クロノサーモン

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梗 概

クロノサーモン

時間の流れを遡り、過去の川に産卵する生態を持つ鮭を発見する水産研究者の主人公たち。乱獲によるタイム・パラドックスを恐れ発見を秘匿しようと考えるが、数年先からやってきた世代の鮭が異常な量の放射線に曝された痕跡を持つことに気づき、未来に核戦争が起こることを知る。主人公は、時を超える鮭と対峙し、目まぐるしく改変される世界線に翻弄されながらも、滅亡を防ぐため発見の公開に踏み切るが、代償としてある旧友を喪失する。

***

フィン・マク・クワァルは、食べてはならない「知識の鮭」の脂を舐めたことで、予言者の智慧を授かった。
―アイルランド神話体系・フィン物語群

北海道のある場所で、「私」が「厚岸」という水産技術研究者から受けた相談は、その伝承を思い起こさせるものだった。

厚岸は、海で鮭が消えるのだという。

たしかに10年前から海ではパンデミックが起きていた。
凶悪なウイルスによって、天然魚も養殖魚も死んでいた。

しかし厚岸は、鮭は「死ぬ」という意味で消えているんじゃない、文字通り消えている、と続ける。

厚岸は、天然の鮭だけがウイルスへの耐性を獲得しつつあることに気づき、ひそかに海に向かう稚魚にバイオマーカーを付与していた。
野性の海洋生物に人工物を加えることはここ数十年で固く禁じられるようになったので、それは秘密の実験だった。

回遊性の高い生物の実際の旅のルートは謎に包まれていることが多いが、とにかく厚岸曰く、海のかなたでマーカーを付けた鮭が消えてしまうというのだ。
そして、厚岸が取り出してみせたのは、研究所に保存されていた20年前の鮭の耳石のサンプルが、マーカーの反応を呼び起こす波を加えることで光る様だった。

一般的に鮭は、川で生まれ、成長に伴い冷たい海を旅し、母川に帰って死ぬと知られているが、厚岸の唱える「本当の生態」はこうだ。
稚魚は群れで海へ出て、成魚になるころ、潮の流れに逆らって“過去の潮流”を感知する。
その瞬間、群れは忽然と消え、数年か数十年か、過去の河口に現れる。

北海道では、ロシアのアムール川やその支流に戻るある種の鮭のうち、晩春から夏にかけて沿岸で獲れる時期外れのものを「トキシラズ(時鮭・時不知)」と呼んで好んで食する文化があるが、時間を遡上するこの種の鮭を厚岸は「クロノサーモン」と仮称する。
クロノサーモンは、過去の個体と交わることで、未来の環境変化や病原体に対して得た耐性をあらかじめ伝える生態を進化のなかで獲得した、というのが厚岸の仮説だ。

ここまで聞いていた「私」は、そもそもたんに学生時代に一度同じクラスに属していただけの関係性である厚岸が、なぜそんな話を自分にするのかを疑問に思う。
厚岸は、「じつは他の多くの歴史では、我々は恋人同士なのだ」と語る。

だが私と厚岸は二人とも男性だし、少なくとも私は異性愛者である。
ところが厚岸は、クロノサーモンの生態を明らかにしたことで、世界線の変化を認識するようになったというのである。
クロノサーモンの性質上、現代でどの鮭が生き残るかが過去に影響を及ぼす。一尾の鮭が生まれるか否か程度の差は、歴史にとっては些細なことに思えるが、過去で生まれた鮭はさらにそのまた過去に影響を及ぼし、そのまた過去に…とループすることを考えると、けして影響が少ないわけではないことがわかる。

たとえば、黒船に乗っていたペリー一行は函館で鮭を獲り飢えを凌いでいたが、未来の鮭を殺すことによってその年のクロノサーモンが減少し、結果ペリーが死んだとしたら、日本の歴史は大きく変わるだろう。
厚岸曰く、クロノサーモンはこれまでも幾度となく過去に干渉し、歴史を変えて来たのだが、人間がそれを認識しなかったために、世界はなんの問題もなく回っていたのだという。

ところが、厚岸は時間遡上現象を認識したがために、自らが干渉した鮭によって変更される歴史を認識できるようになってしまった。
ほとんどの生き物にとって、気づかないうちに歴史が変わっていようがおかまいなくただ今を生きるだけだし、厚岸だってこれまでは世界線が書き変わる瞬間をたんなるデジャビュや夢と解釈し、あたらしい世界に則した記憶をもって暮らしていた。
しかし、現象を認識したが最後、デジャビュや夢が「本当の体験」だったことに気づいてしまうのである。
そして人間におかまいなく、鮭は時流を泳ぎ回り、歴史を少しずつ変えていく。

目の前にある1尾の鮭が持つ運命の重みにたじろく私。しかも腹からはプリプリのイクラがどっさり出て来て血の気が引く。

そう話している間に、厚岸が女性になった。
私は、男だった厚岸を覚えていながら、同時に女性の厚岸と親密な不倫関係にあるというこの世界線での記憶も頭の中にあることに気づき、激しく動揺する。

そして私は、突然抗えないほど厚岸を欲望し、その場で迫る。
「お前が私にこのことを話した理由が分かった。研究を公表すれば、クロノサーモンに注目が集まり、乱獲によって歴史が大混乱ことは間違いないから、秘匿しようと考えたのだろうが、一方でこの分裂した知覚を一人で生きる孤独に耐えられずに、私を巻き込もうとしたんだな」「でも、私はこのことを公開してしまうかもしれない。そうされたくなければ、今ここでいつものように私と関係するんだ」

しかし今度は私が激しい痛風持ちの男に変化し、身動きが取れなくなってしまう。
厚岸は、私にクロノサーモンの秘密を教えた理由を語る。
クロノサーモンが何年の時を遡るのかはまだわからないが、未来から現代にやってくる鮭に、明らかに異常な量の放射線に曝された痕跡や、奇形の因子があるのだという。
これは未来に大規模な核戦争または重大な原子力事故が起こることを意味する。これは何度世界線が更新されても変わらなかった。
発見を公表すれば混乱を招く。しかし未来を共有し、国家の枠を超えて協力しなければ危機は回避できない。

そこで厚岸は、時間遡上性生物の研究を一般に極秘扱いにしながらあらゆる国家の指導層に共有し、放射線を含む鮭が消えるまで将来のカタストロフを避けるための平和的な選択を取っては観測を続けるということが世界を救う唯一の方法だと考え、多くの世界線で恋人であり、2075年の独裁政権に属する議員である私に相談しに来たのだった。

私は、世界がそこまで合理的に動くことができるのか疑問視しながらも、厚岸の考えの通り働きかけることにする。
数年後、やはり国家は情報を機密に保つことができず、世界線の書き換えは周知の事実となってしまう。どのように世界が変わったかを記録・分析する世界線歴史学と言えるような分野も成立し、人々は真実というものの姿をなかば見失いながら暮らしていた。
どうやらトキシラズ以外にも、時間遡上性の生物が発見されたという噂もあるが、今の世界線での私は一介の釣具屋であり、最新の研究にアクセスする手だてもない。

やがて、北海道の海に残された無人の小舟から、厚岸の置手紙が発見される。
厚岸は姿を消してしまったのだ。
それ以来何度世界線が書き変わっても、二度と厚岸は現れなくなる。
私は、厚岸がクロノサーモンが時間を遡上する仕組みを解明し、厚岸自身が過去に行ったのではないかと考える。

アイルランド神話における「知識の鮭」は、「智慧の実」であるハシバミの実を食べることで叡智をその身に蓄える。一部の有毒生物や発光生物がそうするように、クロノサーモンも、他の生物から時間遡上の力を手に入れるのかもしれない。
しかし私は、アイルランドを訪れてハシバミの実を食べてみても、過去に行くことはできない。やがてクロノサーモンの生態は一般からは忘却され、徐々に厚岸が言ったように秘密裏な研究の管理下におかれるようになり、頻繁に世界線が分裂する認識を持つ者も、ある一定の世代に限られた世代病となる。
私は、北極海の方向を眺めながら、時々厚岸を思い出す。

文字数:3201

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クロノサーモン

 かつて札幌だった街の上方をサケは泳いでいた。しかしそこは空ではなく、海だ。いや、海と川が混ざる汽水域だ。いや、空にせよ、海にせよ、川にせよ、いずれにしてもそのサケの目に映る水中の世界は、水産技術者が目を覆いたくなる有様だった。地球は暑かった。地球中の氷はほぼ溶け、人類の大部分が文明の置き場所に選んできた平地は海に沈んだ。永久凍土から蘇った太古の病原菌か、海に呑まれた都市由来のケミカルな物質か、それらとその他のさまざまな要因の合わせ技によるものか、海では魚が死んでいた。エビもカニもホタテも死んでいた。とにかくそのサケは、ひどく閑散とした沈没都市を眼下に泳いでいた。このサケが、見つかっている限りこの類のサケだけが、あの白亜紀末の大隕石の到来以来と言えるこの大絶滅に対して、なんらかの抵抗力を持って元気に泳いでいるのだ。このサケの秘密を解かない限り、おれたちに明日はない。水産省からの圧もすごいのだ。

 

「ここで方向転換です」

 

 根室が言う通り、サケはなにかを感じとりそこで踵を返した。母川に向かうのだろう。サケは記憶力に優れ、生まれた川の匂いを忘れず必ず帰る。河口を目指し、急浮上するサケ。海と川、深層と表層を行き来するこの魚の生物としての力強さにはいつでも驚かされる。グングンと泳ぐサケ。しかし次の瞬間、おれたちはポンと投げ出された。

 

「消えました」

 

 と、根室。サケが消えた。わが社が開発に成功した、海水魚の眼球に寄生する吸虫をモデルにしたナノカメラだけが、水中に取り残された。ナノカメラは、宿主の水晶体を求めてうにょうにょっと身をよじらせたのを最期に、生体から電力をとることができなくなり、オフになった。暗くなった画面。

 

 おれは言った。

「サケが消えるってのはどういう意味なんだ」

 根室は答える。ややアシカに似た若手だ。

「そのまんまの意味です。忽然と、です。残されたのは瞳のなかのマシンだけ」

「そりゃ、たんに食われたんじゃないのか。ミサゴにかぎ爪でひっ捕まえられたとか、シャチなりアシカなりが食いちぎったとか。その拍子に、瞳が破けてマシンが飛び出た、それだけの話だろう」

「ミサゴとシャチとアシカは絶滅しましたよ」

 根室のアシカに似ているのは目つきなのだ。見つめられると不安になる。不気味なうえ、同期とさえもコミュニケーションを取ろうとしないので、困るのだ。それはさておき、

「捕食者がなんであれだよ」

「これはほんの一例なんですよ。ナノカメラを寄生させたサケのうち、少なくとも3%はまったく同じように消えています。もっと増えるかもしれません。そのすべてが、ナノカメラだけを綺麗に残した食事だとは考えにくい」

 おれは深いため息をついた。

「……また新しい病気だと思うか?」

ミサゴが絶滅したときも、シャチが絶滅したときも、アシカが絶滅したときも、おれは悲しくてやりきれなかったのだ。おれは生き物が好きだ。子どもの頃は、たしかに地球環境は重大な危機に向かっていたが、それでも人類が手を取り合えばまだ引き返すことができる位置にいる、そういう空気があった。ところがいまの地球はもうすでに、人類による所々の食い穴が目立つという段階を超え、既存の秩序を根底からひっくり返そうとしているように見える。いずれ人類は飢えて死ぬしかない。そんななかでわずかな希望に思えたサケまでが新たな病で滅びていくのだとしたらおれはどうすればいいのだ。水産省からの圧だってすごいのに……。

 しかし、全身が一瞬にして消滅してしまう病気なんていくらなんでもあり得るだろうか?

 

 おれたちは、サケが消えた地点のマッピングからとりかかった。ナノカメラを仕込んだサケが現在地までに辿った軌跡を表示し、その上にサケの消失点をポイントしていくと、あることがわかった。消失するサケは、他の多くのサケがとるルートから外れた場所で消えている。今ではほとんどのサケが北極海の周縁で夏を過ごすが、一足先に北極でのUターンを決めた若いサケがふらりと姿を消しているのだ。

「トキシラズですね」

 厚岸という古株の社員が言った。

「ぼくの地元では、時期外れに獲れるサケをトキシラズといったんです。脂が乗っててことのほか旨いんですよ。トキシラズが消えるっていうのは、これは普通のサケが消えるよりも損失がでかいですよ」

 おれはその軽口が妙に気になった。

「たしかに、映像を見ても、消えたサケは若くて元気そうな個体ばかりだった。食っても旨いのかもしれない」

そこまで言って気がついた。厚岸も気づいたようだ。

「元気な個体が消えるということは、この現象は病気によるものではない?」

もちろん、若くて元気そうに見えるというだけで、味はわからないが。なにしろ消えているのだから確かめられない。しかし、この現象がこれまで幾度となく繰り返されたような流行病のもっとも特異な一種であるという可能性が低まって思えることは、いささかの希望をおれたちに与えた。多分に漏れない厚岸も言った。

「現象の原因が生物由来じゃないってことなら、言ってしまえば、その、ラッキーですね。そんならこれはウチの請負範囲外のマターだ! 水産省に預けちゃえばいい……、いや、預けたほうが良いんではないでしょうかね」

 

「じゃあ何で消えるって言うんです?」根室が言った。「ブラックホールにでも吸い込まれたんですか?」

「だったらなおさら管轄外だ!」厚岸はいかにも嬉しそうに見せた。実際、考えられないことではなかった。ブラックホールとは言わないまでも、強力なトルネードのような水流がサケを飲み込んだのかもしれないというシナリオは最初の段階からテーブルにあったし、その原因は、地学的な力や、工業施設の何らかの悪影響などわが社の委任範囲外に求めることはいくらでも可能に思えた。

 

「そんなものじゃないと思います」と根室は言った。「わたしは純粋に生物的な原因だと思う」

「なぜそう思うんだ」とおれ。

「サケはどの子も、消失についてあらかじめ知っていたように見えます」

「あらかじめ知っていた?」

「あれが”巻き込まれた”ように見えますか? わたしには、サケたちの消える直前のあの加速は、水流と水流の隙間に生まれた「消失の扉」のようなものに、自らからだを“滑り込ませた“みたいに見える。極めて自然で能動的で、つまり……」

「本能的な」

「そう、本能的な。そもそも、この現象がいま発生した異常だと考えるのをやめません? 回遊魚がたどるルートを一匹単位で観測したこと自体、ナノカメラの開発以来のことじゃないですか。消失自体ずっと起きていたのに、人類が今気づいたというだけのことかもしれませんよね?」

「おれたちはずっとサケが消えるのを見過ごしてきた?」

 根室はうなずいた。

「今はじめて消えたんだと考える方が傲慢です」

「傲慢、か」

「コロンブスが発見する前から、アメリカ大陸は存在していましたよね」

 もちろん今はウォール街もシリコンバレーも海に属している。

 

「じゃあなんだ、サケが本能的にテレポートしたり透明人間になったりするってことですか。超能力の話じゃないか」厚岸はそう言った。おれはそれに応答する。

「まあまあ、そもそも何万キロも泳いで生まれた川に戻ってくるってこと自体がほぼ超能力なんだ。いったんその線も考えてみてもいいじゃないか」

「ボス、そもそもこの世には、物理法則がありますからね」

「怪現象は現に起きているんだから仕方ないじゃないか。思考方法を変えよう、広く考えろ」

 プロになればなるほど、突拍子もない仮説を立てるのに勇気を要するようになる。研究職に限らずありがちなことだ。ここは若手に合わせてもいいじゃないか……。仮にサケの消失が、生態に組み込まれたごく自然な行動だとしよう。だとすれば、

「トリガーですね」根室が言った。

 そうだ、月が満ちればサンゴが産卵するように、光があれば羽虫が向かっていくように、本能的な行動には起動スイッチがあるはずだ。サケの特徴的な性質といえば、地磁気を感じとるセンサー、人間の数十万倍から数百万倍の感度を持つ嗅覚、からだが腐敗をはじめるまで生きて泳ぎ続ける強靭な生命力……。おれは、匂いだ、と思った。根拠はない。根拠はないが、論理的な思考とは別の回路で考えてみるのだ。サケは、幼魚の時代に母川の匂いを刻み込むように記憶する。そして、はるかな海流のカオスのなかでその香りを見つけて帰ってくる。このあたりが気になるのである。

 

「街角で、突然なつかしい匂いが漂ってくる瞬間に、名前がついていたんだったかな」気になるままにそう言ってみたが、だからと言って会議の場で何か発展があったわけでもなかった。帰路の間に調べてみると、それはプルースト効果といった。ある特定の香りをトリガーに、その匂いに結び付いた記憶や感情が想起される現象。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に書かれている、マドレーヌの香りが無意識の扉を開く鍵になるシーンにその名を由来する。トキシラズ……、『失われた時を求めて』……、ここに論理ではないまじわりがあるような気がして、おれは明日、ラボに保管してある耳石を調べてみようと思った。サケの内耳に収められた小さな炭酸カルシウムの塊である耳石は、メモリーカードさながらにそのサケの来歴を記録するから、一通り洗ってみれば、何かがわかるはずだ。

しかし、翌日にはおれの仕事はそれどころではなくなっていた。昆虫食のためである。水産省が、ほとんどの魚介類の養殖研究を中止し、そのリソースを海生昆虫に振り向けることを急遽決定した。水産省直下のどこかの企業が、海水で養殖可能な昆虫の開発に成功したのだ。おれはその日から、日本国民全員が食うにありつけるだけの海水生改造ゲンゴロウを養殖するために遮二無二働かなくてはなからなかったのだ。

 

 寝覚めが悪い……、おなじみの、歯医者の治療椅子にすわって、いま打ってもらったばかりの麻酔がまだ効いてこないと医者に言おうとしているときの、ちょうどあの感じだ……。びっしょりの寝汗を冷たいシャワーで流して、無理矢理朝の支度を済ませると、おれはいつも通り、妻が玄関に飾った、神の魚、サケを抱いた聖母マリア様のイコンに手を合わせて家を出た。いかに体がだるくとも、出勤はせねばならない。海水生改造タガメを使って、ウォッカにフルーティなフレーバーを添加できるかもしれないとわかった以上、一刻も早く仕事に取り掛かりたいのがアイヌモシリスタン国民の情というものだ。おれたちアイヌモシリスタンの国民にとってウォッカは生命の水。いかに地球が灼熱化しようと、ウォッカを旨くする努力だけは怠れないのだ。水上電鉄の扉からこぼれ落ちるように抜け出すと、ソ連本部の飛行機の翼が投げかけてくる太陽の反射光が目を刺した。おれは登社した。

 

 するとロビーで、根室が号泣しながら暴れていた。受付係に何かを必死に訴えつつそこら中の備品や観葉植物を蹴りまくっている。外のロシア兵がライフルを片手に根室に向かって来ていたので、おれは先んじて根室にチョップを見舞って落ち着かせ、静かな医務室に通した。ロシア兵に愛想笑いをプレゼントして、ちょっと若手がストレスにやられちゃって、という感じをアピールするのも忘れなかった。医務室の丸椅子で呼吸を整え、おれは根室に「どうしたんだ」と言った。根室は、キャーと叫んでベッドの手すりに頭を打ち付けたあとで、離れ目を腫らして言った。

 

「日本を消してしまったんです」

 

 にっぽん? 発音が定かではないがそんな風に聞こえた。とりあえず「なにを言ってるんだ、とにかくウォッカでも飲んで、自分を責めるのはよしなさい」と伝えると、またワッと泣いてしまった。若者は難しい。

 

「わたしがペリーを殺したせいで、日本が出来なくなっちゃったんです。北海道はソビエト領になって、アイヌモシリスタンとかいう名前で独立戦争を戦っちゃったんです」

「ペリーってなんだ、ホッカイドーってなんだ、流行っているのかね。アイヌモシリスタンが独立したのはきみが生まれたくらいの頃の話だぞ」

「見てください!」

 

 根室が、小さな骨のような塊をベッドサイドテーブルに置いた。

「これは、サケの耳石です。調べていただければ、わたしの言っていることをわかってもらえるはずです。気が狂ってしまいそうなんですけど、気は狂っていません。……研究室に連れていってくれませんか? わたしの知っているのと、少しばかり会社の様子が違ったもので、受付で尋ねたら怪しまれてしまったんです」

 

 あまりに根室が真剣だったので、おれは根室を連れて研究棟へ移動した。たしかに受付が彼女を通さなかったことも頷けたが、真剣であることに加え、あまりにべしょべしょに泣いて可哀そうだったこともあり……、いや、白状するとそれよりも、根室の取り出したサケの耳石が、何やらとても気になったのだ。いや、何やらとても、気になったことがあるような気がしたのだ。

 

 ガスベンチの小瓶のなかで、ほんの少し削りとった耳石の断片が酸に溶ける。わずかな気泡に含まれた酸素同位体の比がすぐに表示され、それが相当に古いものだとわかった。少なくとも19世紀、おそらく1800年代中頃の鮭の頭に埋まっていたのだろう。どこかの郷土資料館にでもあったのか、と訊くと、根室はもう一度耳石を指さした。とくに、さらに古い層の部分を指さしていた。耳石は切株のように年輪を重ねるので、内側をほじくってやれば幼魚期の層を調べることもできる。同じようにしてその部分を分析器にかけると、δ¹⁸Oの比率が異様に低いではないか。これはたいてい、海水温が高いことの目印だ。しかし19世紀中盤にこんなにも海水温が上昇するイベントがあったかというと思い当たらない。おれはもう少し成魚の層と幼魚の層を削りとって、所内のできるだけ高価な機器を使い、炭素同位体比や微量元素についても調べてみた。すると、幼魚層では鉛やカドミウムなどの重金属が混ざったCO2濃度の高い高温の河川と海を泳いだ形跡が見つかる。成魚層とはまるで違う。間違いない。この耳石の幼魚層が記録しているのは、21世紀の海だ。

「キメラ化石……、きみは、現代の若いサケの耳石に、古いサケの資料をくっつけた、そういうわけじゃ……」

 根室がじろりとおれを見た。腫れた目線に、往生際の悪いおれを咎める非難めいたニュアンス。おれは察した。仮説がどう、経験がどう、観察がどうという話ではないのだ。これは事実として、受け入れるほかないのだ。

 

「このサケは、タイムスリップしている」

 

 はい、と根室は言った。根室は、この耳石以外に、社内に保管されていた耳石についてはほとんどを検査していた。その中で、同じように時間のギャップが認められる資料が数十点、すべて未来から過去の方向に、成長に伴って時間を遡った形跡が見られる。タイム・ジャンプの幅は数年から数十年と一貫性がなく、根室が最初に突き付けてきたサンプルを見るに100年単位のさかのぼりもあり得ると考えるのが妥当だった。おれは言った。そうか、あの消えたサケは、消滅したんでも透明になったんでもなく、過去の川に、そう、過去の母川に還っていたんだ。

眩暈がした。眩暈が目玉の裏から伸びている視神経の束を引っつかんでぶん回している。神経がオーディオケーブルみたいにブッツリとアンプから不愉快な雑音を出してぶち抜けてしまいそうだ。次の瞬間、おれは電気に撃たれたようにしゃっきりして、根室に質問した。

 

「ゲノムも見たのか?」

 根室は答えた。

「はい、見ました。ご想像の通りです。……とても複雑なパズルでした。答えを知っていて逆算するやり方でなければ、わからなかったと思います」

 

くくく、なんてすばらしいんだ。おれは感動していた。まったくすばらしい。この種のサケは、成魚になるタイミングで群れの一部が過去の川に戻り、そこで交配していたのだ。震えていた、おれは。つまり、こうだ。未来の世界を生き抜いた元気なサケが過去に戻り、過去のサケと交配することで、未来の環境に適応した遺伝子が過去に引き継がれる。過去のサケは、たとえば未来に流行する病原菌への免疫や、これからやってくる環境変化への耐性を、「その厄災よりも前に、あらかじめ」獲得することができる。根室が調べたサケのDNA情報には、未来から還ってきたサケ由来と思われる秘密の暗号がそっと書き込まれていたに違いない。くくくくく、と気づけばおれは笑いを堪えられなくなっていた。だからサケだけが、急変する地球環境に持ちこたえていたのだ!

トリックだ、水産省の連中、これを報告したらなんと言うだろう。奴らときたら、この未曾有の生物環境危機に対して、国内外を問わない協調に向けてリーダーシップをとっていくなどとのたまっておきながら、まるで生き物に対する理解もなければ、尊重も持ち合わせていないのだ! 連中にはわからないだろう、タイムスリップという現象が、人間の発明でもなく、神のいたずらでもなく、ごく合理的な生命進化の営みのなかで獲得された生態として、人間さまのあずかり知らない場所でおそらく太古の昔から行われてきたのだということの痛快さを! あー、涙が出てきた。こんな時はウォッカである。おれは根室をほったらかして個人ロッカーに行き、ひっそり拵えていた酒棚を物色した。なんということだ。ウォッカがない。ウォッカがなければ、この感情をアルコールに溶かすことができないではないか。いや、ウォッカの空き瓶の隣に、貰い物のサケがあった。サケと言っても魚のサケではない。千歳鶴の純米大吟醸だ。白いラベルに金文字が助平に光っている。助平なことこの上ないではないか。ぬほほ、おれはその場で適当なグラスにちょっと千歳鶴を注いで、舐めてみた。むほっ、すばらしい香りだ。まったくすばらしい。白く可憐な花にゆびを這わせて、その白に少しのクリーム色が混じっていることを感触で発見するような、なんともすてきな匂いである。この日本酒特有のフレーバーを嗅ぐために、おれの小鼻はいくらでも広がって二つのオペラ座にでもなってしまいそうだ。やはり酒は日本酒だ。米だ。日本人には米なのだ。なんだっておれは昨夜の晩めしにボルシチなんか食っていたのだ。誰でも構わない、はやく白米を持ってこい!

おれは思った。

「日本人」とは誰なのだ? 日本酒とは?

 

「岩内さん、こっちへ来てください」
根室が来た。白米は持っていない。
おれは根室の呼ぶままに、養殖棟の一角の、調理室にやってきた。でん、とぶりぶりに肥ったサケを根室はまな板の上に置いていた。「この子、わたしがつくったサケなんです」と根室。迫力のある魚体だ。ウロコの一枚一枚がきらりと光り、どこもかしこもパンパンに身が詰まっている。「いいサケじゃないか……、きみは科学者として洞察に優れるだけでなく、優秀な養殖技術者なんだ」心からの賛辞だった。はやく彼女の人事評価をマックス値で書き込みたい。

 

「いいえ、これは食べられないんです。岩内さん、サケってもともと、さかなへんに「生」で「鮏」って書くって知ってました?」

「なんだ? サケの豆知識合戦なら負けないぞ。生き物としてはサケ、食い物としてはシャケっていうんだ」

「でも中国から漢字を取り入れるときに、「鮏」だと生臭い感じがするからっていうことで、「鮭」の字をあてたんだそうです。ただ、逆に「鮭」っていう字は中国では、「フグ」って意味なんです」

「イクラはロシア語なんだよな」

「岩内さん、聞いてください。このサケには、フグ毒があるんです」

「え?」

「テトロドトキシンです。遺伝子組み換えの業務中に、サケのゲノムはすこし編集してやるだけで、案外簡単にフグ毒をため込むことができるって気づいたんです。フグだって自ら毒を作りだしているんじゃなく、たんに自分では毒が効かない耐性を持っておいて、毒成分を含むエサを食べておくというわけですから、サケにも耐性をつけてやるだけでよかったんです。もちろん、食べれば死ぬサケなんか水産技術者が作ったってなんの意味もありません。だから、純粋な学術的興味というか、趣味として、わたしは生け簀の一角でこの毒サケたちをこっそり育てていました」

 それが本当なら、人事評価はマイナスどころの騒ぎではない。虚数だ。

「そして、マシュー・ペリー提督を殺したんです」

 根室が毒サケの腹に柳葉包丁を一本入れると、大粒のイクラがぶばっと溢れる。

 生臭い、嫌な臭いがした。

 

 根室の話はこうだ。

 トキシラズたちの消失、もとい「時間遡上」のトリガーは、やはり匂いだった。あの日、なぜかプルーストの『失われた時を求めて』が気になった根室は電子書籍で……といった枝葉末節は省略し、散らかりきっていた根室の話を整理すると、まず根室が発見したのは、過去の川の匂いを水槽内に再現してやることで、養殖環境下でもサケを消失させられるということだった。自然下では、海の乱流のなかでときたま過去の河川の匂いに近いアミノ酸組成が組み合わさることがあるのだろう。人間でいえば、街中でふと懐かしい匂いが漂ってくること、あれをイメージしれもらえればよい。それをたまたま嗅いだサケは、祖先の代で強烈に刷り込まれた香りの記憶を思い出し、身悶えするようなノスタルジーに駆られて加速、消失、タイム・ジャンプ、そして過去の河口に現れる。

 

根室は、われわれのメイン業務が昆虫養殖に切り替わったことで、サケの飼育数を減らす際、販売に回す数をちょろまかして実験に成功したのだという。なぜその時点で報告しないのか、とおれが海水生改造ゲンゴロウを嚙み潰したような顔になったことは言うまでもないが、とにかくそれをロッカーから持ってきた千歳鶴の純米大吟醸でなんとか飲み込みながら話を聞いたことはもっと言うまでもない。
時を同じくして、根室は祖母から地元の郷土博物館の展示品をいくつか譲りうける。博物館が沈没してしまう際に学芸員だった祖母が引き取っていたものの一部を貰ったようだが、その中に例の耳石と『ペリー提督日本遠征記』の2巻の写本があった。またも耳慣れない言葉の連続に感じられたが、今はわかる。ペリー提督は、アメリカから江戸時代の日本にやってきて開国を迫った男だ。

 

 アメリカ艦隊が港内に停泊している間、水兵たちはしばしば引き網で魚を捕ったが、鮭、ウミマス、ハタ、ホワイトフィッシュ、タイ、スズキ、カレイ、ニシン、キス、ボラ、その他さまざまな種類のすばらしい魚が大量に揚がった。われわれが捕った鮭の大きさは、アメリカで捕れるものの半分ほどしかなかったが、味は勝っていた。

『ペリー提督日本遠征記 下』M・C・ペリー F・L・ホークス=編纂 宮崎壽子=監訳 KADOKAWA

 

 耳石は、その時に実際にペリーらが食べたサケのものだということであったが、解析してみると実際に艦隊が訪れた1850年ごろのもので間違いなく、そして驚くべきことに、その幼魚層を見ると、そのサケは「つい最近この頃」生まれ、21世紀の川で育っていた。根室は、何度も何度も「報告しても信じてもらえないと思って」といった旨の発言を繰り返したが、このあたりから、揃っていく実験材料に興奮し、自らの行為がもたらす倫理的な影響など思考の埒外になって、とにかく実験アイデアを実行に移したいという欲望にかられたのだろうということは断言できる。聞かされる方の純米大吟醸も進まざるを得なかった。

 そしてお察しの通り、根室は亀田川で川底のマイクロボーリング検査を行い、1850年代の層のサンプルを根こそぎとってきた。サンプルから匂い成分の元となるアミノ酸パターンを取り出して、毒サケたちの水槽に順番に与えていき……、1854年の函館湾に送りつける。そして運悪く偶然に―いや、きっと目に見える「アタリ」を引くまで根室は毒サケを送り続けたに違いないので、必然とも言える―それを捕えて食ったペリー提督は死んだ。せっかく「アメリカで捕れるサケより味は勝っていた」とわざわざ書き残すほど舌鼓をうってくれたというのに、麻痺して死んだ。

 

それからは根室としても歴史の教科書で知ったことだ。ペリー提督が姿を消した日本史では、江戸幕府は開国の機会を持たないまま西欧列強諸国に攻め込まれ、九州・四国までをイギリスに、蝦夷地をロシア帝国に領有される。かろうじて守った本州では明治維新が起こり、明治天皇を王とするヤマト王国が誕生、一方蝦夷地ではサケを神の魚と奉るアイヌ文化とロシア正教が混ざりに混ざりってヤマト王国とはまったく異なる発展をたどり、数度の惨たらしい戦争を経て根室が生まれるちょうどそのころ「アイヌモシリスタン」としてソビエト連邦から独立を果たした。ついぞ「日本」という国号は生まれなかった。

 

バタフライ効果というべきか、サーモン効果とでもいうべきか、これほどの歴史の書き換えが毒サケのペリー・ヒットの瞬間に起こり、根室は自宅で気絶したという。気がついてみれば世界が一変しており、やっと自分の行いの大きさを知って焦った根室は、わが社の受付で観葉植物を蹴っ飛ばすことになった。おれを含むそのほかのすべての人間が歴史の大転換を認識せずに過ごしていたことには様々な解釈が可能だろうし、その点はおれはまったくの専門外なので強い意見がないが、あえて見解を申し上げるなら、人間の記憶や思考も究極には脳内の量子力学的なやり取りであって、すべての歴史が一瞬にして置き換わるのであれば脳内のすべての物質やエネルギーの配置も新しい時間の歩みに即したものに変わったとしてもそれほど不思議には思わない。もちろんゾッとはするが、結局のところ自分が経験したとは思えない歴史があると言われても実感としてはふーんといったところなのだ。もしかしたら、こうした歴史の書き換えは、われわれが気づいていないだけで、自然由来でわりと頻繁に起きているのかもしれない。考えてみれば、自分の寿命をはるかに超えるスパンの歴史などというものを問題にする生物は、人間以外にいないのだ。

しかしながら生物屋としては、記憶の書き換えよりもむしろ、根室だけが変更前の歴史を認知していたことの方が驚きだ。きっと、主体的に歴史の変更に関わった生物はその主観的な経験の同一性を保つことができるような、生物学的なしくみがあるのだろう。だってそうでなければ、時を遡るサケ自身が自意識を保てず混乱してしまうのではないだろうか(おれは魚にも自意識のようなものはあるのではと思っている)。とはいえ、そのしくみをサケ以外が持っているという事実の解釈は難解だ。もしかすると、サケ以外にも時間遡上を行う生物はいるのかもしれない。

 

 などと、道筋立った考察をできるようになったのはむろんずっとあとでのことで、根室の話をあらかた聞き終えたころと思しきおれは千歳鶴の純米大吟醸をラッパで呑み、げらげら笑ったり泣いたりしていたし、そればかりか根室までなぜか「飲まずにいられません」などと叫んでおれの純米大吟醸をぐい呑みし、大笑いし、結果的に場は非常に盛り上がってしまっていた。根室の時間犯罪についてもその時にはすでになかばネタ化が進み、「おいおまえ日本を消しやがって、どう責任とるつもりなんだ、相撲とれ」「うひゃー勘弁してくだちい」などひとつのノリとなっていて、まあいっか的雰囲気が醸成されていた。

 ところがそこに血相を変えた厚岸がやってきた。

 

「ボス、大変です! 今朝水揚げされたトキシラズから、放射能が検出されました! どこかの原発が事故っているか、どこかの国が核実験をしているかもしれません!」

 

 おれたちはそれを聞くなり事態を理解した。原子力事故か核戦争は、未来に起こるのだ。未来の破滅時代を経験したサケが、現代に還ってきたに違いない。だが可哀そうに、生物は病原菌や環境変化へはDNAの仕組みで適応できても、放射線はそのDNAを破壊してしまうのだ。今度こそ終わりだ! と叫んだおれは、爆笑しながら根室を責め囃し立てた。

 

「おいきみ、聞いたか? きみのせいで核戦争が起こる歴史になっちゃったぞ! どうやらこっちの世界線の方が、もとのより不安定で物騒な形になってたみたいだな、やーい、おまえのせいで核戦争! おまえのせいで地球滅亡!」

「うひゃ~~、わたし、責任とりますう!」

 泣き笑いの拍手笑いで根室はそう言うと、まな板の上の毒サケを持ち上げてそのイクラをがぶがぶと飲み込んだ。芸術的なまで見事にのどが上下して、見ている方さえ胸のすくような気持ちのいいのど越しで毒イクラを吸引する根室。

 おれはそこでわれにかえってマズいと思ったが、純米大吟醸とイクラのセットおよび気持ちのいいのど越しを目撃した厚岸がイクラに手を伸ばしたのでその頭をシバくことに先に手が出てしまい、対処が遅れた。慌てて根室の口に手を突っ込んだが、そのほとんどがすでに胃に運び込まれてしまっており、口の端にわずかに残ったイクラの粒がおれの親指の腹でプチンと弾けたその赤いのを見て絶望。しかしながら、この大量の毒イクラがもし毒サケに育って、そのすべてがもし過去に還って、ヒトやクマやアシカを殺しまくったら、歴史はいったいどうなってしまっていたのだろう……。間違いない、根室という名のこの女、正真正銘のマッド・サイエンティストだ。これは心からの賛辞だ。

 根室は、白目をむいて死んだ。

 

「やっと目が覚めたのか」

そう言うおれの方の吐き気はまだまだ収まる気配がなかった。どうも「これ」には、若者のほうが適応力が高いようだ。同じことをしても、根室よりも症状が長引いている。

 病室のベッドで呆けた顔の根室は、

「はれ? 岩内さんも死んじゃったんですかあ?」などと馬鹿を申している。

 仮にも生き物屋が、そう簡単に死んでたまるかね。おまえさんはただの食中毒で寝ていただけなのだ。少なくとも、この歴史では。

 

 おれは根室の葬式のあとにその足で、喪服に白衣といういで立ちにてすぐにことに取り掛かった。まずは根室の研究日誌を開示し、マッドな根室が毒サケのDNAを設計する元となったサケを特定する。あとはごく簡単な理屈である。オリジナルのサケは社で純粋培養の養殖産だから、根室が毒サケを作ろうと思い立ったその日、その時、そのサケがいた生け簀に、未来から「あらかじめ処方箋を施した」サケをどんどん送ってやればいいだけだ。根室がペリー提督にヒットするまで試行回数を稼いだように、何匹も送ればいつかは「処方済」のサケを手に取る。

 あらかじめの処方箋というのは、こうだ。もちろん、直接的にそのサケのDNAにフグ毒を分解するようなコードを書いてしまうと、根室がDNAを編集するときに気づかれてしまう。根室なら、さらなる書き換えをしてでも毒サケを作ってしまうだろう。だからおれが処方箋を仕込んだのは、DNAではなく、エピジェネティックな修飾情報、すなわちエピゲノムの方だった。生き物はただDNAの設計の通りに出来上がるのではない。遺伝情報がDNAに書かれていたとしても、その遺伝情報を実際の体づくりに使うか否か、決定するオン・オフスイッチのようなものがあって、そういうものをエピゲノムという。この場合、後で根室がサケのDNAにフグ毒を持つコードを書き込んでしまったとしても、それをオフにするようなエピゲノムを作っておいてやればよい。エピゲノムは生後の環境でもオン・オフが切り替わり得るので、19世紀の海水温では毒遺伝子がオフになるという仕組みにしておけば、多少根室が動物実験などをして毒サケの効果のほどを確かめたとしても、ペリーだけを救うことができるし、卵についてはオフになる、という仕組みにしておけば、イクラを飲んだ根室を救うことができるというわけだ。……ごく簡単な理屈とは言ったが、エピジェネティクスそのものが難解であることを失念していたので、詳しくは書籍などで調べてみてほしい。とにかく、根室は蘇ったのだ。生き物屋は死なない。ついでにペリーも教科書に載っており、日本も蘇った。

 

 目をうるうるさせてことのあらましを聞く根室だが、そんなことよりもう一つ、地球にとってはくだらないが、われわれにとっては大きな歴史の書き換えが起きていた。脳みそを雑巾絞りされるような頭痛を振り払いながら、おれは言った。

 

「きみ、イクラを飲む前なんて言ったか覚えてるか?」

「へ? えーっと」

「責任とります、だ。きみは、未来から放射線を浴びたサケがやってきたのを聞いて、その責任をとろうとして死んだんだ」

「そうれした」

「残念ながら、いまこの世界でも未来からやってきたトキシラズから放射能が認められた」

「ええ……、じゃあ、核戦争はやっぱり起きるんだ。そうれすよね、わたし、どっちにしたってだいぶ歴史を書き換えたから……」

 

 ついにまた根室の黒い瞳から涙がこぼれ始めた。おれはそのへんのティッシュボックスを寄越すと、たしかに、未来のサケは根室のせいで放射線を浴びていると思う、と続ける。本格的にぼろぼろ泣きはじめる根室。

「ただし、核戦争は起きない」

「うそだあ、破滅なんでしょお~わたしのせいでええ」

「サケが浴びた放射線の由来は、宇宙線だったんだ」

「へい?」

「おれの考えでは、そのサケは、きみのせいで宇宙線を浴びることになる。そしてそれによって、きみは地球を救いうることになる。もちろんきみがそうしたいと思わなけば強いることはできないが、これはきみのような筋金入りのマッド・サイエンティストにしか頼めないと思っているんだ」

「ど、どういうなにれすか、お腹痛い」

 

 詳細を伝えるのは後にしよう。なにしろおれはまず、この世界線での仕事に一刻も早く慣れなければならないのだから。おれは根室宛てのエピジェネティック・サケを送り終えると気絶し、目が覚めると目の前のテーブルにダイレクトメールを見つけた。そこには、「水産省 時空遡上性魚類対策室 特別顧問」としておれと根室の名前が書かれていた。
根室の言う通り、ペリーを殺さなかったにしても、根室は多くのサケを過去に送っていた。本当は、エピジェネティクスで処理を行う際に、繁殖機能についてもカットしておきたかったが、それでは根室に細工がバレてしまうのでそのままにせざるを得ず、根室が送ったサケは過去の世界のサケたちと交雑してしまった。その結果、元の世界よりもサケが大繁栄しているのだ。21世紀の高温の海に適応したサケたちの特性が19世紀の時点で発揮され、いまや北極圏だけでなく、世界中の海をサケが駆け巡っているのである。そのためわが社が開発した回遊魚監視用のナノカメラの需要も元の世界にくらべ何十倍にも膨らみ、それを使った多くの企業や研究体から「サケが消えるのだが」と問い合わせが殺到していたのだ。自分でメールを遡って理解したのだが、この世界でのおれは、数々の問い合わせにさすがに答えなければならないと考え、根室宛てのエピジェネティック・サケを送る作業を水産省の何名かに見学させ、もちろん根室の凶行については伏せながら、デモンストレーション実験を行ったようだ。

 この世界の水産省は、海洋性食用ゲンゴロウよりも、この時間遡上性サーモンの世界に先駆けた応用に首ったけだ。そしておれには、プランがある。

 

 コールド・スリープは腰にくる。やってみてはじめてわかった。わたしは目覚めてから数時間くらいポッドのなかでうねうね体を慣らした後で、のっそりと起き上がってEVAスーツの支度をし、宇宙船の外に出た。菜の花や、月は東に日は西に、とは言うが、この惑星には月が4つと日が2つあるようだ。わたし自身の影が何重にも投げかけられている陸地は溶岩質で、ひとまず植物はないようだ。やはりとても若い惑星なのだろう。あ~~とでっかい声を出しても、果てしない海には誰もいない。はあ、なんという自由だ……。

 ゴロゴロダラダラ半年ほど調査を続けたわたしは、ついにもっとも重要な、冷凍の積荷をほどいた。数えきれない量の時間遡上性サケである。そのうち一尾を取り出すと、わたしは胸びれの細胞のゲノムに情報を書き込んだ。すなわち、この惑星はオールグリーン。by根室。人類の新たな住処になり得る場所だと。水槽に放つと、サケもスリープから覚めて泳ぎはじめ、そして翌日の朝、地球のとある民間研究所の生け簀の匂いを嗅いで、消えた。あのサケは、500年間の旅をして、わたしが出発したほんの直後の、北海道にメッセージを届けるのだ。わたしとしてはもう少し一人の時間を満喫しても良かったが……。

ほら、向こうの空にもう着陸船が見える。

 

 100億年の時が経った。

 銀河の隅々まで生息域を広げた人類は、いまのわれわれが見てもそれを人類だとは思えないような姿をしていたが、それでもまだ多くの惑星では生物学的な肉体ひとつにつき精神ひとつを備えて生きていた。

 そんな人間が二人、ひっそりと天の川銀河のすみの方を航行していた。そのうちの一人が言う。

「英雄フィンは、食べてはならない『知識のサケ』の脂を舐めたことで、予言者の智慧を授かったんだ」

「なんですそれ」

「100億年前の地球の、アイルランドという場所に伝わっていた神話さ」

「詳しいですねえ、やっぱり」

「地球人にとって、神聖で特別な、サケという生き物がいたのだよ」

「サケですか」

「ああ、サケは、時間を遡ることができる生態を持っていてね、初期人類はその性質を利用して宇宙移民を進めたのさ。やがて人類はそのサケのタイムスリップ能力を取り出して再現できないかと考えたのだが、ついに解明することができず、先にサケが絶滅してしまった」

「はあ、力の根源的原理がわからなかったんですね」

「そうだ。だがアイルランドの人々は知っていたのさ。『知識のサケ』を食べると予言者の知恵を得られるのは、『知識のサケ』が、『智慧の実』を食べて育ったからなんだ」

「……それってズルくないですか? じゃあ、『智慧の実』の力の源泉は、って繰り返しになりますよ」

「ああ。でも、真実はそうだった。時間を遡るサケは、時間を遡る細菌の力を借りていたんだ。細菌はサケの細胞のなかに住み、サケの時間遡上を助ける代わりに、サケによって運ばれた先の過去で別のサケに感染し、さらに過去へと進んでいく。つまり共生関係だったのさ。じつは、ぼくだけがここまで突き止めていたんだよ」

「さすがです、先生」

「しかしね、その細菌をどうしても取り出すことができなかった。それはほかのどんな生物と比べても特別で、けしてこちらから手出しすることができない。細菌は、遠い未来から過去へと時間を遡る旅の中で乗り継いでいく生物種を自ら選ぶのさ」

「勉強になります。ところで質問なんですが、どこまでが神話でどこまでが科学なんです?」

 

 二人のうちの一人が、目にあたる部分を細めた。

「いま、やっとわかったよ。細菌は、故郷に帰ろうとする生物だけを乗り物として選ぶんだ」

 

 宇宙船の眼前には、白色に輝く太陽と、空色の地球があった。

 地球はとっくに太陽の膨張に飲み込まれ、消滅していたはずだった。

 

「懐かしい匂いがするよ」

 二人には、その惑星で力の目覚めを待っているサケに、細菌を渡しにいく務めがあった。細菌は、ヒトからサケ、サケからまた別の種、そしてまた別の種へと乗り継いで、生命誕生の瞬間に辿りつくに違いない。

 

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