クロノサーモン

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梗 概

クロノサーモン

時間の流れを遡り、過去の川に産卵する生態を持つ鮭を発見する水産研究者の主人公たち。乱獲によるタイム・パラドックスを恐れ発見を秘匿しようと考えるが、数年先からやってきた世代の鮭が異常な量の放射線に曝された痕跡を持つことに気づき、未来に核戦争が起こることを知る。主人公は、時を超える鮭と対峙し、目まぐるしく改変される世界線に翻弄されながらも、滅亡を防ぐため発見の公開に踏み切るが、代償としてある旧友を喪失する。

***

フィン・マク・クワァルは、食べてはならない「知識の鮭」の脂を舐めたことで、予言者の智慧を授かった。
―アイルランド神話体系・フィン物語群

北海道のある場所で、「私」が「厚岸」という水産技術研究者から受けた相談は、その伝承を思い起こさせるものだった。

厚岸は、海で鮭が消えるのだという。

たしかに10年前から海ではパンデミックが起きていた。
凶悪なウイルスによって、天然魚も養殖魚も死んでいた。

しかし厚岸は、鮭は「死ぬ」という意味で消えているんじゃない、文字通り消えている、と続ける。

厚岸は、天然の鮭だけがウイルスへの耐性を獲得しつつあることに気づき、ひそかに海に向かう稚魚にバイオマーカーを付与していた。
野性の海洋生物に人工物を加えることはここ数十年で固く禁じられるようになったので、それは秘密の実験だった。

回遊性の高い生物の実際の旅のルートは謎に包まれていることが多いが、とにかく厚岸曰く、海のかなたでマーカーを付けた鮭が消えてしまうというのだ。
そして、厚岸が取り出してみせたのは、研究所に保存されていた20年前の鮭の耳石のサンプルが、マーカーの反応を呼び起こす波を加えることで光る様だった。

一般的に鮭は、川で生まれ、成長に伴い冷たい海を旅し、母川に帰って死ぬと知られているが、厚岸の唱える「本当の生態」はこうだ。
稚魚は群れで海へ出て、成魚になるころ、潮の流れに逆らって“過去の潮流”を感知する。
その瞬間、群れは忽然と消え、数年か数十年か、過去の河口に現れる。

北海道では、ロシアのアムール川やその支流に戻るある種の鮭のうち、晩春から夏にかけて沿岸で獲れる時期外れのものを「トキシラズ(時鮭・時不知)」と呼んで好んで食する文化があるが、時間を遡上するこの種の鮭を厚岸は「クロノサーモン」と仮称する。
クロノサーモンは、過去の個体と交わることで、未来の環境変化や病原体に対して得た耐性をあらかじめ伝える生態を進化のなかで獲得した、というのが厚岸の仮説だ。

ここまで聞いていた「私」は、そもそもたんに学生時代に一度同じクラスに属していただけの関係性である厚岸が、なぜそんな話を自分にするのかを疑問に思う。
厚岸は、「じつは他の多くの歴史では、我々は恋人同士なのだ」と語る。

だが私と厚岸は二人とも男性だし、少なくとも私は異性愛者である。
ところが厚岸は、クロノサーモンの生態を明らかにしたことで、世界線の変化を認識するようになったというのである。
クロノサーモンの性質上、現代でどの鮭が生き残るかが過去に影響を及ぼす。一尾の鮭が生まれるか否か程度の差は、歴史にとっては些細なことに思えるが、過去で生まれた鮭はさらにそのまた過去に影響を及ぼし、そのまた過去に…とループすることを考えると、けして影響が少ないわけではないことがわかる。

たとえば、黒船に乗っていたペリー一行は函館で鮭を獲り飢えを凌いでいたが、未来の鮭を殺すことによってその年のクロノサーモンが減少し、結果ペリーが死んだとしたら、日本の歴史は大きく変わるだろう。
厚岸曰く、クロノサーモンはこれまでも幾度となく過去に干渉し、歴史を変えて来たのだが、人間がそれを認識しなかったために、世界はなんの問題もなく回っていたのだという。

ところが、厚岸は時間遡上現象を認識したがために、自らが干渉した鮭によって変更される歴史を認識できるようになってしまった。
ほとんどの生き物にとって、気づかないうちに歴史が変わっていようがおかまいなくただ今を生きるだけだし、厚岸だってこれまでは世界線が書き変わる瞬間をたんなるデジャビュや夢と解釈し、あたらしい世界に則した記憶をもって暮らしていた。
しかし、現象を認識したが最後、デジャビュや夢が「本当の体験」だったことに気づいてしまうのである。
そして人間におかまいなく、鮭は時流を泳ぎ回り、歴史を少しずつ変えていく。

目の前にある1尾の鮭が持つ運命の重みにたじろく私。しかも腹からはプリプリのイクラがどっさり出て来て血の気が引く。

そう話している間に、厚岸が女性になった。
私は、男だった厚岸を覚えていながら、同時に女性の厚岸と親密な不倫関係にあるというこの世界線での記憶も頭の中にあることに気づき、激しく動揺する。

そして私は、突然抗えないほど厚岸を欲望し、その場で迫る。
「お前が私にこのことを話した理由が分かった。研究を公表すれば、クロノサーモンに注目が集まり、乱獲によって歴史が大混乱ことは間違いないから、秘匿しようと考えたのだろうが、一方でこの分裂した知覚を一人で生きる孤独に耐えられずに、私を巻き込もうとしたんだな」「でも、私はこのことを公開してしまうかもしれない。そうされたくなければ、今ここでいつものように私と関係するんだ」

しかし今度は私が激しい痛風持ちの男に変化し、身動きが取れなくなってしまう。
厚岸は、私にクロノサーモンの秘密を教えた理由を語る。
クロノサーモンが何年の時を遡るのかはまだわからないが、未来から現代にやってくる鮭に、明らかに異常な量の放射線に曝された痕跡や、奇形の因子があるのだという。
これは未来に大規模な核戦争または重大な原子力事故が起こることを意味する。これは何度世界線が更新されても変わらなかった。
発見を公表すれば混乱を招く。しかし未来を共有し、国家の枠を超えて協力しなければ危機は回避できない。

そこで厚岸は、時間遡上性生物の研究を一般に極秘扱いにしながらあらゆる国家の指導層に共有し、放射線を含む鮭が消えるまで将来のカタストロフを避けるための平和的な選択を取っては観測を続けるということが世界を救う唯一の方法だと考え、多くの世界線で恋人であり、2075年の独裁政権に属する議員である私に相談しに来たのだった。

私は、世界がそこまで合理的に動くことができるのか疑問視しながらも、厚岸の考えの通り働きかけることにする。
数年後、やはり国家は情報を機密に保つことができず、世界線の書き換えは周知の事実となってしまう。どのように世界が変わったかを記録・分析する世界線歴史学と言えるような分野も成立し、人々は真実というものの姿をなかば見失いながら暮らしていた。
どうやらトキシラズ以外にも、時間遡上性の生物が発見されたという噂もあるが、今の世界線での私は一介の釣具屋であり、最新の研究にアクセスする手だてもない。

やがて、北海道の海に残された無人の小舟から、厚岸の置手紙が発見される。
厚岸は姿を消してしまったのだ。
それ以来何度世界線が書き変わっても、二度と厚岸は現れなくなる。
私は、厚岸がクロノサーモンが時間を遡上する仕組みを解明し、厚岸自身が過去に行ったのではないかと考える。

アイルランド神話における「知識の鮭」は、「智慧の実」であるハシバミの実を食べることで叡智をその身に蓄える。一部の有毒生物や発光生物がそうするように、クロノサーモンも、他の生物から時間遡上の力を手に入れるのかもしれない。
しかし私は、アイルランドを訪れてハシバミの実を食べてみても、過去に行くことはできない。やがてクロノサーモンの生態は一般からは忘却され、徐々に厚岸が言ったように秘密裏な研究の管理下におかれるようになり、頻繁に世界線が分裂する認識を持つ者も、ある一定の世代に限られた世代病となる。
私は、北極海の方向を眺めながら、時々厚岸を思い出す。

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