用は禁じられていた。

音を立てたら、自分はここにいる、と名乗るのと同じだ。俺の前に小柄な男が立った。衛生兵の制服。手には包帯を持っている。

「お疲れ様です。遠藤です」

男は笑った。その笑いは嫌じゃなかった。

「森田さんですよね。噂、聞きましたよ」

「聞くな」

「聞きますよ。だって同じ艦ですから」

男が一歩、近づきかけた。
足音が来る、と身体が先に反応する。鎖骨の下が、ちりっと熱い。

脳に埋まっている“共生体”が先回りして身構える。

敵の共鳴兵器――低周波で脳を叩くやつの対策として、俺たちはこれを入れられた。

本来は揺れを覚えて相殺する。脳に届く前に、消す。

なのに俺のは、敵じゃなく“俺の恐怖”を覚えた。怖くなるほど揺れを増やし、外に漏らす。

その瞬間、通路の端がうっすら滲んだ。視界の端だけ、ワンテンポ遅れてついてきた。

「近づくな」

思わず、声が出た。艦の壁が反響を返し、俺の声が遅れて自分の耳を刺す。
なのに遠藤は、引かない。

「大丈夫ですか」

その言葉を合図に、音がすうっと遠のいた。

視界の手前に粒が出る。

粒は左右に揺れて大きくなっていき、遠藤の目と口の位置がずれていき、輪郭がほどけて砂嵐になった。

砂嵐が静まると、蛍光灯の白だけが先に残った。次いで、トレイの皿の縁が冷たく光る。そこが食堂だと分かる前に、視線が勝手に一箇所へ寄った。

テーブルの脚元――遠藤はしゃがみ込み、三重に靴紐を結んでいる。

結び目をひとつ作って締め、二つ目も締める。三つ目を作り、最後に強く引いた。

「ほどけると気になるんですよ」

遠藤が言う。

「森田さんも、気になることあるでしょう」

俺は視線を逸らす。

遠藤は立ち上がりもしないまま、慣れた手つきでポケットから包帯を出し、手首から手の甲へ巻いた。指先の動きが静かで、無駄がない。

「サイン、出しておきますね」

「……何のだ?」

遠藤は珍しく笑わない。

「“近づくな”のサインです。森田さん、危ないとき——」

そこで、遠藤の口元が二重にぶれて、言葉の先が途切れた。
声は届いているのに、言葉の続きだけが抜け落ちる。

耳の奥が熱くなる。聞けないまま、手元だけが鮮明になる。

三重の結び目。包帯の白。ペン先が走る音。

視界の隅で、紙に書かれた二行が揺れた。

遠藤の指が伝票の裏を押さえ、迷いなく書いている。

三重:森田に近づくな

二重:——

二行目の途中から、黒い染みが広がって文字を塗りつぶした。

俺は反射で目を逸らす。

読めないまま、視界が揺れた。乾いた空気に鉄の匂いが混じる。

足の裏から先に震えが来た。これは音じゃない。骨を叩く揺れだ。

震えに合わせて、視界がざらつく。

白黒の砂嵐が広がり、いま見ていたものの輪郭が全部つぶれた。

砂嵐が引くと、低い灯りが戻る。鉄の通路が、線から形になる。

潜宙艦の中央通路だ。

ここで警報を鳴らすことは、自分の位置を敵に知らせるのと同じだ。

鳴らした瞬間、居場所を渡す。だから、合図は“音”じゃない。床の微かな震えだけ。

敵の低周波振動――耳じゃなく、骨で拾う揺れだ。脛骨から背骨へ上り、最後に頭蓋の内側を叩く。音として聞こえる前に、意識が揺さぶられる。

耳の奥が熱くなる。熱が上がるほど、共生体が内側を拾いはじめる。拾って、勝手に増幅する。

本来は相殺されるはずのものが、俺の恐怖を燃料にして返す。

振動が漏れる。床が震える。壁が鳴る。鳴ってはいけない。

鳴った瞬間、俺が味方を殺すか、敵に殺されるか。――だからこの艦で俺は“死神”だ。

遠藤が走ってくる。走る音を立てたら終わりなのに。

「森田さん!今行きます!」

「来るな!」

咄嗟に叫んだが、遠藤は止まらない。
止まらないまま、唇だけで笑おうとする。――俺の声が届かない。

振動が遠藤の中へ入る。骨へ、脳へ。

遠藤の口が開いた。叫びの形だけが見える。
顔色が、灯りを失ったみたいに青くなる。唇の紫だけが残る。

目が見開かれ、焦点が外れる。見開いてるのに、もう見ていない。

遠藤の手が空を掴む。空気に爪を立てるみたいに、指が痙攣する。包帯の白が揺れた。

膝が折れて、潰れた塊みたいに落ちた。
次の瞬間、身体が横倒しになり、肩が一度だけ跳ねた。跳ねて、それきり動かなくなる。

「……大丈夫ですか」

声が、どこからか混じる。
遠藤の声なのか。共生体の声なのか。俺の中に残った声なのか。

音が遠のく。代わりに、視界のざらつきだけが前に出た。倒れた遠藤の輪郭がほどけていく。

鼻先に味噌の匂いが先にやってきた。

視界が良くなると、俺は家の台所にいた。

包丁がまな板を打つ音が、一定の間隔で響く。

味噌汁の湯気が立って、窓の外の冷えを忘れさせる。

凛が耳栓の小袋を置く。

その手つきが、やけに丁寧で静かだ。

俺は笑いそうになる。でも、口角が上がりきる前に止まる。

――今日は、ここまででいい。そう思った、その瞬間。

湯気が、途中から煤みたいに黒く滲んだ。

匂いが冷える。湯気の温度だけが先に抜けた。凛の輪郭が先に暗くなる。

次いで、鍋も壁も床も、薄く遠のいていく。

代わりに、墓地の灰色がせり上がってきた。

凛の口が動いているが、何も聞こえない。

聞こえないのに、あの一行だけが内側へ沈んでくる。

“誠の前から、あなたを消す”

墓地の景色がすべり落ちて、底にある暗闇がむき出しになった。

真っ黒だ。光がいっさい届かない暗闇。
声もない。音もない。
だから、内側がうるさい。

暗闇に、紙の白だけが浮いた。

冷たい書類の活字が、勝手に読める距離まで寄ってくる。
“衛生兵手帳”

“名前:遠藤 誠”
“時刻:23:46”

“呼吸:×”

“死因:振動性神経停止”

“呼名:森田 鉄平”

数字だけが、暗闇の中で異様に白い。

23:46

それが遠藤の最後の時刻だと、先に分かってしまった。

喉が鳴って、息が浅くなる。分かったのに、身体が追いつかない。

暗闇の中で、もう一度だけ声が聞こえた。

「……大丈夫ですか」

遠藤の声に似ている。似ているだけで、遠藤じゃない。

俺の中で、共生体がその声を再生している。

慰めじゃない、これは合図だ。

瞼の裏に薄い白が滲み、光がゆっくり視界を押し広げてきた。

目を開けると、白い天井があった。

さっきまでの暗闇は消えて、視界がやけに澄んでいる。

――耳が、軽い。

外の音が入ってくる。看護師の足音。器具の片付け。遠くのエレベーター。

いつもなら混じってくる“内側”が、来ない。

俺は口を開けた。
声が出ない。出ないまま、喉だけがひりつく。
医師が言う。

「終わりましたよ。除去、成功です」

俺は頷いた。頷くと首が軋む。軋む音が、外に落ちた。
落ちた音は、怖くなかった。

怖いのは、静かになったことじゃない。

静けさが、どこか区切りをつけた顔をしていることだ。

目だけ動かす。

白いカーテンの向こうを探した。そこにいるはずの影は、なかった。

15

荷物はまとめてあった。病院の書類、会計の控え、薬の説明紙。
どれも整った活字。整いすぎた文字は冷たくて、優しい。

「ご家族の方は——」

看護師が言いかけて、言い直した。

「同伴の方、いらっしゃいましたよね。お迎えに来ていませんか?」

俺はすぐに答えられなかった。
“凛”と名前を出した瞬間、手紙の文が現実になる気がした。

現実になったら、もう戻れない。

「……大丈夫だ。一人で帰れる」

自分の口から出た“大丈夫”は、薄く乾いていた。

山梨の家に戻った翌朝、カラスが鳴いた。

俺は昔、こいつの声から逃げたくて、軍へ志願した。
身体が強張る。――でも、胸の奥まで締め上げられはしない。代わりに、窓の隙間を擦る風の音が気になった。昔、克服したはずなのに。

恐怖が消えたわけじゃない。
ただ、対象が移っただけだ

靴紐を結ぶ。ひとつ、ふたつ、みっつ。
いつからだろう。誠の癖が、俺の指に移っていた。

共生体が消えても、指が勝手に三つ目を作る。

店の前に立って、シャッターを上げる。金属が擦れる音が、以前より大きい。耳が正常に戻ったのに、嬉しくはない。
それでも、鍵を回して中に入る。

仕込みの段取りを頭の中で並べる。

肉、解体台、包丁——黙々と身体を動かそうとした、そのとき。

「仕込み、始めますね」

凛の声が聞こえた気がした。
背後からだ。確かめたら、ただの空気みたいに消えそうな場所から。

俺は振り返れない。いなくても、いても困る。

気を取り直して、包丁を入れる。
赤い筋が走り、脂が光る。金属がかすかに鳴る。
音は消えない。怯えも消えない。

俺は包丁を握り直す。
「誠なら笑うだろうな。森田さんが店に立つんですか、って」

その音に、誰かの笑いが混じった気がした。
凛かもしれない。あるいは――まだ俺に残っている何かかもしれない。

混じっただけで、すぐに消えた。
恐怖も笑いも、混ざったまま。俺は手を止めずに、今日を動かした。

16

昼の営業が終わり、トレーを拭いているとき、表の戸が鳴った。
軽いノックが三回。強さも間も、ぴたりと揃っている。

胸が勝手に跳ねた。凛かもしれない。
俺は布巾を置いて表へ出た。

「森田鉄平さんでお間違いないですか?」
郵便配達員だった。凛じゃない。

胸の跳ねは行き場を失って、そのまま冷えた。

「……ああ」
サインを書く。指が一瞬だけ固まり、線がまっすぐ引けない。

配達員は端末を少しだけ近づけて言った。

「差出の方から、“必ずご本人の署名で”って指定がありまして」

配達員は封筒を渡し、軽く頭を下げて去っていった。砂利の足音が遠のく。

封筒を裏返す。差出人の欄に、小さな活字が並んでいた。
「●●病院 医療安全監察室(旧軍事医療施設 補償照会窓口)」

病院名は見覚えがある。手術を受けた、あの白い建物だ。
“外来手術センター”じゃない。知らない部署名だけが、俺の事を知っている。

封を切ると、紙の端がささくれて、そこだけ引っかかる。

切り口の脇に、透明なテープが一本だけ貼ってある。

端が浮かないように、爪で押さえた跡が……三つ。

中には通知が一枚と、添付書類が二点。

通知の文面は短い。
「下記の件につき、事実関係の照会を行います。任意でのヒアリングにご協力ください」

温度がない。怒りも、責めも、同情もない。ただの手続きだ。

添付書類の一つは、衛生兵手帳の写しだった。見開きの右ページには遠藤の字だ。
時刻欄に、数字がひとつだけ書かれている。

23:46。

次の添付書類は応急処置メモの写し。
三行だけ。

「靴紐は三重。――近づくな」
「それでも来た。止められなかった」
「呼吸、止まる 23:46」

三行目の横に、訂正の線。書いて消して、また書いている。
遠藤は自分の止まる時刻を書き直していた。

凛の名前はどこにもない。彼女が書いた手紙も、メモもない。

なのに、これは“あいつのやり方”だ。

声を出さない。名前を残さない。

ただ、俺にだけ届く形にして、正しい紙だけ落としていく。
通知をもう一度見る。
「任意でのヒアリングにご協力ください」
任意。断れる。断れるはずだ。――でも一度口を開けば、次は任意じゃなくなる。

俺は封筒を机に置いた。

角が揃いすぎている。置いた瞬間から、もう決まったことみたいだ。

店の外で、カラスが鳴いた。一声だけ。
身体が反射で強張って、すぐほどけた。
ほどけたぶんだけ、冷たさが残った。

作業場に戻る。明日の仕込みがある。頭を止めるには、手を動かすしかない。

包丁を取る。柄を握る。握った指が、圧を確かめるみたいに動いた。

一度握って、緩めて、握り直して、緩めて、もう一度握る。

三回。

いつからだ。
靴紐は退院の朝に気づいた。三重に結んでいた。遠藤の癖だった。
鍵の確認も、前からだ。三回確かめる。
包丁は――いつからだ。

共生体は除去した。振動は止まった。視界も崩れない。内側の声も、もう来ない。
なのに、三だけが残っている。

埋め込まれた機械が覚えたのか。俺の身体が盗んだのか。あるいは――遠藤の声が、まだ内側にいるのか。
分からない。分からないまま、指だけが動く。

外でカラスがもう一声鳴いた。

俺は手を洗った。洗って、拭いて、蛇口を閉めた。

水音が消えでも、手が離れない。
蛇口を閉める指が、閉めたことを三回、確かめていた。

文字数:15998

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