余白
新郎新婦の幸せそうな映像が流れた瞬間、胸の奥の歯車がそっと動いた。
雪の名前がふっと浮かんだのは、どれくらいぶりだろう。互いの日々が少しずつ変わっていくうちに、つないでいたはずの糸は、気づけば指の間から静かにほどけていた。
乾杯と笑い声の渦を「ごめんなさい、わたしはこれで」と告げた。二次会が始まったばかりだったが、酔いのせいか胸が重く、一息つきたかった。夜気が頬に触れ、熱を帯びた体に静かに染みていく。
高校の友人の結婚式で十年ぶりに帰ってきた故郷は、変わったところと変わらないところが入り混じっていた。駅前は再開発で派手に光っていたが、一本裏に入ると影が深くなる。シャッター通りとなった商店街は、波が引いた海岸のように静まり返っていた。剥がれかけた夏祭りのポスターが揺れ、そこにあった喧噪の名残りを風がなぞっていく。
奥に、ただひとつ灯りが沈んでいた。——銀河堂洋菓子店。
胸の内側が小さく軋む。雪と最後にケーキを買ったのも、この店だった。
「来年はもっと大きいの、買おうね」
何気なく言った雪の声。その響きだけが胸に沈んでいる。
閉店時間は過ぎているはずなのに、ガラス戸の向こうで天井からこぼれる微細な光がふわふわ漂っている。吸い寄せられるように扉を押すと、小さな鈴が高く鳴り、その音に時間が一瞬だけ立ち止まった。
「やぁ、いらっしゃい」
白衣姿の店主が現れた。わたしより少し年上だろうか。カウンターには古い卓上ミシンのような小型ロボットが置かれ、真鍮のフレームが淡い光を脈打たせていた。
「ゆっくりしていってください。この子も退屈していたから」
店主がロボットのパネルに触れると、空気がふるえ、透明な膜が立ち上がる。
驚いて息を止めた。
光の粒が寄り集まり、形を結んでいく。温度のない光なのに、ひと息あたたかい。空気がわずかにずれ、町の“いま”と“かつて”が静かに触れ合う。
「ここは元々、ケーキ屋でした。今は、町の思い出をそっと浮かべる場所でして。この子が欠片を粒子に変えて、気配として見せてくれるんです」
店主が笑うと、目元に旧店主の面影がにじんだ。思わず声が漏れた。
「その笑い方、お父さんに似てますね」
「ありがとう。七年前に父が亡くなり、僕があとを継ぎました。この投影は、光が濃かった記憶——人の思い出が残る場所を再現する仕組みなんです」
ケーキの投影がふっと現れ、白い面の端に小さな赤が染みるように浮かんだ。
いちごを潰したときの、あの丸い赤。その色がにじんだ瞬間、胸の奥がひと息止まった。赤をほんの少しだけ寄せて、そこから食べる——あの人の癖だった。
「こうするとね、味が馴染むの」と笑う横顔が、ふっと浮かんだ。
店主が首を傾げる。
「こんなログは残っていないんだが。不思議だな……本来ならあり得ない」
思わず視線を伏せた。
あの夜、雪と過ごしたのも、この店の灯りの下だった。
新人時代、彼女はいつも一歩先を歩いていて、その背中に救われた。恋になったのは、そのあとだ。でも、わたしは音楽の道を選び、彼女はここに残った。ふたりの糸は音もなくほどけていった。
「あ、あの……」
言いかけると、店主がふっと笑った。
「父がよく言ってました。いちごをそっと潰す子は手付きがやさしいって。そんな子は、いつかきっと良い夜を迎える——とね」
胸の奥が静かにほどけた。
店主は紙箱を差し出した。
「思い出の投影じゃなく、本物を。今日はクリスマスですから」
箱を受け取ると、温度が手にじんわりと広がった。
店を出ると粉雪が舞っていた。
街灯が箱の角を柔らかく照らす。
足元にざわめきが立ち、歩みを止めた。
スマホを取り出し、雪を知る先輩の番号を急いで押した。けれど、その指がわずかに震えているのが分かった。聞いてどうする。——でも、聞かずにはいられない。
通話がつながった。
「雪、雪乃さん、今どうしてるか……ご存じですか」
短い沈黙のあと、淡々とした声が返ってきた。
「雪乃なら、カナダにいるよ。向こうで仕事を変えて、七年は帰ってきていない」
外国の地名が胸を冷たく叩いた。
期待していなかったはずなのに、その言葉だけで足元が揺れた。
「向こうの生活が合ってるんだろう。あいつはあいつで、楽しくやっているさ」
通話が切れる音が静かに胸に落ちた。
ホテルへ戻り、照明を落として箱を開ける。白いケーキの中心にロウソクを立て、火を灯した。橙の炎が揺れ、その影が壁にゆっくり伸びる。
ふと、肩をすくめて笑う雪の姿に見えて、胸がふっとあたたかくなる。
錯覚だ。
ただ、そう思える自分に少し救われた。
フォークの先でいちごをそっと潰すと、赤がじんわりにじむ。
「……メリークリスマス」
一口含むと、甘さと酸っぱさが胸の深いところへ静かに落ちていく。
失われた糸はもう戻らない。
それでもロウソクの火は揺れつつ芯を保ち、ひと筋の光を示していた。その灯りが、これから歩く道のどこかをそっと照らしているように思えた。
文字数:1998
内容に関するアピール
クリスマスを扱う作品が多い時期ですが、祝祭ではなく、そこからこぼれ落ちた静かな時間を描きました。
舞台は再開発から取り残された地方都市の商店街と、記憶を留めるだけでは役割を失いつつある場所です。本作では、田舎町の衰退、恋が終わったあとに残る余白、クリスマスケーキの小さな灯り、そして思い出を粒子として再生する装置という静かなSF的設定を重ねています。粒子のわずかな揺らぎによって、過去と現在が一瞬だけ触れ合う感覚を表現しました。
私が考えた美しさの一つは、強く照らされる光ではなく、手を伸ばせば届きそうで、決して掴めない場所に宿るものです。それは、失われたものの代わりに差し出される救いではなく、取り戻せないと知った後も、なお胸の奥に残り続ける揺らぎです。
本作は再会の物語にはせず、過ぎていったものを静かに手放す方向を選びました。主人公が最後に見つめる小さな灯りは、これから歩く道をかすかに示す光です。
文字数:399


