梗 概
セーヴルの砂
陶芸家の真央は、学生時代にチベットの僧院で託された五色の砂を、白磁に小窓をはめた自作の砂時計に封じる。ろくろの前で彼女は「速い時」と「遅い時」の狭間に生まれる小さな“穴”を感じ取り土と会話する――それはチベットの「ルン(風・息・気)」に近い感覚だ。上野のギャラリーでその砂時計は、無口な来訪者・白石の目に留まる。彼は国際度量衡局(BIPM)の計測技術者。無言で計測し、その場で購入、後日波形データを携えて再訪する。注意が揺れやすく直感の鋭い真央(ADHD傾向)と、社交は不得手だが手順と精度に長ける白石(ASD)は、不器用に補い合うように惹かれていく。
二人はチベットへ。僧たちがチャクプル(金属製の漏斗)で砂曼荼羅を描く儀礼の最中、チャクプルの擦過音、真央の呼吸、白石の計測波形が一拍だけぴたりと重なる。同じ頃、世界各地のログに「時刻の微小な不整合」が報告されはじめる。白石はフランス・セーヴルのブルトゥイユ離宮(BIPM本部)へ真央を招き、局長は協定世界時(UTC)が原子時計と地球自転の“仲裁”で保たれてきたこと、しかし今は危うい揺らぎが出ていることを告げ、真央の“体感”が欠けている文脈を補うかもしれないと協力を求める。
実験室では、真央の呼吸と心拍、僧のリズムがある位相窓で一致し、外界では信号や決済に障害が走り世界のインフラが崩れ始めている。数値は明瞭に示す――「世界協定時は真央本来の時間に同期可能」。それは世界の時間を支える「守り人」の資質の証左だった。やがて二人は死期の迫る現役の守り人、イラン出身の細密画家アルマン・サーデギーの書斎に入る。机には二つの砂時計――古い陶器のラベルにはペルシャ語で〈نگهبان(守り人)〉、もう一つは真央の砂時計。僧のマントラと招かれたアボリジニ奏者のディジュリドゥが低く響く中、真央がアルマンの手を取り砂時計を反転させると、呼吸・鼓動・儀礼音が完全一致し、世界のログから赤い警告が引いていく。アルマンは拙い日本語で「アリガトウ」と告げ、静かに目を閉じる――火は移った。
世界は整い、通信も鉄道も平常に戻る。だが真央の内側では、長年ともにあった“穴=ルン”が閉じ、「土の声」が聴こえなくなる。日常は白石の不器用な愛情と優しさに支えられ続くが、白石の視線には“見張り人”としての役割も混じっている。真央は「ねえ、あなたがここにいるのはお仕事?」と問う。嘘をつくことの出来ない白石は「仕事です。でも、それだけじゃありません」と答える。
台所の水音の向こうで砂時計の粒が一つ、また一つ落ちる。世界は一つになった真央の時間と同期し整った。しかし、失ったルンの残像は真央の胸に居座る――いまはそれでよい、まだ「いまのところは」。ふと視界の端に、砂時計を壊す自分の姿がよぎる。守り人としての時間は動き出したが、その終わりの気配も、同じフレームに既に入り始めている。
文字数:1198
内容に関するアピール
共通の言葉や単位などを頼りに人間は暮らしていますが、時間も協定世界時が存在することで成り立っています。協定世界時は、原子時計と天文時計のズレを調整しながら運用されています。もし、その調整を特定個人の時間感覚が引き受けているとしたら?
この物語の主人公は、陶芸家の真央(ADHD)です。真央は二つの時間を生きていて、落ち着きがありません。でも、土をいじる時、時間の狭間の穴を通じて土と会話することができるのです。
その真央が、学生時代にチベットの僧院で授かった砂曼荼羅の砂を封じた砂時計を創ったところから物語は始まります。
協定世界時が揺らぎ始め、世界のシステムが崩れ落ちそうな中、白石(ASD)という計測者と不器用に惹かれ合っていき、最後に真央は創作の拠り所である「穴」と「世界」を天秤にかけられる選択を迫られます。
世界と齟齬を抱える陶芸家と計測者が、個の“ズレ”を武器に世界の綻びを繕うお話です。
文字数:396




