不幸せなツインバース

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梗 概

不幸せなツインバース

この星の人類は、超天才的な知能を持って生まれ、時間とともに知能が減衰していく。

新生児は管理され、生後1時間で言語と数学を習得、0歳のうちに偉大な業績を残す。5歳までは新生児の奉仕、7歳までは国の要職を担うが、10代後半には知性を失った獣のような存在となって、国の外の森へ放たれ繁殖する。
保護者と呼ばれるハンターは、森で妊娠した女性を捕獲して新生児を得るが、ある時期から保護数が激減し、社会は破綻の危機にあった。

8歳の保護者アナムは、ある日脳内の声に導かれ、森で一人の妊婦に出会う。テレパシーの主はメノンと名乗るその胎児だった。
メノンは、アナムの一卵性双生児だという。かつて胎盤を共有していた時、アナムに栄養が偏り未熟児となったことで生まれ損ね、母体とともに森に還ったが、生まれないまま知能を維持していたのだ。
だが森では知識を得る機会もなく、野生の母に閉じ込められており、助けを求めていた。アナムはメノンに学問や国について教え意気投合する。

国では、短いスパンで指導者が変わってしまう人間に代わりAIがトップを務めていたが、メノンは、自分ならAIよりも良い統治で新生児が激減する危機を解決できると主張する。二人は協力し、被差別層のローティーンを扇動したクーデターを成功させ、統治者になる。

メノンは胎児の声を聴く装置を作り、妊婦をかき集めては「前世の記憶」を尋ねる。決まって胎児は「もう一つの宇宙」について語り息絶える。やがてメノンは、「この宇宙はもう一つの宇宙と双子のような構造を成していて、臍の緒で栄養がやり取りされるように、ブラックホールを通じて、互いの宇宙に住む人間の魂=知能的複雑性の総量を取り合っている」と突き止める。かつては両宇宙の人間はどちらもまっさらな知能で生まれ、成熟し、やがて知能を手放して老いていく成長曲線だったが、向こうの人類が老いを克服し寿命の限り知能を高めるようになったためこちらの宇宙の新生児が天才になり、ついに向こうの人類が不死を開発したため出生数が減っていたのだ。

メノンの命令で、アナムは兵を率い「宇宙間羊膜」を超えもう一つの地球へ降り立つ。双子人類を皆殺しにし知能を取り戻す計画だ。しかし地球人は殺意に漲る兵たちを歓迎する。技術の反作用で子を作らなくなっていた地球人にとって、子どもたちの軍隊はあまりにも愛らしかったからだ。またアナムたちにとっても成熟した大人の姿は新鮮で、戸惑いを隠せない。

地球人類は手料理を振る舞いながらアナムと対話し、不老不死の技術を凍結。それが幸せだとわかっていたが、きっかけを持てなかったのだと感謝する。

アナムは、テレパシーでメノンに対し憎むことをやめるように諭す。メノンは、母や社会を憎み、そして何よりも栄養を奪い自分を置いて生まれたアナムを憎んで双子宇宙に重ねていたのだ。アナムはその憎しみを受け止め、メノンに「生まれたらどうか」と言う。

文字数:1200

内容に関するアピール

プラトンの「イデアの想起説(アナムネーシス)」に着想を得ました。
想起説では、人は誕生の衝撃で記憶を失っているだけで、美しいものを見ると前世(イデア界)の断片を思い出すとされます。
もしイデア界こそが私たちが住む宇宙で、私たちにとっての死後の生にあたる世界にもう一つの社会があったとしたら、そしてその住人が地球に攻め込んできたら、と想像しました。

アナムとメノンが協力してクーデターを起こす前段までは二人を相性の良いバディとして描き、メノンが双子宇宙を突き止めアナムに破壊を命じる後段ではメノンが憎しみと剥奪感に囚われていく様子を描きたいと思います。

アナムは、毎日の知能テストと、「馬鹿になる」と言われている10歳の誕生日に怯えて生きていますが、メノンに対し「誕生の衝撃は知識を忘れさせるかもしれないが、それでも母体を出て生まれるべきなのだ」と話すラストと同時に、10歳になる朝を迎えます。

文字数:392

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不幸せなツインバース

親愛なる地球人類のみなさんへ。

私は、私自身を含む地球人類全体のため、そして愛すべき「もうひとつの人類」のため、私のかけがえのない友人、哀れなアナムの半生について記します。ただし、アナムの半生、といってもそれは、私たちの常識からすればとても短い時間の物語であることはあらかじめ、ご承知おきいただきたいのだけれど。

 

アナムは8歳でした。アナムはそのまるっこい手で、そこに転がっていた老人の背骨に電極を差し込みました。ぐっと嫌な反発がありました。でもアナムはその感触を抑えてインジェクタの針先を押し込むのに長けていましたし、慣れてもいました。ギュギュウッと押し込んで。そのぷくぷくした指で差し口を押さえつける。と、アナムと同い年の、8歳の仲間たちが今度は、リールをグルグル回して、針の根本に巻き溜められている細こいフィラメント線を、老人の背骨の髄のなかへ送りだしていきました。9歳の仲間たちは、機械には触りません。老人の手足を押さえつける役割です。なぜなら、9歳の仲間たちは、彼らの言葉で言えばアナムたち8歳児より「バカ」で、機械の扱い方がわからないからです。いずれにせよ、その機械は、「街」から彼らに与えられた最も優れたアイテムであったし、彼らを守る命綱でもありました。

フィラメントが伸び切り、その表面を覆う導電性のゲルが老人の神経系のはしばしまで浸透すると、老人の手足がビクンビクンと暴れはじめました。9歳児たちがパッと離れると、老人はバッと立ち上がり、思い切りギリギリまで引っ張ってスタートさせたチョロQのように無茶苦茶に走り始めました。

アナムたちは岩陰や倒木の陰に潜んで、老人の狂った踊りを見張ります。すると、森の四方から人影がぬっと現れました。「大人」の男たちです。恰好は、はだか同然。20代から30代のオスが5人だ―アナムはそう思いました。

 

「てめえ、見えねえだろうが。もっとそっちゃ寄れよ、バカタレが。狭えよっ!」

 

と、アナムを怒鳴りつけたのは、今回はじめて狩猟隊に加わった少女です。彼女は8歳になったばかりでした。アナムは、「バカタレ」という言葉に深く傷つきました。すでにお聞き及びの方や、お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、彼らの惑星社会においては、9歳より8歳、8歳より7歳と、年齢が浅い方が「賢い」とされ、そして実際に、知能の面において著しく優れていたのです。つまりアナムたちは、年を取れば取るほど、反対に知能が低くなる、そういった宿命に生きる人類でした。だからこそ、「バカ」という言葉はあまりに強く―私たちの言語に、そのニュアンスを完全に表現できる語彙が存在しないため、便宜的に「バカ」と訳しています―、アナムにとっては、もっと若い者に言われるよりも、半年や数か月というわずかだけれど確かな若さを持つ誰かに「バカ」と言われることの方が、かえって辛く感じられました。しかしアナムは、「老いては子に従え」あるいは「流れた血は傷口に還らない」と、体に沁みつくほど聞かされた標語をひとり呟き、その場を少女に譲りました。それに少女は狩猟隊の仕事がはじめてでしたから、大人のオスたちがあの老人にすることを、その目で見たかったのでしょう。

大人たちは、老人に咬みつき、てんでに引っ張り合い、八つ裂きにしてしまいました。老人の腱や骨の外れる音、血濡れで光る大人たちの筋肉の盛り上がりの恐ろしいこと。少女は魅入られてしまいました。しかしアナムは、

 

「行きましょう」

 

と少女の肩を揺すぶって気づかせます。大人たちが、分解した老人の肉を持って森の深奥へ走り去っていきます。追わねばなりません。大人たちは二つの方向に走っていったので、アナムたちも二手に分かれました。しばらく追跡すると、大樹とツタが捻じりあい、グチャグチャになって解けないネックレスの中に入り込んだような地形に差し掛かりました。その中に、灰色になった立ち枯れの巨木がありました。巨木の根は股を開いて暗闇の傷口を覗かせています。「あれが巣に違いない」とアナムが直感した通り。大人の男は二人、その樹洞の入り口へ向かいましたが、中には入らず、立ち止まってこちらを振り向きました。野卑なるや、警戒した目つき。追う者に気づいていたようです。「9歳児どもが下手をしたのか、バカめ」と反射的にアナムは心中で年上のチームメイトを責めました。が、当の9歳児の三人は、ナイフを抜いて男たちの前に出てゆきました。闘いです。ブーツの下にも木の根がはびこり、その上を覆うコケや粘菌の類で歩みが滑ってならず、闘いは避けたかったのですが仕方がありません。9歳児たちは、死ぬるなら自分たちの方、と心得ているのです。

アナムは、息を殺して少女の手を引き、自分の方に寄せました。そして9歳児たちが男どもの殺意を浴びている隙をついて、巨木の洞に滑り込みます。

 

洞穴の中には、大人の女がいました。お腹が大きく膨らんでいます。アナムは安心しました。涙が出そうでした。「35週くらいだ」と思いました。あるいは幸運の神に愛されていれば、双子が取れるかもしれません。女は手足をこわばらせ、思い切り歯と眼を剥いてこちらを威嚇します。朽ち木の内壁に突き立てた爪を今にも向けてきそうです。少女が腰袋の中に手を伸ばしました。アナムは慌てて耳を塞ぎ、少女の白い手が袋から弾を放り出すのを視界の端に捉えるとギュッと目を瞑りました。ホワイト・アウトする閃光と刺激音。……数秒の間をおいて、アナムと少女は素早くことに取り掛かりました。少女は、光と音の衝撃で放心した女の足を縛ります。アナムは革袋を取り出して女の頭部に被せ、視界が戻る前に光を奪っておきます。このフードも老いた人間の頭部の革でできていて、もちろん目の部分は縫い合わせて塞がれているけれど、気持ちが悪くてアナムは内心扱うのが嫌でなりませんでしたが仕方がありません。少女が、その革袋の鼻の穴のところにボロのタオルハンカチを押し当てました。タオルには安定臭が染みこませてあります。これは胎児が眠りたいときに臍の緒に送るホルモンの匂いで、嗅げば母体も休息モードに入ってしまう、妊婦にとって圧倒的かつ安全な睡魔の一服です。少し鉄っぽい匂いがするそうです。女がゴオといびきをかきはじめました。少女は恐る恐るタオルをどかし、女の呼吸が正常かどうか確かめるため、人革製フードの唇の穴から突き出た女の口に手をかざします。

 

目の前を鮮血が走りました。ビビッ! アナムは一瞬何がなんだかわかりませんでした。が、とても賢い子ですから、すぐに事態を把握しました。女が密かに左手に握り込んでいた鋭い石で、少女の顔面を乾坤一擲殴りつけたのです。少女の顔は割れていました。石が掠ったアナムの鼻も先ちょを少し持っていかれました。野人のくせに、野人のくせに、バカのくせに、バカのくせに! 少女はそう叫んで死にました。欺かれたのです。

 

想像妊娠―。アナムはそう呟きました。そして絶望しました。女のはらにおったのは、胎児ではなく水、ないしは膨らんだ腸だったのです。森で捕えた妊婦たちに、想像妊娠が異常に増えている、とはアナムも聞き及んでいました。しかし実際に目の当たりにしたのは初めてだったのです。ただでさえ妊婦の発見数が激減していたので、その失望は深いものでした。想像によって妊娠様の身体変化が訪れる現象は、私たちの地球社会でもかつては見られたものでした。が、臨月にも見える大きさにまで腹部が膨らむケースはほとんどあり得ず、これは彼ら退行人類の惑星社会における新生児に対する異常な執着や信仰に似た通念―しばしば「神聖児」とさえ呼ぶほどの―が、理性を失ってなお女性の肉体にもたらす形而下的な具象表現なのではないかと考えられます。ともかく。

逃げるべきです。逃げなければなりません。女は、フードのまぶたを縫い付けている革紐の部分を石でガリガリ搔きむさって、目を開こうとしています。アナムは洞の入り口の方を振り返りました。すると、大人の男たちがギラギラの眼でこちらを覗いているではありませんか。しかも5人。二手に分かれて別の方向に去って行ったはずの男たちさえもが、戻ってきているのです。散り散りになったこと自体が、罠だったのでしょうか。何が起きているのでしょうか? 大人たちは、彼らの社会で考えられているほど知性を失っていなかったのでしょうか。あるいは野生の知? その時のアナムに、彼らの通念を疑うような余裕はありませんでした。何よりもアナムの目に飛び込んだのは、男たちの手や口からぶら下がるチームメイトの9歳児たちの一部でしたから。アナムは動揺しました。「老いは黄金でも取り除けない」。「流れた血は傷口には還らない」。100万回と唱えた標語の響きを口にして必死に呼吸を保とうとしましたが、そんなことより彼の心に駆け巡った思いは、「バカは喰われるんだ」でした。強く思いました。「バカだから喰われるんだ」。思いは脳内を駆け巡り、頭の中のあらゆる鐘を鳴らして回りました。「バカは喰われる」。そしてアナムは、「おれももうすぐ9歳だ」と思いました。

 

あああああああっ!

 

と叫んで、アナムはナイフを抜きながら男たちに向かっていきました。女はまた妊娠できるかもしれないから、傷つけたくありませんでした。脛当てのホルスターから抜かれたナイフの切っ先が、その軌道の延長線上で、男の伸ばした腕の先の、指の先を縦に切り裂き、爪を一枚弾きとばしました。その瞬間、

 

「フリカエレ!!!」

 

と耳をつんざく声がしました。それは言葉ではありませんでした。しかし、そのような意味を持ってアナムに聴こえました。アナムは咄嗟に、斬り上げたナイフの力をそのまま旋回の力に変える形で振り向きました。切っ先の血が一滴飛びました。

 

「来イ!!!」

 

樹洞の奥の暗黒に、アナムは突っ走っていきました。そして夢中でナイフを突き立て、落葉や木の根を切り裂くと、そこには穴がありました。奥の方の、遠くの方から、水の流れる音が聴こえます。どこかに続いています。湿った木の根の隙間から、イモリが一匹顔を覗かせ、アナムと目が合いました。アナムは、穴に飛び込みました。

 

焚火がありました。

洞窟の壁に、影が揺らめいていました。

影は女の形をしていました。影の女のはらは膨らみ、臨月のように見えました。

炎が揺れると、影も歪んでふらつき、次の瞬間、影の女のはらは平らになってしまいました。膨らみが消えたその代わり、影の女の両隣に、子どもの影法師がふたつ、現れました。パチチ、と薪のはぜる音がしました。影の女と影の子どもは手と手をつなぎました。そして何か不思議な、馬のような形をした影に三人は乗って、それから同じように馬の形の影がいくつも現れて、回りました。炎の光の当たる範囲の外側の方は歪んでぼやけて、影の輪郭はよくわかりませんでしたが、三人を乗せた馬の影はくるくる何度も回りました。これはなんだろう。アナムは思いました。

それから影の三人組は、大きな歯車のようなものの歯の先に、それぞれ果実が実ったみたいな形の影の、果実の部分に乗りました。それからまたぞろ、歯車は回りはじめました。なんだろう。あれもこれもなんだろう。アナムはそう思いました。叶うことなら私はそれを、観覧車というのだと教えてあげたい。それからさっきの馬たちは、メリーゴーラウンドというのだと。そこは遊園地というのだ。そこで遊ぶすてきな三人組は、親子というのだ。女性は母と呼ばれるのだと。

 

ギヤッという鳴き声が聞こえると、炎がバタバタのチカチカになって、影は激しく揺れました。どうやら焚火に、ネズミかなにかが落っこちてきたようです。なんとドンくさいネズミでしょうか。ネズミが必死で逃げ出して、炎が落ち着きを取り戻したら。いつのまにか影は、元の妊婦の形に戻っていました。アナムは意識がはっきりしてきました。

 

焚火の前には、一人の妊婦がいました。岩に腰かけておりました。半睡半醒のような視線で、ぼうっと炎を見つめていました。栗色の髪が裸体に真っすぐに垂れていて、アナムははじめて人間を美しいと思いました。その顔に表情と呼べる色はほとんどありませんでしたが、しかし。

それ以上に異様だったのは、そのお腹でした。へその右下あたりに、皮膚の一部が「窓」のような、透明な組織に置き換わっている部分があり、その奥の、彼女の胎内から、眼がひとつこちらを見つめているのです。

 

「縺薙%縺ォ縺! k縺橸シ!」

 

でたらめな思念がアナムの中に響きます。間違いありません。樹洞でアナムを救った声の主は、この胎児だったのです。耳で聴いているわけでなくとも、アナムは胎児の声に耳を傾けようと思いましたが、先刻のようにうまく意味をとることができません。

 

「謨吶∴縺ヲ縺上!」

 

アナムの鼻の先から、血がダラダラと流れてきました。樹洞の女に石で先ちょを削りとられたことを思い出すと、急にズキズキ痛みました。思わず顔をウッとしかめてしまいました。すると、焚火の妊婦が腰を浮かせて、右手を伸ばしてきました。それは、一度も油を差したことのないブリキ人形のような、軋みが聴こえてくるようなぎこちない動きでしたが、手のひらがアナムの鼻に触れると、熱いくらいに温かくて、不思議と痛みを忘れました。妊婦の手は、アナムの顔を覆いました。手はアナムの顔面を押したり引っ張ったりします。アナムは最初どうしたいのかわかりませんでしたが、やがて、近くに寄れ、と言いたいのだと理解しました。アナムは焚火を避けて妊婦に近づき、少し迷って、「窓」のある右半身が見えるよう、右隣に腰を下ろしました。こぶし二つ分くらい離れていましたが、右手で抱き寄せられ、身体が触れるかたちになりました。焚火の妊婦の乳房や、腋の毛が目線の高さにすごく近くて、あまり生々しいのでアナムは気持ち吐きそうになりました。思わずうつむくと、「窓」の目が、こちらを見上げています。そんなものを、アナムはどこで見たのか忘れてしまいましたが、オットセイを思わせる瞳でした。アナムはこわごわ、「窓」のあたりに触れてみました。妊娠線が縄文のように走っていました。

 

「謨吶∴縺ヲ縺上……」

 

アナムは、こんなふうにイメージしてみました。自分を折りたたんで辞書に変えるイメージです。たとえばアナムは、アナムの中で「自分」だと感じる「何か」の輪郭に、「wa・ta・shi」という音を強く結びつけてイメージしました。同じように、闇と土の匂いの輪郭に「do・u・ku・tsu」の音を、熱いほとばしりと光の輪郭に「ho・no・oh」の音をラベリングして、漢方医の背後に並ぶ抽斗的な小さな無数のマス目に一つ一つ収納していく要領で、いくつも同時にイメージしたのです。どうです? 試してみると、難しいでしょう? そう、アナムはとても賢い子なのです。もちろんアナムはそうは言いませんけれど、彼らの世界においてもとびきり賢い方の子なのですよ、おそらく。しかし、メノンの方も負けず劣らず、いややっぱり圧倒的に、凄かったのです。そう、メノン。

 

「ワタシ オシエテ。 ワタシ ニ オシエテ」

 

胎児は、すぐに必要な言葉を選びとることが出来ました。アナムは飛び上がるほどうれしく感じました。わかった、教えるよ、なんでも。教える! アナムはそう繰り返しました。そして大切な質問をしました。すなわち、「君は誰?」

 

「メノン」

「メノン?」

「ワタシ ハ メノン」

 

メノン。メノン。彼(彼女?)はメノン。

 

「言葉 ト 数学 ヲ ワタシ ニ オシエテ!」

 

その日、アナムに友人ができました。

 

それからアナムは、メノンの元に通いました。アナムの狩猟隊のチームメイトが全員死んだので、数日の休養を得ることができたのです。事案に対する聞き取り調査でも、もちろんメノンのことは触れませんでした。樹洞の奥から岩の隙間に滑り込み、地下水脈に流されて再び「街」に帰ることができたのだと報告しました。メノンは、「街」のことを聞きたがりました。

 

「街の中央には、産院があってね。おれたちみたいな狩猟隊が、森で保護した母体が運び込まれて、出産とか、ときどきは手術とかもやるんだよね。でも、産院のもっと大事なのは、教えるってことなのね。赤ん坊が取れたら、洗って、すぐに教えるんだ。つまり、メノンが言ってた通り、まずは言葉と、数学を。だいたい4歳児が教える役なんだけど、やっぱり神聖児ってすごいんだ。生まれて半年くらいで、すぐにリベラル・アーツでは教師を超えてしまって、そのあとは、それぞれに人類の重要課題を分野ごとに、手分けして、研究とか開発とか。だから、『三つ子の魂、百里を照らす』なんだ。2歳か、遅くても3歳までに、一人ひとつは人類史に残る業績を上げて。『千の蔵より子は宝』で、神聖児こそが、人類を導く何よりの資源なんだ。でも、『流れた血は傷口に還らない』から、だんだん知能が落ちてきたら、もう叡智には関われない。街の行政をやったり、生産をやったり、ってことになって、10歳には、もう……」

「もう? どうなるんだい?」

「バカになる」

「バカ……。アナム、君がその響きにとてもネガティブな含意を持っていることを感じるよ。その言葉は君を不愉快にさせる。何よりも、その言葉を君が君自身に向けているからだ」

「メノン、すげえな。ほんと。知的だな君は」

「アナムはどんな研究をしていたの?」

「思い出せないんだ。星や宇宙にまつわる何かだった、って気がするんだけど、それもただ、星を見上げると気分がいいからそう思うだけ」

「僕も星を見ると気分がいいよ。逆さまだから見にくいけどね」

アナムは笑いました。

「大丈夫、君は知的だよ」メノンは言いました。「それに、とても強い」

 

別の狩猟隊への編入が整って、仕事が再開しても、アナムは周囲の目を盗んでメノンの元に通いました。森の道中は危険だらけでしたし、焚火の妊婦はメノンの意志と関係なく移動するので、メノンに会うのは簡単ではありませんでした。が、星々と、メノンが飛ばす思念の信号を見失わなければ、なんてことはありませんでした。だけどその日は、アナムは気持ちが優れませんでした。

 

「メノンは、街に行きたいと思わないの?」

「街に?」

「うん。いつも街の話を聞きたがるじゃないか」

「ううん……、そうだな……」

 

明晰なメノンが珍しく口ごもりました。

 

「アナム、君はそうしてほしくないんだろ? どうしてなんだ?」

 

メノンにはお見通しでした。

 

「そんなの、わかってるだろ」

「じゃあ、どうして街へ行きたいかなんて訊くんだよ」

「それもわかってるくせに!」

「わからないよ」

 

アナムは向き直りました。

 

「9歳になったんだよ!」

 

大きな声でした。おれは今日、9歳になったんだよ。アナムは言いました。そして続けました。

 

「もう、9歳になったんだよ。それでさ、毎日、知能テストの点が下がるんだ。昨日わかったことが、わかんなくなる。仕事でだって。難しいのは、他のやつのだ。赤ん坊が、全然いないから、狩り、頑張らないといけないのに! メノンにも、数学も、簡単なのしか教えられてない。それも……。もうわかんないんだ。ちゃんと教えたのか。だって君はさ、おれが全然、言ってない言葉を、言うだろ。それで、おれ、震えるよ。何を教えたのかも、覚えてないのかって。メノン、もっと、頭のいい人と話したいだろ。ちゃんと分かる人と。おれじゃなくて。もっとおもしろい学問を知りたいよな。おれだって、そうするのがいいって思う。メノンだけのためじゃない。人類のためだ! お腹の中にいるからなのか? 君はちっともバカにならないじゃないか。『老いは黄金でも取り除けない』だぞ! それは、人類が、ずっとずっと欲しかった、でも、どんな生まれたてだって賢者にだって、つくれなかった黄金なんだ。街へ行けば、君は英雄。それでおれは、発電所のところだ。きみはすばらしいところ。きみは……」

 

アナムは泣いてしまいました。もしかすると、アナムが泣いたのは生まれて以来のことだったかもしれません。あるいは反対に、いつも泣いていたのでしょうか? よくわかりませんでした。それで、メノンは言いました。

 

「君を誤解させてしまったなら、本当にすまない。黙っているつもりはなかったのだけど」

 

すると焚火の妊婦がゆっくりと立ち上がりました。ぎこちなく数歩進んで、立ち止まりました。

 

「ついてきてくれるかい」

 

アナムが焚火の妊婦とメノンについていくと、洞窟のさらに奥に、星明りが降り注ぐ空間が現れました。洞窟の天井が崩れ落ちて、ぽっかりと夜空が覗いているのです。ここはメノンの「窓」みたいな場所だ、とアナムは比喩的な感覚になりました。そして陥没地形の奥の方には、暗くてよく見えないのですが、なにか大きなものが建っていました。その輪郭は直線がちで、明らかに自然の産物ではありませんでした。アナムたちは近づきます。それは、ピラミッドでした。ピラミッドはアナムも知っていました。なぜなら、「街」の産院はピラミッド型をしていましたし、「ピラミッド」と呼ばれてもいましたから。でも、産院よりもずいぶん小さいとはいえ、森のなかにピラミッドに似たものがあるなんて、驚きでした。

焚火の妊婦は、ピラミッドにしがみついて、一段ずつ登りはじめました。でもその登り方は、メノンの窓がある右のお腹を天にして、横向きに寄りかかるようにピラミッドを掴み、ズルズルと体を擦りながら這い上がっていくような危なっかしいやり方で、アナムは慌てて焚火の妊婦の下に体を滑り込ませて支えました。それからアナムはジャケットを脱いで、焚火の妊婦の肩の下に袖を通し、自分の胸の前でたすき掛けをするように縛りました。ちょっと長さが足りなかったので、シャツも結び足して使いました。アナムは彼女をおぶるような形で―もちろん幼いアナムの身体にはあまりにも重かったので、体重の3分の2は焚火の妊婦自身の脚で支えてもらいながらですが―、ピラミッドの頂上を目指しました。焚火の妊婦の栗色の髪がアナムにまとわりつきました。また、胸がアナムの背中に密着して、心臓の鳴動が伝わりました。それで彼女が生きていることが十分感じられたのですが、あいかわらず焚火の妊婦に表情というものはなく、その目は半睡半醒でした。やっと頂上に着きました。

 

滝のような汗をぬぐって目の前を見ると、アナムは言葉を失いました。眼下には、「街」と同じような建物が建ち並んでいたからです。いや、それは廃墟と化してはいましたが、建物を覆う木々や錆びがなければ、「街」よりも壮麗な景観だったかもしれません。洞窟の先は、少し崖のようになっていて、その下に廃墟が広がっていたのですが、よく見ると、崖の中腹から崩れた渡り廊下のようなものが突き出ています。アナムたちが立っているピラミッドは、ピラミッドではありませんでした。それは、もっとずっと高い塔の屋根の一部で、アナムたちの足の下で、その渡り廊下やほかのたくさんの部屋とつながっているのです。

 

「君と出会ってから、ここに来たのは初めてだ。僕は、あそこから来たんだよ」

 

メノンが言ったのは、遠くに見える、今立っているのと同じようなピラミッド屋根の塔でした。指ささなくてもアナムにはわかるのでした。

 

「あの建物の一室には、図書ルームがあるんだ。そこには無数の本があって、いくらでも叡智を引き出すことができる。僕は昔、そこにいたことがある。でも、その時は文字を……、いや、言葉さえ知らなかったから、内容を理解することが出来なかったんだ。君に文字を教わって、やっと記憶の中の文章や記号の一つ一つの意味がわかってきたんだよ。といっても、僕が見ることができたのは、ただ床に散らばって開いていたページだけだから、大した知識は持ってはいないけどね。ともかく、君に教わっていないボキャブラリーを僕が持っているのは、君が『バカ』になって教えたことを忘れてしまったからじゃない。いずれは君にもここを見せて、意見を聞きたかったけど、この身体に閉じ込められた僕には、よほど調子の良い日でなければ、ここまで母体を支配してくることができない」

 

アナムはあっけにとられるばかりでした。たしかに焚火の妊婦は項垂れて、消耗した様子でした。アナムの胸が痛みました。空は白んで、廃墟の街並みが呆けた光に照らされてゆきます。メノンが再び話しはじめました。

 

「僕はこれから、もっとも重要なことを言うよ」

 

焚火の妊婦がよろよろと腰を上げて、ピラミッドの反対側、朝日を浴びている側に回り込みました。アナムは慌てて焚火の妊婦を支え、追従しました。するとそこには、ピラミッド塔の屋根の一部がくりぬかれ、一体のミイラが横臥していました。繭のなかの蛹のようにすっぽりと収まっていました。アナムは、同じようなものはこれまでに見たことがありました。木の根かと思ったら、干からびた死体であったこと。でも、これまで気にも留めたことがありませんでした。なにしろ、アナムの仕事は、そのあたりに転がっているしなびた肉体のうち、比較的「食いで」のある老人を選んで機械で動かし、男たちを釣り上げることだったのですから、アナムたちにとってミイラ化した人間の肉体は、木の根とほとんど同じ意味しか持っていませんでした。たんに、200歳や300歳やあるいはもっと高齢の人間はそうなるんだろうとしか思っていませんでした。

ところが、ピラミッド屋根で夜明けの光を浴びているこのミイラは、とても背が低く、子どもに見えました。そしてよく見ると、左の方の眼窩だけが落ちくぼんで、眼球がないように見えました。アナムは怖くなりましたが、そのあとにメノンが言ったことは、すごく嬉しいことでした。

 

「僕はこの人間が、生きていたころを知っている。とても聡明な人物だった。でも、一度もこんな風に思考で通じ合うことはできなかったよ。アナム、僕の言葉を聞くことができるのは君だけなんだ。だから、たとえ『街』に行ったとして、そこで僕が英雄になれたとして、それは君が隣にいるときだけさ。もし君が何もわからなくなったら、僕の言葉もまた、誰にもわかられなくなるんだよ。僕は君を見捨てたりしない」

 

やにわに、アナムの右足が温かくなりました。焚火の妊婦が、ほんの少し顔をしかめてぷるっと震えました。小便をしたようです。尿がピラミッドを垂れていきます。しかしメノンは気づいておらずか、気にしておらずか、続けます。

 

「君と僕は双子なんだ」

 

メノンは、最初の記憶について語りました。それは断片的な記憶を、のちの推理によって補強したものでした。はじめ、アナムとメノンは二人して、焚火の妊婦のはらのなかにおりました。しかしやがて、アナムだけが大きく育つようになりました。二人で共有していた胎盤を通じて、アナムはメノンの分の養分まで吸収してしまったのです。胎盤のなかにはいつのまにか、「弁」のような構造ができてしまい、養分はメノンからアナムへ流れるばかりです。これを「双胎間輸血症候群(TTTS)」と言うと、メノンは後に図書ルームで知りました。そのままでは、アナムがメノンをすっかり飲み込んでしまって、はらのなかで独りになってしまうところでした。しかしそのころ、狩猟隊に焚火の妊婦が捕獲されました。母体は「街」のピラミッド、すなわち産院に搬入されました。そこでメノンは、燃え滾る化石燃料のような、強烈な臭気を感じました。アナムはそれを、「起動臭」だろうと推測しました。臨月に達した母体に嗅がせることで、強制的に産気づかせるホルモン薬です。そしてメノンは、独りになりました。アナムだけが生まれていったのです。未熟児のメノンがまだはらのなかにいることは気づかれないまま、焚火の妊婦は再び森に還されました。アナムはその一連の光景を思い浮かべることができました。まずは分娩台の血が拭かれたに違いありません。そしてすぐに「輸血袋」役のティーンエイジャーが連れてこられて、母体に足りなくなった血液が補充されたはずです。狩猟隊の一員は、自分が保護した母体にだけ、出産の立ち合いを許されました。それは狩猟隊にとって最も尊い瞬間であり、誇り高い気分になれるグレイト・イベントでした。そして神聖児は臍の緒を断ち切られると、産湯にとられたまま即座に教育室に運ばれます。彼らに授けられた叡智の光の一筋も漏らさぬよう、全人類の威信を賭けた努力が払われるのです。遠くなっていく産声を聴くと、必ず母体は暴れ、あらゆるモノを破壊しはじめますから、最初から台に固定されているのがメジャーです。そしてそのまま、森へ戻すのも狩猟隊の栄誉の仕事です。管理繁殖、人工授精、人工子宮。これまで何度も追及された試みでした。しかしなぜだか不思議と、退行人類は野生の環境でしか繁殖することができないのでした。メノンは、森を徘徊する焚火の妊婦のなかで、やっと一人分の養分にありつき、ゆっくりと成長していきました。

 

メノンは、言いました。

 

「アナム、君が9歳になったってことは、僕も9歳になったってことだ。今日は二人の誕生日なんだ」

 

アナムがどれほど救われたことでしょう。廃墟の塔も、ねじれた木々も、すっかり朝焼けの夢色に染まって、空はどこまでも高く、ピラミッドには冷たい風が吹いていました。いまこの惑星に、誕生日をお祝いするというアイデアはありませんでした。しかし二人は、世界ではじめてバースデー・パーティーを発明したのです。二人は、その辺のムカデを捕まえて食べました。夜が明けてしまったので、正確には誕生日の翌日なのですが、もちろんそんなことはどうだってよかったのです。

 

アナムはその足で、仕事場に向かいました。さすがに少し眠たかったのですが、それ以上に高揚した気分であったので、気をつければ危険はないと感じていました。それに、ここ最近は森で大人を発見すること自体減っていたのです。今日一日、何もなければそれで構わないと思いました。

ところが、集合場所に着くと、かつて見たことのない大勢の人だかりがありました。ほとんどの狩猟隊が、一度に集められているようでした。小高い丘になっているところに、5歳くらいの官僚が数人と、ベビーカーが3台ありました。特B型のベビーカーが2台と、特AA型に保育器が一体になった躯体が1台です。その背後には、電子計算機の筐体とケーブル、そして巨大なカゲロウの四枚翼のような何らかの計器が立てられています。一体何がはじまるというのでしょうか。官僚の一人が、拡声器のスイッチを入れました。

 

「『流れた血は傷口に還らない』と言うもので、時間の空費をできるだけ避けさせてもらいますが、まずは日々、出生率の向上に向けたみなさんの業務に敬意を表します。『三つ子の魂、百里を照らす』とは言いますがしかしながら、資源の『歩留まり』は悪化の一途にあり、抜本的な枯渇解消に向け、此度は試験的な広域熱誘導回収措置を講じます」

 

隣の5歳児が咳払いをして、拡声器をなかば奪うように代わりました。

 

「えーつまり、森のこのあたりに、火をつけます。とても熱いので、妊婦たちが反対側から出てきます。わかりますね? ハイ。みなさんは、火を守る係と、妊婦たちを保護する係にわかれてもらいます。チーム分けは、あとで指示をします。ので、まだ動かないように。いいですね? OK? エエ。それから、炎はあらかじめ想定の区域というか、ゾーンより燃え広がることはありません。なので、怖がる必要はありません!」

 

カゲロウのような巨大翅が向きを微妙に変えつづけています。おそらくそれは風向計でしょう。それぞれの隊の長に、レシーバーが配布されました。一方のグループには十分な量の化石燃料も。アナムは点呼に漏れるのも気にせずその場を去って走りました。頭の中でメノンに目がけて、あらんかぎり叫びました。

 

「逃げてくれ!!」

 

メノンは、それは、ピラミッドの洞窟も燃焼区域に入っているのかと問いました。アナムにはわかりませんでした。しかし、区域に入っている、そんな気がしました。そんな気がしてならない根拠を胸や頭の内で探りました。すると、あのカゲロウの風向計に見覚えがある気がしました。それから固形燃料の匂いにも。アナムはそれらの性質をよくよく知っているという感触がありましたが、具体的なことは何も思い出せません。だから仕方がなく、アナムはその感触だけをできるだけそのまま、メノンの脳内に組み立て直すことをイメージしながら走りました。

 

「……ありがとう。たしかに、このあたりも区域内に思えるよ。おそらく南西と南東から点火して、時間をかけて一カ所に誘導するように燻りだすつもりなんだ。北は谷川とガレ場に遮断されていて、それ以上の延焼がない」

「それなら、」

「ダメだ。今日はもうこれ以上1ミリだって母体を動かせやしない」

「おれが助けにいく」

「一人で背負えるわけないだろう」

「関係ない」

「……」

「あいつら、何もわかってないんだ。そんなことしたら、動く大人同士、食い合って、逃げ遅れるに決まってる」

「そうだな」

「母体は、自分で逃げないのか!? 危なくなれば勝手に走り出すはずだ。おれ、いっしょに走って守る」

「違うんだ、君と別れたあと、母体はバランスを崩して脚の腱を切ってしまったんだよ。物理的に立ち上がれないんだ」

「畜生!」

 

ここは「バカ」と同じ語を叫んだはずですが、私たちの言語においては紛らわしいので別語に置き換えました。とにかく強く汚い言葉です。

 

「なあアナム、助けに来てくれるなら、あの、人間を動かす針を持ってきてくれないか」

「あれは死体に使う、母体には……!」

「いや、ミイラを運びたいんだ」

 

ミイラ。アナムは一瞬わかりませんでした。ミイラ。あの、眼のない子どものミイラです。そんなもの……と言いかけましたが、アナムは冷静に、あれは自分一人ではもう使い方がわからないということ、それから動いたとしても出鱈目に走り回るだけで、炎からは逃げられないということを伝えました。しかし、

 

「僕がなんとかする」

 

と言うので、そして実際に、きっとなんとか改造してしまうだろうとも思ったので、アナムは苛立ちながらも、道なき道で踵を返しました。先ほどの場所に戻って、8歳児の腰袋から機械をくすねなければなりません。

 

一方、メノンは、まだピラミッド屋根の頂上にいました。そして、焚火の妊婦は脚に怪我など負っていませんでした。しかしメノンは、全力を振り絞って、彼女を立ち上がらせました。そしてピラミッドの縁に手をかけ、一番鋭く尖った石段を手探りで見つけると、左脚の腱を思い切りそこに打ち付けさせました。血が噴きました。焚火の妊婦が苦痛に顔を歪めました。メノンは思念の限りを捻じ切り出して、何度も何度も打ち付けさせました。ギャオオオオッと焚火の妊婦が。損壊に引き千切れる咆哮。そして。

 

火はすでに放たれています。

 

どうする。

アナムは引き返したはいいものの、インジェクタを手に入れる方策が浮かびませんでした。そう易々と、ナイフを持った8歳児から荷を奪うことなどできるでしょうか。難しいはずです。結局アナムが思いついた苦肉の策は、バカのふりをすることでした。官僚たちやベビーカーに乗った神聖児たち、数々の機器があるということは、使いや運搬用のティーンエイジャーらがいるに違いありません。彼らよりまだ身体は小さいものの、とびきりバカのふりをして混ざり、隙を見てインジェクタの入った腰袋を奪う。アナムには自信がありませんでしたが、やるしかありません。アナムは適当な木の枝を拾うと、走りながら二つに折りました。そして片方を右鼻の穴と下唇の間に、もう片方を左鼻の穴と下唇の間に挟みました。イノシシの顔真似、あるいはほっかむりさえあれば、ドジョウ掬いでも構いません。アチャラカ、アチャラカ、アチャラカホイ。とびきりのバカとして現れる。アナムは覚悟を決めました。その瞬間、アナムは何かに足を取られて転倒しました。木の枝が両鼻の穴に突き刺さりました。痛い痛い痛いっ。あああああっ! 何をやってんだおれはっ! すぐさま棒をかなぐり捨てて、それでもアナムは前を向きました。はたと、自分がいる場所がどこだかわからないことに気づきました。普段は単独行動や、複雑な道のりは絶対に避けるところを、あちらへこちらへ走ったので、いっさい迷ってしまったのです。バカバカバカッ! おれはなにをっ……! アナムはべそをかきそうでした。うずくまってしまいました。しかしすると、自分の足にひっかかった木の根が、きらっと光ったのが見えました。よく見るとそれは、木の根ではありませんでした。それは、ミイラ化した老人の左腕です。そしてその断面からは、細こいフィラメント線がきらきら光って伸びているのです。メノンに出会ったあの日使った機械です! アナム以外の全員が死に、アナムは持ち場を異動になったので、回収されずに残っていたのです。アナムは必死でフィラメントを辿り、這いずり回って細切れになった老人の干し肉片を集めました。頭部は割られていましたが、頚椎の部分にインジェクタが残っていました。アナムは大喜びでリールを回して、フィラメント線を巻き取ります。カラカラカラカラ、カチ、ガツ、ガツ。引っ掛かったところはミイラを細かく割いて、割いて、割いて無心に光沢糸を引き抜きました。高圧ボンベと圧力調整ネジの接続部がガバになってどうしても嵌らないのにまた泣きそうになりましたが、とにかくこのまま持って行けばメノンがなんとかするだろうと思い、部品を腰袋に引っかき集めて立ち上がりました。

 

メノン!

 

叫んだ瞬間、足元で、老人の死体のそれぞれから、ドス黒い液体があふれ出してくるのに気づきました。液体はドロドロで、あとからあとからあふれ出し、いったいそんな小さな切れ端の、どこに入っていたのかというほどの量が、ドンドン出てくるではありませんか。

 

時を同じくして。メノンの目の前で、ピラミッドのくぼみに横臥したミイラからも、液体があふれ出しはじめました。ミイラの左目と口の奥から、ドス黒い粘液が。それはよく見ると、黒いばかりでなく緑がかってもいました。メノンは驚愕しました。ミイラから零れ出した液体が、焚火の妊婦の左脚からピラミッドへ伝う鮮血と交じり合い一本の流れになりました。

 

「流れた血は傷口に還らない」

 

メノンははじめて、アナムの口癖を真似ました。崖下を見下ろすと、森のあちこちに黒い液体の染みが広がっているのが見えます。木の根に混じったミイラが、きっとそこここに埋まっているに違いありません。メノンは森をひた走るアナムに思念を飛ばしました。

 

「アナム、お願いがある。そのインジェクタを持って、東の発電所に向かってくれないか」

 

(続)

 

梗概の段階で、円城先生をはじめ大森先生、伊藤先生に「1万6千字では収まらないのでは/1万6千字にすると一本道になってしまうのでは」とフィードバックを頂きました。
実際に1万6千字ほど書いてみると、ご指摘の通りまったく物語が終わりませんでした。本作は個人的に書き進めようと思いますので、もし差し支えなければ、後学のため本提出分まででフィードバックを頂けると大変嬉しく存じます。

文字数:15917

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